幻想綺憚

身も焦がすほどの恋をした。美しくなりたいと、醜い私は初めて思った。


 ここがどこかもわからぬ白い漆喰の壁を見つめている。ズキズキと疼くような頭痛が取れない。立ちくらみのような視界が開けるとそこには包帯だらけの女が居た。まるでカイコガの繭のように真っ白に、どこもかしこも包帯で覆われていて、肌が見えているのは口だけであった。気が付くとずっとここに居たような気もするし、少なくとも俺より前に女がここに既にいたような気もしている。俺は一体どうしてここにいるのだろう。どうしてこんなところで、椅子に縛り付けられて、猿轡をかませられているのだろう。俺の椅子は随分と頑丈で力を入れても固く縛られた縄ともどもびくともしなかった。木でできているであろう猿轡にかぶせた白い布は俺の唾液をもうずいぶんと吸っている。頭も視界もうすぼんやりとしていて暗く、俺は体調が悪いのか上手く力が入りきらない。そうして鉄格子の向こうに更に有刺鉄線が張ってあって、まるで見世物小屋のように女が一人、綺麗な蒼い着物をだらしなく兵児帯でむすんで、灯篭に照らされ佇んでいる。意味がよくわからないし、状況もいまいち、ぼんやりとした頭では考えられなかった。女は俺が目をさましてからずっと、聞き取れるか取れないかの小さな声でなにやらぶつぶつ言っている。
 
「…けふこへて、あさきゆめみしよひもせず、いろはに…」

 はたして、念仏のように聞こえた地を這うような女にしては低いしゃがれ声はいろは歌であった。女はいろは歌を繰り返しまるで憑りつかれたかのように繰り返している。俺が今の状況を尋ねようとするとそのたびに、女の声は止まった。緊張が走る。きっと、猿轡をつけられているということから「喋るな」ということだろうか。俺が喋るのをやめ、抵抗もそこそこに女をみやると女はまたひそひそと、何かを喋り始める。

 「いろはにほへとちりにるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこへてあさきゆめみしよひもせずとがなくてしす」
 
 いろは歌とは少し違う一文が最後に付け加えられていた気がするが、どうでもよかった。俺は頭が痛い。そして今の自分の体はぞっとするほど無力だった。俺にできるのは女を見つめることと、女の喋る一言一言に耳を傾けて、この状況がいちはやく終わるのをひたすら待つほかにはないようだ。
 
 女がいろは歌以外の言葉を口にし始めたので、俺は他に為すすべもないまま、女のぼそぼそという声に耳を傾けた。
「…わたしの話をしてあげよう」

 「私は醜い。だからこうやって醜さを隠している。白は素敵な色だ、無垢だし、純粋だ。私は生まれて初めて雪というものを知ったとき、その純粋さ、儚さに憧れた。だから、私は雪のような肌を持ちたいと考えた。私は雪を食べた」

 そういうと女はゆっくりと機械仕掛けのように腕を動かし、二の腕の部分の包帯をとった。ひどくぎこちなく、それでいて危うい手先だった。まるで病にでもかかっているかのように震えた指先でゆっくり、だけれどしっかりと包帯を取っていく。はらり、はらりと花弁がこぼれおちるようにとれたそれから、雪のようにまっさらでまばゆい、白い肌が見えた。
 
 「だけど、白い肌をもってしても、私の醜さは到底、消えやしないものだった。私は美しい体躯が欲しくなった。そう、まるで人形のように精巧な、完璧な美しい体躯が。だから、私は人形を次に食べた」
 
女は相変わらず聞こえにくい、低いぼそぼそとした声でそんなような事をいった。頭がぼんやりするし頭痛はひどくなるばかりだ。風邪でもひいているのか、体中痛いし悪寒がする。女が整合のとれないことを言っている気がするが、まるで夢心地かのように俺の右耳に流れては、そうか、と頭で納得し、左耳に流れて風化するだけであった。

 「美しい体躯と肌を手に入れても、私はまだ醜かった。爪なぞひん曲がって筋が入って、まるで腐りきったべっこう飴のようだった。だから。わたしは美しい爪をさがした。これは苦労した。醜いものは迫害されるのが世の常だった。どこを歩いても皆私をみてあまりの醜さに声を上げて逃げるか顔をしかめなにやら文句を言うかしかしてこない。中には私に手を上げる物もいた。私は醜いのだから、なにもせず、ほおっておいてくれればよいものを。そんな最中、私は苦労して、綺麗な形の桜貝を見つけ、それを食べた」
 
 そう言って女は先ほどよりずいぶん人間らしい動きで、しかしゆっくりと、見せつけるかのように脚と腕の包帯を取っていく。ずいぶん艶めかしい動きであるはずなのに、少しも厭らしく感じないのは、はらりはらりと落ちてきた女の包帯から現れた体躯が、あまりにも精巧で、完璧すぎたからであった。そんなに近い距離でもないはずなのに、見てとれるほどに完璧だった。そうして、指先まで隙間なく覆われていた包帯からやっと見えた指先は、確かに桜貝をそのまま乗せたようにつややかで、綺麗な桜色の爪が鎮座していた。
 
 「体はこれでよかった。次は他のところであった。他は細かいところが多くて随分と時間がかかってしまった。体は醜くなくとも、私からはまるで臓物の腐りきったようなにおいが立ち込めていた。私はどこかの庭先で、可憐に咲く花々を見つけた。これはいい、と思って口にしたが、中に小さな黒い虫が居るのに気付かなかったから、黒子ができてしまった」
 
 そう言って女が首の包帯をとると、確かに首筋に小さな黒子がひとつ、針でついた血のようにぽつり、とあった。同時に、花のような香りが立ち込める。
 
 「…顔は、直すところが多いから後回しにしたのだ。この、低い、醜い声をどうにかしたかった。ある日私は訪れた神社で魔よけの鈴が随分といい音色で鳴るのを聞いた。だから私はその鈴も食べてしまった」
 
 言い終わる言葉の語尾で、女の声色が急に変わった。低いぼそぼそとした声から、文字通り、鈴を転がすような、しかしどことなく凛とした、若い女の声になった。
 俺は、女の話を聞いていくうちに、女の正体が気になった。もしこのどこかもわからぬ場所で、このあやふやな女の言っていることが正しいのであれば、一体女は何なのだろうか。少なくとも、人間ではないのだろう。そんなことを熱に冒された頭の片隅でぼんやりと考える。
 
 「ここまでくれば、あとは顔だった。これは、よく分からなかったから、自分が美しいと思った女を片端から食べて行った。そうして細かいところから直すことにした。
まずは唇。赤い、血色のよい美しい唇が欲しかった。雨の日の薔薇を摘んで、露がついたまま食べた。今度は虫がいない花弁だけを食べたから、黒子にはならなかった」
 
 女は最初の頃とはうってかわって、手慣れた手つきで顔の下半分の包帯をはらはら外す。その包帯の下から、熟した林檎のようにつややかで美しい真っ赤な唇が姿を見せる。ああ、確かにこれは雨上がりの薔薇のようだ、と既にぼんやりと女の話に聞き入っている自分が居るのに気付いた。女があまりにも美しすぎてああ、これは確かに花や桜貝や人形や雪を食べたのだな、そう思わざるを得ないのであった。
 
 「…髪の色は悩んだ。いろんな色がありすぎて選べない。色々と悩んだ挙句、私は鴉の羽根を食べることにした。不吉なような気がしたけど、黒に混じって光る極彩色の濡れ羽色は確かに美しいと思ったんだ」
  
 後頭部の包帯の隙間からまるで糸がはらはら降ってきたかのように、女の長い黒髪がすこしづつ落ちていく。するする、するすると滑り落ちていくその細い髪は線を描き、面となり、女の腰まで届く黒髪がすべてこぼれ落ちるまでにさほど時間はかからなかった。そうしてすべて現れたその黒髪は、確かに灯篭の光を反射して、極彩色の濡れ羽色にゆらめいていた。
 
 「目の色も迷った。どんな色にすればいいのか、全くわからない。けれど、私は、これは一番大きく、美しいもの、尊大なものにしなければと思った。物を見るのは大切だ。私は、ついに、夜を、星空がこぼれおちるほどの夜空を、飲み込んだ」
 
 そう言って、女は最後に顔の上半分を覆っている包帯をするり、するりと外し、しかとこちらを見た。女の目は美しい深い藍色をしていた。ときどき灯篭の光に反射して、きらきらと宝石のごとく光って見える。
 
 「…恋をした。他でもないあなたに。たったひとりのあなた自身に。汚くて醜い私に、あなたは嫌な顔せず手を伸ばしてくれた。他の女に目移りするあなたに、恋焦がれて、嫉妬した。もっと、美しくなりたいと思ってしまった。それがいけなかった。しょせん私は醜いものでしかないのに。過ぎた願いは大きすぎる試練と代償を生んだ」
 
 そういって女はそおっと、すこしづつこちらに近づく。俺を椅子に縛り付けていた縄はなぜかほどけて床に転がっている。口枷もぽろりと転げ落ちているので、俺は自然に、火に飛び込む虫のように、つられて女のほうに歩み寄る。女は這いよるようにして、そおっと、手をこちら側に伸ばそうとする。俺もつられて、しゃがんで鉄格子と有刺鉄線を挟んで、女の手を取ろうとする。灯篭の灯がゆらめいて、美しい女の顔に、影を落とす。吐息が聞こえるほど近いのに、確かに二人の間には確かに鉄柵と有刺鉄線がある。もう少しで、指の先だけでも触れ合えそうだ。
 
 「それでも、それでもあなたに美しい私を、一度でもいいから見てもらいたかった」
 
 俺の指先が、女の指を掠めたか掠めないかという先に、女の手はすこし強引に俺に触れようとして、有刺鉄線に触れた。その瞬間大きな火が女を包み込み、瞬く間に燃え上がる。火に包まれた女は無表情のような、それでいてひどく胸が締め付けられるような悲しい表情をしていた気がするが、それも一瞬で火に飲み込まれ、まるで手品のように、女のいなくなった後には、少しの灰と、濃い花の匂いが残るだけだった。
 
 
 うなされるようにして目を覚ますと、もう夜だった。めずらしく風邪を拗らせて仕事を休んで今まで寝ていたのだった。体は多少楽になった気がしないでもないが、多分熱はまだ下がっていないのだろう。びっしり寝汗をかいているし、頭がぼおっとする。とりあえず水分を取ろうとベットから降りて冷蔵庫に向かうと、窓が少し開いていて、網戸の外に何か落ちているのがみえた。
月明かりに照らされたそれは、オオミズアオの死骸だった。家の中に向かうような形で、ベランダに伏せている。羽根もボロボロで、普段はこういった形のものは破棄してしまうのだけれど、なんとはなく、懐紙と虫ピンとピンセットを持ってきて、丁寧に、丁寧に、折れ曲がった羽根を戻し、標本台に刺し、防腐加工を施して、ゆっくりとガラスケースに収める。なんだか二日前に会社の帰りに俺にふらふらと飛んできたオオミズアオと一緒のものに思えたのだった。アゲハや蝶の類の標本を作るのはよくあることだが、蛾の標本を作るのは初めてだった。壁にかけた他の蝶の横に、ちょうど大き目のガラスケースを展示しようと思っていたので、ぼろぼろのオオミズアオを汗だくでふらふらになりながら飾ってしまう。

「なんだ、綺麗じゃないか」
 
 窓の外から花の匂いが流れてくる。夜の風が冷たく心地よい。
 

幻想綺憚

幻想綺憚

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-30

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