苺のリップクリーム
朝、目を覚まして、乾燥で張り付いてしまった唇を開き、リップクリームを塗りました。甘酸っぱい苺の香りが鼻を通って、ふと昔聞いた恋のおまじないを思い出しました。自分の名前の文字数分リップクリームを出して下唇に塗り、上唇には相手の名前の文字数分塗る。恥ずかしい。恋をする女の子はおまじないが好きです。ふ、じ、べ、に、お、と五回リップクリームを回して下唇にすべらせ、み、ず、き、か、お、る、と六回。この香りが届いたら私の気持ちも届くのでしょうか。
家を出て電車に乗って、私はいつも探しています。でもいるはずがありません。だって、あなたの駅は私とはまったく逆なのですから。空をつかむようで勝手に寂しくなるのです。
学校に着いたら友人におはようとあいさつをして、あの人の席を見ます。荷物はすでに置かれていて、休んでいないことがわかると、それだけで私はただ幸せになりました。
友人達はそんな私を見て、もう告白をしてしまえばいいのにと言います。でも、そんな勇気はまず無いし、それよりただ姿を見ているだけでなんだか十分な気もするのです。そして、もし、告白がうまくいったとして、友人との関係が悪くなってしまうと思うのです。
私は知っていました。友人、蘭子が今まで異性に好きな人を一人としてつくらずにいたこと。私と椿だけを大事に、好きでいてくれたこと。蘭子はことあるごとに紅緒と椿がいれば十分だと言いました。明るく、冗談のように笑いながら。蘭子はいつでも私の応援をしてくれて、もちろん告白の応援もしてくれています。でも本当は本心ではないのでしょう。私はどこか寂しげな蘭子の横顔を思いました。蘭子たちとの関係が終わってしまうくらいならば、私は告白などしたくありません。
*
私は、恋というものをしたことがありません。もしかしたら、とても小さかった頃はあったのかもしれません。でも、私が今覚えている範囲では異性にそんな感情を持ったことが一度とないのです。むしろどうでもよくて、興味がありません。強いて言うなら、私は紅緒が好きです。でもこれは、恋ではないのです。なぜなら二人は私と同性なのだから。
紅緒は今好きな人がいて、その人に夢中です。今もほら、授業中だというのに、ノートをとる手は止まって、ずっと水葵くんを眺めている。私も、その紅緒を眺めている。恋焦がれている紅緒の姿はとてもきらきらと輝いていて、私は憧れと同時に寂しさを感じました。紅緒が告白をすればどうなるのでしょう。紅緒と離れたくない。水葵くんと思いが通じて、紅緒がすぐ私を忘れるような薄情な子だとは思いません。けれど、そう思ってならないのです。紅緒の恋が叶うといいと思います。紅緒に幸せになってほしいです。
紅緒が、ずっと私と一緒にいてくれればいいのに。
いつのまにか噛んでいた唇からは、生暖かい鉄の味がして。リップクリームをひとなですると苺の甘ったるい香りが鼻につきました。
「蘭子」
椿は話があると私を教室から連れ出しました。紅緒の姿はありません。私達三人が話すのはいつも屋上につながる階段の踊り場でした。屋上は立ち入り禁止。鍵の閉まったドアの前、窓からは良く光が入りました。
「ねぇ、蘭子、紅緒が水葵くんに告白するの、どう思う?」
私達は壁に背をつけて座りました。椿はひどくまっすぐ前を向いて言います。
「もしね、二人が晴れて付き合うことになったとして。紅緒は蘭子と私のこと忘れたりしないよ。紅緒、私達のこと好きだもん。」
「私だって、紅緒のこと好き。大好き。」
私がうつむいて目を閉じると肩に椿の暖かい手が添えられました。
「怖い。紅緒がいなくなる気がしてならない。紅緒の隣にずっといたい。でも、紅緒の邪魔はしたくないから、紅緒を信じたい。」
椿はうん、とうなずいて立ち上がり言いました。水葵くんね、紅緒のこと好きなんだよ。両想い。ずっと見てたからわかっちゃった。椿のその笑顔は一瞬悲しみをみせました。
「椿、」
「だめ。言っちゃ、だめ。」
椿の後姿にまぶしい西日が差しました。
「紅緒のところ、行こう。私達は、もう大丈夫だよって、言いにいこう。」
「うん。」
私は紅緒に恋をしていました。本当は気づいていたのです。でも認めたくなかった。紅緒が好きで、好きで、性別なんて関係なかったのです。
*
「私、水葵くんのことが好きなの。」
それは、暑い暑い夏のことでした。額にじっとりと出る汗をタオルでふき取り、ぺたりとくっついた前髪を手ですきました。日直で教室に残っているのは、私と、水葵くん。スラリとした細い体、長い腕。二人で黒板を消し終わったら、もうさようならだから、わざとゆっくり消してみたり。私の届かなかった文字に気づいて消してくれた水葵くん、そんな優しいところが好きなのです。
「水葵くん、あのね、私、水葵くんのことが好き。」
何回その言葉を心のなかで言ったのでしょう。声に出すのが難しかったはずなのに、その時はいとも簡単に、まるで息をするように自然と言葉が流れました。
水葵くんは、少し驚いて黒板消しを持つ手を止めましたが、私の落ち着いた姿を見て、安心したように答えました。
「ありがとう。でも、僕は他に好きな人がいるんだ。」
やっぱり。
「うん。紅緒だよね。聞いてくれただけで、嬉しいから。ありがとう。」
申し訳なさそうに照れて笑った水葵くんは、小さく頷いて、私の恋は終わりました。
私が初めて、紅緒が水葵くんのことを好いていることを知ったのはそのちょうど二ヶ月後のことでした。二人は両想い。私には叶うことのなかった両想い。それは、あまりに唐突で冷たく私に重くのしかかりました。告白をして、恋は終わったとしても、心はまっさらになるわけではないのです。
「私ね、実は、水葵くんのことが好きなんだ。」
顔を赤く熟れた林檎のように染める紅緒はとても綺麗で、かわいくて、でも苦しかった。私は、水葵くんのことが好きでした。それを、その気持ちをみんなに、紅緒のように打ち明ければこのようなことにはならなかったのでしょうか。
「協力、してくれるかな。」
ただ、純粋に私と蘭子を頼る紅緒に比べ、紅緒に嫉妬をする自分はとても汚くみえました。
その日から、紅緒の目はいつでも水葵くんを映していました。私はもう気にしません。水葵くんを忘れよう。水葵くんと紅緒二人に幸せになってもらおうと思いました、どうしても。
*
蘭子と椿は、私をいつもの踊り場に連れて行きました。
「あのね、紅緒。私今までごめんなさい。告白しなよ、なんて言いながら私が心配させてたよね。」
最初に話し始めたのは蘭子でした。
「本当は私、紅緒が好きだったの。今までずっと一緒にいたから、もし紅緒がいなくなったら私どうなるんだろうって。でも、もう大丈夫。」
「ありがとう。私、蘭子のこと大好きだよ。意味が少し変わっちゃうと思うけど。でも、私が蘭子のこと忘れるわけない。」
蘭子はありがとう、と呟いて泣きました。私がこの涙を流させていると思うと胸がきゅっと痛みます。でも、気持ちは変えられないから。言葉の変わりに蘭子にぎゅっと手を伸ばしました。私の背中にまわされた手は暖かくて。いつも蘭子のそばではほっと安心するのです。
椿は横でそれを微笑み、話しはじめました。
「紅緒のことだから、まだ水葵くんに告白してもだめだって思ってるんだろうけどね。きっとうまくいくよ。椿にはね、幸せになってもらわなくちゃだめなの。だから、早く水葵くんのところいっておいで。」
「うん。ありがとう。」
椿からは、ふわふわとした甘いけれど爽やかな香りがしました。これもきっと苺のリップクリーム。
「みんな、本当にありがとう。私頑張ってくるから。」
*
私は水葵くんを呼びました。二人が後押ししてくれた今すぐに伝えたい。緊張で声が上ずりそうで、顔も熱い。みんなの気持ちをこめて。苺のリップクリームを塗って。あなたの後姿を追いかけるのはもうやめにします。
好きです、水葵くん。
苺のリップクリーム