小沢智子
人名は架空のもので実在のいかなる人物とも関係がありません。
「不思議な夢を見たわ」と妻は言った。
その言葉で僕は目を覚ました。
今何時だろう?
と考えて、今日が日曜日であることに気がつく。
じゃいいや何時でも。なんの不足もなく満ち足りた、なんの心配もなく平和な朝に僕はそう思う。
妻は言う。「小沢智子が死んだの」
僕は少し驚く。「誰が死んだって?」
「小沢智子よ」と妻は応えた。キングサイズのベッドが彼女の寝返りで少し揺れる。「幼稚舎のときから学園で一緒だったの」
「仲がよかったの?」
「全然」と妻は否定する。「仲のいいグループがずっと別だったし。学校出てから一度も会ったことないし」
「じゃどうしてその子が亡くなったってわかったの?」
「山村に聞いたの」
「山村?」
「小沢智子のグループにいた子。山村は由香と仲良しだったから」
由香という名は妻から以前に聞いたことがあるような気がした。
「由香とあたしが一緒にいるところに山村がやってきて、そして言ったのよ。小沢智子が死んだって」
「お気の毒に」と僕はお悔やみを述べた。「いつ亡くなったの?」
「ついさっきよ」
と聞いて僕は納得する。妻は夢の話をしているのだ。
「聞きたい?」と妻は訊ねた。
「聞きたい」と僕は応えた。日曜日の朝、妻の見た夢の話に耳を傾ける。というのも悪くない。
山村は言うのよ。と妻は語り始めた。一週間前に電話で話したときには、小沢智子はまあまあ普通に元気だったって。
嘘だ。と、でもあたしは思ったの。なぜだかわからないけれど、それはわかったの。山村は嘘をついているのよ。
ごくごく普通の主婦の悩み、それ以上の話を小沢智子は語らなかったって山村は言うけど、そんなの嘘なの。
だからあたし、山村に言ったわけ。あんたなんでそんな嘘をつくの? あんたたち、友達だったんでしょ。自殺する前友達に電話した子が、たったそれだけしか言わないわけないじゃない?
そうか小沢智子の死は自殺だったのか、とあたしは思った。なんであたしはそれを知ってるんだろう?
あたしが責めると山村は泣き出した。だってしかたないじゃない。って山村はあたしに言った。私にだって私の生活があるんだから。智子のすべてを受け止めてやれるはずはないでしょう?
小沢智子は自室で死んでいた。ベビーベッドの下で死んでいた。包丁がぐさりとその胸を突いていた。あたりには血だまりができていた。山村の話を聞きながらあたしに見えたのはそんな光景。
あたしは思った。一週間前の小沢智子に会わなきゃ。小沢智子が死ぬ前に会って話を聞かなきゃ。
そう思うとあたしは、都営住宅の前にいた。
階段の脇には汚れたベビーカーや車輪の外れた三輪車なんかが乱雑に重ねられていた。
階段を上りはじめた次の瞬間あたしは五階の廊下にいた。たくさんの玄関がずっと奥まで並んでいた。つまりその廊下はとても長いのだった。その奥の奥から小沢智子とその年下の旦那がこちらに向かって歩いてきた。あたしは廊下に立ってそれを見ている。でも小沢智子とその旦那はあたしに気づかない。二人があたしに近づいたので、あたしには二人の会話が聞こえた。
「お願いだから生活費だけはちゃんと入れてね」と小沢智子が旦那に言っていた。
旦那はくたびれたスーツを着ていた。革靴はうす汚れていた。
旦那は働いたお金をぜんぶパチンコやお酒に使ってしまうのだろうか。「うるせえな、わかったよ」とか旦那は言うけどわかったようには全然見えない。
「家賃だっていつまでもお母さんに払ってもらうわけにはいかないし」と小沢智子は言う。
そうか、家賃は小沢智子のお母さんが払っていたのか。とあたしは思う。小沢智子の家がお金持ちであったことをあたしは思い出す。
二人はあたしに気がつかないまま透明なあたしを通り抜けた。振り返ったあたしはそこに遠ざかる革靴の踵を見た。それはひどく片側に偏って磨り減っていた。
旦那はそのままどこかに遊びに出かけた。
小沢智子は地下に降りた。あたしは小沢智子のあとを追った。
するとそこは公共浴場だった。都営住宅の人は水道代を節約するためにこの公共浴場を利用しているのだとあたしは思った。小沢智子は男湯に入っていく。中は汚かった。湯船にはたくさんの煙草の吸い殻が浮かんでいた。髪の毛も浮かんでいた。洗い場にはスナック類の包みや空き缶が散乱していた。小沢智子は膝をついて煙草の吸い殻や髪の毛を集めていた。これが彼女の仕事なのだとあたしは思った。旦那がお金を入れてくれないので小沢智子はこうして赤ちゃんのミルク代を稼いでいるのだった。見かねてあたしは、小沢智子に声をかけた。「小沢さん、久しぶりっ!」
小沢智子は振り向いてあたしを見た。「ヒロやん、どうして?」と小沢智子は驚いた。あたしは学生時代ヒロやんと呼ばれていたのだ。小沢智子があたしの突然の訪問を歓迎していないのはすぐにわかった。こんな姿を見られたくない。とその様子が語っていた。
「偶然近くに来たもんだからさ」とあたしは嘘を言った。「だって手紙に書いてあったじゃん。話したいことがあるって。何かなと思ってちょっと気になって」
手紙なんて書いてない。と小沢智子は言う。そりゃそうなのだ。手紙を読んだというのも嘘なのだから。
「赤ちゃんはどこなの?」とあたしは訊いた。
「赤ちゃんなら上にいる」と小沢智子は上階を指差す。
「誰か赤ちゃんをみてなくていいの?」とあたしは小沢智子に訊く。旦那はさっき遊びに出かけちゃったみたいだし。赤ちゃんはひとりでいるのだろうか?
「近所の人が二人がかりでみてくれてるから大丈夫」と小沢智子は言った。
「ほんとにあんた、大丈夫なの?」とあたしは訊いた。
「構わないでよ」と小沢智子は言った。「ヒロやんには友達たくさんいるんだから、あたしのことなんて」
「あたしね」とあたしは慌てて説明した。「あたしも今度結婚してね、この近所に越してきたの。越してきたばっかりでまだ知り合いもあんまりいないのよ」
小沢智子はチラリとあたしを見てから、大きな声を張り上げた。「終わりました!」
そして小沢智子は誰かの手から茶封筒を受け取った。日当なのだろう。薄っぺらい茶封筒の中でチャリンとコインの鳴る音がした。
小沢智子は長靴をサンダルに履き替えるとそのままどこかへ出かけるようだった。
「赤ちゃんのところへ戻らなくていいの?」とあたしは訊いた。
「五時まで近所の人がみてくれることになってるから」と小沢智子は言った。「あたしだって自分の自由の時間が欲しいのよ」
「そんなのダメよ」とあたしは言った。「近所の人にも悪いし赤ちゃんのところに戻りましょうよ」
けれども小沢智子はあたしに取り合わずにどこかへ出かけてしまった。
郵便受けで小沢智子の部屋番号を確かめるとあたしは五階に上がった。
玄関を開けると中には二人の男がいて甲斐甲斐しく赤ちゃんの世話をしていた。筋骨隆々としたマッチョの方はどう見ても紛れもなく男だったけど、もう一人のほうは綺麗にお化粧をしたパッと見たところ女性に見える男だった。二人は小沢智子の隣の部屋に住んでいる子供の授からないカップルなのだ。二人は赤ちゃんのお世話ができることを大変喜んでいるようだった。
あたしはなにを思ったのか男たちに言った。「智子も智子の旦那もそうだけど、あんたたちもダメよ、このままじゃダメ、ちゃんと問題と向かい合わなくちゃ、向かい合ってひとつずつ解決していかなくちゃ」
マッチョはあたしを見て言った。「みんなそうだよ、みんなダメだよ」化粧をした男が続けた。「でも仕方ないんだ、どうしようもないんだ」
「カタムスビになっちゃっててほぐしようがないのよ」とあたしの背中から声がした。振り向くとそこに小沢智子が立っていた。「反対を押し切って結婚したから今さら親には頼れないし」
小沢智子は台所の開きを開け、包丁を取り出した。
ああ。とあたしは思った。あたしは小沢智子を助けにきたのに、そのあたしの行動そのものが小沢智子自殺のヒキガネになってしまったのか。
「もう何もかも終わりにしたいから」と智子は一歩踏み出した。
と、そこまで話して妻は沈黙した。
君は続きを待った。
「だからね」と妻は言った。「だからあたしたち別れましょ?」
君は驚いた。「何が不満なのかな?」
「不満はないわ」
「じゃあなぜ?」と君は訊ねた。
窓の外で雀は朝を告げていた。
了
小沢智子