憤怒

初の投稿になります。お見苦しい点もございますが。
一読していただければ幸いです。

憤怒

憤怒
                                   千 童




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私はこの男に怒りのままに暴力を加えることを決意したのであった。




幼いころから正体不明の感情に支配されたまま生きている。
それは紙に垂らした水のようにじっくりと腹の底から体中に広がり、それが頭にまで
達すると、鈍い痛みを覚えた。
人の世の理不尽や、愚かしい者を見るたびにその感情は無限に湧き上がった。
そしてその都度わたしはどうしようもなく心の赴くままに暴力に身を任せてみたり、人に暴言を浴びせたくなったりしたのであった。
無論そのような感情が湧き上がる度に暴れるわけにもゆかぬので、その度にじっと目をつむり頭の鈍痛が消えるまで爪を噛んだり、口を強く結んで耐えた。
長じてその感情が「怒り」と呼ばれるものであると知り、誰もがこの苦痛とうまくつき
っていると知った時、この感情をこれほどまでに耐えがたいと感じるのは、自分が劣った人間だからだなどと大層苦悩した時もあった。
 
 どうやらそれが違うらしいとわかったのは、中学2年の夏頃の事である。
 夏休み前の集会で、小さな体育館に全校生徒が集まった時であったか、檀上では
教員が変わるがわるやれ問題を起こすな、だの君らは学生であり学生の本分は勉学なのだから、夏休みの間も一層勉強に励むようにだのと、お決まりの訓戒をたれていた。
私はあまり真面目に聞いていなかった気がする。いや、あの時生徒の中で真面目に教員の話をきいていた者が何人いただろうか。
当然であろう、教師達のその説教だか演説だかわからぬような長いだけの話は
何をやれ、何をするなというばかりで中学生の少年少女から見てもいかにも説得力がかけていたからである。
 生徒たちの間からため息と不満が漏れ始め、最後に校長が教壇に上がりはなし始めた時だった。
 私の「怒りの虫」が暴れだした。
 この校長というのが、旧弊的教育論の塊のような男で、我々学生に恨みでもあるかのごとく最近の学生は怠慢である、私が学生時代にはなどと散々悪態をつきはじめたのである。
 内容はなんであったか今では詳しく思い出すこともできないが、とにかく私は大層腹をたてた。
私の体中に得体のしれない熱いエネルギーが充満しはじめ、いつものごとく頭には鈍い痛みがはしりだした。
今すぐ檀上にあがり、この古臭く愚かしい男の頬を殴りつけたいという衝動に駆られたが、私は目をつむり、ぎゅっと唇を切る程固く口を結んでひたすら耐えた。
 そのうち前に立っていた友人が私の異変に気づき、声をかけてきた。
「おい、伊口。顔が真っ赤だぞ、腹でも痛いのか。」
  顔色を変えるほどに私の我慢は限界に達していたらしい。
 保健室にいこうと、教師を呼んでもらうことにした私は、その呼ばれた教師の一言で我慢
 の限界を超えた。
  「校長の話が終わるまで我慢しなさい。」



 私は、鼻から血を吹いて倒れた。


両親は非常に厳格ながらも常識的な人間であったので、この息子の異常を教師から聞かされてからすぐに私を病院につれていったり、カウンセラーをよんでくれたりしたものだった。
 医者は神経がどうの、脳がどうのなどと言っていたが私の耳にはあまり届いていなかった、何の病気であれこうして私は自分がどうやらおかしい事に気がついた、いや、知ったのだった。
 
年頃であったせいか、随分自分と他人の違いを気にしていた私は、自分を苛む苦しみについて色々な人に尋ねてまわった。

 友人曰く、カルシウムが足りていない、小魚を食え。
 担任の教師曰く、それは義憤だ、おまえは反体制の素養があるのだ、などとよくわからないことを言われた。
 あの若いカウンセラーはなんと言っただろうか、確か若い時はみなそういう感情が湧き上がることがある、大小はあれどみなそういうものなのだからゆっくり制御できるようにすればいい、だったか。今考えてみれば、毒にも薬にもならぬような、ずいぶん当たり前の事を言っていたような気がする。
 それでもその時はその言葉に幾分救われ、私は時々怒りの虫に悩まされながらも、中高大と学生時代を無事すごしたのだった。



 


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大学を出た私だが、怒りの虫は未だによく鈍痛をひきおこし、その運動をしても、勉学に打ち込んでも発散できぬエネルギーをいまだに消し去れずにいた。
 この得体の知れない大きな苦痛を取り除かねば、到底就職など望めまいと思っていたが、
私の「特別な事情」を知りみかねた教授が、助手として雇い入れてくれたことは幸いであった。
 助手といっても私の場合成績が特別優秀というわけでもなかったので、することは少なかった。実験の準備や後片づけであったり、頼まれれば買い出しにも行った。
 要は体のいい雑用係である。
 しかし知らぬ人と頻繁に関わることがないこの仕事は、私に向いていた。
 教授は随分気をつかってくれていたようで、自分でどうしようもない程体調を崩した時、私はよく休むことを許された。もしも一般の企業に就職していたらこうはいかなかっただろう。いわば私は職歴をうめるためだけにお情けで雇ってもらえていたようなものであった。
 怒りの虫は、根気よく治療に通った成果か、それとも環境のおかげか最近では少しづつ大人しくなっていった。 

 「それはさぁ、伊口君が大人になっただけじゃないの。」
 目の前でつまらなそうにコーヒーカップを揺らしながら、助教授の江田女史が言った。
 といってもこの女性は、なにをするにもつまらなそうに行うので、ある意味平常体ともいえる。
 「そうでしょうか。」 
  こんな返事しかおもいつかぬ。もともと話というものは得意ではない。
 江田はやはりつまらなそうにシュガースティックを指でいじりながら「そうだよ」と答えた。
  「精神科の先生?ああカウンセラーだっけ、もいったんでしょ。若い時はそういうものだって。説明もしないくせにああしろこうしろってさ。そういうのに逆らいたくてたまんない物なんだって、若い時は。それを自分でうまく処理できるようになったってことでしょ。」
 私だってそうだもん、と今度はガムシロップの容器を手のひらでもてあそび始めた。落ち着きがない。 
 しかしこの若くして助教授の座にいる秀才の言う事はもっともである。が、
 私にはどうもしっくりこない。このような話を何度かこの賢い女性とする度に、
どうも納得できたような、そうでないような気持になる。
 言葉の上ではおそらく江田女史の言うとおりなのだろう。
恐らく私は自分を苦しめ続けたこの病を簡単に言葉で説明(・・)され整理(・・)されてしまうことに反感をおぼえているのかもしれない。
 そうだとしたら、大人になっているとはとても言えぬ。なんだかおかしくなって鼻でクスンと笑った。
 「ただうまく言えないですけど、年を重ねるごとに内の不満は増えていった気がしますよ。気に入らない、腹の立つことって思いのほか大人のほうが多いんですね。」
 そのたびに少しでも頭の鈍痛を解消しようと、なれぬスポーツに精をだしたり、勉学にがむしゃらにうちこんだりもした。しかし一向にこの怒りは消えず、むしろ頭の内側から私をいよいよ苦しめるのであった。
 「当たり前だよ。」
 江田女史の意外な一言に思わず顔を上げた。江田はコーヒーをあおりながらなんともない顔で続ける。

「だってさ、怒りとか悲しみは無限にわいてくるものだもん。スポーツしたり勉強してすっきりしたところで押しつけがましい人に腹を立てなくなったり、小指をタンスにぶつけて苛々しなくなるわけじゃないでしょ。歳をとれば、それだけ色んな人や物事に関わるようになるんだし、それが普通なんじゃないの。」
 なるほどそうかもしれぬ。当たり前ながらも今まで江田の言うように考えたこともなかった私は少しすっきりした気持ちになった。
 が、次の瞬間私は絶望した。それならば私一生この怒りとつきあわなければいけないのか?もし江田の言うとおりならば、このまま耐えがたきこの感情に耐え、亀のようにじっとしていることでしかわたしは救われないのではないか。
眩暈がした。江田がこれC棟まで届けてくるから、あんな遠いとこまで嫌になっちゃう、と分厚い紙束をヒラヒラさせながら席を立ったので、私は眩暈が収まるまで休んでから帰ることにした。 


帰り道の土手で、高坂という二つ年下の用務員と一緒になった。
雨上がりの土手は非常に蒸し暑く、虫達が飛び交い、蝉達の鳴き声がうるさいほどであった。
私はちらりと高坂の方を見る。
この男は私と違い、たくましく溌剌とした青年で、二人で並んで歩くと
身長はさほど変わらぬというのに、猫背のせいか随分私が小さく見えて、少しみじめな気持ちになる。
 しかし、この男はなにかと私に話しかけてくれたり、頂もののおすそ分けしてくれたりと、
なぜか私になついていたので、特に話題はないものの、一緒にいることはそう苦にならなかった。
 「伊口さん、三坂教授の噂、知ってますか。」
 押し黙って歩いている私に気を使ったのか、それとも視線にきづいたか高坂が急に話を切り出した。
 「噂?」 
はてなんであろう。私には全く思い当たることがない、そもそも噂話とは大抵だれかの醜聞や悪口と決まっていて、それらは大層私を不安定にする事が多かったので、そういう話題は積極的にさけているのである。
 「工学科の三坂教授が生徒に手を出してたって話ですよ。」
 そこまで言われてわたしはようやく三坂教授が誰であったか思い出した。応用物理の研究をしている神経質そうな、禿頭の小男だったか。高校などと違い、大学ともなると他学部の話などはめったに聞かない。
 「なんでも生徒だけじゃなくて、若い用務員とかにもセクハラまがいの事をしてるって、用務員の間だと結構話題になってますよ。」
 くだらない、私はそう思うと同時にどうやら私の怒りの琴線に触れる話ではなさそうだと、胸をなでおろした。
 この手の話は大学では腐るほどある。いくら学び舎といっても、大人と大人になりかけの子供が集団で過ごしているのだから当たり前ではある。が、そのほとんどが根も葉もないでっちあげ話である。
 「そんな話があるのかい。」
私はできるだけ興味のなさそうに返事をした。
 「あっ、信じてないでしょう、ほんとですよ。これ、実際セクハラにあった子が、退学届出しに学務部に来たのを僕見ちゃったんですよ、衝立の奥で先生達に泣きながら話をしてたのもバッチリ聞いちゃったし。もうただの噂話じゃなくなってるんですよ」
 「君は見た目の割にそういう話が好きなんだなぁ、ドラマじゃあるまいし、そんな事があったなら三坂教授に何かしら処分が下されている筈だろう。今のご時世大学にも親がのりこんでくるんだぜ。」 
 すでに私は高坂の話を完全に疑ってかかっている。事実そんな事があれば、大学は迅速に処置をくだすであろうし、またそうあるべきだ。
 しかし高坂は少しばかり真剣な顔つきになって続けた。この男が真面目な顔になることはめったにない。
「そうなんですけどね。ちょっとばかり事情があるんですよ。」
「なんだい、事情って。」
これではでたらめな話を楽しんで吹聴する輩と変わらない。しかし私の何にふれたのか、続きを聞かずにはいられなかった。

 「いやね、どうもその被害者の女の子っていうのが、何人いるかしらないですけどどうも泣き寝入りしてるみたいなんですよ。」
 私の頭にカッと火が付いた、顔が一瞬で熱くなるのを感じた。

「そんな話があるかい。そんなのは理不尽じゃないか、それに本人が泣き寝入りしたって証人のある話なら大学側が何らかの処罰をするべきだろう。」
「お、落ち着いてくださいよ。」
 どうやら思ったより荒い口調になっていたらしい、高坂は少しばかり引いている。
 「大学だってもちろん問題にはしてるみたいですよ。でも本人からしたらいやでしょう。この人にセクハラされました、なんてなかなか言えないですよ、それに何といっても三坂教授のご実家は大学に多額の寄付もしていますし、ほら、ここの所うちの大学は野球部の子の飲酒運転事件だのでマスコミに噛みつかれてますからね。まさか隠ぺいできるなんて考えちゃいないでしょうが、いやむしろみんないつかは話をしなきゃいけないとわかってはいるんですが、その話題は誰も切り出さないんですよ。」
逃避してるんですね。と高坂は困ったような怒ったような口調でそう結んだ。
 ああ。私の中に沸々と、あの熱いエネルギーがたぎりだしている。
木にとまった虫が、こちらを見た気がした。
高坂が続ける。  
「しかも困ったことに本人が勘違いしてるんですね。大学側は俺をきれないんだ、実家の力か本人の教授としての力かどっちと勘違いしているか知りませんが、自分は大丈夫なんだと思い込んでる。そうなるとますます増長するでしょう。まぁ近いうちに表ざたになって処分はされるでしょうが。どうもその女子生徒に単位だかを盾に脅すようなまねもしたって話まである。」
 そんな事があってたまるものか、いや、あるべきではないだろう。
私は教授や事件が発覚してもなおだらだらと問題から逃げ続けている学校、それを他人事のように話す高坂だけでなく、泣き寝入りをしている女生徒までもを憎悪していた。
もちろん女性が、いや男性だったとしても自分がセクハラされた事を訴える事は、非常に勇気のいることである。
 相手の非を訴え出るということは、同時に自分自身も何かしらをさらけ出さねばならぬ。
ましてや今回はセクハラという被害者の事を考えれば非常に繊細な事柄であるし、そもそも被害者を責める道理などない。
わかってはいる、頭の中では理解しているしそんな感情が湧き上がる自分に嫌悪すらおぼえている。
 しかしこの感情は、そのような私の理性になどおかまいなしに体中をかけめぐる、血管をのぼり私の頭の髄まで熱い力が充満する。
 いつもそうなのだ。この私の心の乱れは、私の道理や理性などお構いなしに体中を縦横無尽に暴れまわる。諭され、あるいは自分なりの論理を形成して対抗しようとしても、この力はそれらを全く無視して私の心を支配する。

私はもうたまらなくなってしまい、高坂に悟られぬ用歯ぎしりをして、固く目をつぶった。
滴が滴っている草とじんわりと濡れた土の間から、虫が私を見ていた。

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 高坂と別れた後著しく体調を崩した私は、高校生のころから通っている医院へカウンセリングを受けに行くことにした。
 受付をすませるにも、うまく声が出ず随分難儀した。それほどまでに調子が落ち込んでいたのだろう。
 平日の昼間だけあって、患者は少なく幸いにものすぐに私の順番はやってきた。
 担当カウンセラーの猪瀬は、神経質そうな眼鏡の大男で、淡々とした話し方をするので冷たい印象を患者に与えるが、その実非常に親身になって話を聞いてくれるので、評判はおおいに良かった。
 カウンセリングといっても、特別なことはなく実態は世間話に近い。患者が親とうまくいかないだの、仕事でいきづまっているだの不満をつらつら述べ、カウンセラーはそれにただうまく相槌を打ち決して出過ぎた真似や主張はしない。
 「伊口さん、お久しぶりですね」
 私はここ最近体調が良いのをいいことに、カウンセリングをさぼっていた。
 少し後ろめたいような恥ずかしいような気持になって軽く会釈した。
 「ハハ、で今日はどうしました。」
 猪瀬は手元のカルテをながめながら聞いた、私は高坂からきいた話をしてよいものか一瞬逡巡して、結局江田女史との会話についてから話すことにした。
 
「怒りや悲しみからは一生にげられない、ですか。」
 じっと黙って聞いていた猪瀬はカルテからこちらに視線を戻した。
 「はい。僕は一生この病気から解放されないんじゃないでしょうか。」
  猪瀬は困ったような顔をした。
「そうあわてて悲観的になってしまってはよくないですよ。誰であってもそういう不安は感じるものです。一生逃げられないなら、一生付き合う術を考えていけばいいんです。」
 「付き合う術ですか。」
 「そうです。だれだって生活の中の不満やストレスをきちんと受け止めて、そのうえで上手く処理しているんです。たとえば自分なりのストレスの解消法をあれこれ模索したり、心が疲れてしまったら休息をとるように心がけたり。」
 猪瀬はそう言ってコーヒーを入れだした。私はわからなくなってしまった。この男はいつも私の問いに対して納得できるような、ずれているような話をする。
 今まではそれらを無理やりよい方に理解したつもりになっていたが、今度ばかりはそうもいきそうになかった。
私の一生に関わることである。せめてすこしでも救いを得て帰らなければ。このまま絶望にのみこまれてしまいそうだった。
「こんな風に悩んだりするのは僕だけなんでしょうか。先生、僕はやっぱり普通じゃないのでしょうか。」
 「そんなことないですよ、いいですか。ストレスなんかだれでも、それこそ動物だってストレスを感じてためこんでいるんですよ。」
 「動物もですか。」
そうです、といって猪瀬はコーヒーカップを差し出した。豆の良い香りが部屋の中を満たした。
 「ストレスが原因で死んでしまうなんていうのは生き物ならだれでもあり得る事なんです。動物の考えはわかりませんが、生きている限り悩みながら生きているんです。伊口さんだけ特別なんてことはありませんよ。」
 猪瀬はそこまで言って、コーヒーを一口啜った。
私もコーヒカップに手を伸ばす。カップの中には、底のない闇が広がっている。
 獣もこのどろっとした感情に飲み込まれぬよう生きている。ならば人生を操られているといっても過言ではないほどに右往左往している私はなんなのだろう。
 「動物でもですか。」
私は繰り返す。
 「動物でもです、鶏なんかはそのまま病気になって死んじゃうこともあるそうですが、私たちは人間ですから。大丈夫、伊口さんもきっとうまい付き合い方ができるようになりますよ。」
 違う。はぐらかされているのか。私の疑問は一生この苦しみから解放されることがないのか、死ぬまで解決の望みはないかということだ。
 私の顔色がよほど悪くなったのか、猪瀬は押し黙って顔を伏せている私に大丈夫ですか?顔が真っ青ですよ、と声をかけてきた。しかしその声も私には届いていない。
 否、声はきこえていても返答できる余裕がなかったのだ。
 「先生、私は異常なのでしょうか、一生歯をくいしばり目を伏せていくしかないのでしょうか。」
私は率直に自分の疑問をぶつけた。
猪瀬は一瞬とまどったような表情をした。
「そんなことはありません。そういうものは人によって必ず違いがあるものです。他人から見たら誰もかれもが同じように物を感じ同じように生活しているようにみえますが、その実それぞれの中で必ず個人のズレや幅があるものです。それに一生伊口さんがそういった気持ちで過ごさないですむよう私も尽力します。」
猪瀬は珍しく強い口調で言った。
「僕は僕の中にある感情が恐ろしいのです。一瞬の誘惑に負けて自分の中の鬱憤を晴らしてしまわないと、きがくるってしまいそうになるのです。」
私は幾度となく猪瀬に投げかけた言葉を再び繰り返す。
「先生、異常とはなんですか。」
猪瀬をまっすぐ見て問う。
「先ほど言った感じ方のブレや幅が、通常よりもはるかに大きく見える事です、それだけのことです。それは決して劣っているということでもなければ間違っている事でもありません。」
猪瀬も私の目をみて答える。
ならばやはり私は異常なのであろう。
猪瀬の言った通り、それは決して劣っていたり不道徳とされるような事ではないのだろう。
それは決して批難されるようなことではない。が、私はこのコーヒーカップの淵にたっているようなものだ。そこは一歩間違えれば底なしの闇にほうりこまれてしまう一種の危険地帯だ。
自らを欲望のままに任せれば、そこに何が待っているのだろうか。
しかし私はきっと、一生普通の顔をしてそこに立って生きていく、いや生きていかなければいけないのだろうか。ならばやはり私の心は一生救われぬままである。
猪瀬に礼を言って会計をすませ、私は医院をでた。


心の靄はより一層深くなっていた。

 翌日幾分体調の持ち直した私は、大学へ行くことにした。
 まだ顔色の良くない私に高坂が気遣ってくれたものか、実験器具の整理を手伝ってくれたので、随分早くその日の仕事は終わってしまった。
 体調は持ち直しつつあったものの不安のあまり私は眠ることができていなかった。
そのせいか、一晩中ベッドの上で自らを省みることになったせいか、私のこころは既に摩耗していて、何かを考えることさえ億劫になっていた。
汗で服が体にピッタリとくっついて不快だ、体中に嫌なものがのしかかっているような錯覚を覚える。
講義の手伝いが終わり、冷房の効いた助教授達の休憩室に向かう道中で高坂にあった。
 「伊口さん、昨日はすいませんでした。変な話をしちゃって。体調はどうですか。」
高坂は申し訳なさそうに私に話しかけてきた。なるほど、この男は自分が昨日した話のせいで私が体調を崩したと、そう思っていたのだ。あながち外れてもいない。
 「ああ、それほど悪くないよ。」 
私はなぜか嘘をついた。
 「それより昨日の話、何か進展はあったのかい。」
 高坂が驚いたような顔をした。まさか私の口から積極的にその話題が出るとは思ってもいなかったのであろう。私自身も意外ではあった。が、私はなにか決定的な言葉が高坂から出ることを期待していたのかもしれない。このまま苦悩の淵に立ち続けるだけならば、
むしろ高坂がもたらす情報で、自らを限界に押しやってしまいたいという一種の破壊願望があったのかもしれない。
しかし高坂はあっさりと私の歪んだ希望を裏切ってくれた。
「今週末には職員間の会議がありますから、その場で問題としてあげられると思いますよ、あの教授も年貢の納め時ってやつですかね。なんでも昨日C棟の無菌室で三坂教授、現場をついにハッキリ目撃されたって話です。」
 高坂はもうどこか興味のないような様子だった。
 私は、喜んだような落胆したような奇妙な気持ちになった。
 高坂と別れた後、私は中途半端な気持ちのままふらふらと休憩室までの長い廊下を歩いた。真っ白な廊下の隅の汚れさえ、癇に障る。
 休憩室の軋むドアをあけると、そこには数人の女性職員と、江田助教授がいた。
 そして私は、信じられぬものを見た
 江田の目元が赤く腫れていたのだ。この強く賢い女性にはめったにないことである。
手元にはぐしゃぐしゃになった先日の書類が握られている
それを見た瞬間、私の中で何かが壊れてしまった。
勘のいい江田が何やら追いすがって弁明をしている。
が、すでに休憩室から飛び出していた私の耳には届かない。
薄暗い廊下をぬけ職員用の駐車場に抜ける扉をくぐった時。私はすでに。


 人でも獣でもないものになっていた。


教授用の駐車場は広く、似たような高級車がいくつも並んでいる。だがほかに人影もなく、幾度か周りを見渡すだけで、すぐに三坂を見つけることができた。
 私は乱暴に足音を立てて三坂に近づく、すでに怒りを体の中に抑え込むことができなくなっている。
 「三坂教授っ。」
 私は普段めったに出さない程の大声で三坂を呼び止めた。
 呼ばれた背の低い小男は飛び跳ねるようにしてこちらに振り向いた。
 「な、なんだ君」
 「江田助教授のことはご存知ですね。」
三坂の言葉を遮って問う。
 その時私は、私の勘違いであってほしいという反面、三坂が思い切り狼狽することを期待していた。もはや正義感などではない。私の中の猛り狂う今までの人生全ての怒りを思いのままぶつけたいという欲求だけが私の中に広がっていた。
 「なに、を。」
 「昨日江田助教授にあなたは会ったはずです。違いますか。」
 三坂はあからさまに慌てていた。私の怒りはますます確信をもって強くなった。
 「バカなことを、だったらどうする。君に何ができる。」
 ほとんど自白のようなものであった。この初老の小男の言葉には誰にも自分を裁けるものか、ならば私は私の好きなようにするといったような、一種子供じみた感情が混じっていた。
 私は三坂の胸倉を掴み地面に押し倒した。
 抵抗のつもりか、三坂は手を振り払うような仕草をしたが、この醜い男が力で若い私に適うはずもなかった。
あっさりと私は三坂の上に馬乗りになった。
私は絶叫しながら無茶苦茶に三坂を殴りつけた、三坂はなにやらもそもそと叫びながら手をバタバタと払って抵抗したが、それはまるで鳥の鳴き声のようなもので、私の絶叫と同様
全く言葉になっていなかった。
殴られ続けるうちに抵抗する力もなくなったのか、私の拳をうう、うう、とうなり声をあげながら徐々に受け入れるようになっていった。
 一度殴りつけるごとに拳が軋む、人を殴りつける事は、こんなにも痛い者なのか。
しかし、その鈍い痛みに反して、私は言いようのない邪悪な喜びに満たされていた。
拳を振るう度、脳の中から私の心を満たす物質が体中に溢れ出す。
 私は既に江田の事も、この男が行ってきた悪行もどうでもよくなっていた。ただ人生のすべての怒りをただこの男にぶつけていた。
いや、最初からそうだったのかもしれない。私はわたしを苛み続ける怒りからただ解放されたかっただけなのかもしれない。
私は三坂を見下ろす、三坂は何やらもごもごと口を動かすだけで完全に抵抗する力を失っていた。
 「ごめんなさい。」
そう聞こえた。私は急激に自分がさめていくのを感じて、三坂の上から退いた。
 三坂は何を考えているのか、逃げもせず驚いたような顔でこちらを見上げている。
三坂の呆けた顔を顔を眺めているうちに私は理解してしまった。
 きっとこの男も、一瞬の充足のために我を失ってしまったに違いない。
 理屈や道徳を脇に置いて、私もこの男もその甘美な誘惑に負けてしまったのだ。
しかし今の私にも、三坂にも何が残っただろう。
 拳の鈍い痛みと、胸の当たりからじわじわと染み出している絶望的な空しさと後悔
だけだ。
 
私は毛虫のように丸くうずくまり、獣のようにうう、と唸った。

憤怒

憤怒

人知れず自分の内なる怒りに苦しむ伊口。 なぜ人は怒りを抱え苦しむのか? なぜ怒りをこらえ生きていかねばならないのか。 人は一生その鎖から逃れえぬものなのか。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 憤怒
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