妖精の丘

舞台となるのは、妖精たちが当たり前に存在する世界の、小さな村と、はずれにある丘の上。
小鬼と巨人とリンゴの木、そして人間の物語です。

お楽しみくださいませ。

小鬼は捕まった

 どこまで行っても草原ばかり広がっている。大地は大きく歪んでいるようだ。その起伏のために、地平線どころか少し先の道も見えない。丘の続く先に、遠くかすんだ山の頭が、わずかに見えている。そんな中を、子どもの身の丈ほどの、背筋の曲がった、手足のやたら細長い姿が、おぼつかない足取りで歩いていた。
 牙の間から息を吐き出して、トゥット=ジッドは空を仰いだ。太陽を、まるで誰かの仇であるかのように、嫌悪感たっぷりに睨みつける。その大きな金の目を、今度はぎょろりと大地に向ける。尖った耳に長い指を突っ込んでほじくりながら、ひん曲がった鼻をことさら大袈裟にフンと鳴らした。
「お天道様よ。あんたァ、本当に気が利かねぇな」
 砂のような灰色をした、皺だらけで硬い肌のあちらこちらを、ぼりぼりと掻きながら続ける。
「まったく参っちまう。なんだってインプともあろう俺様が、こんなところで立ち往生だ、ええ?」
 本来ならば、地下か夜をその住処とするのが小鬼の類である。トゥット=ジッドは賢くはないが、それでもこのままでは衰弱する一方であることくらいはわかっていた。人間から奪ったのか、明らかに大きすぎる衣服を、頭の上まで引っ張り上げて被る。
 風に乗って、獣の臭いが漂ってきた。それも牛や羊や鶏や、そんな家畜の臭いばかりだ。トゥット=ジッドは鼻をひくひくと動かして、茶色の歯を見せながらにやりと笑った。
「こりゃあ、こりゃあ……運が向いてきたかな」
 煙や泥の臭い、そして植えつけられたばかりの苗の瑞々しい香りさえも、インプの鼻は感じ取った。不格好な耳に届くのは、地を耕し、糸を紡ぐ、人間の働く音だった。牧童が家畜をなだめるのや、家のことに忙しい女たちの世間話が聞こえるかと思えば、それはあっという間に、はしゃぎ回る子どもたちの声にかき消されてしまう。
 インプは目を閉じ、じっくりと音を味わった。下品な笑みを浮かべたまま、舌舐めずりをする。
「いやいや、こんなところに、うん」
 ぽつんと小さな村があるのだろう。他と盛んに交流するでなく、それでも穏やかに、慎ましやかに暮らしているのだろう。焼いたパンの香りが、インプの鼻をくすぐった。
「いいねえ、パンにたっぷりと脳みそ塗りたくって、ガブリ、だ」
 心臓をサンドしてもいい、とトゥット=ジッドは続けて、目を輝かせた。
「恐れろ、泣き喚け、残虐無情のトゥット=ジッド様が、全部喰らい尽くしてやる」
獲物はもうすぐ近くだ。そう考えるだけで、彼の手足には力がみなぎるようだった。
 ええいと大声を発して自分を奮い立たせると、トゥット=ジッドは大きく腕を振りながら、再び前進を始めた。
 しかし、トゥット=ジッドがまだ少しもいかないうちに、彼の前方から地響きが伝わってきた。規則正しいそれは、まるで誰かの足音のようだ。
 急な斜面を歩いて登りながら、トゥット=ジッドは眉根を寄せた。落ち着きなく辺りを見回し、どこかへ身を隠せはしないかと探す。
 突然ぬっと現れた影が、太陽を隠した。インプはギャッと悲鳴を上げた。
 巨人が、丘の向こうから姿を現したのだった。それは紛れもなくトロルであった。黄土色の全身はまばらな剛毛に覆われ、顔にはジャガイモのような丸い鼻と、小さすぎる耳がある。鼻と口を囲むようにして、太いひげが生えている。体に比べて頭は大きく、手足は短いが太くてたくましい。小さな目は白眼を向いて、インプを睨みつけている。
インプは驚いて、手足をばたつかせて逃げようとした。
 トロルは顔を真っ赤にしていた。息を大きく吸い込むと、インプに覆いかぶさるように身を乗り出す。
「おお、おめぇかぁ。そんな、ちびっこぉ、ちびっこぉ体で、おらに喧嘩ぁ売ろうとするやつはぁ」
 それは大太鼓のような、腹の底に響く声だった。間延びしたような、ゆっくりとした喋り方ではあったが、それはかえってトロルの恐ろしさを引き立てていた。インプは真っ青になり、腰を抜かして尻もちをついた。
「い、嫌だなぁ、トロルの旦那。俺様、ただのインプじゃないですか。旦那には到底かないませんて」
「うー、嘘ぉーつくなあああ!」
 その重低音に、インプは思わず頭蓋骨を押さえた。トロルは何やら相当腹を立てているらしい。トゥット=ジッドは困惑した表情で彼を見上げ、恐る恐る問いかけた。
「旦那ぁ、旦那は俺様のなにが気に入らないんで?」
 トロルは大きな手を開いてインプの頭を押さえつけた。
「とぼけるでねぇ、ちびすけぇ。おらは、おめぇさんが、この村に、悪さしようと企んでるのぉ、わかっただぁ!」
 トゥット=ジッドは余計に混乱したような様子で、尻を掻いた。トロルの怒りは収まる気配がない。頭を押さえられたままでは逃げることもできず、インプは焦りを見せた。
「ああ、この村はあんたの縄張りってことか、旦那。それなら俺様は手を引くぜ」
 へらりと媚びへつらう者の笑みを浮かべたインプは、トロルの手を押し上げ、どかそうと試みた。
 と、トロルがもう片手もトゥット=ジッドの方に近づけてきた。顔色は元の黄土色だが、まだ眉根に深く刻まれたしわは残っている。インプは慌てて逃げようともがいたが、力でトロルに敵うわけがなかった。トロルは両手でしっかりと小さなインプを押さえつけ、持ち上げた。
「おー、おめぇさんよ。確かぁによ、インプは、トロルより、頭いいかも知んねけどな。でもな、おらはな、あの村ぁメチャメチャにさせるような、まねはな、誰にもさせねぇだ」
 トロルの肩に担がれてしまったトゥット=ジッドは、ただ彼の言葉を聞いているしかなかった。ややあって、彼は脱力し、呆れたような声を出した。
「おいおい、まさかトロルが、まさか、たかが人間の用心棒なんかやってるってのかぁ?」
「んんっ、んだ。それのなーにがいけね?」
 来た時よりは足取り軽く、それでも盛大な地響きを立てながら、トロルは大股で歩いていく。向かう先があるのか、迷いのない進み方だ。
「おらぁ、村ン人間たちに、でーっけぇ恩があるだぁ。ペベルマーグなんてぇ、洒落たぁ名前ももらったしよぉ」
「名前なんて自分でつけりゃあいいじゃんか。大げさなこった」
 インプの言葉にトロルは気を悪くしたのか、トゥット=ジッドを持つ手に少し力を込めた。憐れなインプはぐぎゃっと声を上げ、黙ってしまった。
 トゥット=ジッドが連れて行かれたのは、村から少し離れた、小高い丘の上だった。一本だけ、並はずれた大木が立っているほかは、特に何の変哲もない丘だった。
「あの木、妖精か? アップルツリーマンじゃねーか」
 インプは驚いて声を上げた。その木は静かに立っていた。まだ若葉がやっと広がり始めた頃である。おおよそリンゴの木にふさわしくない大きさと太さを備えている。
 トロルのペベルマーグは、インプをその木の枝に乗せた。
「んだば、相棒よ。この小僧っこ、悪さぁできないように捕まえといてくんな」
 すると、返事の代わりに枝葉が動き始めた。ざわり、みしりと音を立てながら、たちまちのうちにインプを絡め、閉じ込めた。
 トゥット=ジッドは大暴れした。
「なんてこった、この俺様を飢え死にさせる気か!」
「心配いらね。そうやって、相棒と、くっついてりゃあな。おめぇくらい、ちーっこけりゃ、問題ねえだ」
 ペベルマーグの言葉に、トゥット=ジッドは身を震わせた。彼の手足にはリンゴの枝がしっかりと絡み、食いこんで溶け込み、同化して境目がわからなくなっていた。
「うげぇ、なんでだ、腹がいっぱいになってきやがった……なんだこれ、気持ち悪い」
 顔面蒼白のインプに、トロルはにたりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「げはは、それ、それが相棒の自慢だぁ。おめぇ、そこにな、いる限りはな、なーんも、食わんでいいだー」
 インプを捕えて安心したのか、トロルは無邪気な笑顔で両腕を大きく降り回した。
「んーだらば、あー、相棒よ、頼んだだぁ」
 風も吹かないのに、リンゴの枝がざわりと鳴った。
 爽やかな若葉の匂いに閉口しつつ、トゥット=ジッドは散々悪態をついた。こうして、誰もが恐れる性悪の小鬼は、リンゴの木の上に囚われてしまったのであった。

巨人と人間、丘の上

 人間の声を耳にして、トゥット=ジッドは目を覚ました。ぼんやりと辺りを見回し、そして改めて自分の状況を理解したのか、舌打ちをして再び目を閉じる。
 もう昼の頃であるらしい。温かな日差しが差し込み、流れる風は清々しく穏やかだ。インプにとっては最悪の天気であった。
 トロルのペベルマーグは、人間の話に耳を傾けていた。それだけでも、彼は大いに満足しているようだった。並ぶ人間たちは、どれも大人であった。手には、土まみれの鋤や桶が握られている。
「ペベル、あんたが昨日とっ捕まえたってのは、あれかい?」
 一人の若者が、警戒している様子を見せながらではあるが、トロルに近寄る。そしてリンゴの木に絡め取られたインプを指した。表情には恐れもあったが、抑えきれない好奇心が覗いている。ペベルマーグは彼を驚かさないようにゆっくりと身をかがめた。
「んだ。おめぇさんたちに、悪さぁ、しようとしてただ。んでもな、おらとな、相棒がな、んなこと許さねだ」
 トロルは楽しそうに体をゆすり、安心するだ、と言い足した。若者はばつの悪そうな顔をした。
「別に、そこまで怖がってないさ」
 彼の言葉に、トゥット=ジッドは気分を害したようで、鼻の穴を膨らませた。
「よおよお、俺様のことを知らねーのか!」
 牙を剥き出し、唾を吐き散らして、インプは若者に金色の目を向けた。
「残念だったなぁ。もうちょっと俺様の元気が良けりゃ、お前たちの村襲って、男も女もガキ共も、根こそぎ残らず喰い殺してやったのに」
 若者は喉をひくつかせ、言葉を失った。顔がさっと青くなる。だが、トロルは大口を開け、豪快に笑いながら、インプに太い指を突き付けた。
「がぁっはぁ! おおい、ちびすけぇ。この、ペベルマーグがいる限りなぁ、この村、すったかめったかにゃあ、させねぇだ」
 がらんがらんという、やかましい金属の音が村の方から聞こえてきた。昼の休憩が終わったのだ。村人たちはペベルマーグとリンゴの木に手短な挨拶をして、足早に村の方へ戻って行った。
 インプは毒づいた。
「なんでぇ、人間ってのは、本当に偽善が好きだよなぁ」
 ペベルマーグはにんまりと笑い、力加減をしながらリンゴの木を揺さぶった。インプは為すすべもなく左右に振られ、目を回した。
「やめろ、やめろって、俺様ァそんな変なこと言ってねーぞ!」
「おらぁ阿呆だぁ。ギゼンとかぁ、そーんなの知らね。んでも、悪口は好きでねえだ」
 それは、誤魔化しなどでは決してないのだろう。何も後ろ暗いことのない者が見せる、穏やかで底抜けに明るい笑顔だ。トゥット=ジッドは脱力し、へいへいと生返事をして、わざとらしい大あくびをした。気の良いトロルは、他者の眠りを妨げてまでお喋りを楽しもうとすることはしなかった。

リンゴの樹は語る

 トロルのすさまじい声で、トゥット=ジッドは目を覚ました。
 いつの間にやら、日は落ちていたらしい。少し離れたところに、村のかがり火が見える。続いて、盛大に鼻をかむ音が聞こえた。迷惑そうに顔をしかめ、インプはトロルの様子をうかがった。大きな背中に手元が隠れており、何をしているのかを確かめることは難しい。
 ペベルマーグは、どうやら泣いているらしい。吼えるような大声で、丸太のような腕を目に当て、本人としてはさめざめと泣いているようだった。
「べこよぅ、べこよぅ……うう、可哀相になぁ、可哀相に。おお、おらの晩メシに、なぁ」
 しゃくりあげ、またラッパのような音で鼻をかむ。トゥット=ジッドの目に映ったのは、ぐたりと横たわる、茶色の牛であった。さらに目を凝らしてわかったのは、その牛が、どうやら老け始めた雄であるらしいということだった。
トロルは、やおら牛の巨体を両腕でしっかりと掴むと、そのままかぶりついた。
 ばりばり、メキメキ、と骨の砕ける音がする。肉を引き裂く音が聞こえる。血が滴る。トゥット=ジッドは思わず喉を鳴らした。食べながらも、トロルはまだ泣いている。
「うーう、うめぇなぁ、うめぇよぉ」
 トロルは力いっぱい牛の脚を引っ張り、捻って、もいだ。立ち上がって、残った肉を引きずりながら、木の方に歩む。トロルの顔やひげは血まみれになっていた。
少しばかり怯えた顔を見せたインプは、目の前にもがれた牛の脚が突き出てきたので、驚きに口をあんぐりとさせた。トロルが、強く言い聞かせるような調子で言う。
「味わうだぁ……よーく味わうだぁ」
 インプはまだぽかんと口を開けていたが、木の枝の拘束が少し緩んだので、腕を伸ばしてそれを受け取った。つい涎が垂れる。それに抗議しているのか、木が少しばかり揺れたが、トゥット=ジッドは構わず肉にむしゃぶりついた。
 食事が済むと、トロルは少し離れた地面に穴を掘り、丁寧に骨を埋めた。それが済むとさっさと横になり、眠ってしまった。インプは食い終わった骨を彼に向って放った。それはトロルの尻に当たったが、彼は起きもせず、虫でも止まったかのように無造作に尻を掻いた。トゥット=ジッドは溜息をついた。
「なんでこんな奴にとっ捕まったんだ、俺様は」
 リンゴの木が、大きくゆっくりと揺れた。低くしゃがれた声が響く。
「良い奴、じゃろう?」
 インプは目を丸くした。木の枝を平手で叩く。
「なんだ、お前、喋れるんじゃん」
「目も、口もあるぞ……普段はしまっているがな」
 落ち着いた声だ。インプは慎重に、探るような調子で訊ねた。
「で、あんたも名前とか、もらってるわけ?」
「わしは、人間とは喋らぬ。だが、大昔に、エルフにもらった名前があるよ……ブロリオンという」
 トゥット=ジッドはフンと鼻を鳴らした。
「結局もらいもんかよ。こいつもだけどさ、あんたも、こっち側の住人っぽくないのな」
 ざわり、とリンゴの木は枝を鳴らした。
「恐れられるばかりが、我らではないぞ……ペベルはトロルだが、人間と親しんでいる」
インプは勢いよくまくし立てた。
「親しむだぁ? そうする必要がどこにある? 俺様には理解できねぇや。なんだって人間なんぞ大事にするんだか。このデカブツだって、その気になりゃあ、あんな村一捻りだろぉ?」
 苛立ったように大きく息を吐くトゥット=ジッドに、リンゴの木は枝を寄せた。まだ柔らかな緑の枝や若葉が、インプの肌を優しく撫でた。それらを迷惑そうに払いのけ、彼は言った。
「俺様、なんにも間違ったことは言ってねえぞ。少なくとも、人間と親しくする奴が同類だなんて、とても考えられねーわ」
 リンゴのブロリオンは、応えることはしなかった。ただ枝葉を重ねてインプを包み込み、穏やかに言う。
「これ……皆を起こしてしまう」
 インプは顔を真っ赤にして、リンゴの細枝を一本わしづかみにし、ぐいとひねった。リンゴの木は驚いたように声を上げたが、枝は難なくぽきりと折れた。トゥット=ジッドが折り取った枝を振り回し、甲高く叫ぶ。
「どうだ、俺様は残酷で凶悪な小鬼だ。トロルなんかの巨人だって同類のはずだ。人間好きのコボルトやらホビットやら小人連中の方が頭おかしいんだ。人間なんて怖がらせてなんぼだろ!」
 リンゴの木は押し黙って、その言葉を聞いていた。だが、自らの枝葉を少し強くインプに押しつけて、大人しくさせようとしているようだった。トゥット=ジッドは怒鳴った。
「俺様は人間を怖れさせ、悲しませ、絶望の淵に追い込んで、そのはらわたを貪ってきた。それが俺様の生きざまって奴だったんだ。それが、なんで、なんでこんな奴に!」
インプは反抗してもがいたが、大木の力には叶わない。くたびれてしまったのか、やめろと訴える声は徐々に涸れていった。
 やがてぐったりとしたインプが諦めて眠りにつくまで、ブロリオンは辛抱強く彼を抑え続けていた。

人間も、そして小鬼も

 リンゴの枝はずんずん伸びて広がり、葉は瑞々しく大きくなってきた。インプはまだ彼に捕まったままであったが、彼がこの生活に慣れ始めてしまったのも確かであった。
 空が陰り、雨が降った。雨の時にはいつも、リンゴの木は枝葉をうまく伸ばして屋根を作り、インプを覆ってやった。冷たい滴が垂れてくることはあったが、彼がずぶ濡れになることはなかった。
 トロルは朝から出かけている。彼は欠かさず、周辺の見回りを続けていた。村人たちが畑に出られないような嵐でも、彼は構わず見回りをしていた。インプは毎日その背を見送り、そして満足げな笑顔を迎えるのだ。
 トゥット=ジッドは相手をしろとばかりに、湿ったリンゴの枝を叩いた。
「あのトロルは、本当に人間の役に立ってるつもりなのかぁ?」
 リンゴの木は風に身を任せて揺れていたが、腰を据えたように動かなくなった。インプが答えを促しながら強く叩く。ブロリオンはそこで、軋むような音を立てながら乱暴に揺れた。インプは振り回されて目を回す。ブロリオンは低く戒めるような声で言った。
「人間も、ペベルと親しくしようとしておるだろう。牛や羊なんかの、年老いたのを寄越すのも、ペベルの日ごろの見回りに対する礼に違いなかろう」
「生贄出して、人間食われないようにしてるんじゃねえかぁ?」
 そこまで言って、トゥット=ジッドは慌てて口を塞いだ。ブロリオンは脅すように太い枝を揺らすと、諭すように言った。
「トゥット=ジッド、お前さんの考え方はどうも斜めすぎるようだな。晴れた日には、人間は欠かさずペベルの顔を見に来るだろう。確かに恐れているようにも見えるが、それだけでないことも明白であろうに」
「人間ってのはそもそも偽善の塊じゃねえか」
 トゥット=ジッドの物言いには、ひねくれた意図は表れていなかった。リンゴの木は、ため息と共に大きく揺れた。雨粒が跳ねる。
「お前さんがそう考えるのも、無理はないのかもしれぬが」
 ブロリオンは言い淀み、そして動かなくなった。風に任せて力なく揺れる。
 彼が「ただの巨大なリンゴの木」であろうとするとき、それは人間の気配が近くにあるのだということを、トゥット=ジッドは学んでいた。リンゴの木はインプをすっかり覆っていたが、人間は彼がそこにいることを知っているはずだった。インプは目を凝らした。雨のせいで視界は明瞭でなく、風で音も掻き消される。
 数人の男たちが、何やら大きな荷を抱えて丘を登ってくるようだった。風雨に悩まされながらも、少しずつこちらへ近づいてきていた。途中まで来て立ち止まる。トゥット=ジッドはよく耳を澄ました。
「ほら、まだ戻ってないって言ったろ?」
「こんな日にもか。真面目なやつだな」
「で、どうする、待つか?」
「いつもどおり歩いてるとしたら、今は大岩のあたりだろ?」
「そうだな……ベニーんとこの畑の辺りへ行ってみよう」
 会話が切れ、彼らは引き返した。
 トゥット=ジッドはしばらく唇を尖らせ、目を細めていた。人間たちの去った方をじっと見つめている。まるで、留守番を言い渡された子どものような顔であった。インプは駄々をこねるように両腕でリンゴの枝を揺すり、引っ掻いた。
 日が落ちてきて、雲がさらに暗さを増し、視界を奪う。雨の音ばかりが強く響き、虫たちも鳴かず、風も吹くのをやめてしまった。
 リンゴの木も静かに立っていた。雨が枝葉に当たって、さらさらざあざあと、そよ風に吹かれたような音を鳴らしていた。
 うとうとしていたトゥット=ジッドは、控えめな地響きを伴う足音で目を覚ました。トロルがリンゴの木の枝を丁寧に持ちあげ、彼の顔を覗き込んできた。
「おお、おー、トゥットの坊やは、おネムだっただか?」
 目をこすり、インプは首を横に振って眠気を払った。やや腫れぼったい目ではあるが、トロルを見る。トロルは愉快そうにふふふと笑いを漏らした。トゥット=ジッドは目を丸くした。
「なんだよ、俺様の顔がそんなに楽しいか?」
 ペベルマーグはにんまりと口を歪め、その巨大な拳を彼の目の前に突き出してきた。インプは慌てふためいて身を庇った。が、直後、鼻をくすぐる肉の匂いに動きを止める。
 トロルの手には、彼の指ほどもある太いソーセージがぶら下がっていた。
「村ぁのな、な、若いのがな、おらのな、ためにな、おらたちの、おらたちのな、ためにな、特別にな、がんばってな」
 なにやら興奮しているらしい。リンゴの木がゆっくりと動いて、彼の腕を撫でた。
「ペベル、言いたいことはわかったから、落ち着くのだ」
 トロルはソーセージをもいで、何本かインプの手に押しつけた。もっとも、インプの手には、それはソーセージというよりもハムのようだった。トロルはまた何本かもいで、リンゴの木の、根元に近い辺りに持っていった。すると、木が割れるようなミシッという音がして、ブロリオンが大きな口を開けた。口の中は空洞で、どこまでも果てがないようだった。ペベルマーグは彼の分のソーセージをその中に放り込んで、自分の取り分を愛おしげに握りしめた。
 トゥット=ジッドは目をしばたかせた。久々に嗅ぐソーセージの香りは、彼に涎を流させていた。が、それにかぶりつくでもなく、インプはきょとんとした顔でトロルを見上げた。
「なんで、くれるんだ、お前?」
 問われたトロルもきょとんとした顔で、答えた。
「んだから、な、それな、村ン人がな、丘のな、お友だちとな、食えって」
 ブロリオンが嬉しさを声音に滲ませた。
「ほう、立派な腸詰だ……何か、めでたいことがあったかな?」
 トロルは幸せのため息を吐いて、嬉しさに頬を赤らめた。
「ん、んーだ。キャシーがな、三人目ぇな、腹にな、こさえただぁ」
 リンゴの木は枝の先を小刻みに震わせ、めでたい、と喜びの声を上げた。トゥット=ジッドは驚き戸惑って、ペベルマーグの顔を見上げるばかりだった。トロルは相変わらず緩んだ笑顔のまま、ソーセージを一口かじった。
「んんまいだー、んんまいだー。おらぁ、悪い妖精っこどもが、近づかんように、もっと頑張んねばなんねえなあ」
 無邪気な赤ら顔で、拳を天に突き上げる。その手はふやけて白くなっていた。体は濡れて寒くないはずがないのに、少しもそんなことは言わない。
 インプは眩しそうに目を細め、口を歪めて苦々しい表情を作った。だが、その口角は少しばかり上を向いていた。
「まあ、せいぜい頑張れや」
 トゥット=ジッドは興味ないという風に手を振り、トロルに背を向けて横になった。

幸福だったはずの夜に

 リンゴの白い花がすっかり満開になり、花びらが散り始める頃になった。日に日に太陽は力を増していた。虫たちが活発に動き回り、草花も青々と茂る。村の人間たちは夏の到来に対し、何やら慌ただしく動き回っていた。そしてトロルはというと、日が長くなったからか、見回りに一層の精を出していた。
 夕闇に包まれた空を見上げ、ペベルマーグは幸福感に溢れる笑顔を浮かべた。
「ああ雨、雨ぇ呼ぶ祭り、祭りが近いだ」
 両手を打ち鳴らして音を立てる。トゥット=ジッドはリンゴの木が作ってくれた日陰から、覇気のない声を出した。
「祭りぃ? 雨のために、わざわざねぇ。ふざけてやがらぁ」
「失礼なこと、言うでね。祭りは、本気でやるもんだ」
 トロルは人差し指を枝の間に差し込んで、インプの頬を押した。インプはその指を払いながら苦笑した。
「へーいへい、わかったから指どけろって、痛くてしょうがねえや」
 ペベルマーグは謝りながら指を引っ込めた。と思うと、すぐに寝転がる。
「おらな、おらな、明日、村ン中ぁ、中ぁ入って、手伝ってくれって言われただぁ」
 真っ赤になって頭を抱え、掻きむしる。顔がにやけるのを誤魔化そうと必死らしいが、その様子に、トゥット=ジッドとブロリオンは同時に吹き出した。
 リンゴの木が枝を揺らした。
「それで、今宵は早く休むのかね?」
 トロルは黙って何度か頷いて、落ち着きなく寝がえりを何度も打った。インプが大口を開け、下品な笑い声を立てる。
「はーぁ、うまく取り入ったもんだなぁ、トロルのくせに」
 トロルは片目を開けて彼を睨んだ。鼻を大きく膨らませる。トゥット=ジッドはおどけた仕草で、枝の陰に隠れた。
「おう、デカブツが睨んでらぁ、怖い怖い」
 むっつりと睨んでいたトロルはすぐに頬を緩ませた。そのまま目を閉じる。トゥット=ジッドはそれを覗き込み、観察した。いびきが聞こえ始めるまで、そう時間はかからなかった。インプは耳を塞ぐ仕草をし、舌を出して、自分も横になった。
 インプは目を覚まし、空を見上げた。まだ夜中である。黒い雲が足早に流れている。欠けた月が隠され、また顔を出してはすぐに隠される。生ぬるい風が吹いて草花を揺らしている。
 リンゴの木の枝が緩んでいる。トゥット=ジッドは気の抜けた顔で枝を叩いた。
「おーい、俺様、逃げちまうよぉ?」
 だが、ブロリオンは深い夢の中にいるらしく、気づく気配も見せない。風に揺られるままの姿は、ただの木と何の区別もつかない。
 トゥット=ジッドの金色の目が光った。村の方に視線を投げ、動かない。目を凝らしているようでもある。ごくり、と唾を呑みこむその顔は、何やら張り詰めていた。
 インプの声が震えた。
「おい、おいトロルのデカブツ、起きろ」
 風が音を広げ、彼の声をかき消してしまう。トゥット=ジッドは身を乗り出して、声を張った。
「デカブツ、起きろ、村を見ろ!」
 村で、悲鳴と共に火の手が上がった。鐘が激しく打ち鳴らされる。家畜たちが吠える。木やレンガの建物が破壊され、崩される。その中に、下劣な笑い声が混ざる。
 ブロリオンが先に目を覚まし、太い枝を振り下ろしてペベルマーグの尻を殴った。トロルは寝がえりをうち、大あくびをして目をこすった。トゥット=ジッドがわめく。
「おい、人食いだ、鬼だ、オーガだ!」
 背丈こそ人と大差ないものの、醜い灰色の四肢はたくましく、刃物のような爪が光る。裂けた口には牙が並ぶ。
 トロルは村を一目見て、口を大きく開けたまま、固まった。
 炎が、蹂躙される村を赤く照らし出していた。オーガの群れは至極楽しげに表情を歪ませ、家々を壊し、家畜を追いまわし、人間を喰い殺す。村の子どもたちが母を呼び、父を呼ぶ。男たちは家族を庇おうと手に金属の道具を持って、果敢に戦おうとする。だがオーガはそれらをからかって嘲るように、軽々と男たちの頭上を跳び越して、背後に庇われていた妻子を引き裂く。女たちも子どもを守ろうと立つが、はらわたをえぐり出されて苦悶の声を上げながら崩れ落ちる。
 トロルが咆哮した。空気を震わせるような音だった。リンゴの木が軋み、インプも悲鳴を上げた。トロルは涙を散らしながら、拳を握って振り回した。
「おらン村ぁ、よくも、よくも、すっちゃかめっちゃかに、してくれただなぁ、おめえらぁあああ!」
 叫びながら、トロルはわき目も振らず、村の方に突っ込んでいった。その巨体からは想像もつかない速さだ。
「もう、もう何もさせねえ。ぶっ潰してやるだぁあああ!」
 大地を踏むたびに響く音が、オーガたちにその襲来を知らせた。灰色の群れが彼の方に向く。
 トロルが大声を上げながら暴れ回る。オーガが次々と悲鳴を上げる。だが、倒しても倒しても、オーガは続々と湧いて出てくる。オーガの爪や牙がトロルに食い込み、皮を破って肉をむしった。インプの目には、トロルが血を流しているのが見えていた。
「おい、あんた加勢に行かないのか?」
 ブロリオンに早口で問う。リンゴの木ももどかしげに体を揺すっていたが、絞り出すように声を発した。
「わしは、巨大になりすぎた……動きたくとも、動けん」
 言うなり、リンゴの木の枝が、トゥット=ジッドの視界を覆った。インプは驚いて抗議の声を上げた。が、リンゴの木はそのまま動かなかった。
 トロルの喘ぐような叫びがこだました。
「出てけぇ、出てけぇ、おらン村だぁ!」
 インプは必死にリンゴの枝をかき分けようとしたが、できなかった。どころか、リンゴの枝葉は次第にインプを締め付け、閉じ込めようとしていた。
「おい、どういうつもりだ、なんで俺様を!」
 オーガの群れが怯えたような声を上げ、そしてそれは悲鳴に変わった。次第にそれも遠くなって、消えていった。
 しばらく、全ての音が消えていた。
 巨大な振動が大地を揺らし、村人たちの悲鳴が聞こえた。
 またも訪れた静寂の中、女や子供がすすり泣き、悲嘆に暮れる声が聞こえはじめた。
 トゥット=ジッドは放心したように動きを止め、ただその音を聞いていた。

誰も来ない丘の上

 トゥット=ジッドが時の流れを知るすべは、リンゴの枝葉の隙間から洩れてくる光だけであった。リンゴの花は全て散り、青い実が大きくなりつつあった。
 インプは閉じ込められたまま、外を見ることも許されなかった。退屈で気が狂いそうだった。ブロリオンは話し相手になってくれてはいたが、いつもぼんやりとしており、まともなお喋りを楽しむことはできなかった。
 ペベルマーグは、まだ帰ってこない。
 人間たちは、トロルのいない丘に登ってくる気はないらしい。村を復興する音は丘にも届く。だが、それは遠い音であった。
 トゥット=ジッドは低い声で言った。
「なあ、もうやめろって。帰ってこねーよ」
 ブロリオンは応えない。インプは毎日のように同じ言葉を投げていたが、それでリンゴの木に変化があるわけでもないようだった。それでも他にやることがないので、インプは辛抱強くそれを続けるしかなかった。
「なあ、俺様、もうあんな村興味ないんだから、逃がせって」
「ペベルが戻ってきたら、お前を探すだろう」
 平坦な声で返すブロリオンに、インプはもう言うべき言葉を失くしつつあった。
 リンゴの実が次第に大きくなり、色づいていく。甘い香が漂い始める。インプはそれに閉口した。だが、リンゴに包まれているにしては、その香は迫ることがなく、実もつややかでなく、みずみずしさに欠けていた。赤と言うよりは、赤と白のまだらのような色である。
 暑い季節はとうに過ぎ去って、今は寒さが強くなってくる頃だった。リンゴの葉も色を変えている。そう遠くないうちに落ちてしまうだろう。そうすれば、寒さに耐えることが難しくなる。インプはそのことで散々ブロリオンに文句を言ったが、彼の返事はいつも決まっていた。
「ペベルが戻ったら、何かしら考えてくれるだろう」
 揺らぎのない口調で言われてしまうと、トゥット=ジッドはそれで納得するしかない。腑に落ちないことではあったが、それでも待つ以外に、彼にできることはなかった。
 トゥット=ジッドは、漂うリンゴの芳香に鼻をひくつかせた。怪訝な顔をする。目の前にぶら下がる一つをもいで、鼻に押し付ける。
 見た目にはお世辞にも美味しそうとは言えないのにも関わらず、トゥット=ジッドはそのリンゴに釘づけになった。
 インプは舌舐めずりをした。涎が湧いて、慌てて手の甲で拭う。喉を鳴らして唾を呑む。だがその表情はなぜか、驚愕と困惑を露わにしていた。
「こりゃあ、なんだ?」
 恐る恐る、トゥット=ジッドはリンゴを口元に持っていった。少しためらい、思い切ってかぶりつく。
 トゥット=ジッドの目に、唐突に涙が溢れた。
「うめえ……うめえや」
 リンゴの実を貪りながら、インプは細く揺れる情けない声を出した。
「なんで、なんでこんなにうめえんだよ、なんで」
 噛んだ音は硬く、中身は水分が抜けたようにざらついていて、溢れる果汁もほとんどない。
「俺様、俺様はな、おい、人間を食ってきた。とことんまで追い詰められた人間の味は、最高だった」
 ブロリオンの枝を、弱々しく平手で打つ。
「わかるか、おい、絶望だ、絶望。それが俺様の大好物だ、なあ……なあ」
 ひん曲がった鼻に大粒の涙が伝って、リンゴの枝に落ちた。
「てめえのリンゴは、なんでこんなに旨いんだよ……」
 ブロリオンは答えなかった。ただ、ゆっくりと枝が緩んで、インプの体から離れた。

そして続きが始まる

 解放されたというのに、トゥット=ジッドは逃げるでもなく、リンゴの枝の上に陣取っていた。ブロリオンは何も喋らなかったし、トゥット=ジッドも何も言わなかった。ただ彼らは、村が復興する様子を、遠目で眺めていた。リンゴの実はすっかり赤く染まり、傷んで落ちるものも出始めた。リンゴの葉もだいぶ色づき、散っている。
 と、人間の匂いを感じて、インプはそちらに目を凝らした。丘を登ってくる影がある。小さな二つの姿だ。トゥット=ジッドはブロリオンに枝を寄せさせて、身を隠した。
 幼い足に丘の道は厳しかったのか、大きく息をしている。どうやら、小さな兄と妹のようだった。つんのめった妹を兄が慌てて支えようとし、一緒になって転んでしまう。泣き出しそうになるが、兄は歯を食いしばり、必死の形相で耐える。そして妹を引っ張り起こし、服の汚れをはたいてやる。妹も泣かず、健気に笑顔を浮かべる。そしてまた、短い手足を振りながら、顔を赤くして坂を登る。
 トゥット=ジッドは目を細めてそれを見ていた。枝の間から顔を出し、兄妹を見下ろす。
 妹がキャッと悲鳴を上げて、慌てて兄の背後に隠れた。兄は小さな握り拳を、インプに向かって脅すように振り上げた。
「だ、だいじょうぶだ。にいちゃんが、まもってやる」
 小さな妹は兄の言葉に頷いて、少しだけ顔を出してインプを睨みつけた。
 インプは目玉を一回転させ、茶色の歯を見せて、恐ろしげに笑って見せた。兄妹が悲鳴を上げて震える。トゥット=ジッドは大口を開けて下品に笑った。
「よーお、ちび共。何しに来たよ、え?」
 兄妹は恐怖に目を開いて彼を見つめていた。が、やがて意を決したように、兄が一歩踏み出した。
「り……リンゴたべると、元気になるって、ほんとうですか?」
 インプは拍子抜けしたような顔になった。が、すぐに傷んだリンゴを一つもいで、それを指さした。
「これを取りに来たってか?」
 兄と妹が同時に頷く。インプは少し考えて、食べ頃のリンゴを二つ探してもいだ。身軽な動作で木から飛び降りる。まるで木の葉が落ちるように、軽く着地する。
 兄妹は身を強張らせた。インプはリンゴを一つ、兄に放ってやった。兄は慌てて両手を伸ばし、すんでのところでリンゴを抱きとめた。兄はそれを注意深く観察してから、妹に手渡した。妹は怖々それを受け取った。インプはそれを見届けると、声をかけてもう一つ放った。兄は、こんどは両手で包み込むようにして、ちゃんとリンゴを受け止めた。
 兄妹は顔を見合わせると、思い切ったように、一口かじった。すぐに吐き出す。妹が恐さを忘れたように大声を上げた。
「これ、おいしくない!」
 トゥット=ジッドは芝居がかった様子で、自分の額を叩いた。
「あれぇ、そりゃおかしいな。俺様には極上の味がするってのに」
 妹が頬を膨らませ、唇を尖らせてインプを睨みつける。インプはまたゲラゲラと下品に笑った。妹はむきになって、兄の背中から飛び出そうとした。
「ママも、おばさんも、きっとおいしくないっていうもん!」
 インプは笑うのをやめ、兄の方に視線を向けた。兄は妹が飛び出さないように押さえていた。インプに視線を向けられているのを感じたのか、おどおどと目を泳がせる。
「ずっと前だけど、トロルのおじちゃん、とっても強くて元気なの、リンゴのおかげって言ってたんだ。だから」
 トゥット=ジッドは口角を上げ、意地の悪い顔をした。大きく胸を逸らせ、爪を見せつけるように手を突き出す。
「ほほう、それで、俺様がいると知ってて、ここに来たのか。危ないってママに怒られるぞ?」
「だって、ママ怒らないんだもん。一日中、なにもしないんだよ。めそめそしてばっかり。だから、おいしいリンゴちょうだい」
 すっかり恐怖心を失くしてしまったのか、妹が無邪気な顔で手を伸ばした。兄は妹をたしなめるように下がらせて、頭を下げた。
「元気になるリンゴ、ください」
 トゥット=ジッドは目を細めて兄妹を見つめた。リンゴの木に横目で視線を送り、幹を蹴飛ばす。
「だってよ、ジジイ」
 兄妹が不思議そうな顔で、インプを見つめる。彼は木の上に跳び上がって、枝の上に陣取った。
「ブロリオンじいさんのリンゴは、今年は全部そんなもんだ」
 兄は悲しげに顔を歪め、妹は納得できないというように足を踏み鳴らした。
 風もないのにリンゴの木が揺れた。兄妹が驚いて声を上げる。
 控えめで穏やかな声と共に、幹にあったこぶが割れて、目が現れた。
「すまんね、子どもたち」
 目玉にひるんだのか、兄妹は怯えた顔で抱き合った。けれども兄が、妹を庇うようにして、大股で前に出た。
「あの、じゃあ、来年はきっと、おいしいリンゴください」
 妹がすかさず元気な声で付け加えた。
「約束だよ!」
 リンゴの木は驚いたようにまばたきをした。そのまま動かなくなる。兄妹が心配そうな顔でそれを見つめる。
 トゥット=ジッドが呆れ顔でため息を吐き、平手でリンゴの枝を叩いた。ブロリオンは我に返ると、優しい声で言った。
「次は、きっと、うんと美味しいのを、うんとたくさん実らせよう。約束するよ」
 子どもたちの顔がぱっと明るくなった。手を取り合い、跳ねまわって喜ぶ。弾けるような笑顔だ。
 トゥット=ジッドは片目を閉じて横になり、興味のないふりをしながら、兄妹たちがはしゃぐのを見守った。
 村の方から、昼休みを告げる鐘の音が聞こえた。幾人かの村人が、こちらに向かってくる。手には畑仕事の道具、それに、ソーセージやパンを詰めた編みかごを持っている。
 はしゃいでいた兄妹が、向かってくる人々に気づいて手を振ると、向こうも親しげに手を振り返す。
 二度と戻ってこなかったはずの光景が、それでも確かに大切なものの欠けてしまった、新しい日常が、トゥット=ジッドの金の目に映った。

妖精の丘

妖精といえば、もしかしたら、可愛らしいものばかりを想像するかもしれません。
しかし実は、妖精とは日本でいう妖怪のようなもので、非常に危険な連中です。
人間とは全く違う世界、全く違う価値観を生きているのです。

本当ならば人間とは相容れない彼らですが、それでもやはり、できることなら、親しくなりたいものですよね。
そんな想いを、形にしてみました。

妖精の丘

絶望を食らう残忍なインプが、気の良いトロルに捕まえられて、リンゴの木の上に囚われる。 丘のてっぺんに立つリンゴの木の上で、動けなくなったインプが見つめるのは、妖精でありながら人間を守ろうとする、妖精なのに人間を愛する、心優しいトロルの姿。 トロルと人間たちが少しずつ歩み寄る姿を瞳に映して、インプは何を思うのだろうか。 そしてある時、決して誰も望まなかった変化が、彼らを襲うことになる。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-07-27

CC BY
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CC BY
  1. 小鬼は捕まった
  2. 巨人と人間、丘の上
  3. リンゴの樹は語る
  4. 人間も、そして小鬼も
  5. 幸福だったはずの夜に
  6. 誰も来ない丘の上
  7. そして続きが始まる