稀有な同情


地面に寝転ぶカラスを見つけた。
それは、部活でしごかれ疲れきった身体で自転車を漕いでいた私が
家路に向かう最中のことだった。

彼は歩道のすぐそば、道路と色の違うコンクリートの部分に落ちていた。
右翼の羽毛の向きがバラバラになって、中から毛色の違う柔らかそうな短毛が覗いている。暗闇の中で、真っ黒のカラスをよく観察してみると、毛の部分が、血に濡れていた。

「けが、したん」
カラスは答えない。
もしかして、死んでいるのか、と思ったが、ピクピクと足が動いたことで、まだ命が在ることを知る。
とはいえ、このままの姿でここにいたら、いずれは怪我でか、飢えてか、車に轢かれるかで死ぬことになるだろう。
「あんたさ、飛べんの?」
カラスは答えない。
生きてはいるけれど、三つに枝分かれした(あしゆび)をゆっくり折り曲げるだけで、嘴は閉じたまま沈黙を続けている。
いつ、怪我したんだろう。昼間かな
飛べなくなって、最初は暴れてたけど元気をなくして、でも飛びたくて、足を頑張って動かしてるのかもしれないな。

「あんたさ、生きたい?」
カァ、ようやくカラスは答えた。
カラスなのに、蚊のなくような声で。

私は、自転車の籠に置いたスクールカバンを漁った。
そして中から、くしゃくしゃのビニール袋に包まれた、食べかけのジャムパンを取り出す。
「おい、ほら、食べやあよ」
私は、照りのついた、美味しそうなジャムパンの表面の生地を千切って、カラスの口元に持っていってやった。
けれどカラスは、嘴を開かない。
ふと、足を見た。
先ほど、弱々しく握りこぶしを作っていた(あしゆび)はもみじの形のまま、固まっていた。

「死んだんか」
「生きたいって言っとったくせに」
カラスは、答えない。

千切ったジャムパンのカケラを、動物からただの物になってしまったカラスのそばに、置いた。
それから家に向かおうと自転車のペダルに足をかけたが、すぐにやめて、ビニール袋に入った食べかけのジャムパンを丸ごとカラスにやった。
私は、カラスなんかに同情していた。


次の日の朝、私はその道を、今度は学校に向かって自転車を漕いでいた。
冷たいコンクリートの上に倒れたカラスは、暗闇の中でよりもよく見えた。
思ったほど、傷が大きく、昨日の夕闇で死を迎えたカラスの死体にはハエがたかって臭いもきつくなっていた。
もちろん誰も、寄り付かなかった。
登校中の小学生が度胸試しと、枝で突ついてすぐ去った。
登校中の中学生が、気持ち悪いと二人で笑ってすぐ去った。
サラリーマンも、一瞥くれると不快な顔してすぐ去った。
私は、遅刻も御構い無しに、その光景を長い間眺めていた。
すると、一人、薄汚いホームレスらしき白ひげを蓄えた猫背の男がカラスに近寄る。
私は、期待していた。
最後まで生きたいと願った、カァと弱々しく鳴いた、あのカラスを人間たちの好奇の、嫌悪の目から救ってやることを。

ホームレスは、カラスのそばで、しゃがんだ。
そして、すぐに立ち上がる。
その手には、冬の夜の寒さで固くなった食べかけのジャムパンがあった。

私は、そうだよな、カラスなんてどうでもいいよな、と落胆した。自転車のペダルに置いた足を回して、カラスを通り過ぎた。
カラスと、ホームレスの横を、息を止めて素早く抜き去った。
無我夢中で自転車を漕いだ。前を歩く通行人をどんどん抜かして行った。

自分だって、同じだ。
ただ、昨日、偶然死ぬ場面に遭遇しただけだ。
私だって、あいつらと同じだ。
私だって、昨日、会わなければ
きっと、大勢でいれば、ふざけて突ついただろうし
友だちといれば気持ち悪いと笑いあった。
毎日、残業で嫌な思いをしながら会社に行くようになればきっと、私も。
考えながら、自転車を漕いだ。
私だってしないことを、他人に期待した。
ただ、死の寸前、カラスにジャムパンをやろうとしただけの私が、他人に期待した。
ただ立ち止まって、他人の様子を伺うだけの私が。

両手の親指以外の指でハンドルのブレーキを握る。
それまで激しく回っていた車輪が鋭い悲鳴をあげて、自転車は止まった。

「別に、カラスなんか」

そこで、言葉をつまらせた。続く言葉は、喉に引っかかったまま、出てくることはなかった。

目をつぶると、暗闇の中で横たわるカラスの姿が現れる。

私はハンドルを切って、自転車を通り過ぎた道の方へ向けて、ペダルを漕ぎ出した。


 

稀有な同情

稀有な同情

カラスなんてものに同情する人間はいない。 ゴミ袋をつつき漁る、迷惑な生き物の死に同情する人間なんて一人もいない。 この話の主人公である女子高生も、そうでした。 ですがある日、偶然カラスの死に際に立ち会ってしまったことで、彼女は自分の中にあったカラスというものに対して稀な感情を生み出してしまいます。 そしてその感情と葛藤しながら、彼女は一つの答えを見つけ出しました。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-26

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