蒲公英

蒲公英

私が二十一の頃。今と変わらず、碌に働きもせず、陰鬱な空気を身に纏い、かくして愛する男にまで裏切られた直後のことである。私があの男を愛しているという自覚はおぼろげであったが、それでいて尚、不可解な空虚感に襲われていた。私はその空洞を埋める為に友人であるお前の家に押し掛けたのだが、お前は私の突然の訪問に驚くこともなく、まるで当然のことのように受け入れてくれた。お前は私の話に耳を傾け、程よいタイミングで相槌を打ち、時には私の冷めた心をその胸元で温めてくれた。気がつくと私がお前の家に居座る形となっていて、私宛ての郵便物が家にまで届くようになっていたね。疑り深い性格の私にはそれがお前の偽善であって、刹那の幻想に過ぎないのだと思っていた。然し、お前が私に飽きることは一方になく、追い出すような真似を一度だってしてはくれなかった。私は安堵したものだよ。そして変わった。お前とふたりで風呂に入ることが度々あったが、いつしかそれができなくなった。風呂上りのお前が薄地のワンピースを着て腿を曝け出している姿を直視することができなくなった。水気が残る歯ブラシと私の心が共鳴し、お前の穏やかな寝顔に見とれ、そうしてかつて目の当たりにしたお前の裸体から想像を膨らましては罪の意識に苛まれる日々であった。

 私が二十二の頃。私たちの家に若い男が訪れた。彼は名も気品もある紳士であった。男がお前に好意を抱いていることは一目瞭然の事実であって、然しながら鈍いお前はそれを心得ていない様子である。男が私の存在を煩わしく思っているのは目に見えていたのだが、いつしかそれは好奇の目に代わり、やがては性欲を剥き出した屑物へと成り果てた。第一印象の面影などはもうどこにもなく、私にとってそれは下品な物でしかなくなっていた。
「彼ったらあなたにぞっこんよ。」
「下心が透けて見えて不快だよ。」
「それは仕方のないことよ。」
「どうしてさ。」
「だってあなたはかわいらしくて知的で立派な芸術家でいらっしゃるもの。」
「君がもし男なら、私に惚れてくれるかい。」
「ええ、私がもし男なら、きっとあなたに惚れちまいましてよ。」
 閑散とした田舎の夜はまるでこの世に私たちしか存在しないかのような錯覚に陥ることが多々あった。そして私はもとより我慢の利かない女であって、これでも存分に辛抱していたのであって――「ありがとう。」と言って我知らずにお前の頭を撫でてしまうと、どうしたものかお前のほうが照れるものだから、私はいっそうのこと、このまま二人で落ちるところまで落ちていこうと思う。けれどもそれから少し遅れてお前の泣き顔が脳裡を過ぎり、かくして世に埋め込まれた理性を取り戻す。私はお前を愛しているのではなく、お前の心と体が欲しいだけであった。それを知るとお前は泣くのだろうか――。私はお前から手を離し、宙を彷徨うそれで煙草を拾う。お前はその様子を不思議そうに見つめていたが、ふいと蒲公英のような声で笑った。

 私が女の体を味わいたいと思うのはお前が初めてのことであった。しかし思い返してみると、そうしたいと思える女がお前だけだったということもない。母性を感じたときに私の心は揺らぐのである。抜かりなく隅々まで愛でてやりたいという情念に駆られてしまうのである。それは棘のない女がいい。知的であれば尚のこといいであろう。私はそのような女たちに触れたいという衝動と、罪を共有させるという罪悪感の狭間で悶え苦しんでいるのであった。嗚呼、それでいて無情。絶望と隣り合わせのこの世の中で臆病な私は肩を窄めてどちらに転ぶこともなく、そして穏やかに狂っていった。繰り返すが、もとより我慢の利かない女である。推理小説を読むにしても最終頁から読み始める女である。安定は飽和であって、くすぶる心を治める術などを知る筈もない。自分が蒔いた種に苦しんでいてばかりの激動の中をひた走るモンスター。愛などいらん。私が望むのは絶対的服従。母性。――お母さん。
 その頃から私はお前が留守の隙を狙って男と女を連れ込むようになり、お前との間で新たに生まれた空虚感を埋めることに対して半ば自棄であった。それは私たちの家でなければならなかった。違っていては只々空しいだけであった。やがてお前は私の異変を察してすべての出来事を悟る。必ず来るであろうその時に私はこの家を出て行くつもりであった。そうして訪れたあの夜に、お前は残業で遅かったのだけれど、私の為にと云ってうまい飯を作り、食べ終えると皿洗いに取り掛かりはじめた。

「お客さんが来ていたのね。」

 その皿は今日の訪問者が使った物である。お前が小さな声で鼻歌を口ずさみながら再び皿を洗い出す姿を見て私は安堵する。私はお前に勘付いて欲しいのか、欲しくないのかさえもわからない。私は変化と安定を同時に求めるモンスター。まったくもってくだらないよ。私がテレビに目線を戻すと、お前が口ずさむ鼻歌のヴォリュームが更に小さくなり、はっと妙な胸騒ぎを覚えて振り返る。後姿のお前の肩は小刻みに震えていて――。鈍いのは私であった。お前はずっと前からそうしてさめざめと泣いていたのか。そうであれば私がお前にしてあげなければならないことはひとつであった。

それは、古びた扇風機が首を振って唸る夏の夜のことである。その夜の月は妙な力と光を放ち、灯りを消した部屋の中で互いの白すぎる肌をぼうっと浮かび上がらせていた。私たちは神妙な面持ちで向かい合い、互いの秘密を確かめ合う。いつまでもお前は落ち着きがなくて、そしていつにも増して雄弁であった。

「いつだってあなたの下心が透けて見えていたものだから、どうしたものか嬉しくって、宙にあなたを描いては恥ずかしくなって、私ったら、何度も々々々あなたをもみ消したことがございましてよ。」
「おいで。」
「だって、私ったら、あなたのことが――。」
「いいからこちらにおいでよ。」

 少ししてからお前が近づいてきて私の世はお前の香りで充満された。同じ石鹸を使っているのに私とお前では異なるそれが鼻を抜けて脳に達し、媚薬となって陶酔する。男を知らないお前に罪の意識などは微塵の欠片もなく、それは浅はかでいて母性であった。私のマリアよ――。それでいて私がお前を愛した事実はどこにもないが、あの時のお前が秀でて美しいものであると思い至った事実に狂いもない。小鳥のさえずり。ついばむような甘い口付け。お前はとてもかわいらしいよ。お前は私にとっていっとうのお気に入り。

然し、それは今朝のことであったな。お前は自らが犯した罪にいよいよ気がつき、ブレーキの利かなくなった心を恨み、私の目の前で大声を出して責めるように泣いてみせたのは。それを目の当たりにしたときの私の心は空虚であった。私の心とは内ではなくて外に存在している。野晒しにされた心はこの世のすべてと繋がりを持って存在している。お前が私の中に心を捜し求めても見つからないのはその為だ。――私の心は外にある。その繋がりを遮断することは容易いことではなかったが、不可能なことでもなかった。あの頃の私の心はお前を贔屓目に捉えるところがあったが、然しそれも今日で終いだ。私が言っていることがわかる者とわからぬ者は両極端で、わからぬ者にわからせようとすることは只々空しい。お前はわかる者ではなかったか。お前をいけなくしたのは私であったか。それならば去ろう、私のマリアよ。空虚を埋める為の人生に果てはない。己にだけ見えるもう一つの地球の姿を確立しようとしている詩人ほど、夢を見ない奴はいない。

私は今、抜け殻のように眠るお前の隣でこの文章を書いている。夢の中でまで泣くことはないではないか。お前には何一つ恥じることもない。あれはお前の断末魔。お前はお前の心の秘密を見つけて曝け出せ。世を疑え。流れに添うように身を任せるな。お前はお前であって、いつかの私でもあった。そして昔の恋人がしてくれたように、今から私はお前のことを裏切るよ。男は逃げ足の速くてずるい生き物だ。そして私が恋をしたのは小さな々々々蒲公英であった。いつかまたお前はそれを私に見せてくれるのだろうか。嗚呼、私はずるいよ。それでいてかまわないよ。失ってから気がつくばかりの人生だ。巨大なものを失うほどに空しさも巨大であった。そして失ったものが巨大であったことを何者かの声によって思い知らされる。目を閉じても耳を塞いでもその声はこの世のすべてと共鳴している。それを恋と呼ばずしてなんと呼ぼう。今にして私はお前が好きだった。そして私は呪われた十字架を首から提げて長すぎた休息に終止符を打つのである。お前の肩が震えはじめた。眠れ、友よ。この道はまだまだ続く。目的地などは誰も知る由もない。それでいてかまわないではないか。案ずることはない。お前が残した傷跡は、今でもちゃんと疼いている。

蒲公英

2012年に執筆したものです。

蒲公英

女性の身体のほうが美しいに決まっている。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-25

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