百円のグラス
あの日、私の手から零れ落ちたのはあなたのグラスで、それが足元に届くまでの一瞬のうちに掴みなおすことができまして。いいえ、できませんことよ。あれは仕方のないことでしたのよ。
でもね、私、あなたがとてもこわかったのよ。あれだけで身を知る雨をこらえましてよ。あなたは私をぶったりしないけれど、割れたグラスの破片を一欠けらずつ拾い集めていたわね、あぁ、黙々と、まるでそこに私なんていないかのように。あなたがとてもこわかったのよ――。我知らずに後退ると右足の踵に激痛が走りましたけれども、私はあなたの動きを真似て拾い集めることにしましたわ。赤色に染まったそれだけはだれの目にも届かぬよう、ちゃんと遠くに埋めましてよ。そう、まるでそこに私なんていないかのようにちゃんとちゃんと努めましてよ。
あなた、拾い終えると私の頭を優しく々々々撫でてくださいましてよ。それでもだめでしたのね。私の手から零れ落ちたのはあなた。あなたでございました。そしてそれが足元に届くまでの一瞬のうちにそれを掴みなおすことができまして。いいえ、できませんことよ。これは仕方のないことでしたのよ。
了
百円のグラス
2012年に執筆したものです。