あやかしだらけな縁 プロローグ~14章

 まだ未完結です。だらだらした文で読みにくいかもですが、何か伝わるものがあればうれしいです。
 そして、まだまだ続きます。

怖さから生まれる強さがどう転じるか、わからなくともそれと向き合えるならそれは勇気だ――

~プロローグ~

 11月に魅力を感じるのはなぜだろう。10月にはハロウィン、12月にはクリスマスがある。それでも私は11月のほうが何倍も好きだ。

 2年前の11月のある日、何をしていたのだっけ。あまり鮮明には覚えていないけれど、私は上機嫌で街を歩いていたと思う。上機嫌だったのは骨董市でいいものを見つけたからだった。きれいな碗で、闇より深い黒地に白や金色や朱色で美しく描かれた花鳥風月に獣。人もいれば人外の、動物にも見えないような姿のものまでいる。描かれている絵の一つ一つは恐ろしいものや、陰鬱な雰囲気のものもある。それでもシンプルな黒地には珍しい、賑やかさ、華やかしさが碗全体の印象だった。どこか引き込まれる魅力的な碗だった。
 私はその碗に一目惚れをしてしまい、気付いた時にはレジに並んでいた。

 「お姉さん、そのお碗どこで買ったの?」
 碗を買った後、商店街を冷やかしながらぶらぶらと街を歩いていると、突然声を掛けられた。甲高くて無邪気で幼い声。
 「ん?これ?」
 私は目の前に不意に現れた少女の背に合わせるように屈んで聞き返した。
 「うん。それ。」
 私はこの時、この少女の周囲に漂う違和感に気付くべきだった。しかし、私はなにしろとても上機嫌だったのだ。もちろん気付くどころか心ここに非ずといった顔をしていたことだろう。
 「で、どこで買ったの?」
 少女は少しむっとして、急かすように言った。少し不躾な子だ。
 「・・・骨董市だよ。この道下ったあたりの。まだやってると思うけど。」
 「・・・じゃあさ、そこにまだ似たようなのあるよね、きっと。」
 これのようなものが欲しいのだろうか。私はしばし考え込んだ。確かに面白い骨董は沢山あったが、これほど美しく、愉快で素晴らしいものはそう見つからないだろう。
 すると、少女が手をついと前に出して言った。
 「それ、売ってくれない?」
 私はしばらく呆けてしまった。それから目を瞬かせつつ口を開いた。
 「あの…骨董市にはまだ…いろいろ残っているかと…。」
 「そう。だから、お姉さんはそれ売って、また新しいの買えばいいでしょ?」
 なんて図々しい。子供に対して初めてそう思った。高飛車な物言いもそうだが、なんでも自分の思い通りになる、そうと信じて疑わない、そこから溢れる自信。
 「…なんで?」
 「……」
 少女が無言を返す。よくよく見れば顔に迷いが浮かんでいる。散々言いたいことを言っておいて、急にどうしたのだろう。
 「それ、何か知ってるの?」
 少女が徐に口を開いた。
 はっとして私は少女に話し掛けかけていた口をつぐむ。少女の「それ」という言葉にはなにか不安になるような響きがあった。
 「…陶器のお碗でしょう。」
 私は不思議な動揺を押し隠して冷静に言った。そんな私を少女は無言で見ていた。

 ―パン

 空を切るような無音の後に何かを弾くような、叩くような、落とすような…そのすべてを混ぜたような、それにしてはあまりに静かで単純な音が響いた。
 「…なんてこと…」
 自分で発したとも思えないような弱々しい声が口をついた。目の前に碗が落ちている。―割れもせずに。
 「見てわからない?」
 少女はやはり無表情のまま言う。
 「これ、依代だよ。」
 「・・・ヨリシロ?」
 私は言葉の意味が分かっても、現状は理解できなかった。
 少女がどうやって木箱に入った、しかも私の持つ手提げの中にあった碗を取出し、思い切り道に叩きつけたのか。
 少女はなぜ、私が碗を持っていると知ったのか。
 なぜ・・・なぜ碗は割れないのか。
 「これを封じたのがだれかもうわからないけれど、私はこれを解かなきゃいけない。もう―」
 少女は何か言い淀んで、俯いた。私はよく回らない頭で「解く」とは「壊す」ということだろうか、と考えていた。そんなのは御免だ。

 「もう―…一人は嫌だから。」

 少女が小さい声で、それでもはっきりと言った。
 「…え?」
 聞き返すより早く少女は碗を拾ってまた道に投げつけた。
 「なにを!?」

 ―カタン…コトン、ガンッ、ゴンッ、バシンッ

 私の声をかき消すほどの音が響き渡り、周囲の人の目が集まる。どうしていいか分からず、私は「やめなさい」と力なく繰り返していたような気がする。

 ―ガゴンッ
 少女は無表情で続ける。拾うたびに投げる強さが増す。その時、私はこの少女の心が見目よりずっと幼いのだと悟った。
 「―…今何歳?」
 私は静かに少女に問うた。
 「九十八くらい」
 普通なら呆れるのかもしれない。目の前の少女は十か、見えてもせいぜい十四がいいところだろう。けれど、私の表情は和んだ。
 「そっか。」
 ニッコリとする私を少女は怪しむように見た。


 ―つっ

 空気が割れる音と共に陶器の割れる騒々しい音が響いた。

 ―ガチャンッ

 私の投げつけた碗は見事に真っ二つになっていた。

 少女はしばらく呆気にとられて割れた碗を見ていたが、それからゆっくり顔を上げて私を見た。
 「お姉ちゃん・・・誰・・・?」
 子供らしい言葉遣いで聞いてくる少女の目には怯えが見えた。
 「私は…ちょっとお化けっぽい人だよ。」

 この言葉に嘘はない。普通の人には見えない者が見えて、声が聞こえて、理解できる。幼い頃は理解できてもどうしようもなく怖かった。「見えない者」は人のようで、どこか違った。目があるはずのところに深い闇が広がっていて、怒っていても、笑っていても口の形が奇妙に変わるだけ。無表情なのだ。

 母は優しく、切ない目で自分を見る。友人には、話しても理解されない。でも、自分には彼らが何をしたくて、どんな気持ちでいるのか解かるのだ。

 ――だから私は彼らに近い人なのだ。普通の人とは違うのだ。それはとても寂しいことだと気付いた頃には私は見えない檻の中でたった独りでないていた。

 彼らがお化けだと、霊だと知ったのは物心ついた頃だった。


第一章

 私は当時、祖母の家に居た。母が離婚して、実家に戻り、私たちは祖母と母と私の女三人で暮らしていた。
 祖母の家は田舎で、築八十年の一軒家だった。薄暗くて、母は本当は嫌いだったらしい。
 そして、ここにも彼らが居た。「見えない者」。
 引っ越して最初の夜。
 私は怖くて怖くて、夜は布団を頭からかぶって縮こまるように寝ていた。
 その時、布団の外から声が聞こえた、否、さめざめと泣く声が。
 私は怖かったけれど、泣いている声が自分よりも二つくらい幼い女の子だとわかったから気になった。
 「…どうしたの?」
 そんなつもりはなかったのに、気が付くと本当に小さく、声を掛けていた。
 「・・・え」
 幼い声がびっくりしたように言った。どうやら人がいることに気が付かなっかったらしい。
 「どうしてここに居るの?」
 悪い子ではない。直感でそう思い、私は優しく聞いた。
 「…れ…、あ…れ?なんで…だろう…」
 女の子は困ったように黙り込んでしまう。私はなんとなく、この子が危うい状態なような気がして、布団から顔を出し、この子にもっといろいろ尋ねようと決意した。
 「お名前は?どこから来たの?」
 そう聞こうとして顔を出しかけ、私は昏倒した。
 
 翌朝、私は女の子のことから昏倒したことまですっかり忘れていたのだった。

 それからの数ヶ月は怒涛のような日々だった。田舎の駅には電車が一時間に一本だし、学校は三学期の後半で妙な結束力の中に馴染めない。それどころか、十にもなっていないのに苦労のせいか妙に大人っぽい性格に育った私はいじめの標的にもなった。
 その頃には「見えない者」はあまり気にならなくなっていた。彼らも私を気にしない。話しかけてもこないし、最近では見かけることも減っていた。

 なのに――
 その夜はさめざめと泣く声が聞こえた。小学2年生の私は動じない。害意のない者たちだとわかっていたからだ。彼らは実体がない以上、危害を加えることはできない。けれど、聞こえてくる泣き声は本当に切ない幼子のもの。
 「どうして泣いているの?」
 私は真っ暗な自分の部屋にしている和室をゆっくりと見回した。まだ闇に慣れきらない目は何も捉えない。
 「…うっ、うっ…うっ……か……た……」
 しゃくりあげながら何かを呟く声が聞こえる。
 「ん?」
 「か……かえ…うっ…り…たぃ…うっ…」
 女の子はつっかえながら一生懸命に言った。それが健気で――どこか見覚えがあった。私はこの子のために何かしよう、と決心した。
 「大丈夫だよ。私がなんとかしてあげるから。」
 根拠のない自信を感じながら言い切る。
 「お名前は?おうちはどこ?」
 闇に語りかける。
 「…わか…」
 女の子はそれきり沈黙してしまう。「わか」が名前なのだろうか。
 「わかちゃん。どうしてここに?」
 「…………」
 女の子は答えない。弱り果てていた、その時だった。

 「それは『わか』じゃなくて『わからない』と口走ったんだ。」

 闇の端から声がした。いくら慣れたとはいえ、最近はないことだった上に低い男の声だったので咄嗟に私は布団に潜り込んだ。
 「…悪かった。怖がらせるつもりでは…」
 男が小さな声で弁解をする。その弱々しい声には優しさが含まれていた。私はどこか拍子抜けして、おずおずと顔を出す。

 ――そこに広がる光景は昔私を昏倒させたものと寸分違わなかった。

 私はあの時のことを突然思い出す。

 ――付喪神の賑やかな酒盛り。小ぶりのお猪口を大儀そうに持ち上げて嬉しそうに飲んでいる。その横で狛犬が追いかけっこをし、狐が狐火の投げ合いをする。そのさらに横では――

 部屋全体がほんのりと光を放ち、割と広いはずなのに妖怪で溢れかえっていて狭く感じる。

 あまりの出来事にベッドから飛び起きた。
 「…な…な…」
 「なに」と言おうとして、ふと押し黙る。さっき話していたのは誰なんだろうか。
 「我だが。」
 「ぅわぁっ」
 すぐ横から声がして思わず布団を握り締める。
 「す、すまん。」
 二度目のことなので声はどこか上ずっている。意外に小心なのか。
 「あの、」
 私はどうしても聞いておかねばならないことを思い出した。
 「なにか?」
 私は口ごもり、しばし逡巡する。聞きづらいことだ。しかし、確かめねば。
 「ひとつ聞きたいんだけど…全体的にあなたは怖い妖怪?」
 「………うーむ…」
 困っている、確実に困っている。私は早くも後悔し始めた。今のところ目の前に広がる光景に恐怖はない。このまま横を向いて怖い思いをする可能性は無に等しいではないか。そんな思いは届かず、気まずい空気が流れる。
 「怖いと言われたこともある。」
 どこか含むような答えが帰ってきた。
 「…え?」
 不思議に思って聞き返す。
 「笑いながら言ったから信憑性はないということだ。我はあまり人とは会わんからな。」
 懐かしむような声音。だが、どこか辛そうな声に釣られて私は横を向いた。
 見目は人そのものだった。
 「……怖くないですね。」
 おそらく十五くらいの、年上の少年らしい見目だったので私はつい敬語になった。
 「そう言っていられるのは今のうちだけだ。」
 「……」
 今度は私が困ってしまう。苦虫を噛み潰したような顔で言う少年にどんな言葉をかければいいのだろうか。
 それにしても、霊はともかく、妖怪も普通の人には見えないのだろうか。それに、なぜ私の部屋に集まっているのだろう。意外とよくある普通の光景なのか。
 「いや、お前があの女童に興味を示したからだろう。」
 少年が出し抜けに言った。
 「えっ!?…私、何か言いましたか」
 「あ、いや…」
 言いにくそうな顔で少年が口ごもる。
 「…もう驚き尽くしたので、別に何言われても理不尽に怖がったりしませんよ。」
 私はなんとなく呟いた。少年が少し目を見張ってから「くっくっ」と笑った。
 「たしかにそうだろうなぁ。」
 「半分はあなたのせいです。」
 私はすかさず言った。
 「そうだったか。それは悪い。」
 そう言ってまた笑う。今まで気が付かなかったが笑っていない時は常に緊迫感を漂わせているような気がした。

 「…うっ…うぅ…ね…ちゃ…」
 ハッとして後ろを振り向くと、ベッドと壁の間の人一人分ほどの隙間にうずくまる影があった。
 「泣いていたのはあなた?」
 驚かさないように覗き込みながらゆっくりと尋ねる。
 「……」
 「何にも覚えてない?」
 「う、ん…」
 それではどうにもならない。そもそも彼女は何が目的でこの世に留まっているのだろうか。人の死後のことまではわからないが、何かに固執していなければ現世に残れはしないだろう。ただそこにいるだけ。それは本当に悲しい。それでも現世に残りたい程の深い念。
 「『お姉ちゃんを励ましたい。』ではないか。」
 少年がぼそりと言った。
 「おねえちゃん?…え、なんでわかるんですか。」
 「……いや、なんとなく……」
 「…おねえちゃん…うぅっ…おねえ…ちゃん…うっぐ…だい…じょ…ぶ…」
 女の子はひたすらに泣いている。膝を抱え込み、うずくまる姿が痛々しい。何もできない自分が悔しくなって歯噛みしていると、女の子の身体が透け、それとともに発光し始めた。淡い橙色は優しく儚い。あぁ、この子の情念はこんなにあったかいんだなぁ。と思っていたらパッと光が強くなり、目を細めた一瞬で女の子は消えていた。
 「…あ、れ?」
 「母のもとに戻ったんだろう。」
 少年が静かに話し始める。
 「あの霊は時を同じくして亡くなった母と、一人残った姉の狭間で揺れている。母も姉も苦悩しているからな。母は少女よりも天に近い場所で姉を見守る決意をしたが、姉は毎日部屋にこもって泣いている。少女は姉に寄り添って励ましたいのだろうが。このままでは病にかかって死ぬやもしれんし。」
 「そんな…」
 きっと女の子は「おねえちゃん、大丈夫?」と問いたかったのだろう。
 「お父さんは…」
 ふと、父親の存在が出てこないことに気が付いて尋ねる。
 「ん?…あぁ、少女がもっと幼い頃に離婚したようだ。」
 父の面影。彼女は覚えているのだろうか。幼稚園の頃、母は「もうお父さんはね、帰ってこないの。私たちもここを離れるのよ。」と泣きながら笑って話した。母のその顔は鮮明に覚えている。

 そんなことを考えながら私の意識は闇の中に溶け込んでいく。そういえば、少年に名を尋ねていない。「人に聞くときはまず自分から。」そう言って諭した父の声をふと思い出した。

 「…やなぎ…っていい、ます…。あ…なたの名…は…」
 多分もう会わないのだろうから今聞かなければ。そんな気がした。少年は少し目を見開き、一瞬、苦々しい記憶を思い出したように顔を歪めたが、すぐに笑って名乗った。
 「櫻花…という。」
 栁はふふっ、と笑って半分眠りながら呟いた。
 「…オウカ…女の子みたいな名前。どんな字を書くのか、今度教えてください…」

 その日は眠りがとても深くかったため、柳はどんな夢を見たのか覚えていなかった。だが、最後に見た櫻花の悲しそうな遠い目が朝まで頭から離れなかった。人にも妖怪にも霊にも、誰にでも痛みを伴って自分を動かす記憶があるものだ。櫻花の記憶は遠く古いものかもしれない。それでも、柳よりも泣いていた少女よりも鋭い、苦しい痛みを孕んでいるのかもしれない。
 柳にとって、一番痛い記憶は母の泣き笑いであり、学校の机の中に本当に小さな虫の死骸が入っていたことであり。少女にとっては姉の今の姿だろうか、死んだ瞬間でもあるだろうか。
 存在するものは本当に何度も痛みを経験し、蓄積し、思い出し。
 そうやって自分に与えられた時を過ごしていく。



第二章


 「おはよう。」
 柳は誰もいない教室に向かって呟いた。転入してからもう一年が経つ。2月に転入して、1週間程で孤立してしまった柳は毎朝誰もいない時間に登校し、ホームルーム直前まで図書室にいる。誰にも会わずにいられるのは図書室ぐらいなもので、柳は図書委員以上にここの常連だ。ここの図書室には小中高一貫なだけあって小学校とは思えないような蔵書が多い。蔵書自体の数も多く、柳が飽きることはなかった。初めのうちは小学二年生らしく児童文庫や絵本を読んでいたが、案外児童書は少なく、柳はすぐに読み切ってしまった。ただし、柳に自覚はないが、柳の読書速度は大人を軽く凌駕している。これはこの頃の柳の唯一の特技とも言えた。

 ――………、… …

 静寂。図書室には長机が三列に、奥の方に一人用の机が数個。本棚はゆうに五十を超えている。毎朝、柳は入口から一番遠い一人用の机を指定席さながらに陣取り、黙々と本を読んでいる。

 ――‥‥‥‥‥‥‥。
 ――‥‥‥‥‥‥‥‥‥。

 アガサ・クリスティーはポアロやミス・マープル、トミーとタペンスなんかが有名だが、柳のお気に入りは『ゼロ時間へ』だ。シリーズものも面白いのだが、この時間を遡るように事件を解いていく様子が柳は好きだった。いくつも過去の話が出てきて、それが解決の糸口となるのだ。そして、精神的に追い詰められ、極限状態となった人の心理。
 何度読んでも毎回緊張してしまうこの一冊が柳はたまらなく好きだった。主人公の女性が追い詰められてもしっかりと立ち直った姿に憧れる。自分もこんなことで挫けてはいけない。この本だけでなく、それを何百という本が柳に教えてくれるのだ。
 ――パタン
 読み終わった『ゼロ時間へ』を閉じて、次の本へ手を伸ばす。柳の机には五冊ほどの本が積まれている。それらは初めて読むものだったり、数回目だったり、日課のように何度も読むものだったり。
 今手に取ったのは柳田國男の『遠野物語』。これは毎朝好きな話を選んで少しずつ読んでいる。これも十回は読んだ本で、実は私物だ。柳はそんなにお小遣いをもらっているわけではないが、気に入った本は自分のお金を貯めて買うようにしている。女三人の家計が火の車であるのもそうだが、他人に気兼ねなく読むには自分で買うのが一番なのだ。それに、色々我慢してやっと買えたいくつかの本はこの上なく愛おしい。
 柳にとって、遠野の妖怪達も、『ゼロ時間へ』のオードリーも、『秘密機関』のトミーとタペンスも、本そのものも大切な友人だ。辛い時は本を開く。眠れないときは本を抱いて目を瞑る。

 ――‥‥‥‥‥‥‥‥。
 ――‥ ‥‥‥‥‥ ‥‥‥‥‥の‥‥‥‥‥。

 なにか聞こえた気がして柳は顔を上げた。
 「…ぁ…あ、あのっ」
 「ひゃあっ」
 横に人が立っていたことにも気が付かなかった柳は思わず椅子ごと仰け反り――

 ――ガタンッ
 そのまま後ろへ転倒した。思わぬ事態に焦ったのは柳だけでなく目の前の少女もオロオロとしている。
 「何か御用でしょうか。」
 椅子を直しながら柳がそっけなく言う。目の前の少女とは違いすぐさま落ち着きを取り戻した柳は訝しげに彼女に視線を投げる。
 「わ、わたし、三年二組の笹原栞菜と申します。そっ、その…谷原さん、いつも熱心に本を読んでいるのですごいなぁと思ってるんです…」
 「はぁ。」
 柳がいまいち話の意図を掴み倦ねていると、栞菜がまた唐突に話し始める。
 「…その、何度も『遠野物語』を読んでいらっしゃるから妖怪好きなのかな…なんて…。私もそういうの好きで…その…」
 少女は瞳を右へ左へ彷徨わせている。と、唐突に言い放った。
 「…いろいろお話を聞かせてください!」
 言い放ったきり栞菜は顔を上げない。お話といっても柳は何をどう話せばいいのかわからないし、いきなり「分かりました」とも言えない。
 久しぶりに困惑した柳が何も言わないので栞菜は覚悟を決めたように口を開いた。
 「…それで…つまりですね、わ、わたしと友達になってください!お願いします!」
 柳が目を瞬かせる。初めて言われた。
 「友…ですか…」
 栞菜が眼鏡の奥の目を細めて微笑んだ。
 「…もしかして、時代小説がお好きですか。」
 栞菜は時代小説の魅力について別人のように語りだした。「とも」という言い方に反応したようだ。確かに、三年生の二月はといえばもう高学年と大差ない。それでも、ここまで饒舌に語れる小学生はそうそういないだろう。それほどだった。
 「カンナさんこそ、時代小説がお好きなのですね。」
 「そうなんです!あ、いや、私も少しならわかる程度で…」


 ――その日から、図書室で柳を見かけると栞菜は声を掛けるでもなく、横の机に座って本を読むようになった。柳が気付かないこともあったが、気付いてもお互い読書の邪魔をしないことが暗黙の了解になっていた。

 「私、妖怪ってほんとにいると思うんですよ。」
 知り合って一月経った頃、またもや図書室で柳の隣の席に座り、ひたすらに本を読んでいた栞菜が唐突に言った。
 「え?」
 その時栞菜が読んでいたのは鳥山石燕の『画図百鬼夜行』だった。
 「最近は妖怪とか陰陽道とかを扱った時代小説が増えてて、気になって調べてるんですけど…」
 姿こそ違うが、世界中で目撃されたり言い伝えられている人外のもの。それらには時折共通点が見受けられる。
 「特に、『霊』は万国共通って感じだし…」
 柳が少し青ざめる。彼女の能力は衰えることなく、今も健在なのだ。
 「…そうだね。」
 「でも、いくら考えたところで私に理解できる世界じゃないですしね。」
 「…うん。」
 「なんか、知れば知るほど遠くなる世界っていうか、きっと立ち位置が違うんですね。見える人たちと。」
 「…………」
 柳の異変を感じて栞菜が顔を覗き込む。とめどなく冷や汗が流れ、目の焦点が合っていない。
 「栁さん?」
 軽く肩を叩いてみても反応がなく、何かを必死で考えているようにも見えた。
 「どうしたの?…ねぇ…柳さん!」
 「え!」
 肩を揺さぶられて柳がぼんやりと栞菜の顔を見上げる。
 「あぁ、よかった。私が変な話をしたから柳さんが取り憑かれたかと思いました。」
 焦った時の栞菜は小学生らしい可愛らしい発想だ。
 「…やだなぁ、栞菜さん。ちょっと色々考え込んじゃったんです。ごめん。」

 ――私には見える。それを栞菜さんが知ったら。

 柳の脳裏に昔の思い出がよぎる。子供は時として大人より冷酷で無慈悲だ。無邪気なまでに。柳は見たままのことを言っているのに、それは正しくない。大人に間違っていると言われたら、子供は子供にも間違っていると言われるのだ。
 ――やっと、お友達ができたのに。
 先程の栞菜の怯え方が鮮明に柳の頭に浮かぶ。妖怪が好きであると同時に子供らしい恐怖もあるのだ。柳は普通の人より彼らに近い。それは栞菜の恐怖の対象に近いということに当たる。
 ――ばれちゃいけない。絶対に。
 この時、柳は栞菜にも誰にも自分の秘密を打ち明けないことを固く決意した。


 ―――会ってみたいな。
 栞菜は『画図百鬼夜行』を開く度にそう思う。どこか抜けた顔をした妖怪たちは愉快そうにみえて、説明にどんなことが書いてあっても憎めなかった。図書室にある妖怪の本は数十冊といったところだろうか。二月前、ちょうど柳と話をするようになった頃から栞菜は必死にそれらを読んでいた。時代小説ももちろん読んでいたが、それ以上に妖怪に憧れるようになっていた。
 ――もし、妖怪のお友達がいたらどんなだろう。
 妖怪は一体どんなところにいるのだろう。どこに行けば会えるのだろう。そんなことを考えながら栞菜は本を捲った。
 ――パラ
 たぬきがよっこらせと後ろ足で立っている。絵を見ながら妖怪が何を考えているのか、話しているのかを想像するのが栞菜は大好きだ。首を反らせて、まるで後ろの民家の塀の向こうにいる誰かに話しかけているようなたぬき。「今日はいい天気だなぁ。お前も出てこいよ。」そう言っているのかもしれない。そうすると塀の内にいるのは「こっから出ちゃあダメなんだ。」と悲しげな顔をした病がちの人間かもしれない。たぬきの後ろに描かれた民家には妖怪の友達がたくさんいる人が住んでいるのかもしれない。
 ――ペラ
 窮奇と書いてかまいたちと読むのは何故だろう。そういえば窮奇はきゅうきという読みで中国の妖怪の本に書いてあった気がする。全く違う妖怪だった。中国最古の地理書、『山海経』に二回は出てきていたような。
 『山海経』は五部作十八巻で、窮奇は「西山経」では犬のように鳴き、ハリネズミの毛をした人喰い牛、「海内北経」では翼のある人喰い虎。かまいたちときゅうきの共通点は山に住み、人を害するところだけだ。
 ―――山に行けば…
 山に行けば会えるかもしれない。栞菜の頭にふとそんな考えが過ぎった。山には山神様がいて、妖怪がいて、たぬきや狐が化かし合いをしながら宴を開いているかも。


第三章

 「谷原はいるかっ」
 昼食の時間。柳が唯一教室にいる時間だ。同じ組に友人はいないのでいつも一人で食べる。その後はやはり図書室へ行く。いつもならそれだけなのだが、今日は違った。
 「あの、私ですか?」
 四年生になり、クラス替えはあったものの、全ての同級生を把握しているわけではない。もちろん柳の知らない生徒もいた。しかし、柳がいじめられっ子であることは学年では周知の事実であり、それを分かっているからこそ柳は友人をつくろうなどとは考えていなかった。
 ましてやいきなり大声で呼ばれるなど天変地異の出来事だ。
 「あぁ、そう。おまえだ…」
 明らかに焦った様子の少年は柳に「ちょっと来い」と手招きをしている。柳は訝しみながらも手早く弁当箱を片付け、教室を出た。
 「なんでしょう?」
 「おまえ笹原栞菜と仲いいよな?」
 栞菜になにかあったのだろうか。嫌な考えが頭を過ぎる。
 「笹原 がどこにいるか知らないか?行きそうなところとかでも、なんでもいいんだ。」
 「行きそうなところですか…。なんで…」
 「……朝からずっと家にも学校にもいないって…」
 柳が大きく目を見開く。
 「いないって…そんなこと誰も…」
 「まだ行方不明って決まったわけじゃないし、無駄に混乱を招くようなことはしないんだよ。」
 それはつまり、教師や保護者やもしかしたら警察しか知らないということだ。それを言うと少年は教師の話を立ち聞きしたのだと言った。
 「…あなたは心当たりないんですか?」
 「俺は…」
 ハッとして少年は口を噤んだ。
 「山だ。」
 「山…ですか?」
 「あいつ、山に行ってみたいんだって…昨日言ってたかも。」
 「それじゃないですかっ」
 ――何をしに行ったのだろうか。
 山といってもたくさんあるし、この地域だって山に囲まれている。そして、山が危険なことは地元の人間なら百も承知しているはずだ。
 「なんで山になんか―」
 「あいつ、転入生だからこの辺のことそんなに知らないんだ。迷ってるかもっ」
 少年が柳を遮って青ざめる。
 少年は栞菜が転入生だと言った。どうりで柳と仲良くなろうなどと考えたわけだ。柳の評判を聞く前に声をかけてきたのだろう。優しい子だから承知した今でも付き合ってくれているのか。それとも気が弱いから自 分から縁を 切れないだけか――
 「あいつ、しょっちゅうお前の話ししてたんだ。すごい人だって。頭良いし、なんでも知ってるんだって。」
 「栞菜さんが…」
 柳が困ったように呟く。栞菜がそんな風に語っていたなど思いもよらなかった。

 「あいつ、お前と友達になれて相当嬉しそうだった。」
 少年の一言に虚を突かれて柳は言葉を失った。
 「だから、だから…見放すなよ。」
 柳の瞳がほんの一瞬、震えた。
 「…当たり前です。」
 柳の目が少し滲む。
 「当たり前じゃないですか…」
 目を瞬かせている柳を見て少年は少し驚いたような顔をした。
 「それもそうだな。」
 少年は「俺は二人がどのくらい仲良いのか知らなかったから」と言って微笑んだ。
 「そういえば、あなたは栞菜さんと仲が良いんですね?」
 「あぁ、そうか。そういや、なんにも言ってなかったな。悪い。俺は四年三組、飯田透真だ。あいつと同じ図書委員なんだ。」
 この学校では本来生徒会に含まれる図書委員会が別枠で成り立っている。小中高の図書委員全員で形成される『小中高等部生徒図書委員会』。小学校から初等部委員長、中学校から中等部委員長、高校から総委員長と管理委員長と企画委員長、また、それぞれに副委員長と書記が選出される。大規模な図書館の管理はほとんど生徒が行っているのだ。地元の人も利用するだけあって、この図書委員会はしっかりしている。
 「栞菜さん、図書委員だったんだ…。」
 「知らなかったのか?」
 「聞かなかったから…」
 聞かなかったからだけではないのかもしれない。そこまで仲が良いわけではないから言わなかったのかもしれない。こうやってすぐに暗い考えをするのは柳の悪い癖だ。
 「なんで山なんだろうな…」
 透真が考え込む。
 ――「私、妖怪ってほんとにいると思うんですよ。」
 「妖怪」
 「ん?」
 「妖怪ですよっ。栞菜さん、妖怪信じてて、きっと会ってみたいとか…考えたのかも…」
 透真がポカンと口を開ける。
 「は…?妖怪?」
 「はい。妖怪です。」
 透真がしばし沈黙する。何か考えているようだ。それから思い付いたようにがばっと顔を上げた。
 「…妖怪なら…仙途山だろ。」
 柳が目を丸くする。
 「え…、でも、あそこは…」
 去年、人死があった山だ。柳は母子が雪山で遭難してしまったと聞いていた。だが、雪の中、山に登るなど険しい山だけに正気の沙汰とは思えない。そして、栞菜がそんな山に登ることも信じ難い。しかし、もし本当なら――
 「栞菜ちゃん、噂を聞い たんでし ょうか。」
 仙途山、別名千寿山。仙界と地上の途中にあり、太古の昔には長命な仙人や妖怪が跳梁跋扈し、賑わっていたと伝えられていることからその名がついた。最近も小妖を見たという者や、百鬼夜行に出くわしたという者も少なからずいるのだ。
 「あのバカ…」
 透真が歯噛みする。
 「私、放課後行ってみます。」
 意を決した柳が言った。
 「いや、でも…」
 大人に相談したほうが良い。透真はそう言いかけてハっとした。
 「…言ったら止められるでしょう?」
 柳の目が真剣な光を帯びた。
 「透真さんは私が行った後に、話に行ってくれませんか?…こんなの事態を重くするだけかもしれない。それでも――」
 柳の瞳がまた震える。なんとなく泣き出しそうな空気が漂ったが柳は笑って言った。
 「栞菜ちゃんに真実を見てほしいんです。」
 そう言うや否や、柳は駆け出した。
 「あ、おいっ。真実って―。ていうか放課後じゃなかったのか⁉」
 「ごめんなさい。透真さんは先生の所にっ」
 みるみるうちに柳の姿は小さくなり、階段へと消えていった。
 「たくっ、笹原に聞くより子供っぽいやつだな。」
 ――俺も後で絶対行く。
 透真は心に決めて柳と正反対の教職室に向かった。

 
第四章

 あれは火だろうか。栞菜は前方に淡く光るものを認めて足を止めた。山は思った以上に細い獣道ばかりで思ったように進めない。
 しかし、来た甲斐はあった。いたるところに趣のある祠や地蔵が並んでいる。
 (絶対、絶対会える。)
 そんな確信が栞菜にはあった。
 ――ガサッ
 何かが動く音がした。それと共に淡い光も幽かに動いたような気がして、栞菜は思わず身を引く。
 (あれ、なんだろう?)
 光る妖怪といえば狐火だろうか。それとも青鷺火か龍灯か。山の中に光が浮いていればそう思うのも無理はないだろう。妖怪だといいな、と考えながら栞菜は少しずつ光に近づいた。
 ――音もなく光が消えた
 前方で揺れていた光はもとより、その他の明かりもすべて見えなくなり、辺りは完全な闇に閉ざされた。
 (な、なにが…)
 急に訪れた丑の刻より深い静謐。何が起こっているのかわからず、栞菜はしゃがみこんだ。足元の覚束無い山は想像以上に恐ろしい。手探りで道の端を確認する。
 栞菜がいたのは切り立った土の壁とほぼ垂直の崖ともいえる急斜面に挟まれた幅二メートルにも満たない小道だ。一歩間違えば大惨事となる。
 しかし――
 (どこまでも…平らだ。)
 手を伸ばしても小石ひとつどころか地面の凹凸もなく、道の端が感じられない。試しに栞菜は立ち上がり、土の壁があったであろう左側へ一歩踏み出した。
 (進める。)
 栞菜は急に怖くなった。いきなり暗くなったこともだが、なにより、誰かに知らない場所へ放り込まれたような、誰かの意図でこうなったような背筋の凍る恐怖。
 栞菜は無造作に闇へと手を伸ばした。何か、何か掴めるものはないか。
 その瞬間、栞菜は何かに心を絡め捕られた。

 キィン、と耳鳴りがした。頭がガンガンと響く。急に地面がなくなったように足元が不安定になり、栞菜は再び膝と手を地についた。

 何かが内側から、ゆらゆらと浮き上がってくる。

 ――くらい暗い闇い冥い沌い

 ぐにゃり。
 地面が、空間が、時間が。
 脆く、儚く、あべこべになって混ざり合い、崩れるよう――
 ――ここがどこだか解からない。いまがいつだか解からない。立っているのか、上か下か、北か南か…。果てしなく続く黒は…海…宙…?
 わからない分からない判らない解からないワカラナイ――ワタシはナニ?
 いつどこで生じたの?
 いつどこで何のために生じたの?

 暗くて狭い部屋には自分しかいない。たった独りきりで毛布をかぶって、むせび泣いても枯れた涙はもう出てこなかった。――淋しくて寂しくて、今すぐ母の元へ駆けていきたい。
 だが、それは母を苦しめることにほかならないと、幼いながらも理解していた。腕に残る痣は母が苦しんだ印だ。自分は暴れる母をなだめて、自我を取り戻す手伝いをしてあげることしかできない。母は自分を取り戻すと、ショックを受けて「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返しながら泣く。
 栞菜はそれがあまりに辛くて見ていられない。本当は「大丈夫、大丈夫」と言って励ましたいのに、励まさなくてはいけないのに。
 母はいつもそのまま寝入り、朝になる前に起きだして、仕事へ行く。栞菜の母はホームヘルパーだ。母はいつもいつも、帰ってくると壁をひっかき、手を掻きむしり、自分をかき抱いて叫ぶ。

 ――ねぇ、母さん。あの時なにがあったの…
 教えてほしいよ。

第五章

 ――『知りたいのですか?』
 何者かが栞菜に語りかける。
 ――『ならば、見せて差し上げましょう。』
 ―――彼の念が、あなたを迷わせてしまった詫びに。

 母が通うのは、裕福そうで、家族みんなが仲の良い、完璧な家庭だ。精神を患ってしまった家主の父の面倒を見るのが母の仕事なのだ。
 笑顔の絶えない幸せそうな家族。
 そのはずだった。
 「じいちゃん、じいちゃん」
 じいちゃん大好き、そういって祖父に抱きつく二人の孫は、翌日、祖父が病気のせいで自分たちのことを忘れてしまってもなんとも思わない。
 「じいちゃんがお小遣いくれたから、これ、買ってくれなくていいよ。」
 「…お義父さん、そういうのは本当に困るんですよ。」
 「じいちゃん、今度、おじいちゃんが行きたいって言ってたところに一緒に行こうねぇ。」
 ため息混じりに苦笑して奥方が義父をたしなめ、孫は祖父に無邪気に笑いかける。
 家主の父はいつもにこにこと笑っている。ちゃんと解かっているのに、解からないふりをして。
 栞菜の母は一度聞いたことがある。
 「どうして、どうしてなんですか。」
 「…………」
 答えが返ってこなくとも解かる。遂げる気もない約束で喜ばせてお金をせがむ孫。文句を言うだけの息子夫婦。邪魔だ邪魔だ、そう思っているのをおくびにも出さず良い人の顔で語りかける。
 「父さん」
 「お義父さん」
 「じいちゃん」
 「じいちゃん」
 邪魔です。
 何もできない役たたず。老人なのだからそれが当たり前なのは分かっている。けれど、お金はかかるし、知らない人を家に上げなくてはいけない。したくもない気遣いを笑顔でしなくてはいけない。本当に面倒だ。

 一度、孫の一人、勇輝が祖父にとココアを持ってきたことがあった。その日は両親が不在で家には二人の孫と家主の父と栞菜の母のみ。
 「ココアですか?」
 「うん。寒いから…」
 「わかりました。冷めないうちに渡しておきますね。」
 勇輝はにっこり笑うと、パッと身を翻して走り去っていった。あれほどに嫌っている祖父にココアを作る。栞菜の母、美夜瑚は嫌な予感がして、一度了承したもののココアを手に迷っていた。
 その時。
 「ゴホッ、がはっ…げほっ」
 台所の方から尋常ではない咳が聞こえてきた。むせる程度ではない。美夜瑚はココアを手近なテーブルへ置き、台所へ駆けつけた。
 「――ぼっちゃんっ!?」
 もうひとりの孫、勇太が床に崩折れ、口元を押さえ、嗚咽を繰り返している。
 「何やってんだ!?食べたのか!?」
 側に立っていた勇輝がしばらく唖然とした後、崩折れた勇太の横に屈み込む。
 美夜瑚はハッとして台所のシンクを見る。
 ――すり鉢とその中へ無造作に置かれたすりこぎ。恐る恐る覗き込むと薄茶色をした球根のようなものが。すり鉢の横には――
 真紅の花弁が大きく広がった花が一輪。
 「――彼岸花…」
 美夜瑚が息を呑む。
 「ヘルパーさんっ…勇太がっ…」
 勇輝が切羽詰って捲し立てた。美夜瑚が振り返る。彼岸花は猛毒だ。とにかく、嘔吐してしまえば毒はある程度抜けるだろう。だが、しばらくは絶対安静だ。
 「これにっ」
 美夜瑚が桶を用意して勇太に吐かせる。
 「うっ…ぐふっ」
 吐き出したら、そのままベッドへ運ぶ。
 「とりあえずこれで大丈夫なはずです。そんなにひどい中毒症状は出ていませんでしたから。」
 「よかった。」
 ずっと青い顔をしていた勇輝が安堵の表情を浮かべた。
 だが、美夜瑚はホッとしたのも束の間、今の大惨事以上に蒼白な顔をして、震えた声で言った。
 「おじいさまに…」
 勇輝がハッとした。慌てているように目が泳ぐ。
 「ちが…」
 「誰に彼岸花のことを聞いたのですか。」
 実の祖父に毒を盛る。そんなことを考える子供が怖い。まるで人ではないようだ。だが、やはり、ただの子供なのだ。ここで正してやらねば、この子達は本当に「人でなし」になってしまう、と美夜瑚は思う。
 「こんなことをし――」
 「母さん」
 勇輝が都の言葉を遮った。
 「母さんが彼岸花には毒があるから、おじいちゃんに…」
 あなたおじいちゃん嫌いでしょう。あげてみたら。と、母は化粧をしながら笑って言った。前日、祖父のことで父と喧嘩をしていたから苛立っていたのだろう。早く死んでくれればいいのにね。そうやって母は愚痴を言い続けた。
 勇輝は化粧台に向かう母から目をそらした。そんなことを言う母に嫌悪感を感じる。でも、それ以上に祖父がいなければと思う。
 母がこんな人になったのは結婚してからだと、母方の祖母に聞いたことがある。何度も何度も言っていた。こんな母を許してやってほしい。こんな母でもお前のたった一人の母親だから、見切りをつけて出て行ったりしないでやっておくれ。
 まだ、小学生にもなっていなかった頃のことだ。だが、鮮明に覚えている。大人になって独り立ちをしても、おまえの母を見捨てはしないでおくれ。そう言った祖母の切なげな瞳。
 「そうですか。」
 勇輝が回想にふけっているとは気付かない美夜瑚は絶望に打ちひしがれていた。人を育てるのは親だ。自分が何を言ったところで、勇輝が正しいと思うのは彼の母の言葉だろう。
 「え?」
 「でも、もうこんなことをしてはいけません。あなたはおじいさまを殺していたかもしれない。」
 勇輝が目を大きく瞠る。
 「彼岸花は猛毒。誤飲すれば神経が麻痺して亡くなることもあるのです。」
 勇輝の脳裏を元気だった頃の祖父の笑顔が、言葉が、そして自分の無垢だった笑顔が、掠めた。
 「……お母様には何も言いませんから。」
 そう言って美夜瑚は台所を片付け、勇太の看病に行った。

 「母さんが…」
 自分に祖父を殺させようとした――そんな考えが勇輝の頭を過ぎった。冷静に考えれば勇輝の母親は本当に苛立っていただけだとわかっただろう。だが、この時の勇輝は冷静になれなかった。
 勇輝がぐっと唇を噛む。
 「そんなに…」
 ――そんなにじいちゃんが邪魔なの?それなら…僕が。…母さんの憂いを…母さんを苦しめるもの全てを。だから――

 戻ってきてほしい。

 ―――昔から思いつめる質でねぇ…本当は思いやりがあって、情に篤くて…

 ――――今でも…寂しがり屋なんだろうねぇ…
 ――言いたいことを素直に言えないんだよ。人を傷つけそうで怖いんだろうねぇ。

 そんな母は見たことがない。そんな優しげで母親らしい母は。

 ――なんでこんなに教科書を汚したのっ。
 ――ちがうよっ。
 ――何が違うって言うのっ。

 違う違う違う。それは悪ふざけをしていたから――否、あの子がいきなり…否、怒りを買った自分のせい。

 いじめられていた記憶はない。でも、八歳の頃の友人は口を揃えて言う。
 「あの頃は大変だったろう。俺も巻き添えになりたくなくて、見てただけだったんだ。ごめんな。」

 ――なんのこと?
 そう言って笑いかけると不気味がられた。
 ――覚えてないのか…?あんなに…

 ――あの赤いやつとか…


 赤いやつ?
 そうだ。――とっても赤かった。
 そして、とっても苦かった。手が痒くて、掻けば掻くほど花と同じような色になって。辺は真っ赤な花でいっぱい。後ろから水の流れが聞こえてくる。前には――彼がいた。たった一人でビニール手袋をはめて何本もの曼珠沙華を握りしめて。
 楽しそうに笑って、 突き落としたのだ。
 川の水は凍てつく冷たさだった。浅くてよかった。流れが速ければ溺れていたかもしれない。

 「どれほど心配したと思っているの?」
 あの時、勇輝は初めて母を見た気がした。これが母さんだ。暖かい涙を流して自分を想ってくれる。この姿が本物だ。そう思った。

 なぜ忘れていたのか。友人に「赤いやつ」と言われた時も思い出さなかったのに。母の口から「彼岸花」と言われても思い出さなかったのに。

 あぁ、そうか。あの時はみんな「曼珠沙華」と呼んでいた。
 ――摩訶曼陀羅華 曼珠沙華
 「マンダラゲはダチュラ マンジュシャゲはヒガンバナ どっちも恐ろしい花だから触ったらいけないよ。」
 祖父がよく言っていた。笑い皺をつくって、言い聞かせるように。
 「けれども、曼陀羅華は天上に咲くそれはそれは美しい蓮華、曼珠沙華は清く穏やかな心持ちをした天上の華だ。曼珠沙華を見ると人は自ずと悪業を断つことができる。曼珠沙華は天上にありながら人の背中を押してくださるありがたい華なんだよ。」

 勇輝の瞳が震えた。目頭が熱を持つ。

 あの時は結局、誤って彼岸花を食べてしまい、その衝撃で誤って川に転落したことになった。
 だが、祖父は何もかも見抜いていた。勇輝の動揺も、勇太の悲しみも、父の困惑も、母の後悔も。その上で笑って言ったのだ。

 ――みんな待ってる。さぁ、帰ろう。

 ――誰がお前のことをどう思おうと、おじいちゃんも、父さんも母さんもお前を想っている。

 と。


 「ごめん。じいちゃん。」

 祖父の寝室のドアに向かって勇輝は呟いた。
 忘れていてごめん。悪いのはじいちゃんじゃないね。きっと、少しずつ、変わっていったんだ。
 父の会社が傾き始めて収入が減って、母がパートを始めて、喧嘩が増えて、お酒が止まらなくなって、祖父が病気になって…。
 心配して涙を流していた母。優しかった母。あの時だけなわけがない。自分が一杯一杯だからそう思っていただけだ。
 ――母さんも、ごめん。

 そんな勇輝の想いを美夜瑚は知らなかった。
 

 第六章
 
 何度傷ついても、決して道を踏み外さない。それだけは忘れない。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 柳は息を切らしながら走っていた。仙途山は学校から遠いわけではないが、子供の足では走っても三十分はかかる。本当にそこにいるかも怪しいが、とにかく行ってみるしかない。
 「すぐに見つかるといいけど。」
 日が暮れれば山は本当に怖い。街灯一つなく、本当の闇に包まれるのだ。
 走り始めてどのくらい経っただろう。そろそろ着くころだ。住宅街も抜けて田畑が増える。次の四辻を曲がれば山が見えるはずだ。柳が少し速度を落として民家を曲がる。
 そこに、沌い朧な影がいた。
 柳が息を呑む。その気配を感じたのか影がゆっくり柳を向く。目の代わりに深い闇に包まれる眼窩が柳を見据えた。
 「―――イキテイル イキテイル イキテイル」
 影がゆっくり片言に言葉を紡いだ。害意がないはずの霊は敵意をむき出しながら柳に向かって静かに歩き出した。柳が無意識に後退る。
 「―――イキテイル……イキテイルモノ ユルサナイ――」
 瞬間、霊の姿がふつりと消える。
 「―――え?」
 「生きているもの許さないっ。お前が生きていることは許さないっ。」
 片言だったはずの言葉がしっかりと紡がれ、朧な影だったものがはっきりとした生前の頃の姿であろう男性に変わる。
 目だけはそのままに。
 「どうして…朧だったの…なにが…」
 何度見てもあの目はなれない。最近は見ていなかったのに。
 ――そういえば、最近は見ていなかった……何故……
 「消えろ―――忌まれるべき小蛇ああぁっ」
 霊が叫ぶと同時に柳の首に手を突き出す。柳は咄嗟のことに逃げられない。霊は実体がない。だから物理的な攻撃はできないはずなのに。だが、それは柳の持論に過ぎない。
 「―――ぐぅぁっ…」
 首が締め上げられる。呼吸が出来ず、肺が酸素を求めて暴れる。自然と涙が零れた。痛い。苦しい。誰か―――
 ―――ヒュンッ
 鋭い音が響いた。同時に男が濃紺の霧となって霧散する。
 「かっ…――」
 柳が膝を折り、手をついて咳き込む。あと少し遅かったらどうなっていたことか。
 「ショウジャガ ショウジャガ」
 肩で息をする柳の耳にまた片言の声が響いた。
 「ショウジャガココニ ココニイタ」
 「ツカマエロ ツカマエテ ナブリゴロセ」
 辺りから幾つもの朧な影が湧く。
 「ショウジャガ」
 「ココニ イル ケハイ ノコッテル」
 「ショウジャ ツカマエル」
 地面から浮び上がった一つの影が栁の姿を捉える。
 「―――っ」
 柳の悲鳴は声にならなかった。
 ―――ビュッ
 また鋭い音が響き、影が消えた。
 「立て。走れっ――」
 力強い声が響いた。柳は力の入らない足を叱咤して身体を起こす。のろのろと顔を上げ、やがて、道の先に生者の影を認めた。だが、首を絞められたことで頭がしっかりと働かず、目の焦点も定まらない。それが誰かを突き止めることは叶わなかった。それでも走り出そうとするが、足が縺れて倒れそうになる。
 次から次に現れる朧な影に誰かが弓矢一つで応戦しているが、それもいつまでもつかわからない。朧な影の狙いは柳のようだからここを離れなければと思うが、足は自由に動かず、そもそもどこに逃げればいいのかもわからなかった。
 立っているだけで精一杯の柳の背後に揺らめく影が立ち上った。


 第七章

 栞菜は詰めていた息をゆっくりと吐いた。今垣間見た映像と思考は脳裏に鮮明に焼付いたまま離れない。
 ――――こんな狂気に苛まれ続けた母。彼女はもういない。
 あの日から日常の中で自分を、感情を剥き出しにすることはなかった。栞菜の前以外では。
 『これがあなたの知りたかった現実と真実。取り違えた現実を信じた美夜瑚の真実。』
 また、頭に響く声がする。
 「取り違えた?」
 栞菜は謎の声に問いかけた。
 『そう、美夜瑚は、勇輝が祖父に殺意を抱いていると思い込んでいました。しかし、本当に殺意を抱いていたのは誰なのでしょう。』
 栞菜が瞠目する。心が荒み、寂しさを感じていたのは弟も同じだったはずだ。
 『勇太は祖父に殺意を持っていた上に、兄をも憎んでいた。彼は彼岸花のことを母親に告げたのです。それは二転三転と思いもよらない事態を引き起こした。』
 声は淡々と事実を紡ぐ。
 『あれ以降も知りたいと思うのですか。』
 栞菜は瞑目し、ゆっくりと息を吐いた。
 「私は…母が死ななくてはいけなかった本当の理由を理解したいです。」
 『ならば…』
 またもや時間、空間、全てが歪み、崩れていく。どこか遠くから声が聞こえた気がした。
 ―その目で真実を確かめるのです。

 栞菜は自分の足元を見て悲鳴を上げた。手足が見えない。いや、身体も。気が付けば自分には実体がなくなっていた。だが、心の奥底で肢体の脈動を感じる。
 栞菜は固く目を瞑り、気持ちを整えてから感覚を研ぎ澄まして気を探った。
 ――見つけた
 自分の心が憑依出来るもの。共鳴し、憑坐となり得る者の目を通して栞菜はしっかりと目を開いた。これが俗に言う「心眼」かもしれない。

 「笹原さん」
 声を掛けられた栞菜は横にあった鏡を見やり、自分が美夜瑚に憑いていることを悟った。

 ――母さん
 鼓動が重なる。母の温もりを包まれるように直に感じた。栞菜は頬を熱いものが伝い落ちたような感覚になった。

 「どうなさいましたか。」
 数年ぶりに聞いた母の声。母の何もかも全てが恋しい。
 美夜瑚は何か奥方の詩音里と話し込んでいるようだった。しばらくして美夜瑚の瞳が凍り付いた。
 「そ…れは…」
 「全部知ってるわ」
 詩音里がゆっくり嗤った。口元だけが妙に歪んだような笑み。蔑むような眼。
 「だって家には彼岸花など無いもの。」
 美夜瑚が呆然と問うた。
 「だから…私が与えた…と?」
 「そう。彼岸花の綺麗な川岸で、あなた見られたのよ。」
 美夜瑚が目を見開いて固まる。やがて、掠れた声で訴えた。
 「…ちがう。…違います。私は…」
 「言い訳は止して。」
 眉を顰めて言う詩音里は口端を吊り上げてさらに一言、美夜瑚に囁いた。
 「明日から、七割にさせてもらうわ。」
 美夜瑚は花瓶を取り落とした。大きな音を立てて花瓶が割れる。
 「そんなっ…どうか、どうかお給料だけはっ」
 掴みかからんばかりに美夜瑚が訴える。だが、詩音里は無感動に眺めながら言った。
 「こっちだって…お金がないから酷でもこんな提案してるの。おじいちゃんを放っとくわけにいかないし。」
 「どうか、それだけは。」
 美夜瑚は無下にされながらも食い下がる。膝や手が破片で切れるのも構わず、床に額をつけて頼み込むのをうっとおしそうに一瞥し、詩音里は低い声で言った。
 「何をするにもお金。でも、お金は只管に働くことで手に入る。歪みは何をしたって治らないけど。あなたはまだ穴に落ちてないから解からないわよ。」
 美夜瑚が目を瞠る。詩音里はそれきり黙って、リビングに消えた。美夜瑚はしばらく手で顔を覆い、しゃがみ込んでいたが、すぐに平静を装って仕事に戻っていった。

 ――『それが理由なの?』
 栞菜が呆然と聞いた。しかし、どこか引っかかる。母はそんなに柔じゃない。
 『いえ』
 心に直に響く返答は案の定、否と言っていた。
 『これはほんの始まりに過ぎないのです。美夜瑚がここで死ねばあなたが――不幸になるもの。』
 「不幸」―その言葉にはやけに重みがあった。栞菜が不幸になるようなことは絶対にしない。美夜瑚はそう心に決めていたはず。 
 『なのにどうして…』
 ―母さん…やっぱり私には解からないの?
 悲痛な叫びが身の内から聞こえてくる。
 『あの童子が無意識のうちに記憶を封じたのは信じることができなかったからです。』
 不意に発された言葉が何か不穏なものを伝える。そして、次の言葉が紡がれた。
 『実の弟に何度も殺されかけた事実を。』
 『こ…ろされ…?』
 それがどういうことなのか、栞菜には予想がつかない。人を殺す。それがどれほどのことなのか、全くわからない。ただ、誰かがある日突然いなくなったら、不思議であると知っている。
 昨日まで座っていた椅子。昨日まで使っていた日記帳とペン。昨日まで世話をしていた金魚。着ていた服、はめていた手袋、読みかけの本、時々眺めていた写真と手紙。
 それだけを残して、本人はいないのだ。どこを探してもいないのだ。帰ってくるはずの刻限にも。起床の時間にも。食事、寝る時、お風呂、帰宅時。安いアパートの少ない部屋の玄関にも、リビングにも、寝室にも。
 ――パタリ
 何かが落ちるような音がした。実体はないはずなのに、やはり、涙を流しているように感じる。
 『淋しい。今も…ずっと。』
 寂しくない日はない。家に帰れば感じてしまう喪失感。
 栞菜は母が生きていた時も寂しかった。だが、それは贅沢なことだと知った。姿を見られる。それだけで、自分がどれほど勇気づけられていたか。引き取ってくれた叔母は本当に良い人だ。でも、だからこそ、煩わせてはいけない。彼女の人生に割り込んではいけない。
 栞菜の呟きは声には聞こえていなかったようだった。
 

 第八章

 ―――いつからこんな憎悪が、羨望が、恐怖が、心に渦巻き、巣食っていたのだろう。僕は最初からこんな人間だったのだろうか。それなら、後戻りできるところなんてない。もともと黒い布は白地の布にはどうやってもなれないのだから。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 寂しかったのだ。母の目に映らないことが。
 悔しかったのだ。兄が自分の知らない母を知っていることが。

 「だから…」
 泣きながら父にすべてを告白した。肩からすっと重みが消えたような気がして、勇太は自分の幼さを実感する。大人に全権委任すればすべてが終わるわけもないのに。
 「まずいな…」
 父が小さく呟いた。勇太が顔を上げると、父がため息をつく。
 「退学だけで済めばいいが…」
 そうでなければ、一体どうなるのか。勇太が青くなる。父の顔も険しい。それが不安を煽る。
 「……笹原さんが」
 「え?」
 小さな声を聞きとがめて、勇太が声を上げた。
 「笹原さんが突き落としたことにすれば…」
 それは。勇太が息を呑んだ。
 「でも…見られた…」
 闇の中、軽く押しただけで勇輝は簡単に体勢を崩した。短めの歩道橋を落ちていく音。その音に頭を冷やされ、勇太は逃げた。
 だが、それを見ていた人がいたのだ。
 「いや、あの暗さじゃ老若男女を見分けることはできないはず。」

 美夜瑚は主人の部屋の前で息を潜め、ただ話を聞いていた。

 そこで、栞菜は目を開けた。ゆっくりと右手を持ち上げ、握っては開く。
 「…ここで…見るのをやめろ、と?」
 宙に問いかけると圧力がかかったように空気が急に重くなった。
 「あなたは自分で思っているほど強くない。」
 前方から先程の声が聞こえる。それまで気が付かなかったが、栞菜は現実の明るい山へ戻ってきていた。先程よりずっと鮮明に聞こえる声は凛とし、美しかった。
 栞菜は立ち上がり、声のする方へ向かう。すると、開けた土地に出た。そこに、ひとりの女性が背を向けて佇んでいた。
 「真実は時に、苦痛しか生まない。」
 女性が振り向き、栞菜を見据えて言った。栞菜は立ち竦む。しばらくして、女性は栞菜の近くまで歩みを進めた。女性の袴についた無数の装飾品が擦れ合って音を立てる。鮮やかな装飾は白地の小袖に茶色の袴という地味な出で立ちとは妙に不釣合だった。
 「これは…まだ真実じゃ…ない…?」
 栞菜は何者かわからない女性をまっすぐに見つめた。普通の人には見えない出で立ち。しかし、ここで恐れを生して逃げれば、真実には、答えにはたどり着けないと直感が訴えていた。
 「否、これもまた真実。あなたの望んだ真実。」
 「私はまだ…」
 女性の視線に気圧されて栞菜は押し黙る。
 「あなたは、どこまで知りたいのですか。何を知りたいのですか。あなたは、情報を求める前に目的を求めるべきです。あなたは何のためにここにいるのですか。」
 女性が静かに問う。栞菜はハッとした。目的。栞菜がここに来たのはほんの出来心だったはずだ。そして、情報を求めたのは―――。
 「あなたは、常に求めています。真相を。理解することを。人の心が読めないことで、失うことを恐れている。だから求めるのです。真意を。真理を。」
 栞菜は瞠目した。失うことを恐れる。そう、常に恐れている。誰かが消えることを。栞菜の知らないところで誰かが消えようとすることを。だから、今、理解しなければいけない。
 「私は…必要としています。目的はあります。だから…」
 だから、真実を。私に人の真理を。栞菜の目が力強い光を帯びる。
 「いいえ。あなたはわかっていない。先のない目的に意味はないのです。今、あなたがすべてを見れば…あなたは壊れます。」
 壊れるという言葉に栞菜が反応する。心の崩壊は連鎖するのだ。栞菜はたった今、それを見た。壊れた母もずっと見てきた。失うことも、壊すことも、壊れることも、怖い。臆病な自分が現実から逃げ出そうとする。
 そして、栞菜は悟った。自分が妖怪に惹かれるのはその存在が現実的でないからだ。いや、ほとんどの人がいないと思っているからだ。自分しか知らない世界を見つけて、弱い自分をそこに隠そうとしているのだ。
 「あなたはその歳に見合わないほど強い子です。もうそれ以上の強さは求めなくても良いのです。年を重ねなければわからないことを知る必要もない。」
 女性が栞菜の横を素通りして栞菜のいた小道に向かう。草木に隠れてしまう前に立ち止まり、女性は栞菜を振り返った。
 「私の探し物に付き合わせてしまって申し訳ありませんでした。それでは、また何処かで。」
 そのまま身を翻して歩き出そうとした女性を栞菜が慌てて呼び止める。
 「えっ…あ、あの…どうして私に…」
 夢と現のどちらにいるのかもわからず、混乱する頭で栞菜は質問を振り絞った。
 その時、どこからかとたとた、と音がした。栞菜が音の元を探す。
 「サトさまぁー」
 近くの茂みがゴソゴソと蠢き、子供のような声がした。そして、ポコッ、と茂みから丸いものが転がり出てきた。
 「……たぬきっ!?」
 「……ちがうわぁー」
 たぬきのような生き物が喚いた。


 第九章

 ――さらさらって音がしたの。上を見たら大きな枝垂れた枝が私を覆うように広がっていてね、それは見事な柳だった。こんなきれいな夢は何年ぶりかしらって、私は誰かに笑いかけるのよ。そこで夢だと気づいてたはずなのに、不思議と覚めないのよねぇ。そしたら――
 「柳はすぐ近くに立ってるじゃないか。」
 って、また誰かが笑うの。そんなの知らないよ、どこに立ってるのって少し膨れて聞いたらね、
 「もうすぐ見つかるから、今はいいよ。」
 って。なんだか変な人だけど、ちょっとおもしろい人なのかもと思ってね。

 柳、お父さんはね、本当は―――――いい男なのよ。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「――っ」
 ぽたぽたと滴る血が、その赤さが現実離れしていて、柳の思考は一瞬止まった。
 「――…い…や…だ…」
 細く鋭い矢が、おなかのあたりを通って背に突きぬけているのがわかる。
 「いやだ…なにこれ…血が…」
 弓矢で応戦していた人影が異変に気付いて振り返る。
 「柳?どうし―――」
 「血が…おなかから…血が…やだ…いやだ…」
 柳が半狂乱で矢を引き抜こうとする。
 「だめだっ、抜くんじゃないっ!」
 抜けば今まで止まっていた血まで溢れる。人影は駈け出そうとするが次から次に現れる朧な影から目が離せない。
 「う…ぐはっ…―――」
 一気に引き抜かれた矢。傷口から溢れ出ると思われた血は何故か一滴も流れなかった。それどころか、先ほどまで零れていた血も、矢自体もすぅっと消えていく。
 「…え?」
 正気に戻った柳の腕を誰かが掴んで走り出した。立ち上る朧な影を弓で払い退けながら道をひた走る。
 「お前はばかか!?あれが幻覚だったから良かったが、今頃は彼奴らの仲間入りをしてたかもしれんぞ!?寿命が縮まった…」
 柳を先導する人影、いや、少年が怒鳴った。
 「それは…浅はかだったと思いますけど………ごめんなさい。」
 でも、気が動転してたし、本当に死ぬかと思ったし、と物々言いながら柳ははたと気付いた。
 「そういえば…なんで…助けてくれたんですか?」
 「ん?なんで、とは?知り合いが取り殺されるのをのこのこ見てるわけにいかないだろう。」
 「…私、あなたのこと知らないんですけど?」
 一瞬、少年が瞬きをした。
 「…?……忘れている?」
 「会ったことありました?」
 少年が溜息をついた。
 「…我は名を櫻花という。柳には一年少し前に会っている。」
 柳が息を詰めた。
 「だが、お前が忘れているなら――こんな姿に意味は――」
 「…オウカ…ありがとう。」
 柳がぽつりと言った。
 「あと、久しぶり。」
 櫻花が目を瞬かせた。
 「…ああ…、そうだな、久しいな。」
 ――櫻花が口元を異様に歪ませながら笑った。だが、その異様さに柳は気が付かなかった。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 「お母さん…お父さん、どこに行っちゃうの?」

 「お父さんの昔のお家だよ。」

 「お母さんと柳よりも、昔のお家が好きなの?」

 「もともと、ここにはいられないはずの人だったんだよ。」

 「なのにお父さんのお嫁さんになったの?」

 「…二人とも向こう見ずな性格してたから、ね?」

 「ふ~ん…。お父さん、また帰ってくるんだよね?」

 「………うん……きっと帰ってくるよ。また、いつか。」


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「たぬきっ!どこから見てもたぬきっ!しかもしゃべってる!」
 これは…!夢にまで描いた「妖怪」ではないだろうか?栞菜が手を伸ばすとたぬきらしき生き物はくるっと宙返りをしながら後退した。
 「だから、たぬきではないと…何度言ったらわかるのだ!」
 「なら何なの?」
 「我は――」
 「その子は『貉』です。たぬきとは似て非なるもの。」
 女性が割って入った。
 「サトさまぁ」
 「え?ああ、すまなかった。少しも似ていないから。大丈夫ですよ。」
 「…いや、すごく似てる気が…」
 貉が栞菜をきっと睨んだ。だが、似ているものは仕方がないだろう。そんなことより――
 「私の正体かな?」
 サトさまと呼ばれる女性が栞菜に話しかけた。
 「なんで…」
 「私に名はありません。人には『覚』と言われるが、これは私のような者の総称です。そして、もっと広く言うなら、『妖怪』。私は人の心が読めるヨウカイのサトリ。固有の名はないのです。」
 なるほど、心が読めるから栞菜の聞きたかったことがわかったのか。それはつまり。
 「え?ええー!?私の考えてることがわかるって…待って、待って。心の準備が…というか、読まないで!わ、私はそういうのNGだから!」
 栞菜が捲し立てる。覚はきょとんとして言う。
 「申し訳ないけど、私はまだ制御できるほどの力量はないのです。」
 「力量?力が大きいほど自分の力を操れるってこと?」
 「私もよくはわからないのです。まだ、自分以外の覚は一人しか知らないから。あの人はそう言っていたし、操れているようでした。」
 「あの人」と言った時の遠い日を懐かしむような寂しげな顔が切ない。栞菜は母がいなくなったばかりの頃の自分を思い出した。
 「すみません、サトさま!」
 突然、思い出したように貉が言った。
 「彼は見つかりませんでした。この辺りにいると橋姫に聞いたのですが。」
 覚は一瞬、残念そうな顔を見せたがすぐにほほ笑んだ。
 「いいのですよ。それくらい。橋姫も時には間違えます。神も万能ではないのだから。」
 「橋姫?」
 栞菜が聞く。覚の口調から神様だと思うのだが、妖怪は神様とも仲良くなれるものなのだろうか。
 「橋姫とは、彼女が神になる前から親しかったのです。神と言っても、もとは鬼女で、私などよりも『妖怪』らしかったのですよ。本名を宇治の橋姫と言います。今のね。」
 そう言えば、どこかで読んだ気がする。もとは人で、貴船明神に鬼にしてもらい、渡辺綱に腕を切られ、橋姫神社の神様になったとか。
 (でも、あの神社は瀬織津姫がご祭神…あれ?)
 今まで、橋姫という妖怪はあまり信じていなかったから、ここにきて疑問が現れる。
 「瀬織津姫にお世話になっていると聞きました。瀬織津姫は祓戸大神の一柱。穢れを川に流す水神様であられて、前に神社に寄らせていただいたときは橋姫もすっかり毒牙を抜かれていました。」
 そんなことがあったのか。人の知らない未知の世界に一歩近づいたようで、栞菜はわくわくした。
 「じゃあ、京都からここに来たんですか。」
 橋姫神社は京都の宇治市にある。
 「いや、あそこには立ち寄らせていただいただけだから。私たちはある人を探して――隠里から来たんです。」

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 私はもともと人だったのです。けれど、その頃から人の心が読めたんです。だから、私は生まれながら「覚」だったのか、今でも「覚」と似て非なるものなのか、自分にもわからないのです。私は人より多くのものが聞こえて、それが当たり前だと思っていました。母も同じような能力を持っていて、祖母もまた然りだったそうです。
 私には年の離れた兄が一人いました。容姿端麗で気立てもよく、誰からも好かれる兄は私たち家族の自慢でした。
 でも、その兄には秘密があったのです。
 ある時、村で大きな祝言がありました。村の長の息子と、村で一番美しい娘との。私と兄も、ほかの村人たちも、小さな村の村人たちのほとんどが見に行きました。
 今でも鮮明に思い起こせるくらい、綺麗な祝言でした。
 でも、私は、聞こえてしまったのです。花嫁の心の叫びが。
 愛していると。どうして忘れられると。
 朔夜殿―私の兄―をどうして忘れられる――と。

 二人の間には子がいて、その子を私は自分の弟だと思っていたのです。皆がそう言うから。でも、それは違った。兄と村の長のご子息、その奥方となられた方の子だったのです。

 花嫁は踏ん切りを付けて、兄と吾子との関係を断ちました。兄もまた。

 その後、私は兄を自ら貶めることとなってしまったのです。きっと、兄は私を許さない。一生糾弾し続ける。
 ―――――そうならば、どれほど良かったか。救われたか。

 罵ってくれて構わない。蔑み、嫌悪してくれたら、私はどれほど償えただろう。

 二人の関係は、私のせいで明らかになり、二人は私のせいで死にました。


 第一〇章

 お母さんの手はとってもあったかい。ふわふわで心地いい。ねぇ、お父さんもおてて繋ごう?
 ………
 嫌なの?
 ………
 …なら、どうして繋いでくれないの。
 ―――冷たくっても、いいよ?

  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「どうして、ばれてしまったんですか。」
 栞菜が恐る恐る聞く。
 「知りたい?あなたは私のことをよく信じてくれますね。なぜ?」
 覚は栞菜を試すように聞いた。
 「…こんなこと初めてで、正直、まだ夢かもって。目が覚めたら全部忘れて、日常に戻るのかもって思ってます。だから…だから…」
 栞菜ははっきりしないように頭を振る。
 「なんか、覚さんのこと、信じたいんです。信じてもいいかなって。お母さんのこと、悲しんでくれてるの、すごくわかったから。」
 ざぁっと風が木々を揺らした。木の葉が舞う。覚が細めた。
 「美夜瑚は、きっと、あなたが前を見据えることを望んでいたのです。昔も…今もきっと。だから、前を向くことに躊躇するあなたを見たとき、私は放っておけなかった。――美夜瑚には借りもあることだし…」
 ふっと覚が笑った。
 「借りが?」
 栞菜が不思議そうな顔で聞く。
 「まあ、いろいろあったのです。あなたのお母さんとは。」
 微笑む覚は話を打ち切る姿勢を見せた。
 「辛気臭い話はここまでにして、あなたを迎えに来る人がいるようですよ。」
 ほら、と覚は柳の背後を示した。
 「笹原っ!いるのかっ!」
 栞菜が振り向くと血相を変えた透真と目が合った。
 「飯田くん!?どうしたの?」
 「ばかっ!どうしたの、じゃない!こっちはどれだけ心配したと…」
 「へ?」
 「あ、いや…谷原が心配してた…から…」
 透真が口籠りながら言う。
 「柳さんが!そっか…。なんでわかったんだろ…。」
 栞菜は不思議そうにしながらも、少し嬉しそうだ。
 「いや…それは…別に…俺が言ったとかじゃないぞ?…ハハハ…」
 しどろもどろに話しながら、透真ははたと何かに気付いて目を見開く。
 「…そういえば、谷原は?」
 「…え?」
 ここに先にたどり着いているはずの柳が見当たらない。ここにいるのは栞菜と透真と――
 「……だれ?」
 覚を指さして透真が問う。それをじっと見返して、覚は意味深な笑みを浮かべた。
 「私は、栞菜さんの母である美夜瑚と懇意にしていた、妖怪です。」


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「オウカはまだうちで酒盛りなんかしてるの?」
 「酒盛りとは?我はそんなことをしていた覚えはない。」
 「…あれは酒盛りだったと思うけど。そういえばオウカって何の妖怪か聞いてないね。何の妖怪なの。」
 櫻花は急に立ち止まり、後ろを振り返った。
 「そんなことを話している場合ではない。もう来ている。」
 走りながら撒いたはずの影がいつの間にか背後に迫っていた。
 「…そんな…速い…」
 「彼奴らが速いのではない。我らが遅いのだ。人の物差しで人外を測るな。」
 櫻花が淡々と言う。
 「我がもう一度あれらを食い止める。その間にお前は山へ逃げるのだ。」
 山、仙途山。だがあの山にはもっと恐ろしいものがいるのではないか。妖怪が。霊が。
 「あの山は…」
 「いいから行けっ!迷っている暇はない!」
 櫻花は手に握っていた弓矢を構えて、次々と影に射込む。柳は意を決した。
 「待ってるからっ、絶対追いついて来てね!」
 櫻花を追い越して柳は山への道をひた走った。
 「言われなくとも。」
 ――櫻花はその姿が見えなくなるまで見据えながら、目を細めた。
 「……柳、いや、小蛇。気付かないお前が悪いのだ。櫻花が人を気に掛けるわけがないだろう。やっと見つけた我娘。お前はこの手で…」
 「この手でなんだ?紛い物。」
 矢を射かけていた櫻花の背後に人が立っていた。櫻花が瞠目する。
 「何者だ!」
 櫻花が振り向きざまに弓の先端を振りかざした。
 「何者?それはこちらのセリフ。お前が本物の櫻花なら私がわからないはずがない。」
 背後に立っていたのは女性で、飛び退きながら細く長い薙刀の先を櫻花の首筋に突き付けた。
 「貴様、櫻花の名を騙って何をしていた?」
 女性がぐっと薙刀に力を込めると、彼女の袴についていた銀の装飾品がぶつかり合って音を立てた。茶色く地味な袴にはそれらは不釣合いだった。
 「…俺は…自分の娘を連れに来ただけだ。この名を騙ったのはあの子に近づきやすいと思ったからだ。」
 「そうか。では、お前に私の正体を明かしてやろう。」
 女性が薙刀を引くと同時に反し、柄で櫻花を押し倒すと、柄の先端で胸を突いた。
 「私は櫻花の里子にして、森羅万象の心を読む妖怪。覚だ。」
 櫻花の瞳が凍り付いた。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 柳が仙途山の麓をぽつねんと歩き始めてからどれほど経っただろうか。
(オウカ遅いなぁ。)
 人気のない山は昼過ぎでも暗い。いつもは心地の良い木漏れ日も今は不気味な気がしてならない。
 (透真さん、栞菜ちゃんに会えたかなぁ。)
 今頃は柳のほうが探されているかもしれない。あれから二時間は経っているだろう。栞菜の無事もわからないまま、自分はいったい何をやっているのか、柳の思考はぐるぐると旋回するばかりだ。
 「あっ!飯田君!柳さんいましたよ!」
 獣道の先で不意に声がした。前を見ると少女が柳に手を振っている。
 「柳さん!柳さん!大丈夫ですか?」
 「あいつもお前には言われたくないんじゃないか?」
 「飯田君は少し黙っててください。」
 どうやら手を振っているのは栞菜のようだった。その後ろに所在無げに立つ透真がいる。
 「あ、二人とも。ここにいたんだ。」
 柳がほっとして駆け出す。
 「会えてよかった。飯田君が柳さんのほうが先に来てるっていうから心配しちゃいました。」
 「まったく人騒がせな奴らだよ。」
 栞菜が透真の足を踏んだ。
 「痛っ!」
 「私はそうでも、柳さんは私のために来てくれたんです。そんな言い方は私が許しません。」
 「なんなんだよ、お前。」
 すぐに言い合いになる二人を見て、柳は栞菜の意外な一面を知った気がした。
 (普通の女の子だ。一人ぼっちで、人とうまく付き合えない私とは正反対。私の知ってる栞菜さんは、私に合わせてくれている栞菜さんなのかな?)
 そう思うと、少し寂しい。栞菜との距離が遠退いた気がして、柳は少し気落ちした。
 (そういえば、オウカ、あまりに遅い。)
 何かあったのだろうか。よくよく考えれば、あんな状況を一人でどうにかできるとは思えない。
 (助けに行かなきゃ。)
 「……覚さん、遅いですね。」
 栞菜が呟いた。
 「え?」
 聞きとがめた柳が聞き返す。そこで、栞菜は覚と会った経緯を話し始めた。
 「で、私たちを山の外まで送ってくれようとしたんですけど、山の外で良くない気が暴れていて、知人と似た気もあるから行ってくると言って、私たちも危ないからここで待っているように言われて。」
 栞菜が戸惑いながらも説明する。良くない気とは、あの朧な影のことだろうか。
 「いったいあの人は本当に妖怪なのか?どこから見ても人だったぞ。」
 「でも、貉はしゃべっていたし、あの人は私の心を読んでいたし……あの人の中の母さんの記憶も見せられたもの。」
 会っていない柳には想像もつかない妖怪、覚。だが、彼女の「知人と似た気」という言葉が気になる。それが朧な影を指すなら、彼女は自分の敵なのだろうかと、密かに考えた。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「ははっ。それならなぜ聞いたんだ?俺の思惑なんてすぐ読めたろう?」
 櫻花が自嘲気味に聞いた。
 「お前の返答次第ではすぐに殺そうと思ったよ。だが、お前には自分さえ気付いていない心がある。お前には柳を供物とすることはできない。」
 覚は無表情に語る。
 「…ずいぶん上からものを言う。殺そうと思った?」
 いつの間にか櫻花の手に収まる得物は弓から銀槍に変わっていた。
 「なにっ!?」
 櫻花が突き付けられていた薙刀を銀槍で弾いた。
 「甘く見るなよ。俺だって大妖だ。そう易々とやられて堪るか。」
 「……だが、今は俺も急いでいるから、ここまでだ。」
 櫻花が跳躍して仙途山へと駆け出す。
 「待てっ!逃がすものかっ。」
 覚が後を追うが、櫻花の姿は風景に溶け込むように消えていた。
 「くそっ、蜃気楼か!小賢しい真似を!」
 覚は櫻花の去った後に残された片手に収まる程度の大きめな蛤を拾うと、地面に思い切り投げつけた。貝が衝撃でほんの少し開き、中に何か気体が吸い込まれた。

 第一一章

 昼下がりからもう夕刻になろうかというとき。築八十年と少しの日本家屋の廊下。その壁に取り付けられた固定電話が鳴り響いた。
 「…はい…はい。…そうですか。どうもすいません。あの子は本当に…。はい…。」
 電話を取ったのは三十路過ぎくらいの女性。見えない相手に頭を下げながらどうしたものかと首を傾げている。
 「…それでは、柳が見つかったらこちらからご連絡します。…はい。どうぞよろしくお願い致します。」
 女性が電話を切った。
 「柳がどうかしたのかい?」
 「――母さん。」
 母さんと呼ばれたのは居間で茶をすすっている初老の女性、鹿江だった。
 「どうやら、授業をサボって学校を抜け出したらしいのよ。」
 「あの柳が?」
 鹿江が目を丸くする。だが、柳の母、紗都子は何故か嬉しそうにうふふ、と笑った。
 「それだけここに慣れてきたのかもしれないわ。」
 鹿江はそうかねぇ、ならいいけれど、と食卓の向かいに座った紗都子に茶を注いだ。
 「飲みたくなったら自分で淹れるってば。」
 紗都子が鹿江から急須を取り上げ、自分で注ぎ始める。
 「あたしだってこれくらいせんと。このお茶だって、あんたのおかげで買えてるんだ。あたしはもう働 けないからね。」
 「何言ってんのよ。私のために年金のほとんど貯金してるの知ってるんだからね?」
 「そんなの当たり前のことじゃないか。」
 鹿江が茶をすする。四月も中旬となり、春の風が居間にも流れ込む。障子を開けた縁側の外では 庭に植わった桜が咲き零れ、花弁が舞っている。
 「……それにしても、どこで何をやっているのか。まるで昔のあんたを思い出すねぇ。」
 「ちょっと、何よそれ。」
 私を何だと思ってるのよ、と紗都子が抗議するのを鹿江は楽しそうに眺めた。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ――…供物に?

 ――ああ、それしかないのだ。…わかってくれとは言わぬ。だが…私たちには必要なことなのだ。

 ――それは…あの神のためですか。それとも…

 ――それを言ってはお前は死を選ぶのだろう?

 ――……許せなくともいい。神の曲霊を鎮めるには人と妖怪、双方の血と四魂を持つ直霊が必要なのだ。

 神の曲霊。――どんな御霊にも四つの魂がある。荒御魂は勇ましさ、和御魂は親しみ、幸御魂は愛、奇御魂は聡さを司る。これらが均衡を保てば魂である一霊は直霊となる。だが、均衡が崩れれば、それぞれ、争魂となり争い、悪魂となり憎悪し、 逆魂となり逆らい、 狂魂となり狂う。荒御魂の力が増したちはやぶる神は邪神―禍津神―となり、災厄の火種となる。

 ――……柳は…私の…

 ――わかっている。…わかっている。…だが、どうせそうなるのならお前に頼むべきだと思ったのだ。

 ――…――逆魂狂魂となれ。斎木。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「ユノキっ、遅いっ。」
 夜とはいえ蒸すような湿気と暑さは容赦しない。まだ夏も始まったばかりとは思えないような気温の中、一人の若い女性が山道を登りながら後方に声を掛けた。
 「紗都子。そんなに急がなくたって蛍は消えないよ。」
 斎木が返す。
 「蛍は薄命なの。今飛んでる蛍も私たちが着くころには代替わりしてるかもしれないでしょ?そんなの、なんか寂しいじゃない。」
 「そんなすぐには死なないと思うけどなぁ。」
 斎木はそう言いながらも紗都子に合わせて歩調を速める。
 「…ユノキは長生きだから、こういうのは解からないのよ。私は…ユノキを見ていて、時々、無性に寂しくなるよ。ユノキにとって、私と一緒にいる時間は私が感じてるよりずっと短いんだもんね。」
 紗都子が斎木に微笑んだ。だが、少し瞳が揺れている。
 「…紗都子はそう考えるかもしれないけどね、置いていかれるほうだって、同じくらい、いや、もっと 寂しい…俺はそんな気がするよ。」
 斎木は何とも言えない、少し困ったような、不思議な表情で言った。いつの間にか歩調は緩み、二人のうえに少し重い沈黙が流れた。暗い山道を懐中電灯ひとつで進む。そうして黙々と歩いていると、不意に視界が開けた。
 「あっ!」
 紗都子が電灯を消して急に駆け出した。
 「見てっ、ユノキ。こんなにたくさん!私、こんなの初めて見たよ!」
 紗都子が斎木を振り返って手を広げながら後ろを示す。そこには、一面に飛び交う無数の小さな灯が乱反射して池を煌々と輝かせながら、辺りを静かに照らし出していた。
 「…これは…すごい…。」
 水面にうつる魚影が照らし出され、周りに生える草木の影と重なっている。それらを眺めながら、斎木が訥々と話し出した。
 「…紗都子は、こうして見た美しいものをすぐに忘れるか?紗都子にとってこんな短い時間でも、ずっと先まで美しく心に残るんじゃないか?俺だってそうだよ。時間の長さなんて関係ないんだ。どれだけ深く心に刻まれたかが大切なんだ。人も妖怪も、生きとし生けるものすべてがきっとそうだと…俺は思いたい。」
 紗都子が小さく何かを返したが、その声は木々のざわめきにも負けるほど小さく、斎木の耳にも届かなかった。
 
 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「――…紗都子……柳…―」

 ――お前には柳を供物とすることはできない。


 そう覚が言っていた。だが、これはできるできないの問題ではないのだ。それは彼女もわかっていたはずだ。


 「もし、あの神の御霊を鎮められなければ――この町にもう雨は降らない。」


 そうなれば、ここにある山々は枯れてしまうのだ。人はそれでも諦めて終わるかもしれない。だが、そこに住む動物、植物、妖怪、精霊――山神さえも力尽きてしまうのだ。それは、この町の終わり  を意味しているのだ。
 妖怪と人が添い遂げるのが許されないのにはわけがある。それを知りながら、禁忌を犯した斎木にこのような役目が回ってくるのは当然の報いだ。


 「柳は直霊なんじゃない。完全な曲霊なんだ。つまり――」

 紗都子の血より自分の血を濃く受け継いだ柳の御霊の四魂は、決して均衡を欠いてはいない。しかし、人の四魂と妖怪の四魂は決定的に性質が違う。妖怪は均衡を保つために人よりも荒御魂に 注ぐ霊力が多い。柳は妖怪としては荒御霊の力が弱く、人としては強すぎる。それは半妖半人の柳 にとっては完璧な均衡だが、どちらの世界からもはじき出された状態なのだ。
 それは、時として、世界そのものの均衡を崩しかねない。
 世界は四魂に分けて考えることができる。荒御魂が現界、和御魂が幽界、奇御魂が神界、幸御魂が霊界と。

 柳の存在はこれらを混乱させるものであり、それは――神の逆鱗にも触れる。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 勝手に移動するわけにもいかず、傾きはじめた日に不安を感じながらも柳と栞菜と透真は山に留まっていた。
 「…そういえば、ここって人が亡くなった山だったんですね。初耳でした。」
 栞菜が尽きそうな会話を少し強引に繋ぎ止めた。
 「…真冬に登るなんて、何かあったとしか思えない気がします。」
 栞菜が真剣に考え始めた。
 「おい、会話が止まるより怖い方向にもっていくなよ。」
 透真が少し恐ろしげに言った。
 「あれ、透真さん、もしかして怪談とか、そっち系は苦手ですか?」
 柳が面白がるように言った。
 「なっ!?やっ!?…んなわけないだろっ!お、俺は…怖いものなんてない!」
 些か信憑性に欠ける口調で透真が否定する。
 「…この山、もっと恐ろしいものがでるそうですよ?たとえば――」
 「――っ!?」
 透真が声もなく悲鳴を上げる。
 「…あんまりやると可哀想なんで、そろそろやめてあげましょう。」
 クスクスと笑いながら、栞菜が言った。
 「おま…それはそれで…」
 透真が諦めたように言葉を切った。
 「…なぁ、ところで、お前らはどうしていつも敬語なんだ?」
 唐突に透真が訊く。
 「…え?」
 柳と栞菜が顔を見合わせる。
 「…んー、私は癖、ですかね?二親とも死んじゃってて、敬語を使う機会も多かったから…かな…」
 栞菜が笑いながら話した。
 「…そうか、なんか…」
 透真が気まずそうに目を伏せる。
 「無意識でのことなんだから、ごめんとか言わないでくださいよ?」
 栞菜が透真の言葉を遮った。透真が、うっ、と黙った。
 「…で、柳さんは?」
 栞菜が話を切り替えるように言った。
 「…あ、えーと。私は…あまり人と話さないから…」
 いつも一人でいることが多い柳はとりわけ仲の良い友人などがいない。そうすると敬語をやめる機会もよくわからなくなってしまうものだ。
 「そうなのか。」
 透真が意外そうな顔をする。
 「…でも、二人ともなんか堅いし、俺にまで敬語じゃなくたっていい気がするけど。」
 「そう簡単には変えられないです。」
 栞菜は困ったように言った。
 「谷原はともかく、笹原はもうどれだけ顔合わせてるよ。」
 透真が溜息を吐く。
 「あれ、そう言えば、貉はどうしたんでしょう?」
 栞菜が辺りを見回すが、それらしき生き物はいない。
 「覚について行ってないのか?」
 「覚さんは置いていくからよろしくお願いします、って。」
 栞菜は慌てて探しているが、一向に見つからない。
 「そんなぁ。」
 三人はうろうろするのにも疲れてその場に座り込んだ。その目の前には大きな木が立っている。どうやらそれは柳のようだった。

 
 第一二章

 ――ヤナギ…ヤナギ…

 誰かが柳の名前を呼んでいる。

 ――…………………

 応えたいが、柳は横になっているらしく、体が妙な倦怠感に巻かれて起きることができない。どうやら覚と櫻花を待つうちに眠ってしまったようだ。しかし、それにしても体の怠さは尋常でない気がした。

 ―…アリガトウ…ヤナギ…
 ―――え?

 辺りに人のいる様子はないが、声は聞こえる。栞菜も覚ははじめ姿を隠して言葉だけを伝えてきたと言っていた。この山は妖怪にとってそれが普通のことなのかもしれない。

 ――タカコ、ゲンキにナッタヨ…
 ――ヤナギのオカゲ…ダ

 どこからか聞こえる言葉が嬉しそうに笑っている。

 ――ナギラがナニをイッテも…ボクタチはヤナギのミカタ…だヨ…

 それを最後に言葉が消えた。同時に笑い声も聞こえなくなる。柳が言葉の主を探そうと体を起こす。
 
 「あれ?体が動かせる?」
 「お目覚めですね。柳様。」
 目の前に自分よりいくつか下に見える子供がいた。その顔にどこか見覚えがある。
 「もしかして…」
 「はい。私が死んだばかりの頃、柳様には助けていただきました。」
 夜中に姉を心配して泣いていた小さな女の子。だが、今は言葉もしっかりして、当時の不安そうな面影は微塵も感じられなかった。
 「…でも、助けた覚えは…」
 柳の記憶するかぎり、ない。
 「何を仰有いしゃいます。柳様が私を見つけてくださらなければ、私は一生あのままでした。柳様は霊界と現界の間で迷っていた私に呼びかけて、現界へ戻してくださったの です。」
 少女が得意げに語る。
 「私が声を掛けたから…?」
 「はい。本当にありがとうございます。おかげで姉の姿も見ることができました。」
 意図していたのではないのだから礼を言われては少し居心地が悪い。そして、ふと、自分がなぜここで眠っていたのかという疑問が頭を掠めた。
 「他の二人は?」
 「はい?」
 少女が瞬きをした。その反応からすると栞菜と透真には会っていないようだ。柳の後ろには大きな柳の木が立っている。つまり、場所は変わっていない。
 「そういえば、祓いの神様に人を供えると、奈伎良様が仰有っていました。もしかすると…」
 少女は言いずらそうに目を逸らした。
 「……どういうこと…」
 供物という不穏な言葉に柳の顔は蒼白になる。
 「私も詳しくは知らないのですが、速佐須良姫尊を鎮めるように奈伎良様に言いつかった斎木様は人との間に御子がいらっしゃるそうで、なんでもその人の子が速佐須良姫尊の怒りを買っているとか。そして、その人の子を消すのは本来、斎木様の役目だったのですが、見兼ねた奈伎良様が代わりの人の子を用意したと…」
 その言葉の意味はほとんどわからない。だが、柳にも二人の身が危険な状況にあることはわかった。
 「どこに…いるの…二人は…」
 柳が震える声で聞く。突然現れた少女。よくわからない少女の知人と神の名前。整理の追い付かない頭で考えられる事態はあまりに突飛で深刻だ。
 「それは…底根國に続く坂…伊賦夜坂…に向かっているはずと…」
 少女は言っていいのかわからない様子で小さく答えた。ソコツネノクニ、底と根の国。どんな場所かはわからないが、おそらく此の世ではないだろう。そして、消すはずだった人の子の代わりならば、考えたくはないが二人はその人の子の負うはずだった運命を辿るのではないか。――二人は……死に向かうのではないか。
 「――連れて行って。」
 「…え?」
 少女が聞き返す。
 「私をそこに連れて行って。」
 恐怖を感じないと言えば嘘になるが、柳の決意は固かった。櫻花ではないが知り合いが危ない時にゆったり構えているわけにはいかない。
 「しかしですね…底根國は霊界で言うと黄泉と重なる場所。帰れるかどうかわからないのです。そんな場所に……」
 少女が息を吸い込む。
 「命の恩人の柳様を連れて差し上げるわけにはまいりません!」
 両手で大きく十字を作る少女の決意もまた固いようだった。たしかに、帰れるかわからないようなところへは正直行きたくない。だが、二人があの真暗な目をした霊の中へ連れていかれると思うと、動かないわけにはいかなかった。
 (なにか、あの子の納得せざる負えない理由を…)
 その時、柳の頭に良案が閃いた。
 「京都の盲杖桜って知ってる?」
 柳は突然、全く関係のない問いを少女に投げかけた。
 「…盲杖桜?」
 話題が飛んだことに少女は胸を撫で下ろしながら聞き返した。
 「そう、昔、ある盲目のおじいさんがいてね。柿本人麻呂の塚を見たくて、神様として祀られた人麻 呂に歌を捧げたら、急に目が見えるようになって、いらなくなった杖をその場に挿したら桜になったんだって。これが柿本神社の盲杖桜の言い伝え。」
 ここで柳はいったん言葉を切る。
 「…そうなんですか。」
 少女は話の流れを訝しみながらも、話題が元に戻らないよう無難な相槌を打つ。
 「…そしてね――」
 柳がにやりと人が悪そうな笑みを浮かべた。
 「こんな話もあるの。その桜に住み着いた妖怪、白里の話。」
 「ビャクリ?」
 少女が首を傾げる。それもそのはず。たとえ盲杖桜のことを知っている者でも、白里のことは知らないだろう。なぜなら、この話は柳が即興で考えた「でっちあげ」なのだから。
 「白い里と書いてビャクリ。真っ白な霧で人の五感を惑わすその姿から、まるで別の世界、白き里 を見せて人を魅せる妖怪、白里という名がついたの。盲目のおじいさんも実は白里に惑わされたのよ。その白里、今はどうしてると思う?」
 一呼吸おいて柳は声を潜めた。
 「常世の番人をしているのよ。私は少し前の春、京都に行ったときに番人であるはずの白里が常世の摂理に逆らい、盲杖桜を通して人を常世に迷わせたのを見てしまったの。そこで、『十五になる前に常世に来て、見たことを誰にも言わぬと神前にて誓え。約束を違えたときはお前の死後、常世への門を通してはやらぬ。』と言われてしまったの。だからね、私はどのみち、底根國に行かなきゃならない。」
 この話の舞台をなぜ盲杖桜にしたのかは柳にもわからなかった。ただ、どこかの桜と思ったのは、 なんとなく、思い出される顔があったからなのかもしれなかった。そして、こんな突拍子もない話で信 じてもらえるかは賭けだったが、少女の幼い思考の中では十二分にあり得る出来事であったようだ。
 「……そんなことが…。……それでは、いずれは行かねばならないのですね…。ならば…」
 少女は諦めたように溜息を吐いた。
 「谷原柳様。神代より天に地下に在りし國、霊界にては常世国、神界にては底根國、幽界にては黄 泉国、現界にては影と光の入り交じる国へお連れ致します。」
 一息に言うと少女は柏手を二度打ち、両の手を何か包むような隙間を作りながら合わせて、呪いを 唱え始める。
 「伊邪那美命よ、人の目に見えぬ鎮守の杜を今ここに開き給え。祓戸大神よ、杜から川へ、川から海へ、海から人知れぬ世へ道を開き給え。」
合わせた手に息を三度吹きかける。その時、手の中で何か音がした気がして、柳は目を向けた。だが、何かが中にあるような様子はなかった。風も止み、辺りは恐ろしいほどの静寂に包まれる。どれくらい時が経った頃か、時間の流れさえも忘れさせる静けさの中に小さな鈴を転がしたような些細な音が響いた。音がした方向を柳が見るといつの間にか立ち込めた霧の中に佇むぼんやりとした人らしき輪郭が見えた。輪郭は手に扇のようなものを持ち、片手でそれを広げたかと思うと姿が薄らぎ、闇に溶け込んで見えなくなったようだった。見たものに自信がなくて少女に目を戻すと、丁度、手を開いたところだった。そこから一筋の煙のような白い靄がゆっくりと舞い上がり、尾は手の中に残したまま、周りの木々に絡みつきつつ、先ほどの霧の中へ吸い込まれるように伸びていった。
 「…ここはもう鎮守の杜、どこへでも繋がる現世の果。さあ、柳様、これを辿って底根國へ参りましょう。」
 知らない間に握りなおしていた白い靄の端を上下に振って柳に示し、少女は歩き始めた。慌てて柳も後に続く。
 「…さっき、誰かいた?…この霧の中に…」
 人ならぬ者であった気がして背筋に悪寒が走る。昔ほど苦手にはしていなかったはずだが、やはり、会いたいと思える存在でもない。
 「人を見たのですか?」
 少女が不思議そうな表情を浮かべて問い返した。
 「なんか、もやもやっとした…人っぽいかたちの…扇子みたいなのを広げたと思ったら消えて…」
 柳の拙い説明に耳を傾けるうちに少女の表情は驚きの色に変わった。
 「それは、きっと、伊邪那美命か祓戸大神のどなたかだと思います。常世も黄泉も底根もはっきり とした所在はなく、呼ぶ者や範囲によって呼び名は変わりますが、同じような場所にあり、交じり合 い、根本で繋がっているそうです。常世の中にあり、死者が住まうのは黄泉、大地と海原の巡りの力 で全ての穢れの浄化を行い、現世で言えば海の深く、地の深くに重なるのが底根國と言われていて、黄泉と底根は同じであるという者もあります。黄泉国を治められるのは伊邪那美命、底根國を司られるのは早佐須良姫尊とそれに連なる祓戸大神の方々です。私の唱えた呪いもその神々に導きを乞う類のもの。姿を見せる意のない神は徒人には見えないはずなのですが、やはり、柳様はすごい方です。いったいどなたをご覧になられたのでしょう。」
 少女が尊敬の眼差しで柳を見上げている。柳は苦笑を返した。神様が見えるというのはそんなに良いことなのだろうか。
 「迦具日っ!だから俺に黙って勝手なことをするなって言ってるだろっ!俺まで怒られるじゃないか!」
 突然、後ろのほうから誰かの叫ぶ声が聞こえた。二人が驚いて振り返ると霧の彼方にぼやけた影が見えた。そして、その声を聞いて柳は少女の名前を知らなかったことを思い出していた。
 「………勇兄…。」
 少女が逡巡しながら呟く。この距離なら霧に紛れて声の主から逃げてしまえる。柳はあの影が何者なのかわからないが、少女の反応からして見つかりたくはなかった人物なのだろうと予測した。
 「無茶なことをするなっ、奈伎良様や斎木様と違って、俺達は死人の身なんだ。底根國などに行けばそのまま消し飛ぶかもしれない。引き返すんだ!」
 消し飛ぶという言葉に柳がはっとして少女を見た。少女は黙りこくったまま影を見つめている。
 「…人は死んでしまったら…そこで終わりなんです…。黄泉がどんなところかは知りませんが…生きていたころの記憶はなくなり、ひとつ成長して天に帰ってきた魂が休むところなのだと…聞きました…。人は…ふつう死んだらそこへ行って…新しい物語を紡ぐ準備をします。…すべて…何もかもすべてを忘れ…水に流して…。」
 自分に言い聞かせるようにしながら柳に向かって少女が訥々と話す。
 「…私は…もう死んでいるのですから、どうなったっていいと思いませんか?すべてを忘れてしまうのと、忘れる前に魂ごと消えて無に還るのと…どっちがいいと思いますか?明日にでも…明日にで も、私は母も悲しんでいる姉も忘れて…どこか遠い国の女の人を母と呼ぶようになって…楽しく暮ら して……」
 少女の頬に光るものが伝った。
 「…それは誰ですか?それは…魂が消えるよりも、私が消えたことになりませんか?教えてくださ い…私は…私は…いったい…」
 少女がその場に頽れるように膝をつき、がたがたと震えだした。
 「カグヒちゃん…大丈夫だよ。落ち着いて。」
 柳もその場に膝をついて迦具日の顔を覗き込み、あやすようにゆっくりと語り掛ける。
 「ごめんね。私、何にも知らないで、カグヒちゃんに無理させていたんだね。無責任に自分の手に余ることをしようとしていたんだ。嫌なことを考えさせてしまったよね。ごめんね。」
 落ち着いてきた少女に柳が微笑みかける。
 「戻ろう、あの人もすごい心配してるみたいだよ。……怒りながら。」
 目を拭いながら迦具日は頷いて立ち上がった。柳が迦具日の手を握って先に歩き出す。実体がな いから無理かとも思ったが、迦具日は何か依代があるようだった。


 「なあ、奈伎良様が戻られて、お前が消えていたら俺は何と言えばいいんだ?目を離した隙に底根國の瘴気にやられて無に還りました、てか?ふざけるなっ!」
 霧の外にいた十くらいの少年が迦具日を一喝した。霧の中を影に向かって歩き、やっとの思いで 抜け出した第一声がこれだった。底根國に向かうときと違い、頼りになるのがぼんやりとした影のみ だったので、方向感覚だけで霧を掻い潜るのは思いのほか苦労した。少年は生者でも妖怪でもない ようだし、話を聞いていたところ彼もまた、奈伎良や斎木と呼ばれる者たちに仕えているようだった。少年と迦具日は兄妹ではないようだが、醸し出される雰囲気はもっともそれに近いと言えた。
 「…ごめんなさい。」
 迦具日が萎れる。少年は少し声を和らげた。
 「だいたい、なんだって底根なんかに行こうとしたんだ?」
 柳が少し目を大きくした。
 「それは…私がお母さんに会いたくて――」
 「ごめんなさい。私が勝手なお願いしたんです。…カグヒちゃん、庇ってくれてありがとう。でも、優 しすぎるといつか自分が傷付いちゃうよ。」
 柳が迦具日の言葉を遮って笑いかける。
 「勝手なお願いって、どういうことだ?」
 少年が眉を顰める。柳はどう説明したものかと考え込んだ。考えてみれば、柳は詳しいことをほと んど理解できていない。
 「…供物の人の子が…柳様のお知り合いで…その…」
 迦具日が代わりに説明するが、声が小さくなって最後には消え入る。
 「それで、奈伎良様に供物を取り換えるように進言するつもりだったのか?それとも、神の荒御霊 を放っておいて町が滅びるに任せてほしかったのか?」
 少年は迦具日に話しかけながらも目は柳を鋭く睨んでいた。柳は自分の浅はかさが恥ずかしくなった。だが、だからと言って、栞菜と透真が供物にされるということを受け入れはできない。だいた い、神の供物とはいったいどういうことなのか。昔話の生贄のようなものならば何としても阻止しなければ。それに――
 「悪いのは…掟を破って添い遂げた…妖怪と人じゃない…なのに…どうして…」
 柳は自分で言ったことに驚いた。こんなに責めるようなことを言うつもりではなかった。会ったことも ない妖怪や人のことを悪く言うなど褒められたことではない。それに、好きになってしまったのならば仕方がないことなのかもしれない。何も知らない者に責められては彼らも納得がいかないだろう。
 「へぇ…自分の親をよくそんな風に言えるな。そう思ってるなら、むしろその子供である自分が嫌にならないか?…お前みたいやつ――」
 少年が軽蔑の眼差しで柳を見る。だが、そんなことが気にもならないほど柳の頭は真っ白だった。 自分の親、その子供である――。今、この少年は何と言った?
 「言ってはだめっ!柳様は知らないの!何も悪くない!斎木様だって、柳様だって、誰も何も悪くないの!やめて!」
 迦具日が少年の声に被せるように叫んだ。
 「……私なの…?…じゃあ…じゃあ、栞菜さんと透真さんは…私の代わりに…」
 「違います!そうじゃない!柳様は――」
 「行かなきゃ…二人を…連れ戻さなきゃ…私のせいで…私のせいで…」
 柳が先ほど出てきたばかりの霧に向き直り、駆け出した。
 「柳様!待って!行っては…お一人で行くなんて…危険です!引き返して!」
 後を追おうとする迦具日の腕を少年が掴んだ。
 「離して勇兄!見失ったら…二度と見つからないかもしれない!恩を返してもいないのに…あの方 を死なせてはいけない!いえ、まだ生きている誰だって…死に追いやるようなこと、誰もしていいわ けがない!おかしい!奈伎良様も、斎木様も、絶対におかしい!」
 迦具日の目から止めどなく涙が溢れる。
 「落ち着け!まだ誰も死ぬと決まったわけじゃない。誰も死ななくてすむ方法がきっとある!お前が 消えたらそれを誰が探すんだ?お前まで道を外すな。もっと遠くを見るんだ。」
 少年は妹をなだめる兄のように迦具日の頭を抱き込んで背中を擦ってやった。

 第一三章

 覚は山に戻ると愕然とした。黄泉路と繋がる霧が木々を覆い、山全体が鎮守の杜と化していた。待たせていたはずの二人も、彼らを守るように言いつけていた貉も姿を消している。
 (どうなっているんだ。こんな妖気の強いところで道を開いて…下手をしたら黄泉の軍勢が溢れ出 てくる…)
 二人が迷いこんでいないか確認しながら手探りで霧の中を進む。
 (こんなことをするために隠里を出たのではなかったのだが。しかし、彼ならば巻き込んだ者の面 倒は最後まで見るだろう…だからなんだという話ではあるが…、後味の悪い思いは御免だから な…)
 そんなことを考えていると、何か細長い、光を弾く糸のようなものが目の片隅に引っかかった。霧に紛れていて見えずらいが確かに何処かへと繋がる靄の糸のようだった。当てもなく彷徨うよりはと覚 は糸を辿ることにする。そのまま暫く歩き続けていると、微かな人影のようなものが糸の先のほうに 見えた気がした。探している二人かはわからないがとにかく追いかける。初めは遠いと感じていた人影は、しかし、途中で何度か立ち止まるなどしていたらしく、すぐに追いついた。それは少女だったが、栞菜と年は近くとも別人だった。
 「こんな場所で何をしている?」
 覚が声を掛けると驚いたように振り返った。敵意のある相手かもわからないので、覚は慎重に探り を入れる。
 「…底根國に…行くところなんです。」
 少女はあまり言いたくないようだったが、覚の雰囲気に気圧されたのか、おずおずと答えた。それを聞いて覚は目を丸くする。こんなに幼い少女がこの霧の意味するところを解し、さらに、知らないと は思えない危険に挑むなど正気の沙汰とは思えない。
 「瘴気に当てられれば、下手をすれば死んでしまいます。そこまでして何をしに行くのですか?」
 少女に悪意がないと見てとると、覚は穏やかな口調に戻った。
 「…友人が…供物として…荒御魂を鎮めるのに利用されてしまうんです…。でも…どうしたらいいのかわからなくて…」
 途方に暮れたような少女の言葉は覚の心を冷やした。もしかすると、少女の語る供物とは、あの二人なのではないだろうか。
 「もしや、そのご友人の名は、栞菜と透真ではありませんか?」
 覚が訊くと少女は目を瞠った。その反応がすでに答えだ。
 「どうしてそれを…」
 「私は妖怪の覚と言います。人の心を読む――」
 言いかけて、覚はふと口を噤んだ。なぜかこの少女の心が聞こえてこない。かと言って、何も考え ていないわけではないだろうに。人ではないのだろうか。少女の目星は付いていた。あの二人が探していた谷原柳だろう。だが、彼女は人であるようだった。目の前の少女は確実に、ほんの少しの妖気を帯びている。
 「おかしい。お前、姿を謀っているのか?谷原柳のふりをしているのか?どいつもこいつもふざけたことを。私を攪乱するのが目的か?」
 覚が柳を冷たく見下ろす。それを見上げる柳の顔は蒼白だが、それ以上に何かものを問いたそうな表情をしている。
 「……か?」
 柳が小さく口を開く。
 「ん?」
 覚が眉を顰める。
 「私は…人ではないのですか…でも、妖怪でもないのでしょう?…私は…何ですか?」
 柳の言葉は震えている。訊いてしまってから耳を塞ぎたくなるのを我慢しているようだった。覚は問いの意図を掴み兼ねて答えに窮する。
 「…お前は…人に見える。私も、心を読めないことに気が付かなければ人だと思っただろう。だが、 お前が妖気を体の内から発しているのも確かなことだ。私が今まで会ったどんな人よりも妖怪に近く、どんな妖怪よりも人に近いと感じる。お前の正体などは私が訊きたいよ。」
 少し困ったように覚は返答する。それを、海が突然凪いだような静かな面持ちで柳が聞いている。
 「ならば…私は…やはり存在すること自体が…良くない者なのですね。わかりました。」
柳は静かに言った。何かを決意したような響きが聞き取られた。
 「この糸を辿れば、底根國に行けます。二人はそこに連れていかれるそうだから、この先できっと 会えます。サトリさんも一緒に行きましょう、二人のところに。」
 柳がにっこりと笑いかける。
 「なぜ、私の名を…」
 「栞菜さんが話していました。優しい心根のひとだって。」
 そのままくるりと踵を返し、柳はまた糸を辿って歩き出した。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「幽鬼のような顔だな、斎木。」
 柳の木の下で手を地に付き、肩を上下させている若者を少年が眺め下ろしてこの姿を見るのが如何にも楽しいといった表情で語り掛ける。
 「たしかに、その薬湯を飲めば、心を邪鬼に落として逆魂狂魂となれるとは言ったがな、それはつまり、陰陽五行や四大元素の均衡を一時的に崩すということでもある。あまり何度も取り込めば、それが一時的なものでなくなるぞ。しっかりしろ。」
 口調は心配そうだが目が狂おしいほどの笑みを湛えている。とても少年のものとは思えない表情だ。
 「…勇輝にあまり負担を掛けないでやってください、奈伎良様。」
 少年に話しかけながら斎木は体勢を直して木に凭れ掛かるように膝を立てて座り込んだ。少年は不機嫌な顔になって木を後にしようとした。
 「あぁ、そうだ、お前の娘、そろそろこちらに着く頃だ。さて、親しい人の子の二人を目の前で血祭りにされて、どれだけ正気を保っていられるか、見物だな。…お前が迦具日に勝手なことを教え込むからこんなことになるのだ。黄泉路を開いた代償は安くない。お前もわかっているだろう?」
 くっくっ、と面白くて仕方がないというような笑いを漏らしながら、少年はその場に崩れ落ちる。地に倒れる寸前に慌てて斎木が駆けつけて支えた。
 「…斎木…様…?」
 少年がいつの間にか閉じていた瞼を薄く開ける。
 「大丈夫ですか…勇兄…」
 今まで木の陰に隠れて成り行きを見守るしかできなかった迦具日が出てきて、自分が苦しそうな顔で勇輝を見つめる。
 「――迦具日」
 斎木が呟いたのを聞きつけて迦具日ははっとした。
 「も、申し訳、あ、ありませんっ。こんな…こんなつもりでは…」
 迦具日が今にも泣きだしそうな面持ちで頭を深く下げる。
 「いや、済んだことをとやかく言っても始まらない。迦具日も必死に考えて行動したんだ。あまり自分を責めるな。」
 迦具日の頭に手を置いて、ぽんぽんと軽く叩きながらも斎木の目は未だに濃く立ち込める霧の彼方を見つめていた。
 「…余計なことを教えた俺も、悪いんだしな…」
 ぽつりと発せられた斎木の言葉に迦具日は刃を突き立てられたような思いがした。そうか、余計なこと。斎木は迦具日に優しくしたせいで娘を見失ったのだ。その上、こんなことを言わせて、自分は何と愚かしいのだろうか。
 「…今度は私が…柳様をお助けする番です…。斎木様にも…拾っていただいたご恩をお返ししたいと思っていました…」
 迦具日は心此処に在らずな様子で霧に向かって歩き出した。
 「…迦具日…?」
 はっきりと意識の戻ってきた勇輝がふらつきながらも迦具日の手を掴む。
 「…いけない…行っては…お前は…ここから逃げ出したいだけだ…。誰の…ためにも…ならない…」
 まだ呂律の回らない、途切れがちな言葉が迦具日の心に沁み渡った。危ない。斎木に顔向けできないという思いが、怖くて顔を見られないという思いが、自分を見失わせる。黄泉路には不思議な魅力があり、近付くものを引き込もうとするのだ。迦具日は誰も死なせずに早佐須良姫尊の荒御魂を鎮める方法を考えなければならないのに。
 「底根國は元来、地上の全てのものの源として、天や日の光以上に恵や命そのものに近い場所だったんだ。だが、伊邪那美神が黄泉でいじけて、淀んだものを流さず、溜め込むようになると、死者の数は増え、気の巡りは悪くなり、底根國もろとも瘴気の溜まり場のようになってしまった。だから、浄化の神である四柱の祓戸大神はこう考えた。幽界の黄泉、霊界の常世、そして神界の底根を気の巡りの果として、その他のどの世のどんな場所にも、とくにこれらと重なる現界には決してこの地を干渉させないようにしようと。」
 斎木は懺悔をするように、心の傷を抉るように言葉を紡ぐ。
 「だが、妖怪というのはすごく複雑なもので、四つの世界のどこにでも行けてしまう。紙一枚を隔てたような、四つの世界のどこでもなく、それでいて、その全てが合わさったような、簾に囲われたような世界に生きている。そして、そこから出れば姿が認識されるようになる。俺は…人と深く関わってはいけないと奈伎良様に何度も言い渡されて、掟という言霊に従う約束で人の世に出る許しをもらった。それなのに…それなのに…俺は…俺がすべてを壊してしまったんだ。紗都子の人生も、柳の人生も…奈伎良様も…」
 山で迷って途方に暮れていた紗都子に声を掛けた。夏の日差しに負けないくらい眩しく笑って礼を言う紗都子がとても美しいと思った。この前の礼だと言って籠一杯の果実を持った紗都子が山を訪ねてきたとき、まだ自分さえ気付かないおかしな気持ちを抱えて神妙な顔をしてしまった。迷惑だったかと思った紗都子の沈んだ顔を見て、柄にもなく慌てふためいたのだった。迷惑なわけないだろう、また来ればいい、待ってるから。少しぶっきら棒にそう言ったのが気恥ずかしくて、紗都子の目を見れずにそっぽを向いていたら、堪え切れずに吹き出した紗都子の声が聞こえた。むっとして、もういい、と言ったら紗都子は笑ったまま謝り、でも、また来てもいいのかと訊いたのだ。そのとき、なぜか心が弾んで、今度は紗都子の顔を真正面から見ながら、もちろんと笑顔を返せたのだった。
 そこで終わりにして、すべて忘れてしまえばよかったのだ。あの時にすべて忘れてしまえれば、誰が傷付くこともなかったはずだ。それなのに、自分の欲のままに動き、紗都子を、柳を、奈伎良さえも狂わせてしまった。
 「すまない……すまない…すまない…」
 誰に向けるでもなく繰り返される斎木の声は身を引き裂かれるような悲痛な心の叫びとなって霧散していった。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 真暗な世界に、水音だけが響く。ごつごつとした岩肌を背に感じて、洞窟のような場所だと遠退く意識の中で思った。最後に聞いた言葉は、あまりに淡々としていて、何も感じられなかった。誰の声だったのだろうか。
 ――さよなら、と言った、あの声は。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 (うぅ…痛い…)
 栞菜が目を覚ますと、見知らぬ天井が視界に飛び込んできた。だが、懐かしい気がする。昔は見慣れていた天井だという気がするが、それなら思い出せないはずがない。どうやら、自分はベッドの中のようで、このベッドにも天井に似たものを感じる。狭くて、無駄なものがない質素な部屋。家具も小さな箪笥が一つに、ダイニングテーブルと書き物用の机だけだ。生活感はあるが、飾り物もなく、少し殺風景だ。周りを眺めながらそんなことを考えていると、ベッドの横に人の気配があることに気が付いた。その人はダイニングから椅子を動かしてきて座っているようだが、そのまま眠ってしまったようで、小さな寝息を立てている。
 「……お…か…」
 栞菜が話しかけようとすると、その人は目を覚まして、栞菜の布団を整えた。
 「大丈夫よ。ちょっとお風邪を引いちゃったみたいだけど、お医者さんでもらったお薬を飲んでいればすぐに良くなるわ。」
 その人はにっこりと栞菜の顔を覗き込む。
 「でも、もうしばらくはお布団の中ね。そうしていれば早く治るから、もう少しの辛抱よ。」
 ベッドの脇にはすりおろした林檎が置かれている。そういえば、風邪を引いたときはいつもこうしてくれている。

 ――ああ、この人はお母さんだ。ここは自分の家だ。懐かしい?とんでもない。自分の家がなぜ懐かしいと思ったのだろうか。毎日見て、暮らしているのに。お母さんのことも、まるで知らない人のように感じたのはなぜだろうか。大好きなお母さんなのに。

 あれ?お母さん、このお時間は…お仕事に行かなくていいの?だって――

 ――だって、毎日――――

 「栞菜、お水を置いておくね。」
 美夜瑚が栞菜のお気に入りのマグカップをベッドの脇に置いた。
 「――…うん。」

 ――お母さんは優しい。風邪を引いた時も付きっ切りで看病をしてくれる。でも、こんなの、普通のことだ。あたりまえのこと。お母さんっていうのは、そういうものだ。ほかの子のお母さんだって、みんなこうだもの。

 ……なのに。なのに、どうしてこんなに幸せに感じるんだろう?どうしてこんなに涙がこぼれるのだろう?お母さんならわかるのかな?


 ――ねぇ、お母さん。私、幸せだよ…ずっと。


 第一四章


 真暗な世界に、水音だけが響く。ごつごつとした岩肌を背に感じて、洞窟のような場所だと遠退く意識の中で思った。最後に聞いた言葉は、あまりにも誰かに似ていて、何も感じられなかった。誰の声だったのだろうか。
 ――そっちに行ってはだめ、と言った、あの声は。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「お前は全てを覚えているのだろう?あの子と違って。」
 真暗な闇から声が聞こえてくる。自分は横になっていて、声の主は立って自分を見下ろしているようだ。体を起こして立ち上がり、辺りを手探りで探るが、人は見つからなかった。
 「飯田透真よ、お前が思っているよりも、苦しい。全てを背負うのは。徒人が妖怪になるのはとても困難なのだ。一度生死を彷徨い、神に触れ、四魂の一つを代償に現世に戻る。そうすれば、人ではない者になる。そして、失った四魂の一つの紛い物を入れて、さらに荒御魂を強めれば妖怪となる。たとえば、荒御魂を代償として、荒御魂よりも強い憎しみの感情を持てば、お前はもう妖怪だ。紛い物の、な。」
 声の言っていることは理解できる。おそらく、目を覚ます前に何かを聞いたからだろう。その知識が活かされているのだ。だが、誰に何を聞いたのだったろうか。そして、自分はいったい何をしているのだろう。自分の名前も、家も、なぜか記憶がない。ここで目を覚ますより前の記憶。全てを覚えている、と声は言ったが、そんなことはない。全く覚えていないのだから。
 「おっと、これはすまない。言い間違えたようだ。――飯田勇太。」
 言い間違えた。……何を……?―――自分の中で何かが割れたような気がした。ぱりん、という小さな音を聞いた気がした。

 「――違う……。違う…違う…違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!」

 自分の声が遠くに聞こえる。
 「違う違う違う…ち…が…うっ!俺は…………透真……飯田透真…だ…。勇太って誰だよ!?……勇太なんて知らない……俺は…透真だから……違うんだよ!」
 「そうか。では、名前を変えるはめになった、兄殺しの汚名も忘れてしまったか?」
 声がぞっとするほど優しい声で訊いた。兄殺しの汚名。兄殺し。

 ――勇太っ、そこに行ってはだめだっ!

 あの言葉の主を、自分は、殺したのだろうか。

 ――勇太、わかっているよ。大丈夫だ。ごめんな。俺が気付いてやればよかったんだ。さあ、帰ろう。

 あの後だった。そうだ、覚えている。たしか、あの川があって、大雨が降っていて、濁流に飲み込まれて消えた姿を覚えている。自分を本当に許してくれたのか確かめたくて俺は――――

 ―――どこまでも勝手な奴だ。お前のせいで死んだんだ。お前が俺を殺したんだ。―――

 「やめろ…やめてくれ…やめろやめろやめろ…やめろおおおぉぉぉぉぉぉぉ!」
 この夢を何度見ただろう。透真が頭を抱え込む。誰かが自分を嘲っている。無様な自分を見て蔑み、笑っている。誰だ。誰なんだ。誰にも会いたくない。無様な自分をあの子に見られたくない。

 そっちに行ってはだめ、と言ったあの子に。

 「壊れてしまえ。壊れてしまえ。私のように。私のように曲霊になってしまえ。世界を憎んでしまえ。自分を理解してくれない愚かな世界を憎んでしまえ。そのほうが、理解を求め、理解するよりずっと楽なのだ。ほら――」
 何か固いものが地面に落ちて、ことり、と音を立てた。
 「ほら、可愛いあの子がお前を蔑んで笑っている。」
 音のしたところに顔を向けた透真が硬直した。ぼんやりと輝く影がいつの間にか現れている。その姿に見覚えがあった。肩までのセミロング。白い清楚なワンピース。いつも本を読んでいる。名前は―――

 「人でなしの飯田勇太君。これからもよろしくね。」

 ふふふ、と笑う白い影。氷のように冷たい瞳がその笑いが嘲笑であることを物語っている。
 そのまま、透真の意識は途切れた。白い影は透真が倒れ込むのを見届けると霧散するように掻き消えた。
 ――その後には掌ほどの大きさの貝が落ちていた。
 
 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 柳と覚は長い間彷徨ってようやく霧を抜けた。だが、これで底根國に着いたと思ったのは甘かったようだ。目の前に聳える大岩。これに閉ざされた穴の先に底根國があると覚は言う。
 「…いや、これを退かせる人なんて…いない気がするんですけど…。」
 早くも柳が弱気になる。
 「問題ない。開けると言っても物理的にではない。この大岩自体が神体。この神を説得できれば通れる。」
 覚は断言しながら柳を凝視する。柳は嫌な予感がした。
 「……説得は…誰が…?」
 「……………」
 柳が溜息を吐いた。
 「私はこの神と少し因縁があるからな。すまないが無理だ。」
 柳は諦めたようにまた大きく溜息を吐いた。
 「わかりました。私が説得します。どうすればいいの?」
 柳がそう言うと覚が頷いて不敵に笑った。
 「では、頼んだ。」
 覚が柳の肩に手を置いた。
 (なんか…嵌められた気分…)
 覚が言うには、特別な道具などはなく、柏手を二度打ち、神ながらに我らの声を聞き届けたまえ、と唱え、神の姿を心に思い描けば神が現れるそうだ。
 「……神の姿って…あの大岩ですか。」
 「大岩では話ができない。何か、人と会話できるものを想像するのが良かろう。神に生き物のような実体はないから、見る者の中にある姿で神は見える。だから、お前が話しやすそうな姿を想像すれば良い。」
 神の姿。昔、家のお札に描かれていた炎に顔が浮かんでいるようなものは神の絵ではなかっただろうか。口があるなら会話もできるのだろう。
 柳が柏手を打ち、呪いを唱える。

 ―――『ほう、覚は彼の国への訪いかたを心得たようだな。』

 突然、大気が震え、低く静かな声がどこからともなく響いた。
 「……もう数百年の付き合いです。貴殿がどんな人間を気に入るかなど想像に難くありません。そのような人間を見つけるのも朝飯前です。」
 覚が口調の丁寧さとは裏腹に呆れたように言った。
 『ふん、何が朝飯前だ。今回は偶然ではないか。』
 声が不機嫌そうに言う。
 「つまりは、神が私に味方をしてくださっているわけです。」
 『……それを儂に言うのか…』
 今度は声が呆れる。
 「それはともかくとして…」
 覚が話を遮って真剣な表情をした。
 「―――姿を見せてください。」
 今まで緩やかに吹いていた風が急に消えた。辺りが静寂に包まれる。
 『………本来、人に姿を見せるのは良くないことなのだ。だが、彼女は徒人ではないのだろう。』
 止まっていた風がまたゆるゆると動き始めた。
 『人の童子よ、伊邪那美に愛され、伊邪那岐に恐れられし国へ行くなら、私にそれ相応のわけを話してもらおう。』
 風が一転に集まり、小さく渦巻く。
 『……と、言いたいところだが、お前の話をじつは白里から聞いているでな。勝手に通って構わん。』
 旋風の中に真紅の炎が一瞬見えた気がした。しかし、それは最後の言葉が放たれると同時に弾けて辺りを駆け巡りながら消えていった。凄まじい強風が柳の足を掬おうとする。
 だが、柳が考えているのはそんなことではなかった。
 「ビャクリとはなんだ?」
 覚が訝しそうに柳を見た。
 「白い…霧を見せて人を惑わす…常世の番人…」
 「なんだそれは?聞いたこともないぞ。」
 覚の目が険しくなる。
 「……知ってるわけない。…私の…でっちあげなのに…」
 あれは、あんな嘘を吐いたことを戒める言葉なのだろうか。勝手に通って後悔するがいい、という意味だろうか。わからない。わからないから怖い。
 「………私は何故かお前の心が聞こえないんだ。だから、黙っていないで、どういうことか話せ。」
 柳がはっとして顔を上げる。
 「…お前は、どことなく、昔の私に似ている。身近な者を怯えさせるのが怖くて多くを自分の内に溜め込む。」
 覚は何かを思い出しているような面持ちで歯噛みした。
 「だが、本当の自分を隠して、本当の自分を卑下してみても空しいだけだ。それは、誰かを裏切ることにしかならない。」
 覚が柳をじっと見据える。
 「私は、自分を言葉にすることができなかった。何も伝えなかった。お前はまだ誰も裏切っていないのだろう。裏切られてもいないのだろう。あまり心を重くして自分を追い立てるな。」
 覚がふっと表情を緩めた。
 「……少し感情的な話をしてしまった。お前を見ていると、少し羨ましく、少し怖くなるんだ。私はお前のように向こう見ずに突き進む勇気はなかった。自分の行動が吉と出るか凶と出るかをいつも考えて、人のためと言いながら自分が傷付くのを恐れて。だから、お前が自分を信じて答えを出せるのが羨ましく、それがどんな結果を招くかが怖い。」
 自分の言葉を噛みしめるように言う覚に柳は戸惑った。
 「…私は、そこまで自分を信じているつもりはありません。ただ、何もしないでいるのが怖いだけなんです。だから、私は、勇気とか、答えとか、覚さんが思っているような立派な人間ではないと思います。臆病で弱い人間です。」
 ふと、柳は幻覚の矢を引き抜いたことを思い出した。あのような馬鹿なことを正しい選択をできる者がするはずはない。矢は、刺さるより抜くほうが痛いに決まっている。だが、柳は微塵もそれを考えなかった。頭に思い浮かばなかった。
 「お前は見る限り、人と妖怪の狭間の者のようだ。どんな経緯でお前がこの世に生を受けたのかは知らないが、怖れのあまり人としての考えの中に妖怪の気質が現れ、人の弱さでは考えられない強さが現れることがあるだろう。それを勇気と呼ぶのが間違いだとは、私は思わない。怖さから生まれる強さがどう転じるか、わからなくともそれと向き合えるならそれは勇気だ。」
 柳の心は読めないと言っていた覚だが、柳の心を見透かしたような発言をする。
 (…私は、もう少し自分を信じてもいいのだろうか…)
 自分の存在が友人を、おぼろげにしか思い出せない父を傷付けていると突き付けられて、実感が湧かないだけに怖くなり、逃げてはいけないと思ったから嘘を吐いて突き進んだ。こんな自分を信じる者はいないだろう。だから、自分が信じて進むしかない。
 「…それで、白里とは、お前しか知らない何かなのか?」
 覚が話を戻す。
 「私はこの霧を出してもらうために、ある女の子に妖怪に脅されて常世に行かねばならないと嘘を吐いたのです。その妖怪の名を白里と言います。この話はすべて私が勝手に作ったものだから、あの神様は、私が嘘を吐いたことを暗に責めているのかもしれません。」
 柳が後ろめたそうに言う。
 「それは、どうだろうな。あの神はそんな些細な嘘を気にしない、というより、愉しむ性質だと思うが…。」
 覚は困惑して考え込む。
 「……あの言葉にどんな意図があれ、中に入れるのならありがたい。ここで話していても拉致が明かんし、二人が心配だ。」
 覚が大岩に目を向ける。そのまま大岩の前まで歩き、そっと手を触れる。すると、重そうな岩が音もなく砂のように崩れ去り、見る間に消え去った。その先にはごつごつとした岩肌の廊が覗く。
 「………すごい。」
 「よし、行くぞ。」
 二人は顔を見合わせると頷き、そこへ足を踏み入れた。

あやかしだらけな縁 プロローグ~14章

あやかしだらけな縁 プロローグ~14章

霊が見えることで自分が普通の人とは違うと思っている少女、柳は常に一歩下がって人と付き合っていた。そんな彼女に初めて友人ができた。とくに何を話すわけでもないけれど、隣で本を読んでいる少女は妖怪や霊に少しの恐怖と多大な憧れを持っていた。 そんなある日、友人、栞菜が山に迷い込んだと知り、柳は探しに行くが、そこで霊が見える本当の理由を唐突に知ることとなる。 大昔の因縁、忘れたふりをしていた過去、決して消えない罪の過去。その全てが未来に思いをはせるための過去。 柳に関わる人々の真実の過去が織りなされ、危うい今をつくりだす。それでも、過去を水に流し、必死に前を向こうとする人や妖怪の物語。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-24

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