願いは笑顔と共に

1027年4の月 八代目 夏帆の物語

音が聞こえた。何かがパキンと割れる音。皿やツボが割れる音より甲高く細い音。何かの楔が解けたような音だった。
その音が聞こえたイツ花は洗濯物をたたむ手を止めて庭へと出る。庭には拳法の稽古に精を出す月影と、息子に奥義を指導するまつりがいた。彼らにはイツ花が聞こえた音が聞こえていなかった。イツ花は二人に声かけることなく急いで北西の空がよく見える正門へと走っていく。

「母上、イツ花が」
「はて、何を急いでるのかしら?」

二人はイツ花が走っていった方角を見た。すると空に赤く燃えるような光が音もなく一直線に表れた。地上から空へ登っていく赤い細い一本の光、それを見た月影は驚く。

「は、母上っ!あの光は朱点の仕業でしょうか!?」
「月影、落ち着きなさい。あれは八千代達が神様を解放させた証の光です」
「解放?」
「色々な事情で地上に落ちている神を、天界へと返す儀式みたいなものです」

まつりは落ち着いた態度で月影に諭す。とは言っても彼女が空に登る光を見るのは初めてだった。似たような光は一度見た事がある。大江山で虚空坊岩鼻を解放した時と同じ。だから思う、あの光は神を解放した際に放たれたものだろうと。母から教えられた月影は赤い光が射す空をぼんやりと眺める。光は白い雲を突き抜け高く高く登っている。

「……父上がいる場所に、また一人帰ったというわけですね」
「そうです。貴方の父上も相翼院に捕らわれていたと聞いています。それを解放したのがご先祖様です」

地上から放たれていた光が途切れるとあっという間に光は空から消えた。薄い青色の空に太陽が一つ浮かび、白い雲が流れるいつもと変わらぬ空。季節は春。まだ少し風は冷たいが頬に当たる太陽の暖かさは春の訪れを伝えていた。
月影とまつりから離れた正門の前でイツ花も空の上へと消えた光を見届けていた。

「また一人の神様が解放されたのですね」

天界はさぞ喜ぶことでしょう。イツ花はそう思った。



「鳴神小太郎、只今戻りました」

1027年4の月、天界に戻ったのは紅蓮の祠に封じられていた鳴神小太郎だった。彼は膝摩づく事なく太照天昼子と同じ目線で報告する。隣に立っていた太照天夕子は渋い顔をした。一言述べようとしたが、先に昼子が話した。

「おかえりなさい、鳴神様。貴方の帰りを皆待ちわびていました」

鳴神は小さく鼻で笑った。昼子の言葉が信じられん、そんな風に。

「さて、少し休ませてもらいますよ。なんせ天界に戻ったばかりなんで」

鳴神は昼子達に背を向けて大広間を去ろうとする。夕子が「鳴神っ!」と叫んでも彼は振り向かず歩みを止めない。

「鳴神様」

昼子の呼び止める声で鳴神は足は重くなり歩く事ができなくなった。止まるつもりは全くなかった。足早にこの場から離れたかった。が、彼女には鳴神、いや昼子自身より下の神全てをを従わせる力が何故かあった。足の重みは名を呼んだ声に込めた力のせい。小賢しい真似を、と鳴神は心でつぶやいた。
(畜生、屈服なんぞするもんか)
彼は振り向きはしたが昼子と目を合わせる事だけはしなかった。

「……何かご用でしょうか?」
「貴方にはこれから朱点打倒を誓う一族の交神相手になる機会があるかと思います。よろしくお願いします」

本当なら「いやなこった」と言いたかった。しかし昼子に逆らう事を心が拒絶する。夕子には簡単に逆らえるのに、十数年前に現れて一気に天界の頂点に立った小娘になぜ俺が、と奥歯をギリッと噛んだ。

「……記憶の片隅に覚えておきます」

鳴神の抵抗は皮肉った言い方で返事をするのがやっとだった。その言葉で彼の足は軽くなる。どうやら昼子は鳴神の言葉を肯定と受け取り力を解除させたようだ。鳴神は先程より足を速め大宮殿の広間、いや彼女の言葉が届かない場所へと姿を消した。

「いいのですか、昼子?」
「いいのです。彼の力も朱点打倒に必要ですから」

確かにそうだ、と夕子は思う。それと同時に一つの不安も芽生える。反昼子派の勢力が戻りつつある天界、革新派の神にとって敵が増える事は思わしくない。彼の解放で今まで築いてきたモノが崩れ落ちなければよいが、と未来を案じた。





大広間を出た小太郎が向かった場所は宮殿の外の一つの塔だった。地上で言えば九重楼に似ている。もっともこの塔は九重楼より高く階数は三十近い。彼はその塔に登る事無く近くの森の中へ入っていく。夜は既に更け森の中は暗かったが彼自身から放たれる炎で道は明るく灯されている。まっすぐと1里ほど森を歩いた頃、何もない広場へと出た。広場の中央に一匹の獣が寝そべっていた。小太郎は大声で名を呼んだ。

「伏丸っ!!」

名を呼ばれた獣は耳を引くつかせ飛び上がるように起きた。獣は二足で立ち上がり、ゆっくりと歩いてくる。胸に髑髏の首飾り、額に三日月の字。彼の名は十六夜伏丸。土を司る神の一人だった。伏丸は大声で歓喜の声を上げた。

「小太郎じゃないかっ!!帰ってきたのか!!」

尻に生える尻尾を大きく振り小太郎に抱きついた。小太郎も彼の抱擁に強く答える。

「元気にしていたか?」
「もちろんだ!」

伏丸は再会を祝して一つ組み交わしたいと申し出たが小太郎は解放されたばかりでまだ力が戻っていないと断った。彼の尻尾はしゅんとしな垂れた。それから小太郎は伏丸から天界の近況を聞いた。二人は昼子を上とする改新派の神々と対抗する保守派の神々に属していた。伏丸が知る限りでは保守派の多くは未だに鬼となり地上に捕らわれ天界に戻ってきていないという事だった。

「そうか、まだ黄黒天吠丸様は帰ってきてないか」
「赤猫のお夏はお前と一緒の場所に捕らわれていたな。お前が帰ってきたのならもうすぐ帰ってくるのではないのか?」
「まだだ。アイツの呪いはちょっとやそっとじゃ解放できない」
「まったく、面倒な呪いをかけたもんだ、朱点は」
「思ったんだが、これは本当に朱点の呪いなのか?」
「どういうことだ?」

小太郎の疑問に伏丸は問うた。

「俺達は改新派に対抗すべく朱点に力を貸した。しかし朱点は共に戦うやり方ではなく我々を鬼と化させ迷宮に閉じ込めた。明らかにそんな甘いやり方だから今、神と交わる一族に解放されている。一番利を得ないのは朱点なんだぞ」
「そうだが、単に朱点が頭悪かっただけでは?」

神と言っても万能ではない。伏丸のように攻撃力に長け補助系の術が全く使えない者も居れば小太郎のように決定的な力技はないが火系を中心に様々な術を扱えるものもいる。朱点の場合、生まれて日が浅い赤子のようなものだったし、高い攻撃系の術に長けていたが呪に関しての知識は齧る程度だったのではないか?と吠丸は言いたいらしい。その意見に対して小太郎は「そうであればいいな」とつぶやいた。

「お前の前に戻ってきた奴らにも聞いたんだが……お前、鬼の時の記憶はあるのか?」

吠丸が話を切り替えてきた。小太郎は過去を思い出す。鬼になる前の記憶は残っている。あの時の自分は昼子に嫌気が差し下界へと降りた。赤猫のお夏や黄黒天吠丸が朱点の配下に降りたと噂を聞き、真偽を確かめようと朱点を探した。そして見つけた、ごつい鬼かと思っていたが小さな子供だったので目を疑った。

「まってたよ、あんたを」

その後の記憶が思い出せない。確かに自分は鬼になっていた、その実感はあるのに鬼となっていた時の記憶がすっかり抜けている。思い出そうとしても記憶は空白のままで戻ってはこなかった。

「すまん。思い出せん。鬼になった時の記憶もない」
「そうか、他の奴らとも同じだな」

他の奴らもなのか?と小太郎は聞いた。吠丸はうなづく。

「朱点に封じられていた者達は封じられていた記憶はあったようだがな。それとは別に鬼となっていた者達は覚えてないと言っていた。まるで夢を見ていたようだと言っていた者もいるな」

吠丸は名を上げる。速瀬ノ流々、風車ノお七、そして土々呂震玄などなど。小太郎の知った名ばかりだった。
改新派の神は権力を太照天昼子に委ね一部の保守派の神を天界から追い出した。名が挙がった神は昼子や太照天夕子などの改新派に追い出された保守派の神、またはその追い出された神に慕いついていった者達だ。追い出された恨みからか朱点に力を貸していた者も少なくない。
天界では「朱点にやられ鬼となった神がいる」と噂が立っている。でも事実は「改新派の神に追い出された神達が朱点に力を貸した」が正しい。

「やはり、一番利を得ないのは朱点だな」



あの赤い光が放たれてから数日後、紅蓮の祠へと戦いに出ていた葵ケ丘一族が都に帰ってきたと報が入ってきた。今は帝に挨拶と戦況報告し、もうしばらくすれば帰ってくる。
既にイツ花は「天界に鳴神小太郎が帰ってきた」と太照天昼子から報告を受け感謝の託を預かっていた。

「さてさて、今日はバァーンと豪華に行きましょうね!」

イツ花とまつりと月影は戦いを終えた当主達を暖かく迎え入れようと数日前に先月貰った報酬金で食材を大量に購入した。
魚は焼いて野菜を切っては炒めたりと台所で大忙しのイツ花。まつりは甘いものが好きな八千代と千秋の為におはぎを作ろうと小豆を煮込み、月影は炊いた餅米とうるち米を擂粉木でつぶしていた。三人はみんなの帰りを今か今かと待ちわびていた。
扉をたたく音が聞こえた。当主様の凱旋の合図だ。イツ花は急いで扉へと向かい、かんぬきを抜いた。扉を開けると当主達がいた。

「おかえりなさい当主様!」

まつりと月影もイツ花に追いつき共に喜んで出迎えた。
しかしいつもなら帰ってきたみんなはようやく帰れたと安堵の表情を浮かべるのに今日は違った。
悲しみと悔しさに満ちた顔だった。

「当主様?千秋様?柚子様?」

みんなの顔を見ながら名を呼び気づいた。

あれ、一人、足りない。

今回の戦闘人員の中で年長者、壊し屋の八千代がいない。

「イツ花、八千代が死んだんだ」

凱旋した三人の空気が重苦しい中、柚子が静かに報告した。その報告を合図にしたかのように当主の夏帆が地面へ崩れ落ちる。

「ご、ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!!……私がっ、あの時、近づかなか、れ、ばっ!」

彼女は泣きながら謝罪する。涙声でところどころをつっかえながら、最後は大声で泣き声を叫んだ。言葉にならない後悔と懺悔を繰り返しながら泣いた。
その姿を皆はただただ見つめる事しかできなかった。


夏帆と柚子が八千代に萌子をかける。攻撃力を増した八千代は石清水の槌を鳴神小太郎へと振り下ろした。
鳴神は八千代の攻撃をギリギリまでひきつけて避けた。壊し屋は六つの職の中で一番の攻撃力を誇る。しかし致命的な弱点がある。命中率が低いという事だ。よほどの腕力がなければ振り下ろした槌は止まらないし急に方向転換する事ができない。そして次の攻撃に備えて槌を構え直すまで多少時間がかかる。そう、攻撃を外した壊し屋は隙だらけだ。その隙を狙って鳴神は八千代に一撃を与えた。殴った手ごたえあり、拳の鈍い感触が物語る。しかし、殴られた八千代は薄っすらと笑っていた。

「連弾弓・一郎太!!」

千秋が放った3つの矢が鳴神の手と足、そして腹にあたる。

「ぐはぁっ!!」

いきなりの鋭い痛みに鳴神は耐え切れず声を漏らした。そこで彼は最初の壊し屋の攻撃はおとりだと気付いた。

「お、お前らぁ!!」

火の海で焼き尽くしてやるっ、と鳴神は花乱火を唱えた。彼から生まれ出た火の海が千秋に向かって津波のように襲いかかった。

「華厳!」

夏帆が叫ぶと千秋の前に水の壁ができた。鳴神の花乱火を防ぐ盾となる。

(くそ、攻撃が封じられたか、それなら次は双火竜だっ!)

鳴神は体制を立て直す為に次の攻撃への準備を開始した。

「華厳!」

叫びがもう一つ聞こえた。千秋が唱えた術は目の前にできた壁と併せ水の狼へと変化する。花乱火を飲み込むと術を唱えていた小太郎へ襲い掛かる。鳴神は攻撃にと召喚した双火竜をすぐさま盾にし、攻撃を防ごうとした。

「「華厳!」」

柚子と八千代が共に叫ぶ。二人の華厳から生まれた水の狼に、更に二つの華厳が併せられる。狼の姿は水龍へと変化し鳴神の体を双火竜と共に飲み込むと岩壁に押し付けた。鳴神は鈍い音と痛みを訴える叫びを言い放った後ぴくりとも動かなくなった。しばらくすると辺りの火が消沈し、水龍は天に登るかのように消えていく。辺りは一気に静かになった。

「終わったわね」
「うん!」

八千代が槌を下ろし、夏帆は剣を鞘にしまう。四人は一息を入れた。

「私達四人が揃えば天下無敵!」

夏帆が自信満々に言う。天下無敵と言うが最初は女四人が戦う事に不安ばかりだった。訓練を積み重ねているとはいえ戦う相手は鬼や魑魅魍魎の妖怪達。男が一人いれば、と思わなかった日がなかったと言えば嘘になる。しかし夏帆の母親の代から先日まつりが生んだ月影まで葵々丘家では男の子に恵まれなかった。決定的な力を持った者がいない女子だけの構成で戦闘を繰り返すと今までと違った戦い方になってくる。
今までは男子などの攻撃力が高い者を中心とした力技での戦い方だった。が、女子だけの力技だと手数が多くなりとどめの一撃が遅れ戦闘が長引く。戦闘が長引けば疲労も溜まりやすくなるし判断力も下がる。色々な思案と実践を重ねた結果、今の私達は相手の隙をつき併せ術で一気に畳み掛ける戦い方が適している事になった。

「じゃ、私今回の戦利品を回収してくるね」

夏帆は嬉々として倒れた敵に近づいていく。警戒心がないその姿に柚子は少し呆れながら彼女を見送る。夏帆は四人の中で一番幼くまだ5ケ月しか生きてない。と、言っても外見は成年した女性そのもの。寿命が2年ほどしかない葵ヶ丘一族の呪いは体の成長が早い。しかし心の成長も早いわけではない。夏帆はすぐに母を亡くし当主となった。母のぬくもりを一時しか知らず生きる子はイツ花に大事に育てられた。大事に、そして甘やかされて育った為か少し幼い気がする、自分と比べてだが、と柚子は思った。

「あれ、おかしい」
「何が?」

柚子の隣に並び、千秋は言う。

「神様なら解放されると聞いている。なのに何も変化がない」

そこで柚子も気づいた。そうだ、今回の相手はただの敵じゃない。解放を目的とした神様だった筈。

「夏帆!そこから離れてっ!」
「え?」

夏帆は柚子の声に振り向いた。その時だった。後ろを見せた瞬間、倒れた敵は立ち上がり足早に襲い掛かる。夏帆が後ろの殺気に気づいた時には既に背後は捕らわれていた。

「遅い」

敵である鳴神小太郎は確かに致命傷を受けていた。が、己の意地かそれとも戦う事への本能か彼は戦う事を諦めていなかった。

「タダじゃ、いかねぇよ」

鳴神小太郎が放つ執念に圧倒された夏帆は足がすくむ。逃げれない、やられる。夏帆は死を覚悟をし、涙こぼれる目をつぶってしまった。その姿に鳴神小太郎はにやりと笑う。そして夏帆の喉元をめがけ最後の一撃を放った。


斬られる音が一度、そして男の叫び声が洞穴に響いた。

戦闘の時に何度も聞いているが決して心地よい音ではない。夏帆は耳をふさいだ。

「……あれ?」

自分の体が自由に動く事が不思議に感じた夏帆は恐る恐る目を開けた。自分の体を見る。斬られたと思った夏帆の体は何も痛みがなかった。目の前を見上げた。そこには千秋が放った矢が鳴神の喉元に刺さっており、柚子が最後のとどめを刺していた。
死ぬと思ったのに、助かった?どうやって?彼女の疑問は直ぐに解決される。自分の足元に誰かが倒れていた事に気づいたからだ。
水色の長い髪に見覚えがある、急いで近づき顔を確認すると倒れていたのは姉と慕っていた八千代だった。黒い着物は血で赤く染まっている。何度も八千代の名を呼ぶ夏帆、彼女は思い出した。誰かに攻撃が当たる前に突き飛ばされたのだと。

「く、く、くおぉぉぉ!!」

先に鳴いたのは鳴神小太郎だった。彼の体が赤く光っていく、と体が消え光の玉となった。光の玉は彼本来の姿を一時期映し出すと頭上へ飛んだ。祠の壁を素通りし、残されたのは余光のみ。その光景を見ていた千秋と柚子は一瞬の出来事にあっけにとられそうになった。

神を解放した余韻は直ぐ覚めた。続けて夏帆が声にならない叫び声を上げたからだ。
二人は急いで千秋と倒れている八千代の元へと駆け寄った。


イツ花は仏壇に作りたてのおはぎを備えた。八千代の好物だったものだ。
彼女の亡骸は祠の溶岩に沈めてきたと柚子が涙をこぼしながら言った。彼女は戦場に出る以上、自分の死も身内の死も覚悟していた。だから彼女が死んだ事に泣いてない。泣いたのは亡骸を家に運べなかった事だ。できれば家に、父が眠る墓の隣に埋めたかった。それは夏帆も千秋も同じ思いだったので、できる限り頑張った。けど、女の力じゃ無理だった。自分が女で生まれてきた事を呪いたくなった、と語った。
後で人で増やして取りにこようとしても放置していれば敵に弄ばれるかもしれないし最悪鬼となるかもしれない、だから溶岩に沈めようと決断したそうだ。
それは正しい選択だったのか間違った選択だったのか今となっても分からない。

三人は信じたかった。
その決断に至るまで悩み苦しんだのだから。
これが最善の策であると信じたかった。

「ねぇ、イツ花。天界では鳴神様が解放されて宴会なのでしょうね」

先程、仏壇に手を合わせていた千秋がイツ花に問いた。彼女は答えに迷ったが、実際そうなので小さく返事をした。

「いつもだったら共に喜ぶべきなんでしょうけど、ダメね。喜べないわ」

千秋はそう静かに語り席を外した。その言葉はイツ花の心を複雑にさせた。



「イツ花」

仏壇に手を合わせることなく、語る事もせず先程の千秋の言葉がぐるぐると頭巡る中、自分を呼ぶ名が聞こえた。振り向くと夏帆がいた。白い着物に袖を通し、目はまだ赤かったが凛とした立ち姿でイツ花を見ていた。

「夏帆様」

本来イツ花は当主になった者を「みのり様」と呼ぶようにしている。一族を引っ張る当主には厳しくなる時が何度もあった。それはイツ花は彼ら一族が朱点打倒と言う悲願を達成させる為。その決意を忘れない為に初代の名を代々当主に引き継いできた。
が、夏帆が当主を受け継いだ時はあまりにも幼すぎた。夏帆がこの家に来た時には既に母親である阿弥は健康度が低く寿命を迎えようとしていた。しかし彼女は生きた。一目だけでも子を見たい思いからか必死で生きた。結果、彼女を手に抱き少しの間母になる。夏帆に少しのぬくもりを与えた後、彼女は天寿を全うした。
彼女の遺言は子の未来を見る事が出来ない悔しさであふれていた。その言葉を聞いたイツ花は彼女の無念を少しでも叶えようとできる限り母に近い感情で接した。自分が阿弥に接しられたように。他の家族の前、どうしても彼女の事になると少々甘くなる。未だ彼女の事をまだ当主の名で呼べないのは彼女の事に親身になりすぎているからだろう。
夏帆はイツ花の隣に座ると仏壇に手を合わせ静かに祈った。つい先程まで泣いていた子とは思えない堂々とした姿だった。
手を下ろした夏帆にイツ花は聞く。

「大丈夫ですか?夏帆様」
「うん。泣くだけ泣いたらすっきりしたわ」

イツ花は思い出す。夏帆は母が亡くなった時、泣かなかったと。いくら成長が早いとはいえ生まれて一か月経っていない赤子が死を理解する事は到底不可能だ。だからだろう、動かなくなった母を見て人形のように表現していた。

「八千姉はね、最期に泣いてる私にこう言ったの」

仏壇の位牌をじっと見つめ、夏帆は八千代の最期を語り始めた。





「八千代っ!八千代っ!!」

夏帆は必死で八千代の名を呼んだ。駆け寄ってきた柚子と千秋も八千代を囲み彼女の名を呼ぶ。千秋はお雫をかける。が、八千代の体力は回復しなかった。携帯袋を漁ったが健康度を回復する薬は入ってなかった。
八千代の手が動いた。まだ生きてる、彼女の死を阻止すべく彼女らは八千代の名を呼ぶ。何度も、何度も。夏帆の零れた涙が八千代の頬に落ちた時、彼女の目が開いた。
目を開いた八千代が一番に感じたのは自身の切り裂かれたような体の痛みだった。体が思うように動かない。目に映った三人の顔を見る、皆泣いていた。その涙ですべてを悟った。

「そんな、顔しないで……一番の笑顔を見せてよ」

八千代は最後の力を振り絞り、泣いている柚子の涙を手の甲で拭った。彼女の頬に血のりがほんのりついた。

「ねぇ、笑って、ね?」

笑える訳がない、夏帆は首を振った。死なないで、何度もそう言った。
母の死とも、当主として見てきた死とも違う、八千代の死。あの時はこんなに必死になる事はなかった。死とは自然の摂理で静かに訪れるものだと思っていたから。が、目の前の死は明らかに違う。本来なら自分に訪れる死だったモノ、それを八千代が肩代わりした。自分の油断が招いた予想外の出来事、彼女はここで死ぬものではない、だから生きるように促した。
夏帆の肩に誰かの手が置かれた。後ろを振り向くと千秋が泣きながら笑っていた。肩に置かれた手は「笑いなさい」と言っているかのようだった。気づけば目の前の柚子も笑っている。二人の顔は涙でくしゃくしゃになっておりお世辞でも綺麗とは言えないものだった。でも、確かに笑っていた。

笑ってる、二人とも八千代の最期の願いを叶えようと、笑ってる…………

覚悟を決めた。
夏帆は八千代と目を合わせると、口を開き、目を細めた。細めた目からぼろぼろ涙が流れる。でも、笑った。夏帆の口元にうっすらえくぼができた、涙がえくぼをに流れる。
本当だったら笑えないよ。でも、今八千代が望んでいる事だから、笑う。

「そう、朱点を倒したらその顔だよ」

忘れないでね

八千代は綺麗に笑いながらそういうと息を引き取った。

享年1年と4か月、葵ヶ丘家初代みのりの長男北辰から数えて七代目の子だった。




あの日を語り終えた夏帆は少々疲れていた。無理もない、八千代が死んでこの家にたどり着くまで一息つく暇はなかった筈だ。そんな彼女の目には涙はなかった。こらえている訳でもない、涙は枯れ果てる事はない。仏壇の前で彼女を弔い、過去をイツ花に話した事で心で整理が追いついたからか、夏帆の目には決意の光が宿っていた。

「私は戦いで家族を犠牲になんてしたくないわ。でもそうすると朱点は倒せないし私達は種絶と短命の呪いを解く事ができない。そしてなにより」

膝に置いていた手をぐっと握った。無意識に唇を噛んだ。

「八千代の最期の願いを叶えることができないわ」

だから、強く生きる。身も心も。皆を守れる力を手に入れる。それが当主として夏帆が選んだ決意だった。唇はまだ噛んでいる。決意に対してまだ緊張と不安があるのだろう。短い人生を考えれば達成するに困難を極める決意である。それでも夏帆は選んだ。八千代の遺言を受け継いで前に進むと。

「鳴神への恨みや家族を守れなかった後悔を私に預けてください。そしてみのり様は前を向いて生きて下さい。一族の為に」

イツ花は初めて彼女の事を「夏帆」ではなく「みのり」と呼んだ。もうイツ花の目には甘えん坊で泣き虫な夏帆は映っていない。イツ花の目の前にいるのは今までの一族の思いを真っ当に引き継いだ八代目当主みのりだ。

「えぇ」

涙で赤くなった目を細めながら八代目当主みのりは笑った。笑った顔にできたえくぼがとても可愛らしいとイツ花は思った。

願いは笑顔と共に

願いは笑顔と共に

■ 俺の屍を越えてゆけ 葵ヶ丘家一族の宿命の御話

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-23

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 1027年4の月 八代目 夏帆の物語
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