Talkin'
ねえ、キミは今どこかで笑っているのかな。
懐かしいキミを思い出して、僕は今日も歌を歌う
目を閉じると浮かんでくるのは、風に揺れる貝殻細工。まぶたを染める夕陽ではなくて、天気の良い昼下がりの、採光抜群の窓辺。薄く脆く、軽やかな音を立てる貝殻を透かした淡い陽光と、まぶしそうに目を細めるキミの横顔。
キミと知り合ったのは秋口の、朝夕に吹く風に冷たさが混じり始める頃だった。しばらく恋愛とはご無沙汰で、会社と家の往復を地で行っていた僕は、見かねた同僚が開いた合コンでキミを見つけた。さほどその生活が不満な訳じゃなかったから、これも付き合いだよななんて。軽い気持ちで出かけて行って、照れたように小首をかしげて挨拶するキミに、まんまと一目で恋に落ちた。単純なものだよね。だけどそう、出会ったというよりは見つけた。そんな感覚だったんだ。
「初めて会った日、どうしてこんなカッコいい人に彼女がいないんだろうって思ったんだよ」
三次会まで馬鹿騒ぎをした翌日にはもう、キミにデートの約束を取り付けて。
オーソドックスに3回デートを重ねてキスをして、彼女になってほしい。ストレートに告白をして、そのままキミを家に連れ帰った。
記念すべき夜が明け行く中で、薄手の掛け布団から肩を出したキミが、おかしそうに僕を見上げて言ったのをよく覚えている。
今だから正直に言うよ。僕はそこそこ女にはモテてきた。物心ついて以降、中・高・大学。アイツは女が途切れたことがないと言われていたし、実際そうだった。だけど遊びすぎて危ういところだった大学卒業を経て、社会に出て。それなりに大変なこともあったけれど仕事が単純に楽しいと知った。外見やセンスの良い異性を装飾品の一部のように従える、それが恋愛だと履き違えて少しも疑わない、若さにものを言わせた恋愛ごっこにかまけている時間が惜しいと思っていた。自分もそこにどっぷりと身を浸らせていたくせに、飽いていたというのは傲慢かな。これも今だから言えることだけれど、僕はキミと巡り会うまで、真剣に誰かを愛したことがなかったんだ。
もちろん「恋愛ごっこ」の渦中にいる時にそんなことを感じたことはなかったし、女の扱いは得意だなんて青臭い自慢をしていたこともあった。
でも、キミがいなくなって強く思う。
キミは僕にとって初めての恋人だったんだと。キミを失った傷が塞がることはないのかもしれないと。いつまでも乾いてくれない傷跡を眺めては過ぎ去った日々を思い出して、移ろう季節に気づかない振りをしている今の僕は、キミと過ごすはずだった季節がやって来ては去っていく、そんなことにも無関心を装っている。
どんなものも何時かは消える。形のあるものだって、形のない想いだって。そう割り切ってやってきたはずなのに、キミを思い出すたびに正しい選択はなかったのかと考えざるを得ない。
勝手なものだよね。キミを傷つけたのは僕の方なのに。
キミと一緒にいた時間は本当にあっという間にすぎた。
半年も付き合わない内に同じ部屋に暮らすようになって、初めて気づいたキミの癖。ご機嫌な時のキミは、決して広くはない僕達の城で上手に家事をこなしながら、小さな声でよく歌を歌っていた。たとえばそれは、天気の良い休日。洗濯物を干しながら歌うキミの声に、キミが気に入って窓辺に下げていた貝殻細工がシャラシャラと風に揺れて、まるで伴奏のように、持ち帰った仕事をせっせとこなす僕の耳に心地よく入ってきたりした。ごく僅か外国の血が混じっているキミが曾祖母さんに教えてもらったと言っていたそれは、学生の頃バンドの真似事をしていた僕も知らない古い歌。
何気なく曲名を問いかけた僕に、忘れたとキミはケロリと答えた。たくさんの歌を教えてもらったのに、本当はこれよりも好きな曲があったのに、小さい頃だったから思い出せないものの方が多いのだと。相変わらずの笑顔で、さして残念そうでもなく。
じゃあそれは2番目のお気に入りなんだね。そうだよ。他愛ない会話の後に、ならキミが忘れても僕が覚えている。僕が言って、嬉しそうにキミは頷いた。あの曲のメロディを僕は今でもハッキリと思い出せるから、約束はまだ有効だ。ふとした時に口をついて出てくることさえあって、時間が薄める思い出と逆に濃くする思い出がある、そんなことも僕は学んだ。
――その日がやって来たのは、キミがあの歌を口ずさまなくなった頃だった。キミと過ごす季節が一巡する直前の、晩夏の日。初めてした些細な喧嘩が、最初で最後の致命的なそれに発展した日だ。
仕事で大きなミスを犯して疲れきっていた僕、我慢を続けていたキミ。知らずにキミを傷つけていたことを知った僕はそれでも、自分の主義を曲げることをしなかった。
どんなものも何時かは消える。形のあるものだって、形のない想いだって。それなら一緒にいる意味なんてないだろう。
苛立ちに任せて投げつけた言葉。
残酷だったのだろうか。
残酷だったんだろう。キミはいつだって、Happily Ever After(めでたし、めでたし)で終わる末永い幸せを望んでいたのだから。そうしてその夢を知って曖昧に笑ってやり過ごしていた僕には、まだ先のことを考える余裕などなかったのだから。
キミにはきっとバレていた。僕が大人になりきれていなかったこと。同僚が認める人懐こさも、若手の中ではずば抜けていると上司が評する人あしらいの上手さも、すべてが上っ面だけのものだったこと。大人数で集まる場で如才なく人の間を回遊しながら、その実1人でいることが1番好きだったこと。1人を好むがゆえにキミとでさえ将来を上手く思い描くことができなかったことも、賢いキミにはお見通しだったはずだ。
だからキミを傷つけのは僕。決定的な一言を告げた時、キミがこの世の終わりのような顔をして、直後無理やり作った悲しい笑顔。最小限に開けたドアの隙間から音もなく出て行ったキミを追いかけることもせず立ち尽くしていた僕は、その時まったく場違いに、キミは可愛いのではなく綺麗だったのだなと思った。キミの笑顔を心に焼き付けながら、それをキミに伝えることはもう二度とないのだな、そんなことも思った。
翌日、会社から僕があの部屋に帰るとキミの痕跡も綺麗さっぱり消えていて。そうしてがらんとした部屋に、割れた貝の欠片だけが転がっていた。ごく短いメッセージを添えて。
「ありがとう。大好きでした。だけど、さよなら」
夏が終わり、また秋が来る。朝夕に冷たい風が吹く季節はもうすぐそこだ。
キミはまだ、あの歌を口ずさんでいるのだろうか。
いくつもの季節が過ぎた今でも、ふいに懐かしい夢を見た気がして目が覚める。すべてが億劫になる休みの日や、新しい女の子とデートに興じた翌日や。
ふと隣を見てもけれど、キミの体温はもうそこにはない。セミロングがよく似合った柔らかな栗色の髪も、細いうなじも、僕の腕の中にすっぽり納まっていた薄い肩も。
僕の隣に、キミはもういない。
どんなものも何時かは消える。形のあるものだって、形のない想いだって。
割り切って生きてきた。それが僕の傲慢さだったと、キミを失ってようやく気づいた。何時か消えるのなら、その時まで手放してはいけなかった。思い出にしてはいけなかったんだ。
でもそれでも。ごめんとは言わない。僕は言えない。傲慢さを自覚して尚、僕は僕であることをやめることができない。だからその代わり、今日もまたキミと過ごした希望に満ちた毎日を僕は思い出す。
秋も冬も春も。繋がることなく途中で消えた夏の日だって、花火を見て、一緒にソーダ水を飲んだ。すっぴんに日焼け止めを塗っただけのキミと、ベランダで水を掛け合ってはしゃいだ。びしょぬれのキミの額に張り付いた前髪をかきあげてキスをした。
思い出す僕を、思い出すだけで何もできない僕を、遠くでキミは笑うだろうか。
かつて2人でよく歩いた夕暮れの土手を、今は1人で歩きながら、キミが笑っていてくれればいいと思う。すべてを飲み込んで無理やりに浮かべた悲しい笑顔ではなくて、出会った頃のようなとびきりの笑顔を、誰かの隣で浮かべていてくれればいい。
川辺の小さな公園を見下ろすベンチに腰を落ち着けようとして、立ち止まった僕を追い越してゆく家族連れに目が行く。楽しそうな子供の笑い声が一瞬、キミのそれと重なったのは、今日はきっとこれを持っているからなんだろう。ポケットから煙草と一緒に取り出した貝殻細工の破片を夕日に透かして、ガキみたいに滲みそうになる視界を煙のせいにする間抜けな僕は、長く影を伸ばして歩く三人の背中を見送りながら、もう一度そっと目を閉じる。
まぶたの裏には、陽光に目を細めるキミの横顔。その隣には、キミが今愛する誰か。
強がりじゃないよ、それはひどく幸せな光景だから、ねえ。
Talkin'