雪女

雪女

「お清、なんで、なんで死んじまったんだよお」
 その日、辰吉は1晩中泣いていた。3日前に彼の伴侶、お清が亡くなったのだ。
 もともと病気持ちだったのだが、薬や祈祷のおかげか、ここ何ヶ月かは元気だった。それがこの夜体調が急変して、とうとう帰らぬ人となってしまった。
 まだ子供もいなかったし、これからやりたいことも沢山あった。神様というのは冷たい存在だ。こんなにも早くお清を連れて行ってしまうとは。あまりの悲しさに飯も喉を通らない。そんな状況が2日も続いた。
「辰吉」
 仕事仲間の与作が彼の家にやって来た。辰吉と与作は木こりで、その日も木を切りに出かけていたのだ。雪の降る、それはそれは寒い夜だった。そのため帰るのも普段よりかなり遅くなってしまったのだ。
 あのとき、もっと早く帰ってくればまだお清は生きていただろうか。いや、それよりも、あの日仕事に行かなければ、お清を助けることが出来ただろうか。
 自分を攻め続ける辰吉を、与作はどうにか宥めようとしていた。
「あの、その、お清さんがあの世に行っちまったのは、本当に、本当に残念だった。だども、それはおめぇのせいでねぇ。おめぇを誘ったのはオラだし、オラにも責任がある」
「気にせんでええよ与作さん。お清が行っちまうことは初めから決まってたことなんだぁ。神様の決めたことなんだぁ」
 と、辰吉は俯いたままそう答えた。声も小さいし、大きな木を切っていたたくましい体も、今は野うさぎのように小さくなっている。
「そ、そうだぁ! 家から美味ぇ酒持って来たんだ! 一緒に飲もうや!」
 返事は無い。励ますつもりだったが逆効果だったかもしれない。
「そうだよなぁ、そんな気分じゃねぇよなぁ。じゃあな、また来るからよぅ」
 とりあえず持って来た酒を置いて、与作は辰吉の家をあとにした。
 静かになった家。たき火の音だけが室内に響き渡る。



 いつもなら、家に帰ってくるとすぐにお清が「おかえり」と言って跳びついてくる。彼女は辰吉よりも少し年下なのだ。奇麗で長い髪を撫でてやり、お清を優しく引きはがす。帰りに狸や兎なんかを捕まえてくると子供みたいに喜んだ。晩ご飯のときはお清の話を聞いてやるのだ。辰吉が出かけている間にあったこと、彼女の地元で伝わる不思議な話、それから、お清が見たという不思議な生き物の話。
「それでね、あたしがパッて前を見だら、そこに小さな男の子が立ってるの」
「へぇ」
「その子を呼ぶとね、『はぁい』って言ってゆっくりと振り返るの。それで、その子の頭には、大きな目が1つあるだけなの!」
「へぇ」
「あぁ! 信じてないでしょう?」
 こんな話を毎晩していた。多分どれもお清が自分で考えた話なのだが、辰吉は家に戻ってからその話を聞くのが楽しみだった。そして、お清なら最高の母親になれるとも考えていた。
 暑い日も、寒い日も、寝るときはいつもくっついて眠っていた。別に密着しなくても良い。どこか一部分、例えば肩なんかがくっついていればそれで幸せだった。
 朝はお清の方が早くて、辰吉は毎朝体を揺り動かされて無理矢理起こされた。それでも嫌な気はせず、むしろ早起きしたほうが彼女と過ごせる時間が増えるから嬉しかった。朝も夜と同じで、お清の話を聞く。すると何日かに1遍、お清が辰吉の話を催促してくる。辰吉は特に珍しい経験などしたことがないから、親から教えられた話なんかを聞かせていた。そんなこんなで時間が過ぎて、仕事に行く時間になると、お清はつまらなそうな顔をする。
「何だぁ、そんな顔して」
「何でもねぇ。何でも」
 出来ることならこのままずっと一緒にいたいが、仕事をせにゃ生活が苦しくなる。辰吉は出かける前にお清を優しく抱き寄せて、「必ず戻る」とささやく。あまり強く抱きしめると、病気持ちの彼女を苦しめてしまう。その儀式が終わってから、辰吉は仕事に出かけるのだ。彼の姿が見えなくなるまで、お清はずっと外で見送ってくれる。辰吉にとってそれはどんな御札よりも強い御守りだった。



「会いてぇよぉ、お清に会いてぇよぉ」
 思い出せば思い出すほど、辰吉は胸が締め付けられるような思いになった。何としてでも、あの楽しかった日々を取り戻したい。お清と一緒にいたい。これからもずっと。
 そうだ、確か村はずれの古い小屋に、どんな魂でも呼びよせることが出来るまじない師がいた筈だ。……いや、呼び寄せるだけでは駄目なのだ。今まで通り、ここで暮らしたいのだ。
「神様ぁ! オラの命を削ってもいい! だから、だから、お清を返してけれぇっ!」
 外に出て、夜空に向けて吠える辰吉。その声はやまびこのように森中に響き渡った。



 翌日。辰吉はいつもより遅く目覚めた。外から与作が彼を呼ぶ。もう仕事の時間か。仕事の準備をして、辰吉は慌てて外に出た。雪が降り積もり、地面は真っ白く染まっている。
「おめぇ、大丈夫か?」
「ああ、問題ねぇ」
「そうかぁ? 目ぇ真っ赤だど? そんなこと今までなかったろうに」
 気づかぬうちに体に変化が起きていたらしい。とは言え仕事が出来ないようなことはなく、この日も与作とともに近くの森に出かけていった。
 森の木を切って、それを町で売る。それが彼等の仕事。寒さ対策の為にたき火が重宝されるこの頃、木はよく売れるのだ。
 森につくと、辰吉と与作はふたてに別れて仕事を始める。何本も切っていいというわけではなく、まだ成長途中の木は切ってはならない。1度に大量に木を切ることも御法度だ。
 いつものように辰吉は1本の木に目をつけて、斧を振りかざした。だがその瞬間、思いもよらぬ事態が巻き起こった。突然めまいがして、辰吉はその場に倒れてしまったのだ。起き上がろうにも体に力が入らない。更に、地面を覆う雪の冷気が彼から更に体力を奪う。
「ああ、よ、与作」
 声もろくに出せず、助けを呼ぶことも出来ない。このままここで凍え死んでしまうのかもしれない。それでも良かった。またお清と一緒になれるのなら死んでもよかった。
「お清、お清……」
 辰吉はそのまま気を失った。



 それからどれくらいの時が経ったのだろう。空はまだ明るかったから、昼過ぎだろうか。
 辰吉は何者かに頬を強くはたかれて目を覚ました。目を開けると、そこには与作がいた。
「馬鹿野郎! 死ぬとこだったんだぞ!」
「おめぇ……何でオラを起こしたぁ! このまま死なせてくれれば、あの世でお清に会えたんだどぉ!」
「なぁに言っとる! お清さんがそんなこと望むと思うか? ああ? おめぇ、どうかしとるぞ!」
 友人に諭され、辰吉は漸く我に返った。確かに、あのお清が自分を殺そうとはしないだろう。
 だが、子供のような性格の彼女のことだ。寂しくて、1人あの世で泣いているに違いない。仏様に諭されても、その場から動かないで泣いているに違いない。そう思うと、辰吉も何だか悲しくなって目に涙を浮かべた。
「お、おい! オラが悪かったよ! 今日は帰ろう。栄養つけた方がえぇ! オラが煮汁作ってやっからよぅ」
 与作に肩を貸してもらい、辰吉は立ち上がった。幸いここから辰吉の家まではすぐだ。2人は日が暮れる前に家に戻った。
 与作は家の中に入ると早速得意の煮汁を作り始めた。その間辰吉は、ずっと外をぼんやり見つめていた。今日も雪が降っている。白く輝いていて奇麗だ。この景色を、せめてお清と並んで見ていたかった。
「そうだ」
 何かを思い立った辰吉は、外に出ると雪をかき集めた。中で晩ご飯を作っていた与作は、とうとう頭がおかしくなったかと不安になった。だが、けっしてそういう訳ではなく、辰吉はあるものを作っていたのだ。
 外でそれを作り終えると、辰吉はそれを大事そうに両手で持って家に戻ってきた。彼の手の中にあったものは、雪で出来た小さな人形だった。
「そりゃ、何だ?」
「お清だ」
「お清さん? 雪の塊がかぁ?」
「少しは気がまぎれる。誰も居ないんじゃ、寂しいから」
 そう言うと、辰吉は雪のお清を入り口のあたりにそっと置いた。
 その晩は与作の作った汁物を美味しくいただいた。栄養満点、疲れも癒えた。あまりに美味しかったので何度もおかわりした。食欲が戻ってきたところを見ると、与作は満足そうに微笑んだ。
 食事が終わり、与作も自分の家に帰ることにした。彼にも家族がいる。彼等を心配させるわけにはいかない。それに彼の母親は大病を患っていて、与作が食事を作らないと弟達は腹を空かせてしまうのだ。
「んじゃ、オラは帰るからよぅ」
「いろいろと世話かけたな」
「いんや、仕事仲間さ死んじまったら、それくらい悲しいこたぁねぇからよぅ。じゃ」
 与作は足下に気をつけて外に出た。入り口に雪のお清が立っているからだ。
「じゃあな」
 辰吉は戸を閉めた。そして雪人形を見つめると、小さな声で
「おやすみ、お清」
 と言った。
 熊の毛皮を持って来て、たき火を消した後、辰吉は毛皮を被って横になった。



 翌朝。辰吉は何者かに体を揺すられて目を覚ました。何だか体が所々冷たい。
「起きて! 起きて! 早く!」
 女性の声がする。高くて、子供染みた声が。飛び起きると、そこには白い着物を身にまとった女性が座っていた。
「おめぇ、お清か?」
「んだ」
 お清が、あの世から戻ってきた。嬉しさのあまり彼女を抱きしめようとする。が、すぐに手を離してしまった。お清の体は異様なまでに冷たかったのだ。それはまるで、昨日の雪のように。
「それじゃおめぇ、まさか」
 辰吉が尋ねると、お清は深く頷いた。
「辰吉さんが、あたしのことをここに呼んでくれたんだ」
「じゃあ、あの雪は?」
「あたしだ!」
 どうやら彼女は、辰吉が作った雪人形に宿ってこの姿になったらしい。
 神様が願いを聞いてくれた。辰吉はそう感じた。たとえ雪に宿っただけであっても、中身は昔と何ら変わらない、お清そのものだった。
「お清、ありがとう」
「なぁに言ってるの? ほら、早くしないと仕事に遅れるど?」
「仕事なんかどうでもええ!」
 辰吉はすっくと立ち上がった。
「オラは、オラはお前と一緒にいたいんだ」
 するとお清は眉間に皺を寄せて、
「何言ってんの? 与作さんを待たせたら駄目だ! ほら、早ぐぅ!」
 今までのお清とは違っていた。何と言うか、少したくましくなったようだ。お清の成長が、辰吉は何だか嬉しかった。
「おめぇ、逞しくなったな」
「ええ? そうかぁ?」
 お清は恥ずかしそうに後ろをむいた。やはりどこか子供らしさが残っていた。
「んじゃ、行ってくる」
「あっ、いってらっしゃーい!」
 外に出る。雪はまだ積もっている。
 与作がいつものところで待っている。辰吉は与作に向かって手を振り、ゆっくりと歩き出した。後ろを見ると、今までのようにお清が辰吉を見送っている。いつもの光景だ。日常が戻ってきた。
 向かってきた辰吉があまりに嬉しそうだったので、与作はまた不安になった。
「なんだか、元気だな、おめぇ」
「そうかぁ?」
「まぁいいけんど。ほんじゃ、行くか」
「ああ!」
 2人はまたいつもの森に向かった。
 あの3日間が嘘のように、辰吉は仕事に精を出した。体にはあの力強さが戻っていた。与作は、初めは戸惑っていたが、友に元気が戻ったことを心の底から喜んだ。
 その日の仕事は大成功、木もよく売れた。
 帰り道、与作は何があったのか辰吉に聞いてみた。
「たった1日でこんなに元気になるなんて、何があったんだ?」
「さあなぁ。ま、いいことだなぁ」
「教えろよぅ」
「いいや、駄目だ」
 言ったところで、お清があの世から戻ってきたなんて話そう簡単に信じてくれまい。
 道の途中で2人は別れた。日はじきに暮れる。雪もそろそろ止んできたようだ。家に戻ると、お清がいつものように
「おかえりぃ!」
 と、辰吉に跳びついてきた。やはり冷たかった。この冷たさが、お清がもうあちら側の存在であることを辰吉に実感させた。だから彼は、彼女のぬくもりを意地でも感じようとしていた。
「ただいま。今日は大繁盛だったぞ!」
「本当に? すげぇなあ!」
「あははは、お清らしいなあ!」
 席について、夕食の支度を始める。たき火をつけて、昨日与作が作ったのと同じような煮汁を作り始めた。ところが、お清の様子がおかしい。たき火に近づこうとしない。
 そうだ、彼女は雪に宿っているのだ。火に近づいたら溶けてしまうのだ。
「ごっ、ごめんなぁ」
「ううん、あたしの方こそ、ごめん」
「いいや、オラはお清と一緒にいられればそれでいいんだぁ。ほら、まだ野菜もあるし、今日は煮汁はやめよう」
 そう言って、辰吉は野菜を包丁で刻み始めた。お清はそんな彼の様子を微笑みながら見つめていた。
「さ、出来たぞ」
「うわあ! 美味そうだなぁ!」
「これだったら熱くねぇからな。さ、食べれ」
 野菜を切って、少し味付けした料理。2人はそれを、時間をかけて食べた。
 食事が終わったあとは、お清の不思議な話。今日も変な生き物を見たという。
「さっきなぁ、天狗を見たんよ!」
「天狗ぅ?」
「んだ、そこの山に飛んでいくのを見たんだぁ」
「へぇ、不思議だなぁ」
「あとねぇ、こぉんくらいの鼠も見たんよぉ!」
 と、お清が大きな円を描いて説明した。その鼠は、顔が人間に似ていて、坊さんのように袈裟を着ているのだそうだ。
 そんな鼠いるわけがない、と言って外を見ると、辰吉は凍り付いた。
 あたりはすっかり暗くなっているのに、一部真昼のように明るいところが。見ると、そこに袈裟を着た坊主がいた。だが、どこかおかしい。目を凝らして見てみると、坊主の腰辺りから太い紐が生えている。
「えっ?」
 と声をあげると、坊主が家の方を向いた。大きな耳が生え、前歯が突き出ている。そして体は毛で覆われている。たった今お清が言っていた鼠と同じ風貌だ。
「な? おったろぅ?」
「んだなぁ、おったなぁ!」
 非現実的な存在。夜にそんなものを見たら恐ろしくて気絶してしまうだろうが、この時は何だか嬉しかった。お清と一緒に飛び跳ねて喜んだ。
「すげぇな、おめぇ!」
「んだぁ! あたしはすげぇんだぁ!」
 山の麓の小さな家。辰吉とお清は一晩中はしゃいでいた。
 それから約1週間、2人はこれまで通りの楽しい生活を送った。前と違うのは、夜になるとお清が遭遇した不思議な生き物達が現れることぐらいか。彼等は2人を取って食おうなどとはせず、こちらを見て逃げ出してしまうものから、お辞儀をして去っていくもの、それから踊りを披露してくれたものもいた。彼等の見せる踊りは神秘的で、見ていると心が和んだ。しかしそれは、美しさだけではなく、お清と共に過ごしていたからこそ、より感動したのかもしれない。


 そんなある日、仕事から戻ってきたときのこと。大地を覆っていた雪が溶け、花もちらほら咲き始めている。
「ただいま!」
 いつもなら跳んでくるお清が、今日は静かだった。何も答えてくれなかった。
「お清?」
 足袋を脱いで、彼女に歩み寄る。それでも振り向いてくれない。
「なあ、どうしたぁ?」
 と、お清の肩に手を置いてハッとした。
 彼女の体が、濡れていた。恐れていたことが起きてしまったのか。驚きのあまりその場で固まってしまった。
「ごめん、辰吉さん、時間みてぇだ」
 お清がゆっくりと立ち上がり、振り返った。顔も、服も、素肌も何もかも整ったまま。しかし所々濡れて透き通っている。溶けているのだ。辰吉はそう悟った。
「やっぱり雪の体じゃあなぁ。本当は、もっと一緒にいたかったけんど、もう神様は許してくれねぇみてぇだ」
「そんな、待ってくれよ! おめぇが死んだら、オラは、オラは生きていけねぇよぅ!」
 それを聞くと、お清の顔が少し険しくなった。
「なぁ、今からでも遅くねぇ。神様んとこ行って、お祈りしよう! なぁ」
「辰吉さん!」
 お清が辰吉の両肩を押した。こんなことは今までなかった。何故彼女は自分にこんなことをするのだろう。
「そんなの、あたしが好きな辰吉さんじゃねぇ!」
「え?」
「あたしは、お友達を大事にして、弱いあたしのことも気遣ってくれた、男らしい辰吉さんが好きだったんだぁ。……なのに、あたしがいなくなったら生きていけねぇなんて、そんなの辰吉さんじゃねぇ!」
 お清が涙を流した。透き通った、綺麗な涙だった。
「それに、辰吉さんが死んじまったら、与作さんはどうなるの?」
「与作?」
「死にそうになったとき、助けてくれたのは誰だ?弱ってた辰吉さんに美味しい煮汁さ作ってくれたのは誰だぁ?」
 彼女はあの日の様子をどこかから見ていたらしい。ちゃんと辰吉のことを見守っていたのだ。
 そうか、いつまでも弱音を吐いていたら、お清は安心して神様のところに行けなくなってしまうのか。
 辰吉は俯いた。彼女の顔を見られなかった。
「ごめんなぁ」
「え?」
 辰吉は、お清の前にひざまずいて謝った。
「ごめんなぁ! オラ、おめぇをがっかりさせちまってたんだなぁ! ごめんなぁ!」
 辰吉の目から涙がぼろぼろと流れ落ちる。すると、涙よりも大きなしずくが彼の上に落ちてきた。それはお清の体から流れ出ていた。もう、時間がない。
「お清!」
「辰吉さん、頑張ってな」
「か、必ず、必ずまた来いよ!たまに一遍でいいから、オラのところに来るんだぞぉ!」
 お清は何も言わず、笑みを浮かべて深く頷いた。最後にもう1度抱きしめようとすると、彼女の体はまばゆい光に包まれて消えてしまった。後に残ったのは、殆ど溶けきったあの雪人形だった。



 それからというもの、辰吉はますます仕事に精を出すようになった。仕事中は木を切ることだけに集中し、町で子供が泣いていたら迷わず手を差し出し、老婆が倒れていたら仕事そっちのけで彼女を介抱した。そんなことをしているうち、いつしか辰吉は、町の人気者になっていた。町の名家の姫が結婚を申し込んできたりもした。だが辰吉は、どの相手の申し入れも受けなかった。彼が認めた伴侶はただ1人。
「んじゃ、またな」
「おぅ」
 あれから10年経ったある日。今も与作と一緒に仕事をしている。
 日がもうじき暮れる。外で遊んでいた子供達が家の中に入る。
 寂しい道を進んでいくと、そこには木造の小さな家が。
「ただいま」
 返事は返って来ない。ここには彼以外住んでいない。
 足袋を脱いで、たき火をつけ、晩ご飯を作り始める。今日は狸を捕らえたので、狸汁を作ることにした。
 包丁を持って支度をしていると、外が急に明るくなった。もう日は暮れたはずだが。包丁を置いて外を見に行く。
「あっ」
 驚いた。雪が降っている。まだそんな時期ではない筈なのに。周りを見てみると、どうやら雪が降っているのはここだけのようだ。
 白く輝く雪に見とれていると、後ろから、
「おかえりぃ!」
 聞き覚えのある声。仕事をしていても、1度たりとも忘れたことがない人物の声。
 辰吉は声のする方を振り返り、優しい口調でこう言った。
「ただいま」
 綺麗な雪の降る、ある夜のことである。

雪女

 自分は恋愛経験がないので、「恋愛小説はむりだなぁ」と思っていた。なので、この話をどうにか書き終えたときにはびっくりした。
 小説のテーマを考えているときに、以前読んだラフカディオ・ハーンの「雪女」を思い出し、この話が浮かんだ。幡ヶ谷シリーズ以外の短編がどちらも後味の悪い話だったので、次は後味の良い話がいいなと考えた結果、この形になった。
 やはりオリジナリティは無いが、今回初めて恋にまつわる話が書けたというのは収穫だった。

雪女

古来より語り継がれている雪女とは違う、もうひとつの雪女。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-23

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