私の初恋は河童様
――会いに行く。
「お母さん行ってくるね。七日後には帰ってくるから、それまでは絶対に料理はしないでレトルトとかお弁当で済ませてね! お母さんが料理するとなぜかいつも爆発するんだから」
――今でも想っている初恋の君。君は今でも傲慢な態度で笑ってるんだろうか。
「あと、スポーツもほどほどにね! いくら元アスリートって言ったって歳なんだから現役には勝てないんだよ。まったく負けず嫌いなんだから……」
「はいはい分かったから。いってらっしゃい菜ノ葉」
「うん、行ってきます!」
――早く会いたい。でも……もう、会えないだろう。それでも、あの約束の場に行こう。
高校二年の夏休み、私はしっかり母に注意してから祖父母の家へと向かった。
祖父母の家は実家からあまりにも遠いため長期休暇の時しか行けない。私にとって一年に一度、夏休みを使って祖父母の家に遊びに行くのは恒例の行事となっていた。
炎天下の下、サンダルを鳴らしながら歩く。七日間の滞在にしては今時の女子高校生とは思えないほどの最低限のものを詰めた小さなバックを一つ持って向かう。
そんなわずかな荷物の中に、一つだけおかしなものが詰まっていた。けれどそれは彼女にとって何よりも大事なもの。
「今年も大きく実ってよかった。たくさんの太陽と水を受けた私特製のきゅうりはおいしいよ!」
バックを大事そうに抱える。その中には丸々と太った大きなきゅうりが一本。
今年も愛しの『河童』の彼にきゅうりを届けに行くのだ。
「おじいちゃーん! これなあに!?」
元気な声で菜ノ葉は祖父を呼ぶ。目の前には川に浸された熟れた野菜が瑞々しげに置いてある。
「こうしておくとな、野菜たちが冷たくなってうまいんだぞ!自然の冷蔵庫だ! おっ今、良いこと言ったのお。なあ、ばあさん」
「はいはい、そうですね」
豪快に言い張る祖父、大五郎に対して妻の祖母、千恵子はあきれたようだが優しく笑う。菜ノ葉はそんな祖父母が大好きだった。
「私、この緑の長いやつ食べたい!」
そういって指をさすと大五郎は食べろ食べろと川からあげて渡してくる。菜ノ葉は思いっきりかぶりついた。
「おいしい~」
思わず大きな声が出る。その言葉に二人は満足げに笑った。
今時期はセミが大合唱を繰り広げる夏真っ只中だ。今年で七歳となる菜ノ葉は祖父母の家に遊びに来ていた。
「これなんて言うの?」
「これはきゅうりっていうんだよ。東京にもあるだろう?」
「うーん、似たのはあるけどもっと細い。こんな太くなくてひょろひょろしてる!」
指で手に持っているきゅうりの半分ほどの細さを示すと、大五郎は遠い目をした。
「そうか、それも仕方がねえのかな……今は見栄えだとか効率的な生産だとかで農薬がばんばん使われてる。東京じゃあ、こんなでっけぇの売ってないんだろうな、勿体ねぇ」
愚痴をこぼすように大五郎は呟いた。それに千恵子も懐かしげな眼をする。
「私たちのころなんて出来たての野菜をちぎってその場で食べてましたけれど、今じゃもう、人の手で作りすらしませんもんね……」
そんな二人の嘆きを横に、菜ノ葉はきゅうりの最後のひとかけらを口に入れもう一本! と手を出した。それに悲しい雰囲気はどこえやら、また明るい笑い声が漏れる。
「菜ノ葉はまるで河童みてえだな」
「かっぱ?」
「ああ、きゅうりが好きな川の妖怪だ。頭にお皿乗っけてんだぞ」
「お皿乗っけてるの!? 落としちゃったりしないのかな……?」
心配した顔で言うと思いっきり笑われ、菜ノ葉は頬を膨らました。そんな暖かな会話は太陽が真上に上りきるまで続いた。
「ちょっくら探検にいってこいさー。森にはたくさんの生き物がいっぞ」
そういわれ菜ノ葉はわくわくする気もちで家を飛び出した。しっかり麦わら帽子を深くかぶって出発する。
人里離れ森に囲まれたこの田舎では自然の宝庫だ。
「小鳥さんにカブトムシ。これはダンゴ虫。私の大好きなものばっかりだあ!」
瞳を輝かせ食いつくように菜ノ葉は見つめた。しかしそのせいで周りが見えてなく、進んだ先が坂であることに気づかなかった。草に足を取られ滑るように転んだ。そしてものすごい勢いで落ちていく。
「きゃあああっー!」
過ぎていく景色の中、恐怖のあまり菜ノ葉は叫びながら急斜面を転がっていった。
世界が何回も回転して止まったころ、ゆっくりと菜ノ葉は頭を押さえつつ起き上がった。あたりを見渡すと目の前に大きな川が流れている。頭上には崖のようにそびえたつ急斜面の丘があり、あそこから落ちてきたのかと予測すると背筋がゾクリとした。
一歩間違っていたら大事故だ。
「わたし、頑丈……」
体重が軽かったせいもありそれほど衝撃が大きくなかったのだ。
すりむいた膝やひじを川で洗い流そうかと近づいて手を水につける。ひやりとした冷たさが襲ってきたが逆に清潔な感じがして両方の手を腕まで突っ込んだ。
「気持ちーい!」
光が反射して水面がキラキラ光っている。ついつい暑さで火照った体温が冷やされていく気持ちよさに目を細めたとき、誰かに背中を思いっきり押された。
誰もいないはずの山奥なのになぜ、そう思った時にはすでに川へ放り込まれていて、それほど深くないと思っていた川は菜ノ葉を飲み込むほど深かった。
(え、いや待って! わたし泳げない、っていうか苦し……っ!)
驚きで思いっきり水を飲み込んでしまった菜ノ葉はむせかえるがさらに水が体内へ入り込んでくる形になり意識が遠のく。
急な川の流れのせいもあり抗う体力が奪われて、菜ノ葉はそのまま瞳を閉ざそうとした。
(もう、多分だめ……――)
意識を手放そうとしたとき、突然強く腕が引っ張られて視界の先に青い空が写った。
そのまま抱えられて川岸へ連れて行かれる。外の空気を感じたと同時に激しく菜ノ葉は咽こむ。
なんとか落ち着かせて身を起こすと、少し離れた先に人影があるのに気付いた。
「助けて、くれたの……っ?」
川の近くでぬれた髪をかきあげる男性は無言で菜ノ葉を見つめた後、背中を向けて再び川の中へ戻ろうとした。
「待って! 川は危ないっ」
今さっきまで死にそうになった川だ、大人でも危険だろう。それに男性は紫と青を象徴とした着物を着ていた。多少着くずれしているが、あの姿のまま川へ入ると着物が水を吸って重くなり、おぼれる可能性も一気に高くなる。
転びそうになりながら菜ノ葉は川に腰までつかっていく男性まで走り、腕を強く引っ張った。
「行っちゃダメなの」
菜ノ葉にとらえられた男性は驚いたように見つめていたが、その後めんどくさそうに口を開いた。
「離せ。俺は別にお前みたいに溺れない」
「でも着物のままじゃっ……!」
食い下がる菜ノ葉にさらにめんどくさそうにため息をつくと、長い髪をまたかきあげた。
美人といえるほど整った顔に白い肌。長い髪が拍車をかけて女性のように思えるのに着崩れた着物からは鍛え上げられた体が見えて生々しいくらい男性なんだと自覚さえた。
菜ノ葉はつい、ドキっと胸を高鳴らせ腕を緩めると、その隙をついて男性は逃れるように振りほどいてしまった。
「あっ!」
声を上げて再び捕えようとすると、男性は川へ思いっきりを身を投げた。
「俺はなあ……――『かっぱ』だからいいんだよ」
そのまま川の奥へ消える男性を菜ノ葉は呆然と眺めた。
【つづく】
私の初恋は河童様