しゃぼんの憂鬱

しゃぼんの憂鬱

 私が寝ぼけまなこで寝返りを打つときみが起きているうえに、目まで合ってしまうものだからたじろいでしまったよ。今、きみのその目に私はどんなふうに映っているのだろうと思いをめぐらしてみる。ゆうべは化粧も汗も流さずに愛し合って、そのまま眠ってしまったものだから、きっと私の目の周りは真っ黒で、口も臭っているよね。果たせる哉、つけまつげは取れかけていて、これではまるで化け物だ。私が枕に顔を埋めると、きみが柔らかな声で「おはよう。」と言うものだから、「おはよう。」と返してみるのだけれど、それは寝起き特有のだみ声で、自分でも呆れてしまうほどに恰好がつかずに、ちくしょう、なんともばつが悪い思いです。仮に私がガーリーでチャーミングな女性だとしたら、きみのその太くて筋肉質な右腕に私の両腕を絡めたりして、二人で迎えた未曾有のモーニングタイムをたんのうしたりもするのだろうけれど、実際の私は見た目も内面も朝に弱くって、冗談でもそんな大それたことはできやしない。低血圧だし、幸薄顔だし、寝癖はひどいし。それでも、ゆうべの寝顔くらいはまともであればいいと思う。涎を垂らしていたり、鼾をかいていたり、おめめを半開きにしていなければそれでいいから。無防備な寝顔が愛らしかったよ、だなんて、そんな贅沢は望まないから。

 携帯電話のアラームが鳴る。設定をした数分前に起きるのは、私が小さかった頃から続いている変なくせ。携帯電話の液晶には8:00という文字が表示されていて、私の隣にいる裸のきみは今から三〇分もしないうちにこの部屋を出ていくのか、と思うと不思議な心持ち。はたしてこれは夢かうつつか。とっさに「行かないで。」という言葉が浮かんだのだけれど、そのような邪念は迷うことなく振り払うことにしている。そのかわりにたとえばだけれど、ハイライトを一口だけ吸いたいな、というようなことを考える。火傷をしそうなくらいのシャワーを浴びたいだとか、きんきんに冷えたブラックコーヒーが飲みたいだとか、手作りのホットサンドが食べたいだとかを。この場においてきわめてどうでもいいことばかりを考えて頭の中をいっぱいにするのである。そういうわけなので、ホットサンドの具はどうしようかと考える。たしか、卵を切らしているはずだから。
「休んじゃおうかな、仕事。」
 私はその言葉に驚いて、ほんとうに驚いてしまって、今の私が化け物であることも忘れてきみの顔を確かめてみるのだけれど、そのときにはもうきみは体を起こしていて、ティーシャツの袖に腕を通しているのだから困ったものだなぁ。きみはやさしい人だもんで、今の嘘を嘘だとも思っていないはずだから、まただまされちまった、と私が舌打ちをするのはまったくもってお門違いだ。
「ゆいは今日、なにをするの。」
 ゆい、とはたしか私の名前で、こういう二人きりのときにだけ、きみは私のことをそうやって呼ぶ。――ゆい。どうしてきみの口から発されるこの二文字は、これほどまでに柔らかい響きを持つのだろうね。まるで、私のことではないみたいに。
「ぼうっとするよ。」
 ほんとうは昨日のバイトの帰りにコンビニで衝動買いをしたシャボン玉で遊ぼうと思っていたのだけれど、それではぶりっこをしているみたいなので言うのをやめた。気が向いたら図書館にも行こうと思っているのだけれど、それでは知的ぶっているみたいなので、いつもの調子で応えてみたんだよ。それなのにきみはベッドから降りると「いいね。」と心からそう思っているみたいに言って、床に脱ぎ散らかしていたジーンズを拾って履いたんだ。こうしてすこしずつだけれど確実に、きみという人間が仕上がっていく。私をひとり、置き去りにして。きみが携帯電話を手にして口にした「また連絡するから。」という言葉は嘘ではないと思う。そして、「ありがとう。楽しかったよ。じゃあ、またね。」という言葉も。それなのに、私の奥底で息吹く憂鬱は姿を消さない。どこか心もとなくて、くすぐったくて、その絶対的な違和感の根源を互いに認識しているのにも関わらず、私たちはそれを確かめ合うことはしない。このままだと私たちは永遠にわかりあえないよ。それでいてかまわない、とはじめに言ったのは、おそらく私のほうだったけど。
「俺の帰る家がいつもここだったらいいのにってマジで思う。」
 私は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られたけれど、体だけを起こして手を振った。きみはそれを見ると困ったような顔で笑って、私はその表情をとてもセクシーだと思うのだけれど、そんなことさえも伝えることができず、見ていたのです。のそのそと私の部屋をあとにする、きみのその大きな背中を見ながら途方に暮れていたのです。

 私のベッドの傍らにはベランダに通じる大きな窓があって、私が遮光カーテンをだらりと開けると例によって外は陽光で満ちていて、その清々しさに呆気をとられた私はげんなりとしてしまう。地球から太陽までの平均距離は一億五千万キロメートルという話ではなかったか。恐るべし哉、太陽放射。まぶしいぞう、とけちゃうぞう、とうていきみにはかなわんよ。と単純に思っただけの独白をぼやいてみると、それはたしかに私の声だった。この声ならきみに気の利いた言葉のひとつでもかけてあげればよかったと思うけれど、きっときみは今頃、きみがほんとうに帰るべき家で、ことの真相も知らずにきみの帰りを待ちわびている女性にコールをしていることだろう。哀れだと思う。私も、その女も、きみでさえも。とてもじゃないけれど。

――愛している。愛しているよ。

 冷蔵庫の中身を確認するか、シャボン玉で遊ぶか悩んだけれど、新品のシャボン玉が入ったショルダーバッグがベッドの脇に転がっていたので、まずはそれから片づけることにした。私は窓を開けてシャボン玉を飛ばす。目の前に広がる大空に向かって飛ばすのだけれど。

 今日という日にかぎって風が強くって、それも生憎の向かい風で、シャボン玉が私の背後にまわるものだから、これってなんだかとっても不細工だよなぁ。狭くて暗くて孤独な部屋の中で弾けては消えるシャボン玉たち。

――愛している。愛しているよ。

 いっそうのこと、このまま部屋中をシャボン玉で満たすことができればすてきなのだけど、私が幾度も々々々飛ばしても、それは幾度も々々々弾けて消えた。これだとまるで、今までに私の頭に浮かんでは振り払ってきた欲望みたいじゃないですか。このままではいけないと思って、シャボン玉は有害な味がするだとか、致死量はどのくらいだろう、だとかを考えてみようとはしているけれど。

――きみをいっとうに愛しているのは私なんだよ。

 それでも私はあきらめることができずに大量のシャボン玉を飛ばしてしまう。いよいよ息が切れてしまって、苦しくって、負けず嫌いの私は悔しくって、ただそれだけのことなのに涙がこぼれた。それはほんとうに久しぶりのことだったので、往年の友だちに報告をしようと思うのだけれど、きみには言わない。言えない。とてもじゃないけれど。

しゃぼんの憂鬱

しゃぼんの憂鬱

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-23

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