雨降る夜の恋人たち

雨降る夜の恋人たち

 それは私がペディキュアを生まれてはじめて買った日の帰り道でのはなし。私が最終電車に乗っていると、窓の外に雨がちらつきはじめた。まわりの乗客たちはそれを気にもとめていない様子だけれど、私だけが内心、穏やかではなかった。だって、私は傘を持っていないから。家を出るときに雨が降っていなければ、天気予報が雨を予告していようとも、そして断言していようとも、私は傘を持ち歩くことができなくて。ずうっとむかしから、物心がついたときからそうだった。
目的の駅に電車が着いて降りると同時にみんながいっせいに傘をさして、予想はしていたのだけれど、それでもすこしだけ驚いた。色とりどりの傘に囲まれて、私はぽつねんと上着のフードをかぶるのです。こういうとき、神様ってちゃんと見抜いているんだな、と思う。私がいくら平凡を装ったって、どんくさい私のことをちゃんと見抜いているんだ。私がそのことを忘れかけているころに、見計らったかのようなタイミングで思い出させるんだよ、私がどんくさいっていうことを。そしてこれはほんのすこし前のはなし。今日と同じような雨降りの夜に百円のビニール傘を買って、レジの脇に置かれたハサミでタグを切ったのだけれど、私ったらビニールもいっしょに切ってしまって、お金を払って一分もしないうちにそれを捨ててしまった。これってどんくさいのきわみだと思う。そのときはビニール傘を買いなおすだなんて贅沢なことは思い浮かびもしなくって、私はずぶ濡れになることを迷わずに選んだのだけれど、そういうことなら不満に思わない。
 だって、私は雨が大好きだもの。海が大好きで、お風呂が大好きで、あなたを思って流す涙が大好きだ。あなたが私を思って流す涙なら、よりいっそうのこと。なんて、私はそれを見たことはないけれど、いつか見るかもしれないそのときには歓喜のあまり、気を失ってしまうかもしれないね。私、あなたの涙でびしょびしょに濡れてしまいたい。濡れたいのよ。だからあなたも私が降り注ぐ愛の雨に打たれて、もういい加減、びしょびしょに濡れてしまえよ。
――でもね、あなたは雨に打たれた衣類のにおいを快く思わない人だから、それとこれは同じはなしでしょうか。まったくどうしてみなさん、濡れることをいやがるのかしらね。そんなことを考えては、時折、不安になったりもするのよ。たしかめることすらこわいんだ。あなたはまだ、私のことをよく知らない。だって、こうして隠していることがいくつもあるから。

 電車を降りてしばらく歩くと、あなたの車とナンバーが目に入ったので、私は浮かれてそれに駆け寄った。正面のガラス越しにあなたと目が合って、私はとっても嬉しくって、口元が綻んでしまうのを隠すことができないのだけれど、あなたはちっとも笑ってはくれなくて、右目を細めて私の姿かたちを見ていた。ずぶ濡れの私を心配しているのか、それとも傘すら持ち歩けない女にたいして嫌悪感を抱いているのか、私にはよくわからない。よくわからないから不安になる。そういうことならわかっちゃいるのさ――。車の目の前にたどり着いた私にあなたは扉を開けるように促すけれど、私にはもうそれができなくなっている。だって、助手席が濡れてしまうから。それをいやがらない人はいないと、今にしてようやく気がついたんだよ。傘すら持ち歩けない自分に対して嫌気がさして、泣きだしてしまいそうにもなる。いつだってそう、自分のことばかりを考えて、そして何度も同じ過ちを繰り返して、私ったらあなたのことをほんとうは愛していないのかもしれない、とまで思えてきてしまって。
 あなたは自ら扉を開けて、はやく乗りなさい、と柔らかな声で言う。私は頭の中でごめんなさいを何度も唱えながら助手席に座ろうとしたのだけれど、とっさにきびすを返して逃げ出したんだ。全力疾走であなたから逃げ出したんだ!背後であなたが私を呼ぶ声がするけれど、もう止まれはしないよ。あなたと同じくらいに私も驚いているんだよ、ほんとうに。八センチメートルのハイヒールが雨を弾いている。濡れたスカートのプリーツが腿に張り付いてうまく走れない。開けっ放しのリュックサックからペディキュアが落ちる音がして、私は四〇〇円のそれが惜しくなって立ち止まる。あなたにきれいと言われたくて買ってしまったものたちが私の逃亡を妨げる。もうほんとうにいやになっちゃうよ。ただなんとなく買っただけの四〇〇円なら、落としたことすら気がつかない私だったのに。そうして振り返るとやっぱりそこにはあなたが立っていて、ものの数秒の出来事なのに全身が濡れていて、またやってしまった、と思ったときにはあなたに抱きしめられていたんだよ。左の頬と左の頬がくっついていたんだよ。

 どうして抱きしめるのですか、とたずねれば、雨の中をヒールで走る君の後ろ姿がきれいだったからですよ、と答えてくれてありがとう。私が乗ると助手席が濡れてしまうから逃げました、と正直に伝えれば、変な人ですね、と笑ってくれてありがとう。どうして笑ってくれるのですか。それは愛しているからですよ。愛ですか。ええ、きっと愛ですよ。

あなたが私のことをまだよく知らないように、私もあなたのことを知らないけれど、あなたのことならどんなことでも受け入れられると思っていたよ。そしてそれは私だけだと思っていたんだよ。だけど、それはただの自惚れに過ぎなかったのかもしれないと思ったときにはもうはじまっていたね、私たち。自分のもっとも情けない部分を受け入れてもらえたとき、それは自分のすべてを受け入れてもらえたといっても過言ではないと思う。そのような相手のことをどうしてきらいになれるだろう。疑えるだろう。傷つけられるだろうか。ねぇ、この感覚に名前を与えるとすれば、やっぱりそれは一つだけだと思うんだ。

 ヘッドライトに照らされてクラクションが鳴ると同時に顔を上げた恋人たちの視線がぶつかって、それを合図に互いの唇を近づける、というはなし。

雨降る夜の恋人たち

雨降る夜の恋人たち

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-23

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