ライトアップ

「こじきのくせして俺より金持ってら。」
 お酒を飲んではいけない年齢であろう若造たちが、草の上でうずくまる僕の腹を蹴る。僕が殴られたり蹴られたりしているあいだじゅう、ずうっと見ていた白色の花がふるえるように揺れて消えた。あの色が僕の最後に見る色であればいい。もう二度と目など覚めなくていい。
仮にあの世があるならば、僕はもう一度、加代子に会えるだろうか。加代子は僕を許してくれるだろうか。恋人である君を殺したこの僕を。
 そして、これは僕が最後に見た夢。これを夢と呼ぶには現実的だけど、現実と呼ぶにはあまりにもロマンティック。

 僕は若い女の笑い声で目を覚ました。場所は先ほどと同じく、真夜中の公園。僕は公園の隅で横たわるだけの亡骸。
 笑い声の主である若い女は外灯の下に置かれたベンチに座っていて、その隣にきれいな目を持った男が寄り添うように座っている。公園の前にある車道には車の通りがなく、人工光が寝静まる真夜中の外灯は最高のスポットライト。そこにいるのは若くて美しい女と、きれいな目をした男。年齢も一〇は離れているように見える。へえ、設定としてはかんぺきじゃないの。僕は次の舞台の構想を練ろうとしてすぐにやめた。
「嫁さんにはなんて言って出てきたの。」
「忘れ物したって。」
「それだとあまり一緒にいれないね。」
「もう寝ているさ。」
「いいえ、きっと起きているさ。」
 この男には帰るべき家と女がある。それは、このふたりにとってまぎれもない悲劇である。それなのに若い女は笑っていて、この状況を楽しんでいるように見える。いずれ、別れを切り出すのは女のほうかもしれない。
 男が煙草を吸うのを見て、思いだしたかのように煙草を取り出す女。男がライターの火をつけると、煙草をくわえた女の唇がそれに引き寄せられていく。しかし、煙草はそのままライターの火を横切って、女の頭は男の広い胸元に埋もれた。男は慌ててライターの火を消し、二本の煙草が地面に落ちるのを僕は見た。この男がこの女を大事にしている瞬間を僕だけが見たのである。
「どうしたの。なにがあったの。」
「こんな時間に呼び出してしまってごめんね。」
「いいからなにがあったの。」
「あなたの悪口を言ってしまったの。みんなが私たちの関係を探ってくるから、どうしようもなかったの。あなたの悪口を言うことでしか、その場を乗り切ることができなかったの。」
「それぐらいのこと、かまわないよ。それよりも、どんな悪口を言ったのかを教えてよ。」
「人に仕事を任せすぎるだとか、セックスが下手そうだとか。」
女は顔を上げて笑った。男も呆れたように笑う。だけど、僕にはこの男のきもちがわかる。ほんとうは安心しているのだろう。彼女の笑顔を見ることができて。この男はこの女に惑わされたり、救われたりを繰り返している。感情の起伏がこの女の言動だけで成り立っている。ふたりはまるで出会った頃の僕と加代子だ。
「私なりに甘えてみたのよ。」
「満足した?」
「どきっとした?」

女が再び煙草を取り出して、自らのライターで火を点ける。煙を吐き出してからの沈黙。どちらも質問に答えないという音のない会話。沈黙に耐えられなくなるのは、きっと女のほう。「ふふ。」という女の笑い声があがって、僕は心のなかでガッツポーズをする。
「甘え上手な子がうらやましいと思ったの。甘えられるほうまで喜んじゃってさ。」
「だったら、もっと甘えてしまえばいいのに。」
 男が言うと、若い女は首を横に振って「背中に額を預けるくらいでいい。」と言って笑った。
「第三者の汚いことばのやりとりによって心が惑わされることはないけれど、それでもきもちは弱っちゃう。そういうときはあなたに甘えてしまおうと決めました。」
「それって俺にだけ?」
「もちろんよ。だれにでも甘えるだなんて浮気ものみたいだし、第一、あなたじゃなければ意味がないもの。」
「効果じゃなくて?」
「ええ、意味。私があなたに甘える意味は、弱くて惨めな私を知ってもらうため。あなたは私をいい女だと思いすぎているから。」
 そういう発想がたまらないよな、と僕は思う。
「どうして彼らは私のプライベートを探るのかしらね。彼らのプライベートなんて、私にはあさってのお天気並みに興味がないわ。」
「それは君がミステリアスでいい女だからだよ。」
「それよりも、どうして彼らは二人三脚をしたがるのかしらね。相方が転んでしまったら怒るくせに。一人のほうがはやく走れるくせに。」
「だから、それは君がだね。」
 女は男が言い切る前に「もう。」と言って男の肩を叩いた。
「バカにしているわね。」
「そんなことはないさ。君が言っていること、僕にはよくわかるよ。」
「一〇年前の自分でも見ているみたいってところね。」
「君もよくわかっているね。」
「考えることは同じでも、語るのが私で、語らないのがあなた。それは、あなたが年をとっているから。だとしたら、一〇年後の私はあなたっていうこと?」
「不満かい。」
「だとしたら、一〇年後のあなたは。」と女はそこでやめて、小さな声で笑う。そういうところが加代子とよく似ている。加代子も笑いながら、ほんとうは泣いているような女だった。自分自身でも気がつかないほど、心のずっと奥底で。
「いまが楽しければそれでいいわ。あしたのことくらいなら考えてあげてもいいけど、あさってのお天気なんてどうでもいいもの。」
「とりあえず、キスでもしようか。」
「そうね。」



 加代子は僕が主宰する劇団の看板女優だった。そして、彼女は舞台の上で光に包まれて死んだ。頭上から落ちてくるスポットライトを止めることが僕にはできなかった。その様子を見守ることしかできなかった。
 スポットライトが加代子の頭部に落ちると鈍い音が会場中に響き渡り、加代子の首は真横九〇度に折れ曲がった。はて、なにが起こっているのですか、と首をかしげたみたいに。
 床にスポットライトが落ちると同時に暗転。ガラスの割れる音。短い沈黙。
僕が作り出した夢の中でいたはずの観客たちが、目の前で起こっていることが現実だと気づく。ヒステリックな金切り声が火付け役となって、会場に悲鳴の渦が巻き上がる。
 僕は、そういった芝居でも見ているのだろうか、と思う。先ほどまで観客の反応を見ていたはずの僕が、今では立場が逆転して夢の中にいる。それも実にエキセントリックな芝居である。
 徐々に明るくなる会場。舞台上には美しい女の亡骸。だけど、夢の中にいる僕には、その現実を受け入れることができなかった。僕の魂は今もあの暗やみの中にいるのかもしれない。
「田久保さん!」
 そうだ、照明機材の最終チェックは田久保の仕事だ。これは彼の責任だ。
 作業着を着た男が僕の目の前に現れて「田久保さん!」とその名前を叫んで、僕の両肩を力いっぱい揺さぶった。



 それは、ほんの数秒のやさしいキス。真夜中のやさしさは、情熱的で淫らなものよりもずっといやらしいように僕は思う。
「君との日々はまるで夢でも見ているみたいだ。」
「いい夢を見させてあげる。って、はじめに言ったのはだれだろう。」
「夢が覚めるのはいつだっていきなりだから。」
「こわいのね。」
「きっと君が別れを告げる。それもいきなりで、俺の返事すら聞かないだろう。」
 女は男と違ってヘビースモーカーで、五本目の煙草に火を点ける。大きな煙はため息のように宙を舞う。
「私の愛を見くびらないで。」
先ほどまでの軽い口調から一転、そのことばには重みがあった。この女はこういうときのため、意図として常日頃から軽い口調を心がけているのかもしれない。
「おねがいだから、悪いイメージを持たないで。不幸な人ってきらいよ。いいイメージの中でしか愛って見えないの。生きられないのよ。それは私とのイメージじゃなくてもいい。なんだってかまわないけど、そこからは私の愛が見えるはず。」
「言っていること、わからなくもないけど。」
「そんなことも知らないで私のことを愛してくれているだなんて、のびしろがあってすてき。あなたはまだまだ私のことを好きになる。」
「もし、そうなったら俺たちはどうなるんだろう。」
「いいイメージをしてみなよ。」
「わからない。」
「私が抱く最高のイメージをあなたに教えるには早いと思うの。」

「教えてよ。」と、男と僕の声が重なる。僕は慌てて口を押さえた。だけど、僕の声は自分が思っているよりもずっと小さな掠れ声だったから、ふたりには届いていないようである。ほっとして女の答えを待つ。
「私たちがこのイメージを共有することができれば、私たちはたとえ死に別れても愛し合い、つながっていることができる。」
「すごいや。」
「いいえ、とても簡単なことよ。それは、相手のすべてを受け入れるということだから。過ちや弱さでさえも受け入れる。そして、ほんとうに大事なのは、相手も自分にたいしてそうなのだと疑わないことよ。あなたが私のすべてを受け入れてくれると信じて疑わないから、私にはあなたの多くが見えている。」
「なにかの受け売りみたいだね。」
「いじわるね。だけど、残念。私は自分から生まれたものしか信じないの。他人から植え付けられたものはいずれ軸がぶれてしまうから。私をこんなふうにしてしまったのはあなたよ。私がこんなふうに人を愛するのは、あなたがはじめてのことなのよ。」

 僕は目の前で行われている禁断の逢瀬が夢ではないことに、すこし前から気がついていた。僕の膀胱は尿意をもよおし、視界は涙で滲んで喉の奥がしまるように痛んでいたからだ。ほんとうは声をあげて泣きたかった。だけど、彼らの邪魔をすることはだれにも許されない。鈍感で浅はかな第三者に邪魔をされた彼らは人目を忍んで甘えていたんだ。それも、いっとうに美しいかたちで。いやらしくない程度の、相手の重荷にならない程度の、それはまるで相手の背中に額を預ける程度で。



 最高のイメージをしてみよう。きっと今日も加代子は白い服を着ているだろう。それも、裾にレースがあしらわれたあのワンピース。僕が褒めてから、そのワンピースの出番は急激に増えたから。「ほんとうにごめん。」と僕は加代子に謝ると、加代子は長い髪を人差し指に巻き付けて僕を睨むだろうけど、きっとすぐに笑ってしまう。怒ることができない人だった。「北上のチーズケーキ。」と言って、巻き付けた髪をほどいて三本指をたてる。「三つですよ。」僕がそんなものでいいのかと思ったときには加代子は歩き始めている。加代子のご用達だった北上という喫茶店に向かって。
「本番が近づいてまったく相手にしてくれなかったから、きょうはたっぷりと聞いてもらいますよ。」
 僕が足を踏み出すと同時に下半身に違和感を覚える。「あ。」という声が出たときには僕のペニスから尿があふれ出ていた。ジーンズと脚の隙間を通るそれはなま暖かくて、それはいのちそのものである。
 加代子が僕の異変に気がついて振り返ると、僕のジーンズに広がるシミを見て笑う。
「田久保さんのそういうお人好しなとこが好きですよ。」
 加代子は再び髪の毛を指に巻き付けると「あの女の子のこと、ちょっといいなって思ったでしょう。」と言って睨む。だけど、やっぱりすぐに笑って「私と似ているから。」とことばを続ける。
「あの子と私を重ねてみたりして。」
加代子が指の髪の毛をほどく。それは、加代子のとても愛らしい癖のひとつだった。
「そしたらなんだか私に会いたくなったりして。」
 加代子は折り紙付きの自信家だった。加代子のことをちっとも知らない人がそのことをバカにすることはあったけど、彼女のそのバカっぽさにはバカにはできないなにかがあることを、すくなくとも劇団員たちは知っていた。つよがりな加代子は泣かない人だったから、涙を流す芝居ができずにたいへん苦悩した。そして、悔しさのあまりに五年ぶりの涙を流した。「こういうことだったのか。」と喜んでしまったときには涙が引いていて、加代子はその技を自分のものにするためにいつまでも稽古を続けた。僕はその様子を見守りながら、五年前に流した涙のわけを知りたくなっていた。
そして、それを加代子の口から教えてもらうと、僕は懲りずにそれ以外のことまで知りたくなって、気がついたときには恋に落ちていた。
「さっさとしないと置いていきますよ。」
「うん。」
「私が一通り話し終えたら、ちゃんと聞いてあげますから。次の芝居の構想。もう仕上がっているんでしょう。」
「うん。」
 そうして僕たちは時間が許されるまで語り合うのだろう。加代子に時間の概念がなくなった今なら、僕たちは永遠に語り合うことだってできる。



「そろそろ歩こうか。」と男が切り出すと、女のほうが先に立ち上がる。
「ほんとうにいい女だな。見た目はチャーミングだし。ギャップだよな、女はやっぱり。」
「とりあえず立ちなよ。」
「いい女だよな。ほんとうに。」
 男が立ち上がり、ふたりは歩き始める。そろそろ帰ろうか、という言葉を選ばないのがやさしさであることに、女は気がついているのだろうか。たとえ、今は気がついていなくても、きっと彼女はことばのやりとりをすべて覚えていて、ひとりでぼうっとしているときに思い返してはハッとしたりするのだろう。
 ふたりが公園の出入り口に着いたとき、若い女が振り返って僕を見た。たしかに僕と目が合った。男が「どうしたの。」とたずねると首を振って小さく笑った。そして、女がきびすを返すとふたりは歩を進めて、やがてその姿はすうっと暗闇に溶けていった。
 僕は節々から悲鳴をあげる体をゆっくりと起こす。事切れるにしても、この場所であってはならない。彼らの居場所を汚してはならない。生きるにしても、この場所であってはならない。ここでは芝居が打てないからね。
 僕には次の芝居の構想が仕上がっている。それは、たとえ僕が死んでも後世に受け継がれていくようなストーリーだ。

ライトアップ

ライトアップ

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-23

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