トリック☆ブレイカー 1話~10話

トリック☆ブレイカー

     序  プロレスラー殺人事件

 控え室、それは戦いを前にした益荒男達が己を奮い立たせる場所。そして同時に、激しい戦いの後、疲れた心と体を癒す安息の場所でもある。
 男達の血と汗と涙が染み込んだ室内には、独特な緊張感とにおいが漂っていた……。そんな男達の聖域で、事件は起きた。
 ある夜、人気プロレス団体の看板レスラー、マックス川満が遺体となって発見されたのだ。
 死因は神経毒による窒息死であった。川満の右腕には注射針の跡があり、傍に転がっていた注射器からは毒が検出されたが、指紋は出てこなかった。
 刑事達はすぐに他殺と判断し、殺人事件として捜査を開始した。
 川満の死亡推定時刻、後輩レスラー達は全員、会場の後片付けをしていたため、控え室に戻っているのは川満一人きりであった。そこを狙っての犯行と思われる。
 川満の体は試合中や練習中にできた痣やすり傷だらけであったが、そのどれもが軽傷であった。
 また今日の試合で、相手選手の凶器攻撃によって川満の額にできた傷は、深く切れてはいたが、川満にとって流血試合は毎度のことであり、出血の後も相変わらずパワフルな試合を展開していたそうだ。
 その後、刑事達が関係者から情報を集めた結果、一人の人物が容疑者として浮かんできた。会計を担当している宮里だ。
 宮里には興行で得られた収益を数度に亘って着服した疑いがもたれており、正義感の強い川満は厳しく追及していたが、いずれも証拠がなく、警察に突き出すまでには至らなかったようだ。
「その横領の話が本当で、川満選手になにか証拠でも握られたんなら、宮里の動機となり得るだろうが、宮里にこの犯行は無理だろうな」
 川満の遺体を見ながら中年刑事が言った。
 川満が百九十センチを超える大男なのに対し、宮里は百五十センチ足らずのガリガリの小男だった。もし宮里が注射器を手に川満に近付いたとしても、片手で首をへし折られるだろう。
 また、川満は背後に立たれるのを極度に嫌うゴルゴ体質の持ち主でもあった。後ろに回り、不意を突いて毒を打ち込むことも不可能である。
「会場には警備員がいるから部外者があちこち歩き回れるものでもねえし……もしかしたら、相手団体のレスラー数名が力任せに川満を抑え込み、毒を打ち込んだという可能性も……」
 中年刑事が顎に手を当てた。
「……ってわけです。状況は解りましたか春日先輩?」
 黒髪、そしてやや下がった目尻が人懐っこい印象を与える若い刑事が電話の相手に問い掛けた。
『秋山君、いきなり電話してきて、ってわけですって君ね』
 電話の向こうで春日と呼ばれた男が溜息を吐いた。
「おい秋山、何だよ? 妙に携帯持ってウロウロしてやがると思ったらまさかまた、例の犯罪コンサルタントか?」
 中年刑事が秋山をジロリと睨む。
「えへ、実はそのまさかで」
 秋山がペロリと舌を出した。
 中年刑事が春日のことを犯罪コンサルタントと呼んだのは、秋山が事件の早期解決のためにコンサルタントに相談しているのだと言い張っているからであって、春日は自らをそうだと名乗ったことはただの一度も無く、全くもって、ただの民間人であった。なおこの事実が明るみに出た暁には、秋山は減棒ぐらいでは済まされないだろう。
「先輩、いかにも怪しい宮里さんなんですけど、犯行は無理っぽいんですよ……。任意で所持品検査させて貰ったんですが、持っていたのは家の鍵やサイフの他には湿ったハンカチが2枚だけでしたし……犯人は他にいるんですかね?」
『…………いや、その宮里って人でも充分可能だと思うよ。ある方法を使えばね……』
「えっ、な、なんですかある方法って!?」
 
※春日の言うように、非力な宮里が川満を毒殺することははたして可能なのだろうか?
 
「先輩、本当にそんな方法あるんですか!?」
『うん、結論から言うと、殺害自体に注射器は使用されていないよ』
「へっ?」
『注射器は、川満氏の腕に注射針の跡を残すためだけに使用されたんだ。まず、宮里さんは川満氏と二人っきりになってから、川満氏の額を見て、こう言ったんだと思うよ。「川満さん、血が出てますよ、拭いてあげます」ってね』
「…………?」
『そしてハンカチを手に持って近付き、額の血を拭ってあげた。……毒が付いていたのはそのハンカチだったのさ』
「ハ、ハンカチに!?」
『ああ、傷口から入った毒が体に回り川満氏は死亡、宮里さんは傷口に付いている毒を別のハンカチで拭き取り、腕に注射針の跡を残した。注射器を傍に残したのも、毒が少し入っていたのも全て計算だよ。非力な自分にこの犯行は無理と警察に思わせるためのね。で、証拠だけど、宮里さんが所持していたというハンカチを調べてごらん。すでにトイレで洗ってあって、毒は消えているかもしれないけど、見た目はきれいになっていても出るはずだよ、ルミノール反応がね』

 春日の指示通り、秋山は宮里の身柄を押さえ、所持していたハンカチを鑑識に回した。すると予想通り血液反応が出た。動かぬ証拠を突きつけられ、宮里は観念し犯行を認めた。
 動機はやはり着服の証拠を川満に握られたためであった。川満は、近日中に金を全て返さなければ、全部警察にばらすと迫っていたのだ。
 追い込まれた宮里は、川満の試合が流血試合になることが多いのを思い出し、この犯行を企て、近頃ずっと機会を窺っていたのだそうだ。

    第二話 おとなのオモチャ殺人事件

「もっ、もしもし! 妻が、家に帰ったら妻が!」
 とある日の警察に、帰宅したら妻が何者かに殺害されていた、と男から電話が入った。
 警察が急いで現場へ向かったところ、ベッドに横たわった女が胸をナイフで刺され死亡していた。争った形跡が無いことから、寝ているところを襲われ、抵抗する間も無く殺害されたものと思われる。検視の結果、死亡推定時刻は午前四時頃と断定された。
「居間の窓ガラスが一枚割られてまして、そこから何者かが侵入したと思われるんですが、犯人を特定できるような指紋や足跡は発見できませんでした。後、遺体が動かされた形跡は一切ありません。……ここまではいいですか?」
 秋山が電話の向こうに居る春日に訊ねた。
『ん』
 と短い返事。
「一見すると強盗の犯行に思えるんですが、実はその他の可能性もありましてね」
『ほう』
「殺害された奥さん、浪費癖があったようです。それはもうハンパなく。旦那さんはそれについて、前々から頭を悩ませていたみたいです。その旦那さんが、ついにブチ切れた……という可能性もあります」
『なるほど』
「しかし旦那さんにはれっきとしたアリバイがありまして……。奥さんの死亡推定時刻の午前四時、旦那さんは現場から遠く離れたホテルの一室で、モーニングコールを受けてるんです」
『ふうん?』
「ホテルのフロント係はこう証言してます―午前四時に起こすよう念を押されていたので、きっちりその時間に掛けたところ、しばらくコールすると旦那さんが出たんだそうです。既に起床していた様子で、ヒゲでも剃っていたのか、ずっとウィィィィンと機械音がしていたらしいです。そして旦那さんが日替わりランチのメニューやルームサービスについて訊いてきたので、質問に答えたそうです」
『ふむふむ。電話に出たのは旦那さんで間違いないのかな?』
「はい。フロント係が旦那さんの声を覚えていて、間違い無かったと言っています。旦那さんはそのホテルをよく利用するようですね」
『ふーん……ホテルよく使うんだ……その旦那さん、なにやってる人?』
「アダルトグッズ専門店を経営しているそうです」
『アダルトグッズ?』
「ええ、ホテルをよく使うのは、仕事で、というよりも夫婦間がアレなので、別居とかに意味合いが近いのかもしれません」
『ああ、そうか』
「えーと、旦那さんに、事件が起きる前の日の行動についてお聞きしたんですが、買い物をしていたそうです。レシートを拝見したんですが、雑貨店で糸とハサミとセロハンテープを購入していて、後、電気店街で携帯電話とハンズフリー用のイヤホンマイクを購入してました。元々使用している携帯もあるそうなんですが、仕事用とプライベート用で使い分けようと思って買ったそうです。後、他にも購入しているものがあって、ええと、音センサー? 音センサーですね」
『…………』
「どうです先輩、何か気になる点とかありますか?」
『ふむ……。まず、強盗の線は薄いと思うね』
「そ、そうですか。その根拠は?」
『じゃあ仮に、強盗の仕業だったとしよう。夜、家の窓のカーテンは全て掛っていたはずだ。外から見て、どの部屋が居間でどれが寝室なのか強盗には解らない。中に人が居るかも知れないのに窓を割って侵入するのはかなりリスク高いよね』
「確かに……」
『しかも、奥さんには抵抗した形跡が無いんでしょ? 何者かの侵入に全く気が付かず、完全に無防備なところを一突きにされたわけだ。家の間取りを知るはずない強盗が、暗闇の中物音を立てず、住人に全く気付かれることなくそんなことができるだろうか? 難しいと思うね』
「な、なるほど」
『そんなことができるのは、玄関のカギを持っていて、家の間取りを完璧に把握している人物、その家の住人くらいじゃないかな……つまり、ガラスが割られていたのは強盗の仕業に見せ掛けるための偽装工作……旦那さんが怪しいと思うよ』
「そ、そうですか……! あ、いや、しかしですね、フロント係の証言から旦那さんのアリバイは完璧ですよ?」
『ふむ…………現時点では物的証拠とか一切無いんだけど、そのアリバイを崩すことはできると思うよ……』
「ほ、本当ですか!」
『うん、旦那さんは購入した品々と、そして「アレ」を使ったんだと思う』
 春日が電話の向こうで、含みのある言葉をはいた。

※夫が犯人だとすると、どのようにして自分のアリバイを作り上げたのだろうか?

「ア、アレってなんですか!? どうやったんですか!?」
 秋山の、携帯を握る手に力がこもる。
『ええと、どう説明したものか……じゃあさ、まず普通の電話機を想像してみて。受話機と本体がクルクルコードで繋がってるやつ、どこのホテルにでもありそーな普通のやつ』
「はい、想像しました」
『じゃあ次に、ハンズフリー用のイヤホンマイクが接続された携帯電話。この携帯電話とホテルの電話機を合体させればその場にいなくても会話ができるようになるのさ』
「は、はい?」
『えっとね、電話の受話器はね、耳に当てる部分を受話部、口に当てる部分を送話部というんだけど、この受話部にイヤホンマイクのマイク部分を、送話部にイヤホン部分を当てるようにして、テープで固定しちゃうんだ。そしてその携帯電話と、元々持っていた携帯電話とを、ずっと通話中の状態にする。そうすれば、フロント係と会話ができるのさ』
「え、ちょ、ちょっと待って下さいね……ええと、フロント係の声をマイクが拾って、その音声が別の携帯電話に伝わって……その携帯で喋った声は、イヤホンから出るわけだから……ああ! なるほど! 確かにこれならその場にいなくても会話できますね!」
『そうそう。後は受話器を本体に戻しておけばいい』
「ん? ま、待って下さい、モーニングコールを受けるためには、電話が鳴ったら受話器を取らないと。その場にいないなら、誰が受話器を取るんですか?」
『うん、確かにそれは大問題だ。しかしそれも、ある物の力を借りれば可能となる』
「あるもの? そ、それは一体何ですか?」
『太くて長くて電池で動いて、ウィィィィィンっていいながらクネクネする棒』
「……………………じょ、冗談ですよね?」
『ガチ』
「マジなんですかっ!? そ、そんなものでどうやって!?」
『いいかい、まず適当な長さの糸を用意する。次に糸の一方の端を受話機に結び付ける。そしてもう一方の端をクネクネする棒に結び付ける。それがすんだら、電話機を何か適当な台の上に乗せ、台の適当なところにクネクネする棒を置く。今度は、このクネクネする棒のスイッチに音センサーを繋ぐ』
「音センサーですか?」
『ああ、音センサーてのは、音を感知すると電源をオンにする、手作りオモチャなんかを作るための工作キットだよ。いろんな種類のがあるけど、なるべく小さい物を使った方が、トリックの邪魔にならないね。旦那さんは電気店街で実際に携帯電話を購入したんだろうけど、電気店街に行った一番の目的は音センサーを購入することだったと思うよ。携帯なんてわざわざ電気店街まで行かなくても安く手に入るところは幾らでもあるはずだ』
「そ、それは……そうですね……」
『最後に、購入した携帯電話と元々持ってる携帯を通話状態にしたら準備OKだ。こっそりホテルを抜け出し、自宅に向かう。そして午前四時、ホテルの部屋にモーニングコールが入り、その呼び出し音に反応してスイッチがオンになり、クネクネする棒がクネクネし始める』
「………………」
『クネクネする棒は力強くクネクネしながらクネクネと台の上を移動してゆく……』
「………………」
『そして遂には台の端から床に落ちる。糸で繋がれた受話器はそれにつられる形で本体から外れるってわけ。後は適当にフロント係と会話をすればアリバイ成立って寸法だよ。フロント係が聞いたウィィィィンっていう機械音はこれのことだね』
「な、なるほど……! な、なんて事ですか、じゃあ証拠はレシートにほぼ全て書いてあったって事じゃないですか……!」
『ああ、隠そうとしたら怪しまれるかもしれないし、たとえ見せても絶対バレないと思ったんだろうね』
「フ、フロントマンと会話していながらも、実際は自宅にいて、奥さんを殺害する直前か直後だったってことですか……そ、そう考えると怖いですね……」
『うん、そうだね……』
「あ、しかしですね、結果的に受話器が外れれば良いのなら、使用したのがクネクネする棒だったとは限らないんじゃないですか? 音に反応してスイッチが入って、動くものであればなんでも良いんですよね?」
『いや、クネクネする棒で間違い無いよ。旦那さんの仕事はアダルトグッズ専門店の経営。職業柄、クネクネする棒を常に持ち歩いていたとしても決して怪しまれることはないからね』
「いや、充分怪しいと思うんですけど……」
『とにかく、クネクネする棒で間違い無いから』
「し、しかし……」
『クネクネする棒!』
「わ、わかりました……全捜査員にそう伝えます……」

 春日の助言を頼りに夫の身辺を徹底的に捜査した結果、事件当時の足取りが判明し、夫がホテルを抜け出していたことが分かった。それを追求したところ、夫は犯行を認めた。
 夫は動機をこう語った。妻は無断で、家や土地を担保に借金まで拵えていたのだそうだ。離婚したとしても全てが戻ってくることはまずあり得ない。もう殺す以外に無い、との考えに行き着いたのだという。
 男は商売道具を握りしめ、涙ながらに語った。

   第三話 一人フガフガ殺人事件

 ある日の春日書店に、秋山が顔を出した。
「せんぱーい。こんちゃーす」
 専門書や参考書が棚に並ぶ小ぢんまりとした店内を進むと、奥にはレジカウンターが有る。
「はあい、いらっしゃー」
 春日の声は更にその奥からした。戸の代わりに掛けてある暖簾を潜ると、中は倉庫になっていて、事務所も兼ねた室内の照明は明るく、春日はパソコンの前に座り伝票を整理しているところだった。
「先輩、お疲れ様です。ちょっと仕事で近くまで来たもんで」
「ああそう。事件? 事故?」
 春日がのびをしながら立ち上がった。ひょろりと背が高く、堀の深い顔に黒縁メガネが掛っている。今はボサボサの頭に、ジャージにエプロンという残念な感じになっているが、ちゃんとしたものを着せてやればそれなりに見栄えはする男である。
「うーん……急病死、ですね」
 秋山が答えた。
「ふうん?」
「今朝一一九番に通報がありましてね。息子が鼻から血を流して息をしてないって。それで救急隊が出動しまして、でも救急隊員が駆け付けたときにはもう亡くなってからかなり時間が経過してたんです。で、死因がちょっとはっきりしないってことと多少出血してるってんで、警察も出動ということに」
「ふむふむ」
「えっと、名前は伏せますけど、亡くなったのは学生さんで、朝になっても食卓に現れない息子さんを変に思って、母親が部屋の戸をノックしても応答なし。心配した父親がドアの鍵を開けて中へ入ると、暗い部屋の中で息子さんが亡くなっていたそうです」
「うん……」
「ボクが部屋に入ったとき、息子さんはパソコンが置かれた机の前で、椅子に座ったまま亡くなっていました。机に前のめりに倒れていて、それで……寝巻のズボンとトランクスが膝まで下げられていて……そして手が……その……こ、股間に……この状態で、死後硬直で固まって……」
「……………………」
「ティッシュの箱が机の上に置いてあって……で、鼻血が出てました」
 秋山がジェスチャーを加えながら説明した。
「……………………」
「状況から考えて、どうやら夜にパソコンでエロDVDを見ながら一人フガフガをしてる最中に亡くなったようだ、と」
「おぅ………………」
「検死によると、鼻からの出血は気を失って前のめりに倒れたとき、机に鼻を打ち付けたためだそうです。その他に外傷は有りませんので、状況から見て性行為時の発作による突然死、いわゆる腹上死に当たるんですけど、今回の場合、一人フガフガ中に亡くなっていますので、一人フガフガ死ってことになります」
「……きっついな」
「はい」
「で、発見したのは両親、か……」
「はい」
「きっついな」
「はい……」
 春日と秋山が砂を噛んだ時のように顔を顰めた。
「まあ、それなら事件性はなさそうだね」
「ええ、部屋に誰かが押し入ったり、争った形跡もみられませんでしたし。しかしかわいそうに……イク前に、逝ってしまったんですねぇ」
「こら、不謹慎だよ」
「あ、すみません。ああ、そうだ。息子さんが見てたエロDVD見てみます? 遺留品として預かってるんです。一応内容を確かめる必要が有るので」
「うん、それはいいんだけど、なんでそれを、鑑識の人じゃなくて君が持ってるの?」
「…………まあいいじゃないですか」
「いいのか?」
 秋山はDVDをパソコンにセットして再生させた。
 冒頭から、若い男と女が腰と腰とを激しくうちつけ合う、過激なシーンが映し出される。女の艶めかしい喘ぎ声が室内に響く。
「モザイク邪魔ですよね」
「うん、モザイク邪魔」
 漢達は糸のように目を細めた。
「あ、それでですね。このエロDVDなんですけど、どうやら、亡くなった学生さんの元々の持ち物ではないようなんですよ」
「………………」
「というのもこのディスク、記録用のDVDに映像データが書き込まれたものなんですけど、亡くなった学生さんが使っていたパソコンのドライブにはDVDへの書き込み機能が無いんですよ」
「………………」
「したがってこのディスクは他の誰かから借りた物、または貰った物ということになります。…………って聞いてますか?」
「………………」
 そしていよいよクライマックスというとき、画面に赤い光が何度も映し出された。
「……なにこれ?」
「ああ、演出らしいです。市販のエロDVDをパソコンに取り込んで、その映像に手を加えたようです。出演してる男女がオーガズムに達するのに合わせて、ピカピカピカッとフラッシュ効果が入るんですよ。変わった性癖ですよね…………あ、そういえば複製って違法だ」
「……………………」
「先輩? どうかしましたか?」
「……秋山君……この一件、捜査を殺人事件に切り替える必要があるかもしれないよ……」
「へっ!? ど、どうしてですか!? 死因は発作ですよ?」
「うん、死因は発作で間違いないだろう。しかし発作の原因は、この映像に有るのかもしれない」
「この映像に? い、一体何を言っているんですか? 現にボク達、今観ててもなんともないじゃないですか」
 秋山が怪訝な顔付で春日と画面とを見比べた。

※春日が考える発作の原因とは一体何だろうか?

 春日がディスプレイを顎で示した。
「発作は発作でも、光過敏性発作かもしれない」
「ひかりかびんせいほっさ?」
「うん。目から入った強い光が脳を刺激して、吐き気を催したり、めまいがして意識を失うこともあり、ひどい時は呼吸不全が起きる。昔、子供向けテレビアニメで問題になったことがあるだろう?」
「ああはい、その事件は知ってます。でも待って下さいよ。ボクは亡くなった学生さんの部屋を実況見分したときもDVDを見ましたよ? 他にも数名一緒に。誰もこの映像で体調が悪くなった人間はいません。現に今だって全然平気です。むしろ元気です」
「うむ」
「なのにそれが発作を引き起こすですって?」
「じゃあ仮に、自分の部屋で一人フガフガをするとしよう。まずどうすると思う?」
「ボクはまず全裸になります」
「それは君の嗜好だよね。ごく一般的な回答を頼むよ」
「ええっ? ……ええと……部屋のカギを……」
「うん、掛けましょ」
「ティッシュを……」
「はい、小脇に抱えましょ」
「………………そして、電気を」
「それ! 学生さんは部屋の明かりを消したんだよ。部屋の明かりのスイッチはオフになっていて、カーテンも閉まってたんじゃないかい?」
「ああ、はいはい、確かにそうです」
「その方がなんか落ち着くからね。でも周りが暗いと画面の光の刺激が強過ぎるんだ。しかも赤い光が一番刺激が強い。『部屋を明るくして、画面から離れてみて下さいね』ってテロップ見たことあるだろう? 周りが明るければ光の刺激は弱まるんだ。君達が実況見分したときには投光器を使ったりして、室内は明るかっただろう?」
「あ、はいはい、確かに……!」
 秋山がコクコク頷く。
「そして僕達が今いるこの室内も明るい」
「なるほど、だから平気なのか!」
「室内が暗く、そしてパソコンの前に座っているために画面も近く、更に一人フガフガの最中で興奮した状態。そして学生さん自身の光に対する体質にもよるけれど、こんな状況で、画面が赤い点滅を繰り返したなら、光過敏性発作を起こす可能性は極めて高い」
「な、なんてことだ……。え、ちょ、ちょっと待って下さいよ。すると、どうなるんですか?」
「うん。確か、このDVDは学生さん自身が作成した物ではなくて、誰か別の人間が作ったかもしれないんだよね? ならばこの映像の加工に悪意が有るのか無いのかで事態は一変する」
「さ……殺人事件…………」
 秋山がごくりと喉を鳴らした。
 春日はパソコンからディスクを取り出すとその光沢に眼を落した。眼鏡がキラリと反射する。
「見たら死ぬ……。これも一種の呪いのビデオか……」
「…………」
「いいかい秋山君、亡くなった学生の交友関係を調べ上げ、ディスクの作成者の割り出しに全力を尽くすんだ!」
「はっ、了解しました! 早速取り掛かります!」
 秋山は春日の手からディスクを掴み取ると、勢いよく部屋から飛び出した。
「待ちたまえ秋山君っ! 話はまだ終わってないよ!」
 春日に怒鳴られ、秋山は体をギクリとさせて振り向いた。
「すすす、すみませんっ! 失礼しました! ……ま、まだなにか?」
「ダビングがまだ済んでいない」
「後にして下さい!」
 秋山も怒鳴った。

 数日後、問題のディスクを作成したという男が警察に出頭してきた。男は死亡した学生の友人であった。地元警察が殺人事件として捜査を進めているのを知り、怖くなったと出頭の理由を話した。
 そしてディスクはやはり、発作を引き起こすよう意図的に作られた物であった。作成の目的は、発作で引きつけを起こした友人を見て笑ってやろうという、実にくだらないものであった。男は、まさか本当に死んでしまうとは思わなかったのだと取り調べの刑事に対し、何度も何度も泣きながら繰り返した。

   第四話 リビングデッド殺人事件

 ある夜、閑静な住宅街に男の叫び声が響いた。
「照屋、バカな真似は止めろ! あぶない! 降りろって!」
 その声に、付近の住民がなにごとかと窓から顔を出し、あるいは通りに出てくる。
 五分もすると野次馬の列ができた。
 頭上を仰ぎ、なおも叫び続ける男の視線の先にはマンションが有り、その五階のベランダに人影があった。
 どうやら男らしく、ベランダの手摺に身体を預け、俯いたまま押し黙っている。
 やがてパトカーのサイレンの音が遠くで聞こえ始めた頃、ベランダの男は更に外へと身を乗り出し、そこから真っ逆さまに転落した。

「あ、先輩。お疲れ様です」
「はいはい、お疲れ様」
 数時間後、秋山に呼び出された春日がマンションの前に到着した。
 既に男の遺体は運び出され、集まっていた野次馬も姿を消していた。辺りは夜の静けさを取り戻しているため、二人は肩を寄せ合うようにして会話を始めた。
「じゃ、さっそくですけど状況を説明しますね。亡くなったのはこのマンションの一室に独りで住んでいた、照屋さんという男性です。散歩中だった友人がベランダに身を乗り出す照屋さんの姿を偶然発見、説得を試みますが失敗。付近の住人が見守る中、照屋さんは身を投げました」
「うん……?」
「なので、目撃者による証言が多数あります。まず、『ベランダが暗くて、表情は判らなかった』ですとか『友達みたいな人が一生懸命呼び掛けてるのにピクリとも動かずガン無視していた』ですとか『何の前触れも無くいきなり飛び降りた』とか、他には―」
「いや、ちょ……目撃者多数って……それ完全に自殺じゃん……なんで僕呼んだの?」
「いやあ、それがですね、ちょっと不可解な点が有りまして。婚約者の女性が泣いて言うんですよ、『子供ができたのをあんなに喜んでくれた彼が、なんで自殺なんか』って」
「ふうん?」
 春日が眉をぴくりとさせた。
「あの女性です」
 秋山がさしたその先に、口元を手で覆い大きく肩を震わせる女がいた。今はマンションのエントランスで警官の事情聴取を受けている。
「かなりショックを受けてらっしゃいまして、それ以上話を聞くことはできてないんですけど」
「女性の隣に立ってる男性は誰?」
 春日が眼でさして訊ねた。
 ともすればその場に崩れ落ちそうな華奢な女の肩を、やけに体格の良い男が手を添えて支えている。
「あの方が、照屋さんにずっと呼び掛けを行っていた友人の湧川さんです」
「そう……随分、婚約者の女性と親しそうだね」
「ええ、なんでも皆さん、昔からの友人同士らしいです」
「ふうん。……ん、待てよ……? 秋山君、まさかパトカーはここへ向かってくる途中、サイレンを鳴らしていたんじゃないだろうね?」
 春日が突然眼付きを変えた。
「え? えと、鳴らしてたと思いますけど、それがなにか?」
「やはりそうか……なんてことだ……秋山君、こんなことを言うのは非常に残念だけど、照屋さんを殺害したのは君達警察の人間だよ」
「な、なんですって!? それは一体どういうことですか!」
「照屋さんは子供ができたことを大いに喜んだ。しかし感動が大きければ大きいほど、その反動も大きい。彼は結婚や将来について考え過ぎて、世に言う『マリッジブルー』に陥ってしまったんだ。そんな時、偶々ベランダに出て夜風に当たっていただけなのに、勘違いした友人が『早まったマネをするな』的なことを言い出し、更には野次馬まで集まってきて彼はうろたえた。そして、極度に不安定な精神状態の彼に追い打ちをかけるけたたましいサイレン。その音が、脳の視床下部に働きかけ、『騒ぎを起こしてしまった、逮捕される、もうお終いだ』という強迫観念が彼に込み上げ、遂に耐え切れなくなって、えーい、って……。したがって照屋さんを追い込み、殺したのは君達警察だ」
 春日はそう言ってウンウン頷くと、あやまれ、と言った。
「……………………そういう冗談言う先輩嫌いです」
 秋山が冷たく言った。
「……ご、ごめん」
「オホン……じゃあ、説明を続けますね。照屋さんが落下したのは地面に敷かれた芝生の上です。比較的柔らかい地面でしたので、裂傷による派手な出血はありませんが、かなりの衝撃があった模様です。死因は頚椎の骨折、脳挫傷でした。湧川さんが駆け寄ったときにはもう意識は無かったそうです。こっちです、付いてきて下さい」
 秋山は照屋が落下した地点に春日を誘導した。そしてライトを取り出すと地面を照らす。
 芝生の上に、大きく窪んだ場所があった。窪みの深さが、衝撃の激しさを物語っている。
「照屋さんは上半身裸で、下はハーフパンツを履いていました。それで、遺体を運び出すときなんですが、やたらお腹に土や葉っぱがくっ付いてたんですよ。触ってみたら何やらベタベタしてました」
「お腹がベタベタ? なんだいそれくらい。君なんてお腹どころか、全身がベタついてるときあるじゃないか」
「そうそう、ローションってきれいに洗い流して貰ったつもりでも、意外と残ってるんですよね―ってほっといて下さい! そうじゃなくて、ガムテープや湿布を剥がした後、みたいなベタベタ感だったんですよね」
「ふうん……」
 春日は芝生の窪みを触ってみた。ベタつくところは無い。
「それと、証言により照屋さんがベランダから落下したのは午後十一時五分頃と分かっているんですが、妙なことに通常よりもかなり早く死後硬直が出てます」
「……照屋さんは上半身裸だったって言ったよね、飛び降りる直前まで運動してたとか?」
「え? どういうことですか?」
「うんとね、体の筋肉の中には、運動エネルギーの源となるATPという物質が含まれているんだけど、生物が死亡すると、このATPは筋肉中からどんどん失われてゆくんだ。そして、筋肉中には筋肉の収縮をつかさどるアクチンとミオシンというタンパク質も在るんだけど、この二つは、ATPが減少していくと、どんどん結合してしまいアクトミオシンという物質になってしまうんだ。このアクトミオシンは、筋肉を硬化させる働きがある。この硬化が、死後硬直ってやつだね。そしてこのATPってやつは、運動するためのエネルギー源なわけだから、死んだときだけじゃなくて、運動することによっても失われる。だから、筋肉が極度に疲労しているときに急死すると通常よりもずっとはやく死後硬直がでることがあるんだ。わかる?」
「いいえ」
「うむ」
「あ、確かに照屋さんの部屋に、あのあれ、自転車のペダル漕ぐトレーニングマシンとか、ダンベルとかありましたよ。どうやら身体鍛えるのが趣味だったらしいですね。遺体を調べているときも、腹筋とかぽこぽこ割れてるし、やたら引きしまった身体してるなー、って思ってたんですよ。でも照屋さん、別に汗かいてませんでしたし、パンツも汗で湿ってたりはしてませんでしたよ?」
「そう……まあ、自殺する人が身体作りの運動なんかするわけないか……」
 春日はライトを借りると辺りを照らした。すると少し離れたところに、同じように芝生が窪んでいるところが有った。
「秋山君? なんでそこ、窪んでるわけ?」
「ああそれ、わかんないです。ボク等もそれには気付いたんですけど、別に関係無いだろう、ということで」
「ふうん……。ん?」
 もう一つの窪みの傍に何か落ちていた。ハンカチで拾い上げてみると、真新しい吸殻だった。春日は首を動かすと、今度はマンションを見上げた。
「…………秋山君、次は照屋さんの部屋を見せてくれるかい?」
「あ、はい。こっちです」
 二人がエントランスに入ると、まだ事情聴取は続いていた。女はいまだ気が落ち着かない様子で、しゃくりあげては嗚咽を漏らしている。警官の方は一向に仕事がはかどらないとみえ、表情を引きつらせていた。湧川は春日達が横を通り過ぎるとき、軽く会釈だけした。
 エレベーターに乗り込み扉が閉まると、秋山はつい犬のおまわりさんのワンフレーズを口ずさみそうになった。が、春日に不謹慎だと怒られそうな気がしたので止めた。エレベーターが上昇していると、春日が何か言おうとして口を開いた。が、口を開いたまま何も言わず、結局無言のまま階数表示へと視線を戻した。
 
「この新築マンションにはまだ、照屋さんしか入居者がいなかったそうです」
「あ、そうなんだ」
 二人は玄関を潜ると、部屋へ上がった。
「部屋の購入は済んでるけど、引越しはまだっていう方が結構いるみたいで、照屋さんも引越してきたばかりだったようです」
「ふうん……」
 春日がリビングをざっと見渡す。秋山の言った通り、部屋の一角にエアロバイクやダンベル等が置いてある。電気で動く乗馬マシンや踏み台が振動するトレーニングマシンまでもあった。普段からよく使用しているとみえ、どれも埃を被っているようなことは無かった。
 次はベランダに出てみる。がらんとしたベランダ。物干竿には何も掛っていない。壁面には、洗濯機等を設置するときに使う、電気プラグの差し込み口があったが、今は特に、何も接続されていなかった。
床には缶の灰皿が置かれている。缶の蓋を開けてみと、中には下で拾ったのと同じ銘柄の吸殻がモリモリ入っていた。
「うん? なんじゃこりゃ?」
 吸殻に混じって丸められた糸が捨ててあった。ピンと真っ直ぐに伸ばしてみると、片方の糸の先が真っ黒に焼け焦げていた。他にも何か無いか灰皿の中をゴソゴソしていると、更にもう一本同じような糸が見付かった。
 次に照屋が身を乗り上げていた手摺を見てみる。手摺は厚みが二十センチ程もあり、マンションの外壁と同じ材質で、しっかりとした造りがされていた。
「これだけの幅があれば、この上で完全に寝そべることだってできちゃうな……。それで、こっから下に落ちちゃったわけかぁ……」
 春日は手摺から身を乗り出すと、顔を下に向けた。
「はい。付近の住人が数人で、広げた毛布をクッションにして受けとめようと相談したそうなんですが、『あいつはこれ以上近付いたら飛び降りると言っている、もうこれ以上刺激しないでくれ』と湧川さんに止められたそうです」
「ふむ……」
 春日は手摺の上を端から端まで触ってみた。ベタつくところは無い。
「それとこれも、目撃者の一人から聞いた話しなんですが、湧川さんは、落下した照屋さんに駆け寄った後、『急いでこいつの婚約者と実家に電話する』と言って照屋さんを他の人に頼み、マンションへ入っていったそうです」
「マンションへ入った? この部屋へ入ったってこと?」
「はい。これは湧川さんにも直接お聞きしたんですけど、婚約者の方とは友人なので当然連絡先を知っていたが、実家の家族の番号はここへこないと分からなかったから、と」
「うん、それは別にいいけどさ、どうやって入ったの? ドアの鍵、開いてたの?」
「合い鍵を持っていて、それを使って入ったそうです」
「合い鍵を持っていた? …………ふつう友達の家の合い鍵って持ってる?」
「そこはボクもツッコミました。そしたら湧川さんが言うんですよ、『例えば、もし俺と照屋が実の兄弟だったら、合い鍵を持ってることは不自然ですか? 血は繋がってなくとも、俺はあいつのことを弟と思っていたし、それだけあいつとの付き合いは長く、親密だった』と、こうですよ」
「うーん……そう言われたら、まあ、うーん……」
「先輩……もしかしてこれって殺人事件なんですか……?」
「……うん、多分……そう……だと思う……」
「湧川さんや近所の住民が下で見てる中、犯人が照屋さんを突き落としたっていうんですか?」
「あーいや、そうじゃなくて……」
「それともあの手摺から、ワイヤーを使ったトリックの痕でも出たんですか?」
「あ、いや、そういうのは全然無かった……」
「じゃあ一体誰が、どうやって?」
「……それはまだ……なんとも……」
 春日はベランダを後にすると、室内の物色を開始した。

 春日が台所から声を掛けてきたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
「おーい、秋山君、ちょっとこれを見てよ」
「何か見付かりましたか」
 春日は冷蔵庫を開けて中を調べているところだった。
「これこれ」
 春日が冷蔵庫のドアポケットに納められた2リットル入りのペットボトルを指した。ボトルに細かく何かが付着している。
「何です? ホコリですか?」
「いやいや、これは灰、だよ。外の気温でボトルが汗をかいているときに張り付いて、ボトルが乾いた後もそのままくっ付いているんだよ」
「灰? 何の灰ですか?」
「わからない? じゃあそれは後でゆっくり……。残るは、『アレ』がどこかにあるはずだけど……」
「へ? 『アレ』?」
「ああ。照屋さんは電動式のトレーニングマシンも多く所有している。きっと、『アレ』も有ったに違いない。どこかに隠してあるはずだけど…………まあ、どこに隠したのかは隠した本人に直接訊こう」
「え、と、ということは解ったんですか!?」
「ああ、謎は解けたよ……!」
 春日の言葉に秋山のテンションが一気にエレクトする。
「よっしゃあ! では憲法に則り、関係者を一堂に集めて推理ショーといきますか!」
「ああいやいや、それは無しの方向で。結婚はまだとはいえ、奥さんの気持ちを考えるととてもパフォーマンスなんてできないよ。犯人が友人となればなおさらだ……」
「え……じゃ、じゃあ……!」
「うん、犯人は湧川さんだよ」
 春日が静かに断言した。

※湧川はどのようなトリックを実行したのだろうか?

 春日達によって呼び出された湧川が、照屋の部屋に足を踏み入れた。
「ああどうもすみません湧川さん、私、春日と申します。ちょっとお話しがありまして……」
 幾分強張った表情の湧川に向け、春日が頭を下げた。
「……なんです……? もう警察の方に言うことは全部言いましたし、疲れてるんで、手短にお願いしますよ」
 湧川が野太い声を更に低くして言った。
「ああ、申し訳ありません。……では、率直にお聞きします。……湧川さん、あなたは照屋さんと口論となり、ついカッとなって彼をベランダから突き落とした。そうじゃありませんか?」
「なっ……! ……な、なんだいきなり!」
 湧川が驚きに眼を見開いた。
「そしてそれは偶然、誰にも目撃されずに済んだ。しかし、このまま逃走しても後で容疑者の一人に数えられるのは間違いない。この部屋である物を見付け、それを利用する方法を思い付いたあなたは、照屋さんの死体をまたこの部屋まで運んできた」
「ちがっ……! 知らない、何の話しだ……!」
「付近の住民が毛布をクッションにして照屋さんを受けとめようと持ち掛けたとき、それを止めたそうですね、なぜですか? それは照屋さんにそう言われたからではなく、ベランダが暗いとはいえ近付かれ過ぎると照屋さんが既に死んでいるとばれる恐れが有り、毛布で受け止められようものなら、それこそ都合が悪い。そうでしょう?」
「…………」
「じ、じゃあ、死後硬直が通常よりも早く始まったわけではなかったんですね」
 秋山が横から訊ねてきた。
「そう、人が下に集まって来たときにはもう、照屋さんは亡くなっていたんだ。そして湧川さんはある方法を使って照屋さんの死体を動かし、落下させた。いや死体が動いた、と言った方が良いのかな?」
「え? 死体が動いた? な、なんですかそれ?」
「EMSマシン、電気的筋肉刺激装置って知ってるかい? 筋肉は電流を流されると収縮するという性質を持っていて、それを利用した医療機具や筋力トレーニング装置があるんだけど」
「え、あ、あれですか? 低周波治療器とか、通販とかの」
「そうそうそれ。それの、電極パッドが粘着式になっているものだね。このマシンを使うと意志とは全く関係なく筋肉が動くんだ。死体だって動く」
「そ、そうなんですか? あ! それってもしかして、理科の実験で蛙の足に電極刺してピクピクって、あれですか?」
「ああ、まさにそれ。さっきちょっと説明したけど、筋肉にはATPという物質が含まれていて、生き物が生命活動を停止するとこのATPはどんどん失われてゆく。筋肉を動かすことができるのはATPが残っている間だけだ。だから例えば、家の冷蔵庫にあるスーパーから買ってきた肉に電流を流しても、もうピクピクしない」
「な、なるほど……」
「したがって、死体の死後硬直が進んでしまったらこのEMSマシンを使ったトリックは絶対に失敗する。湧川さんは大急ぎで準備に取り掛った……」
「…………」
 湧川は既に、大量の汗を額に浮かべている。
「まず、照屋さんの死体をベランダまで運んだら上着を脱がせ、そして手摺の上、もう少し動いたら落ちてしまう、というところに横たわらせる。次に照屋さんが所有していたフィットネス用のEMSマシンを用意し、電源はベランダにあるコンセントからとる。そして、電極パッドは遺体の腹部に貼り付ける。その次に、ベランダの物干竿に2リットル入りのペットボトルを糸で吊るす。そのペットボトルの真下に作動スイッチがくるようにEMSマシンを置く。最後に、物干竿から垂れ下がる糸の適当なところに火が付いた煙草を結び付けたら準備OK。急いで下まで降り、大声を出して付近の住民が集まるよう演技する。火が付いた煙草はやがて糸を焼き切りボトルは落下。次にその下にあったEMSマシンのスイッチが押され、死体に電流が流れる。死体は体を折るように動き、バランスを崩して手摺から落下する。その拍子に電極パッドは剥がれ手摺に残るってわけさ」
「そ、そんな仕掛けが……ボトルって、冷蔵庫に入っていたボトルですか? じゃあ付いていた灰って煙草の灰だったんですね」
「そう。このようにして、照屋さんは湧川さんによって手摺から二回落とされたんだ」
「二回……。し、下の芝生に窪みが二つ在ったのはそのためだったんですね」
「うん。僕は下の窪みの傍で真新しい吸殻を見付けた。そこで、照屋さんはベランダの手摺にもたれて煙草を吸っているときに一度突き落とされたのではないかと考えた。そしてベランダに置かれた灰皿の中に同じ銘柄の吸殻が入っているのを見て、その考えが強まった。下で拾った吸殻から照屋さんの唾液が検出されることは請け合いだ」
「…………」
「二度目の落下の後、湧川さんが照屋さんに駆け寄った本当の理由は、電極パッドがお腹に貼り付いたまま残っていないか確認するためだろう」
「そうか、あのお腹のベタつきは電極パッドに使われている粘着剤が肌に残っていたのか……!」
 秋山が得心の手を打った。
「そう。そして湧川さんは照屋さんの家族に連絡を取ると称してこの部屋に入り、証拠の隠滅を図った。物干竿から垂れ下がる糸とペットボトルに結んである糸を外し、糸を焼き切るために使った煙草と一緒に灰皿へ捨てる。ペットボトルは台所へ持ってゆき、冷蔵庫の中へ戻した。そして、一番肝心なEMSマシンですが…………どこに隠しましたか?」
 春日が湧川に眼を向けた。湧川は荒く肩で息をしている。
「あなたに遠くまで捨てに行く暇は無かったはずです。どうか正直に答えてはくれませんか? しらを切るなら探すまでです。きっと簡単に見付かると思いますよ」
 その強い眼差しに、湧川は、抵抗を諦めた。
「……さ……三階の……消火栓の扉の裏に隠した……」
「……そうですか……ありがとうございます……」
 春日が頷く。その横から秋山が湧川に訊ねた。
「湧川さん、どうしてこんなことを? 下にいる女性が関係しているんですか? あなたはあの女性を愛していて、そのことで照屋さんと口論になったんですか?」
「…………違うよ」
 答えたのは湧川ではなく、春日だった。
「多分違う」
「違うって、何がですか?」
 秋山が眉を顰める。
「照屋さんはここへ越してきたばかりだというのに、湧川さんは既にこの部屋の合い鍵を持っていた。いくら仲が良いといっても、仲が良過ぎる。おそらく彼等はより親しい関係―つまり湧川さんは本当に、照屋さんの『アニキ』だったんだよ……」
「は、え、ええええっ!? そ、それって、まさか、わ、湧川さんと照屋さんが……アレで……ナニして……それで、湧川さんがアニキっ!?」
「この部屋に有るトレーニング器具には埃が積もっていない。これは、照屋さんが日頃からトレーニングに励んでいたということ。そして、EMSマシンも身体作りのために持っていたんだろう。そんな照屋さんをも手摺に抱え上げられる程の『パワフル』さ……湧川さんがアニキだよ……!」
「ででで、でも! 照屋さん、奥さん、子供……」
「あいつはバイセクシャルだった……」
 湧川が静かに言った。
「……俺は生粋のBLだがな……」
「…………」
「…………」
「あいつは、自分がバイであることをあの女にばれるのを最も恐れていた……あいつは……子供ができたから、俺との関係は終わりにしたいと言った……俺はその言葉で、頭に血が昇った……そして……気が付いたら……俺は……」
「そうでしたか……」
「刑事さん、頼みがある……あの女には照屋がバイだったってこと、秘密にしておいてくれないか……」
「………………わかりました。黙っておきます」
 秋山は真摯に頷いた。
「………………」
 湧川は二人に深く頭を下げた後、戸口へと向かって歩き出した。秋山がそれに随伴する。そして春日は、そんなアニキの広い背中を、黙って見送った。

  第五話 不可解な自決

 とある日、秋山に呼び出された春日が、あるマンションの一室に現れた。
「……………………」
「あ、先輩、どうもです。電話でメチャクチャ反応悪かったから来てくれないんじゃないかと思いましたよ。いやー、ボクが迎えに行ければ良かったんですけど、ちょっとここを離れられなかったもので。…………先輩?」
「……………………」
 返事が無い、しかし意識はあるようだ。
「えっと、お店の棚卸してて、昨夜から一睡もしてないんでしたっけ……。説明始めても……大丈夫ですか?」
「……………………」
 春日は緩慢に頷いた。
「はい……じゃあ……。ええと、今日この部屋で独り暮らしをしていた寺田さんという女性が遺体で発見されました。遺体を発見したのは寺田さんが勤めていた会社の同僚とマンションの管理人さんです。今朝、始業時刻になっても職場に現れず、電話にも出ない寺田さんを心配した同僚が、上司の許可を得てここを訪れ、管理人さんに鍵を開けて貰い中へ入ったところ、バスルームで倒れている寺田さんを発見したそうです。死因は剃刀で手首を傷付けたためによる出血性ショック死です。遺体発見当時、寺田さんは水を張ったバスタブに寄り掛り、手首を水に浸けていました。その足下に落ちていた剃刀からは寺田さんの指紋が検出されています。この部屋の玄関の鍵は室内から見付かっており、窓にも全て鍵が掛っていました」
「……………………」
「ええ、そうなんです。一見どう見ても自殺なんですけど、同僚の方が自殺の動機に思い当たることが一つも無いと言ってましてですね。それに遺書も無いんです」
「……………………」
「ええ、確かにそんなの本人の勝手じゃん、と言われればそれまでなんですが、他にも気になる点がありまして。まず亡くなっていた寺田さんが、会社の制服をキチンと着ていたことです。検視の結果、寺田さんが死亡したのは今朝だと分かっています。したがって、寺田さんは昨日会社から帰宅して、ずっと制服を脱がずにいたか、今朝わざわざ制服に着替えてから自殺したということになります。これはちょっと変かなと。他には、遺体の首筋に新しい火傷の痕がありました。小さな火傷ですがこれも少し不自然かな、と。後、玄関のたたきに、何をこぼしたのか水溜りができていました」
「……………………」
「ええ、ただの水だったんですけど、水溜りが、玄関に。これらが気になった点で、他に言っておくことは……ええと、管理人さんと同僚の方に今朝の行動をお聞きしたところ、お二人とも寺田さんの死亡推定時刻にはしっかりとしたアリバイがありました」
「……………………」
「いや、ちゃんと調べましたし、確認も取れましたよ! あの二人には確かなアリバイがあります」
「……………………」
 春日は鼻で大きく息をするとヨタヨタと移動を開始した。そして、太陽の眩しさに顔を不細工にしながら窓枠に眼をやったり、既に遺体が運び出されたバスルームの中を見たりした。そして玄関まで行くとたたきを覗き込んだ。
「そこです、そこに水溜りがあったんです」
 春日の背後で秋山が告げた。たたきはもう乾いていて、寺田の靴の他に、春日と秋山が脱いだ靴があるのみであった。今度はドアに視線を移してみる。スチール製のそのドアは、こちらから見て右側にノブが付いており、ノブの上にはサムターン(つまみ)が付いていた。そのサムターンを左に倒すと施錠できるという、ごくごく普通のドアであった。
「……………………」
 春日はサムターンを捻り、施錠と解錠を何度か繰り返し試してみた。特に不自然な点は無い。今度はドアを開けてみる。ドアは外側へ開いた。サムターンのちょうど反対側には鍵を差し込むシリンダー(鍵穴)が付いていた。春日は外に出てドアを閉めると、ドアの隅々に眼をやった。すると、シリンダーから数センチ左斜め上の、ドアの塗装が少し剥がれていることに気が付いた。
「……………………」
 春日は隣室に眼をやった。四〇二号室。この階には寺田の部屋とその部屋しかなく、ここが最上階でもあった。春日はまたヨタヨタ移動すると、四〇二号室の前まできた。ドアを見ると寺田のそれに比べ、塗装が随分と新しい。つい最近塗り直したようである。
「あ、その部屋の人、話を聞こうと帰りをずっと待っているんですけど、まだ留守で」
 ドアから顔だけ出して秋山が言った。
「……秋山君、悪いけど管理人さん呼んできて」
 春日はだらしなく壁に凭れ掛った。

「先輩、お待たせしました」
 秋山が頭の禿げあがった老人を一人連れてきた。どうやらその男が管理人らしい。春日は首を起こし、壁から背を離した。
「……ああどうも。えー、ちょっとお訊ねしますが、この……四〇二号室に住んでる方に、最近何か届け物とか来てませんでしたか?」
 もっと別の質問を予想していたのか老人はしばしキョトンとした後に頷いた。
「……はい、きてましたな。ここ最近に何度か。何を配達しにきたのかまでは聞いてませんがね。業者が発泡スチロールの箱を運び込んでましたわ」
「発泡スチロールの箱ですか……どのくらいの大きさですか?」
 このくらい、と老人は手を広げた。一抱えはある。
「……わかりました。ありがとうございます。……秋山君。これ自殺じゃなくて、殺人事件だよ。で、犯人はこの部屋に住んでる人……」
 春日が四○二号室を指差した。秋山と老人がギョッとして春日を見た。春日がここへ着いてから十数分しか経っていない。
「その犯人は、アレとアレを使って寺田さんの部屋を密室にしたんだよ……。一つは業者に届けさせた物。もう一つのアレとは大抵の家にはあるもので、多分コードレス式だったんだと思う……」
 欠伸を噛み殺しながら春日は言った。

※犯人はどのような方法で部屋を密室にしたのか?

 秋山が複雑な笑みをこぼした。
「あ、あの……確かに自殺にしてはちょっと不自然な点もありましたけど、そうあっさり殺人事件だと言われると、逆に否定的な気分に……」
「えー? ……じゃあいいよ、とにかく説明だけするから後は自分で判断して……眠いし」
 困惑する秋山と老管理人に構いもせず、春日はボソボソと解説を始めた。
「じゃあまずは犯人が部屋を密室にするために使用したアレについて……。一つ目のアレとは氷のこと。ただ、家庭用の冷凍庫で作る氷は中心に不純物が集まり白く濁る。このような氷は脆く、容易に割れてしまうので使えない。そのため、犯人は氷業者から純氷(じゅんぴょう)を取り寄せたんだ。純氷というのは氷の彫刻などに使われる不純物の混ざっていない硬くて丈夫な氷のこと。これを加工していく。まず厚さは適当に、氷をT字型にカットする。そしてこのTの、下の部分にサムターンの形をした窪みを彫る。サムターンの型は自室から容易に摂れる」
「………………」
「寺田さんが制服を着ていたのは朝、出社するため部屋を出たばかりのところを襲われたからだろう。首筋にできていたという火傷から考えて、犯人はスタンガンを使って寺田さんを気絶させたんだろうね……。そして犯人は、元々寺田さんの部屋にあった剃刀を使ったか、または自分で用意した剃刀で、寺田さんの手首を傷付けた後、彼女に剃刀を握らせるかした。だから当然剃刀には寺田さんの指紋が付いている」
「は、はい……」
「問題はその後、部屋を出る時だ……。犯人は部屋を密室にするために加工しておいたあの氷をここで使う。サムターンに、T字型の氷を取り付けるんだ。そして氷が外れないように気を付けながら外に出て、静かにドアを閉める。そして最後にもう一つのアレを使う……。アレ、というのはアイロンだ」
「ア、アイロン!?」
「そう。ええと、……ちょっとこっちきて」
 春日は寺田の部屋の前まで移動し、ドアのシリンダーの上辺りを指差した。
「ここ、ちょっと塗装が剥がれているところがあるでしょ。この辺りにアイロンを当てたんだ。そうすると……」
 春日はドアを開くとドアの裏側を見せ、今度はサムターンを指差した。
「ドアの内側に取り付けられたT字の氷の、右上部分が溶ける。スチール製のドアは熱が伝わり易いからね。そして、溶けた氷はバランスを崩し左に倒れる。そしたら、一緒にサムターンも回転する……」
 春日がサムターンを捻った。ガシャン、とドアからデッドボルトが突き出す。
「おおっ……!」
「こうやって、部屋を密室にしたんだ……。ドアの塗装が剥げているのはアイロンの熱のせいだったんだよ。そして鍵を掛けた後、氷は溶け落ちてたたきに水溜りを作る……」
「な、なるほど……。あ、しかしですね、その方法なら、誰にでも犯行は可能なのでは? サムターンの形なんて調べれば……」
「まあ、話しだけ聞いたら簡単そうに思えるかもしれないけど、実際やろうと思ったらまず失敗すると思うよ……。犯人は自室のドアで何度も何度も実験して、氷の厚さを調節しながらやっと鍵が掛けられるようになったんだ……。そして、実験を繰り返す内にドアの塗料がボロボロに剥がれちゃったんだよ。だから、それを隠すためには塗装し直すしかなかった……」
「あっ……!」
 秋山は振り返って四〇二号室のドアを見た。管理人も眼を丸くしている。
 そして春日は、
「じゃあ僕帰る」
 と言い残し…………本当に帰った。

 
 四〇二号室の住人に依頼され、ドアの塗装業者を呼んでいたのは管理人の老人であった。そのため、塗装を請け負った業者にはすぐに連絡がとれ、塗装を施す前のドアの状態も確認がとれた。春日が予想した通り、塗装はボロボロだったそうだ。
 また、何度も氷を配達した氷業者も見付かった。
 四〇二号室の住人が犯人であるという疑いを強めた警察が部屋を捜査したところ、ドアの塗料が付着したアイロンを発見したのでその住人を追及すると、容疑を認めた。
 こうして、春日は犯人の顔も、名前も、動機も知らぬまま、事件の幕は閉じた。

   第六話 ガスバス大爆発殺人事件

 季節は秋。山の木々は恥じらう乙女のように紅く染まり、それを見た虫達がクスクスと笑い声をたてている。うららかな午後の陽射しの下、しっとりとした草の香が鼻孔をくすぐり、風が頬ずりしながら流れてゆく中、オレンジ色の炎を上げて、バスが大爆発した。
 その音は春日達のところにも届いた。現在、春日と秋山を含むバスツアー参加者達はさして高くもない山の中腹にいた。最初、音がどこからしたのか解らず、誰もが不安そうに辺りを見回した。すると木々の切れ間から、空に黒煙が立ち昇っているのが見えた。
 春日と秋山が同時に動く。春日は警察と消防への通報を始め、秋山は、木に登り始めた。
 秋山は手足を器用に使いスルスルとてっぺん近くまで登ると、次は滑るように一気に降りてきた。
「結構離れてます、駐車場の辺りっぽいですね。この風向きなら、ここが煙や炎に巻かれることはないかと!」
「OK。島尻さん、皆さんを連れて、落ち付いて下山して下さい! 秋山君、行くよ!」
「はい!」
 二人が見事なスタートを切った。そして、立ち尽くすバスガイドの視界からあっと言う間に消える。
 二人は観光客用に舗装された歩道を逸れ、木の葉を蹴散らし、木の根を踏み越え、最短距離で山を駆け下りる。
 麓に近付くにつれ、燃えた化学素材のにおいが強まり、口の中にいやな苦さが広がる。そして辿り着いた山の麓の大きな駐車場で、二人は驚くべき光景を見た。なんと先程まで春日達を乗せて走っていたバスが炎に包まれていたのだ。
「まさか……運転手さん中にいたんじゃ……」
 肩で大きく息をしながら秋山が言った。
 なんとか中を窺おうとするが、熱風が二人を押し返し、煙が更に引きさがらせた。
 数分後、駆け付けた消防隊の消火活動により、ほどなく炎は消し止められ……車内から運転手の池谷が焼死体で発見された。

「どうやら、爆発の原因はガスみたいです」
 春日と秋山は通報者として警察の事情聴取を受け、その後秋山が同業者としていろいろな情報を仕入れて来た。春日が眉を持ち上げる。
「ガスだって? ああいったバスはディーゼルエンジンで燃料は軽油でしょ? どっからガスが出てきたの?」
「それは……」
 秋山が口を開きかけると、春日の傍に立っていたバスガイドの島尻が代わりに答えた。
「この後予定していた、お食事会のために用意していたものだと思います……」
 島尻はバスガイドの制服が良く似合う美人で、その形の良い唇から言葉が流れ出た。
 島尻が言うには、ツアー参加者一行で山の散策を行った後、近くの広場で紅葉を愛でつつ、地鶏と酒を味わえるという、一風変わった強制イベントが用意されていたらしい。地鶏を料理する際は、灰や火の粉が飛ぶため炭は使わず、扱いが簡単なガスボンベを使用する予定だったそうだ。
「なるほどねえ……先にガスボンベが爆発して、バスの燃料が誘爆を起こしたわけか……ボンベからガスが漏れて、それに引火したのかな……」
「それについては今調べてるところですけど、バスの側面にトランクが設けられていて、そこに収納されていた二本のボンベの内、どちらかに問題があったようです」
「ふむ、どんなガスボンベだったの?」
「ええと、一斗缶ぐらいの大きさで、寸胴鍋みたいな形した、てっぺんに取っ手と開閉バルブがついてるヤツです。ほら、ネズミ色したよく見掛けるヤツですよ。……と言ってもさっきチラっと見たら二本とも爆発でボコボコになってましたけど……。ああっ! 島尻さん、足怪我してるじゃないですか!」
 スカートから伸びた白い足の、両膝の上辺りに水膨れが出来、その周りが黒に近い紫に変色していた。
「火傷したんですか!? 治療しましょう! すぐしましょう! 救急車来てるんで!」
 秋山がわたわたと右往左往した。
 現在駐車場にはパトカー、消防車、救急車が詰め掛けていた。炭と化したバスとは離れた場所に一般利用客の車もちらほら停めてあるが、どの車も破片を被る程度で済んでおり、今回の爆発で犠牲になったのは池谷だけであった。
「だ、大丈夫ですよ、こんなの。……ちょっと失礼しますね」
 島尻はスカートの裾を手で押さえると、向こうへ行ってしまった。
「……でもいつ火傷なんて。島尻さん、バスには近付いてないですよね。熱くなった破片にでも触れたのかな? ねえ先輩?」
「……うーん……あれって火傷かなあ……? 火傷なら大体、患部は水膨れが出来て、赤く腫れるはずなんだけど……?」
 春日が島尻の後姿を見詰めた。島尻は、疲れたように駐車場の縁石に腰を下ろすツアー参加者達に声を掛けている。
 そんなとき、春日が何かを見付け歩き出した。視線の先では子供連れの若い夫婦が遠巻きに現場を眺めている。春日はその夫婦に話掛けるとしばし話込み、頭を下げた後、難しい顔をして戻って来た。
「あの家族が何か?」
「……うん。僕等を乗せたバスがこの駐車場へ着いたとき、あの家族もちょうど車を停めたところでさ。で、バスを降りた島尻さんがあの家族に何か話掛けてたから、何て言われたのか訊いてきた。島尻さんは運転席のご主人に、バスが出るときバンパーをかすめてしまうかもしれない。大変申し訳ないが、もう少し離れて駐車してくれないか、と頼んだらしい。ここみたいに大きな駐車場では、大型車と普通車の駐車スペースは十分間隔が空くように作られているし、そのご主人も少し変に思ったそうなんだけど、他に停める所はいくらでもあったし、やたら丁寧にお願いされたんでそれに従ったらしい」
「なるほど………それで?」
「これって、こういう取り方も出来ないかな『爆発に巻き込まれる恐れがあるから離れててくれ』って……」
「は? 何のことですか?」
「あの家族は島尻さんが遠ざけたから被害に遭わなかった。つまり、島尻さんは爆発があることを知っていた。それはつまり島尻さんが―」
「ちょっと先輩! 何考えてんですか! そういう、何でもかんでも事件に結び付けようとする先輩って、ちょっとヒキます!」
「いや待ってよ、別に事故なら事故で良いんだよ―いや、良くはないけど、ただはっきりさせたいだけ」
「…………」
 憮然とした秋山をよそに、春日は話を続ける。
「ここにバスが到着して、島尻さんが降りて、あの位置までバスを誘導したとき、僕が座った席から島尻さんがあの家族の車に走って行くのが見えたわけ。戻って来た島尻さんは、入山手続きをして来るから降りる準備だけして待ってて、と言ってまた一人でバスを降りたよね。そういえばあのとき、少しして君もバスを降りたよね。何しにいったの?」
「い、いや……あの……な、何か手伝うことはないかなーなんて……」
「ふーん……そーなんだ……それで?」
「それで? いや別に。島尻さんがトランク開けて何かしてたんで、声を掛けて……そういえば、やけにびっくりして振り向いてたな……」
「びっくり……? そのとき何か気付かなかった?」
「はい。美人は驚いた顔もかわいいな、と」
「…………」
「後は……カメラが冷たかったような……」
 秋山が顎に手を当て、空中を見上げながら言った。
「冷たい? カメラって?」
「あ、島尻さんそのとき、記念撮影用のカメラ取り出してたみたいで、それでボクが、入山手続きする間預かってましょうか、って言ったんです。受け取ったカメラと三脚が入ったカバンがこう、ひんやりと……あ、でもバスの中が暖かかったから、温度差でそう感じただけかも」
「……冷たい、か……。ううむ……ちょい話を戻すけど、島尻さんがいつ、どこで、どのようにしてあの足の傷を負ったのかが知りたいな……」
「そんなの、本人に直接訊けばいいじゃないですか」
「素直に本当のことを話してくれるかな……」
「ちょっと、ホントもう大概にして下さい先輩」
「い、いやだって、さっきも何か言葉を濁して行っちゃったじゃない」
「……じゃあ、これ現像すれば何か分かると思いますよ」
 秋山がポケットから使い捨てカメラを取り出した。
「今日は島尻さんしか撮ってませんから」
「君にとってバスツアーって何?」
 春日は眉を顰めた。
「紅葉も美人もどちらも目の保養じゃないですか。とにかく、今朝初めて島尻さんにお会いして、足ガン見したときあんな傷、絶対無かったですから」
「……そう……。じゃあ、僕がどこかで現像してくるから、君はその間情報仕入れといて。発火装置とか無かったかとか」
 秋山があからさまに嫌そうな顔をした。
「いやだから! はっきりさせたいだけだって! あ、僕が少しだけ外すことも現場の刑事さん達に上手く言っといて。頼んだよ!」
 言うと春日は駐車場を後にした。

 そして春日が現像を終えて戻った頃、秋山の方も大方の情報収集を終えたところであった。
「ただいま。何か出た?」
 春日の問いに秋山がむっすりと答えた。
「いいえ……タイマーや発火装置の類は一切無かったようです……」
「ふーん……やっぱりそこまで単純な方法じゃないか……」
「…………」
 秋山は喉まで出かかった言葉を呑み込み、代わりに溜息を吐いた。
「……バスのトランクにはガス漏れ警報機が設置されていたそうです」
「ガス漏れ警報機?」
「はい。島尻さんいわく、会社の意向でこのツアーを取り扱う期間中、万が一に備えて取り付けてあったものだと。機械がガス漏れを感知した場合は、運転席に設置された受信機が、音と光によってドライバーへ異常を知らせる機能になっていたみたいです。会社の代表の方に確認を取ったところ、それで間違いないとのことです……」
 秋山は春日が変なことを考え出さぬ内に、先手を打った。
「そのガス漏れ警報機に何か小細工することは無理ですよ。故障したり、フィルターが詰まるなどして正常に作動していない場合も、信号が出るそうなので」
「なるほど……他には?」
「はい。爆発で亡くなった運転手の池谷さんですが、この会社で運転手を始めてまだ一年だそうです」
「一年か……まだこの仕事に慣れてなくて、何かしら機器の取り扱いを誤り、それが爆発に繋がったとも考えられるのかな……?」
「いえ、池谷さんはバスの運転手歴二十年のベテランです。なんでも二年程前、別の会社に勤めていた頃、バスの運転中に接触事故を起こし、バイクを転倒させてしまったそうです。そのバイクに乗っていた男性の命に別状は無く、事故は示談が成立して、バスの乗客にも怪我人は出なかったそうなんですが、池谷さんは事故の責任を取る形で退社したそうです」
「それって島尻さんから聞いたの?」
「そうです。正確には島尻さんの事情聴取を行った職員からの又聞き、ですが。それで島尻さんですけど、バスガイドの仕事を始めてまだ半年足らずだそうです。本来なら、この後の食事会で料理の腕前も披露してくれる予定だったらしいです。調理に使用するガスボンベ等の機材や食器、食材の入ったクーラーボックス、記念撮影用のカメラなんかは今朝、池谷さん、島尻さんを含む社員数名でトランクに積み込んだそうで、トランク内はそれだけです。日帰りバスツアーですので、乗客に大きな荷物は無く、手荷物は全て車内に持ち込まれていますので、乗客がトランクに近付くことはありません」
「なるほど……うんうん、なんだかんだ言いながらも仕事しておく君の素直なところは、とっても素敵だと思います。君みたいなものでも、その努力はきっと報われるから、大変だろうけど、これからも頑張って下さい」
「…………ありがとうございます」
「それはさておき……」
 春日はどこから調達したのか双眼鏡を取り出し、覗いた。今日は秋山が担当する案件ではないので、近くまで行って物色したりすることはできない。
 黒い骨組みと化したバスはタイヤが融けて傾き、その下のアスファルトには水と消火液がわだかまりを作っていた。
 トランクのハッチパネルは爆発により、かろうじて車体にぶら下がっている状態で、ハッチパネルをロックするデッドボルト(かんぬき)も爆発の衝撃でグニャグニャに変形していた。
「現場の刑事さん達の見解は?」
「それはまだなんとも……ただ、休憩中に仮眠をとっていた池谷さんがガス漏れに気付かず、静電気がスパークを起こしてガスに着火したのでは……みたいな……」
「ふむ、なるほど。確かに帯電した電荷、静電気が原因とみられている火事や爆発は今までに幾つかあるね。でもやっぱりそれ以前に、なぜガス漏れが起きたのかって話になるじゃない。ガスボンベの開閉ハンドルやその安全弁に腐食とかは見られた?」
「いえ。二本とも爆発の衝撃が原因とみられる変形は見られましたが、腐食はありませんでした」
「ふむ、薬品を使ってわざと腐食させるって手もあったんだけど、それでもないか……」
「…………」
「ああ、ごめん。……でもね、僕はこの爆発が意図的なものに思えてならないんだ」
 春日は写真の束を秋山に渡した。
「撮影した順番に並べてある。てか君、本当に島尻さんしか撮ってないし……いいけど。それのサービスエリア前後あたりの写真を見比べてみて」
 一行を乗せたバスは山へ向かう途中、高速道路のサービスエリアに立ち寄っていた。
 秋山は順序良く写真を観察していった。どの写真にも優しく微笑む島尻が写っている。
「サービスエリアに入ったとき、島尻さんが先に降りて、バスを誘導して、そのまま三十分程トイレ休憩があったよね」
「はい。トイレ休憩に三十分はちょっと長いかなーとか思いましたけど、ツアー参加者には女性も、年配の方もいたんで、まあ、そんなもんかと……」
「そうだね。そのとき、日差しがきついから、って島尻さんが車内のカーテンを閉めてくれて、彼女はその後三十分バスを離れていた」
「その三十分間に……何かがあったと……?」
「うん……写真をどんどん見ていくと、バスの出入り口が開いている写真があるだろう? それが、サービスエリアにいるときに撮られたものだよ。その後からだよ、島尻さんが足に怪我してるのは……」
 秋山は悲しげな目で次々と写真を捲っていった。確かに島尻は、サービスエリアを境に足に傷を負っているようだった。そして次の一枚を見ると、上着の前を大胆にはだけ、透けるような白い肌とピンクの突起が露わになり、うるんだ瞳ではにかんだ笑顔を向ける、中年男が写っていた。
「誰だよ! 何撮ってんですかあんた! 誰ですかこれ!」
 秋山が大声をあげた。
「今回現像を引き受けてくれた、フ○カラー○○店の岩松店長だよ」
 双眼鏡から眼を離さず春日は言った。
「店先で何やってんだよ! 撮らせる店長も店長だよ! なんで無駄に色白!?」
「いやあ、フィルムが数枚残ってたから、もったいなかったもんで。後、こう見えても岩松店長、絵とか書かせたらめっちゃ上手いからね」
「知らねえよ! 写真っていう『真実を写す』品物を扱ってるんだから絵のスキルとか全然要らないでしょ!」
「いやでもホントに上手いんだって、○ーラー○ーンとかプ○○ュアとか」
「そっちかい! この人絶対元カメラ小僧とかだよ。趣味が高じてこの仕事やってるよ。とにかく! 不快です! 島尻さんの笑顔と太ももの後にこの写真は不快です!」
 春日は双眼鏡から眼を離し、ひた、と秋山の眼を見詰めた。
「秋山君。確かに島尻さんは魅力的だよ。君が好意を持つのも分かる。でもね、真実を追究するのにその感情は余計なもの。きっぱり切り離して考えないと……それになにより、君には交通課の静香ちゃんという心に決めた人がいるじゃないか」
「静香ちゃん……」
「そうだよ! 脈が無いなんてヘコんでたけど、君の情熱はいつか伝わるって。静香ちゃんのことを僕に話すときの君のあの顔。あの、キラキラした笑顔と白い歯がとってもウザいよ」
「それって褒めてないですよね……」
「ヘイユー! 告ッチャイナヨ!」
「何をいきなり! そんなの無理ですよ!」
「無理じゃない! 大丈夫だって! これマジ。マジだから」
「ええっ、ほ、本当ですか……? ……い……いけますかね……?」
 秋山が上目遣いでおそるおそる訊いた。
「いける。夏までにはいける」
「本っ当に本当ですか? ……じゃあ……その……が、頑張ってみようかな……」
「その意気だよ秋山君! 自分を信じて!」
「は、はい! わかりました! 頑張ります! いきます!」
「そうだそうだ! いけいけ!」
 そして散ってこい。
「あ、あれ? 先輩? 何か眼鏡の奥が笑って無いんですけど……」
「気のせい。では話が上手くまとまったところで、捜査を続けよう。頼りにしてるよ秋山君!」
「わっかりました! 一旦! 一旦頭切り替えます! 不肖私、今は真実を解明することにのみ集中する所存であります!」
 秋山は背筋を伸ばしてビシリと敬礼した。
「うむ! では事件を解く手掛かりは何処にある!?」
「見当もつきません!」
「うむ! では解散! ……じゃなくて、何か考えたこととか無いの?」
「そう言われましても……あ、そういえば、一人の救急隊員が島尻さんの太ももの傷を目ざとく見付け、治療を勧めています。しかし島尻さんはこれも固辞しています。何かその隊員も先輩と同じようなこと言ってましたよ。火傷に見えない、と。雪山で遭難した人が似たような潰瘍をこしらえることがあるらしいんですが」
「ふむう……」
「しかし、池谷さんは気の毒ですが、あれほどの爆発で他に被害者が出なかったのは奇跡ですね。通常なら、駐車場内はもっと混み合っているらしいんですが、偶然にも、今日になって予約していた三つの団体が軒並みキャンセルしたとかで」
「なるほど。道理で駐車場が空いてるわけだ。確かに、間違ったらかなりの負傷者が出ていたかもしれないな……。じゃ、本題に戻ろうか。島尻さんはサービスエリアで三十分間何をしていたのか。そして何故バスは爆発したのか……」
「先輩、くどいようですけど、本当に島尻さんは今回の件と関係してるんですか? 例えば、ボンベのハンドルの閉め方が緩かったためにガス漏れが起きてしまい、トランク内にガスが充満しているときに、池谷さんが咥え煙草でハッチパネルを開けてしまい爆発してしまった事故という可能性も……あ、違うか、池谷さんは車内で発見されてるんだっけ」
「そうそう。それにハッチパネルをロックするデッドボルトが衝撃で歪んでるわけだから、それはないよ」
「あ、そうか、ハッチは閉まっている状態で爆発が起きたってことですね。それなら、トランクの外にガスがどんどこどんどこ漏れ出し、車内にいた池谷さんがそれに気付かず煙草を吸おうとして引火したとか……あ、いや、どちらにせよガスが漏れてたら警報機が知らせてくれるのか……」
「うん……」
「……じゃあですよ? もし、先輩の言う通り島尻さんが怪しいとして、島尻さんがトランクを開けて、カメラを取り出すフリをしてガスボンベのバルブハンドルを開いていたとしても、しばらくしたらガス漏れを警報機が知らせて、池谷さんがボンベのバルブを閉めて、それで終わりじゃないですか。タイマーも発火装置も無いのに、そう都合良くボンベを爆発させることなんてできますか? ヘタすりゃ島尻さん自身も吹っ飛びますよ?」
「うん……だから、運転手の池谷さんに何かさせたんじゃないかと思うんだ……池谷さんが何かしたから、爆発したんじゃないかと……」
「何か、って何ですか?」
「いや……それはまだ……」
 春日は秋山が持つ写真の束から一枚抜いた。今朝一番に撮られた写真には、島尻の隣に池谷も写っていて、営業スマイルの下にきちんとネクタイを締め、手には白い手袋を嵌めていた。
「……池谷さんに何かさせる……どうにかしてガスに点火させる……? ガスボンベのバルブに何か細工を?」
 秋山がぶつぶつと呟いた。
「あ、先輩、因みにバルブの開閉ハンドルには、こうペイントされていましたよ……」
 秋山は手帳を取り出すと、中に『←開 閉→』と書き込んだ。
「開と……閉……か……」
 二人はしばらくその文字に眼を落した。
「…………あ、ああっ! そうか、わ、わ、わ、わかった! もしかして!」
 先に声を上げたのは秋山だった。
「も、もしかしたらやっぱり島尻さんは、カメラを取り出すフリをしてガスボンベのバルブを開いたのかもしれません!」
「……うん……それで?」
「そ、そしてトランクのハッチを閉め、バスツアー参加者達を連れてバスから遠く離れます。ガスがトランク内に充満するとガス漏れ警報機が警報を鳴らします。そしたら当然、池谷さんはボンベのバルブがちゃんと閉まっているか確認しに行きますよね? 手でこう、ハンドルを捻って、閉まっているかどうか。でも実はその開閉ハンドルに細工がされていて、ハンドルに書かれた『開』の文字と『閉』の文字が逆になっていたんじゃないでしょうか……! 池谷さんは書いてある通りにハンドルを回します。しかし閉めたつもりが逆に開いていて、結局ガス漏れは止まらなかったんですよ! 池谷さんが安心して車内に戻っても当然ガス漏れ警報機はまだ鳴っています。そこで、池谷さんはガス漏れ警報機が故障してしまったと考えます。そして、電化製品は叩けば直るという言い伝えの通り池谷さんはガス漏れ警報機をバンバン叩いてしまったんです。そのショックで機械がショートし、飛んだ火花がガスに引火して、大爆発に繋がったのでは!?」
 秋山がぐっと拳を握った。
「……秋山君、面白い推理だけど……それ違う」
 春日は首を横に振った。
「へ?」
「ガスボンベは二本あったんだろう? ハンドルが一方は時計回り、もう一方が反時計回りだったら不自然だし、たとえ両方ともハンドルに細工してあったとしても、あの手のガスは着臭してあるから……」
「ちゃくしゅう?」
「うん。一般的に使用されるガスってのは本来無臭なんだけど、事故防止のためにかなりの刺激臭をわざと付けてあるんだ。両方のバルブを全開にしたらかなりの量のガスが、勢い良く流れ出るし、相当に臭うから、いくらなんでも気付くよ。それに、池谷さんが機械をバンバン叩くかどうかなんて分からないじゃない」
「あ……それも……そうですね……」
「うん。じゃあ次は僕の番だね。僕の考えを聞いてよ」
「へっ?」
「君が島尻さんから受け取った記念撮影用のカメラは冷たかった。そして島尻さんは足に火傷ではなく凍傷を負っているふしがある……」
「と、凍傷、ですか?」
「うん。だから正解はきっと……閉めたから爆発した、だよ……」
「え? そ、それってどういうことですか!?」
 春日の意味深な言葉に、秋山が困惑の表情を浮かべた。

※バスはどのようにして爆発したのだろうか?

「し、閉めたから爆発したって、一体どういうことですかっ?」
 春日の言った言葉の意味が全く分からず、秋山が訊ねた。
「……短時間でも触れれば凍傷を負い、密閉された容器で保存してはならない化学薬品が在る……液化ガス……液体窒素って知っているかい?」
 春日がいつになく真剣な表情で話し始めた。
「え、ええまあ、名前くらいは……」
「液体窒素はおよそマイナス一九六度。専用の容器なら一カ月以上保存することも出来るけど、常温に置くとみるみる内に蒸発する。そして危険なことに、容器を密閉してガスの逃げ場を塞いでしまうと、内部に溜まったガスの圧力が容器の強度を超え、爆発してしまうんだ……島尻さんはこれを利用したんだよ」
「…………」
「下準備はサービスエリアでのトイレ休憩から。まず、わざと陽の光が入る場所にバスを誘導し、カーテンを閉めて僕らに目隠しをする。そうしておいて、サービスエリアのどこかに前もって停めておいた自分の車へ行き、用意しておいた中身が空のガスボンベを液体窒素で満たし、そのボンベをバスのトランクに積まれた二本のガスボンベの内の一本とすり替える。先に、トランクを開けて荷物を点検する、とでも池谷さんに伝えておいてからね。勿論ボンベのすり替えを誰かに見られては駄目。ツアー参加者がちらほらバスを出入りするし、他の利用客もいるから、車の陰に隠れながら慎重に移動しなければならない。しかし、満タンのボンベは女性にはかなり重い。移動の際にボンベが太ももに触れたままの状態になってしまい凍傷を負ったんだ。そして、事前に自分の車をサービスエリアに駐車した後は、タクシーでも呼んで帰らなきゃいけないけど、乗ってた車が故障したとかドライブ中に彼氏とケンカした等の理由でサービスエリアにタクシーが呼ばれるのはよくある話で、不審に思われることもない」
「な、なるほど……じゃあ……やっぱり、ちょっと長めのトイレ休憩はそのためだったんですか……」
 秋山は表情を曇らせた。
「うん……そして、バスが出発して、山へ向かう間、液体窒素で満たされたボンベのバルブは少し開いておかなくてはならない。爆発しちゃうからね。そしたらトランク内には窒素が充満するわけだけど、LPガスの検知を目的として作られたガス漏れ警報機は反応しない。山へ到着したら、次の行動を開始する。ここで、近くに子供連れの夫婦が車を停めようとしてたのは想定外だっただろうけど、そこは上手く説得して遠ざけることができた。そして、記念撮影用のカメラを取り出すと称してトランクを開ける」
「そうか、あのカメラの冷たさは液体窒素が入ったボンベでトランク内の温度が冷やされたからだったんですね」
「うん。そして、液体窒素が入ったボンベのバルブは引き続き開いたままにしておき、LPガスが詰まったガスボンベのバルブを少しだけ開いてハッチを閉める。ツアー参加者の登山中、池谷さんはバスで休憩。やがてトランク内にガスが充満し、ガス漏れ警報機が異常を知らせる。当然池谷さんはガスボンベを調べに行くよね」
「行きますね」
「そうして、ハッチを開けてボンベの点検を行った池谷さんは、開閉ハンドルに書かれた文字に従ってハンドルを回したんだ。二本あるボンベのどちらからガスが漏れているかわからないから両方ともね。液体窒素の入った方のボンベはキンキンに冷えてるわけだけど、池谷さんは白い手袋をしていた。冷えた金属が皮膚に張り付くことは無く、ハンドルを回すようなごく短時間なら冷たさも感じなかっただろう。こうして遂に、液体窒素のボンベは密閉されてしまったんだ」
「そ、そうか、これで、ガス漏れも収まり、警報機が鳴り止むわけですね。そして池谷さんは安心して席に付く……」
「うん……しかしボンベの中では液体窒素の蒸発は続いていて……遂に内部の圧力に耐え切れずボンベは破裂、その衝撃でLPガスのボンベも爆発したわけだ……」
「そ、そうか……! 池谷さんにボンベのバルブを閉めさせた……閉めたから爆発した、ですか……。ですが証拠は……?」
「一般的なガスボンベには、安全弁というのが付いていて、ボンベ内の圧力が一定以上まで上昇すると、ボンベの破裂事故を防ぐため自動的に弁が開き、ガスを外へ逃がす仕組みになっている。弁が開かないように何か細工したんだろうけど、もう爆発の衝撃で変形しちゃってるしなあ……」
「太ももの怪我を診断させて貰うか、後はサービスエリアに島尻さんの車が今も在るのか無いのか」
「うん。もし既に故障したと偽ってレッカー移動させてたらちょっとだけ厄介だね。でもまあ、証拠を隠滅される前にカタをつければいいさ。……というわけで、君は今の話を島尻さんにして、やんわりと自首を勧める方向で。……じゃ僕トイレ」
 踵を返した春日の腕を秋山ががしりと掴んだ。
「……先輩、ボクだけに全て押し付けようったってそうはいきませんよ」
「え? な、何のこと?」
「なあにが、君が好意を持つのも分かる、ですか全く。ああいう大人の美人に弱いのは先輩の方でしょ! 島尻さんのこと目で追っかけちゃったりして! 彼女のことを疑いながらも、本当は彼女が犯人でなければいいと思ってたんでしょ? でも、彼女が犯人ではない別の可能性を探そうとすればするほど、証拠を集めれば集めるほど、それは彼女の犯行を裏付けるものにしかならなかった……。上手くボクをノセたつもりなんでしょうが騙されませんよ」
「あ……あらあ……」
「ほら、行きますよ!」
 二人は歩き出した。その足取りは実に重たいものだった。


「お二人が刑事さんだと聞いたとき、なんとなくこうなる予感がしてました……」
 二人から自首を勧められた島尻は薄く笑いながら呟いた。
「いえ、僕は本屋です」
 春日はそう言いかけたが話がややこしくなりそうなので止めた。代わりに、
「島尻さん、あなた、池谷さんが二年前に起こした事故で怪我を負った男性の関係者ですね?」
 島尻と秋山が驚いた顔で春日を見た。
「事故があったのが二年前。池谷さんが今の会社に勤め始めたのは一年前。バスのドライバーが自分の事故歴をベラベラ喋ることはしないだろうし、半年前から勤め始めた島尻さんが事故を知ってるってことはそうなのかなって……」
 島尻が俯いて口を開いた。
「仰る通り…事故の時怪我をしたのは私の彼氏です……いえ、でした……」
「でした?」
「はい……亡くなりました……一年前……」
「な、亡くなったんですか!? その事故が原因で!?」
 秋山が眼を剥いて訊ねた。
「いえ。怪我は一カ月程で治りました。示談になって、治療費も慰謝料も支払われました。でも……しばらくして怪我が原因の後遺症が出て……彼は、以前のように指が動かなくなりました……」
「指が?」
「はい……彼は……CDデビューが決まったバンドのギタリストでした……事故の後遺症が出た場合は特別に慰謝料を再請求出来て、またいっぱいお金を貰ったんですけど……彼は人が変ったようにそのお金でお酒ばかり飲むようになってしまって…………一年前に……部屋のベランダから……飛び降りて……」
「な……なんてことだ……」
 島尻の瞳と唇から押し殺していたものが溢れ出てきた。
「ギターが弾けなくなった。たったそれだけのことで自殺するのが理解出来ませんか? ……私は……私は全く理解出来ません……! ……ただ、彼にとっては掛替えの無いものだったんでしょうね……何よりも……私よりも……そう思うと……悲しくて……悔しくて……彼を、恨みました……池谷さんに復讐とかじゃないんです……怒りをぶつけるところがなくて……それで……池谷さんを……そのために池谷さんの再就職先まで調べて……逆恨みですよね……私、最低ですよね……捕まるのが怖くて、コソコソいろんな仕掛けして……それでも……私は……」
 最後の方は聞きとれなくなっていた。春日が静かに問い掛ける。
「聞くところによると、今日になって予約をキャンセルした三つの団体があったそうですが、ここの管理者が駐車場のキャパを超えて予約を受け付けることはないと見越して、架空の団体名と人数で駐車スペースを確保しておいたのも、あなたですね?」
「うお!? ほ、本当ですか!?」
 秋山がまたも眼を剥く。
「そうしておくことで、爆発に巻き込まれる人間が出ないようにしたんだ。実際そうなった。しかし島尻さん……あなたが遠ざけた子供連れの夫婦のように、飛び込みの客もいる。近所の子供達が遊びに来ることだってあるかもしれない。他に被害者が出なかったのは全くの偶然なんですよ。あなたはこのような殺害方法を採るべきじゃなかった。いや、そもそも池谷さんの殺害を考えるべきじゃなかったんだ……!」
「……はい……すみません……すみません……」
 影が泣いていた。
 全てが赤く染まった代わりに、夕陽を背負った島尻だけが真っ黒に染まり、さめざめと、泣いた。

 その後、島尻の自供に基づき、地元警察によってサービスエリア内の捜査が行われ、間もなく島尻所有の乗用車が発見された。中からは液体窒素を保存するための特別な容器と、すり替えられたLPガスが詰まったガスボンベも発見され、春日の推理を裏付けるものとなった。なお、ボンベの安全弁に対する細工は、弁をハンマーで叩くことにより変形させ、弁を正常に作動させなくするという単純なものであった。

   第七話 コーヒーブレイク殺人事件

 ある寒い夜。老朽化の進んだアパートの一室で、男四人が麻雀卓を囲んでいた。
 閉めきった室内に充満する、この淀んだ空気は、男達が吐き出す煙の所為だけではない。畳の上は隙間無くゴミで埋め尽くされ、喰い散らかしたラーメンやら弁当やらは発酵し、台所の流しには数十日分もの洗い物が放置されていた。そのまばゆいばかりの異臭に誘われて、名前も分からぬ虫が元気に歩き回っている。
 男達は人間に秘められし環境適応能力を余すところ無く発揮しつつ、小さな石の動きに一喜一憂している。そんな、心温まる光景がそこにあった。
「をいをい、楽勝過ぎて眠くなっちゃうよ?」
 東家に座するのは大の麻雀好きである末吉だった。この中で一番の年上でもある。
「今回は偶々ヒキが良いだけっしょ」
 南家に座するのが久米。負けが込んでいるせいか次々と煙草を灰にしていく。
「そうそう。いつもならツモの悪さに不機嫌になってる頃じゃないっスか」
 西家で点棒をチャラチャラと弄んでいるのが古島。この部屋の主でもある。
「…………」
 北家で自分の牌を食い入るように見詰め、やたら瞬きの多いのが辻である。
 この四人は同じ大学に在籍しており、週に二回はこうやって卓を囲んでいた。しかし今日に限って珍しいことがあった。いつも全員分のコーヒーを買いにコンビニまで行かされるのは辻なのだが、なんの気まぐれか、古島が、今日は自分が行くと言い出した。
 コンビニから三十分程で戻った古島は、大きなレジ袋を両手に下げていて、袋の中には缶コーヒーの他に大量の菓子類、各々が愛煙する煙草まで入っていた。そして、今日飲み食いする分の代金は全て自分が持つとまで言い放ち、皆を驚かせた。
 古島は買ってきた缶コーヒーをそれぞれの前に置いてやった。卓に置かれた四本の缶コーヒーの内、三本は別々のメーカーのブラックコーヒーで、残りの一本はまた別のメーカーのミルク、砂糖入りのコーヒーだった。
「どれか好きなメーカーのがあったら、好き勝手取り換えて飲んで」
 古島はにこやかにそう言った。
 それぞれが思い思いの缶コーヒーを手に取り、開けて飲んだ。するとコーヒーを飲み下した末吉が急に苦しみ出し、もがいた後、白目を剥いて倒れた。

 久米達の通報によってすぐに救急車が駆け付けたが既に末吉は死亡していた。警察も到着し、捜査が行われたところ、死亡した末吉の口内と缶コーヒーの飲み口から青酸カリが検出された。また、遺体をくまなく調べたが、毒物反応が出たのは口内だけであった。
 そして、コーヒーの缶からは、末吉、古島、コンビニの店員の指紋が検出された。
 また、末吉と一緒に居た三人には身体検査が行われたが誰も毒物を所持していなかった。

「なるほど……状況は大体把握しました」
 プシュー……。当事者達から説明を受けた春日が頷いた。その後ろでは秋山がゴミとヤニの臭いに閉口している。
「では、コーヒーを買って来たのは、古島さん、あなたで間違いありませんね?」
 プシュー……。
「ああ、レシートはあんたの後ろにいる刑事さんに渡したよ」
 古島が秋山を指した。春日がもう一度頷く。
「はい、拝見しました。レシートには日付と時間も明記されてましたし、お部屋にあった品物と照合したところ、一致しました」
 プシュー……。
「当たり前だろ」
「そりゃそうですよね。ははは」
 プシュー……。
「あのさ……」
「なんでしょう?」
 プシュー……。
「会話の端々に除菌スプレー散布すんのやめてくんない? 俺達バイ菌じゃないんで」
「いえいえ、どうかお気になさらず」
 プシュー……。プシッ、プシッ、プシッ、プ……
「何一本丸々使い切ってんだよ!」
「いやー、しかし古島さん。もうちょっとお部屋は奇麗にした方がよろしいかと」
 春日は使い果たしたスプレー缶を、山盛りのゴミ箱にねじ込んだ。
「片付けても片付けても、どうせみんなが汚すんだよ。てか、いいだろ別に。余計なお世話だ」
「いやいやー、彼女とか来たとき困るでしょう」
「それこそ余計なお世話だ。だから、いいんだよ! デートのときは車飛ばしてどっか行くし。こんな壁の薄い部屋じゃ何も出来ねえしよ」
「そんなもんですかねぇ」
 プシュー!
「何本持ってきてんだよ!」
「しかしこの部屋暑いですねぇ。ちょっと失礼してコートを……」
 春日は着ていたコートを脱ぐと、ゴミ箱に捨てた。
「もう着れねえってか!? 臭くて着れねえってか!?」
「そうですか。古島さん彼女いますか。可愛いですか?」
 春日の顔がニヤニヤしたものに変わった。
「ああ? …………まあな」
「ああそうですか! いやあ、羨ましい。さぞかしあなたにお似合いの、エラの張った女性でしょうねぇ」
「張ってねえよ! あやまれ、今すぐ俺とエリ子にあやまれ」
「それで? スタイルは良いですか?」
「ああっ? 何でそんなこと言わなきゃな―」
「教えて下さいよ! 良いんでしょ!? このこの!」
 春日が肘で古島の脇をつつく。
「……スタイルは、まあ、そこそこだよ」
「なるほど! そこそこエロい身体してますか! デートは主にどちらへ?」
「だから! 何でそんなことあんたに赤裸々告白せにゃならんのだ!」
「そうもったいつけずに、減るもんじゃなし!」
「神経すり減るわ……! ちっ、行き付けのバーがあるんだよ。エリ子、カクテルが好きでよ」
「エラ張ってるのに?」
「張ってねえ! だいたいカクテルにエラ関係ねえだろが」
「じゃあそのエラ子さんが……」
「エリ子!」
 古島が青筋を浮かべる。見かねて秋山が春日を咎めた。
「ちょっと先輩! ふざけるのも大概にして下さい! 申し訳ありません、大変失礼しました。許して下さい、エラ夫さん」
「だれがエラ夫じゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 古島の怒号が向こう十軒に響いた。

 逆上した古島を落ち付かせた後、春日と秋山はアパートの外で個別に聞き取りを行うことにした。
 まず、末吉の右手に座っていた辻を連れ出して話を訊いてみた。
「最初に末吉さんがコーヒーを選んで、その後は皆が適当に取ってましたよ。それと、いつもは僕が買い出しに行かされるのに、古島君が自分から行くって言い出して。しかもオゴってくれるって。こんなの初めてのことだったんでビックリしました」
 眼をしばたたかせながら辻が話した。
「そうですか……末吉さんですが、いつも飲むコーヒーのメーカーは決まってたんですか?」
 春日が先程とは打って変わり真面目な面持ちで訊ねた。
「いえ、全然です。ナシナシコーヒーならなんでも」
「ナシナシコーヒー?」
「あ、ミルク、砂糖無し、ブラックって意味です。だからナシナシコーヒー。っていうか、全員メーカーのこだわりなんて無いと思います。僕の場合、アリアリコーヒーならなんでも。あ、アリアリってのはミルク、砂糖入りって意味です」
 春日は辻に礼を言うと、次に末吉の正面に座っていた古島を呼んで、話を訊いた。
「古島さん、今日皆さんの分はオゴリだったそうですね。何かイイ事でもありましたか?」
「別に。偶々金が有ったから、たまには気前の良いところを見せようと思っただけだよ」
 まだ機嫌が直っていないのか、ぶっきら棒に答える古島。
「そうですか。でも、買い出しまで自分で行っちゃうなんて、良いとこ見せ過ぎじゃないですか?」
「…………まあな。つか、何なのこれ? 取り調べ? 俺達容疑者なわけ?」
「いえいえ! 所持品検査のときも説明があったと思いますが、これらはあくまで形式上のものです。言わばお約束です。家でお母さんがご飯は? と聞いてきたとき、こちらが食べた、と答えると、何食べた? と必ず聞いてくるのと同じことです」
「…………」
「はい、ではありがとうございました。次は久米さんを呼んで頂けますか」
「…………」
 憮然とした表情で部屋へと戻った古島と入れ替わりで、久米が出てきた。
「はい、では久米さん、お話をお聞きしていきたいのですが―久米さん? どうかしましたか?」
「……あ、いや……」
 久米が眼を逸らした。額には汗が浮かんでいる。
「久米さん、何かありましたら、どんな些細なことでも構いませんので教えて頂けませんか」
「あ……は、はい……えっと、あの……実は……ち、ちょっとこれ、チクるみたいで嫌なんすけど……古島って……」
「はい」
「その……と、歳の割には、う……薄くて……、か……か……」
「か?」
「……被ってるんすよ……あの、黒くてフサフサしたもの……」
「え? ○デランス的な?」
「そ、そう……で、ガッコで末吉さんが悪ノリして、古島から毟り取っちゃって……しかもエリ子ちゃんの前で」
「え!? 本当ですか!?」
 春日が瞳を大きく広げた。
「ええ。エリ子ちゃんも同じガッコなんで。もうめちゃくちゃヒキましたよ。……いくらなんでもあれはやり過ぎでしたよ末吉さんは。それで……古島そのこと相当根に持ってて……当たり前すけど。末吉さんがいないときはいつも『あいつ、いつか絶対ぶっ殺してやる』って言ってました。……俺達以外の他の集まりでも言ってたらしくて、その内本当に殺るんじゃないかって校内でも噂になってたっす……」
「……そうですか。……ありがとうございます、大変参考になりました……久米さん、このままちょっとここで待っていて頂けますか」
「え? ああ、はい……」
「秋山君、我々は部屋へ戻るよ」
「あ、はい」
 秋山は水に潜るときのように大きく息を吸い込んだ。玄関を潜ると中で待っていた古島と辻が春日達を見る。
「申し訳ありません、辻さん。ちょっと外で待っていて頂けますか」
「え? は……はい……」
「な、何だよ?」
 そそくさと部屋を出て行く辻を見て、残された古島が警戒の色を浮かべた。そんな古島に、春日は静かに告げる。
「……事件の真相が解りました……缶コーヒーの飲み口に毒を仕込み、末吉さんを殺害した犯人は……古島さん、あなたですね?」
「なっ!? ば、ばか言ってんじゃねえよ! コ、コーヒーは皆が好き勝手に選んで取ったんだぜ!? 俺が殺せるわけねえだろ!」
 古島が大声で否定する。しかしその表情は引きつり、声は上ずっていた。

※春日が言うように、古島が末吉を殺害することは可能なのだろうか?

「ぷはっ、良い人を演じて末吉さんを油断させ、隙をみて毒を飲ませたってことですか?」
 秋山が訊いてきた。春日は首を横に振る。
「いや、逆だよ。大いに警戒させたのさ。校内で噂が広がってるって事は、回り回って末吉さんの耳にも入っている可能性は大、だね。そしてそれは古島さんがわざとそうなるように仕向けたから。……古島さんがコーヒーを買って来たとき、末吉さんはこう思っただろうね『自分から買いに行くって言った上に全員分オゴリだと? 気前良過ぎだろ、気持ちわりぃな……。まてよ、そういえばこいつ、相当俺の事を恨んでいるみたいな事を聞いたな。まさかこのコーヒーに何か入れたんじゃないだろうな?』ってね。そうして末吉さんは、自分の一番近くにあるコーヒーではなく、一番遠く、そして最も安全そうな古島さんの近くにある缶コーヒーを取ったんだ。まんまと取らされた、と言った方が正しいかな。毒が塗られていたのはそのコーヒーだったのさ。そして、年上である末吉さんが一番先に手を伸ばすであろうことも計算の内。しかしもちろん、こう旨くいくとは限らない。末吉さんが警戒してコーヒーを飲まない場合もある。これはこれでもう仕様が無いです。辻さんは当然アリアリのコーヒーを取るだろうし、久米さんが毒付きを取ってしまったら、そのメーカーのコーヒーがどうしても飲みたいと言って換えてもらう。自分に毒付きが回ってきたら飲まなければ良いだけの話」
「バカヤロウ! そんなのただの想像だろ!」
 その声は、絶叫に近かった。
「ええ、あなたが末吉さんを狙ったという事は立証できません。が、毒を使用して、その結果人が亡くなったという事実は立証できます」
「だから! なんで俺なんだよ! コンビニの客を狙った愉快犯の無差別殺人かもしれねぇじゃねえか!」
 なおも古島が言い返す。
「確かにその可能性はゼロではないです。しかし、青酸カリという毒は飲み口に塗って、誰かが手に取るのを待つ、という手口にはあまり適していません。長い時間空気中に放置すると潮解という現象が起き、徐々に毒性を失っていきますから。その愉快犯がよっぽど勉強不足でない限り、混入という手口を選ぶでしょう」
「…………」
「この潮解現象を防ぐためには、青酸カリを大気に触れないよう密閉できる容器が必要です。あなたはコーヒーを買いに行って三十分程で戻って来た。遠くまで行って容器を処分する暇は無かったはず。探せばきっと見付かります。あなたの指紋付きの容器がね」
「……ああそうかい! 好きにしろよ! 探せばいい! どうせ見付かりっこ無い、そんな容器は初めから存在しないんだからな!」
「あら、ずいぶん強気ですね…………さては、偶然通りかかったトラックの荷台にでも放り込みましたね?」
「!」
 古島は思わず息を呑み込んでしまった。
「あ、当たりました? それなら、ここにいる秋山君の上司が、この辺りをテリトリーにする全ての運送会社に協力を要請し、ドライバーに荷台を調べろと連絡して貰えばすぐにカタはつきますよ?」
「…………!」
 古島の顔色がさっ、と青ざめる。
「古島……!」
 いつの間にか戸口に久米と辻が立っていた。
「……古島さん……ここで粘れば粘るほど、後々不利になりますよ……?」
「……ち……ちくしょう……ちくしょう……あいつが悪いんだよ……! エリ子の前で恥をかかせるから……あれからエリ子とはギクシャクしっぱなしさ……分かるんだよ! チラチラ見てんだよ!」
 血を吐くような声が室内に響いた。全員が顔を背ける。そして、春日の眼にも熱いものが込み上げてきた。
「古島さん……大好きな人の前で恥をかかされた悔しさ……心中お察しします……。でもね、それって本当に相手を殺すことでしかそそげない恥だったでしょうか? なにも殺す必要は無かったんですよ! その恥が霞むくらい何かカッコイイことやってやろうとか。訴訟を起こし法廷で争うとか。熱意を持って謀略を張り巡らせ、相手をノイローゼになるまで追い詰めるとか! 他にやりようはあったはずなんですよ! あなた、恥をそそぐどころか、恥の上塗りしちゃってるじゃないですか!」
「…………」
 古島はゴミを蹴散らしてよろめくと壁に手を付いた。
「古島……」
 久米と辻が憐れむような眼差しを向けた。そして古島も視線を返す。
「……二人とも……巻き込んですまなかったな……。これ……」
 古島は頭の黒くてフサフサしたものを掴むと、それを脱いだ。
「やるよ……俺にはもう必要ない物だ……」
「い、いや、でも……」
「いいから。とっとけ」
「古島ぁ……」
 久米はそれを固く握りしめ、顔をクシャクシャにして泣いた。その後ろで辻も声を殺して泣いていた。
「……俺の心はいつの間にか、この部屋と同じように汚れきってしまっていたんだな」
 古島は自嘲気味に笑った。
「……さあ行こうか。刑事さん」
 秋山は古島の眼を正面に見据え、深く頷いた。
 そして春日は、部屋を出て行く、いろいろな意味で裸になった古島の後ろ姿を、まぶしそうに見送った。

   第八話 白銀の丘殺人事件

 季節は冬。天候は雪。その日、春日と秋山は、山で遭難していた。
 
 事の発端は、バスに揺られつつスキー場へ向かおうとする道中だった。心地良くまどろんでいた春日は、若い団体客が降りてゆくのを見て、慌てて同じく舟を漕いでいた秋山を揺り起こし、バスを飛び降りた。
 わいわいと楽しそうに騒ぎながら進む若者達。その後に続く春日と秋山。そして若者達は、そのまま最寄りのレストランへと入ってゆくのであった。春日は一瞬キョトンとした後、ハッとなって慌てて引き返すも勿論バスのバの字も無い。道行く人に訊ねたところ、目的地の一つ手前のバス停だと判明した。
「巧妙な罠だ」
 春日が舌を打った。
「先輩……」
 秋山がジト目で春日を見る。
「で……でもまあ! どうせバス停一つ分の距離だし、歩いて行こうじゃないか」
「こういうところの一区間って超長いと思うんですけど……もう、仕様が無いなあ」
 途中、秋山の提案で近道しようと山道に入ったのが間違いだった。
 二人は声高に責任をなすり付け合いながら進む。積もった雪で道の場所が分からず、しかも足がズブスブと沈み歩き難いことこのうえない。木々が邪魔して視界も悪く、おまけに先程から雪が降りだし、冷たい風が二人の鼻と耳をもぎ取ろうと強く吹き付ける。晴れて両名、迷子から遭難者へと昇格を果たした次第である。
 携帯は圏外。スキーに必要な道具は全て向こうでレンタルするつもりだったので、どうすることもできない。今、彼等に在るものはカッチカチになったホカロンのみであった。
 ついに日が落ち始め、辺りは急速に暗くなってゆく。ここに、進退極まった。
 春日がガタガタ震えながら、裸で抱き合い暖め合うか、遺書を書くか本気で迷っていると、視界の端が光を捉えた。目を凝らすとやはり遠くに明かりが見える。人工の明かりであるのは間違いない。春日は声を上げた。
 
 這うようにして近付くと、森の拓けたところに雪をまとった洋館が建っていた。日が沈んだのが逆に幸いした。かすかな明かりを見逃さずに済んだのだ。
 洋館は高い柵に囲まれていたが、庭へと続く門の格子扉は開け放たれたままだった。雪が降り積もると開閉できなくなるからだろう。扉まで辿り着くとノックする。柱や壁はモルタル造りらしく、それ程古い建物ではないようだ。しばらく叩き続けると、重厚な扉が内側に開き、そこに初老の男が立っていた。二人の姿に驚きの表情を見せる。
「一体如何なさいました……!」
 整えた白髪に口髭、黒燕尾にピンと伸びた背筋。どこからどう見ても執事だ。といっても、二人は本物を見るのは初めてだった。
「と、突然申し訳ありません。失礼ですが、お家の方でらっしゃいますか?」
 春日は寒さのせいで口も頭も回らない。
「はい、私はこの邸の執事を仰せつかっている者でございます」
 春日はかいつまんで事情を説明した。
「しばらくお待ちください。お伺いを立てて参ります」
 執事が中へ引っ込み扉を閉めた。その場で足踏みして待つこと数分、ようやくお許しが出た。
「お待たせ致しました。どうぞ」
 その言葉と同時に二人は中へ転がり込み、そして眼を見張った。眼の前にあるのは、だだっ広い空間だった。吹き抜けの高い天井に高級感漂う絨毯。煌びやかな装飾に彩られた、それは豪華なエントランスホールだった。細部に関する説明は省く。とにかく美しいのだ。
「まずは体を温めませんと。どうぞこちらへ」
 春日と秋山は歯をカチカチさせながら礼を言い、執事の後に憑いて行った。暖房のきいた客間へ通され、そこでタオルと毛布を渡された。脱いだ服は乾燥機に掛けてくれるそうなので預け、素っ裸で毛布に包まり、体内に溜まった冷気を吐き出す。息を吸うと肺に暖かい空気が流れ込んでくる。しばらくすると、かじかんでいた手足がじわじわと、微かなかゆみを伴いながら、感覚を取り戻してくるのが分かる。そんな風にして、蓑虫二匹が生還の喜びを噛み締めていると、今度は本物のメイドが料理を運んできた。
「あり合わせのものですので、お口に合いますかどうか」
 テーブルの横で執事が直立不動のまま言った。使用人達のまかないかなにかだろう、たっぷり野菜の入ったスープがほこほこと湯気をたてている。二人は目の色を変えて飛び付いた。
 料理をあっという間に平らげ、出された茶をすすっていると、部屋に上等なガウンで身を包んだ男が現れた。春日が立ち上がって挨拶すると、男はイライラした様子で言った。
「お前らか、遭難者ってのは、いったいどこから入り込んだ」
 春日は今までの経緯をもう一度説明した。
「……この辺りの山は全て私有地だぞ。字が読めんのか、まったく! 泊めてやるのはかまわんが、家の中をウロウロするなよ」
 そう吐き捨てると男は出て行った。
「怖っ、なんか感じ悪いっすね」
「しっ……! 逆の立場で考えてごらんよ、もし自分の家にわけのわからない遭難者が転がり込んできたら泊める上に食事まで出してニコニコしてられるかい? あの危機的状況を脱することが出来たのに、これ以上何かを望むのは贅沢だよ」
「そ、そうですね。すみません」
 秋山は首を竦めた。
「あ、執事さん、今の方がご主人様でいらっしゃいますか?」
「いえ、今居られたのは兄上の幸一郎様でございます」
「……そうでしたか、では後ほど改めてお礼を言わせて頂きたいのですが」
「はい、では―」
 会話の途中でまた一人男が部屋に入ってきた。先程の男と顔がよく似ているがこちらは幾分若く、穏やかな顔付をしていた。
「旦那様」
 執事が頭を下げた。
「おいおい、名前で呼んでって言ってるでしょ。兄さんが不機嫌になるから」
「は、申し訳ございません。幸次郎様」
「あなた達ですか、道に迷ったというのは。いや、元気そうでなにより。父さんが病気で逝ってしまったばかりで家の空気が沈んでいるのに、また家の中で死人が出ては堪らないからね」
「こ、幸次郎様」
「おっと……しかし、敷地に氷のオブジェが二体建つのも風情があって良かったかもしれないな」
 そう言うと男は悪戯っぽく笑った。
「それは確かにそうかもしれませんが、夏になったらにおいが出ますよ」
 春日が言うと男は楽しそうに笑った。
「ああ、それは困る」
 春日と秋山が口々に礼を述べると幸次郎はにこやかに手を振り、部屋を後にした。

「お湯加減はどうですか?」
 この邸の使用人の一人であるという、泉崎青年が脱衣所から訊ねてきた。春日と秋山は今、使用人達が使う浴室の、小さな浴槽に二人並んで首まで浸かっていた。
「最高ですぅ」「バッチリですぅ」
 良い感じに茹で上がった春日と秋山が答えた。
「あはは、それはよかった」
「はあ……地獄に仏とは正にこのことだねぇ」
 春日は顔をほころばせた。
「ほんとうにそうですよねぇ。いやしかし危なかったですね。もうボク、先輩と裸で温め合うか遺書を書くか、本気で迷ってましたもん」
「あ、ああそう……。ああ、ときに泉崎さん」
「はい?」
「さっき廊下に飾ってあった写真ですけど、あれすごい綺麗でしたね。飛行機から撮ったものですかね?」
 眼鏡を湯気で曇らせ、春日が聞いた。浴室へ向かう途中に見掛けたものだ。上空から山の雪化粧を撮った写真で、空の青さと雪の白さが際立つ、美しい写真だった。
「ああ、あれは幸一郎様がご趣味のパラグライダーをしながら、この邸の敷地で撮影されたものです」
「へえ、パラグライダーですか」
「自分ちでパラグライダーとか、スゴ……」
 途方も無い話に秋山が溜息を洩らした。
「でもこの辺りはですね、季節風って言うんですか? 毎年この時期になると同じ方向から強めの風が止むこと無くずっと吹き続けるようになるんですよ。だから、ライディングできるのは雪の降り始めだけだそうです」
「あら、それは残念ですね」
「それに、山の天気は変わりやすいですからね、注意してないと―」
『山舐めてすみません』
 春日と秋山が同時に額を湯に付けた。
「ははは、でも予報ではこの雪も朝には止むそうですから。あ、でもこれだけ降ったらすぐには道通れないかもしれないな……」
「いやもうホント、ご迷惑お掛けします。なにもかも先輩が悪いんです」
「君の方だっての。……あ、そうだ泉崎さん、立ち入ったことをお聞きしますけど、前のご当主様は最近お亡くなりになられたんですか?」
「ええ、つい先月癌でお亡くなりに……」
「それはご愁傷様です……。それで、その、ご長男ではなく、ご次男が後を継がれたんですか?」
「ちょっ、先輩! どんだけ立ち入ってんですか」
「ご、ごめん、気になって」
「気になってじゃないですよ全く、失礼じゃないですか。泉崎さん、どうもすみませんでした。でもまあ、せっかくなんで質問には答えてあげて貰えますか?」
「え? ええ? え……えと……それは、その、亡くなった旦那様の遺言で……。どうやら旦那様は優秀な方に家を継がせようとお考えだったらしく……」
「ほう、では幸一郎さんは優秀ではないと」
 秋山が眼を丸くした。
「あ! いやいや決して、わわ私がそう思ったわけではなく! その、あの、ど、どちらも優れているんですが、より優れた方がといいますかっ」
「ほうほう!」
「止めなさい、秋山君、困ってるじゃないか。……しかし、旧ご主人様も面倒なことをしてくれましたね。いろいろと大変でしょう、使用人の方々も」
「そぅ―ゴホッ! ゴホッ! い、いやそんな、全然ですよ?」
 どんな言葉を呑み込んだのかは分からないが、風呂場に泉崎の乾いた笑い声が響いた。

 風呂を上がり泉崎の後に付いて客室へ向かう途中、廊下で一人の老人を紹介された。
「こちら梅津先生です。この邸の優秀なお抱え医師なんですよ」
 酒で顔を真っ赤にさせた梅津と呼ばれた男は陽気に首を振った。
「いやいや、そんな大層なモンとちゃいます! ただのじぃちゃんですわ、むしろ介護が必要なのはワタシの方でしてな?」
 梅津は自分で言ってどわっと笑った。
「ほれ、坊っちゃん達が身体丈夫やからワタシもうヒマで。せやから夜はこうやってお酒いただいてます」
「いや先生、いつも朝から飲んでるじゃないですか」
 泉崎が言うと梅津はまたどかんと唾を飛ばして笑った。

「先輩、どうかしましたか?」
 与えられたベッドに潜り込みながら秋山が訊ねた。春日は隣のベッドでぼーっと天井を眺めている。
「あ、いや……ちょっとこのお邸のことをね……部外者が首を突っ込むような問題じゃないけど……何かこう……ひと騒動起きそうな予感がしてね……ほら、泉崎さんの反応を見ても、もういろいろともめてんだよきっと……何も起こらなければいいけど……。ねえ、秋山く―」
「ぐう」
「寝てるのかよ! 今君が話振ったんだよね? 別に子守唄じゃないからね今の? そんなに僕の話つまらなかった?」
 などと独りでボルテージを上げつつも、すぐに春日も眠りに落ちた。


 午前八時。春日はノックの音で眼を覚ました。一瞬たりともこの暖かなベッドから離れたくないという欲望を押し殺し、身を起してドアを開くと、そこに執事が立っていた。
「昨夜は良くお休みになられましたか? お食事がご用意できておりますのでどうぞ」
 食事などよりもまだ寝かせておいて欲しいというのが本音だが、無論断れるはずも無く、春日は秋山を揺すり起こしに掛った。
 食堂へ向かう途中、春日は執事が眼を真っ赤にして欠伸を噛み殺しているのに気が付いた。
「あ、お見苦しい所を。実は、朝方まで幸一郎様のチェスのお相手をしていたものですから……」
 執事が目礼を行った。
「え、じゃあ昨夜から一睡もしてないんですか?」
「はい。しかし今日はお休みを頂きましたので、後程ゆっくり休ませて頂きます……」
「ああそうですか。なら、幸一郎さんは今頃ぐっすりですね」
「いえ、今は少しお出掛けに……」
「え? 寝てないのに出掛けちゃったんですか? 雪はもう止んでるんですか?」
「え、ええ、雪の方はすっかり。ただ依然として風は強うございますが」
「……何か、あったんですか?」
「ええ……いや何かあったと言いますか……今朝給仕が幸次郎様を起こすためにいつも通りの時刻にお部屋へ伺ったところ、中に幸次郎様のお姿が無く……邸中お探ししてもお姿が見えないので幸一郎様にご相談したところ、幸一郎様が外を探してくると仰られまして」
「そう、ですか……」
 春日は妙な胸騒ぎを感じつつ、執事の後に続いた。その後に、まだ半分寝ている秋山がヨタヨタと続いた。

 午前十時。春日の不安が的中した。幸一郎が訃報を持ち帰ったのだ。
「丘で幸次郎の死体を見付けた。誰か一緒に来てくれ」
 幸一郎の言葉に泉崎は顔色を真っ青にさせ、執事は唇をぶるぶるとさせた。
「そ、そんな……なぜ、幸次郎様が……ま、まさか、あの脅迫状と何か関係が……?」
「脅迫状が、届いていたのですね?」
 話に割り込んだのは春日だった。
「では、その脅迫状のことは後でお聞きします。現場には我々がすぐに向かいますので、場所を教えて頂けますか」
 勿論、皆が怪訝な顔で春日を見た。
「秋山君」
「あ、はい」
 秋山は歩み出ると名刺を前にかざした。
「○県で刑事をやってます、秋山です。プライベートですので手帳は持ち合わせておりませんが、これでも本物の刑事ですので、どうかご安心を」
「け、刑事さん……?」
 皆が驚きの眼を秋山に向けたのは言うまでもない。
 春日と秋山は邸の者達に部屋で待っているように告げると、邸のスノーモービルに跨り、幸次郎の遺体があるという丘を目指した。
 幸一郎の話によると、その丘は邸からスノーモービルをしばらく走らせたところにあるらしい。ハンドルを握る秋山はスピードを上げた。

 そして二人は、大きく拓け一面雪に覆われた丘の、その中腹に幸次郎の遺体を見付けた。空は昨日の吹雪が嘘だったかのように晴れ渡っている。その日差しが雪に反射して、まるで巨大な白いキャンバスの真ん中にポツンとシミが付いているように見えた。
 二人はスノーモービルを降りると足を雪に沈ませながら丘を昇り始めた。吹き下ろしの風が二人の髪を掻き乱す。
 春日は遺体の少し手前で足を止めた。仰向けに横たわる幸次郎の顔は真っ白だった。その胸からはナイフの柄が生えており、寝間着は血で真っ赤に染まっていた。春日は手を合わせた後、邸で用意させたカメラを取り出し撮影を開始した。通常、現場検証が行われる際、カメラが故障していた場合も考慮に入れ、二台のカメラが使用される。そこで、今回は持参していたデジタルカメラを使い補助の撮影を行った。
 まずは遺体を中心に全体像を写す。遺体には所々雪が乗っており、足は裸足だった。次にレンズを遺体の周りに向けてみる。
「……秋山君、気が付いた? 遺体の周りに全く足跡が無いよ……って、何その眼?」
「あ、ち、血がちょっと、あれなんで……この場は薄眼で失礼します」
 秋山の眼が糸みたいなことになっていた。
「そんな細い眼で事件の何が見えると言うの……」
「あ、大丈夫です。いままでもこれで何とかやってこれたんで」
「…………」
「足跡ですよね? 気付きましたとも。犯人の足跡に雪が降り積もり、消えてしまったんですね? ということは、犯人がここに遺体を放置したのは雪が止む前」
「うん……。でもさ、足跡が埋まる程降ったにしては、遺体に積もってる雪が少な過ぎない?」
「そうですかねぇ……この日差しで融けたのでは?」
「ふむ……。そんじゃま、道路が雪で塞がってて、警察が到着するのも遅れるみたいだし、このまま続けて調べてみようか」
「どうぞ、存分に」
「君もやるの!」
 春日は遺体の傍にいくとまた何度もシャッターを切った。次に遺体に触れてみたがその肌は凍り付いていた。シャツにも触れてみるが、濡れてはいなかった。その後も春日と秋山は何か手掛かりは無いものかと遺体をひっくり返したり、立てたり、寝かしたりした。また、鼻を擦り付けるようにして雪上を調べ上げたが、遺体の周りからは犯人のものと思われる足跡はやはり発見できなかった。
 そこで一旦邸へ戻ることに決め、スノーモービルの後ろに遺体を立てると、曲乗りのようにして輸送を敢行したのだった。

 邸に戻った春日達はまず梅津を呼び出した。
「こ、幸次郎坊ちゃん……」
 遺体に眼を落とし梅津は茫然と呟いた。
「先生、検死をお願いできますか」
「……!」
 梅津はンガッと鼻を鳴らして眼を剥いた。できないできないと何度も首を振ったが、春日達がどうしても必要なのだと頼むと、やっと頷いた。
 春日は梅津が遺体を調べている間に関係者達から話を聞いて回ることにし、最初に遺体の第一発見者である幸一郎の部屋を訪ねた。
「幸次郎さんは、殺害されていました」
「そうか……」
 春日が告げると、ソファーに深く身体を沈めた幸一郎は眼を押さえた。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、今朝何があったのか詳しく教えて頂けますか?」
「……明け方は……使用人の一人とチェスをしていた」
「執事さんとですね?」
「そうだ。そしたら、朝になってメイドが幸次郎の姿が邸のどこにも無いと言い出した。だから俺はスノーモービルを出して邸の周りを探した。そして丘を通り掛ったとき、そこで幸次郎の死体を見付けたんだ……」
「なるほど……。お聞きしますが、あなたは遺体に近付かなかったんですね?」
「そうだ」
「駆け寄って、幸次郎さんの生死を確かめようとは思わなかったのですか?」
「……遠くから見ても、もう死んでると思った。現場を荒らすのはまずいと思ったしな。テレビとかでやってるだろ? それに、脅迫状のことを思い出してな」
「そうでしたか、失礼しました。ではその脅迫状ですが、見せて頂いてもよろしいですか?」
 春日が頼むと、幸一郎は首を振った。
「無い。頭にきて俺が破り捨てた。でも内容は覚えている。『全ての財産を手放し、この土地から出て行け。さもなくばお前ら一族を皆殺しにする』と書いてあった。ついこの前、郵便受けから使用人が見付けてきた。幸次郎のやつは笑っていたがな、当然だ、こんなことを言われてハイ、そうですかと言うことを聞くバカはおらん」
「全くです……。しかし、その脅迫状を送った人間が幸次郎さんを殺害した犯人だとして、なぜ犯人は幸次郎さんの遺体をあの丘へ置いたのでしょうか……」
「そんなもの決まってるだろ、わざと俺に見付けさせて、次はお前だと言いたいんだろう! 俺を怖がらせたいんだ……! 犯人はこの邸にいる誰かに違いない……!」
 幸一郎はギリと歯を軋ませた。
「…………」
「さあ! もういいだろう! さっさと犯人を捜し出して捕まえてくれ!」
 春日は黙って頭を下げると幸一郎の部屋を後にした。次に執事の部屋を訪ねた。
「まだ信じられません……」
 眼の下に隈を湛えて執事は言った。春日が話を聞きたいと頼むと、真摯な態度で頷いた。やはりこのようなときは積み重ねた年齢が物を言うのか、すでに落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
「私が幸次郎様を最後にお見掛けしたのは……十二時頃でしょうか……ええ、午前零時。もうお休みになると仰られて……お部屋にお戻りになるところでございました。その後……幸一郎様に呼ばれ、午前一時からチェスのお相手をさせて頂きました。そして……女給が知らせを持ってきたのは、午前七時頃だったでしょうか」
「なるほど、午前一時から午前七時まで幸一郎さんとずっとご一緒だったわけですね。どちらかが席を離れるようなことは?」
「ええ、途中一度、幸一郎様がお手洗いに立たれました。そのときは……十分程でお戻りになりましたでしょうか」
「そうですか……。それで、七時にメイドさんがきて……。そのときにはもう雪は止んでいたので、幸一郎さんが幸次郎さんを探しに行くと言って邸を出られたんですね?」
 春日の問いに、執事は頷いた。
「左様でございます。雪の方は、私の記憶が正しければ午前六時には止んでいたと思います。六時頃といえばまだ窓の外は真っ暗でしたが、七時頃には少しずつ明るくなり始めておりました」
 春日達は礼を言って執事の元を後にし、残りは手分けして他の使用人達の話を訊いて回った。そして一通り訊き終えた頃、梅津も検死を終えたところであった。
「死因はナイフで心臓を一突きにされたためですな……。死亡推定時刻は皮膚が凍ってて正確なことは分かりませんわ。せやけど、胃の内容物の消化具合から計算すると……坊ちゃんが亡くなりはったんは午前二時から午前五時の間やと思います」
 さすがに神経を使ったのか元気なく梅津が言った。春日は梅津をねぎらいゆっくり休むように言うと、他の者達にも部屋で待機するように言い、また秋山と二人で丘へと向かった。

「先輩……」
 秋山が呼び掛ける。春日は丘を見上げていた。ここへ着いてからもう随分そうしている。その表情には困惑の色が浮かんでいた。今、幸次郎の遺体があった場所には色の付いたビニールが目印として置いてある。
「先輩は……幸一郎さんが怪しいと考えていたんですね……?」
「…………うん」
 春日は小さく返事した。
「幸次郎さんが殺害されたのは午前二時から午前五時。幸次郎さんは寝間着姿でしたし、部屋に争った形跡など一切なかったため、寝ているところを襲われたとみて間違いないでしょう。そして遺体の周りの雪に足跡が無いことから、犯人の足跡は降る雪が消したと思われます。よって、犯人が遺体をここへ運んだのは雪が降っている間……。その雪は午前六時まで降っていた……」
「…………」
「幸一郎さんと執事さんがチェスをしていたのは午前一時から午前七時、途中、トイレに行くと席を離れたのも十分間だけ……。どんなにスノーモービルを飛ばしても木々を縫って邸からここまで五分で来て、五分で帰るのはどう考えても無理です。幸一郎さんは犯人じゃありませんよ」
「はあ……」
 春日はがくりと肩を落とした。
「それか、雪に足跡を付けない何か良い方法があればいいんですけど……。あ! もしかして、パラグライダーを上手く使ったんじゃないですか!?」
「うん……それは考えた。でもね、パラグライダーで風を受ける帆に当たる部分をキャノピーと言うのだけれど、このキャノピーをこの風の中コントロールすることは無理。広げた瞬間残念なことになる」
「そうかぁ……。あ、わかった! 何かで見たことがあるんですけど、雪を降らせる機械がありますよね! それを使って足跡の上に雪を降らせたんじゃないですか!?」
 秋山が表情をパッと明るくさせた。
「ああ、それも考えた。雪を造る機械には人工造雪機と人工降雪機がある。どちらもスキー場で使われているもので、造雪機の方は巨大なカキ氷機で氷を砕き、それを散布して雪の代わりにする。これには大掛かりな設備が必要になるので、状況から考えてこれは無い。可能性があるとすれば人工降雪機だけど……」
「だけど、なんですか?」
「水は一定の圧力を掛けられた後、その圧力から解放されると一気に温度が下がり、凍り易くなるという性質を持っているんだ。その性質を利用して、圧縮した水を霧状に噴出し、冷たい外気と反応させて凍らせ、氷の粒を降らせるのが人工降雪機。この機械は持ち運びできないことはないんだけど、やっぱりこの風じゃ足跡に雪を積もらせる前に、明後日の方向へ雪が飛び散ってしまう。だからこれも……無理……」
「そうですか……。じゃあ、まあ……完全に……幸一郎さんは犯人じゃないという方向で……」
「…………」
 春日はぺたりと座り込んだ。
「い、いやまあ……予想が外れてショックなのは分かりますよ。幸次郎さんが亡くなって徳をする人間が居るとすれば幸一郎さんですし、自分から探しに行くって言い出して、遺体を本当に発見してしまうってのも、いかにも怪しいです。でも、無理なものは無理じゃないですか。ここは犯人が別にいるとみて一から考え直しましょ!」
「……勝手にすれば」
 春日はプイと横を向いた。
「ちょ、いじけないで下さいよ! ほら、気を取り直して、雪が止む午前六時までに犯行が可能な人物を割り出しましょ! ああ、それが良い! ね! ちょっと先輩! そんなとこで雪だるま造ってないで!」
「…………」
「と言っても、アリバイが完璧なのは幸一郎さんと執事さんだけなんですよね……。他の使用人の皆さんは寝ていたと答える人ばかりだし。まあ朝にはまた仕事ですから起きてる方がおかしいですけど。逆に朝なら、忙しく動き回りながらも、皆さんそれぞれがお互いを確認し合っていてアリバイがあるんですけどねぇ……。そういえば、午前八時頃、邸の外で雪掻きの仕事をしていた使用人さんの何人かが、工事現場で聞くようなガガガガガッという音を聞いてますけど、これは何だったのかな?」
 春日が雪だるま作成の手を止めて秋山を見上げた。
「それ初耳」
「あ、そうですか? 使用人さんの何人かが同じことを言っていたんです。機械音がしばらく続いていたんですって。反響して、どこから聞こえてくるのかは分からなかったそうですが。まあどこか遠くで道路工事でもしているのだろうと思ったそうです」
「…………道路工事? こんな、雪がしこたま積もった日に、そんな朝早くから?」
「あ……あれ……?」
「…………」
 春日は立ち上がって振り返ると雪面のあちこちに眼を落しながら歩きだした。そうして歩いていると、スノーモービルの通った跡を見付けた。
「……これが、幸一郎さんの付けたスノモの跡か……そして、この丘を通り掛ったとき、幸次郎さんの遺体を見付けた、と……」
 春日はスノーモービルの通った跡に沿って歩き出した。しばし歩くと雪を踏む靴底の感触が変わった。そこはアイスバーンになっていて、踏んでも全く足跡が付かなかった。春日は膝を付くと氷を爪で引っ掻き、少し口に含んでみた。すぐにぺっと吐きだす。
「しょっぱい」
 足で踏んで確かめてみると、直径三メートルくらいはアイスバーンになっていた。振り向いて遺体があった目印を見上げるとここから十メートルくらい離れている。
「どうしました? 何かあったんですか? うわあ、ちょっと冷えてきましたね……」
 春日の後ろで秋山が肩をぶるりとさせ、その場で足踏みを始めた。
「うん……ちょっと待って……」
 春日はまたスノーモービルの跡に沿って歩き出した。どうやらその跡は大きく弧を描きながら丘を上がっているようだった。そしてまた、靴底に伝わる感触が変わった。先程と同じように雪面がアイスバーンになっている。大きさも同じくらい。そこから丘を見下ろすと、遺体のあった目印があり、その向こうでは秋山が先程と同じところでまだ足踏みしていた。
「…………秋山君! 足下にあるスノーモービルの跡に沿って、ここまで歩いて来て!」
 春日の声は風に乗ってよく届くようだ。秋山はすぐに手を上げて歩きだした。どうやら返事をしたらしかったが、その声は春日には聞えなかった。秋山がゆっくりと丘を上って来る。その軌道はやはり弧を描いており、陸上競技場のトラックを時計回りに回ってくるようだった。
「はい、ありがとう」
「どうかしたんですか?」
「うん……ちょっとね……」
 春日は再び雪面に視線を落とした、スノーモービルの跡はその先もずっと伸びており、それに沿えば当然、邸に辿り着くであろう。今度は視線を丘の麓の、更にその先に向けると、そこには果てしなく森が拡がっていた。
「……秋山君。邸に戻ろう。最後に確かめたいことがある」
 春日の眼に光が戻っていた。

 春日は邸に戻ると泉崎の部屋を訪ね、敷地内の見取り図を用意させた。それには邸を中心として、その周りに広大な敷地が描かれており、問題の丘は邸から西に約一キロ離れたところにあった。
「丘には、こう、北から南に向かって風が吹いている」
 春日は見取り図を指でなぞった。
「泉崎さん、丘の南に広がっている森と山ですけど、どこまでがお邸の敷地ですか?」
「ええと……南に後一キロくらいはここの敷地です」
「そんなに広いんですか……。ではお聞きしますが、この丘まで一般の人が立ち入ることはありますか?」
「はい? いや、それはないですよ、立入禁止の私有地ですから。まあ、夏に子供が勝手に入って来ることはあるでしょうが、この時期は無いですよ。迷ったら超死にますから」
「そうですよね、超死にますよね。ではこの邸の方々があの丘へ足を運ぶことは?」
「……? それも無いですよ。簡単に行ける距離じゃありませんし……スノーモービルを使えば行けるでしょうが、あれは幸一郎様しか持っていませんので」
「幸一郎さんだけ?」
「ええ、私達が麓に買い物に行くときは車を使います。ちゃんとした道路を使って」
「どうも、よくわかりました。……では今からちょっと、幸一郎さんのところへ行きたいと思います」
「はあ……どうぞ……」
 泉崎は頭上に?を浮かべながら春日と秋山のために部屋のドアを開けてやった。

※春日はこの事件の犯人を幸一郎だと考えているようである。もしそうだとすると幸一郎はどのようなトリックを実行したのだろうか?

 幸一郎の部屋に着くと、中には幸一郎と執事がいた。春日と秋山の後ろには、訳も分からず、なんとなく付いて来てしまった泉崎もいた。
「失礼します。……幸一郎さん、お話があります」
「何だ急に、ゾロゾロと」
 頭を下げる春日を幸一郎がジロリと睨んだ。春日はその視線を真っ向から受け止める。
「幸次郎さんを殺し、その遺体をあの丘へ置いた犯人の話です……。その犯人は幸一郎さん、あなたですね?」
 春日の突然の発言に、誰もが驚きの表情を見せた。
「ちょ、ちょっと先輩! 幸一郎さんにはアリバイがあるでしょう! さっき無理だって話になったじゃないですか!」
 秋山が慌てて止めに入る。
「な、なんだ貴様! 何で俺が犯人なんだ! そいつらの中の誰かが犯人に決まっている!」
 幸一郎が泉崎を指差した。
「そ、そんな……!」
 当の泉崎はあわあわとかぶりを振った。春日は冷静に首を横に振る。
「違います。使用人の人達ではありません。幸一郎さん、あなたにならこの犯行が可能なのです。これからそれをお話します……。幸次郎さんが殺害された時刻は梅津医師が検死した通り、二時から五時の間で間違い無いと思います。そして幸一郎さん、あなたは執事さんとチェスをしていたとき、途中一度トイレに立ったそうですね?」
「先輩、たった十分だけじゃ何も―」
「いや、その十分間に幸一郎さんが行ったことは、幸次郎さんの部屋に忍び込み、眠っている幸次郎さんを殺害したということと、その遺体を一旦人眼に付かないところへ移動させたこと、この二点だけだよ」
「へ……?」
「その後、急いでチェスをしていた部屋へ戻り、続きをプレイする。朝になるとメイドさんが幸次郎さんの不在に気付く。その頃には天気予報通り雪は止んでいた……。そして、幸一郎さんは幸次郎さんを探しに行くと称し邸を出るのです。隠しておいた幸次郎さんの遺体をスノーモービルの後ろに乗せ、一直線に丘を目指します。あの丘で問題となるのは、如何にして足跡を残さず、あの場所へ遺体を置くか、ということ。遺体の周りに足跡が無ければ、犯人の足跡は降る雪が消したと思わせることができ、遺体がそこに置かれたのは当然、雪が止む以前である、と考えられ、朝七時までチェスをしていた幸一郎さんは容疑者から外れることができる。そこで幸一郎さんはあの丘で足跡を付けない方法として、ロープウェイを使ったんだ」
「ロ、ロープウェイ……!?」
 その場に居た者達が口々に驚きの声をあげる。
「そのロープの途中にぶら下がり、そこから遺体を雪面に降ろせば、遺体の周りに足跡を残さすに済むってわけです」
「ち、ちょっと先輩、あの何も無い丘のどこにロープを渡せると言うんです! ロープを掛けられるような木も建物も付近には何も無かったじゃないですか!」
「無いのなら造れば良いんだよ。水と雪を使ってね」
「「「…………!?」」」
「幸一郎さんはあの丘に、大人二人分の体重を支えられる程の、太い氷の柱を二本建てたんだよ。その二本の柱の間に丈夫なロープかワイヤーを渡せば、ロープウェイの完成だ。あの丘は私有地で部外者が訪れる心配が無く、かつ邸の関係者でも立ち寄る機会の少ない場所。ロープウェイを目撃される恐れは無い。幸一郎さんは何日も前から下準備をし、天気予報に齧り付きつつ、機会を窺ってたんだと思う。……そして今日、決行した」
「…………」
 誰も口を挟まない。皆が春日の話しに聞き入っていた。
「遺体を運び丘へ到着したら、まずは高い位置にある柱へ行き、遺体を抱え、滑車でも使ってロープを伝い、適当なところで遺体を雪の上へそっと降ろす。そして遺体の上にカムフラージュのための雪を少し掛けておきます。全く雪が積もっていないのは不自然ですからね。かといって雪を掛け過ぎても駄目です、雪が遺体を覆い隠してしまっては、偶然そこを通り掛かり発見した、という言い分が通らなくなってしまいますから。……その後は自分だけ低い位置にある柱までロープを伝って行けば良い。これで雪面に足跡は残りません」
「い、いやでも……足跡の問題はそれで良くてもロープウェイが丸々残ってるじゃないですか。それに、大人二人がぶら下がれる程丈夫なロープなら、当然太くて重いだろうし、ロープを片付けるときに雪の上に落ちて、何らかの跡を残しますよ」
 秋山が疑問を口にした。
「うん、ロープを雪面に落とさないよう工夫が必要となる。そこで、パラグライダーと風の力を利用することにする」
「パ、パラグライダー……!」
「そう、低い位置にある柱までロープを伝って移動したら、そのロープにパラグライダーを結び付ける。そして柱を破壊すれば、キャノピーが風を受けその力でパラグライダーは浮き上がるわけです。氷の柱を破壊する際はバッテリー式の電動ハンマーを使う。工事現場で使う削岩機を小型にした物だと考えて下さい。使用人さんの何人かが聞いたガガガッ、という音はこの音でしょう。その後は遺体に近付き過ぎないよう一定の距離を保ちつつ高い位置にある柱へ移動し、同じようにその柱も破壊する。すると固定されていたロープは風に吹かれて飛んで行き、ロープの跡を雪面に残さずに済むってわけです……。後、忘れてはいけないのが柱を破壊した際に大量に出る氷の残がい。これを更に細かく砕いたり、どこかに運んでいたのでは幾ら時間があっても足りない。そこでこれらには融雪剤、塩化カルシウムを掛け、まとめて始末する」
「なるほど……!」
 秋山は春日の言葉にウンウン頷いた後、隣にいた泉崎にヒソヒソ訊ねた。
「融雪剤って何ですか?」
「簡単に言ったら塩ですね。この地方では路面の凍結を防ぐのに使います。私達も雪掻きなんかで使うんで、倉庫にいっぱいあります」
「ああ、だからさっき先輩、しょっぱいとか何とか……」
「あの丘でアイスパーンになっている場所を二か所見付けました。あそこで氷が溶け、再び凍り付いたと考えて間違い無いでしょう。そして、柱を破壊して氷を溶かす際、電動ハンマーや融雪剤等の荷物を取りに行ったりして、高い位置の柱と、低い位置の柱の間を何往復したかは知りませんが、とにかく付いた足跡は最後にスノーモービルで一気に踏み消して邸に戻ります。そうすればウロウロと歩き回る不自然な足跡も残りません。……それと以前に届いたという脅迫状の件ですが、これは自分達兄弟が何者かに狙われている、と注意を逸らすために幸一郎さんが打った芝居でしょう。全て自作自演だったと考えるのが一番しっくりきます。どう考えても幸次郎さんが亡くなって一番利益が有るのは幸一郎さんです。仮に別の犯人がいて、兄弟が両方殺されたとして、一体誰が得をするんです? 本当に怨んでいるのなら、脅迫状など出さず黙って殺しますよ」
 春日は息を付いて手を広げた。
「……これが、事件の一部始終です」
 誰もが言葉を失っていた。
「……僕と秋山君が吹雪の中遭難して、この邸に辿り着いたとき、幸一郎さんがイライラしているように見えたのは、僕達が氷の柱を見てやしないかと、もうヒヤヒヤしていたからですよ…………氷だけに」
 室内の温度もぐっと下がった。
「風で飛ばしたパラグライダーですが、発信器でも取り付けられていて、後で回収するつもりだったのではないでしょうか。どこまでも飛んで行って、海にでも落ちてくれればそれはそれで都合が良い」
「…………」
「とにかく、あの風向きのどこかに、パラグライダーはきっとあります……!」
 春日が断言する。幸一郎は椅子の上でガクガクと震えていた。
「……お、おかしいんだ……何もかもがおかしかったんだ……なぜ俺が家を継げない……? ならばなぜ俺に幸一郎と名付けたんだ……! なぜ『次』の字が付くあいつが家を継ぐ……! 俺が兄なんだ……なぜいつもあいつばかり可愛がられる……? 俺を見ろよ親父……」
 幸一郎はぶつぶつと呟き続けた。

 その後、ようやく到着した警官達によって大規模な捜索が行われた。春日が予想した通り丘の南に広がる森からパラグライダーが発見され、幸一郎はその場で連行された。
 現場を荒らした春日と秋山も連行された。

   第九話 青天の霹靂殺人事件

 とある日の春日書店での出来事である。
 エプロン姿の春日が、制服姿の女子高生に迫られていた。
「いっ、いけないよ……そんなの……」
 春日があわを喰って後じさりする。
「そう堅いこと言わないで? ねえ、お願い」
 娘がその分距離を詰める。
「いや、ちょ、まっ……うう……こ、困るよ……」
「……何がどう困るの?」
 背の高い春日を上目遣いで見る。春日の心臓がドキリと高鳴った。それほどの、とびきりの美人だった。小さな顔に大きな瞳。頬は健康的に朱を帯び、形の良い唇から流れ出る朗朗たる声は少女のそれであるが、大きく膨らんだ胸とくびれた腰が最早その娘が子供ではないことを示していた。そしてその身体を地元でも有名なお嬢様学校の、クチナシの花をモチーフに創られた純白のブレザーで包んでいる。
「だ、だ、だからっ、僕の口からそういうのは―」
 春日がまたさがり壁に背を着いた。もう後が無い。とそこへ、
「あれっ!? 夏目ちゃんじゃないの」
 ちょうど秋山が現れた。店の戸口から二人を見ている。
 夏目と呼ばれた娘がくるりと振り返ると、肩まで伸びた艶やかな黒髪が揺れた。娘は唇の端を吊り上げると、猫のように優々と秋山に近付いた。
「アッキー! 良いところへ来たわ! 前に雪山の邸で起きた事件のこと、詳しく教えて頂戴。スガッチが勿体つけちゃってさあ。もうアッキーでいいわ」
「い、いいわ、って……な、夏目ちゃん学校は?」
 秋山が苦笑いを浮かべた。
 夏目は酔狂にも学校で新聞部として活動していた。正確に言うと、部員数が一人なので正式な部活とは認められておらず、自称だったりする。
 そんなことで、学校内ではかなりの変わり者として見られているが本人は全くの何処吹く風。今日も元気に好奇心旺盛過ぎ。
「今日は午前中だけだったのよね。さあアッキー、いちから、詳しく」
 相当年上の二人を自分がつけたアダ名で呼びつける夏目であった。
 しばらく前、参考書を求めて春日書店を訪れた夏目が、耳ざとく秋山が春日にしていた事件の話を聞き咎めたのがきっかけであった。以来、なついて月に数度は春日書店に現れるようになっていた。
「い、いや、でもね夏目ちゃん。事件のことを民間人に教えるのは……さ」
 秋山は顔を引きつらせた。
「知ってる。守秘義務ってやつでしょ。でもそれって未解決の事件に関しては、なわけじゃない。犯人が逮捕されて捜査が終了した事件についてはマスコミに情報を公開するのがスジってもんでしょ!」
「い、いやあ……そうだけれど……ほら、あの事件はこの街で起きた事件じゃないし……」
「いいのよ! 地域密着型ってのも悪くはないけど、あたしはもっと視野を広く、いつもグローバルでいたいのよ!」
「スケール、でか過ぎじゃね?」
「興味を持ったら脇目も振らず一目散。それがあたしのジャーナリズムよ!」
「足を止めて、周りを見るのも大事じゃね?」
「ジャイアニズムの間違いじゃね?」
 男達が口々に異議を唱えた。
「ほほう、そーゆーこと言うわけ。事件のこと、スガッチには話せてあたしには話せないと。あーそーですか」
「あ、あう……」
「はあー……」
 春日は眉間を強く摘んだ。
 そう、夏目は春日がごく普通の民間人でありながら刑事である秋山に捜査協力を行い、幾つもの事件を解決しているのを知っている。警察への協力は国民の義務とはいえ、春日と秋山の行為は明らかに一線を越えたものであり、二人は弱みを握られているといえる。また、夏目を無下に扱うことが出来ないもう一つの理由は、彼女が決して面白半分でやっているのではなく、いつでもすこぶる真剣であるからだ。
 最近では、この若く美しい女記者に愛着さえ憶え、余計なことに首を突っ込んで危ない目に遭いはしないかと気が気でないおっさん二人であった。
 夏目がこれまで記事として取り上げたものは都市伝説や未確認生命体のゴシップめいたものがほとんどであり、これからもそうなら一向に構わない……わけではないが、取材対象や行動が過激にエスカレートしてゆくと問題である。また、どこがグローバルなのか、良家の令嬢が集う学校の掲示板に夏目が書いた記事が張り出されていたとして、いったい誰が好んで読むのか、等の疑問は残る。
「ところでアッキー、今日は何しに来たの?」
「え? い……いや、ちょっとね。なんて言うか、今、看過すべからざる懸案事項を抱えていてね。それで、まあ、先輩にひとつ助言を貰おうかと……」
「ふーん……じゃあ今こっそりと後ろに隠した何か書いてあった紙が……」
 ろっくおん。
「事件に関わる何か重要な極秘文書なわけね?」
 あぶない逃げて。
「ちょっと見せて!」
 夏目がしなやかな動きで腕を伸ばした。
「ええっ! ちょ、だ、駄目! 駄目だよ!」
 秋山は体を捻って極秘文書を高々と掲げ、さらに爪先立ちになってそれを避ける。が、夏目はものっすごいイイ笑顔で更に追撃する。
 そしてもみ合っている内に、やわらかいものが秋山の肘に当たった。秋山の全神経がそこへ集中した一瞬の隙に、夏目は秋山の肩に手を掛け、高くジャンプするとついに極秘文書をもぎ取った。
「えーと、なになに……」
「おわっ、駄目! 読まないで! やーめーろーよー!」
 秋山が奪い返そうと必死で腕を伸ばすが、夏目はその腕を軽快なフットワークでかいくぐる。
「えー……『愛しき静香ちゃん江……もし君が太陽なら、ボクはそう……メラニンだ……もし君が竜巻なら、ボクは飛ばされる牛だ……もし君がニーソックスなら、ボクはソックタッチだ……もし君が……』ってバッカじゃないの!」
 ビシリッと床に叩きつける。
「ああっ! ボクの極秘文書がっ!」
「何がっ! ただの駄文だわっ!」
「夏目君っ! いい加減にしたまえ! これ以上人の純情を踏みにじる行為はこの僕が許さないよ!」
 春日は夏目に詰め寄り肩を掴むと強い口調で咎めた。その春日に、秋山は控えめに言う。
「あ……あの……先輩、ちょっとすみません……踏みにじってるのは先輩です。足。どけて貰えますか」
「おっと、失礼」
 春日は踏んづけていた極秘文書から足をどけた。
「わざとだ……絶対わざとだ……」
 秋山はぶつぶつ言いながら極秘文書を拾い上げるとベッタリ付いた足形を掃い、のしのし、とシワを伸ばし、きれいに折り畳んで上着のポケットに仕舞った。
「ふっ。しかし、何を言われようと、何をされようと挫けませんよボクは。いつかこの想いが飛んで行って、彼女の胸に届くまで、ボクの挑戦は続くのです!」
 秋山はギム、と拳を握った。
「おー。よく飛ぶ、よく飛ぶ」
「あー本当だー」
 秋山の極秘文書が紙ヒコーキへと姿を変え、華麗に宙を舞う。
「ああっ! ボクの極秘文書で紙ヒコーキ折らないでっ! そして飛ばさないでっ! てか、いつの間にスリ取ったんですかっ!」
 秋山がバタバタと追いかける。極秘文書はしばし優雅に飛行を続けた後、本棚の一つに当たって墜落した。
「ああっ! 撃沈! えっ? 想いを伝えてさえいないのに?」
 絶望感が胸を締め付けた。秋山はヨロヨロと紙ヒコーキをすくい上げると太ももの上に乗せ、またのしのしと折り目を伸ばし、上着の内ポケットに仕舞った。
「……ふっふっふ。そ、そうやってボクの気持を試してるんでしょうが、言ったでしょう? 挫けませんってば。この頑ななまでの、燃え上がるような……そう! このパッションは止められないのですよ!」
 秋山は芝居がかった大仰なポーズを決めた。
「おー。よく燃える、よく燃える」
「あー本当だー」
 ライターによって着火された極秘文書が勢いよく燃え上がる。
「ああっ! 燃やさないでっ! だからいつの間にスリ取ってんですか! 消して! 灰にっ! ボクのパッションが灰になるっ!」
「いやほら。ちゃんとお焚き上げしないと」
「夏目ちゃん! 人のパッション、心霊写真みたく言わないでっ!」
 ほどなく、秋山のパッションは黒コゲになった。秋山が茫然と床に膝を付き、春日と夏目がそれを指差してケタケタ笑っている。そんな微笑ましい光景がそこにあった。
 そうしていると、ふいに秋山の携帯が着信した。
「はい……秋山です……ああはい、お疲れ様です……はい……はい……いえ、泣いてませんよ? ……はい……でもボク、今日休みで……え? もう一度言って貰えますか? ……マジですか……はい……分りましたすぐ行きます」
 秋山は電話を切ると振り返った。
「先輩、隣町の空き地で黒コゲの変死体が見付かったそうです……」

 現場は住宅街にある建設予定地で、特に仕切りがあるわけでもなく、誰でも立ち入れる場所であった。しかし、積み上げられた建築資材で所々見通が悪い箇所があり、遺体は通りから死角になる位置に倒れていた。
「近々着工の予定だったらしいです。数名の作業員が工事プランを練りに訪れたところで遺体を発見し、通報しています。検案によるとですね、髪の縮れ具合や皮膚の状態からして、火災等による死亡ではなくて、まるでカミナリにでも打たれたようだと……」
 秋山が手帳を繰りながら言った。
「ねえ、検案って何?」
 夏目が春日書店号(ただの白い軽貨物)の後部座席から訊ねた。それに運転席の春日が答える。
「警察医と呼ばれるお医者さんによる検視(検死)だよ。死亡の原因やその時刻を推定したり、遺体を解剖して更に詳しく調べる必要が有るか無いかを判断してくれるんだ」
「ふうん」
「しかし、カミナリに打たれたって……ここ数日、曇ってさえいませんよね」
 秋山が助手席から仰ぎ見た蒼穹には雲一つ無い。
「遺体、かなり酷い状態でしたよ。男性だってのは判るんですけど……皮膚が焼け爛れて、髪なんて本当にチリチリパーマで……そ、それで身体が胎児のように丸まってて……お、思い出したらブルーになってきた……で、でもですね、遺体が横たわっていた地面やその周りには焼けた跡は全く無いんですよ。後、燃え残ったズボンのポケットからある金融会社のロゴが入ったキーホルダーが出てきたんで、調べたところ代表の方に連絡がとれまして、ご足労を願った次第です。今はその代表の方の到着待ちですね……」
「そう……」
 春日は唇を結んだ。
「……な、夏目ちゃん? なんか難しい顔してるけど、まさか人体発火とか、超常現象みたいなのを想像してないよね?」
 秋山が後で押し黙っていた夏目に声を掛けた。
「何言ってんの。遺体の周りに焼けた跡が無いなら、当然どこか別の場所で殺害された後、ここへ運ばれたってことでしょ」
「そ、そうだね……はは……こんな時でも結構冷静だよね、夏目ちゃん……」
「うーん……遺体を見たわけじゃないから、実感が湧いてないだけかも……それより、あたし別に何でもオカルトに結び付けるマニアってわけじゃないからね? 嫌いじゃないってだけで。あたしは不思議だと思えることに出会えたとき、その謎の答えを知りたいだけ。超常現象なんて言うと皆鼻で笑っちゃうけど、現象って言うからには必ず原因があって、結果があるわけじゃない。因果律ってやつね。……うーん……ほら、天動説ってあるでしょ。宇宙の中心は地球で、その地球の周りを太陽や月や小さな星がグルグル回ってるっていうやつ。大昔に、千年以上もの間それが世界の常識で、当時の人々からすれば地球なんてでっかい物体が動くなんてことは有り得ないわけよ。そんなの超常現象なのね。地動説なんて唱えると笑われたり、迫害を受けた人だっていたらしいわよ。でも今は地動説が正しいって皆が知ってる。太陽系は太陽を中心に全ての惑星が公転して、自転してるって知ってる。常識が覆ったわけ。これって、現在の世界の常識が真実の全てでは無いっていう教訓だと思うのね。今の科学レベルでは認識出来ないだけで、未知の物質やエネルギーがこの世にはまだまだあって、そこに超常現象の謎の答えが隠されているかもしれないわけよね? 未確認生命体だってそう、今は未確認なだけで、探せば何処かにちゃんと存在しているかもしれないじゃない! もし本当に宇宙人やUMAがいるなら、あたしはそれを見てみたい。触ってみたい。だから―」
 夏目の言葉が次第に熱を帯び、加速してゆく。が、突然声がピタリと止んだ。妙な間が空く。
「……やめた。別にあなた達にしたって仕様が無いわよねこんな話。解って貰えるとも思ってないし。忘れて」
 夏目はムスッとしてシートに深く背を預けると、頬に掛った髪を指で払った。
「こ、こちらこそどうも……なんかすみません……」
 秋山はなんとなく謝っておいた。春日はその横で苦笑を浮かべていた。

「あっ、来たみたいですね」
 秋山がシートから身を起こした。現場の前に立つ警官に中年男が話掛けている。小太りで凡とした顔付だが、着ているものは高級そうな背広である。
 秋山が携帯を取り出し、短縮機能を使うと、春日の携帯が着信した。春日は音声をスピーカーモードにすると、フロントに取り付けた携帯ホルダーに挿した。秋山は通話状態のまま携帯を上着の胸ポケットに仕舞い、春日書店号を降りた。
 最初はゴソゴソと音がしていたが、しばらくするとスピーカーから秋山の声が流れ出た。
『こんにちは、わざわざどうもすみません……私、○署の秋山と申します。どうも……見たらすごく驚かれるとは思うんですが……確認して頂きたいことがありまして……こちらです……』
 またしばらくゴソゴソという音が続いた。
『この方が何方かお心当たりはありませんか?』
『阿部君……! なぜこんな……ど、どうしてこんなことに……!』
『阿部さんと仰るんですかこの方は……では、お知り合いなんですね?』
 別の刑事らしき男の声が聞こえた。
『は、はい……阿部君は私の秘書です……』
『そうですか……もう少し詳しくお聞きしたいのですが、署の方でお話を伺っても宜しいですか?』
『え、ええ。構いませんよ』
『助かります……ではこちらに……秋山、遺体運びだして』
『わかりました。…………先輩? 聞いてましたか? 何か解ったらまた連絡します』
「了解。じゃ僕等帰るね。お仕事頑張って」
 と言って電話を切った。
「えっ? 帰っちゃうの?」
 シートとシートの間をまたぐように助手席へ移動していた夏目が意外そうに訊いた。
「死亡推定時刻を絞り込むにも時間が掛かるだろうしね。現時点で刑事でもない僕等に出来ることなんて一つも無いよ。さあ帰ろう、家まで送るよ」
 春日はイグニッションを回した。

「夏目ちゃん。わかってるね? お父さんとお母さんにはナイショだからね? おじさん達とここで何してたか、お父さんとお母さんには言っちゃ駄目だよ?」
 秋山が真剣な面持ちでクギを刺した。
「アッキー。その言い方あやしく聞こえるから。ほら、そんなことより、先、先」
 パイプ椅子に腰を下ろした制服姿の夏目が掌をパタパタさせて話を促した。
 遺体が発見されてから数日後の夕方、春日書店の事務所兼倉庫にくだんの三名が顔を揃えていた。
 秋山が息を洩らし、手帳を繰る。最初から全ての抵抗がムダだと悟っている春日はただ静かに机の角を見詰めていた。
「えー……ある金融会社で社長秘書を務めていた阿部さんが遺体で発見されたのが十八日の正午のことです。死因は感電死。ボク等は他殺と判断しました。死亡推定時刻は十八日の午前三時から午前五時の間ですね……阿部さんが一人で住むマンションは遺体発見現場からそう離れてない場所にありました。室内を調べましたが、人が押し入った形跡や争った跡はありません。ドアはきちんと施錠されており、会社で使用する書類の入った鞄はありましたが、財布や携帯電話等が無いことから、阿部さんは十七日の勤務を終えた後、一度帰宅してからまた外出した模様です。しかし、阿部さんの足取りは分かっていません。目撃証言が無いのは、深夜に行動しからだと思われます。そしてどこかで殺害され、犯人によって建設予定地まで運ばれたものと考えられます。遺体は胎児のように体を丸めていますが、これは筋肉の収縮によるものではなく、遺体を袋や鞄に入れて運ぶため、手足を折り畳んだものと思われます。阿部さんは身長百六十センチ、体重は五十五キロと小柄ではありますが、遺体を運ぶにはかなりの腕力が必要と思われ、犯人は男性の可能性が高いと考えられます。遺体の服装ですが、シャツにズボンに靴下。この時期なら上に何か羽織っていた可能性がありますが、現場からは見付かっておらず、所持していたものはキーホルダーの付いた自宅の鍵だけで、靴や携帯、財布等は見付かっていません」
「……死因と遺体の状態からして追い剥ぎに遭ったなんてことはないわよね……。何処かの家に靴を脱いで上がり、携帯やサイフの入った上着もそこで脱いだってことかもしれないわ……そしてそこで殺害され、犯人は遺体を工事現場へ運んだ……」
 夏目が腕を組んだ。
「うん、その可能性が高いだろうね……」
「秋山君、阿部さんの身元を確認した社長さんだけど、あの人、何か言ってなかった?」
 春日が訊ねた。
「えー、社長さん、名前は金田さんと言います。阿部さんは運転手も兼任していて、十七日の夜にいつも通り金田社長の自宅まで阿部さんが車を運転して、車をガレージに停め、そのまま阿部さんは自宅へ徒歩で帰宅したそうです。見たのはそれが最後だと」
「ふむ、徒歩で帰宅したってことは……?」
「はい。阿部さんのマンションは金田社長宅から歩いて数分の距離です。秘書としてその方が都合が良いので、近くに家を借りていたみたいです」
「そう……」
「社長いわく、十八日の朝、阿部さんがいつもの時間に現れないので変に思っていた、との事です。それで、ですね……実は、金田社長には阿部さんを殺害する動機と言えそうなものがあるにはあります」
「「え、あるの!?」」
 春日と夏目がピクリと反応した。
「はい。金田社長が経営する金融会社は社員十数名と小規模ながらかなりの利益を上げています。その一方で、金田社長は巨額の脱税を行っていた嫌疑が掛ってまして、現在調査が入っています。銀行の口座にそれらしき不審なお金の動きは無いので、自宅のどこかに秘密の隠し場所があって、そこに隠してるって線が一番濃厚みたいなんです」
「そんな情報どっからでたの?」
 夏目が眉を顰めた。
「国税局の査察官の皆さんからだよ。向こうもこれを機に一気にたたみかけたいみたい。だからボク達との共同戦線が張られて、情報を貰ったわけ。それでね、裏帳簿を管理していたのは阿部さんだとみられていて、阿部さんは口封じに殺害された、との見方もできるんだ」
「うわ、金田社長メッチャ怪しいじゃん」
「金田社長は現在家族と別居中。通いの家政婦さんを数名雇っています。十七日から十八日までの行動を伺ったんですが、深夜に停電が起きたため、未明の内に家政婦さん達全員へ、今日は仕事にならないから来なくていいとメールで連絡したらしいです」
「停電?」
「はい、深夜から行われた電気工事の事故により、金田社長宅を含むごく一部の地域で、午前零時から午前十時までの間停電が起きています」
「ねえ、その事故って阿部さんの感電死と何か関係あるんじゃないの?」
 夏目の瞳に力が籠った。。
「いや、それはないと見ているよ。停電の原因は金田社長達とは全く関係の無い、公共事業の夜間工事の事故だから。坂道で高所作業車の姿勢が悪くて傾いたため、送電線を断裂させてしまったらしい。ただの事故、こういう言い方はあまり良くないけど、ただの事故だよ」
「ふうん……」
「しかし単純に、動機がある金田社長が犯人で、午前三時から午前五時の間に阿部さんを何処かに誘い出して殺害し、正午までに建設予定地まで遺体を運んだ、と仮定すると大きな問題が生じてしまうんです」
「問題?」
「はい。まず、午前九時。二人の測量士が問題の建設予定地を訪れ、測量を行っています。その時に遺体など絶対に無かったと二人は証言しています。そして、遺体が建設作業員に発見されたのが正午。遺体を遺棄出来るのは九時過ぎから正午の約三時間足らずですが、金田社長は午前七時から午後一時までの六時間、自宅で顧問弁護士と会談してます」
「顧問弁護士……」
 夏目はとりあえず、背広姿の、眼鏡を掛けた、ピッチリ横分けを想像しておいた。(余談ではあるが、実際そうだった)
「その弁護士さんからも証言が取れました。会話の内容は守秘義務が在るため明かせないが、午前七時から午後一時までずっと社長宅で一緒だったことは保証するそうです。えー、なんでも十八日の午前二時頃、金田社長宅からいきなり掛ってきた電話で起こされて、七時に家に来てくれ、と頼まれ、FAXで地図も送られて来たそうです。いつもは会社の社長室で会談を行っていたらしいんですが」
「…………」
「そして、弁護士さんが約束通り午前七時に社長宅を訪問。午前十時まではやはり停電で家電は一切使えなかったようです。そして午後一時に警察からの連絡を受けて、金田社長が遺体発見現場に訪れたのが午後二時……」
「なるほど。時間的に金田社長が遺体を遺棄するのは絶対不可能なわけだ……」
 春日が頷いた。
「はい。当然、現場付近での金田社長の目撃情報は皆無です。そんなこんなで、弁護士さんがずっとそばにいて、目を光らせているものですから、金田社長の自宅を詳しく捜査も行えない状況でして……」
 しかも残念な事に、遺体発見現場である建設予定地は、その昔駐車場であった名残か、砂利がジャリジャリ敷いてあったため、犯人の足形を採取するには至らなかったそうだ。
「ふうむ、でも話を聞くために、金田社長宅に行くくらいはしたんでしょ?」
「それは、まあ、はい。家政婦さんが三人も働いてて、びっくりしました。それで、最近変わった事とか無かったかその家政婦さん達に訊いてみたんですけど、変わったことというより、困っていたことはあったらしくて」
「困っていたこと?」
「はい。社長宅専用のゴミ集積所が住居の裏手にあるらしいんですけど、毎朝のようにあるホームがレスの方が、ゴミを漁りに来ていたようで。それを聞いた金田社長が大層ご立腹だったそうです。あ、でも十八日以降は漁られた形跡が無いようですが……」
「ふーん……」
「ええと他には……庭に出るときに使う、つっかけが一足無くなっているとか」
「つっかけ……ねえ……他には?」
「後は特に……。家政婦さんに書斎まで案内されまして、弁護士さんを尻目に、社長に捜査の進捗状況だけ報告して、おいとましました」
「なによそれ、とんだチキン野郎だわ」
 夏目がジト目を送った。
「こ、これでも頑張ったんだよぉ。なんとか粘って、阿部さんが運転していたという車を見に、庭の奥に位置するガレージも覗きに行ったんだから。それがまた、このガレージが広くて! 五台くらい停められるかな? 普通にここに住めるぞ、みたいな。でも停めてあるのは車一台だけで、しかも何かやたら端っこ、壁ギリギリのところにポツンとベンツが停められてんですよ、何ですかねアレ」
「へえ?」
 春日が眼を細めた。
「あと、そのガレージ、あんまり片付いてませんでしたねぇ、バケツとかゴムホースとか出しっぱなしだったし、ハイオクとかレギュラーとか書かれたガソリンタンクもうっちゃってあったし」
 秋山が空中を見上げ、思い出しながら言った。それを聞いて春日が深く頷く。
「……なるほどね、これで謎が解けたよ。ちょっと君達、僕の推理を聞いてくれるかい? 今回の事件……犯人は金田社長だよ」
 春日があまりにもさらりと吐いたため、夏目は口を開けてしばらくポカンとしていた。
「……は? な、なによ犯人は社長って……推理を聞けって……今の話を聞いてただけで何が解ったっていうのよ……。ほ……本当なの?」
 夏目は思わず秋山に訊ねた。
「多分ね。でも先輩、いつも大体こんな感じだよ」
「……………………」
 夏目は春日が推理を語るところを見るのは、これが初めてのことだった。
「……フ、フン。でも問題はその推理が当たっているかどうかよね。……それじゃあ聞かせて貰いましょうか」
 夏目の眼が好奇心でギラリと光った。
「うん……。僕は安部さんを殺害した犯人は……金田社長だと思う。動機はやはり脱税に関することだろう。査察官が動き出してる時点でもう金田社長はほぼクロと考えていいと思う。金田社長は脱税がばれればお金を取り上げられ、社会的な信用も失い、会社も致命的なダメージを受ける。そこで、脱税の証拠に深く関わっている安部さんの口を封じようと考えたんだろう。まず、十八日の零時、停電していることに気付いた社長は、電力会社に連絡を入れて状況を確認し、電気の復旧に時間が掛ると踏み、停電を口実に阿部さんを呼び出すと同時に、殺害する方法を思い付いたんだと思う……。そして全ての準備を整えた金田社長は深夜に阿部さんを呼び出し、ある方法を使って、阿部さんを殺害した……」
「「ある方法?」」
 夏目と秋山が首を傾けた。

※金田はどのような手口で安部を殺害したのだろうか? そしてその遺体をどのような方法で移動させたのだろうか?

「あ、阿部さんの死因は感電死ですよ? 一体どうやって感電死なんか」
 秋山が身をググッと身を乗り出した。
「自家発電機を使ったんだよ」
 春日が自信に満ちた笑みを浮かべる。
「自家発電機!?」
 今度は夏目が声を上げた。
「うん。午前零時から午前十時まで停電だったにも関わらず、金田社長は午前二時に顧問弁護士へFAXを送っている。一般回線を使用する電話は電話線から僅かながら電力を得ているため、停電時でも通話は可能なんだけど、コンセントから電力を得ているFAX機能は話が別。停電時は使用出来ない。また、ガレージには車がベンツ一台しかないのに、ハイオクとレギュラーのガソリンタンクがあった。それはなぜか……? 例えば、車の燃料にハイオクを使用していた場合、レギュラーを混ぜることは無いし、日によって使い分けることもまず無い。なのにガソリンタンクが別々にあったということは、レギュラーガソリンを燃料に動くなんらかの機械があったという証拠だよ」
「な、なるほど」
 秋山が頷いた。
「金田社長は自家発電機を使用して弁護士に連絡を行った後、停電なので自家発電機を動かしているんだがどうも調子がおかしいから調べてくれ、とでも言って阿部さんを呼び出したんだろう。社長宅に訪れた阿部さんはそのときに靴と携帯や財布の入った上着を脱いだんだと思う。そして阿部さんはつっかけを履いてガレージまで行き自家発電機の具合を診ることにした。となると、一旦発電機のスイッチを切るにしたって、一度は必ず発電機に触れなければならないってことだ。それこそが罠だったんだよ。発電機内部の配線を剥き出しにしておき、阿部さんが発電機に触れているときを狙って水を被せる。すると濡れた阿部さんの身体と発電機とで閉回路が形成され漏電が起き、安部さんは感電する。わずか数ミリアンペアのスタンガンでさえ皮膚には火傷の跡が残り、電圧との兼ね合いによるけど、一般的に家庭で使用される数十アンペア程度の電流でも人体にとっては超危険なんだ。通常、漏電が起きると発電機は直ちに安全装置が作動して電力をストップさせるんだけど、よほど強力な発電機だったんだろうね。電気にとっては一瞬でも十分だったんだ。阿部さんはあの通り感電死してしまった……。そのときのショックで発電機が故障してしまったため、それ以降午前十時までは家電が使用出来なかったんだよ」
「な、なるほどね。……でも、ここからが問題よね。どうやって遺体をあそこまで移動させたわけ?」
「そうですよ、共犯者がいるんですか? それとも弁護士とグルになってウソを?」
 夏目と秋山が口々に訊ねた。
「いや、弁護士はアリバイ証人に利用されただけだよ。それとは別に、知らず知らずの内に運び屋に仕立て上げられた人物がいるのさ」
「運び屋? 誰ですか?」
「ホームがレスの人」
 春日があっさりと答えた。
「ええ!? なんで!?」
 夏目が眼を丸くする。
「社長宅のゴミを漁る人ですか? いやいやいや、いくらなんでも遺体なんか持って行くわけないでしょ」
 秋山が掌をぶんぶん横に振った。
「じゃあ、遺体が大きな鞄に入れられていたとしよう。そして遺体を覆い隠す程の札束がぎっしり詰められていたとしたら?」
「「え?」」
 夏目と秋山がポカンと口を開けた。
「ホームがレスの人は鞄に遺体が入ってるってことに気が付かなかったんだよ。お金が無くて困ってる人なら、そのまま持って行っちゃいそうじゃない?」
 春日がニヤリと笑った。
「そ、そんな……ぎっしりって……い、いか程……?」
 秋山が恐る恐る訊いた。
「さあ? 三千万円だか四千万円だか、もっとか。相当入れないと遺体隠れないだろうしねぇ」
「よ、四千万……?」
 秋山が唇をぷるぷるさせた。
「金田社長は殺人がばれれば一貫の終わり。罪を逃れるためなら幾らでも出そうと思ったんじゃないかな。ウワサのお金の隠し場所から」
「はぁ……」
 夏目は息を洩らした。
「で、ホームがレスの人はその名の通り家が無いわけだから、どこでもいいから、ゆっくり鞄の中身を物色出来る、適当な場所を求めて移動することになる。実は遺体が入っているわけだから相当重い。旅行用の鞄でキャスターが付いた、ゴロゴロと引っ張ることができる鞄が使用されたんだと思う。そして移動した先が、偶々あの建設予定地だったわけだ。時刻は九時過ぎから正午の間」
「そうか、じゃあ現場付近で金田社長の目撃情報が無いのは当たり前なんですね」
「そうだね。目撃情報といえば、大きな鞄を引きずった人が住宅街を練り歩いてたらそれはそれで眼を引くけど、住宅街では、通勤、通学ラッシュを過ぎたら通行人は激減する。裏道を通れば、割と人目に付かない。そうやってホームがレスの人は移動したんだよ。しかしホームがレスの人は、あまりにも思いがけないことが立て続けに起こって、混乱しただろうね。大金が手に入ったと思ったら死体まで出てきたんだから。当然これは金田社長にとって危険な賭けでもある。首尾良くホームがレスの人が運び屋をやってくれたとしても、遺体のことを警察に通報することだってあり得る。けど、ホームがレスの人の立場になって考えてみるとどうだろう。この状況で通報したら、最悪、自分に殺人の容疑が掛るかもしれない。関わりたくない、一刻も早くこの場から逃げたい、と思うんじゃないかな。でも金銭欲というのはもう、人間の骨の髄まで刻み込まれているものだから、パニくりながらも現金はちゃっかり鞄に詰めて逃げた、というわけさ」
 春日は肩を竦めた。
「だ、だからあんな奇妙な状態で遺体だけが残っていたんですね……」
「うん。そして金田社長は弁護士を利用して午前七時から午後一時までのアリバイを作り、その後、警察の呼び出しに応じて何食わぬ顔で現場に現れたわけだ。でも、明らかに怪しい行動も取ってる。弁護士を自宅に呼び付けるなんて、阿部さんがもう来ることはないと知っていた、と言ってるようなもんだよ」
「言われてみればそうね……ねえ、スガッチ、もしかして、早い段階で社長が怪しいと踏んでたの?」
「まあね。阿部さんは相当変わり果てた姿で死んでいたはずなのに、いくら自分の会社のロゴの入ったキーホルダーを持っていたからといって、それが自分の秘書の死体とはにわかに信じられないはずだよ。しかし金田社長は遺体を見てすぐにそれが阿部さんだと断言した」
 春日の言葉に、夏目と秋山はポンと手を叩いた。
「それで先輩、社長の犯行を裏付けるものは何かあるんでしょうか?」
「うん。秋山君、君が社長宅を訪ねた時点で家政婦が三人、さらに弁護士も居たんだったよね。しかしガレージに停めてあった車は社長が所有するベンツ一台きり。これで、弁護士や使用人達は皆、自家用車以外の交通手段を使って社長宅に来ていることがわかる。そして、ベンツはやたら壁際に停められていたんだったね。弁護士や使用人達が車を停める分のスペースを作ってあげる必要は無く、車体に傷でも付いたら大変だからわざわざ壁際に寄せて停める必要だって無い。ど真ん中に停めたって良いさ。なのにそうしない理由はなんだと思う? ……ベンツの下、床に隠されているんだよ……阿部さんを感電させたときに出来た、真っ黒いコゲ跡がね……!」
「「ああっ!!!」」
 春日の眼鏡がキラリと光る。秋山と夏目の背後で雷鳴が轟き、外で雀がチュンと鳴いた。
「発電機の漏電時、辺りは水浸しになっただろうけど、少なくとも発電機の真下には、ド派手にコゲ跡を残したはずだよ」
「なるほど! じゃあそれを調べれば……! あ……でも先輩、すごい根本的な疑問なんですけど、金田社長は、なんでわざわざそんな殺害方法を採ったんでしょうか?」
「うん……まず、人を深夜に呼び出すためには、それなりの理由が必要だよね?今回の場合は、停電と自家発電機がその口実とされたわけだ。そして、それをそのまま殺害方法に利用したわけだけど、これは、血を見るのが怖くて、人をナイフで刺し殺すことはできないけど、縄で首を絞めて殺すことはできる。だとか、高い所から突き落とすことはできる。という犯罪心理と似たようなものじゃないかな……わからないけど、少なくても金田社長にとっては、水を被せる、という方法は、楽な方法だったんだろう。それか、脱税がばれそうになっていたから、あせり過ぎて、血迷ったんだろう。まあ、本人に訊いてよ」
「了解です! 先輩、ありがとうございました! じゃあ行ってきます!」
 勢いよく立ち上がった秋山が、踊るようにして事務所を飛び出して行った。
「うん。行ってらっしゃい。頑張って」
 春日は座ったままで冷めた茶をすすった。
「え……? あ、あれ……?」
 腰を浮かしかけていた夏目は茫然と秋山の背中と春日とを見比べた。
 

『先輩! お見事、大正解です! ガレージにありましたよコゲ跡! それで、社長に自首するよう迫ったところ、応じてくれました。やはり脱税の証拠である裏帳簿を管理していた阿部さんの口を封じるのが目的だったようです。ヒューズが焼け落ちて黒コゲになった発電機も物置で見付けました! そこに阿部さんが履いたと思われるつっかけや、携帯と財布の入った上着と、靴もありました! 後、ホームがレスの人ですが、家政婦さん達が人相をご存じみたいなので、すぐに見付かると思います。あと、脱税で貯め込んだお金の隠し場所ですけど、庭に、隠し部屋に通じる秘密の縦穴があるんだそうです。ははは、弁護士さんは腰を抜かして驚いてましたよ』
 スピーカーモードにした携帯から秋山の快活とした声が流れ出た。
「うん……でも弁護士をずっと傍らに置いていたのが逆に仇となったね。金田社長は証拠を隠滅する時間が作れなかったんだ」
 春日が満足そうにうなずいた。呆気に取られていた夏目が我に返る。
「え……? ち、ちょっと待って……これで終わり……? 推理ショーは? その後に待ち受けるしっちゃかめっちゃかの大立ち回りは? こういうのって普通、追い詰められた犯人が、ちいいっ、かくなるうえはっ! とか言ってか弱いあたしが人質に取られたり、あたしをかばったスガッチがその拍子に怪我したり、はずみでアッキーが殉職したりするもんじゃないの!?」
「おいおい……」
『こらこら……』
 二人の抗議を無視し、夏目が頬を引きつらせた。
「な、なるほどね……幾つも事件を解決してるはずなのに、スガッチが全然有名じゃなかったり、アッキーが万年ヒラ刑事なのに合点がいったわ……そうやって毎回々々犯人に自首を勧めるから捕り物劇に発展しないわけね……どおりで記事にもならないわけだ……」
「あっはっはっはっは、まいったね」
『いやあ、それほどでも』
「ほめとらんわぁぁぁぁぁっ! 一体何がしたいのよ! アンタ達はっ!」
 夏目が顔を真っ赤にして叫んだ。ゼィゼィ、と肩で息をする。
『どうどう』
「馬か、あたしは!」
「正真正銘のじゃじゃ馬だと思われ」
「なんですって!」
 夏目の剣幕に春日は椅子を飛び退く。
「ま、まあまあ、夏目君! ほら、君が言ってたじゃないか。謎の答えが知りたいって、僕達も一緒だよ。真実が知りたいだけなんだ」
『そうそう、そうなの。出世しちゃうと忙しくなっちゃうし。あとぶっちゃけるとボクは、自分の担当する事件が長引いたら面倒だから先輩にお願いしてるんだけどね。それとね、ボクは犯罪に関する謎は全て解き明かされるべきだと思うけど、謎は謎のままで良いこともこの世にはあると思うよ、夏目ちゃん。例えばさ、地球外知的生命体は絶対に存在しません、なんてヘタに立証されようものなら、もう夢も浪漫も妄想を楽しむ余地も無くなっちゃうじゃない? 余りに何でもかんでも知りたがるのはどうだろう?』
 電話の向こうから問われ、夏目は唇を噛んだ。
「…………そう、ね……確かに、答えが解ってしまったらそれはもう不思議じゃない……知らなければ良かったと後悔することだってあるかもしれない……」
『そうでしょ? じゃあ極端な話、もし全ての不思議が解き明かされたらその後どうするの?』
「全ての不思議が解き明かされたら? ……それは困るわ……何も残っていないもの……」
『そうでしょ? 困るでしょ?』
「そうね……。なら、もし全ての不思議が解き明かされたそのときは……」
『そのときは?』
「また新しい不思議を探すわ!」
 そう言うと夏目は屈託無く笑った。

 その後、ホームがレスの人、は警察の捜索によって即見付かった。ホームがレスの人は、大量の札束を抱え、全力で逃げた。走って逃げた。が、即捕まり、金は全て没収された。

   第十話  拳銃自殺の謎

 ある日、あるマンションの一室で、その部屋に独りで住んでいた横嶺という男が遺体となって発見された。
「……しっかし、拳銃なんて一体どこから手に入れたんでしょうね」
 床に横たわる遺体の、右こめかみから流れ出た血を見ないようにしながら秋山が言った。
「ああ……コレにゃ見えねえしな……」
 厳つい顔をした中年刑事が手袋を嵌めた手で頬に線を引いた。
 遺体の第一発見者は一人の会社員だった。横嶺が住むマンションの向かいには道路を挟んでビルが建っており、そこで働く会社員が昼休み、いつものように屋上で煙草を吹かしていたところ、マンションの一室で床に倒れ、ぴくりとも動かない男を発見したというわけだ。時間は午後十二時三十分。
 その会社員が一一九番通報し、駆けつけた救急隊が大家と共に部屋に入るが横嶺は既に死亡していたため、救急隊は『緊急』を解除、警察の出番となった。
 横嶺は三十八口径のリボルバーを右手に握り、ベランダへと通じるガラス戸の付近に倒れていた。カーペットに染み込んだ血は完全に乾いており、遺体の傍には鍵が落ちていた。
 中年刑事が鍵を指差して、窓枠をハケでなぞって指紋採取を行っていた鑑識員に問い掛けた。
「これもう指紋採ってあんの? ああそう。鍵は室内から発見、と……」
 中年刑事は上着から折り畳んだハンカチ取り出すと、それに、落ちていた鍵を丁寧に挟んだ。
「ああ、舟木さん、ビニール、ビニールに入れた方がいいですよ。すみません、ビニールあります?」
 秋山は鑑識員から受け取ったビニール袋を舟木に渡した。
「ああ、悪いな」
 舟木はハンカチから鍵を抜き取るとビニール袋に入れようとして手を止めた。
「違うか。まずこの鍵がこの部屋の鍵で間違い無いか確認するのが先か」
「そうですね」
「秋山、頼む」
「了解です」
 秋山は鍵を受け取ると、部屋の外に出て、鍵を鍵穴に差し込み、回した。カチャリという音と共に扉が施錠された。
「間違いなくこの部屋の鍵です」
 戻って来た秋山は鍵を舟木に返した。
「おう。……こりゃ自殺で間違いなさそうだな」

 その日の夕方、他の捜査員達が引き上げ、秋山だけが残った横嶺の部屋に春日が現れた。
「いやー、降られた降られた。靴もビショビショだー」
 春日は玄関先で傘を振り水滴を切った。
「お疲れ様です。こんな日にすみません」
 秋山が頭を下げて出迎える。
 春日は傘を持ったまま部屋へ上がると、リビングをスタスタ横切り、ベランダへと通じるガラス戸の前に立った。カーテンは開け放たれ、カーテンレールの端に束ねられている。
「あー秋山君、悪いけど帰りは送ってね」
 外を見ながら傘のボタンを留める。
「ああはい、わかり―」
「そこだぁっ!」
 春日はフェンシングの構えから、傍にあったカーテンの束に鋭い突きを繰り出した。傘の先が深く食い込む。春日はすぐさまカーテンの裏を鋭い眼つきで確認する。が、そこには誰も隠れていなかった。そしてくるりと振り返ると、次は反対側で同じように束ねられたカーテンの方へとスタスタ歩いて行く。しかし、今度は何もせず通り過ぎた。
「と、見せかけてドーン!」
 振り向きざま、ボンナバン、アロンジェブラが決まった。これではひとたまりもない。しかし、またもやカーテンの裏には誰もいなかった。
「あの……先輩……説明お願いします」
 秋山が遠慮がちに訊ねた。
「何っ!? 説明が必要かねっ!?」
「要ります。バリバリ要ります」
「先程電話で君から受けた説明より抜粋すると、横嶺さんの死亡推定時刻は午前十時。銃口を肌に密着させて発砲したため、マズルファイアによる火傷がこめかみにあり、銃のシリンダーに入っていたのは使用済み薬莢一発だけ。そして服の袖からは硝煙反応。外傷はこめかみのみで争った形跡も無し。鍵は室内で発見され横嶺さん本人の指紋が付着していた。遺体発見当時、窓とドアは施錠されており完全な密室状態。更にこの部屋のドアには合い鍵も無し。他殺と仮定すると部屋からの脱出は不可能。比較的犯行が可能なのはを管理者用としての鍵を持つ大家であるが、大家には完璧なアリバイがあった。どう見ても自殺と考えるのが普通だが、君の勘がこれは絶対殺人事件だと告げている……。そうだね?」
 春日がベラベラベラベラッ、と一気に喋った。
「はい……そうなんです……」
 秋山は神妙な面持ちで頷いた。
「君の勘を信じるとすれば答えは唯一つ…………犯人はどうにかしてこの密室から脱出したのではなく、いまだこの部屋のどこかに潜んでいるってことさ!」
「そ、そうかっ!!!」
 春日と秋山はババッ、と素早く背中合わせになると身構えた。秋山が懐に手を入れニューナンブを抜いた。ガチリ、と音をさせて撃鉄を起こす。
「着装週間なのが幸いでした……先輩! 援護は任せて下さい!」
「うん! シュッシュッ! シュッシュッ!」
 春日が上段突きと下段突きを素早く素振りした。
「秋山君! 油断しないで! 敵は正面に注意を向けさせておいて、背後から攻撃してくるよ! 常に死角をカバーし合うんだ! それが、CQB(クロース・クォーター・バトル)!」
 二人がズババッ、と動いてお互いの位置を交換し、また背中を預け合った。
「シュッシュッ! シュッシュッ!」
「先輩っ!」
 秋山が隣へ通じるドアを指差す。春日は頷き、二人は慎重に辺りに気を配りつつ、壁を伝うようにしてドアに近―
「ドアの奥に居ると見せかけて実は床下に潜む! それがCQB!」
 春日が勢いよくカーペットをひっぺがし、秋山が足下へ銃を突き付けた。
 ただのフローリングだった。
「ふう……気のせいか……秋山君、先へ進もう」
「はい……!」
 そして、遂に二人はドアの前まで辿り着き、両側の壁に張り付くと、呼吸を整える。
「はい…………その前に先輩……ボクにもしものことがあったら……代わりに金魚にエサをあげて貰えますか……」
「秋山君。わざわざフラグを立てるような言動は慎みたまえ。ていうか君、金魚飼ってないし」
 二人は親指を立てて頷き合った。
 気を取り直し、秋山が上着で掌を拭った後、銃を握り直した。そして春日がドアノブに手を掛け、回し、勢いよく押し開ける。流れるように春日と秋山が体を入れ替え、秋山が部屋の奥へと銃を突き出し叫ぶ。
「警察だっ! 撃ち殺すぞっ!」
 しかし、寝室に人影は無かった。二人が顔を見合わせ視線だけで会話する。その後、二人は三時間掛けトイレやバスで同じようなことを繰り返した。
「ふーむ……隠れられそうなところは全て当たったが犯人の姿は無し、か…………自殺じゃね?」
 春日が言った。
「ちょ、待って下さいよ! 根拠があるんです! これから自殺しようって人間がデリバリーなんか頼むと思いますか?」
「デリバリー? なるほど……確かにそれは妙だな……因みに何頼んでたの?」
「妹という設定で二十代前半の娘が来てました」
「ああ、そっちのデリバリーね……妹設定か……まさか君、買ってないよね?」
「買ってませんよ! 持ち合わせも有りませんでしたし」
「その言い方だと持ち合わせてたら買ってたのかって話になるよね」
「い、いやさすがに、仕事中はないですよ」
 秋山が顔を赤くして否定した。
「なるほど、アフターか……」
「……ち、違うんですよ! 独身の寂しさを紛らわせるために多少デバったってしょうがないじゃないですか! いたしかたないじゃないですか!」
「全く君はそうやって、刑事のくせに周囲にアンテナも張らず、テントばかり張ってるんだから」
「ほっといて下さいよ」
「はいはい、やれやれ」
 春日は息を吐いて首を振った。
「突然ですが、そんな侘しさを唄います。独身男の川柳……『デリバリー 写真に騙され 涙墜つ』」
「ああ、実物とかけ離れた紹介写真ね。わかるわかる、詐欺かってくらいスーパー補正掛ってることあるよね」
「『雀の子 そこのけそこのけ 平成生まれが解禁だ』」
「捕まれ君は。最早川柳じゃないし」
「『テク百点 スタイル百点 顔三十二点』」
「頼むから訴えられろ。……ったく」
 春日は秋山の相手を止め、ベランダへ続くガラス戸の前に立って外を見た。そこからは正面のビルが見えるばかりである。
 春日は横嶺と同じ体勢になるために、その場に寝っ転がってみた。そこから見上げると、向かいのビルの屋上の手摺がよく見える。
「ふーむ……」
 春日は起き上がるとカーテンを片方ずつ閉じてみた。そしてつぶさに観察していくと、カーテン裾に点々と、小さな黒い染みが付いているのを見付けた。
「飛沫血痕だ」
「え? マジですか!」
 秋山が駆け寄ってくる。
「うん。……と、いうことは横嶺さんが死亡したとき、カーテンは閉じていたわけだ。そして、カーテンが独りでに開くわけ無いから……」
「犯人が開けたんですね……やはり殺人事件なんだ……!」
「うん……横嶺さん殺害時、カーテンは閉じられていた……そして犯人は立ち去る際、カーテンを開け放った……」
「何のために?」
「わからない。普通カーテンを閉めたまま隠そうとしそうだけど……犯行時刻は午前十時……遺体発見が午後十二時半、救急隊の到着が十二時四十分頃だっけ?」
「はい。そしてボクと舟木さんが到着したのも四十分をちょっと過ぎたくらいですね」
「随分早いね」
 春日が眉をピクリと動かした。
「はい。今日署の先輩の舟木さんにごはん誘われましてね。偶々この近くにある舟木さん行きつけの店で食べてたんですよ。それで、救急車がサイレン鳴らしてたんで、様子を見に」
「ふうん、そうだったの……。ふむ、となると問題は、犯人はどうやってこの部屋を密室にしたのか、という事だけど……この部屋の合い鍵は無い、という話しだったね、それは確かなのかい?」
「ああ、それはですね。ええと、まず、この部屋のドアを開け閉め出来る鍵が、2本だけ存在します。一本は横嶺さんが所有する、この部屋で見付かった鍵。もう一本は、大家さんがマンションの管理者として預かっている鍵です。そこで、この部屋のドアの鍵と錠を扱っているメーカーさんに問い合わせて、ご協力を願ったら、ご親切にも、メーカーさんの方から錠前の取り付け作業班の方々が来て下さったんです。で、色々お話しを伺ったんですが、この鍵は少々特殊で、その辺の鍵屋さんでは合い鍵は作れないんですって。もし合い鍵が欲しい場合は、メーカーさんに発注する必要が有るんです」
「ふむ……」
「記録を調べて頂いたところ、横嶺さんがスペアを注文した事は無いそうです。鍵山の代わりにポコポコと窪みがある鍵なんですけど、知ってますか?」
「ああ、きっと、多角ピンタンブラー方式のディンプル(窪み)キーだね」
「そうそう、それです。参考までに鍵のサンプルを幾つか見せて貰ったんですが、そのメーカーさんが扱う鍵はデザインが全て統一されていまして、横嶺さんの部屋の鍵も、サンプルの鍵も、ボクにはどれも同じ物のように見えて見分けがつかなかったんですが、そこはやはり鍵ですから、当然窪みの位置が一つ一つ違うそうです。合い鍵が無いなら、自殺で間違い無いだろうって舟木さんは言ってたんですけど……あ、そういえば、作業員さんの一人が舟木さんに『先日はありがとうございます』なんて挨拶してたな……知り合いだったのかな?」
「ふーん……。じゃあさ、使用された銃の方は? 出所から何か判らない?」
「残念ながら、シリアルナンバーが削り取られていました。時間が掛りそうです」
「そう。単純に密輸拳銃なのか……出所が割れると簡単に脚が付く銃なのか……うーん……そうなると、もう一本の鍵を持っているという大家さんが怪しくなってくるんだけど……アリバイがあるんだっけ?」
「はい。大家さんは午前九時から午前十一時まで、マンション住人の依頼を受けて、屋上でパラボラアンテナの取り付け作業をしてたようです」
「パラボラアンテナ? それって衛星放送観るための?」
「そうです、あの、お皿の形したやつです。その住人にも確認を取りました。住人が部屋で実際にテレビを点けて映像を確認し、大家さんとは携帯で会話をしつつ、綺麗に映る位置を調節したんだそうです。映ったり映らなくなったりの繰り返しで調整が難しく、かなり時間が掛ったもようです」
「そう……屋上で仕事してたのなら犯行は無理か……でも合い鍵が作られていないとなるとやっぱり、もう一方の鍵を持ってる大家さんが怪しいんだけどなぁ……」
「いやいやー、それはないんじゃないですかね」
「え、なぜだい?」
 春日が眉を顰める。秋山が背広の上着の右ポケットと左ポケットからアルミ箔に包まれた、四角い何かを取り出した。
「お一つどうぞ」
 秋山が包みを差し出す。
「え……?」
 春日は腕を伸ばして受け取ると、包みを開いてみた。中に、食パンでレタスとハムを挟んだサンドイッチが入っていた。
「こ、これが何……?」
 春日が顔を上げて秋山を見ると、すでに包みを開いてガツガツ頬張っている秋山がいた。
「モグモグ……大家さんからの差し入れですよ。ボクら捜査員のために、山ほど作ってきて下さったんです。お仕事頑張ってって。ボクなんてもう……モグモグ、何コも頂いて……モグモグ」
「……………………」
「ね? こうやって食べ物くれる人が悪い事するわけ無いじゃないですか! モグモグ……大家さんはきっと、犯人じゃないですよ!」
「あ……そう……」
 春日は手にしたサンドイッチに眼を落した。
「あ、そういえば言い忘れてました。室内で見付かった鍵ですが、ほんの少しでも手掛かりになるものはないかと科捜研に届けて分析をお願いしていたんです。それで、さっき分析結果のメールが届いたんですけど、鍵からは人間の指の油しか検出されず、鍵に何か細工が施された形跡は一切無し、だそうです……残念……モグモグ」
「ふうん……そう……分析して貰ったんだ……」
 春日は今、サンドイッチではなく、アルミ箔を見ていた。
「アルミ……アルミ……?」
 ぼーっ、とアルミ箔を見ていた春日の表情が、いきなり変化する。
「あ! アルミか! そうかわかった! 秋山君! アルミ! アルミだよ!」
「えっ、な、何ですか? 何ですか急に」
 秋山がギョッ、として春日を見た。

※春日はアルミが関係する何かに気付いたようである。事件の犯人と犯行の手口とは?

「ア、アルミ? アルミがどうしたっていうんですか?」
 秋山が眉を顰めて問う。
「ほら、アルミだよ! アルミで、何か思い当たる事はないかい?」
 春日がはしゃいだように言う。
「ええ? ア、アルミで……?」
 秋山は掌の上にあるアルミをじい、と見詰めた。
「あ! そ、そうか! ひらめきました! わかりましたよ! 何かで見たことあります! アルミは電波を遮断するんですよね!? 携帯電話をアルミホイルで包んだらその携帯電話には電波が届かなくなるとかやってました! パラボラアンテナの、お皿の形した反射鏡の正面におっ立ってるアンテナ(放射器)に、アルミホイルを被せて、片側だけテープで固定するんです!」
「おおっ! それでそれで?」
 春日が眼を輝かせる。
「そして! 部屋でテレビを点けて映像を確認している住人とは携帯で会話しながら移動し、管理人として預かっている鍵を使って横嶺さんの部屋に侵入し、中にいた横嶺さんを銃で殺害したんです! すなわち、パラボラアンテナは最初の内でベストポジションに調節されていて、全く動いてなかった! そして、風でアルミホイルがパカパカと動いて電波を防いだり防がなかったりしたから、映像が映ったり映らなかったりして、さもそこで作業しているかのように見せ掛けることが出来たって訳ですよ! つまり、犯人は大家さん! そうですね!?」
「ちがう」
「ちきしょーーーーーー!!!」
 秋山はガッデムした。
「よし、それならちょっと、シミュレーションしてみようか。大家さんが犯人だとして、君が言ったトリックをパラボラアンテナに施し、横嶺さんの部屋に行き、頭にはハンズフリー用のヘッドセットを付け、住人と電話で会話し、右手に銃、左手には横嶺さんに見せるための『窓の前に立て!』と書いた紙を持ち、横嶺さんを殺そうとしたとする」
「は……はい……」
「まず、この状態で、横嶺さんが助けを求めるなどして声をあげ、その声が電話の相手に聞えでもしたら、その時点でトリックは失敗だ。そして、リボルバーにはサイレンサーを使う事が出来ないから、銃声を聞かれてしまう恐れもある。非常に危険な方法だ、とても実行出来ないんじゃないかな……」
「あ……ああ……」
 秋山が小さく頷いた。
「一応、問題を解消する方法はある。アンテナ設置作業より前に、横嶺さんを薬を使ってガラス戸の前に眠らせておき、作業をしている演技をしながら、横嶺さんを殺害する、という方法だ」
「あ、ああ! なんだ、出来るんじゃないですか! それですよ!」
「いいや、違うんだ……まず何より、もし犯人が大家さんだったとしたら、たとえどんな形にせよ、トリックのキモであるアルミホイルを刑事であるキミ達に見せるわけ無いんだ」
「あ……」
 秋山の肩から力が抜けた。
「だから、大家さんは犯人じゃないよ」
「じ、じゃあ犯人は誰なんですか!?」
「この犯行を実行出来る人物が一人だけいるんだ」
「だから誰なんです!?」
 じれた秋山がつい大きな声を出す。
「君の上司、舟木さんだよ」
「なっ……!!!」
 秋山が凍りつく。春日は構わず話を続けた。
「鍵業者の作業員が舟木さんに挨拶したと言ったね。錠前取り付けの作業員と面識があるということは、舟木さんはごく最近錠前の取り付け作業を依頼し、くだんの鍵、デザインの統一されたディンプルキーを手に入れている可能性が高い。まず、舟木さんは今日の午前十時以前に横嶺さんの部屋を訪れた。そしてカーテンを閉め、横嶺さんを銃で脅し、ガラス戸の前に立たせた後、射殺した……。そのとき、横嶺さんが倒れた拍子にカーテンに血が跳ねたんだ。そして、舟木さんは自分で用意した鍵に横嶺さんの指紋を付け、遺体の傍に置いた。つまり、遺体の傍に落ちていた鍵は横嶺さんの部屋の鍵ではなく、舟木さんの家の鍵だったんだ。そして銃の弾を込め直し、横嶺さんに握らせ、粘土が詰まった缶でも撃って弾丸を回収する。これで横嶺さんの袖からは硝煙反応が出る。その後は向かいのビルの屋上にまだ誰もいないことを確認してからカーテンを全開にする。部屋を出て横嶺さんの鍵を使って施錠し、鍵は所持したまま、舟木さんはその場を立ち去った」
「ま……待って下さい……」
 秋山がイヤイヤをするように首を振った。
「大事なのはここからだ。舟木さんはいち早く現場に到着し、その現場を担当する刑事となり、遺体の傍に落ちている鍵と隠し持っている鍵とをすり替える必要がある。まず、自分はこの近くにある行き付けのお店でスタンバイしておく。そして、向かいのビルの会社員に遺体をわざと発見させ、通報させる。十二時半といえばお昼休み時、舟木さんはその会社員が決まってあの時間、あの場所で煙草を吸うのを知っていたんだろう。だから、見付け易いようにカーテンを全開にしたんだ。狙い通り救急車が呼ばれ、舟木さんは偶然居合わせた体で現場を訪れた。そしてここでこっそり鍵をすり替える。すり替えのために使った小道具がハンカチだ。折り畳んだハンカチには最初から横嶺さんの部屋の鍵が隠されていて、遺体の傍にあった鍵をハンカチに仕舞うフリをしてすり替えたんだ」
「待ってって言ってるでしょう!」
 秋山が春日に掴みかかった。春日の背後にあった椅子が派手な音を立てて倒れた。
「待って……待って下さいよ……」
 声が震えている。
「秋山君……気持ちはわかるけど……」
「ちょっと先輩! なんなんですか、思わせ振りにアルミ、とか強調しちゃって! あんな風に言われたら何かトリックの方にアルミが使われたと思うに決まってるじゃないですか! せっかく推理が決まったと思ったのに、ボクメチャクチャカッコ悪いじゃないですかっ!」
「え! そこで怒ってんの!?」
 春日が驚愕に襲われる。
「何がですか!」
「あ、いや……君と同じ、刑事の舟木さんが事件の犯人なんだよ? もっとこう……ショックとか……」
「はぁ? ああ、まあ、はい。そうですね、そりゃショックですよ。すげえショック。やべ、涙出てきた」
「うわぁ。冷めてるぅぅ」
 春日はちょっとヒイた。
「いや、別に、舟木さんとそんなに親しかったわけじゃないしー。今日何でメシ誘われたか不思議なくらいだったしー。奢るって言われたから付いて行った、みたいな?」
「そ、そうなんだ……」
「で? 先輩、証拠はあるんでしょうね?」
 秋山の視線が冷たい。
「あ……はい……君が科捜研に分析を依頼した鍵……です……」
「あれがどうかしましたか?」
「うん。分析の結果、人間の指の油だけが検出されたと言ったね」
「それが舟木さんの指紋なんですか?」
「いや、それは横嶺さんの指紋で間違い無いよ」
「じゃあ、別におかしくないじゃないですか」
「いやいや。指の油の他に、検出されなければおかしいものがあるんだよ」
「おかしいもの?」
「鑑識の人が指紋採取の際に使用する、アルミ粉と松ヤニを混合した粉末だよ。序盤に出てきた描写を思い出してほしい。舟木さんが『窓枠をハケでなぞって指紋採取を行っていた鑑識員に問い掛けた』とある。現在、指紋採取の方法は幾つかあるけど、このことから皆さんには、アルミ粉末を使用する指紋採取法だったと判断して頂きたかった」
「先輩、一体誰に、何を言ってるんですか?」
「ああいや、気にしないで。というわけで、アルミの粉末成分が検出されなかったこと、つまり、『指紋採取用の薬剤』が検出されなかったこと自体が、鍵のすり替えが行われたという証拠なんだよ。アルミの粉末を付け忘れたこと、また、事件の現場に現れる刑事はベテランと若手のコンビ、というお約束を遵守したのが舟木さんの敗因だね。一人で現場に来てたら成功の確率が上がったかもしれない。ひょんなことから君が自殺に疑問を持ってしまったわけだからね」
「なるほど。まあアルミがアレなのは分かりましたけどぉ……でもなぁ……今回判断材料も少なかったしぃ、アンフェアだなぁ……」
 秋山は明後日を向くと、『卑怯者……』と呟いた。
「ちょ! 今回はこういうシナリオなんだから仕方ないじゃないか! 僕が文句を言われる筋合いは無いよ!」
「ふう……まあいいですよ。ところで、ドアを破った形跡や横嶺さんが抵抗した様子が見られないのは、舟木さんを部屋に招き入れたのは横嶺さん本人、即ち、二人は顔見知りの間柄であった、ということになるんでしょうか?」
「うん。そうだね。まあ、銃を突きつけられて抵抗も何もないけど。二人が知り合いで、何らかのトラブルがあったのは確かだろう。……じゃあ詳しくは本人に聞いてみようか…………教えてくれますか? どこかで聞いてるんでしょう? 舟木さん」
「えっ!? き、聞いてるですって!?」
 秋山が驚いて辺りをキョロキョロと見回す。
「盗聴器だよ。用意周到な舟木さんのことだ、どこかに盗聴器を仕掛けて君の様子を窺っていたはずさ……」
「……そうですか……それならボクから一言言わせて貰いましょうかね。……舟木さん。どんな事情があったか知りませんけど、これシャレになんないッスよ……ボク等刑事が法律守らなかったら、一体誰が法律なんて守りますか!? シャレになんないですよ舟木さん……お願いですから……ほんとお願いですから……自首して下さい……」
 秋山の呼び掛けが静かに響いた。

 結局のところ、部屋に盗聴器は仕掛けられていなかった。
 その後、舟木は白○屋で一人祝杯を挙げているところを同僚の刑事達によって逮捕された。
 取り調べで、舟木は警察が押収した薬物を横領し、横嶺に捌かせていたことが分かった。最初は軽い気持ちで小金を稼いでいた舟木であったが次第に怖くなり、押収品に手を出すのを止める決意をするが横嶺はそれを許さず、そのことをネタに脅迫してきたため、これが殺害の動機に繋がった。
 アルミ粉末の付着した鍵は舟木の所持品から発見され、殺害に使用された銃は警察の押収品から持ち出された物だということもわかった。

トリック☆ブレイカー 1話~10話

読んで下さって、本当にありがとうございました。

トリック☆ブレイカー 1話~10話

  • 小説
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  • ミステリー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-23

CC BY-NC-ND
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