バスタイム
ああ、暑い。
これだから夏は嫌いなんだ。若い奴らはみんな海に行ったり花火を見たりしてはしゃいでいるが、うるさいことこの上ない。俺達にはそんな暇は無いんだよ。
「帰ったぞ」
「あら、お帰りなさい」
あら?あらって何だよ。
疲れが溜まり、それに蒸し暑いせいか、ほんの些細なことでも俺の導火線に火をつける。俺が不機嫌そうな顔をすると、40年連れ添った妻が眉間に皺を寄せた。
「飯は?」
俺が尋ねると、
「ええ? 何で連絡してくれなかったんですか?」
「こんなに長く一緒に居て、そんなこともわからねえのか!」
「何ですかその言い方は?」
ああ、また始まった。こうなると自分たちではどうにも出来ない。お互い負けず嫌いだから、どんどんヒートアップしてしまうのだ。
「誰のおかげで今まで食えてきたと思ってるんだ!」
「あなたの力だけじゃないでしょう!」
「貴様あっ!」
口喧嘩から取っ組み合いの喧嘩に発展しそうになった、そのとき。
「うるせえんだよ!」
18になる息子だった。生まれたばかりの頃はちんちくりんで、髪の毛もパーマをかけたみたいで、つぶらな瞳も本当に可愛かった。それが今は、身長は俺を超え、髪の毛も金色。毎日バイクにまたがって町中を暴走してるときたもんだ。口調もこの通り、かわいげが全くない。
「いつまでも騒いでんじゃねえよ屑。もっと稼いでから文句言えよ」
何で、何でお前みたいな大バカ野郎に言われなきゃならねえんだ。
「おい! ちょっと待て!」
「何だよクソジジイ!」
今度は息子と取っ組み合いの喧嘩に。この歳になって、隣近所のことも考えずに大暴れするなんて。自分でも恥ずかしいとは思っている。だが先に言った通り、1度スイッチが入ると自分では止められなくなるのだ。
「こんの、クソガキィ!」
「何すんだこの野郎!」
「ちょっと! ちょっとやめてええっ!」
「うおおおおおおっ!」
……
30分後、喧嘩が終わり、俺は風呂へ直行。こう蒸し暑い日は風呂で汗や汚れを流すのが1番だ。それに水は、俺の嫌なことを全て洗い流してくれる。今日はずいぶん疲れが溜まっている。特に腕の筋肉痛が酷い。
それにしても、いつからああなっちまったのかなあ。結婚当初は、もっと幸せな日々が続くと思ってたのに。一緒に住み始めてからはどうも妻の嫌なところばかり目につくようになった。掃除はろくに出来ない、飯もそんなに美味くない。洗濯物は何故か生臭い。以前会社で知り合ったころはそうは見えなかった。騙されちまったなあ。
息子も、まあ小学校の頃まではまだ可愛らしさが残っていた。完全に無くなったのは中学に上がってからだ。きっと、悪い仲間と付き合ってたんだろうな。タバコを吸いはじめて、酒にも手を出して。中3で万引きをやらかして、スーパーに呼び出されたことがあった。ぼちぼち潰れそうな店だった。そこで散々怒られちまった。あいつはその間ずっと不機嫌そうに俺と店長のやりとりを見ていやがった。全く、誰のせいでこうなったと思っていやがる。
高校に上がると、俺や妻に対する暴力、暴言はますます酷くなっていった。毎日「クソジジイ」「酒買ってこい」の繰り返し。午前中は学校に行かず、夜になるといつの間にか買ったバイクに乗って知り合いのチンピラ共とドライブに出かける。バイクは俺達の金からいくらか拝借したのだろう。いつだったか生活費が一気に無くなったことがあった。俺が問いつめると、あいつは
「知らねえよ!」
と怒鳴って俺の胸ぐらを掴んできた。怯みながらも息子に言い返すと、
「うるせえんだよ! どうせキャバクラに使ったんだろ!」
とこうだ。もちろん、俺はキャバクラには行っていない。だが、精神がおかしくなってた妻は、アイツの言葉を信じたんだ。
「あなた、私を捨てたの?」
その後はもう大変だった。ヒステリーを起こして俺に飛びかかってきた。皿、フォーク、しまいには椅子まで、色んなものが飛んできた。そのうち幾つかが息子に直撃して、息子も争いに参加してきた。アイツは力持ちで、妻には投げられないような物をバンバン投げてきた。その日はマンションの大家が警察を呼んだらしくて大騒ぎだった。
シャワーで汚れた体を洗い、湯船につかる。水面をよく見ると垢が浮いている。俺は一番最後だったのか。湯船の外に目をやると、所々赤黒いシミが出来ている。全く、ここも掃除出来ていないじゃないか。
大喧嘩のあと、俺は町中の占い師と会話していた。こういうものは信じないタチだったが、あそこまでくると神様でも何でも、超自然的なものにすがりたくなってくる。
「この前も、家の中で色んな物が飛んで、俺が疑われて……万引きのときも俺が怒られて……」
これまでの苦悩を全て占い師に打ち明ける。すると相手は、
「それです」
「え?」
「あなたは常に、自分のことを第1に考えているのです。息子さんも、奥さんも、あなたがその考えを捨てれば必ず戻ってきますよ」
その瞬間、頭の中で何かがはじけた。不思議だ。あの時は全く聞く耳を持たなかったのに、今ではあの占い師の言葉が神々しいものに感じられる。
そうだ、俺は常に自分が中心だと考えていた。飯もそう、家事もそう、この風呂もそうだ。何でもかんでも、俺が先でなければ気が済まなかった。妻と息子はそんな俺が嫌いだったんだ。だから犯行することで、俺に気づかせようとしていたんだ。
俺は馬鹿だ。家族の気持ちもわかってやれないなんて。湯船につかっている場合ではない。
「今、今行くからな」
体を大急ぎで拭いて、適当に近くに放ってあったシャツを着、ズボンを履く。どうもシャツは洗濯前だったらしいがそんなことはどうでも良い。それよりもまず、家族に謝らなければならないのだ。
頭も乾かさずに、俺は風呂場から出てきた。出来る限り、優しい笑みをつくって。
「2人とも! すまなかった! 俺が、俺が……」
部屋がめちゃくちゃだ。床は赤い血のコーティングがなされている。
「ど、どうした?」
血の流れてくる方向を目で追っていく。テーブルの下からだ。おそるおそる下を覗き込むと、そこには頭の割れた女性の遺体が。妻だった。
「うぅっ!」
驚いてのけぞると足に何かが当たった。見ると、同じように頭の割れた男の遺体が。息子だった。
「おい、おい!」
いったい何が? 俺が風呂に入っている間に……風呂に?
そのとき、俺の脳裏にある光景が浮かんできた。
妻と言い争いをしていて、そこに息子が割って入った。喧嘩はだんだんエスカレートしていって、息子はいつものように金属バットを持ち出した。
「くそ野郎! ぶっ殺してやるう!」
「やめろおおっ!」
それで、いよいよ頭に来ていた俺は、向かってきた息子に足をかけて転ばせ、バットを奪い取って……そうだ、殴ったのだ。腕を振り上げ、何度も何度も、兎に角動かなくなるまで。
「やめて! やめてえええ!」
妻はそれを止めようとした。俺の腕を押さえて。
「お前、俺を裏切るのかあ!」
今度は妻を殴り始めた。初めは何か叫んでいたが、徐々にその声も弱まって、そして絶命したのだ。
俺はとりあえず妻の遺体をテーブルの下に隠した。疲れてしまって、息子の方は隠すことが出来なかった。その後、汚れた体を奇麗にするために、俺は風呂に入った。赤黒い血はすぐには落ちず、いくつかは風呂場の床にこびりついてしまった。
「そうか、もう遅かったか」
汗も汚れも、嫌なことも全部水に流したつもりだったが、まだこびりついていたみたいだ。
バスタイム