血に潜むいろは歌

 「傘持っていきなさいよ。夕立が来るって、天気予報でも言ってるんだし」
 玄関で靴を履きながら母の声を背に受け、僕は、分かってる、のサインのつもりで顔の高さで左手を振る。母の声に気付いたのか、従妹の彩華(いろは)が駆け寄ってくる。
 「祐樹兄ちゃん、そんな格好して夏祭り行くの?」
 そうだよ、と僕が答えると、いいな、いろはも連れてって、とねだり始める。少し困った顔をしている僕を意地悪そうに母が見ている。
 「祐樹兄ちゃんは今日はだーいじなデートなんだから、いろはは邪魔しちゃだめよ」
 「えーっ、いろはも祐樹兄ちゃんとデートしたーい」
 9つ離れている従妹の彩華は、僕を本当に慕ってくれる。だからこそ、こんな時の扱いには困ってしまう。それを知ってにやにや笑いを浮かべている母も、個人的にはどうかと思うのだが。その母が助け舟を出してくれる。
 「いろはちゃん、お兄ちゃんが出かけてる間に、美味しいスイカを食べましょうね~。お兄ちゃんは食べられなくて残念ですね~」
 「えーっ、ならお兄ちゃんの分はいろはが取っておく!」
 そんなやり取りを聞きながら、何とか家を後にした。
 待ち合わせ場所の八幡神宮前の広場は、もう既にたくさんの人で溢れかえっていた。そして広場には、今日の花火を見る人たちを目当てに、多くの屋台が出されていた。この広場は、割と高台にあるため、ここから眺める花火を見に来る地元の連中は結構多いのだ。祭りに定番のたこ焼き、焼きそば、お好み焼き。綿菓子なんかもある。何も祭りと関係のないような、アニメのキャラクターのお面まで売り出されている。誰が売り出したものだか知らないが、子供連れの親がせがまれているのを見ると、需要はあるんだな、と思う。
 ふと気づくと、そのアニメのお面―オバケのQ太郎のお面―を被った女性がこちらに向かって歩いてくるのに気付いた。紫地に白抜きの朝顔の柄の振袖姿である。顔こそふざけているが、体のしなやかなラインから、僕にはこの女性の正体が分かった。
 「10分遅刻」そういいながら、女性は仮面を外した。朱音(あかね)だった。
 「ごめん。ちょっと出るのに手間取っちゃってさ」
 「いろはちゃんでしょ。いいよ、大事なお兄ちゃんを取っちゃってるもんね」
 僕たちは、屋台を回りながら、色々な話をした。お互いの姿の褒め合い。取りあえず天気が持ってくれている事への感謝。共通のクラスメイトの話題。来年に控えた高校受験をどうするか。やがて、口数が少なくなる。しかし、僕はその口数の少なさを心地よく思う。
 雑談に花を咲かせていると、曇り空に花火が上がる。花火が見え、一瞬遅れて、どおん、という音が聞こえる。
 「きれい…」そういう朱音の横顔を僕は見つめていた。
 「あかね、ちょっと話があるんだけど」
 10発くらい花火が上がっては消えするのを見た後、僕はそう切り出した。
 僕たち二人は八幡神宮の石階段を無言で登った。この石階段は、曲がりくねった形をしながら、全部で200段にもなる長い階段だ。学校でマラソンをする時のコースになったりもして、結構地元ではその長さを知られている。
 一番上までたどり着き、少し上がった息が落ち着くと、僕は朱音にこう言った。
 「少し、目を瞑ってくれない?」
 朱音は言われるがまま目を瞑る。僕は、何か別の期待をしているだろう朱音の体を思い切り階段から突き落とした。朱音の体が宙を舞う。宙を舞う彼女と一瞬目が合う。その瞳は驚きの色に満ちていた。朱音の体は何度も階段の角に体をぶつけながら、30段くらい転げ落ちただろう。彼女の体は、やがて階段の曲がり角で手すりに引っかかる形で止まった。
 僕は息を弾ませて朱音を追った。途中、オバQのお面が転がっている。僕はそれを階段脇に蹴飛ばし、朱音の元に辿り着いた。
 遠くから花火の音が響いている。朱音の体は『くの字』に曲がり、耳からは細く血が流れ出している。頭を打ったのだろう、意識を失っている。パッと見でも、少なくとも右腕と左足が折れていた。口元に手をやると、息はしているようだった。全て自分の思惑通りに行った―そう思うと、何より嬉しかった。
小さい頃、虫を『飼って』いた時以来の快感。親に『昆虫博士』などと言われるほど虫を飼っていた僕の本当の趣味。趣味、というより、性癖、と言ってしまった方が良いのかも知れない、と、今は思う。カブトムシだったら、六本の足の先の鉤爪を切り取り木にしがみつくことを出来なくする。トンボだったら、羽をむしってその飛行能力を奪う。そうやって、その昆虫を自然界では生きていけない体にする。つまり、僕の力が無ければ生きていけない状態にして虫を飼うのだ。カブトムシはそれでも木に登ろうとするし、トンボは、無い羽根を羽搏かせて飛び立とうとする。そんな姿が堪らなく愛おしかったのである。少し離れた場所に餌を置いただけで、その不具合のある体では一生懸命になっても餌にありつけない愛おしさ。朱音。ああ。朱音。大丈夫だからね。朱音がどんな体になっても、僕がこれから面倒を見るからね。僕は救急車を呼ぶのも忘れて、幼いころから誰にも打ち明けられなかった秘密を行動に移すことが出来た喜びに浸っていた。
 そんな思いでどれほど朱音を眺めていただろうか。そろそろ救急車を呼ぼうか、と思った瞬間、轟音が鳴り響く。さっきまでの花火の音とは違う。雷である。ぽつ、ぽつ、と雨が降ってくる。僕は慌てて朱音に雨が当たらぬよう傘をさしかける。しかしどんどんと雨足は強まり、やがて水滴が階段を弾いて跳ね返って来るほどになって来た。僕は少し朱音が心配になり、誰かいませんか、人が倒れているんです、と叫んでみた。が、返事が返ってくる様子はない。これだけの雨である。仕方ない。朱音を担いで降りていくしかない、と思い立ち上がった。その瞬間。
 僕は何者かに後ろから突き飛ばされた。受け身を取る間もなく、体が石の階段の角に叩きつけられる度に激しい痛みが僕を襲う。そうやって何10段か転げ落ち、ようやく体が止まった。体中が痛い。立ち上がろうとしても、腰から下に力が入らない。僕は、痛い、痛い、と呻くことしか出来なかった。
 僕に誰かが近寄ってくる。足音は僕の顔の前で止まった。必死で見上げると、顔はオバQの仮面で覆われ、誰かは分からなかった。僕はその足にしがみつき、救急車を、救急車を呼んでください、と必死で訴えた。しかし仮面の主は何も動こうとしてくれない。その気配に、僕は仮面の主は僕の訴えを無視しているというよりは、まるで理解してくれていないように思えた。やがて、薄れゆく意識の中で、聞きなれた声で小唄を口ずさむのが聞こえた気がした。
 「ゆうきにいちゃん。うれしいな。わたしだけのゆうきにいちゃん。」

血に潜むいろは歌

血に潜むいろは歌

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-07-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted