宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第十六話
まえがきに代えたこれまでのあらすじ及び登場人物紹介
金子あづみは教師を目指す大学生。だが自宅のある東京で教育実習先を見つけられず遠く離れた木花村(このはなむら)の中学校に行かざるを得なくなる。木花村は「女神に見初められた村」と呼ばれるのどかな山里。村人は信仰心が篤く、あづみが居候することになった天狼神社の「神使」が大いに慕われている。
普通神使というと神道では神に仕える動物を指すのだが、ここでは日本で唯一、人間が神使の役割を務める。あづみはその使命を負う「神の娘」嬬恋真耶と出会うのだが、当初清楚で可憐な女の子だと思っていた真耶の正体を知ってびっくり仰天するのだった。
金子あづみ…本作の語り手で、はるばる東京から木花村にやってきた教育実習生。自分が今まで経験してきたさまざまな常識がひっくり返る日々に振り回されつつも楽しんでいるようす。だったのだが…。
嬬恋真耶…あづみが居候している天狼神社に住まう、神様のお遣い=神使。一見清楚で可憐、おしゃれと料理が大好きな女の子だが、実はその身体には大きな秘密が…。なおフランス人の血が入っているので金髪碧眼。勉強は得意だが運動は大の苦手。
渡辺史菜…以前あづみの通う女子校で教育実習を行ったのが縁で、今度は教育実習の指導役としてあづみと関わることになった。真耶たちの担任および部活の顧問(家庭科部)だが実は真耶が幼い時天狼神社に滞在したことがある。担当科目は社会。サバサバした性格に見えて熱血な面もあり、自分の教え子が傷つけられることは絶対に許さない。無類の酒好きで何かというと飲みたがる。
(登場人物及び舞台はフィクションです)
1
このはなこども憲章
たにんのいけんをよくききましょう
じぶんとちがうかんがえやいけんをそんちょうしましょう
はだのいろやせいべつ、かんがえかたのちがいなどで、ひとをさべつするのをやめましょう
よいことをしたひとはほめましょう
ひとにながされず、じぶんがよいとおもったことをすすんでしましょう
こまっているひとをたすけましょう
こまったときには、ひとにたすけをもとめましょう
2
乾燥しきった冬の北風は枯れた木々を容赦なく締め付ける。外には彩りに乏しい風景が広がり、生き物の気配はなりを潜めている。部屋の中は適温こそ保ってはいるが、窓にぶつかった冷気はそれを少しずつ奪い去り、エアコンがフル回転で抗っていることをその運転音が響くさまで示している。
私はずっと、家にこもっていた。受験したすべての教員採用試験に失敗し、かといって今から民間企業を探す気力も無ければ準備もしていない。自然といろんなことをするモチベーションは消え、自室で何をするでもなく過ごす。テレビがつけっぱなしになっているが特に何が観たいわけでもない。部屋を出るのは食事と風呂の時くらいのもので、その頻度すら少しずつ下がっていたし、用が済めばさっさと撤退する。そんな私を家族は皆腫れ物に触るようにしている。
友達からメールが来ていたし、遊びの誘いもあった。でも私はそれらを避けていた。卒業旅行も決まっていたが、キャンセルした。友達はなんでといぶかしがるが、まだ就活あきらめていないから、面接いつでも受けられるようにしておきたいから、と答えていた。
嘘なのに。
本当は、これ以上就活をする気力など無かった。当たり前だ。外出が出来ないどころか家族と顔を合わせることすら億劫なのに、人に自分の強みをアピールすることなど出来るはずがない。度重なる不合格通知で、私の私自身への信頼は地に落ちていた。
なにが、いけなかったのだろう?
面接のとき、切り札にしている話があった。教育実習で得たものはありましたか? 定番の質問だ。集団面接だと他の受験者は緊張しながら答えているが、私がこの質問をぶつけられた時はかなりリラックスして答えたと思う。だって木花中学校での教育実習はものすごく得るものが多かったと自覚しているからだ。
その中から、私はこんなエピソードを話していた。
木花中の生徒には名札が無い。制服にピンで止めるやつも、運動着に縫い付けるやつも、どちらも無い。
「だって、必要無いだろ?」
渡辺先生の答えはシンプルだった。
「生徒の名前なんか、覚えりゃいいだろう。つかそれくらいの努力もしないってのは教師の怠慢だろ? せめて在籍中の生徒は全員顔と名前を一致させなきゃダメだ」
確かにそうだと思った。そう考えると、私が今まで経験してきた高校以前の学校の先生方が怠慢ということになってしまうが、それは個人の問題ではなく、組織としてそういう怠慢を許してきたということなのだろう。
だから私も、生徒の名前をきちんと覚えることにした。クラスの集合写真をもらった。その上から透明なプラ板を重ねて名前を記入していく。その後はプラ板を外した状態で生徒の名前を思い出せるか自己テストし、プラ板を再度重ねて答え合わせ。これを繰り返した結果、一日でクラス全員の顔と名前が一致した。
「おっ、素晴らしいな。こういう地道な努力が大事なのだよ」
渡辺先生にもほめられた。他の先生方にも概ね好評を得た。だからこれは良い努力なんだと実感した。そしてこれは別の質問にも応用出来る。
「教師になったら、どんなことしたいですか?」
「はい、名札を無くしたいと思います」
答えが見られるのでは、覚える努力をしなくなる。私はすべての先生が生徒の顔と名前を一致できるようにし、またその努力をしている先生がしていないと思われないようにしたい。この答えも概ね好評だったと思う。
「良いお答えですね。目的がはっきりしているのは良いことです」
こんな反応をいただいたこともある。一緒に面接した人たちからも、しっかりした答えだとほめられた。
それなのに。
私は合格しなかった。だからどんどん手を変え品を変え、木花中で体験したことを話していった。自由と自律をモットーとした校風の中でのびのび育ち、自分たちのしたいことに熱中する、心優しく、朗らかな子どもたち。彼ら彼女らに接することのできた喜び、そして、彼ら彼女らのような子どもを一人でも多くこの手で育てたい、木花のスピリッツを広めたい、そういう大きな夢を語った。
それも虚しく、私に合格通知は届かなかった。繰り返すが、面接は練習段階では上手く行っていた。もちろん練習と本番は違うし、相性みたいなものもあるし運にも左右されるから、数は打てというアドバイスももらっていたし、実際その通りにしたつもりだ。同じく教員志望のクラスの仲間、その誰よりも多くの県や学校を受験している。そして私より少ない数を受けた子達はしっかり合格切符を手にしている。
なにがなんだか、わからなくなっていた。私が今までやってきたことの何がいけなかったのだろうか? 努力は報われないのだろうか? 私は、呪われてでもいるのだろうか?
そんなことを考えながら、悶々としていた。家族との会話もほとんど無くなっていた。家族もそれを察して、私に話しかける機会はどんどん減っていった。だが。
「あづみ、あづみ! 聞いてる? 起きてる?」
母だ。本当を言えば返事などしたくなかった。だけど反抗期の子どものように、
「うるせえババア!」
などと言う勇気が無い。のそのそとベッドを出ると、玄関めがけて歩きはじめた。
3
私は、息を呑んだ。そこには、懐かしい顔があった。
「金子、久しぶりだな」
革のライダースーツの上から防寒ジャケットを着込み、小脇にフルフェイスのヘルメット。
「木花は雪だったが、やっぱり東京は乾燥してるな。北風がかえって寒い」
「聞いたことあるだろ? 真耶…嬬恋がハンバーガー食べられないの。ところがあいつの唯一食べられるハンバーガーチェーンの一号店なんだよ。金子が成増だと聞いて、一度来てみたかったんだ」
団地の大家族である我が家にはまともに客人を迎えるスペースが無いので、私たちは駅前のハンバーガーショップへとやってきていた。例によって奢られる身が遠慮するの禁止とばかりに、ハンバーガーながら高級素材を使ったやつを半ば当然のように注文させられた。でも実際ここのは美味しいので甘えることにする。
私は思い出していた。木花村でのある日のことを。教育実習も半ばに差し掛かった頃、職員室で先生と語り合った時のことを。
「名札が無くてもすべての子供を顔見ただけで分かる教師になりたいです!」
「うん、いい心がけだ」
あの時渡辺先生は、すべての生徒の名前を覚えたいという私の意欲を褒めてくれた。だからこそ私はそれを面接での切り札にした。だからこそ、聞きたかった。
「なぜ、あのエピソードを話しても、受からなかったのですか?」
でも、聞けなかった。「面接は一つの質問に対する一つの答えだけで決まるものではない」というのが分かっていたからというのもある。でもそれだけじゃない。怖かったのだ、答えを知るのが。何が怖いのかと聞かれても困るが、何か自分の弱点とか間違いとかを指摘されることは分かっていたし、今の私がそれに耐えられるとは思わなかった。
ここまできて、私が沈んでいる感じなのかと思えばそうでもない。渡辺先生を前にして、表面上の私は自分でもびっくりするほど明るかった。家族の近況、大学でのこと、木花中での思い出とかを饒舌に喋っていた。
最近やってたことといえば、家でテレビを観ていたぐらいなのに。
無理やりエピソードを絞りだすようにしていた私に気づいたのだろう、先生がぼそっと言った。
「金子、無理しなくていいんだぞ」
そう、私は無理していた。就活の失敗のせいで事実私の気持ちはかつてなく落ち込んでいた。でもそれを人に見せたくはなかった。だから先生の前でも私はつとめて明るく振舞っていた。最初から泣き言を言えれば良かったのに、その勇気が無かった。
困ったときに、助けてと言えるのは、きっと精神の強い人だ。
「クラスの子達と、うまくやっているのか?」
ただ、先生も私に気を使っていたのが見え見えだった。質問が、核心を突いていない。
「ああ、平気ですよ? あまり遊んでないように見えます? いやあ、卒論とか試験とかで疲れて外出するのメンドいだけですよ、あはは」
でもそれに気づいていながら、うわべだけの返答をする私も私だ。
私は驚くほど強がって、取り繕っていた。自分が窮地に立たされていることを知られるのは、なんか嫌だった。
「…先生、学校は…」
「…金子。今日は日曜だぞ?」
ああ。他愛ない日常話の延長のつもりだったのに、すっかり曜日感覚が無くなっていたことを暴露してしまった。それはどう考えても外界と隔たった生活をしていたせいなのだが、その弁解をする間もなく先生が言葉を継いだ。
「まあもっとも、もうすぐ平日の休みってのもあるけどな。寒中休みってのがあってな」
二月。もっとも寒い月。ときに東京ですら雪が降る月。まして山深い雪国では冬の厳しさは言葉に尽くしがたいほど。だから寒冷かつ他雪の地域にある学校では冬休みとは別に休暇が設けられた。それは近年、暖房や交通網の発達などで無くなってきているが、木花村には残っている。それだけ寒さが厳しいということだ。
と、いうのは建前。いや、寒さが厳しいのは事実だ。だが降雪量は日本海に面したあたりと比べれば少ない。だから木花村に限って言えば寒中休みが残された本当の理由は別にある。それはかの地が観光立村であるということ。年末年始と重なる冬休みは大人たちは勿論、家業が観光業だったりすると子どもも大忙し。だから都会の休みとずらしたこの時期に休みを設け、レジャーにいそしみながら家族の絆を深めてもらおうというわけだ。
「へえ。でも、いい習慣ですね。なんか木花村ってそういう楽しい決まりが多いですよね。ちょっと、変わってますけど」
そう。木花中での教育実習はカルチャーショックだらけだった。梅雨にはレインコートで通学することに情熱を燃やし、夏は男子も女子も泥んこになって運動会。秋はハロウィンに文化祭と仮装イベントがてんこもり。でもそういう奇抜なイベントごとよりも、実は私は、もっと日常のあり方に驚いていたのだと思う。
あまりに自由で創造的でありながら、それでいて自律心を持つ良い子たちの日常は、あまりにも平和で、それでいて楽しい。そういった環境はまさに子どもたちが作り上げたものだし、そういった子どもたちを育む土壌がこの村には有り、学校教育もそれをしっかり受け継いでいる。
「なんで、いけないのでしょう…」
思わず自分から墓穴を掘ってしまった。そんな素晴らしい子どもたちと、そんな子どもたちを育んでいく村の教育。それに触れて少しでも近づきたいと思う私の主張は、なんでいけないのだろう。勿論そこまでは言っていない。でも、先生にはその心が通じてしまったようだ。
「…なあ、もしかして、面接でそのこと言ったか?」
「はい、言いました」
隠す必要もないので私は正直に白状した。恥ずかしいので、先生との模擬面接のときは言わなかった事も含めて。
「もちろん、これも言いました。木花中は個性的な教育だけど、その分教師は大変だって。でもその中で過ごしたことは、自分にとって大きな自信です。もちろん奢ってはいません。この経験を糧に、さらに精進する所存です、と」
いつの間にか、私は雄弁になっていた。そう、あの時と同じだった。面接で質問に答えている時、自然と高揚してきたときのそれと。
でも、ふと我に返った。目の前で、先生が天を仰いでいた。
「あのな…名札の役割について…金子は勘違いしてるぞ」
その体勢から立ち直ると、半ばあきれたという顔で先生はおっしゃった。
「あれは名前を知るためではない。生徒の所有権を示すようなもの、管理の象徴だ」
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「先生はどうして、先生になろうと思ったのですか?」
私は教育実習中のある日のことを思い出していた。
「私か? う~ん…なんでだろうな?」
拍子抜けする返事だった。それに先生の言動は、私が生徒だった頃からそうだったが、先生らしくない部分が多い。教師という仕事は色々縛られる部分も多いと思う。私はそれも承知で教師を志望しているが、先生は自由人というイメージだ。それがどうして? と思ったのだ。
もしかして、なろうという意志が無くてもなんとなくでなれる職業なのか? いや、そんなことはあるまい。それとも、先生の中でそこは触れられたくない、答えたくない部分なのか…。困惑する私の様子を察してか、こんな答えをくれた。
「あ、なんでここの教師になれたか、という問いなら答えられるな。御存知の通り、私と嬬恋は古くから知った同士だし、もともと賢い良い子だったからな。教職課程を取り始めてからも、嬬恋を一度教えてみたいとは思っていたよ。この村の雰囲気も気に入っているしな、自然も文化も人間も」
しかし公立学校の配属は自分の行きたいところに好きに行けるというものではない。まぁ大体の希望は聞いてもらえるかもしれないが、それが通る保証なんてどこにもない、はずだ。しかし。
「言ってしまうとだな、私が木花中を希望した時点で通っていたんだよ」
先生の答えはあまりに意外だった。
「そんなことあるんですか? だって中学校でも教師は県の一括採用で、そこから配属が決まるわけですよね?」
「もちろん初任者研修とかいうカッタルイのは他の中学で受けたぞ? でもそのあとは木花中に決まっていたようなもんだ。まぁ前任校が私を追い出したかったのもあるだろうが」
先生はそう言うと舌を出した。そしてそのあと、
「それよりも大きな理由。木花中に赴任するのは誰もが嫌がるんだよ」
「こんないい学校なのにですか?」
なるほど、教師の誰もが赴任を嫌がる木花中という中学校がある。ところがそこに自ら志願して行きたがる教師、渡辺先生が現れた。人事担当の人にしてみればこれほど好都合なことはない。希望がすぐ通るというのもよく分かる。だが分からないのは、木花中に行きたがらない教師がいるという事実だった。
「いい学校だからだろ」
しかし先生の答えは、私をなおさら混乱させた。いい学校だったら、先生も行きたがるはずなのでは? むしろ人気殺到で高倍率になるはずだ。
「子供に何かを教える、ということに関してはここは最高の環境だ。なにしろ教師に降りかかる色んな雑事だのトラブルだの、親と地域がみんなやってくれる。例えば黙ってても誰も廊下を走らないだろ? 危険なことはしない、他人様の迷惑になるようなことしない、そういうことをちゃんと教わってから学校に来てくれるからな」
先生の説明は私の頭を尚一層混乱させた。要はしつけができているということ。だとしたら教師は生徒指導に時間をとられること無く、授業に専念できる。われわれが思い描く教師という仕事を存分に出来る、最高の環境ではないか。
「他所様の子供でも叱り飛ばす大人ってのが健在でもあるしな。そのかわり良いことをしたら褒める。日本人には照れくさくて難しいことだがな。あと大きいのは宗教だろう。嬬恋の家もそうだが、他にも寺院や教会が敬われ、宗教者の側も地域のために尽くしている。その関係が上手く回っているんだ」
「でもそれなら、なおのこと木花中が敬遠される理由が…」
我慢しきれなくなって、私は口を挟んだ。先生は飛ばしすぎたか、とつぶやくと、急に声を小さくして言った。
「この村はあまりに他の地域とは違うんだ。ここのルールが他で通用するとは限らない。例えば…」
「例えば?」
「せんせーい、ここ教えてくださーい」
私が先生に具体例を聞こうとしたそのとき、質問にやってきた生徒がいたのでやり取りは途切れた。だがそこからのやり取りこそが、今思えば私の問いへの答えだったのだ。
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「授業の時思わなかったか? みんなすごく積極的だって」
あのときの続きを始めたかのように、先生が私に問いかけた。夏前の木花村と真冬の東京がつながった気がした。
「私立は違うかもしれんが、大体の公立校って大変だぞ? 誰も授業を聞いちゃいないよ」
「でも熱心に授業を聞いてくれる生徒がいるなら、むしろ希望が殺到するのでは?」
こう反駁したとことで、あの日の出来事の続きを思い出した。その生徒は教科書を片手に、渡辺先生にこう質問した。
「先生! どうして幕府の出来た年が変わったりするんですか?」
鎌倉幕府の成立は一一九二年。長年そう教えられてきたが、学説の変化で一一八五年だとする見方が一般化してきた。それが納得行かないというのだ。
「うむ、それを説明しなかったのは済まなかった。もともと幕府という呼び名がなぜ産まれたかというとな…」
先生は懇切丁寧に教えるが、このあたりの事情はややこしい。でも先生は端折ることなく、丁寧に説明する。ときに質問を返したりして理解度を確認しながら。しばらくすると、その生徒はスッキリした表情で帰っていった。疑問が氷解したのだ。
「な? これが嫌な教師というのがいるのだよ」
生徒が授業を熱心に受けるからこそ、木花中の教師には教科書以上のことが求められる。そのことを面倒臭がる教師もいるだろう。私には到底信じられないことだが、教師という仕事を安易に考えればそうなっても不思議ではない。でもそんな怠惰な教師ばかりとも思えないし、何か別の理由があるように思う。
「まぁ…そういう教育が困難だ、ってレッテル張られた学校に赴任した教師はあの手この手で生徒を管理しようとする。決してそれを否定はせんけどな。それがやむを得ない事情もあるかもしれん。だがその手法を一律にあちらこちらで適用するのもどうなのかねえ…少なくとも、木花中にそんな管理ツールなんか要らんぞ」
「それなのに、なんで要らないものを使おうとするんですか?」
まだこの学校に教頭先生たちを始めとしてそういうものを使おうとしている一派があることはよく分かっていなかったが、今思えば先生の言葉にはそれが暗示されていたのだ。
「だって、管理したほうが自分を大きく見せられるじゃないか。私はこれだけの人間を思い通りに動かせる凄い存在なんですよ、とか何とか」
先生の論評は手厳しく、さらにこんなことまで付け加えられた。
「そして面白いことに、管理を良しとする教師と、生徒の疑問と向き合わない教師はわりと重なるんだ」
私にはわかる。今の私になら分かる。生徒を押さえつけようとするなら、他人と違う言動は邪魔になる。均一な「モノ」のほうが十人十色の「ヒト」より与し易い。それは授業とて同じ。教科書通りのレールから外れる生徒は往々にして他のレールも無視する。服装とか、遊びとかでだ。ましてや知的好奇心が広がっていけば自ずと誰かにとって都合が悪い真実にぶつかることだってある。それこそが、教師の権威を揺るがすものにほかならないのだ。木花村の子どもたちが悪い子なはずはないが、この「良い子」たちは教師の求める「良い子」と一致するとは限らない。
だからそこでようやく合点がいった。学校は管理をしたがるし、でもその本来的な目的(それが正しい方法とも限らないが)からすれば木花中にそれは必要ない。でも目的と手段は往々にして逆転する。管理をしたくてたまらない人々にとってみれば、自由と自律を旨とする木花の子どもたちも、それをよしとする大人たちも目の上のたんこぶってことになる。それは図らずも、自分たちのやり方がたったひとつの正解ではないと証明しているからだ。ましてや、そこでの教育を吸収し、それを実践しようとしている教師の卵が来たところで、選択肢はひとつしかない。
切り捨てる。
だが、出た答えを否定したい感情も同時に高まっていた。だから私はこう切り返した。
「でも、先生は生徒全員の名前を覚えた私を褒めてくれました」
声が震えていたことには気づいていた。だから先生は、優しく諭すように答えた。
「いや…私は素晴らしいと思う。だが…良いことと受け入れられることは別なんだ、この世の中ってのは」
「なんだ。結局私、不適格だったわけじゃないですか。夢見すぎなだけじゃないですか」
自分でも、ヤケになっているのが分かった。
「言ってくれればいいじゃないですか。あんたは教師なんて無理だって。教師になれる素質なんか無いんだ、って」
「なりたいと思っている人に、そんなの言えないだろう」
先生が取り繕うように言う。どっしり構えているイメージの先生が、明らかにうろたえているのが分かった。そこに追い打ちをかける私。
「何ですかそれ。なれない人間がなりたいと言っても、意味ないじゃないですか。それを中途半端に希望持たせて、残酷です。ああ、可哀相な私。このまま失望して、どうかなっちゃえばいいんだ」
分かっていた。。自分が無茶を言っていることも、単に困らせているだけだということも。でも、止められなかった。
「…ちょっと待て、自暴自棄になるな。今からだって何とかなるだろう? 教員採用は今年だけじゃない、それに教師ばかりが選択肢とも…」
「…本音が、出た」
「あ…」
先生の顔が青くなった感じがした。
「やっぱりそうじゃないですか。私に教師なんて出来ないって分かってたんじゃないですか。私が不器用だって分かっているでしょう! 最初から、そういうこと言ってくれればいいじゃないですか!」
私はまくしたてた。先生が黙っているのを良い事に、一方的に文句を叩きつけた。それでも先生は必死に言葉を挟もうとする。
「お、落ち着け金子。何か考えるから…」
「嘘ばっかり! どうせ何の考えも無いくせに! 考えなしだから私を実習に受け入れたんだ!」
「い、いや、それは誤解…」
「…誤解ですって? じゃあ何ですか、実習生を育てましたみたいなことでいいカッコでもしたかったんですか、教師としてハクが付くとでも思ってたんですか、結局私を利用しただけなんだ、そうなんですね、そういう人なんですね、先生は!」
私はばんと机を両手で叩くと立ち上がった。振動でコーヒーが少しこぼれた。
「もういいです! 二度と私の前に現れないで下さい!」
私は店を出た。怒りで完全に気が動転していた中、商店街を抜け、国道に出ると長い下り坂が続く。下りきったところにある小さな橋で立ち止まり、寒風に吹かれて我に返った。自分がやったことは、取り返しのつかないことだと理解した。高級ハンバーガーには手を付けないままだったが、もうどうでも良かった。
6
私は、極めて冷静だった。少しばかりこぼれたコーヒーを紙ナプキンで拭くと、金子が残していったハンバーガーをトレイに載せてレジに持って行き、持ち帰り用の袋を付けてもらった。ここのハンバーガーが冷めても美味いことは知っている。届けてやろうかとも思ったが、やめておくことにした。店を出て、駐輪場からバイクを出すが、走りだす意欲が無かった。私は駅前ロータリーから線路に対して斜めに伸びる商店街を、ゆっくりバイクを押しながら歩いた。金子を追いかけようと思えば出来たのだが、やめた。
金子が不合格になる理由、それは名札のエピソード一つに集約されることではない。一事が万事、そうなのだ。あいつは真面目すぎる。それは分かっていた。
金子の言うことはよく分かる。採用通知が来ないことから苦戦していることは知っていたし、真面目すぎるきらいがあることにも気付いてはいた。早めに引導を渡す手もあったろう。もう少し早く、彼女が名札のエピソードにこだわっていることに気づいていれば…。
いや違う。あのエピソードは、金子が教師として「不適格」であるということのひとつの象徴でしか無い。おそらくどんな答えをしたとしても、彼女が彼女である限り、教師として採用される可能性は限りなく薄い。残酷だが、そういうことだ。
それでも私は、金子に教師になって欲しかった。私は、彼女に自分の夢を託していた…違う。押し付けていたのだ。教師というのはタフな仕事だし、綺麗事ばかりでも済まない。ときには腹芸を使うこともある。生徒のためになることをしようとしても、それを自分の利のために邪魔してくる大人もいる。そこをうまくかわして、騙して、でも時には正面からぶつかって、ということを毎日やるスキルと度胸。少なくともそれをやろうとする覚悟。言い換えれば、自分が汚れ役になる覚悟。それが私の考える、教師に必要な資質。そしてそういう意味での「腹黒さ」があれば、面接突破など造作ない。あの場は騙しあいだから。
金子は良い子だ。ものすごく良い子だ。でも彼女は教師をやるには「良い子」すぎる。それは分かっていた。だがそれを指摘は出来なかった。金子を、私が利用して、いい気持ちになっていたことは否定出来ない。だが、もっと大きな失敗を私はしていた。
あまりに良い子すぎる金子に、ずるくなれ、とは言えなかったのだ。
7
やってしまった。
やってしまったやってしまったやってしまった。まさか私があんなに感情をあらわに出来る人間だとは思わなかった。しかも言ってはいけない最低なこと、恩を受けた人に対しそれを仇で返すような言葉。もう八つ当たりでしか無い。それは分かっている。
でももう遅い。私は取り返しの付かないことを言ってしまった。自己嫌悪で、どうかなってしまいそうだ。ふらふらした足取りで帰宅すると部屋にこもる。いよいよ何もする気が起きない。いろんなことが頭を去来するが、そのすべてがネガティブなことばかりだ。
先生は、どうしただろう? 当然怒っているだろうな。私のこと、もう生徒だなんて思っていないかもしれない。でもいい。あんなひどいことを言った私にはお似合いの、いや、むしろ足りないくらいの仕打ちだ。もう二度と会えないだろう。それでいい。そのほうが、お互いのためだ。
8
冬の季節風は都県境を超えるとなおいっそう堪える。寒空の向こうに見えていた秩父連山が近づいて来る。バイクを停めると私は歩き出す。
東京あたりに来たときは、帰りにここに寄ることにしている。ただ今回は日曜に思い立って来たものだから割愛するつもりでいた。その予定を翻したのは、こんなときこそあいつに会っておきたいと思ったからだ。
宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第十六話
一応続きものであり、どれだけの方が継続して読んでくれているかもわからないのですが(相当少数であることは分かっております。ありがとうございます)ようやくお待たせしましたという感じの続編です。
ちなみに教員採用試験の面接がどんなものかは実際知らないので、こんなこと聞かれるだろうな、という想像です。実際の学校の先生が腹黒い人ばかりではないですが、そこはフィクションということでご容赦願います。渡辺先生のようないい先生も出しておりますし、そこでバランスを取る感じでひとつ。