積み木が欲しい男
薄い包み紙を開けると腹がきゅうっと鳴った。パンにはさまれた肉に噛み付く。ふくよかなキツネ色のパンに、レタス、ピクルス、ハンバーグが挟まったこの食べ物を、世界中の人が愛している。午後三時。ビジネス街に緑を添える小さな公園のベンチに腰掛け、たった百円のハンバーガーと、同じく百円のホットコーヒーで小腹を満たす不幸ではない時間を男は過ごしていた。
膝の横で熱いコーヒーを冷ましておき、ハンバーガーを食べ終えてから、一口ずつ飲む。男は生ぬるいコーヒーが好きなのだ。足元の枯葉を横流しにする風は冷たく、長袖シャツに薄手のパーカーでは肌寒い。
マリンバの短いメロディーがズボンのポケットで鳴った。短いメールが携帯電話の薄汚れた液晶画面に表示される。夜の撮影は六時から。味気のないマネージャーからの業務連絡だ。
男の職業は俳優だ。映画のクレジットでは、だいたい三番目に名前が出てくる。若手俳優というにはとうが立ち、大御所というには身に重さが足りない。一七六センチの身長、陸上部で鍛えあげられた体、目は細く長く、鼻筋が通った日本人らしい整った顔立ちから、モデルにスカウトされ、俳優に転向した。モデルの仕事に飽きて、演技に興味を持ち、小さな劇団から経験を積んだ。
今年、三十五歳になる。
引く手数多の売れっ子ではないが演技の評価は高く、仕事は絶えずにあった。男の人生は現在だけを切り取れば、順調で不幸ではない。
男はハンバーガーの包み紙を、子供の拳大まで丸め、公園のゴミ箱に向かって投げた。ゴミ箱の淵に当たって転がった。男は立ち上がって拾い上げ、捨てる。またベンチに戻り、足を大きく広げ、手は腹の上で組み、空を見上げた。
男の整った顔には、拭い去られた後がある。かつてはあったものが消えてしまった空白がある。彼のかなしさを知らない者は、寂寥の顔が魅力的だという。
うろこ雲が空に広がっている。白い雲と青空の狭間から、遥か遠く、人知の届かぬ場所から、彼を見ている目があった。
「今日は彼に天使を遣わそう」
太い指で男を指差し、偉大なる神は言った。巨体に白い絹をまとい、銀の波のような髪が肩をおおっている。世界の作り手の顔は、まばゆい光である。人の子のように目鼻はなく光が顔なのだ。
「何故、あの男に奇跡をお与えになるのですが?」
神の裾元に控える、大きな羽根を背負う天使が言った。金の髪に美しい顔に、健康そうな体をした天使だ。
「あの男は私が今日見た人間の中で、一番不幸だ。幼き頃に家族を亡くし、俳優として成功したが、婚約者を亡くした。失われた家族の愛を取り戻そうとし再び失った、あの男の絶望は深い」
神は一日に一人、恵まれない者を救う。世界をざっと見渡して、たまたま目についた一人を選ばれる。選ばれた男よりも、不幸な者はたくさんいるだろう。裾に控える天使はそれを知る。神は知らない。
「では、あの男に天使をつかわしてやりましょう」
天使は己の羽根を一枚抜いて、雲間に落とした。羽根はきらめくと、羽根の生えた幼女の姿となって、地上へと羽ばたいていった。
地上に降り立つと小さな天使の羽根は消えて、白いワンピース姿の可愛いらしい女の子になった。
天使は軽い足取りで、ベンチで呆けている不幸な男に近付いた。男は天使に気がつかず、口を間抜けに開けて空を見上げている。
「ねぇ」天使が男に声をかけた。「おじさん、何してるの?」
すぐに返事はなかった。
「休んでいるんだ」空を見上げたまま、男は答えた。
「お仕事はしないの?」
「もうすぐお仕事だよ」
「わたし、あなた知ってる。俳優さんでしょ。テレビで見たよ」
「そう」
「あのね、私はあなたのこと、なーんでも知ってるのよ。お父さんもお母さんも、妹も、あなたが十才の時に死んじゃったのね。大好きだったお父さんとお母さん、妹も、火事で死んじゃった。あなただけ、生き残ったのね」ぺらぺらと喋りだした天使を、男はようやく見た。「放火だったのね。犯人は見つかってない。大好きだった家族を亡くして、あなたは一人ぼっちになって、施設で育ったのね」
「かわいそうな、おじさんなの」
天使が男の横に座る。「かわいそうなおじさん」と呼ばれた不幸な男は、色のない目で天使を見た。
「施設を出た後は居酒屋さんで働いていて、モデルにスカウトされたんだってね。俳優になって成功した。おじさん、幸せになれるはずだったのに…婚約していた女の人、結婚式の直前に事故で死んじゃった」
天使は憐れむように男を見つめた。
「女の人、お花屋さんだったのね。配達の途中で事故に遭った。すごく明るくて元気な人だったのに、急にいなくなったのね」
天使は男の手に、小さな手を重ねた。白く柔らかな女の子の手が、骨ばって乾燥した男の手を優しく撫でる。男の左手の薬指には小さな傷がある。天使は聖母のようにやさしく傷を撫でた。男は自分のことをよく知る女の子に驚いたが、すぐにふっと息を吐いて驚きを解消した。くだらないテレビから得た情報だろう。男の出来過ぎ不幸話の旨味は、マスコミに食い散らかされた。
「あなた、とても深い絶望に沈んでしまっているのね。でも、もう大丈夫よ」
男は首を傾げて、天使の手をやさしくどけた。
「なにが?」
低い声で男は問い返した。
「大丈夫、もう大丈夫なのよ。わたしは、あなたを救いに来た天使なのよ?」
「天使」強張った顔で男は呟き、ふっと笑った。「そういう遊びなの? おじさんは付き合いたくないな」
「違うわ。わたしは本当に天使よ」
天使は声を強め、男の手首をつかんで自分の膝元に引き寄せると、手をかざした。ほのかな光が天使の手から溢れ、男の手を包んだ。男は息を飲み、不思議な光景を見守りながら、手に暖かさを感じた。
「見てごらんよ」
得意気な顔になって、天使は男の手首を離した。
男は手を顔の前に寄せて、裏表にしながら眺めた。薬指の傷が痕形もなく消えている。天使が本物である証明なのだろう。男は感心したはしたが、感動はしない。なぜだろう、と疑問の目を天使に向ける。
「私は天使。あなたの願いを叶えにきたの。どんな願い事でも叶えてあげるから、言ってごらん」
天使は可愛らしいあごをちょいっと上げて、光が広々と満ちた瞳とを、男に向けた。
願いが叶う。男の心にようやく、動じるものがあった。ほのかに掌が暖かくなった気がするが、頬に触れた冷たい風が慎重さを促す。
「たとえば、どんな願いを叶えてくれるの?」
「なんでもよ」おずおずとした男の質問に、天使はあっけらかん答えた。
「なんでもって、本当になんでも?」
「そうね…えぇ、なんでも。素敵な新しい恋人が欲しいとか、仕事で成功したいとか、どうしても手に入れたいものがあるとか、家族の病気を治して欲しいとか。今後の人生に有意義なことがお勧めね」
なるほど、と男は口の中で呟く。目を伏せて手を組み直し、「死んだ人を生き返らせることはできる?」と天使の顔を見ずに尋ねた。天使はすぐに答えない。男はすがるように天使に目線を送ってしまう。
「ごめんなさい……できないわ」
天使は首を左右に振った。
あぁ、そうか。そうだろうと思った。目覚めるとコーヒーの匂いがして、パジャマのままキッチンをうろうろしている。あるいは隣で寝息を立てている。そういう日常が戻ってくることを切望しても、叶うことはない。
「願いはない。帰ってくれ」
男は天使から顔を背けた。
「ねぇ、そんなこと言っていいの? せっかく、神様が願いを叶えてくださる、千載一遇のチャンスなのよ。次は絶対にありえない。後から後悔したって無駄。神様があなたを目に止めることは一生ないのよ」
必死に天使が言い募るが、男は返事をしない。
「聞きなさいよ!」
天使に耳元で怒鳴られて、男は仰天した。
「うるさい天使だな」
「だって、あなたが話を聞いてくれないから」
悪びれもせず、天使は瞳を潤ませて言う。男は突発的な、カッと火がつくような怒りを腹に感じた。天使を怒鳴りつけようとし、息を吸い込んで、そのまま熱い息は覚めた溜息になる。
「そうだね、これは奇跡だ。まるでドラマのようだね。仕事をしているような気分だよ。脚本家にこの話を売ろうかな、うまく展開すればヒット作になるかも」
「お願いごとをした方がいいわよ」
天使は男の話を遮るように言った。男は腕を組んで、うーん、と悩む演技をする。札束に埋まり、美女に囲まれ、大きなオープンで常に七面鳥が焼かれている。皮膚は若々しく弾けて健康診断で糖尿病気味だと言われない。ハリウッド映画の主役を飾って、スイカみたいなおっぱいの女優と結婚する。 どれも捨て難いね、とあごを撫で男は言ってみた。
ねえねえ、何にするの? と天使が足をぶらぶらさせながら問う。
「そうだなぁ…カタログギフトがあればいいのに。神様が叶えられるお願いごとだけが載っていて、好きなのを選ぶんだ。神様はカタログギフトを作ればいいサービスになって、人間が喜ぶよ。俺は喜ぶね」
「カタログギフト? そんな物は作れないわ。神様は人間じゃないもの。人間が喜びそうなことは想像できない…いいえ、なさらないわ。力が無限大ですもの、なんだって叶えてしまうから、とてもまとめきれないの」
「でも、死んでしまった人は生き返らせることはできないんだろう?」
男が鋭く言うと、天使は口をつぐんだ。むっとした顔になると、だって、仕方ないじゃない、決まりごとだから、とぶつぶつ文句を言った。そうだね、決まりごとだからね、と男は軽くなだめてやった。
「カタログギフトの中から選ぶ時間が楽しいんだ。結婚式の引き出物のカタログギフト、あのサービスはいいね。ご祝儀ありがとう、この中からお好きなものを選んでねって……時計に鞄、鍋に時計、アクセサリー、いろんなものがあって、結局いつも選びきれずに葉書を出すのを忘れてしまうんだ。気がついたら期限が過ぎていて」
時計は替え時じゃないか? でもあれは気にいっているし、電池を替えればまだ使えるから。このバッグはなかなか良さそうじゃない? 私には似合わないと思うわ。
あなたは欲しいものないの? ないんだよね、見つからないんだ。
「急かすようで悪いけど」遠い目をしている男に、天使は眉を寄せた。「日暮れまでには帰らなければならないの……」
そうだね、と男は答えながらも夢想を続ける。
俺、こういうの好きなんだ。これにしようよ。なあに……あら、それはまだ早すぎるわよ。でも、悪くないわね。そう言って彼女は笑ったのだ。
着信音で男は我に返り、マネージャーからの電話を取った。今日の彼は機嫌が悪い。手帳に時間の書き直しが多くて、修正テープがなくなってイライラしているのだろう。マネージャーにすぐ行くと返事をし、男は携帯電話を閉じた。
「もう行かなきゃ。君はお空の上に帰りなよ」
「待って、お願いごとをしてもらわないと帰れないの!」
男の服をつかみ、不満を顔いっぱいに表した。
そうだな、と男は呟き辺りを見回す。丁度、公園の前の並木通りを、女子高校生が歩いてきた。ベージュのカーディガンに大きなタイリボン、膝丈よりやや上のプリーツスカートは紺で、ソックスも紺だ。黒髪のショートボブで、目がくりっとして可愛らしい。
「俺の願いは、あの子の願いを叶えてやることだよ」
男は女子高校生を指差して言い、天使に背中を向けて軽く駈け出した。天使はなんとも言わない。公園を出て裏路地を歩きながら振り返ると、天使が女子高生に話しかけていた。わたし天使、あなたの願いを叶えてあげる、とまたやっているのだろうと想像して男は苦笑いをする。
天使は女子高校生の可愛らしい願い事をひとつ叶え、神の元へ戻った。
男の「願い事」を報告すると、神は大変機嫌がよくなった。
「なんと慈悲深い男であろう。見ず知らずの少女に奇跡を譲り渡したのだ。己の欲望を捨て去り、なんと清き心であろう」
ひとしきり男を誉め、神は光り輝き、白衣をゆすった。小さな天使は自分まで誉められたような顔で笑い声を転がした。日が暮れて一日は終わり、神は休まれた。
大きな翼を持つ天使は残り、人の世を覗き込んだ。
なぜ、男は見ず知らずの少女に奇跡を譲ったのだろう?
その男の心境はどうであったのだろう。天界から見た男の顔には絶望の深い穴が空いていた。善人でも悪人でもなく、虚無の人という印象を天使に与えた。大きな翼を持つ天使は、すっかり夜になった人の世から男を探し出し観察することにした。
男が一日の仕事を終えて部屋に戻ってきた。殺風景な玄関に靴を脱ぎ捨て、男はリビングのキャメル革のソファーに倒れ込んだ。1LDKにはダンボールが散乱している。ダンボールには乱雑な字で「タオル」「夏服」「冬服」などマジックで書かれていた。家具はソファーにベッド、脚の低い折り畳みのテーブルしかない。キッチンにはコンビニ弁当やカップラーメンの空き箱が入れられたゴミ袋が三つ並び、シンクには小さな鍋がぽつんと置いてある。ソファーの上には脱ぎ散らかした衣服やタオルが積み重なっている。男は背中を丸くすると衣服の中に顔を埋めた。ふと寒さを感じたのか、テーブルの下に落ちていたバスタオルを引っぱり上げ、体を覆った。男は長い間、そうしていた。
男はこのまま疲れ果て眠ってしまうのだろうか、と天使が目を離そうとしたときである。男は突然、勢いよく上半身を起こした。
男はソファーから手を伸ばし、テーブルの上に置かれて厚い冊子を手にとった。元々ブルーだったのが色あせたような水色の表紙で、水に濡れて乾いた後のように膨張した、ぼろぼろの冊子はカタログギフトだ。
丸めていた背を伸ばし、足を組んで妙に気取った格好で男は膝の上に置いたカタログをぱらぱらとめくり始めた。鍋やタオル、鞄など様々なギフトが載っている。男は薄く光沢のある紙を、パラパラと勢いよくめくっていく。ページの端は曲がり、何度もめくられて皺がつき、男の指によく馴染んでいるようだ。男の目が鋭くなって鼻の穴が広がり、唇の端が徐々に上がりはじめる、眉間に深い皺ができ、顔色は蒼白、左足に乗せて宙に浮かせた右足の足首を、激しく上下に振っている。
天使は息を飲んで男を見守った。
男が大きく深呼吸をした。息をゆっくり吐き切ると、男の異様だった様子が静まり、眉間の緊張が解かれた穏やかな顔になって、カタログを吟味するようにページをめくる。
「これ、どうだろう? 時計は替え時じゃないか?」
男が顔を誰もいない左側に向けて言った。するとカタログをぱたりと閉じ、組んでいた足をおろして、ソファーの左側に浅く腰かける。両膝を揃えて品が良い。
「でもあれは気にいっているし、電池を替えればまだ使えるから」
女のように優しげに男は言う。そしてまた右側に戻って足を組み、カタログを広げた。
「このバッグはなかなか良さそうじゃない?」低い声で隣に問いかけ、左側に素早く移動、膝を揃えて「私には似合わないと思うわ。あなたは欲しいものないの?」と女声で答える。
「ないんだよね、なかなか見つからないんだ」
ページをめくる音は乾いている。男が口を閉ざすとその音ばかり響く。
「お、これいいな。俺、こういうの好きなんだ! これにしようよ」
男が白い歯を見せて笑い、大きな声で誰もいない左側に言う。素早く男は左側に座る「女」になりすまし、カタログを覗き込む仕草をした。
「なあに……あら、それはまだ早すぎるわよ。でも、悪くないわね、可愛い」
カタログの開かれたページには、積み木の家と三角の積み木を持っている男の子が載っていた。お子様が口にいれても安全、の謳い文句を証明するように三才ぐらいの男の子がにっこり笑っていた。開き癖がついて、そのページから本が二つに裂けてしまいそうだ。
「いずれ、必要になるものね。早く赤ちゃん、できたらいいな」
優しい微笑みを浮かべた視線の先には、「愛しい人」の存在があった。
男はソファーの左右を行き来することで、「希望に溢れていた頃の自分」と「今は亡き婚約者」を一人二役で演じているのだ。
男の肩が、がくがくと震えた。男が閉じていた足を開き、カタログを閉じて床に放り投げる。震えは収まらない。全身が震えたまま男がソファーに身を投じ、仰向けになって真上を見つめた。小さな黒い穴のような目だ。半開きになった口から男は息を吸っては吐くが、三秒間に一度の呼吸音で、やがて四秒間に一度、五秒間に一度になった。六秒間に一度、七秒間に一度と回数が減っていく。震えが止まった。
男は目を開けている。
救われない者の目を、天使は見ていることができず、白い羽根で顔を覆った。
終
積み木が欲しい男