幼い約束

幼い約束

 ぴちゃん。
 狭いお風呂場に水音が響く。恐らく蛇口のしまりが緩いのだろう。きっと一滴一滴が溜まっているに違いない。くすんだ水色の、寒々しいお風呂場の隅でそれは流れを作ることなくじわじわと広がり、留まり続ける。
 ぴちゃん。
 水道代を心配するべきなのだろう。このところずっと水音と共に生活していれば、いかにそれがごく小さな水滴と言っても馬鹿にならないはずだ。
 でも、今の私は爪の先だって動かす気にはなれない。
 私はこの時間を何より愛している。休日の昼間、誰もがこれから出掛けよう、有意義な一日を送るための行動に出ようとする時間帯に、バスタブの身を沈める瞬間は至福の時だ。小さなステンレスの入れ物は私を穏やかなぬくもりで包んでくれる。日常の煩雑さから離れた、怠惰なひと時を私に与えてくれる。
 こんこん、とお風呂場の扉を叩かれる。それは曇りガラスを模したプラスチックでできていて、ノックの音はとても空虚だ。
「ラム、蛇口止めなよ」
ラム、というのは勿論本名ではなく、いわゆる私のコードネームだ。公式の場を除いて、私はずっとそう名乗っている。
「ジンが止めてよ」
私はバスタブの水を掬い取って、それを落とす。黄色のアヒルの玩具がくるくる回った。ぴちゃん、とまた滴が落ちる。
「止めに行けるわけないだろう」
 ジンは呆れたように言う。
 ジンは私の同居人で、同郷の幼馴染だ。性別は男だけれども、別に恋人関係にあるわけじゃない。私にも、ジンにも恋人はいるし、お互いそれなりに上手くやっている。第一私はジンに<男>を感じない。
「何を今更恥ずかしがっているの」
 私はくつくつと喉を鳴らして笑うけれども、一向にジンが動く気配はない。私は一つ息をつくと、勢いよくバスタブから立ち上がり、扉を開けた。そこには突然の開放に驚くジンの間抜け面があった。
私は用意してあったバスタオルを体に巻いて、ジンの横を通り過ぎる。
「蛇口、よろしく」
 背後で大きなため息が聞こえた。
「なんでラムはそうぐーたらなの」
 お風呂場から戻ってきたジンは呆れたように、髪を濡らしたままベッドに横たわる私を見下ろす。皺一つないシャツと少しとがった喉仏、そり残しのない柔らかそうな肌を順に見上げて、漸く私はジンと眼を合わせる。ほんの少しの苛立ちと沢山の諦めが混じった瞳を見たら、なんだか少しおかしくなった。
「ジンは私に何も期待しないから好き」
 私は思ったことを正直に言葉にした。たとえそれが突飛のないことでも、きっとジンは真っ直ぐに受け止めてくれる。言葉に余計な感情を持たずに、そのままの重さで聞いてくれるだろう。
「僕もラムが女くさくないから好きだよ」
 やれやれ、といったようにジンは笑った。


 ジンと出会ったのは小学生の時。同じクラスで、家が近所だった。その頃のジンは背が低くて、女の子みたいだった。目がくりっとしていて、おとなしかったから余計にからかわれた。その上泣き虫だった。
 そんなジンの手を引いてたのはいつも私で、まるでナイト役だった。私は小さい頃から背が高かったし、足も速かったし、腕相撲も男子に負けなかった。だからジンが泣いているのを見ると、私は必死で男の子たちを追い払った。
 それでも私の目が全てにゆきとどくわけもなく、気がつくとジンが泣きはらした目で帰ってくることもしばしばあった。
「つよし、一緒に来て」
 ジンはちっとも強くなかったのにつよしと言う名前だった。
 私はジンの手を引いて、公園の隅の大木の上に連れ出した。そこは枝葉で周囲の目からよく隠されていて、秘密基地みたいだと以前ジンと話していた。
「われわれは今日からひみつけっしゃをけっせいする」
 私は覚えたてのセリフを言った。
 ジンは訳もわからずぽかんとした顔で私を見返した。
「よわきをたすけ、つよきをくじくのだ」
「くじく?」
「映画で聞いたんだけど、強くなって、誰かを守ることだってお父さんが教えてくれたの」
「へぇ」
 ジンはまだよく分かっていないようだったけど、頭の中でその言葉をどうにか飲み込もうと努力をしているのが分かった。
「つよきをたすけ、よわきをくじく?」
 ちょっと違う気がしたが、気にしないことにした。
「強くなろう、つよし」
 私はジンの手を握る。白くて、柔らかくて、ちっちゃくて、弱弱しい私達の手。
「女の子みたいだって、つよしはつよしのままでいい。それでもあいつらに負けなければ、強くなれば私達の勝ちだよ」
 ジンは私の目をまっすぐに見て、頷いた。
「ぼく、くじくよ」
 私は嬉しくてジンを抱きしめた。
「じゃあ、これから私のことはかおりじゃなくてラムって呼んで」
「ラム?」
「お酒の名前だって。大人の飲み物だよ。何か強そうじゃない?」
 ジンは首をかしげたが、やがて笑った。
 それからジンは大人からお酒の名前を見事聞き出し、その中からジンという名前を自らにつけた。
それが私達の約束だった。


 夜。僕はベッドで女を抱いていた。女と言っても勿論それはラムではなく、僕の恋人の美也だ。小さくて華奢な体を丸めて寝るから、栗色の髪が僕の鼻をくすぐる。それはなんだかいい匂いがして、僕は美也をとても愛おしく思う。
 僕とラムはそれぞれの恋人をうちにあげない。当り前だけど部屋に呼べない理由を美也に正直に話すことなんてできないから、僕は実家暮らしだということにしている。そうしたら美也は真剣な目でご挨拶に伺いたいとか言い出すから、そろそろ言い訳に困ってきた。
 こうして重ねる嘘に、本来ならば罪悪感を覚えるべきなのかもしれない。でもどうしても僕はあのラムと一緒に住んでいることが悪いとも思えないし、悪いと思っていないことについて謝ることのほうが相手に失礼だと思っちゃうから、僕は美也に何も話さないことにしている。
 美也は寝がえりを打ち、僕の腕の中から離れたので、僕もベッドから抜け出す。二人が密着して寝るには扇風機は些か力不足だ。僕はシャワールームに向かう。
 僕は程よく冷たい水で汗を流し、髪を軽くすすぐ。背後で扉が開いたのはそんな時だった。
 驚いて振り向くと、そこには裸の美也が立っていた。白く、細い肩。本当に食べているのか心配になるくらいにくびれた腰。柔らかそうな膝小僧。
「一人にしないで」
 美也は瞳を潤ませて言う。親の庇護を待つ小動物みたいだ。まったく、どこまでもラムとは正反対だな、と僕は内心苦笑する。
「おいで」
 僕は美也を抱きよせる。華奢な美也の手が、存外強い力で僕の背中に回った。


「花火大会?」
 私は聞き返した。浩二は信じられないくらい汚いキッチンで、パスタを作ってくれている。それがいつも嘘みたいにおいしいから不思議。筋肉質な体躯は狭いキッチンで的確な動きを見せ、手際良くソースの味を調えていく。
「そう、今度の花火大会に行かない?」
「さぁ」
 私はベッドの上で転がり、気のない返事をする。ちゃぶ台にはあっという間に食事の用意が整っていく。
「別に二人っきりで行こうって言っているんじゃないよ、ジンさんも一緒に誘っているの」
「ジンも?」
 浩二と私は恋人同士だ。別段二人っきりでも何の問題もないはずだが、そこをジンも一緒と言ってくるあたりが、浩二らしい。私のことをよく知り、諦めている。
「ジンさんはラムが良くお世話になっているんだろう?是非ご挨拶したいと思って」
 浩二はスポーツマンらしいさわやかな笑顔で、とんでもないことを言ってのけた。
 私は浩二にジンと一緒に暮らしていることを話している。別段悪いことをしているわけじゃないし、内緒にしているほうがきっとこの人は傷つくだろうと思った。話した時、浩二は寛大な心でそれを受け止め、言った。ラムの全てを愛している。
「ジンさんはラムの小さいころを知っているだろう?」
 私は浩二の横顔を見る。ポーカーフェイスのうまい浩二は寂しさなんて感情は滅多に顔に出さない。ましてやそれを理由に相手を責めない。大人の男だ。
「そうだ、ダブルデートにしない?ジンさんにも恋人がいるんだろう?」
 私は一つ息をつく。
「ジンにはジンの生活があり、私には私の生活があるの。私はジンの生活を脅かしたくないの」
「僕と会うのが、脅かすことなの?」
 そうじゃなくて、と私は苛立つ。
「それでも僕はラムの人生に参加したいんだよ。そしてジンさんはラムの生活を知るには、避けて通れないでしょう?」
 私は浩二の目を見る。やっぱりそこには嫉妬や所有欲なんてものはなくて、ただ純粋な愛情があった。浩二はどうしようもなく誠実な言葉をかけてくれているのに、私は逃げ場のない窮地に立たされてしまう。
「……誘うだけ、誘ってみる」


 ジンに変化が訪れたのは中学に入ったころからだった。
 それは住んでいる地域によって区分されて、いじめっ子たちが別の中学に入ったせいかもしれないし、子供じみた悪戯から皆が卒業し始めたからかもしれない。それでもジンは自らの力で変化を生みだしていったのだと思う。
 その頃からジンは急に男の人になった。背が伸びて、少しずつ筋肉がついた。声変わりをして、喉仏も出てきた。運動部に入って、友達も作った。それは私の後ろを泣いてついてきたジンではなく、私は「ひみつけっしゃ」は終わったのだと認めざるを得なかった。
 逆に周囲から浮いたのは私だった。小学校では一緒に男の子たちを追い回していた女の子たちも、中学校に入ると途端にしおらしく、集団で可愛らしい女の子になっていった。あの男の子がかっこいいとか、あの芸能人が好きだとかずっとそんな話をしていて、私はそれに馴染めなかった。かといって男の子と一緒に遊ぶには体力や筋力に圧倒的な差が出始めて、太刀打ちできない。
 私が怠惰になり始めたのはこの頃からだったと思う。自分の性格を誰かのせいにするわけではないけれども、この人間関係のずれと、それを修復するための煩雑さから私は逃げたのだった。
 それでも、気が付いたらジンは私の側にいた。誰にも告げず、一人で校庭の隅の木陰でお弁当を食べようとしたら先にジンに座っていた。理科の実験でペアを組まなきゃいけない時、一人で居眠りをしようとしたらジンに起こされた。
「私といると、つよしまで仲間外れにされるよ」
 見かねて私は警告した。
「僕はジンだよ、ラム」
 ジンは私の剣幕に頓着することなく、破顔した。その時のゆるみきった笑顔を見ていると、なんだか情けなくなった。
 膝を抱えて嗚咽を漏らす私の隣から、ジンは離れなかった。
 守るということの本当の意味を、初めて強く感じた時だった。


 花火大会は大変な人込みだった。見渡す限り人、人、人で僕は美也の手をしっかりと握った。ラムには浩二さんが付いているから、とりあえず安心できる。だって浩二さんはとても体が大きくて、逞しいから、悪い男はきっと恐れてラムに近づかないだろう。
「ジン、何を考えているの?」
 美也は僕の目を見上げて聞く。女の子ってどうしてこうも鋭いんだろう。
「いや、美也の浴衣かわいいね」
「でしょ?お気に入りなの」
 美也は嬉しそうに笑うが、目の色だけは変わっていない。女の子って怖いな。
「ラムさんは浴衣着なかったんですね」
 美也はラムを振り返る。ラムはいつも通りのショートパンツにTシャツという、いかにもラムらしいファッションで来ていた。
「面倒くさいから」
 ラムは美也の得意げな視線をばっさりと切り捨て、浩二さんを引っ張ってかき氷の屋台に行った。それは雪氷と書いてあって、とても柔らかそうな氷を周りの中学生が食べていた。おいしそうだったので足を向けようとするのを、美也が止めた。
「ラムさんって変わっている」
 美也が憮然とした表情をするので、僕は少し笑ってしまった。
「だってラムだから」
 その言葉はどうやらかえって美也の機嫌を損ねてしまったらしいので、慌てて僕は金平糖の屋台に美也を連れていく。小さいお星さまみたい、といって可愛らしい美也は可愛らしい金平糖を愛していた。
「今日は無理を言ってすみません」
 浩二さんは僕の隣に座った。美也とラムは金魚すくいの出店を捜しに行ってからのことだった。ラムを見つめる浩二さんの瞳はとてもまっすぐだった。この人だったらきっとラムも幸せになれるんだろうなって僕はぼんやりと思う。
「ラムとは小学校からのお付き合いだそうで?」
「ええ、まぁ」
 小さい頃、ラムは泣きべそをかく僕を連れて、大きな木の棒を振り回しながら家路を歩いていたことを思い出す。その近寄りがたい薄気味悪さを僕らは天衣無縫の強さだと信じて、ラムはねじ曲がった枝を縦横無尽に振り回していた。それでもラムは僕のヒーローだった。
 その話をすると、浩二さんは遠くを見るようにして、わかる気がすると言った。それは僕の持つ記憶を共有してなぞろうとするというより、今のラムに当時の面影を探しているように見えた。
「歴史があるんですね」
 浩二さんはしみじみと言う。僕はちょっと返答に困ってしまった。
「浩二さんといるときのラムは、どんな感じなんですか?」
「そんなこと、きっとジンさんが一番よく知っているでしょう」
 何をどう言えばいいのか愈々迷った時、漸く二人が帰ってきた。まるで天の助けだ。
「見て、ジン。かわいいでしょう?」
 美也の袋の中には二匹の金魚を見せて笑う。そしてラムの袋には一際大きな金魚が少なくとも五匹以上いた。僕が美也の言葉に頷いていると、ラムは僕の目の前にその袋を見せ、にやりと笑う。
「これで金魚の姿煮を作って」
 美也は口をあけて驚き、浩二さんは頬をひきつらせ、僕は声をあげて笑ってそれを受け取った。
 

 二人組の男が現れたのは浩二が席を立ってからすぐだった。
 私達が買ってきた酒は花火が始まって早々に飲みきってしまった。かといって酒のないお祭りなんて、青い服を着ていないマリア様くらい変だ。そう浩二に言ったら、最初<?>マークを見せた。その後ジンが西洋絵画における象徴だと教えると納得したのか、買ってくるよと言ってくれた。
「確かにラムの人使いの荒さはどこに行っても変わらないね」
 ジンは笑う。
 私は眉根を潜めると、何故かジンの向こうで美也さんが頬を膨らませていた。
 そんな時だった。
「なぁ、嬢ちゃん、俺らとのまねぇか」
 急に背後から太い声が掛けられた。振り返ると人相の悪そうな二人の男がにやにや笑って立っている。しかもタチの悪いことに彼らは一様に赤ら顔をしていた。酒は好きだが、酒の力で欲を増長させた人間は嫌いだ。
「目障りだ、あっち行け」
 それでも私の声は男たちを悦ばせただけだった。不快だったので、場所を移ろうとジンに目線で促した。ジンも心得たと美也さんを立ち上がらせる。すると今度は男たちに腕を掴まれた。
「つれねぇ事言うなよ」
 男の酒臭い息がかかる。掴まれた腕にじっとりとした男の汗がついた。目をやると美也さんにも男の手が伸びようとしていた。私は男どもに鉄拳を食らわせようと、手を振り上げる。
 でも私の手は空を切った。
 私の手をつかんだ男はジンの拳によって吹っ飛ばされたのだ。
「ラム、逃げるよ」
 素早くジンは私の手をとって走り出す。ジンは男の人の力で私をその場から攫って行った。すごいスピードで土手の坂を駆け下りて、人込みに紛れる。川を上る魚のように、ジンは器用に人の間をすりぬけてゆく。その間ジンはずっと私の手を強く握っていた。それは浩二みたいに無骨ではないけれど、もう小さな子供の手ではない。
川の向こうでは変わらず花火が上がっている。私が花火で照らされたジンの横顔を見ると、ジンはいっそ軽快な笑顔を見せて走っていた。
 まただ、と思った。
「何考えているの」
 男たちを振り切って、私達は立ち止った。ジンに問い詰めるようとしたら、それより先にジンの携帯電話が鳴った。美也さんだった。あの男たちと共に置いてきてしまったのが心配だったが、どうやら無事逃げられたらしい。
「忘れていた」
 ジンは息を切らしながら、それでも淡々と呟いて電話に出る。短い言葉をかけるが、それよりも美也さんの金きり声が勝る。電話が切られてしまうのに、そう時間はかからなかった。
「美也、帰るって」
 ジンは何て事無いかのように言った。
「追いかけなきゃ」
「なんで?」
 ジンは基本的には優しいのだが、女の機嫌に関しては驚くほど疎い。
「ああみえて美也は合気道の有段者だよ。たった二人の酔っ払い相手に負けるとは思えない。それよりもラムは、ああいう男たちは嫌いだろう」
 ジンは当然の顔をして言葉を並べるが、やはり何も分かっていない。私は焦燥でやきもきする。恋人の美也さんを危険にさらして、ただ嫌いだというだけで私を連れ出したなんて。
「ああ、ラム。花火がきれいだよ」
 見上げれば、フィナーレだろう、一際大きく、沢山の花火が夜空を彩っている。色鮮やかに、そして星の輝きを呑み込む明るさで大輪の花を咲かせている。
 私の手を握るジンの手はいつものように温かい。私はそれを力なく握り返すことしかできなかった。
 

 高校は、私達は違う学校に入学した。そこで私達は初めて別々の生活を送ることになるはずだった。
 それでも何故かジンと私は恋仲として近所に認知され、地元にあったジンの学校にまでそれは伝わっていた。大きな誤解だった。
 既に私はジンのことを<男>としてみることができなかった。多分距離があまりに近すぎたのだろう。腐れ縁の幼馴染ではあったけど、それ以上に思うことができないから、私は手ごろな男子大学生と付き合っていた。名前はもう忘れてしまったけれど。
 困ったのはジンだった。ジンは何度か女の子に告白され、付き合うこともあったらしい。だというのに私との噂を詰問されても否定しないのだ。
「だって、僕はラムのことも好きだもの」
 その時も見かねて私が苦言を呈したのに対し、ジンは少しも悪びれずに言った。
「その<好き>は恋人に対する<好き>とは違うでしょう」
「そうかな?」
 ジンはとぼけた顔で言う。
 結局ジンは度々私の前に現れ、私はジンの恋人の嫉妬を一身に受ける日々が続いた。
 だけどそれは全てジンの責任だとは言い切れない。
私だってわかっていた。私さえいなければジンはまともな恋愛をすることができ、恋人だけを大切にすることができる。私みたいな中途半端な存在はきっとジンの理不尽な足枷になってしまうのだろう。
 それでも、いつもどこかでジンが会いに来るのを私は待っていたような気がする。
 だからせめて私はジンにとって<女>にならないようにした。ジンと一緒にいる時も、まるで男友達として見てもらえるように私は乱暴にふるまった。スカートをはかず(高校は自由服での登校を許されていた)、化粧は最低限にして、髪もいつもベリーショートだ。<女>としてではなく、一人の人間としてジンを支えたかった。
 昔、ジンが私にしてくれたように。
「ラムといると気が楽だよ」
 ジンが恋人とのデートから帰ってきたある時、ジンは言った。
 どういうわけか、ひどく嬉しかった。

 でも、それももう潮時だ。

 僕は公園のベンチに座って、携帯を確認する。待ち合わせ時間まであと二十分ある。少し早く来すぎてしまったかもしれない。
 鞄から煙草を取ろうとしたら、金平糖の袋も一緒に落ちてしまった。これを出すといつも美也は喜んでくれた。特に好きなのは桃色の金平糖だった。安物の金平糖だったので、色それぞれに味が違うとも思えなかったが、桃色を細い指でつまんで食べる時の美也はとても幸せそうな顔をしていた。
 でもこれももういらないな、と僕は呟く。
「お待たせしてすみません」
 浩二さんは五分前に現れた。少し困ったような笑顔だった。
「こちらこそ、お呼び立てしてすみません」
 暑いですね、とか僕は当たり障りのない世間話を始める。どう切り出せばいいかわからなかった。こんなことは初めてだったから。
 初めは大人しく話を聞いていた浩二さんはやがて苦笑して言った。
「ラムは元気にしてますよ」
 すっかり見透かされていたようだった。
「……そうですよね」
「特に家事をしてくれるってわけじゃないですけど、まぁ、そこそこやってます」
 僕はラムのぐーたらにベッドに寝そべる姿を思い出すと、無性に懐かしくなった。
 ラムがアパートから出て行ってもう一カ月になる。
 花火大会から帰ってすぐ、ラムは素早く荷物をまとめてしまった。どこに行くの、なんで怒っているの、とか僕の質問には一切答えず、無言のまま、実に的確な動作で作業を進めていた。ラムがこんな風に動くのは久しく見ていない。それが余計に意志的なものを感じさせた。
 出る間際に一度だけ目があった。それは睨みあげるような強い視線だったのにも拘らず、僕にはひどく傷ついた目だと感じた。
「仕事にもちゃんと行っているし、ご飯だって三食きちんと食べています。睡眠だって十分すぎるほど摂っている。何の心配もありませんよ」
「そうですよね」
 ぼくはそう繰り返すよりなかった。浩二さんの言っていることは確かに僕が聞こうと思っていた事柄だ。それが全て問題ないのであれば、僕は何の心配もするべきではないはずだった。僕と離れたからと言って、ラムに何の差し障りもあるはずがなかった。
 僕は自分の中に沸いていた愚かな期待を恥ずかしく思った。隣に浩二さんがいるのも忘れて暫く何も言わずに俯いてしまった。
 だからその後の浩二さんの言葉にひどく驚いた。
「嘘です」
「は?」
 最初、何を言っているのかわからなかった。
「だから、嘘なんです。いいじゃないですか、これくらいの意地悪しても僕はきっと許されるんじゃないでしょうか」
 浩二さんは苦笑気味に、だけどどこか吹っ切れたような晴れやかさで言う。
「……何のことですか?」
「ラムですよ。そりゃあ表面的には平静を装っていますけど、口数は少なくなったのに、無理して笑うようになりました。自分のことをかおりって呼ぶように怒られました」
「あのラムが?」
 俄かに信じられない話だった。
「僕の立場まるでないじゃないですか」
「すみません」
 ラムのことで謝るのには慣れていたので、つい浩二さんにも言ってしまった。それでも浩二さんは声を荒げることなく、優しい目をした。
「早く迎えに来てやってください」


 結局、その夜に私はジンに手をひかれアパートに戻ることになってしまった。
 私は道中ずっと泣き通しだった。すれ違う人にじろじろ見られたけれども、あふれ出る涙は止められない。浩二の言葉が頭の中でぐるぐる回った。
「ここはラムの居場所じゃないだろう?」
 少しも私を責めることなく、浩二は続けた。
「ジンさんのところに帰りなさい」
 優しい浩二。浩二は一体どんな気持ちで言ったのだろう。否定する私の言葉をどんな気持ちで聞き、宥めたのだろう。最後は言葉を失くして俯いた私をどんな気持ちで抱きしめたのだろう。
「さようなら」
 最後の言葉は少し涙が滲んでいた。
 アパートの下で待っていたジンは、浩二に深く頭を下げていた。私の手を握る力は強く、どれだけ振りほどこうとしても駄目だった。
 私はジンのアパートに着くとすぐに着衣のままお風呂場にとびこんだ。鍵をかけ、バスタブに勢いよく湯を入れる。もう私の逃げ場はここしかない。
「ラム、鍵を開けて」
 こんこん、とジンはガラス戸をノックする。私はそれに応えないで、バスタブに溜まる湯を見つめた。小さなバスタブだ、見る間にお湯の高さは上がっていく。もうすぐだ。もうすぐ温かい湯につかることができる。何も考えずに、温かなぬかるみに浸ることができる。
 バリンッ。
 でも私の現実逃避は、何かが壊れる激しい物音で遮れられた。
 振り返れば扉から手が生えていた。正確には扉のプラスチックの部分をジンの手が突き破って、そこから鍵を開けようとしていた。
 私はただ驚いて扉が開くのを見ることしかできなかった。
「扉を破るって、思ったより痛いんだね」
 ジンはさっきの力はどこに行ったのか、と思えるくらいいつも通りの頼りない顔で笑っていた。
「ラムに会いたかった」
 そう言って、ジンは私を抱きよせる。小学校から一緒にいたのに、裸だって見られてもへっちゃらなのに、なぜかその時私はひどく動揺した。胸の鼓動がやけにうるさい。私はとにかく離れようともがいてみるものの、先ほどと同様、私を抱く腕はびくとも動かなかった。
「僕はラムが好きだよ」
 頭の上から途方もなく優しい言葉がかけられる。私の目にまた涙が溜まってきた。身じろぎすると、足元でまた、プラスチックが割れる音がした。
「それは友達に言う<好き>でしょう」
漸く言葉を振り絞ったけれど、私だって本当はそうじゃないって分かっていた。ジンの気持ちも、自身の気持ちも哀しいくらいに分かってしまっていた。
 ジンも特に否定はせず、間の抜けた顔で笑った。
「おかえりなさい」
 私は目をつぶって、ジンの抱擁に応える。足の裏が切れたような、じんわりとした痛みがのぼってきたが、それも悪くないと思った。
 あの約束を、私はジンと二人で守っていきたい。

幼い約束

シンプルな恋愛小説を目指しました。心情描写が常日頃の課題で、今作は少なくとも主人公2人だけでもと努めました。
お読みいただき、ありがとうございました。

幼い約束

少女と少年は幼い頃一つの約束をした。それは二人を優しく、そして怠惰に縛り付ける。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted