となり

寒い冬は終わって、春がすこしずつ馴染み始めていたころの話だ。
その夜はいつもより少し風が強かった。
私は着ていた着物の袖で手先を隠し、幽霊がでると地元で噂されている橋によっかかって、きらきらと月夜に照らされた川をじっと眺めていた。川面には牡丹の花がゆらりと浮かんでいた。魚の姿は見えなかったけど、時々ちゃぽんと小さく音を立てて川面に波紋が広がった。多分鯉な気がした。昼時によく見かけるからだ。
こんな時間に幽霊橋にきたのには、さすがに理由というものがあったはずなんだけれど、私はさっきまでの父親の怒号の追憶とか自分が流したと思われる涙の後でほおが濡れていることとか、泣いた後の吃逆とかでもはやその理由も忘れていた。気がついたら幽霊橋にいて、気がついたら美しい自然の流れにみとれていた。
こんな綺麗な場所なのに、どうしてみんな幽霊がでるだなんて言うんだろう…。私はそんなことを思いながら、ただじっと川面を眺め続ける。
昼間はちいさな子供達がわちゃわちゃと騒ぎ声をあげながら駆け抜けて、大人たちは涼しげな笑みを浮かべて、一歩手前の木漏れ日が橋にうつす影と川を眺めながら日傘をさしてゆっくり渡るような、そんな風情のある橋なのに、夜になるとその姿は一変して、柳はおばげといわれ、橋のいい感じの小汚さが余計に雰囲気を増して、いつしかお化けのでる幽霊橋なんて呼ばれるようになっていた。
けれどここは、私にとっては秘密の絶景地。
夜でしか見ることのできないこの川の、神秘的な輝き。昔っからビー玉が好きな私は、雑貨屋でガラスのなかで太陽の光をめいっぱいうけてきらきらと光る淡い水色のビー玉を、飽きることなく半日眺めていたこともある。つまり私は光るものがすきなんだ。なんとなくそれは、自分への当てつけのような気もするけれど。

家を飛び出したのは父への反抗だった。いや、母にもあるかもしれない。なににしても家族への反抗には違いなかった。
私は自由に生きたいのだ。気のあう友達と、日が暮れても月が顔を覗かせても話してたいし、気になる人の通り過ぎる姿をただじっと眺めていたいし、ときには川で遊んだり、近所の草原を走り回ったり、鬼ごっこしたりとか、作ったお手玉を何個まで投げられるかとか、友達の恋を応援したりとか、やりたいことをいまのうちにたくさんやっておきたいのだ。遅く帰った私を、父は怒鳴りつけ、そして殴った。心配したんだぞ、今何時だと思っている、女なら女らしくしていろ、いろんなことをいっぺんに怒鳴られて、なにもかも嫌になる。母は本当の母ではなくて、継母だからあまり口出しはしないけど、それでも向けられる冷ややかな軽蔑の目線が痛かった。
家での居場所がない。居間には基本継母しかいないし、父は仕事に出ていた。自分の部屋は本当に狭くて、父が昔木で作った小さな机と、布団が隅に畳まれているのと、木製のタンスくらいしかなかった。木の机を父が作ってくれていた頃は、まだ私も幼くて、母親もいて、妹もいた。家族四人は絵に描いたような幸せな生活を送っていた。それも全部継母のせいで崩されたようなもんだ。

友達もたまに意味が分からなかった。私には流されない人が必要だった。家庭のことを知って、私を避けるような人はいらなかった。その噂に振り回されるような人も傍にいてほしくなかった。いつも一緒にいてくれる、あの三人だけで十分だった。どんなときも、私自身をみてくれる三人がいれば何も怖くなかった。唯一の心のよりどころなのだ。いつまでも自分の本心を語っていられるし、私も彼女達の本心を聞いているつもりだ。
だけどたまに怖くなる時があった。私の大切な友達も、母や妹のように、いつか私をいとも簡単に裏切るのかもしれない。
今までの思い出も、全て水に流したわといわんばかりに、手のひらをかえしたように私のまえから突如消えるかもしれない。
私の気になる人のことや、家族のこと、悩みだとか、話した秘密すべてを、流される人に話してしまうのかもしれない。
そう思うと怖かった。いつからか、私は常にこの恐怖とともに生きてきた。だから三人に本心が話せなくなっていた。だんだんみんなが敵に見えた。信じることができない。信じたい。けどなにかがそれを邪魔する。過去なのか、現在なのか、わからないけど、未来が全く見えない。

だけどこの橋から川を覗くと、ほんのちょっとだけ明るい未来が見える気がした。
せせらぎの音も、たまにはねる鯉も、月夜に照らされた川面の波紋も、みんな光をまとっている気がして、自分の未来を導いている気がして、ふっと、安心できるのだ。

「いつもここに来ているね」
びっくりして、腰を抜かし、おもわずその場にしゃがみこんだ。いつのまにか隣には、西洋風の服装の男が立っていた。
背丈はそこまで高くはなくて、暗闇で顔はよく見えない。影でなんとなく彫りの深い顔立ちだと思った。
「だれですか」
私は立ち上がりながらそう言った。男はうーんと言ってから、川を眺めた。
「この際そんなことは、どうだっていい」
「はい?」
「ただ僕も君と同じように、夜の川が好きでね。毎晩ここに来て、ここで涼んでる」
横顔の綺麗な人だな、と思った。隣に立って、見とれていると、彼はふいにこちらを向いた。目をそらす。
「いつもは君が帰る頃にここにくるんだけど、今日はなんだか君、いつもより長くここにいないかい?もう時間もかなり遅いけど」
そういえばいつからここにいるだろう。もう今何時なのかも分からない。ただなんとなく今は、この横に立つ謎の男のそばにいたい気がした。
「親ともめて、それで家に帰りたくないの」
そっけなく答えてみた。男はふうんと頷くと、なにかを考え込むように川のずっとむこうを眺めた。
「帰れる家があるだけいいじゃないか」
「…でも帰りたくない」
「わがままな子だなあ、意外」
男の声が柔らかくなった。横顔がちょっとだけ崩れる。
「あなたはどうしてここにいるの?こんな時間に」
「僕?さあ…自分でもわかんないな」
「一人称僕なのね」
あの人とおなじだ。
「いや、違うよ、普段は、俺だけど」
「あ、そうなの」
会話が途切れる。どこかで虫の鳴く音が聞こえた。
「どうしてそんな格好なの?役所の方なの?」
「質問が多いね。そうだなあ、まあ役所の人間の息子で、役所の人間に将来なる、のかな」
男の表情がすこしだけ暗くなったので、この話題には触れないほうがいいのかなと思った。私は黙って、そうしたら川を跳ねる鯉を見つけた。
「君はいくつ?先に言っとくと、僕は19」
「16。もっと年上なのかと思った。結構若いのね」
「失礼だな、まあよく言われるよ、苦労が多いのかな。気を悪くしないでほしいけど、僕も君、自分と同い年くらいかと思ってた」
「私は別に構わないよ。すこし年上に見られてたほうが、女らしく見えるのかなあって思うもの」
いつのまにか会話が弾んでいて、私は自分の悩み事のことも忘れていた。名前も知らない19歳の一人の少年のとなりはいままでに感じたことのないくらい居心地のいい場所だった。
「私、信じたいの、いろんなことを、でも信じられないの、昔のこととか、そういうのが原因なんだろうけどね、でもそれって言い訳な気がするんだ。自分でも分かってるけど、でも、信じられないの、なにも」
ふと私はそう漏らした。男は黙って私の顔を見つめた。そして、俺もそうだよと言った。
「俺もたまにわからなくなる、なんにもさ、いや。違うね、信じたくなくなるよ」
「どういうこと?」
「この世界の、いろんなことを信じたくなくなる」
彼の言葉はたまに胸の深い所をついてきた。
「もし君が、誰か信じたいのなら、僕のことを信じていいよ」
「会ってまだちょっとしか経ってないのに?」
「きみとはそのちょっとがすごく長く感じられるよ」
私は彼の言葉に微笑んで、私も、とだけ答えた。

長い沈黙のあと、だんだんと私のなかで、家に帰ろうという思考が生まれてきた。
彼にいろんなことを話したあとだったから、自分の中のいら立ちが消えてすっきりしていた。今なら帰っても、父親と素直に向き合える気がした。
「今、何時だろう」
小さく呟くと、彼は顔を上げ、月を眺めた。
「多分もう夜中の二時くらいじゃないかな、はっきりとはわからないけど。そろそろ帰るかい?」
彼の声はなんだか少し寂しそうだった。私はうんと頷いた。
「ありがとう。あなたと出会えてほんとによかったよ。私、今まで自分の気持ちを…人に話したことなかったから、だからさ、あの、もしよかったらこれからも、会えたら会いたいな」
うつむきながら今の気持ちを伝えると、彼はハハと声を上げて笑った。
「俺も、今日君に声をかけてみて本当によかったよ。君と俺は似ていると思う。けど、ちょっと違う。だから話していてすごく楽しかった。俺もこれからも君に会いたい。この時間くらいなら、毎日この橋から川を眺めているから、またもし何かあったら来てくれよ。まあなにもないことが一番、つまり君がここにこないことが一番なんだけどね」
「なにもなくても、ここにくるよ」
なにかつっかかることがなくてもいい。いやむしろなにか良いことがあったら一番に彼に伝えたい。一日あったことを、彼に最初に話したい。そう思った。
「もっと明るい時間に会えないの?家はここの近くなの?…あ、そうだ、名前を聞くのを忘れてた」
彼ともっと一緒にいたくて、聞きたいことを一気に口に出すと、彼はまた優しく笑って、小さく首を振った。
「明るい時間は仕事がある。仕事が終わって、暇になってからここにくるんだ。だから遅くなってしまうんだよ。家はまあ、役所から近いところだけど…名前は、うーん、みんなはシンってよぶ」
「シン?」
「そう、名前の中に進むっていう字が入ってて、まあそれでなんだけど」
「みずくさ、ちゃんと教えてくれたって良いじゃない」
「君は案外しつこいな。まあいいんだけど、下の名前は、進太だよ」
「…進太」
「なんだよ、そうだ君の名前は何て言うの?」
「私は、アキ。瑠璃色の璃っていう字で、アキって読むの」
自分の名前は好きだった。実の母がつけてくれた名前。綺麗な字で、とても珍しい読みをする。他の人とは違う感じが気に入っていた。
「良い名前だね」
「進太も、良い名前」
私よりも年上な進太の笑顔が、このときすごく無邪気で、月の光で美しく映し出された。
胸がどきりと高鳴った。
「じゃあ、今日はありがとう。またね、進太」
私は恐らく赤らんでいる顔を隠すように、いそいで振りかえって、小さく左手をあげた。
「うん、こっちこそありがとう。おやすみ、璃」
横目で見えた進太の笑顔は本当に綺麗で、そしてどこか寂しそうだった。



家に着くと父は怒鳴らずに、黙って私を迎え入れた。継母は居間に横になっていて、なぜか素足が汚れていた。
「お前を捜していたんだ」
不思議そうな顔をする私に向かって、父は静かにそう言った。
「さっきは確かに言い過ぎた。ただ、俺はお前を心配しているんだ。お前になにかあったら、それこそ…母さんや雪に、怒られちまう」
その母さんとはきっとどちらも意味するのだろう。妹の雪はいま、どうしているのだろうか。
「私…ずっと…」
「こいつはお前がいなくなってからずっとずっと、お前の名前をよんで、村のはずれまで捜していたんだよ。お前が、こいつのことを受け入れられない気持ちはわかる。ただこいつもこいつなりに、お前の新しい母さんになろうと、必死なんだよ。わかってくれ」
いつのまにか涙がこぼれていた。今までの涙とは違う気がした。泣いても泣いても途切れない。溢れてくる。
継母は安心したように眠っていた。父は黙って奥の家へ入っていき、私はその場に座り込んで、継母の隣で眠りについた。


翌日の朝、私は役所へと向かった。進太にお礼を言うためだ。仕事中であるだろうし迷惑にちがいないけれど、どうしても進太に会いたかった。帰り際に見た、進太の無邪気な笑顔にまた会いたくて。
役所は橋から少し離れた所にある。ほとんど行ったことはなかったけれど、幼いころ母とふたりで行った記憶を頼りに無事に到着した。役所の中には老婆と若い男がいて、なにかの手続きを行っていた。どうしていいかわからず立ちすくんでいると、綺麗な女の人が近寄ってきた。
「何か、御用はおありですか」
女の人は西洋風の服を着て、薄く口紅を塗っていた。良い香りがした。私は小さく、「あの、進太さんはいますか」と尋ねた。
すると女の人は眉間に皺をよせ、「進太?」と少し低い声で言った。びっくりしていると、彼女は少し考え込み、そして悲しそうな笑みを浮かべてこう言った。
「進太は、もう3年前に亡くなっていますわ」
え、としか声が出なかった。進太がもう死んでいるという、ありえない答えが返ってくるなんて、予想もしていなかった。
「なんで、え、だって昨日話したんです、私、あの橋のところで、それで進太はその、ここにいるかなって、思って」
「あの橋…幽霊橋のことね」
「そうです、昨日の夜私はそこで進太と…」
「進太はね、三年前あの橋から落ちてしまったの」
「…え」
女の人は俯いた。
「まだ19歳だったのよ。夜中、散歩に行くと言ったきり帰ってこなくてね。心配して捜しにいったら、次の日の朝、川の下流で流されている進太が見つかったの」
「進太は夜よくあの橋に行っていたのよ。まさかとは思ったんだけど…その頃、いろいろと悩んでいるみたいだったから、自殺なんじゃないかって思っているんだけどね」
「私は、進太の婚約者だったの。ふたりでいろんな話をしたつもりでいたけど、実際進太は、心の深い所のことは話してくれなかったみたいね。だからそうやって今でも、だれかの前にふらりと現れるのかも」
女の人は話し過ぎたね、と笑ってつぶやくと、奥に入っていってしまった。私は今一気に言われたことをひとつも理解できず、その場に呆然と立ち尽くしていた。

家に帰る途中、あの橋を通った。まだ明るいから、幽霊が出そうな雰囲気もない。水の光は夜とはまた違った雰囲気を醸し出している。私は橋の真ん中で、昨日のことを思い出して立ち止まった。
「この世界の、いろんなことを信じたくなくなる」
昨日の進太は幽霊だったのだろうか。
進太はその日、何を思ってこの橋から飛び降りたのだろう。どんな悩みを抱えていたのだろうか。もし私が、その日に彼と出会えていたら、私は進太の心の深い所を、聞くことができたのだろうか。
今の私にそんなことが出来る気がしなかった。
ため息をつくと、橋を下り、そのまま家に帰った。

その晩も、朝のことを聞く勇気はなかったけれど、私は幽霊橋へと向かった。父と継母には、友人と会う約束がある、ちゃんと帰るから心配しないでとだけ告げた。彼らは何も言わずに頷いた。
橋につくと、すでに進太は川を眺めていた。私の気配に気づいたのか、ゆっくりとこちらを向く。今日は曇っていたから、顔ははっきりとは見えなかった。
「やあ、今日も来たのか。家の人とは仲直りできた?」
落ち着く低い声。私はうんと言って、彼の隣に立った。
「進太と話していろいろ、反省したよ私。継母とも、うまくやっていける気がする。私のこと、すごく心配してたんだって。
お父さんもそう。友達のいざこざもめんどうくさいんだけど、なんか、進太と話したら私、そんなことどうでもよくなったよ、なんでだろうね」
そう言うと、進太は微笑んで、「璃らしいよ」とだけ答えた。
沈黙が続いた。月の光はほとんど差し込んでいないから、ほぼ真っ暗だった。川の奥は右に曲がっていて、少し遠い正面には民家が見えた。民家の明かりはぽつぽつと灯っている。その小さな光しか、私には見えない。
「進太、今日ね私、昼間に進太に会いに役所にいったんだよ」
私は、言うか言わないか迷っていたことを口にした。進太は少し驚いたようにこちらをむいたが、少し驚いているようだった。
「あなたの婚約者だったっていう女の人に会ったよ。すごい綺麗な人」
「…うん」
「その人がもう、進太は、死んでるって言っていたよ」
声が震えて、ちゃんと言えなかったけれど、進太の耳にもきっとこの言葉は聞こえていただろうし、きっとそれは事実だったのだろう、進太は川を見るのをやめ、体の向きを変えて、空を見上げた。
「怖くないの?」
「え?」
「その通りだよ、俺は死んでいる。璃は…それが怖くないの?」
私は黙った。怖いといえば怖いけれどそれは、幽霊が怖いとかそういうものではなかった。
ただ進太と私が、全く違う種類の物であることが怖かった。
「…怖いよ。進太が生きていないことが」
空を眺めると、雲の切れ目から星が見えた。
「進太と私は、違うものなんだね。わかりあえたりは、しないのかな」
進太は黙っている。私もなんて言ったらいいのかわからない。私は婚約者の女の人よりも、進太のことがわからない。
「もっと早く、璃に会えてたらよかったね。そうしたら、俺は今頃璃とおなじもの。死んでなんかいなかったよ、きっと。
でも、これが運命だったのかもしれない。俺は彼女と出会って、よかったと思っている。だから彼女はきっと今頃幸せだし、もし俺と彼女が出会っていなかったら、立場は逆だったかもしれない」
「彼女って、婚約者の人のこと?」
「…そうだよ」
進太は大きく深呼吸すると、私に向き合い、私の両腕をそっとつかんだ。彼が私に触れている。なにも知らなければきっと私は、進太が幽霊だなんてことに気がつかなかった。
「いまから言うこと、誰にも言わないで。璃だから話せる。きっとこの話をしたら俺は…消えてしまう。だけど真実を知ってほしいんだ。
俺が進太という一人の人間であったことを、璃だけはどうか、忘れないで」
私は迷った。彼が語ることで消えてしまうのなら、真実など知らずにこのままずっと一緒にいたほうがいい気がした。
でも、ぼんやりと見える進太の真剣な表情をみていたら、頷かざるを得なかった。
そうして彼は語りだした。


俺は、役所の役員の息子だった。
いわゆる世襲というやつで、祖父も役所の幹部だったから、俺も当然のように将来役所関係の仕事に就くことが決まっていた。
暮らしは安定していて小さい頃からとくに物に困ったことはなかった。あのころちょうど世間は変わりだしていたね。俺は新しくでき
た学校に進学した。16歳の時、祖父の友人の孫を紹介された。それが婚約者になる、五歳年上の彼女だった。彼女に両親はいなかった。理由はまあいろいろとあるんだけど。彼女はとても優秀だった。気が利くし、話し上手、聞き上手、上品だし、それに美人だったし、こんな人自分にはもったいないと思ったよ。だけど出会って半年くらいかな、俺は見てしまったんだ。彼女が自分以外の男と一緒にいて、金をもらっていたことを。そしてそれが一人じゃなくて、複数の男だったことをね。
俺は最初なんだかよくわからなかった。ただある夜、この橋の近くを散歩しているときに、路地裏で彼女と数人の男が金のやりとりをしていた。男がどんな身分のものかはわからなかったけど、金をやり取りしたあと、彼女は彼らと一緒に路地裏をさらに奥のほうに入っていって、そのまま近くの建物に入っていった。俺はその建物の中に入ろうとしてやめた。その建物は当時できたばかりだった、暴力団のものだったんだ。そうしてその組のことを後で知ってわかった。彼女の父親が、その暴力団の組長だったことをね。
それから何日かの間、俺は毎晩ずっとその建物を張り込んだ。そうしたらある日、俺の父親が、その建物の中に入っていくのを見たんだ。中でなにがあったのか、俺は知らずに怖くなってその場から逃げ出した。
それ以来あの建物には近づかなかった。親も何事もないように平凡に暮らしているように見えた。
祖父はそれを知ってか知らずか俺に彼女をすすめ、婚約までさせた。両親が強く逆らえない理由もわかった。俺はあえて家族にこのことを言わず、何も気づいていないふりをした。婚約解消を願えば家族の身になにが起きるか分からない。俺はあの日以来彼女を信用できなくなった。全ての笑顔の裏に、なにか隠されているような気がしてならなかったんだ。実際1年一緒にいると、彼女の金に対する執着が異常だということに気づいていた。そうして怖くなった。彼女は俺から金がほしいんじゃないのか。安定した職に就くことの決まっている俺の財産をとっていくんじゃないのかと。まだ17歳だった俺にはなにもかも理解できない世界だった。
けれど実際そんな甘いことではなかった。あの日俺は、夜この橋に彼女とふたりでやってきた。雨が強く降っていた。そうして切り出したんだ、彼女が金のやり取りをしている場面を見てしまったこと、そして彼女の実家が組であることを知っていること。
彼女の表情はみるみるうちに崩れだした。だからって何?私はあなたを愛しているんですよ、と彼女は言った。だけどその言葉がなんだか怖かった。嘘にしか聞こえなくて、俺は、もう耐えられない、いままでなぜ両親はいないと嘘をついてきたんだ、お前も、俺の家族もと言ってしまった。お前は俺の家族を、俺という存在をつかって脅し続けてきたんだと。彼女は本当に怯えていた。だけどそのとき俺も取り乱していて、咄嗟に、彼女のことを川に突き落としてやろうかと思ったんだ。彼女はごめんなさい、と何度も呟いていたよ。俺はそのとき許してやればよかったんだ。彼女だって、やりたくてこんなことやってるわけじゃないのかもしれない。組の家に生まれたという運命が彼女をこうしてしまったのかもしれない。だけどそのときの俺にそこまで深く考え行動することはできなかった。俺は彼女を本当に川から突き落とそうとした。こいつさえいなくなれば俺の家族は自由になれると、そう思ったんだ。でも違った。俺はそんなことを…思ってしまったからだろうか。彼女を突き落とすつもりが、そのまま自分が落ちてしまったんだよ、雨が強く叩き付けていた、この川面にね。



「それで進太は…死んでしまったの?」
私は全て聞き終わると、息をのんだ。彼はゆっくりと首を縦にふった。私はそのときやっと進太の幽霊が怖くなった気がした。
「進太はあの女の人を…殺そうとしたの?」
「そうだよ。俺は彼女を、殺そうとした」
雲の切れ間から月光が差し込んで、進太の顔がはっきりと照らされた。今までずっと気がつかなかったが、進太の右頭部からは、おびただしい量の血が流れていた。
「進…太?」
「言っただろう、前に。俺は全てが信じられない。俺は…何も信じたくないんだよ、この世界で起きたことをね。だけどいつかは、信じたいんだ…」
進太はそう言って、悲しそうにわらうと、ゆっくりと私の頬に右手を伸ばしてきた。彼の手はいつのまにか濡れていた。
私は怖くなってその手を振り払うと、何も言わずにその場から走って逃げた。
進太は私を、追いかけてはこなかった。


その夜私は家に帰ると無言で布団に潜った。親がなにか言ってきたが怖くて覚えていない。私は本当に何もかも信じられなくなった気がした。
一晩の信頼は、さっきの告白で見事に打ち消された気がした。
進太は人を殺そうとして死んだ。理由にはいろんなものがある。進太はきっと悪くない。だけど殺そうとした。そして彼はこの世にいない。
なにもかもが突然恐怖にかわった。進太が全てを知った私を殺しにきたら…私はどうなるのだろうか。そんなこと絶対に進太はしない、となぜだか言い切れなかった。なぜだろうか、私は進太を、信頼できなくなっていた。


その晩、進太が私を追いかけてくることはなかった。目が覚めると、いつも通りの朝が私を迎えていた。起き上がって呆然と辺りを見回す。父親の姿はなく、継母は台所で朝食を作っていた。
「…あの」
声をかけると、継母は驚いて振返った。そして「驚かさないでよ」と言って少し笑うと、食卓の上に、湯気のたつみそ汁とご飯をおいた。
「お父さんは、もう仕事にいったよ」
継母はそれだけいうと、奥の部屋に入っていった。私は何も言わずに座って、作り立ての朝食を口に運んだ。
「…おいしい」
継母の作った料理はおいしかった。今まで素直に言えなかった言葉が、するりと口からこぼれ出る。
少しだけ昨日の傷が収まった気がした。


その晩私は、怯えながらももう一度幽霊橋に足を運んだ。いろいろ考えた末、進太に謝ろうと思ったからだ。
進太が悪い人間なわけがない。彼女を殺そうとしたのも、理由があってのことだった。進太は反省している。話を聞いておいて逃げ出してしまったことを謝ろうと思ったのだ。
しかし進太は橋にいなかった。進太がいつもいるはずの時間帯に、彼の気配は感じられなかった。名前をよんでも彼はいない。彼がいないことをのぞけば、深夜の橋はいつもと同じ光景だった。向こうの民家にぽつぽつと灯がともり、川の流れはゆるやかだ。月の光は雲の切れ目からそっとのぞきこんでいる。雨も降っていない。進太はここにいない。私は声をあげて泣いた。日があけるまで泣き続けた。

そしてはっと目が覚めた。気がつくと私は橋の上で眠っていた。朝日は眩しい。風が少し吹いていて、木々の緑は深々としている。
「あらあなたは、この間の」
その場でぼうっと木の葉を眺めていると、ふいに私の名前を呼ぶ声がきこえた。振返ると、橋の入り口に、進太の婚約者のあの女の人がいた。
「そんなところでなにをしているの?」
彼女は微笑みをうかべて、私に近づいた。手には花束を抱えている。牡丹の花だった。
「風邪をひくわよ」
牡丹の花を、私のとなりにおくと、彼女はそこから川をながめた。
「春も終わるのかしらね」
「…」
私は何も答えられなかった。彼女は川をみながらも、どこか遠くのほうを見つめているような気がした。
「進太は…進太は」
声はすっかり枯れてしまっている。風邪をひいてしまったのかもしれない。私は立ち上がることができなかった。
「進太は、あなたのことを、殺そうとしたの…」
ふいに彼女は私を見下ろした。その顔に表情はなかった。まるで美しい人形のようだった。彼女は私の目をじっと見つめた。
「そう、進太は、そう言ったのね」
すると突然彼女は泣き出した。表情はなかったけれど、彼女の頬を涙がつーっと伝っていく。それも大粒の涙だった。私は呆然と彼女をみつめた。しばらくそのまま、彼女は泣き続けた。声もあげず、どこか遠くをみつめたまま、それはまるで一枚の絵のようだった。私はそれに見とれている。牡丹の花は風でなびいている。
どのくらいの時間がたっただろうか。きっとせいぜい1、2分のことだったのだろう。だけど私にはそれがものすごい長い時間に感じられた。彼女は涙を着ていた服の袖口でぬぐうと、私を見ることなく橋から下りようとした。
「あの、その、どうして」
泣いているのか、と聞こうとしたら、彼女は立ち止まって、「信じられないようなことをしてしまったんだもの、私は」と言った。
「え?」
「進太はあなたにも、嘘をついたのよ」
そして彼女は、橋からつづく一本道を静かに歩いていった。私は彼女を追いかけることもしなかった。彼女の残した言葉の意味も理解できなかった。
牡丹の花は甘く香っていた。


それからというもの私は、幽霊橋には行かなくなった。
家事を手伝うようになったのだ。それも、継母と父親の間に子供ができたからだった。
継母のお腹が大きくなってから、私は継母と以前よりかは話すようになった。父親は相変わらず無愛想でたまに衝突することもあったが、それも以前よりかは減った気がした。
母と妹とは、成人してから父親を通じて年に一度ほど会えるようになった。
二人は昔と変わらず私を愛してくれた。そして昔私を置いていったことを母は会うたびに謝った。だけど私は、継母とも父親ともうまくやっていることを伝えた。いろんなことを乗り越えたことで、一層家族との絆が深まった気がした。
学校は卒業した。仲の良かった友達三人とは、卒業してからひと月に一度くらいのペースで会うようになった。会う頻度が減って分かった気がする。私はだれかとべったりというのが向いていないのだ。ほどよい距離感で、信頼をよせる人との会話を楽しむことが一番なのだ。自分のことを前よりも理解できるようになった気がする。
都市部は発達し、電車も通うようになった。私はそれで都市のほうに働きにでたりした。そこでは地元にいるときよりもっと人との関わりが増えた。何度か出会いもあった。そのたびに、進太のことを思い出した。
私は花屋で働くようになった。小さな花屋ではあったが、私はそこが好きだった。
そこにいるとなんとなく、進太がそばにいるような気がしたのだ。
進太のことは忘れたことは一度もなかった。
婚約者とはあれ以来一度も会っていないし、進太の幽霊にも当然あっていない。
あれは私の見ていた夢だったのかもしれない。最近ではそんなことさえ思うようになっていた。
だけど進太の存在は、私にとって大事だった。できることならあの日、進太から逃げて別れてしまったことを謝りたかった。
たった一晩で好きになった進太。どうして私と彼は出会ったのだろうか。彼はなぜ私に「事実」を話してくれたのだろうか。
それはいまでもわからない。あのとき、私は真実を聞いて正解だったのだと思う。もし聞かなければ私はこうして、自立し自分を理解することができなかったような気がするから。
だからそういう意味もこめて、進太には感謝している。謝りたいし、ありがとうと伝えたい。そしてあの頃抱いた淡い恋心を伝えたかった。だけどあの夜以来、進太が私の前に現れることは一度もなかった。



あるとき、店に一人の客がやってきた。白髪の美しい老婆だった。身なりもきちんとしていて、上品な振る舞いからは人格のよさまで感じられた。ゆったりとした口調で彼女は、牡丹の花はないかと尋ねた。ふいに、進太の婚約者を思い返した。
「こちらにございます」
そうして牡丹の花を見せると、老婆は微笑んで、それを手に取った。
「私は毎年この花を、ある人に捧げているの」
老婆はそう言うと、牡丹の花を右手で、そっと撫でた。
「どうして、牡丹の花なんですか?」
「牡丹の花の花言葉にはね、謝罪という意味があるの。私は昔犯した過ちを、せめて牡丹の花を捧げることで償いたいと思っているのよ。まあそんなことをしても許されるはずがないでしょうけどね」
老婆の寂しそうな言葉を聞いて、私はあのとき、なぜ婚約者が牡丹の花を持ってきたのか、なぜ彼女が涙したのか、なんとなく分かった気がした。
あのときの彼女が流したような涙が、つーっと私の頬を伝った。
婚約者のことを、進太は心から愛していたのだ。
そして婚約者も心から愛していた。きっと今なお彼女はあの橋に、牡丹の花を捧げ続けているのだろう。
私の進太への片想いは、伝えたところできっとふられてしまうだろう。
店をでていく老婆に軽く手を振りながら、私はそんなことを考えた。
そしてそれからも進太は、私の目の前にあらわれることはなかった。


〈終〉

となり

となり

幽霊橋とよばれる橋での、ある夜の出会い。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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