影法師のヰタ・セクスアリス

戦後間もない・・ 昭和20年代の初期・・・北海道S市に ・・・

影法師は、生まれました。。。。

それから・・・ 20数年?

東京タワー も・・・・ 東京オリンピック も・・・・ 新幹線 も ・・・・

無縁な 北海道で・・・ 小・中・高・大・・・と 過ごしました。。。


興行師の父親と 芸者置屋の帳場の娘である母親のもと・・・

影法師は・・・成長ではなく < 性長 > していきます?(笑)



『  女湯・・・天麩羅屋の娘・・・・巨乳の体育女教師・・・

ユニークな先生達・・・ そして 悪ガキたち ・・・ etc 』


登場人物は・・・ すべて 実在の・・・・得がたいヒトばかりです。


還暦過ぎの チョイ ボケの ・・・ 影法師が、

思い出し& 思い出し ・・・・でも、いたって 真面目に(笑)

 書いてます、、、


題名は、、、、

地下の 鴎外先生に 怒られそうですが・・・

【 影法師の ヰタ・セクスアリス 】 といいます。



文章が 下手です、、、 モタモタとしています、、、

ナカナカ 前に 進みません。。。。


でも、、、 貴女にも 憶えのある 青春の いちページ !


良かったら・・・ 「 そうそう 」 とか 「 えぇ うっそォーー 」 と


云いながら・・・・ お読み下さいませ・・・。 

影法師 誕生と黎明

≪ 影法師の誕生≫


戦後間もない昭和23年の秋、北海道のS市に 僕は生まれた。

身持ちの定まらない 親父の50を過ぎた男子誕生だったから、文字通り 溺愛された。

当時煙草の小売りを営んでいた実家には 風呂は無く、毎晩近所の銭湯へ通っていた。

母親に女湯に連れて行かれた僕は、どういうわけか 女達の乳に執着した。

そしてまた、女達も そんな僕を面白がって 乳を見せたり触らせたりした。

多分 その当時の僕には 性衝動からではなく、乳の感触が良かっただけなんだと思う。


今となっては・・・ 5才や 6才の 頃の 記憶でしかないが。。。

ただ 若い娘達の乳は 小さくて、子供を産んだばかりの 女の乳が とてつもなく 大きく 僕の 視野に 迫っていたこと。

それと 女たちの 股間の黒い茂みは、凝視しては いけない事などを 子供ながらに 感じていた。


やがて、この女湯通いは 小学校入学をもって 終わりを告げ、 親父との男湯通いがスタートした。


≪11才の春≫

小6の時の同級生のO君の父親は、歯科医で しかも金持ち相手の開業医であった。

PTA会長でもあった彼の父親は 所謂〈女誑し〉だったようだが、子供社会では なんとなく ヒーロー扱いをしていた。

ある日 三人の同級生と一緒に、O君の家に遊びに行った。

父親の留守中に 悪ガキの云う〈すげえモノ〉を 見るためであった。

彼の父親の部屋にあったその〈すげえモノ〉は、外国製のグラビアで、恐らく 父親が海外旅行の際に購入したものであろう。

十ページのグラビアは、怖いもの見たさの 10歳そこそこの少年達の好奇心を最大限に高めた。

なかでも僕の目に焼き付いたのは、真っ赤な髪の女の写真だった。

女が両手で持ち上げた 乳房は、まるで まくわ瓜のように巨大で その尖塔の突起物は、赤く熟したイチゴみたいだった。

さらに 大きく広げた二本の太い脚の間には 赤黒い密林が茂っていて、その奥には 不気味な洞穴が見えた。

それは、怒り狂ったヒグマの口にそっくりだった!

もっと昔に、銭湯で 見た 女達の それとは ずいぶん違うような 気がした。


もっとも その時は、そんな事を考える余裕など あるはずもなかった。



≪11才の秋≫

どうしても、生身の女性の あの部分を見たい僕の標的になったのは、小学校の同級生のA子であった。

当時 実家の煙草屋の隣は、小さな市場があって A子はそこの天麩羅屋の娘であった。

彼女の母親は 天麩羅の油のにおいを 酷く嫌い そのため 爺さんは、息子の嫁のために手製の内風呂を造った。

近所の同級生の家でもあり、惣菜を買いに行ったりと、何度か 遊びに行っていた僕は、この内風呂の壁に 隙間があるのを 知っていた。

ある日の午後、天麩羅屋に行くと、A子の母親が「A子今お風呂だから待ってて・・・」と云った。

黙って頷いた僕は、猫の額ほどの裏庭に向かった。
すると内風呂から、A子のと思われる 湯の流れる音がした。

粗末な壁の隙間から、覗き続けた僕に見えたA子の胸は 〈まくわうり〉どころか 真っ平らで 膨らみなど どこにも無く、股間にも 白い饅頭が見えただけだった。

ひどく不機嫌になった僕が、店を出ようとした時、爺さんが 天麩羅を上げながら 歯の無い口を ニヤッと歪めて・・・「T坊 また見に来な?」と 声を掛けてきた。

それから 僕は、母親の使いで 惣菜を買いに 天麩羅屋に寄ることはあっても、家の中に入ることは 二度と 無かった。

この天麩羅屋については後日談があり、風呂場の壁の隙間は 爺さんが 嫁の裸を覗き見するために空けたものだった。

そして、ある日 爺さんは 嫁にちょっかいを出し、珍しく怒った息子に 殴り倒され それが もとで とうとう爺さんは、寝たきりになったということであった。


とにもかくにも、僕は 小学校を卒業した。

性の触発と暴発

≪中学入学≫

(一)
昭和三十×年 僕は中学へ入学した。

実家の煙草屋から歩いて30分程度の R中学校の生徒になった僕は、入学するや否や、立て続けに 〈セクシァルショック〉の 洗礼を受けた。

当時、英語は中学から初めて 習うものであった。

人一倍 新しモノ好きだった僕は、最初の英語の時間に 興味津々であった。

その日教室に入ってきたのは、長い髪を キリッと束ねて後ろに垂らした 長身の女の英語教師だった。

Yという名の三十代前半の独身の女教師は、情報通の悪ガキによると あだ名は〈乳ブラ〉と云うそうだ。

確かに、片手に教科書を持って 腕組みしながら、教室を 行き来する様子は・・・〈乳ブラ〉であった。

Y先生は また〈美少年好き〉でもあった。


同じクラスの F君は 当時 近所に何人かいた〈お妾さん〉の倅で、小学生の時から 家庭教師に 英語を習っていた。

おまけに、中学生のくせに・・いつもポマードを塗った頭を七・三に分けていた。
当然、英語の発音も 他の生徒とは違っており・・・。

Water は〈ワター〉Little は〈リル〉であった。

勿論 ついたあだ名は、〈ワター〉であった。

ある日の 英語の時間のこと。

教室の最後尾のワターことF君の席の前に来たY子先生は、F君に教科書を読ませながら 妙な仕草を始めた。

いつもの通り 両手は 胸の前で 組まれてはいたが、両足の付け根あたりを スカートごしに F君の机の角に 擦り付けていたのである。

F君も、隣の席の僕も その行為の意味を正確には 把握してはいなかったが なぜか気がつかない振りを続けたのであった。



僕が、そういう 性癖の女性の存在を知るのは ずいぶん 後のことだった。


(二)

入学と ほぼ同時期に 覚えたのは、中学生の麻疹(ハシカ)と言われる(笑)自慰であった。

中学時代とは 誠に不思議な時代で、秀才・優等生・劣等生・悪ガキ・クズ・カス・・・・

まさに〈玉石混交〉であり、しかも 各々が存在感を持ち、渾然一体となっていた。

当然 自慰に関して云えば、優等生にとって 悪ガキは 先達者であり、〈師匠〉であった。

しかしながら 自慰行為で、最高点の快感を得るには それなりのリビドー(性衝動)が 必要であり、俗語で〈せんずり〉=千回擦って 快楽を得る という意から来たらしい= だけでは、それこそ 千回擦っても 味気の無いものであった。

リビドーを得るには想像力が必要であり、想像力を発揮するには〈ネタ〉が必要不可欠だったが、ビデオもネットも無い時代。

いわゆる 成人映画館に入る度胸も金も無く、周りには 〈発育不全&色気なし〉の田舎の女子しかいなかった。

そんな 中学一年の秋 〈ネタ不足(笑)〉の少年達に、衝撃が走った!

東京の大学をでたばかりの J子という 体育教師が赴任してきた。

笑うとエクボが可愛いJ子先生は小柄ながら ピチピチとした躍動感に溢れていた。

少年達の目を 釘付けにしたのは、体育時間のその服装であった。

初めて見るジャージィなるものの胸は大きく膨れ上がり、思いっきり引き上げられた揃いのジャージィの股間の模様は、憧れのアノ部分を際立たせていた。


当時はまだ 教師の地位は絶対的であり、例えば〈体罰〉があっても 問題になるどころか 逆に 「先生に面倒かけやがって!」と 親から 更に拳固を貰う・・・ そんな時代であった。

なので、教師への反逆や 女教師へのナンパ行為等は 御法度だった。


少年達は、体育の時間になると、J子のジャージィ姿を遠くから溜め息とともに見るのが精一杯であった。

ただ 噂によると・・・

どうにも我慢の出来ない悪ガキ数人が、家から持ち出した双眼鏡で 男子便所の窓から J子を 代わる代わる覗き見しながら、まだ完成途上(笑)のぺニスを弄っていたらしい。


その後 J子は、体罰で生徒達から怖れられたOという体育教師の後妻になったそうである。



(三)

一昨年の秋のこと 還暦を記念して、小・中・高それぞれの同窓会がS市で開催され、六十才になった僕も参加した。

なかでも、恩師達が夫婦連れで参加した中学校の同窓会が一番盛り上がった。
なにせ 〈玉石混交〉の45年後である。

悪ガキのひとり Y夫は水産学校を出て道東N市の漁業組合長であり、飲酒行為で中学退学寸前だったRは なんと A市刑務所の看守長であった!

恩師達の変わりようも同様であった。

中学時代 いつも連れ立っていた 三人の男性教師がいて、名前を〈神保・江尻・宮下〉と云った。

僕達は いつも一緒の三人を 名前をもじって、〈チンポ・イジリ・ミマシタ〉と 呼んでいた。

最年長の江尻先生が既に他界しており、会には 残りのふたりが ソックリの禿頭で出席された。


どうやら、あだ名は 承知のようで・・・ 「一人減ったので、今じゃ?チンポ見ましたァですよ」と笑って話していた。



(四)

そして 例のOとJ子夫婦のことである。

ステッキをつきながら 会場に到着したOは、汚いシミだらけのヨボヨボ爺であった!


無理もあるまい 既に八十をとうに 越していたのである。

当時毎日のようにOの体罰攻撃を受けていた<R看守長殿>なぞは、逞しい拳を握りしめて、「今なら・・・勝てるよな・・・」とふざけてOを睨みつけた。


それに対して、Oはビクビクと下を向いてしまったものだ。


一方 丁度七十才のJも すっかり お婆さんになっていたものの・・・ 今でもエクボは 健在であった。


今やもう お互い何でも話せる歳になっていた。

ジャージィ姿に、胸をときめかせながら 股間を熱くした話など、大いに沸いた。


J子(Jお婆さん?)も、「あらマァ!言ってくれたら?いくらでも見せたのに?」と、大はしゃぎであった。

つい調子に乗って「ご主人とは、今でもラブラブですか?」

答えて 曰わく、
「 今だから話すけど このひと 私をどうしても嫁にしたくて・・・・前の奥さんに難癖を付けて、結局 追い出しちゃったのよね!

でも 一緒になって三年もしないうちに、体育の授業中の怪我のせいで アレが駄目になったのよ・・・。

今じゃ?出るのは オシッコぐらい・・・それも、オムツの中に・・・ネ 」

意外な話の展開に、僕達は無言で聞き入るだけであった。


Jお婆さんの言葉は続いた。

「 そんなわけでネ・・・ 子供ができなかった 私たちは、お互い早くに両親も亡くしてい
るので それから ずーっと二人っきりだったの。・・・・」


その時だった それまで 下を向きっぱなしだった Oが、不安な面持ちで Jを見た。

それに気がついたJは、シワとシミだらけのOの手を撫でながら・・・ 「 あなた・・・ 大丈夫ですよ。 あなたが お墓にいくときも、一緒に居ますからネ・・・」


その夜 僕達は 遅くまで 飲みながら 旧交を温めた。

だが、Jの話しに毒気を抜かれてか(笑) 心から酔った者は 少なかった。

YやRが 口を揃えるように 「 結局 変わってなかったのは、Jのエクボだけだったなァ?」



そして、中学二年の春 僕は M子との 運命の出会いを果たすのだった。



《 中学二年 春 》

(一)

M子が 名古屋の中学から、僕のクラスに転校してきたのは中学二年の春だった。

目鼻立ちのはっきりした 大柄の M子は クラス いや 学校中の男子の 注目の的であった。

田舎の中学生では あまり見ることのない 派手な洋服を纏った その胸は盛り上がっており、特に腰から尻・腿への肉付きは 見事に 育っていた。


悪ガキ達は 寄ると触ると M子の話で持ちきりで、「 M子は もうやってるぞ 」 とか 「 M子とやりたいなァ 」等と 大騒ぎであった。

僕は、〈やる〉と言う言葉が男女の性行為を指すということはわかってはいたものの・・・具体的に何をどうするのか・・ までは、理解の外であった。


M子の存在は、男子のみならず 女子の間でも注目を呼んだ。

そのうちのひとり H美は オツムが少し○○い子であったが・・・ ある日 まるでM子みたいな大きな胸を突き出して 登校してきた!

だが よく見ると、そのラインは ガタガタであり どうやら 新聞紙を丸めて セーターの下に 押し込んだらしかった(笑)。



なんとまあ、M子は罪作りな女の子であったことか。


(二)

そのM子と僕が いわゆる 《ダチ》になったのには、訳がある。

それは お互いの父親の存在であった。


当時の娯楽の中心は、映画・お祭り・サーカス・大相撲などであり これらはみな 興行師&興行団体が 取り仕切っていた。


ヤクザ・暴力団・テキ屋etcが、表向きは・・〈仁と義〉を守りながら、それぞれの役目を務めていた時代ではあった。


S市の場合は それはG組であり、僕の父親は その中でも かなり重要な役目を負っていた。

しかし、父は組員にはならなかった。


実は当時 大相撲の地方開催は 〈青空興行〉と呼ばれ、屋外の臨時施設を使用していた。

S市を南北に区切る《大通り公園》に会場を設営したが、市の管理にある公園を 暴力団に使用させるわけにはいかなかった。

そこで 父の登場である。


僕の父親は、小さなタバコ屋のオヤジではあったが、S市の商店街の組合長でもあった。

父は、公園の使用認可を 市から受けた。


つまり、〈組長〉には貸せないが 〈組合長〉ならOKということらしい(笑)

なんとも 長閑な話ではあるが・・・・。


そして、使用権はG組に又貸しされた。


H市とA市で一日 S市で 3日 都合5日間の北海道巡業は、G組はもとよりS市にもかなりの利益をもたらした。


しかし いかんせん 青空興行の泣き所は、〈雨〉である。


ひとたび 雨天中止ともなれば、観覧券の払い戻しのみならず 関取衆等関係者の〈アゴアシ〉の全額保障が 待っていた。

屋内施設さえあれば ! と 誰もが歯軋りをしていた。



それから 間もなく S市のN地区に、近代的な屋内スポーツセンター建設計画が決まった!

しかし 週末&祝祭日に そこで開催されるのは、当時 大相撲と人気を二分した 〈プロレス〉と歌謡ショーであった。


そして 内地(道民は本州の事をこう呼んだ)の名古屋から〈先振れ>としてS市に 乗り込んで来たのが、・・・M子の父親であった。


(三)

M子の父親も興行師ではあったが、いわゆる〈武闘派〉ではなかった。

彼は、S市上陸前に G組にきっちりと挨拶をつけた。

筋道を通したM子の父親に 対して、G組長はあとの話を 僕の父に託した。

自分のひとり娘の転校先の同じクラスに、交渉相手の倅がいると知った彼は M子に 仲良くしろと云った。


それは 恐らく 喧嘩をしたり もめたりするな という程度のつもりだったのであろうが・・・・。


M子は 文字通り 僕と < ナ・カ・ヨ・ク >しようと したのであった。

ある日、前日 左肘を痛めた僕が 体育を休んで 教室で自習をしていると、M子が 入ってきた。

どうやら <生理休み>らしかったが、隣の席に座ると 僕に意味ありげに云った。

「あのさぁ・・・Tクンはさぁ…体育の時 いつも 私のココ見てるでしょう?・・」


そう云って、M子は片方の指で セーターの胸を もう片方の指で スカートの股の部分を 指差したのだ。

確かに体育の時のM子は身体に貼り付いたようなジャージィ姿であり、男子生徒達の目を惹いた。


それは決して僕だけの所業ではなかったが、突然のM子の言動にドギマギする僕に、追い打ちをかけるように M子は 「 私 Tクン 嫌いじゃないから・・・ 見せてあげる・・・」

なんと、M子はセーターを捲くり 白いブラジャーに包まれた豊かな胸を露わにすると、更にスカートをたくしあげて、下着姿の中身を自らさらけ出したのだ。


さすがに 顔を赤らめてはいたものの、僕を見る目には 悪びれた様子は 見えなかった。


「好きなだけ 見ていいよ 」

しばらくM子のソコを凝視していた僕は、本当は触りたくてたまらなかった。


だが さすがに学校の中であり、M子もそれ以上誘いはしなかった。

そして その週末の土曜日、僕はM子に誘われるままに 彼女の家に行った。


(四)

その時の僕には、多少の後ろめたさはあったものの、それ以上の異性への好奇心と 人気者のM子に選ばれたという奇妙な責任感(笑)があった。

でも 一番の決め手は、M子の<おおらかさ>だった。

きっと 悪いことは起きない・・・・ その時の僕は、なんとなく そんな風に 感じていた。

学校から歩いて20分のところにあったM子の家は、小さな庭のついた二階建ての家だった。

興行師の父親はA市へ行って留守であり、小料理屋を営んでいるM子の母親も店の支度に出掛けたところであった。

僕たちは、二階にあるM子の部屋に入った。


座ったとたん、いきなり僕の手を取ると「キスしてくれる?」とM子は云って、目を閉じた。

云われるままに 僕は、M子の唇に 我が口を押し当てた・・・・ それは まるで 鳥のツイバミのように ぎこちないものであったが 、互いの感情を高めるには 充分であった。


生まれて初めて、己の両腕に抱えた 異性の躰は、柔らかく 温かく そして いい匂いがした。

おまけに 次第に密着度を増していくM子の躰の凹凸が、これまで経験したことのない刺激を発していた。

M子の胸をブラウス越しに探っていた僕の掌にも 知らず知らず力がこもっていった。


「 直に触りたい・・・」 と 僕。

「 いいよ・・・ でも 力入れないでね・・ 痛いから・・・」


M子は 優しくそう言うと、ブラウスの前を 開けた。



白い綺麗な双丘を目の前にした僕は ( 落ち着け、落ち着け! ) と自分に言い聞かせながら、M子の左右の膨らみを揉み続けた。

いつしか ブラジャーの中まで潜り込んだ僕の指先は、M子の膨らみの尖塔を摘んだ。

「 アッ ・・・ 」 小さく声を発したM子だったが 嫌がる様子は無かった。


本能の命ずるままに、僕の手はM子の下半身に伸びた。

すると それを待っていたかのように、M子の手が 僕のズボンの前を押した。

僕のソレは すでに普通の状態ではなかった。

M子自身も 快感に突き上げられながら うわずった声で続けた。

「 男の人は ・・・こうすると ・・・ 気持ちがいいんでしょう? 」

そう云うと M子は、彼女の秘丘を下着の上から触っていた僕のソレを、ズボンの布越しに 握った。


ただ握ったり緩めたりの繰り返しであったが、僕のソレは もう制御不能になっていた。


身体の奥から電気が走り、僕の口からは 何とも情けない 苦鳴が洩れた。
「 あァ?ッ ! うゥ?ッ !!!!! 」

身体を折り曲げながら、僕は呻いた!
「 ダッ 駄目だァ-----!! 」


次の瞬間 僕はパンツの中に 激しく 弾けてしまった!


(五)

チリ紙でゴシゴシふき取ったものの、〈青春の痕跡〉はなかなか消えず ・・・

その日から数日間は、ソレを洗濯したはずの 母親から 何か云われるのではないかとか、父親にも 話すのか とか、気が揉めた。

だが、結局ふたりからは一切この話は無かった。

しかも、性の魅力は 断ちがたく それから 十日もしないうちに 僕は再びM子の部屋に居た。


戯け始めたM子に 「 実は この前 大変だったんだよ・・・」 と訳を話すと

「 なぁ?んだ そんなこと・・・・ ちょっと 待っててネ 。。。」


部屋に戻ったM子の手には、チリ紙の束があった。


当時の便所には、トイレット・ペーパーなどという洒落たものはなくどこでも〈チリ紙〉であった。

「 ネ・・・ これがあれば 平気でしょう! 」


最初のうちは なかなかタイミングがとれず 失敗したが・・・


そのうちに、マグマの噴火とチリ紙の出動が ぴったり合うようになった。

まさに、〈備えあれば憂いなし〉である。(笑)


〈チリ紙〉という最強の武器を手に入れた僕とM子は、月に2・3度会うようになった。

紅涙と別離(わかれ)

(一)

今から 想うと、M子と僕は いわゆる《相性》が良かったのだろう。


その人の人生で最初に触れ合った異性と、《相性》が良いということが どれほどの幸運であったか・・・

14才の僕には、知る由もなかった。


ともあれ 二人の仲は 一層深まっていった。


柔らかくそのくせ 少し固さのある M子の乳房を 僕は愛した。

それ以上に 逞しい太腿と大きなお尻が 大好きだった。


M子は時々 こう云った

「 ・・・ 私って・・・ 下半身おデブでしょう?・・・ 」

「 ううん…Mの この足とお尻が 僕は大好きなんだよ 」

すると M子は嬉しそうににっこりと微笑むと、パンツの上から 僕の分身を撫でさすった。


時の経過とともに、二人の愛撫も進化(笑)して お互いの下着の中に手を入れて 愛し合うまでになっていた。

相手の掌の感覚を 直かに感じながら、腰を動かして リビドー(衝動)をコントロールする事さえ覚えた。


だが・・ どんなに高まっても、全裸になることはなかった。

ひとつには、僕のソコの毛がまだ生え揃っていないのが 恥ずかしい(笑)のと・・・

もうひとつは、最後の一線を越したくなかったからである。



父親の仕事柄 M子の家には、若い男女の出入りが多く そのため、じゃれ合う彼等の 痴話や痴態を見聞きして育ったM子は 性交渉とその結果について、それなりの知識があった。


このころのふたりは、大人になったら当然結婚するものと 信じて疑わなかった。

なので、二人の愛の行為も 秘密めいてはいたものの不潔なことだとは 思わなかった。


汗を滲ませた額に髪の毛を貼りつかせながら、躰を弓なりに反らせるM子を

僕は、本当に美しいと思っていた。



しかし、その日は突然やってきた!


(二)

長い冬の訪れを告げる白い結晶が鉛色の空から舞い降りた頃、
S市のスポーツセンター建設が スタートした。

それは同時に 〈先振れ〉としての M子の父親の任務終了を意味したのだ。

この種の仕事に携わる大人達の 決断と行動は素早かった。


G組長を交えた話合いで その後の筋は全て決まった。


一見絶対的かつ普遍的に見える<仁&義>と <裏切り&仕返し> は、
実は 表裏一体の世界であった。



父親達は 自分達の娘と息子はもとより全ての関わりを 白紙にすることにしたのだ。


将来 何が起こっても 対処出来るよう 後顧の憂いを 除いておこうということであった。


二人だけの< 秘め事 > だと思っていたのは・・・ オメデタイ当人達だけだったのである。


その日の 夕食後、父は珍しく 僕を呼んだ。

そして 低い しかし 力のある声で 告げた。


M子の父親が仕事の都合で 名古屋に帰ることになった。

お前の友達のM子も 家族全員だ。

付き合いが あったらしいが、今後 関わるな。

だから 電話も手紙も 一切ダメだ。


最初 僕は 父親が 何を云ってるのか 分からなかった。


そんな 僕に 父親は 同じ話を もう一度 云った。


あまりに大きなショックを受けると、声を失うということを この時 僕は 経験した。

それでも・・・ 僕は、声を振り絞った !

・・・・どれほど M子のことが好きか ・

・・・この先M子のいない人生など考えられないし、将来の結婚の約束のことまで!

途切れ途切れに 訴えたのだった。


・・・・大人も時には、間違いをしでかす・・・

いつも正しいとも限らない。


ただ この時 二人の父親が下した判断は、自分達のエゴではなく子供達にとっても 最善の策であった。

・・・・・・が


それを理解するには あまりに 僕は幼な過ぎた。



「 だったら! 僕も名古屋に行くッ ! 」

と 次の瞬間 ! 父の拳が 僕に飛んだ !

それは 六十過ぎとは云え、大人の男の遠慮の無い一撃だった !

ひとたまりもなく 床に吹っ飛んだ僕は、激痛のあまり 転げ回った !

口の中いっぱいに 酸っぱいモノが広がり 溢れ出た。

異物感を感じ 舌で押し出すと、それは 欠けた僕の < 歯 > だった。

赤い血泡の中で、その真っ白な<歯>は、奇妙に艶めいて僕は一瞬痛みを忘れたほどだった。


それを 見た父の 何とも云えない 顔を見た時

僕は ようやく どうにもならないことと悟った。


翌日から M子は学校に 来なくなり、三日後には 名古屋に帰った事を 担任教師がクラスのみんなに伝えた。

M子と僕の事は、クラスの連中も 知っていたので 僕の様子を盗み見する者もいたが、 僕には そんな事は どうでも いいことだった。

ただ M子のいないことを 信じていない 自分がいた。



数日後の雪の日、 僕は M子の家を訪ねた。


主のいない家の中には、少し前まで人がいたはずの痕跡が、文字通り 何一つ残って無かった。

僕は 二階のM子の部屋に入った。

すでに電気は止まっており、窓からの雪明かりに ぼんやりと照らされた部屋の中を それでも僕は 眺めていた。

僕は 床にしゃがむと 畳を見つめ そして 撫でた。
まるで そこに M子が いるかの如く。



畳をなでる僕の指先が あるものを捉えた。


それは 真新しいひっかき傷だった。

M子が 何度も何度も爪を立てた痕だとわかった。


僕は 思わず 顔を押しつけた。

幽かにM子の匂いを嗅いだ気がした。

それは、まさにM子の紅涙の匂いだと思った。

次の瞬間、それまで 押さえていたものが 一気にこみ上げてきて!

声を上げて泣く僕の目から 滂沱の涙が 零れ落ち 畳の傷痕に 染み込んでいった !


全身全霊で愛し合った M子と僕は また ひとつになり・・・・・

そして 本当に ・・・ 別離(わかれ)たのだった。

我が父のこと= 北海の竜虎と呼ばれた男達 =


≪ 父の出生 ≫


(一)

これから 先へ話を進めるに当たっては、今は亡き 僕の父について 語っておかねばならないと思う。


ただ 以下の話は 父が晩年になって、僕と酒を酌み交わしながら ポツリポツリと重い口で語ったモノを、あらためて 僕が紡いでいるものなので、

郷土史専門家の お偉い先生方からは クレームがはいるやも・・・・・・。(笑)

父は、明治32年 新潟県は佐渡島の < 昨今は トキセンターで有名になった> N村に、T家の次男として生まれた。

幼名は S吉と云いのちに Tと変名した。


本家は 佐渡金山奉行所の重役の家柄であり 明治新政府以降は、R市農協の理事長を 世襲で務めている。


しかし 父の生まれた佐渡島には、島人達が生き延びるために 考え出された残酷なまでの因習が 存在していた。

T家のような <名字帯刀> を許された者の 家の中は、三段に分かれていて 上段が<ゴザ畳の間> 中段が<板の間> 下段が<土間>であった。

そして 上段は 祖父母と長男夫婦とその子供達が、中段は次男以下の子供達が、さらに下段は 文字通り下男・下女の生活の場として決められており 呼ばれない限り 上の段に行くことは許されなかった。

そして 長男(総領とよばれた)のみが 妻をめとり 子供をもうけ 一家を持つことができた。

金山を守り、そこで働く流刑人(佐渡送り)を 常に飢餓状態に置くため、佐渡島では 新たな開墾は厳禁であった。


つまりは 毎年の決まった収穫量で 賄うためには、人の口を 増やすことは <飢え> につながるという危惧から考えついた因習であった。

そのため、人口増加を防ぐ手段として 長男以外の妻帯を禁じたのである。



だが、差別は それだけではなかった。

長男は 散髪&結髪をはじめ、羽織袴・雪駄・観劇・物見遊山そして就学等が許され、勿論 三食の中身も違っていた。

更に 信じられないことに 長男が死んだ場合 次男が総領を継ぐが、その際は兄の妻を娶り 兄の子等の父となるのが 定めであった !


《中段住まい》以下の男達の満たされぬ<性>へのエネルギーの矛先は、特に 祭りの夜に爆発し 結果数ヶ月後 何人もの下女達の下腹が膨らんだ。


その 多くは、尖閣湾の断崖を跳んだりして、堕胎された。


中には この世に 産み落とされた命もあったが、その子等の選ぶ道は
下男・下女としての 家畜の如き道か、花街での苦界しかなかったのである。


(二)
このような不条理な人生を たいがいの者は、己の運命と受け入れたが 稀に刃向かう輩もいて、彼等は島を逃げ出したが・・・・

その先には 何の光條も見えなかったのである。


父も わずか 八才にして 島を脱出した。

裏日本を北海道まで 北上する <廻船>に乗り込み 苦労の末 道南の ?町に辿り着いた。

函館と小樽の中間に位置する港町 ?町には、父の叔母が嫁いだ海産物問屋があった。

だが 叔母は商売に命懸けの <烈婦>であったから 島から逃げてきた 少年には容赦はしなかった。

勿論 学校には 行かさず 一介の奉公人として 一日中働かせた。


だが こんな生活であったが、父には 少しも 苦ではなかった。

港町 ?には、様々な ヒトとモノと情報が 行き来した。

それら全てが、父の 血となり肉となったのだ!

こうして 小学校すら 行けなかった 父だったが、日々の仕事の中で 最低限の 読み書きを身に付けた。


とりわけ いわゆる<算盤勘定>については 生きる術(すべ)として 他人に 抜きんでていたようである。


その後 北海道最大の街 S市に移った父は、G組の初代組長と出会う。


≪ S市 定着 ≫

(一)

当時 それまでの 様々な仕事の変遷を経て、<煙草専売業>の鑑札を得た父は S市一番の商店街で タバコ屋を営んでいた。


だが 実際に 店を切り盛りしていたのは、父の三番目の妻であり 僕の母でもある C代であった。


これには いささか訳がある。

当時は独身の男の社会的信用度は 非常に低かったため、<仲人口>と呼ばれる夫婦が見合いを進めて かたっぱしから身を固めさせた。

だが 籍を入れて 暫くすると、父の <新しモノ好き> の血が騒ぎだし、フッと どこかに 行ってしまうのだった !

携帯電話も無い時代、、、、しかも元来が 筆不精の父のこと。

それから 何年も消息は途絶えたままであった。


すると かの<仲人口>が 来て 配偶者消息不明として、籍を抜き 新たな嫁ぎ先を探す段取りとなる。


何年かして 父が戻ると また <仲人口>が・・・・・。

しかし、身を固めると 途端に くだんの<虫>が 騒ぎ出すのであった !

そして またもや 行方をくらました。

今で云うならば 配偶者放棄である(笑)。

そこまでして 父を夢中にさせたものとは・・・・・、

巨大風船を使った広告事業(いわゆるアドバルーン)であったり、

パチンコ遊技業等 様々であった。


しかし 昭和十年代に入り 世の中も 騒然となり 四十才を越えた頃、

さすがの父も S市に戻り ようやく腰を落ち着けたのであった。


さらに、G組長の口利きで 当時陸軍北部師団が駐屯していたA市の
芸者置屋の帳場を勤めていたC代と 夫婦になった。



(二)

戦前・戦中・戦後? 当時の商店街は まことに 荒っぽかったらしい。

大陸帰りや 戦地戻りや 内地喰いつめ組 さらには ○国人等 海千山千の、<ごった煮状態>であった。

特に 北に<大通り公園> 南に北海道最大の歓楽街<ススキ○>を 控えた この商店街は 大小のいざこざが絶えなかった。

<大>の対応は G組に依頼することが多かったが、<中小>の揉め事は 町内会長(組合長)の父の出番であった。

曰わく、カミサンの指輪が盗られた とか 隣の庇が一寸出っ張っている とか ○○のオヤジが店の看板に小便を掛けた とか・・・ 一見 たわいもないが、放っておくと 大事に至りそうな 事象である。


こういった場面で 効果的な 代物のひとつに、刺青の存在がある。

地球上の刺青の風習の多くは、己に神を彫ることにより 身を守るという 宗教的な意味合いが強い。

日本独特のものとしては、火消しや漁師等 危険な職業の人間が 上記の意味に加え 万が一の際に 己の素性を判明してもらう手段(いわば鑑札札)として 彫った。

さらに もう一つの理由が 極彩色の刺青を人目に曝し、相手の戦意を喪わせることにより 己も相手も傷を付けずに コトを納めることにあった。

刺青は アウトロー(無法者)の男達でさえ 苦鳴を上げ ! 涙を流すことから <ガマン>とも 呼ばれる。


したがって、彫りや彩色が精緻で 身体を覆う面積が大きいほど 効果があったようである。


つまりは それほどの<ガマン>に耐えた オトコ(漢)を 本気にさせる覚悟があるかどうかということなのだ。



当然のように 父に刺青を勧める者は 少なくなかった。

しかし 父は刺青を頑なに拒んだ。


ひとつの理由は、額に汗をかかずに生きる ヤクザ気質が、どうしても肌に合わなかったこと。


だが 一番の理由は、自分に子供が授かった場合に その子には 落ち着いたまっとうな人生を歩んでもらいたいと 切に願っていたからであった。


結局 父は生涯、定番の(笑) <龍・虎>や<弁天様・不動明王> は、もちろん <アリの子>一匹すら 彫り入れることは 無かったのである。


そのお陰で、僕は 大学卒業後 そこそこ 名の知れた会社に就職できたのである。


しかも 入社の保証人は、なんとG組の二代目組長だったが

すでに その頃には G組は ?G興行となり、二代目も社長となって S市青年商工会議所の重要ポストに就いていた。


保証人となるのに なんの 問題も無かったのである。


その後も 相撲興行に尽力した父に対して、ついに相撲協会は <木戸御免>の認証を授与した。


昭和57年秋に 八十余才で大往生した父の葬儀には・・・・・、

相撲協会から 贈られた多くの<相撲幟旗>がはためく中、呼び出し二名による<相撲甚句>が謡い流れた。


そして 時代は 進み・・・・・・


僕は 高校に入学し、<性の魔女達>の反則攻撃を 受けることになるのであった。

性魔女達の甘美な襲撃


《 高校一年 春 白衣魔女と童貞喪失  》


(一)

前章で語った通り、就学や教育についての 父の考え方は 世間一般の親達とは かなり違っていた。


小学校すら 満足に通えなかった父から見れば、 S市の公立高校に しかも、旧名を<一中>と称した進学校に 息子が入学したと云うことは

夢のような出来事だったらしい。


合格通知が届いた日の夜 母の制止も構わず、

父は 自分と15才の僕のコップにビールを注ぎ、乾杯を・・・・。


生まれて初めての ビールは苦く 僕は口を付けただけであったが、

「 T、お前は すごいな ! T、ありがとう ! 」 と 何度も繰り返す父の嬉しそうな顔を

四十年近く経った今でも 鮮明に覚えている。


M校へ通い始めた僕に、父は こんな話もした。

「 学校の中でも外でも、何でも勉強だぞ・・・ ケンカだって 理由があれば堂々とやれ。ただ 骨が折れても構わんが・・・・ 心が折れてしまうまでは、やるな 」 と・・・・。



応援団に入部した僕には 当然 新入部員への <根性試し> が 待っていた。


いわゆる 《バンカラ校》のM校に 隣接するように、クリスチャン系の女子校 E学園があった。


<根性試し> とは、昼日中の授業中に このE学園の屋上まで 一気に駆け上がり ! そこに 自分のパンツを脱ぎ捨てて 無事に 走り帰ってくると云うものだった。!

この年の 新入部員三名の くじ引きの結果、<伝統あるパンツ飾り>(笑) の 大役は 僕に当たった。


決行日 前日自分で買った真新しいパンツを履き、僕は 先輩の合図を待った。


午前11時を 少し回っていた・・・・


「 行けッ ! 」


僕は E学園の正面玄関に 走り込むと 一気に屋上まで駆け上がった !

着脱し易いトレパンごと脱ぎ捨てたパンツを なんの躊躇いもなく、屋上に投げ捨てた僕は そのまま 階段を駆け下りた !


何人かのE学園の女生徒の ポカンとした顔が見えた。


二階の踊り場を廻り、成功を確信した 次の瞬間 !

僕の身体は 宙を飛んでいた !!!


どうやら たまたま出ていた木製階段の<クギ>に クツヒモの輪を 引っかけてしまったのである !

とっさに 顔を覆ったものの 頭のどこかを したたかに打ったらしく、

僕の眼球は クルリと裏返り そのまま 僕の意識は すっ飛んだ。


(二)

次に 僕が気を取り戻したのは、真っ白なカーテンで囲まれた ベッドの上だった。

そこは 一見病室のようだったが、何か妙だった・・・ と 僕の横に すっと立ったのは、白衣を着た女性だった !

女医か あるいは 保健婦らしい ・・・ 年の頃は、30代後半か。

何故か 僕の下半身は 裸で タオルが一枚 載っているだけだった !

しかも 僕のパンツは 目の前の 白衣の女性の 手にあったのだ !

慌てて ソレを 取ろうとする僕を 切れ長の目で睨みながら、白衣女は ・・・・

「 いい! 君は 女子校に不法侵入したのよ !

罰として 私の前で ゆっくり コレを穿きなさい

わかった?! ・・・・ ゆっくり よ ・・・・  」


そう 云うと タオルを 剥いで

僕の下半身を むき出しにした

声を上げようとした僕に 追い討ちが

「 騒ぐと 本当に警察を呼ぶわよ !! 」

その目つきからみて どうも 本気らしいとわかった。

パンツを 受け取った僕は なるべく見られないように 注意して パンツを穿いた。


「 もっと こっちを向いて ゆっくりと・・・・  」


冗談じゃない !

オレは 男性ストリッパーじゃねえぞ ! と腹ん中で 毒づきながら トレパンを穿き シューズを履こうと 床を見ると !

僕の目に 丸めたティッシュが 見えた

それを 見た 白衣女 慌てて 拾って 掌で 握り込んだ。



目を覚ましてからの 腰の 妙な けだるさと 股間に残っている <疼き> の原因は コレだったんだ。。。。


気を失っている間に、僕の ロケットは 強制発射させられたのだ !


・・・ <童貞喪失> ・・・・

しかも 相手は 女子校の、名前も知らぬ<白衣女>。


別に 大事に守ってきたわけではない(笑)が、まことに あっけないものだった

僕の様子を見た <かの>女性は、人差し指を口に当て・・・

くだんのティッシュを握り締めたもう片方の握りこぶしを ・・・・

白衣のうえから 自分の下腹部に 押し当てた。


そして 女の切れ長の目が 柔らぎ ・・・口元も 優しく微笑んだ。


それを見て また 再び 気を失いそうになった僕は、急いで 保健室を出ると・・・・


駆け下りる元気もなく ズキズキする<頭と股間>をかかえ 学園を後にした。


どうやら 頭部を強打して 脳震盪を起こし、保健室に担ぎ込まれた僕に対して

E学園の女医は <アタマ>の治療だけじゃなく <タマ>の治療まで やっていただいたようである。


こうして 平均より若干 早い <喪失>ではあったが・・・・


普通多くある話としては、あるものは 大学合格の夜だったり、

あるものは 成人式の帰り道だったり、

また あるものは 新入部員歓迎会の打ち上げ後であったり・・・ と

様々である。


その 多くは、専業の お姫様に < Good-bye童貞 >を お手伝い いただくのだが、

なかには <花柳病>などという 不名誉なお土産まで いただく輩もいたようである。



その点 女医という衛生面では 文句なしの方の 手に掛かったのは、

幸運なのか・・・・。



兎にも角にも、痛い 思いは したものの・・・・・

僕は 無事(?)童貞に 別れを 告げた。




《 高校一年 冬 》 = ○○上手な 魔女中さん =

(一)

当時 子供のいる商家では、女中さんを抱えていることが 多かった。

その多くは 嫁入り前の娘で、 住み込みで、<炊事・洗濯>は もちろん 裁縫から 礼儀作法や子供の躾まで ・・・・


いわば <花嫁修業>を兼ねていた。

毎日の雑事や育児を任せて 商売に専念できる雇い主と

寝食・小遣い付きの花嫁修業の娘との 両者の利害は、まことに 見事に 一致していたのである。

たいていの場合 二・三年ほどすると 娘たちは 親元に戻り 嫁に行ったようである。


僕の家でも 僕の生まれる前から、女中さんが いたらしい。


そのうちのひとりで N代と言う女性が、十数年振りに お手伝いに入った。

別に <出戻り>というわけでもなく、国鉄職員の夫の転勤で S市住まいとなり、子供もいないことから <小遣い稼ぎ>に 来たらしい。

二十歳過ぎたばかりの彼女が 家で働いていたのは、僕の3歳から5歳だったらしい。

ということは 今のN代は三十半ばと云うことになる。

当時の僕の家は 三階建で、 一階が店舗と奥が畳の食事場
二階が両親の寝室と客間
そして 三階が僕の寝室兼勉強部屋と ちょっとした小部屋があった。



N代は、家に来ると 朝食の後片付けと二階を掃除した後 三階のこの小部屋で 裁縫したり アイロンがけ等をしていた。


さすがに 僕の部屋には 入らなかったが・・・・、仕事をしながら 壁越しに 僕に 話しかけてきた。


「 ねぇねぇ Tちゃんってサ ・・・ まだ 三つか四つだったのに、早熟てたのよォ?

私と銭湯に行くと、、、ネ

必ず 私のオッパイを触るのよォ? 」


すこーし 鼻にかかった声で N代は 喋った。


3歳や4歳の幼少時期の記憶など あるはずもないが、

自分の幼い姿を 話されると 男は抗弁できないものである !


壁のこちら側で 困惑している僕の様子を 知ってか知らずか、N代の声が 続く・・・・。


「 それも 薬湯に入った時は、周りから 見えないものだから・・・ 両手で 揉みまくるのよォ?

私 まだ 娘さんだったから 恥ずかしかったのョ・・・・

でも お陰で こんなオッパイに、、、、、 フフフ 」


そう 子供を産んでいないせいか

確かに N代の胸は 垂れずに 前に大きく迫り出していた !


(二)

それから 数日たった 土曜日の午後のこと

僕を呼ぶ N代の声が、、、。


「 Tちゃん ! ちょっと 手伝ってェ? 」

隣へ行くと アイロン台の横に 洗濯済みのシーツの山が・・・・・。


「 アイロン掛けるから そっち 引っ張ってェ ? 」 と
例の 鼻にかかった甘い声。


アイロン台に載せたシーツを 両手で引っ張りながら 反対側のN代を 見ると !

V字のセーターから 真っ白で 大きな胸の谷間が ! 僕の目に飛び込んできた !

おまけに シーツを引く時の N代の立膝の付け根の 太ももと その奥の下着まで 丸見えであった !


「 あれから もう十年以上か ・・・・

私 すっかり オバサンになったでしょう ? 」


声を出すと 掠れてしまいそうで ・・・

僕は 無言で 頭を振った。

「 本当 ? 嬉しい !

Tちゃんも 立派になったわよネ?

ねぇ? 好きな子 いるの ? 」

僕は 再び 頭を振った。


すると N代は アイロン台を 廻り 僕に 近づいて こう 囁いた。

「 Tちゃんは そのころは まだちっちゃかったから ・・ 覚えてないだろうけど ・・・

薬湯の中で、Tちゃんが 私のオッパイを揉んでる時に Tちゃんのオチンチンを

N代が 弄ったのネ・・・・

そうしたら ネ・・・

まだ 子供なのに、Tちゃんのオチンチンが ! N代の手の中で おっきくなったのよォ?

私 びっくり しちゃったァ ? 」


さらに 躰を寄せたN代は、僕の耳元に 囁いた。

「 ねぇ ・・・・ オチンチンも ・・・・・ 立派になったんでしょう ・・・ 」


僕の目の前に N代の胸の大きな谷間が迫り ! スカートは めくれ上がって 太ももが剥き出しになっていた !

耳の奥には 熱い吐息が 注がれた !


それは 健康過ぎる 十六才の男子の 我慢の限界を もはや 超えていた !!!


僕は N代に むしゃぶりついた !

すると 彼女は 優しく 受け止めながら、顔を近づけた。

「 焦っちゃだめよォ?

・・・・・ Tちゃん 舌を N代の口に入れてみてェ? ・・・・ 」


云われるままに 刺し入れた 僕の舌を N代の舌が捉え 舐ったり、捻ったり、吸ったりした。

さらに 導かれるまま N代の乳房を揉みしだき 乳首を吸った。

しばらくすると、N代は 息をはずませながら 、、、、、


「 ・・・・ Tちゃんは じっとしてて ・・・私に まかせてェ ・・・ 」

N代は 仰向けに寝た 僕のズボンを脱がせ、パンツまで下ろした。

濡れたタオルで 僕の分身を 丁寧に拭うと なにやら 始めだした。


目をつぶっていた 僕に N代のうわずった声が !

「 Tちゃん ! ほら見てェ?。

Tちゃんのオチンチン 大人のヒトみたいよォ? 」


確かに 僕の屹立した ソレには ・・・、いままで あった <帽子>が無くなり

・・・・・ 代わりに <マフラー>が 巻かれていた !


僕は、N代の手により ・・・・・

いわば ・・・ <割礼の儀式>を 施されたようである !


(三)

こうして その後 僕は、N代により様々な<性戯>を 体験することとなった。


しかも そのどれもが、かつて 中学時代に あのM子と愛し合った瞬間(とき)には 想像すらしなかった行為ばかりであった。


あの頃は、お互いの 身体の構造など知らずに 本能のまま 愛撫し合っていたのだ。


その点 N代は 彼女自ら <割礼>した 僕の分身の どこをどうすれば より強い 刺激が生まれるかを 熟知していた ・・・・


同時に 自分の躰のひとつひとつのスポットに 僕の掌や指を導き ・・・ 泉を溢れさせ 反応を見せて 僕に 覚えさせた。


そんな中で 気がついたことが、 もうひとつあった。



そのことは 女性特有なのか それとも N代独特の性癖(くせ)なのか よくわからないが ・・・・・。

それは、気持ちと裏腹の言葉を発すると云うものだ。

つまり ・・・・・

「 ダメェ? 」 は、「 イイ 」 であり ・・・・・

「 ヤメテェ?ン 」 は、「 シテェ? 」 であり ・・・

「 云っちゃイヤァ? 」 は、「 もっと 云って? 」 ・・・・ なのである(笑)。


しかも こう云われた男は、 さらに 興奮のボルテージを 高めていくのである。



しかし、僕とN代は いつもいつも 裸でじゃれていたわけではなかった。


実は、子供の時から 絵を描くのが好きだった僕は、

応援団とはべつに 美術部にも 籍を置いていた。


そして、アイロンを掛けたり 裁縫をしているN代の姿を 何枚もデッサンした。


N代は、僕の望むポーズを 何分でも続けてくれた ・・


もとより その時の N代の胸の谷間は ほんの少しであったし、

立ち膝などは していなかった(笑)


それでも、 凹凸豊かなN代の 肢体は、文字通り <絵になり>  ・・・・

美術部の顧問の教師などの 評価も 高かった。


そのせいで、両親から N代と過ごす時間を 咎められることはなかった。


だが かわりに N代に <絵>を 褒められた話をすると ・・・・

そのたびに

「 ご褒美頂戴 ? 」

と、 N代は 躰を寄せてきた。


今 想うと N代の求める <性技>のレベルには 僕の技量は ほど遠いものだったと 思う。


ただ 僕には 十六才の男子のまっしぐら(笑)のパワーと 汲めども尽きぬスタミナが あった。


プラス くだんの< 反対語 >を 僕は多用した !

「 あぁん ? ソレ 噛んじゃだめェ? 」 ・・・・ すると ・・・ 僕の愛咬が 始まり・・・。

「 もう ! 堪忍してェ? 」 ・・・・ と ・・・ 僕は、リクエストに応えて(笑) さらに 動きを 強めた。


なかでも N代が最も興奮したのは、< 言葉攻め > だったような 気がする。

女性器や男性器の呼称や ソレへの 愛戯などを ・・・・

N代の口から わざと云わせるのだ。


すると ・・・・ N代は、きまって

「 あぁ・・・・ そんなふうに Tちゃんに 意地悪されると

・・・・ N代 ・・・・

すごく ・・・・ 感じて ・・・・

それだけで ・・・・変になっちゃうゥーーー 」


と まあ こんな具合であった。


ただ 困ったことに 興奮したのは、N代だけじゃなかったことである。

眉の間に 皺を寄せ 切なげに 喘ぎながら 豊かな肢体を くねらせる N代に 僕のスパークも 止まらなかった !



だが どれほど 猛り狂おうとも、

<完全なる交渉>は 一度も無かった。


自分勝手 と 云われたら その通りであるが ・・・・

所詮 <人妻と高校生> の 火遊び だった。

おそらく N代の本心も そうであったのだろう・・・・。


<最後の日>まで 僕達は全てを忘れるほど のめり 溺れる までには 到らなかった。


そして 以外と早く <その日>が 訪れた。


三月の人事異動で 、N代の夫は課長に昇進するとともに
S市から遠く離れたW市勤務となったのである。


二人っきりになれた最後の日 ・・・・。


「 Tちゃん ・・・ いろいろ ありがとうね? ・・・・・

Tちゃんは ・・・・男だもの ・・・・ N代のことなんか ・・・

そのうち 忘れてしまうんでしょうけど ・・・・

N代は ・・・・ Tちゃんのこと ・・・・絶対に ! 忘れないんだからネ ! ・・・ 」


(N代は 泣く !)

そう 僕は 思った。


だが N代は 泣かなかった ・・・・

終始 N代は 優しい笑みを 浮かべていた。


いつもの通り ・・・ 二人に クライマックスが 押し寄せた !

その波に 突き上げられて ! 僕は <発射寸前>になっていた !

突然 N代が 僕の下半身に 覆い被さり ・・・・

僕の <迸り>を 受け止め ・・・ 嚥下したのだ。


唖然とする 僕に向かって ・・・・N代は にっこりと笑って ・・・


自分の胸の辺りを 指差し ・・・・

「 Tちゃんの・・・命の素 ・・・ N代の・・・ ここに 少しだけ 貰っちゃった ・・・ 」


そう 明るく つぶやいた N代は 眩しいくらいに 美しかった ! 。



それから 数日後の吹雪の朝、N代は 雪列車に乗って
S市を 離れた。


その後 N代からは 両親宛てに 年賀状などが 来ていたようだが ・・・・

大学卒業と同時に 北海道を離れた僕は N代と会うことは 無かった。


N代の 予想通り ・・・  彼女の思い出や 感触は、 時間とともに・・・・

次第に 薄らいでいったのである。


確かに ・・・・ <薄情者> の そしりは、免れないであろう ・・・


ただ 誤解の無いように 申し上げるが、

僕の高校は 北海道随一の進学校であり 日々のカリキュラムは

過密なものであった 。

加えて 応援団と美術部の活動も あった。


従って、N代との < 交歓 > も 一年365日 一日 24時間の

いわば 一瞬の出来事であったのかも 知れない ・・・ 。



だが、《 ヰタ・セクスアリス 》と 大見得(笑)を 切った以上 ・・・・

事実を 若干 誇張せざるを得ない 事情が、あるのも事実である(笑)。


もちろん、勉学以外の 世界に 僅かながらも < 自信と度胸 >を

つけてもらったことには N代に 心の底から  感謝している。



ともあれ、僕は 高校二年の 春を迎えた。



《高校二年の秋》

=修学旅行のバスガイドさん=

(一)

団塊世代のド真ん中である 僕等の高校は、ひとクラス50人 いち学年20クラス つまり 同級生 1000人 ! という いわゆる マンモス校であった。

クラス50人は 男子が 40弱で 女子が 10強 というところか。


そのうちの 上位15人くらいの 成績優秀者は、国・公立大学 あるいは 早・慶 クラスの私大へ 進んだが ・・・・ 。


残念ながら ・・・ というか ・・・ 当然というか 僕は その次の 最大グループ(笑)の 一人であった。


毎週 行われる 模擬試験の前日は かなり 集中して勉強は するものの、 < 上位組 >のように 毎日深夜まで ・・・ などという 芸当は とても 真似できなかった 。


これでは 差が付くのは 当たり前であった。


当時の しかも 北海道のこと ・・・・ < 塾 > なぞは まだ無かった。


従って 僕は、僕なりに 精一杯 勉学に 励んでいると自分勝手に 解釈していたのであった。


そして 時間があると 当時 一世を風靡した 石津謙介主宰の VAN や JUN の 店に 行ったりしたが ・・・・。


生憎 応援団員の 僕は <ヒゲ面>であったから、夢のアイビーカットは 出来なかった。



その頃の 僕の <三大衝撃> と言えば、・・・・・
《コーラ》  《007》 そして 《ビートルズ》との 出会いである。

この どれもが 針が振り切れるほどの ショックを 受け ! ・・・

しかも 45年 たった 今に至るまで 引きずっているのである。(笑)

そうこうするうちに、 高校生活最大のイベント《修学旅行》が やってきた。


北海道の 田舎の 高校生にとって、道外へ ・・・・

しかも 花の都 <大東京>へ ・・・・

そして 教科書でしか知らない世界 <奈良 京都> !


クラスメートの 半数以上が 内地(道外の意) 未経験だった ・・・

ネットも 何も無い時代である、期待と不安と妄想(笑)で ・・・

それこそ どうにかなりそうであった ・・・・。



そうこうするうちに、・・・・ ついに 出発の日を迎えたのである。


(二)

高校生の海外修学旅行 など 夢のまた夢、
勿論 飛行機利用なども 論外であった時代 ・・・。


S市から 特急に乗り 6時間かけて到着した H市 から
航行8時間の 青函連絡船 を 経て ・・・・
更に 本州 最北の町から 10時間 列車に 揺られて ・・・

東京の玄関口である 上野に 着いたのは 、 その夜のことだった。


翌日は 終日 < 東京巡り > の バス観光 ・・・・。

お決まりのコースだろうとなんだろうと

何もかもが <驚嘆と歓声> の 対象であった。

北海道では、酒屋でしか 手には入らない コーラの 自動販売機が ・・・至る所にあった ! (笑)


道行く人の センスの良さに 圧倒され、その 口調さえ 洗練されたものに 思えた。


その日の 観光バスの ガイドさんは 自己紹介によると、○田S子と 云った。

とりたてて 美人とか 抜群のプロポーション と言うわけではない。



当世(2011年)の女子高生の 定番と言えば、

茶髪(中には金髪) に ロン毛

ガングロ 囲み目 に ヒジキまつげ

下着が 見えそうな(中には丸見え) 超ミニ セーラー服。

※ ・・・ まるきり 嫌かと云えば、実のところ・・・そうでもないが(笑)



それが 当時(昭和40年代初頭)の ・・・北海道 辺りの 女子高生達は、

真っ黒の ショートカットを 輪ゴムで縛り ・・・・

顔は、スッピンで 紅も無し ・・・。

おまけに、膝下までの バサバサスカート が 当たり前だった。


それだから 膝小僧 丸出しの ガイドさんの制服は、本当に 眩しかった。


入院した中年男性が 白衣の天使に 心を奪われるように ・・・ (笑)


修学旅行の男子は バスガイドさんに 心を ときめかせるのである。


だが ガイドのS子を うっとり(笑) 見ているうちに、
僕は、妙なことに 気がついた ・・・。



ガイドのS子は、マイクで観光説明しながら

ときおり 僕のことを ・・・ じっと 見るのだ。


僕が、女子の注目を集めるような 容姿でないことは、当の本人が よーく 自覚している。

でも <蓼食う虫も好きずき > と 謂うこともある ・・・(笑)

< ダメもと > とばかりに ・・・

休憩タイムに 僕は 思い切って、S子を 誘った。


「 5日後に 又 東京に戻り、一日だけ 自由行動なんだけど・・ 僕とデイトしてくれませんか ? ・・・ 」 と 。

手帳を 取り出した S子は、

「 偶然・・・ その日は 休日なので 私でよければ ・・・ 」

と 快諾 してくれたのだ !

そして、手帳に 女子寮の 住所と電話番号を書いて
僕に くれた。


それからの 旅の中では、 < 他高生 > との イザコザ や 旅館での 覗き など ・・・・ 修学旅行に つきものの トラブルは あったものの、

それらは ・・ 本編の内容から はずれるので ・・・ 割愛したい 。


そして 再び東京に 寄った 僕は 、約束通り S子に 電話を掛けた。



S子が 教えてくれた 場所に ・・・

僕は タクシーで 向かった。

<高校生が、タクシーだと ? ! >

東京の地下鉄が わかりにくいこともあったが ・・・

実は 父親から 出発前に かなりの額の 小遣いを 貰っていた。

さらに 父親に内緒で・・・と 母からも 貰っていたのだ !


旅行に持参する小遣いの額については、学校から ガイドラインは あったが 旅先のトラブルのほとんどは 金で 片が付く ・・・(笑)。

両親も、僕本人も そう 考えていたのだ。

こんな僕に 付き合ってくれるなら

S子に ・・・ 残らず使っても イイと思っていた。


「 昼ご飯 食べようか ? 」

大人ぶって そう言った僕に。

「 ううん ・・・ 」
かぶりを振ったS子は、

バッグからサングラスを取り出すと 顔にかけ スタスタと歩き出した!

慌てながら 後について行くと ・・・・。


停まった先は、いわゆる < 連れ込み旅館 > だった !

S子の 大胆すぎる行動に 驚きを隠せない僕に ・・・


「 こんな 女性は 嫌いですか ? 」

今度は 僕が 首を振る番だった ・・・ 。

この日の S子は 勿論 ガイドの制服ではなく、私服であったが それでも 僕には 憧れの東京の女(ひと)である。

フリルのついたオシャレなブラウスに 太い黒のベルトを キュッと締め・・

高い位置にある お尻を 包んでいる  細身のタイトスカートに は、 下着のラインが

くっきりと ! 浮かんでいた・・・。


もし < 据え膳 >と言うのなら、 これほど 贅沢な < 据え膳 > が あるだろうか ・・・・。

僕は、もはや ・・・ ぶざまな < 盛りのついた雄犬 > 状態だった !


しかし、そんな中でも < 何故 僕に ? > という < ? > が、僕の頭の中で ・・・・ ずーっと 点きっぱなしであったのだ ! 。



=  続く   =

影法師のヰタ・セクスアリス

影法師のヰタ・セクスアリス

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 影法師 誕生と黎明
  2. 性の触発と暴発
  3. 紅涙と別離(わかれ)
  4. 我が父のこと= 北海の竜虎と呼ばれた男達 =
  5. 性魔女達の甘美な襲撃