ありがとう

『ありがとう』

一枚の写真がゆっくりと目の前をかすめていった。
 紗枝は本棚の整理していた手を止め、写真を拾い上げた。その瞬間、胸が思い切り締め付けられるような想いに駆られた。
 それは大学のとき所属していたサークルで撮ったもので、部長を中心にみんなで肩を組んでいた。サークル自体は全員で十人にも満たず、そんなに大きくはなかった。だけど、みんな仲が良く、よくカラオケに行ったり、バーに行ったりしていた。
 その中でも、特に祐介とは仲が良かった。大学に行っている時間だけでなく、プライベートもよく一緒にいた。平たく言えば、恋人同士だったのだ。
初めて裕介とあったときの印象は寡黙な人だった。最初はどこかとっつきにくい印象があったけれど、少しずつ彼を知る度に、印象が変わって行った。勉強でわからないところがあれば教えてくれたし、重い荷物を運ぶときも、何も言わず手伝ってくれた。そういうことが積み重なっていく度に、紗枝の裕介に対する想いも積み重なって行った。
そして、裕介と付き合い始めたのは、初めて知り合ってからちょうど一年が経ったときだった。
プライベートでの付き合いを重ねて行くうちに、それまで知らなかった、彼の新たな一面も見えてきた。たまにはちょっとしたことで喧嘩したこともあったけど、すぐにどちらからともなく謝った。
そういう、些細だけど、楽しい日々がずっと続くと思っていた。
だけど、ある日突然、最期の日を迎えることとなった。裕介は交通事故で他界してしまったのだ。彼はいつものようにバイクを運転していたが、突然、信号を無視して走ってきた車を避けようとして、ガードレールに直撃したのだ。それから数時間後、懸命な治療にも関わらず、静かに息を引き取ってしまった。
紗枝はあまりにも突然のこと過ぎて、どうしても裕介の死を受け入れることが出来なかった。病室のベッドの上に横たわる彼の隣で、ずっと泣きじゃくっていた。
紗枝は写真を近くのテーブルの上に置くと、深いため息をついた。
裕介との思い出の品は、もう全部捨てたと思っていた。だから、紗枝は写真を捨てるか、一瞬迷ったが、結局は捨てることができなかった。もし、この写真を捨てたら、もう本当に彼とは会えなくなる。そう思ったら、どうしても捨てることができなかった。
結局、その日は本棚の整理もろくにせず、ずっと裕介とのことを思い出していた。
一ヶ月後、紗枝はいつものように目を覚ますと、深いため息をついた。あの写真を見つけて以来、ずっと心にぽっかりと、大きな穴が空いていた。この間までは目を覚ませば、そこに裕介がいたのに、今はもういない。
かりそめにも、その生活に慣れてきていたはずだった。事実、裕介のことは考えず、ただ忙しい毎日を送ることで、忘れて来られた。
だけどあの日以来、ただただ、裕介に会いたい、という気持ちばかりが募っていった。
紗枝はゆっくりとベッドから起き上がると、朝食をつくるため、部屋を出た。
その瞬間、ある違和感を覚えた。キッチンの方から味噌汁の香りが漂って来たのだ。てっきり、母親が様子見にでもきているのかな、と思ったが、そこにいたのは、他の誰でもない、裕介だった。
紗枝は、ついに頭がおかしくなってしまった、と思いながら裕介を見ていた。すると、彼もこちらに気付いたらしく、ごく自然に話かけてきた。
「おはよう。もう少ししたら、朝ごはんが出来上がるから、顔でも洗って待ってろよ」
紗枝はわけも分からず、小さな声で返事をした。
だけど、洗面台へは向かわず、戸惑いながら裕介に話し掛けた。
「ね、ねぇ……。裕介なの?」
すると、裕介は鼻で笑いながら答えた。
「何言ってんだよ。オレの顔を忘れたのか?」
「忘れてなんかいないわ。だけど、信じられないのよ。だって、あなたはもう……、この世にはいないはずじゃない」
紗枝は一瞬戸惑ったあと、そう口にした。
その瞬間、裕介は料理をしていた手を止めた。そして、紗枝の方に顔を向けて言った。
「紗枝の言うとおり、オレはもうこの世にはいない。だけど、紗枝があまりにも、哀しそうな顔をしていたから、少しだけ会いにきたんだ」
紗枝はにわか信じられなかった。どうしても、彼が裕介だという証拠が欲しかった。だから、紗枝は裕介に互いの誕生日や彼が初めてくれた誕生日プレゼント、初めて寝た場所など、紗枝の知る限りのことを聞いた。半ばムキになって聞きもしたが、裕介は慌てることなく、そつなく答えていった。そして、紗枝は呼吸を整えたあと、最後に一つだけ聞いた。
「じゃあ、あなたにあげた合い鍵を見せて」
紗枝はそうとだけ言った。
それは、ただの合い鍵ではなく、紗枝が裕介にあげた、この世に二つしかない、ストラップ付きのものだった。白と黒のビーズで彩られたパンダで、背中にはピンクのビーズで、それぞれのイニシャルを付けていた。いびつな形だったけど、裕介はそれを合い鍵と一緒に、いつも肌身離さず持っていてくれた。
しかし、もしそれを持っていなかったら、彼は裕介ではないのだ。
だけど、裕介は、紗枝の心配をよそに、それをごく自然に取り出した。
「これだろ?」
紗枝はそれを自分のものと見比べると、間違いなく、紗枝が裕介にプレゼントしたものだった。
不意に涙が込み上げてくるのを感じた。それと同時に視界もぼやけてきた。今までずっと会いたいと思っていた裕介にやっと会えた。それだけで、胸がいっぱいになるのを感じた。
紗枝は何も考えずに、裕介に抱き着くと、なりふり構わず泣きじゃくった。
「裕介……ずっと会いたかった」
紗枝がそう言うと、裕介もそれに答えてくれるかのように、思いきり抱きしめてくれたり、頭を優しく撫でてもくれた。
紗枝は散々泣き散らすと、裕介からそっと離れ、彼の両手を握りながら、改めて言った。
「お帰り、裕介」
「ただいま」
裕介ははにかみながら言った。
紗枝は微笑むと、再び彼の腰に手を回し、ゆっくりと抱き着いた。また、こうして彼に寄り添えるとは思えなかった。彼の体からは、優しくて、暖かくて、そして懐かしい香りが全身を駆け巡るのを感じた。
紗枝はずっとそうしていたかったが、また涙腺が緩むのを感じ、裕介から離れた。
「ねぇ、裕介。久しぶりにデートしようよ」
紗枝は身を乗り出すようにして裕介に言った。
「そうだな。俺も紗枝とデートしたいと思っていたんだ。だけど……」
そういうと、裕介は後ろを向いた。
紗枝はそれに気付くと、笑いながら言った。
「そうね。先に朝ごはん食べなきゃね」
「ああ、そうだな」
紗枝と裕介は軽く朝食をすますと、外に出掛けた。
行き先は二人で決めた。いろいろと迷ったけど、結局は、二人でよく行っていたお気に入りの場所にいくことにした。
そこは、この家からわりかし近い場所にある、広場なのだ。周りは鬱蒼とした木々に囲まれ、その中心に大きな広場がある。風の吹き抜けがよく、自然の優しい香りもそれに連れだって、頬や首筋を優しく撫でてくれるのだ。休日には家族連れが多く、子供たちが広場を駆け回り、両親達はその姿に優しい笑みを浮かべている。
たったそれだけのことだけど、紗枝も裕介もそういうところが好きだった。
だけど、裕介がいなくなって以来、紗枝は二度とここには来なかった。近くを通ることさえ出来なかった。だから、大学に行く際にも、わざとここを通らず、少し遠回りをしていたくらいだ。
だけど、裕介がいる今は違った。紗枝は裕介と手を繋ぎ、広場へ向かった。
コンクリートで舗装された道を抜けると、大きな広場が目の前に広がった。幸いにも、今日は休日だったお陰で、たくさんの家族連れがいた。紗枝たちは近くにあった丸い木製の椅子に腰掛け、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。自然の香りが体の隅々まで、隙間なく駆け巡るのを感じた。
「いい気持ち」
紗枝は思い切り背伸びをしながら言った。
「そうだな」
裕介も同じように背伸びをしながら言った。
紗枝は空を仰ぐと大きな白い雲が青空を泳いでいた。その真下では小鳥がさえずりながら辺りを飛び回っていた。小鳥たちのさえずりと子供たちの笑い声が一つのコーラスとなり、紗枝の耳元で綺麗な音色を奏でていた。
しばらくの間そうしていると、突然足元に何かが当たったのを感じ、視線を下ろすと、そこには赤いボールが転がっていた。紗枝は飛んで来た方向を見ると、ピンク色のワンピースを着た、三歳くらいの女の子が指をくわえて、困った顔でこちらを見ていた。
紗枝が微笑みかけると、女の子は急に明るい顔をし、たどたどしい足取りでこちらに向かってきた。
紗枝は女の子にボールを手渡すと、優しく頭を撫でてあげた。
「気をつけて遊んでおいで」
「ありがとう、おねえちゃん」
女の子は力いっぱいに答えると、友達のところへと駆けていき、無邪気に遊び始めた。
「みんな、楽しそうだね」
「ああ。俺たちにもあんな時期があったんだな」
裕介は一呼吸置くと、改まった口調で言った。
「なあ、紗枝」
「ん?なに?」
「ごめんな」
「なにが、ごめんなの?」
紗枝は裕介に視線を移しながら聞いた。
「俺が交通事故に遭って以来ずっと、紗枝に悲しい思いをさせて」
紗枝は、そう裕介が言い終わるかいなかのタイミングで、それを遮るかのようにして言った。
「言わないで!」
紗枝はわりかし大きな声で言ったが、裕介はさほど驚いた様子もなく、こちらを見ていた。
「お願い、言わないで。私、今とっても幸せだよ。だって、こうやってまた、裕介と一緒にいられるんだから。だから、お願い。もう少しだけ、夢を、見させて……」
紗枝がそう言うと、裕介は、ごめん、と一言だけ言った。
紗枝にだってわかっていた。裕介が前までのようにずっと、隣にはいないと。また、すぐにいなくなってしまうと。だけど、例えほんの少しの間だけでも、一緒にいられることが嬉しかった。
紗枝は裕介の手をとって立ち上がると、広場を思い切り駆け抜けた。
「ねぇ、裕介。私たちもあの子たちのように遊ぼうよ」
紗枝は元気に駆け回る子供たちを指さしながら言った。
「少し恥ずかしくないか?」
「そんなことないよ、ほら!」
紗枝はそういうと、握っていた裕介の手を離し、そのまま逃げるようにして広場を走り回った。
「待てよ、紗枝」
少し遠くから裕介の情けない声が聞こえてきた。紗枝は一瞬振り返ると、いたずらっぽく言った。
「い~や。待って欲しいなら、つかまえてみてよ」
紗枝がそういうと、裕介は「ようし、わかった」とだけいい、徐々にスピードを上げてきた。
紗枝は慌てて視線を前に戻した。
だけど、彼の方が若干足が早く、徐々に足音が近づいてくるのがわかった。
そして、裕介の手が紗枝の肩を触れた瞬間、紗枝は走るのをやめ、その場に座り込んだ。
呼吸をする度に、心臓が張り裂けそうになったが、とても清々しい気持ちだった。こんなに走り回ったのは高校の体育祭以来かもしれない。
しばらくすると、裕介は立ち上がり、紗枝に手を差し延べた。
「散歩でもするか」
「そうね。散歩、しよっか」
紗枝は裕介の手をとって、立ち上がった。
それから、二人は近くを散歩したり、広場の奥の方に備え付けられている、ブランコに乗ったり、砂山をつくったりした。子供っぽい遊びだったけど、時間が経つのも忘れるくらい夢中に遊んだ。
そして、気がつくと、お日様は西へ沈み、代わりにお月様が闇夜を照らしていた。子供たちは誰一人とおらず、この広場には紗枝と裕介しかいなかった。
「みんな、帰っちゃったね」
紗枝はそう言いながら、裕介の方を見ると、あることに気がついた。
さっきまで普通に見えていた裕介だったが、少し透けて見えた。
「どうしたんだ?」
裕介は紗枝の顔を覗き込むようにして聞いた。
紗枝はそれに驚き、慌てて答えた。
「ううん。何でもない。何でもないよ」
紗枝はそう繰り返して言うと、自身の中でそれがどういうことなのかを理解した。
「裕介、ありがとね。今日一日、とても楽しかったよ」
紗枝がそういうと、裕介は安堵の笑みを浮かべながら言った。
「そうか。それなら、よかった。紗枝が元気になってくれて」
紗枝は何も言わず、下唇を、ギュッと噛み締めながら聞いていた。
「なぁ、紗枝。俺のことは忘れてくれ、とは言わない。だけど、紗枝には前へ進んで欲しいんだ。時間はかかってもいい。また誰か他の人を好きになって、普通の女の子みたいに恋をして欲しいんだ」
それだけ言うと、裕介は紗枝の頭を優しく撫でた。
「俺は紗枝といつも一緒だし、いつも紗枝を見ているからさ」
「うん……」
紗枝はうわずった声で答えた。
「ねぇ、裕介。最期に一つだけ、お願いしてもいい?」
「ああ、いいよ。なんだ?」
裕介のその言葉を聞くと、紗枝は彼に抱き着き、唇を重ねた。
裕介は何も言わず、それを優しく受け止めてくれた。そのことに、紗枝は感謝した。
次の瞬間、涙が頬を伝い、零れ落ちた。それは口内にも流れ落ち、しょっぱい味が口の中いっぱいに広がっていった。
せっかく、最期の別れのキスだというのに、少しもったいない気がした。だけど、これで、裕介から卒業できる。
紗枝はそう心の中でつぶやいた。
そして、紗枝はゆっくりと裕介から離れると、ポケットからハンカチを取り出し、涙を拭った。
すると、そこに立っていた裕介の姿は、先ほどまでよりさらに薄くなっていた。そよ風が吹いただけでも、霧散してしまいそうなほどだった。
それは、紗枝にとって悲しいことだったけれど、裕介との約束を思い出し、笑顔で言った。
「私、裕介よりももっと素敵な人を見つけて、その人を好きになる。だから、裕介……もう、安心していいからね」
「ああ。俺も、紗枝の幸せを空から見守っているよ」
裕介は満面の笑顔を浮かべながら言った。
そして、次の瞬間、裕介は紗枝の前から消えてしまった。
紗枝は思わず泣きだしそうになったが、その衝動をぐっと堪えた。
いつまでも泣いているわけにはいかない。少しずつでも、前へ前へと歩んでいくのだ。
紗枝は、最後に大空へ向かって、思いっきり叫んだ。
「裕介―!ありがとう!」
それは大空にまで響き渡り、きっと、裕介にも届いているだろう。

ありがとう

ありがとう

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-21

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