夏の終わりの静かな風 9
近くのコンビニまで大久保が車で向かえにきてくれるということだったので、僕は待ち合わせ場所のコンビニに予定の時間よりも少し早く行った。そして、そこで雑誌を立ち読みして時間を潰した。すると、しばらくして僕は背後から背中を軽く叩かれた。
すっかり雑誌に夢中になってしまっていたので、ちょっと驚いて後ろを振り向くと、そこには背の高い大久保が笑顔で立っていた。たぶん百八十センチくらいはあるんじゃないかと思う。僕は身長は百七十センチしかないので、どうしても彼を見上げる格好になる。
久しぶり見た大久保は、僕が想像していたよりもずっと明るい表情をしていた。ひきこもりなってしまったと大久保はメールのなかで語っていたので、僕はてっきり彼はもっと思いつめた表情をしているのかと思っていのだ。
「久しぶり。」
と、僕は微笑して言った。大久保に最後に会ってからあまりにも歳月が流れてしまっているので、まるで初対面のひとに会ったときのような気恥ずかしさがあった。
大久保にしてもそれは同じことのようで、彼はちょっと照れ臭そうに笑うと、
「元気しちょったて。」
と、宮崎弁で訊いてきた。
「うん。元気やよ。」
と、僕も宮崎弁で笑って答えた。
僕たちはひとまずコンビニから外で出ると、大久保の運転してきた軽自動車に乗り込んだ。それから、お腹も空いたし、とりあえず夕食でも食べようという話になった。
久しぶりに友達と再会したのだから、こういう場合、飲みに行くのが普通なのだろうけれど、僕の場合、お酒が全く飲めないので、車でちょっといったところにある、上手いカツ丼を食べさせる店に行くことにした。
僕としてはべつに大久保にあわせてどこか飲み屋に行っても良かったのだけれど、僕がそう言うと、彼は俺もべつに酒を飲むのはそんなに好きじゃないからと言って、普通ご飯を食べにいくことになった。
訪れたカツ丼屋はちょうど夕食時ということもあってそれなりに混雑していたけれど、上手い具合に僕たちが店に入るのと同時に席が空いて座ることができた。僕たちは奥のテーブル席に向かい合わせに腰を下ろした。
しばらくして注文を取りに来た店員に、僕も大久保もカツ丼を注文した。
注文した料理が運ばれてくるまでの間、僕たちは最近町に新しくできた、ユニクロや、マクドナルドといった、チェーン展開している店のことについて話をした。
僕の実家のある町はかなり田舎なので、最近なってやっとそれらの店ができたのだけれど、田舎育ちの僕たちにとって、自分の住んでいる町にユニクロやマクドナルドといった店があるというのは、決して大袈裟な言い方ではなく、かなり衝撃的なことだった。それはまるで東京タワーや六本木ヒルズといった建物が、ある日突然自分の住んでいる町に出現したかのような驚きと興奮を僕たちにもたらした。
そのうちに注文した料理が運ばれてきて、僕たちはほとんど無言でカツ丼を食べた。食べたカツ丼はかなり美味しかった。これで値段は八百九十円しかしないのだから、すごく満足感がある。東京で食べたら千五百円くらいは取られるんじゃないかという気がした。田舎だと、手頃な値段で美味しいものが食べられので、貧乏な僕にとっては嬉しい限りだ。
料理を食べ終えると、僕たちはコーヒーを追加注文した。
注文したコーヒーはすぐに運ばれてきて、僕たちはその運ばれてきたコーヒーをチビチビと飲みながら色んな話をした。何しろと彼と話すのはほとんど七年ぶりのことなので話題がつきることはなかった。お互いの共通の友達が今どこで何をしているかといった話や、お互いが覚えているようで覚えていないような思い出話を思いつくままに話した。
やがて、会話がひと段落したところで、彼がちょっとトイレに行ってくると言って席を立った。彼が席を立ってしまうと、僕はちょっと手持ち無沙汰になって、なんとなく窓ガラスの外の景色に視線を向けてみた。田舎なので窓の外の世界は、濃度の高い暗闇に塗りつぶされてしまっている。僕は久しぶりにこんなに深い夜の闇を目にしたような気がした。
そのうちに彼がトイレから戻ってきて、また僕の向かい側に腰を下ろした。僕はテーブルの上のお冷を一口口に含むと、ちょっと躊躇ってから彼に近況を訊ねてみた。もう以前のように激しく落ち込んだり、精神的に不安定になってしまうことはないのか、と。
僕の問に、彼はちょっとぎこちなく口元で微笑してから、もう今はだいたい大丈夫だ、と、答えた。もちろん今でもたまに気持ちがふさぎこんでしまうことはあるけど、でも以前に比べれば全然大したことはないし、税理士になるための勉強も順調に進んでいる、と、彼は笑顔で答えた。実は今度税理士になるための試験を受けようと思っているのだ、と、彼は明るい表情で僕に語った。
「そっか。結構順調みたいで良かったね。」
と、僕は安心して言った。
「うん。まあね。」
と、彼はちょっと照れ臭そうに口元で微笑むと、
「吉田はどうなの?」
と、尋ねてきた。
「小説は書けちょって?」
メールのやりとりをしていくなかで、僕が小説家になりたいと思っていることはもう既に彼には伝えてあった。
「どうだろうね。」
僕は彼の視線を避けて軽く眼差しを伏せなければならなかった。
「書いてることは書いてるけど・・・・・・でも、最近はちょっと自信が持てなくなることがあるかな。」
と、僕は口元で曖昧に笑って誤魔化すように答えた。それから、僕は少し迷ってから、僕が昼間海辺で考えたことを彼に話して聞かせた。
二十六歳という年齢は結構いい歳だと思うこと。このさき小説を書き続けて結果を出せるのか、いまひとつ自信が持てないでいること。かといって、諦めるだけの覚悟もできずにいること。そんな僕のいくぶん感傷的で惨めな話に、彼は決して茶化したりせずに真剣に耳を傾けてくれた。
「・・・まあ、なかなか難しい問題やね。」
と、大久保は僕の話を聞き終わると、ちょっと考え込むような顔つきをして言った。それから、彼はふと思い出したようにテーブルの上に手を伸ばすと、そこにあるお冷を口元に運んで一口啜った。そしてまたもとのテーブルの上に戻した。
店員がやってきて、僕と彼とのグラスに新しくお冷を注ぎ足してくれた。僕たちは軽く頭を下げて店員に謝意を伝えた。
「俺も先のことを考えると結構不安になったりすっかいね。」
と、彼はそう言うと、少しの間何かに思いを巡らせるように黙っていた。
「前、メールでも話したけどよ。」
と、しばらくしてから彼はゆっくりとした口調で話はじめた。
「俺、大学のときに一回ひきこもりなってしまってかいよ・・それ以来、ちょっとしたことですぐに落ち込んでしまうようになったっちゃったわ。すぐに何をやってだめなような気がしてしまってかいよ。・・・・だかい、吉田の気持ちはわかる気がすんね。」
と、彼は静かな口調で言った。
それから彼はまたお冷を手に取って口元に運んだ。僕も彼につられようにしてお冷を少し飲んだ。
僕たちの座っている席から少し離れた場所に男女の入り混じった学生風の集団がいて、彼らが楽しそうに喋ったり、笑ったりする声が聞こえた。
「・・・でもよ。」
と、彼は短い沈黙のあとで再び口を開くと言った。
「最近ひとつわかったことがあるっちゃわ。」
と、彼は言った。
「うん。」
と、僕は頷いて彼の顔を見つめた。
「そんなふうによ、物事を深刻に考えても何もならんなって。案外、なんとかなるさって気軽に考えちょったほうがよ、結構物事って上手くいくもんやなって。少なくとも精神的にはそれでだいぶ楽になるし、そうやって心にゆとりがあるとよ、結構前向きな気持ちになれるもんやっちゃなって。」
と、彼はそう言って軽く微笑すると、
「だかい、吉田もよ、そんなふうに将来のことを思いつめて考えたりせんでよ、もっと気軽に考えればいいちゃわ。確かに世の中にはこんなふうにいきるべきだみたいなモデルがあるけどよ、でも、ひとにはそれぞれのペースがあるしよ、生き方があるちゃっかいよ、無理にそれに合わせんでかいよ、自分の思うように生きればいいと俺は思うちゃっわ。吉田が小説書きたいと思うちゃったら書けばいいちゃねぇと。また就職したくなったらそのときに考えればいいと俺は思うけんね。結構なんとかなるもんやって。」
彼は優しい口調でそう言った。その言葉には、長く苦しい時期を乗り越えてきたひとだからこそ発せられる、温かみと力強さがあった。
僕はちょっとの間彼の言葉が自分の身体のなかに染み渡っていくのを待つように黙っていてから、
「ありがとう。」
と、言った。
「なんか大久保のおかげでちょっと気持ちが楽になった気がする。」
と、僕は照れ臭いのを誤魔化すために軽く微笑して言った。
「相談料をもらわんといかんね。」
と、僕の科白に、彼はそう冗談めかして言うと、少し笑った。
僕もそれにつられるようにして少し笑った。
夏の終わりの静かな風 9