月明かりのない夜に

重たいほどに甘ったるいワインが口の中にまとわりつく。
ドイツの、上から二番目の階級のものだと言っていた。貴腐ワイン、その甘美な響きに私は釣られてしまったのかもしれない。
リーデルの、かつんと爪で弾いたら割れてしまいそうなグラスを二脚買ったときもそうだ。
頼りがいなんてものは端からなくて、壊れることを前提にしているかのような、そんなものを私は選んでいた。
少なくともこのワインを、一人で空けるつもりなんてなかった。
三日月も首をかしげる、こんな時間に。

私はどうしても人の幸福に首を振ることができなかった。それはただ単に、私にとって他人の幸福ほど広くてよくわからないものがなかっただけかもはわからない。
私も鳥籠に閉じ込められたかった。
たまに餌を与えられては喜び、ずっと籠に閉じ込められていることに嘆きたかった。そんな気持ちが伝わらない生物になりたかった。
思うだけで、天寿を全うするだけで褒められるものでありたかった。

私の旦那は、私の鳥籠を中途半端に開けては閉めた。
私がピイと鳴けば開けてくれた。肩に止まれば撫でてもくれた。
だけど、なぜだろう。彼はずっとそうしてはくれなかった。
いつも月がかしぐ頃には私がいくら鳴こうとも、彼が籠を開けることはなかった。
籠の外から投げかける、好きだよ、その言葉が余計に私を苦しめた。

しかしながら私は人間であったので、鳥ほど惨めではなかったのだと思う。
なにせ自分の意思があり、どうすることだってできた。与えられる前に食事を摂り、家の扉を開けてどこかへ行くこともできた。甘えたいときに彼に甘えることができた。

問題は、彼もまた、人間であったことだろうか。
彼も自由だった。こうしてみると、果てしないほどに当たり前のことだけれど。
安い、薄汚れた布団を半分蹴飛ばして安らかな寝息を立てる彼のことを、私は暗闇でぼんやり眺めた。
ねぇ、ねぇ…
声なんかは届かない。たまに怒鳴ったりもしたけれど、あまりに静かな中で自分の、主人の名前を呼ぶ声だけがほわりと尾を引いて消えていくのはあまりに不気味だった。
そっと手を伸ばして、しっかり閉ざされた瞼に指先を触れさせる。
小さな溜息を吐きながらごろんと寝返りを打ち、完全に背中を私に向けて、また寝息を立てた。

その瞬間、私はもうなにもわからなくなった。



彼はごめんねという。ありがとう、ともいう。
だけど私の向かうところのない感情に対しては、きっと何も言わなかった。
否、向かうところはあったのかもしれないけど、向かわせないという手段を選んでいただけだ。
やり場のない怒りとはよく言ったものだけど、やり場のない悲しみもあるのだなと思った。
うれしいのか悲しいのかよくわからないけれど、私は布団を抱きしめてひょろひょろと涙を流した。

もしも私たちが眠らずに生活できる生物だとしたら。
もしも私が、あなたのひと声で眠りに落ちる生物だとしたら。
もしも私がひと粒の錠剤で眠りに落ちる生物だとしたら。

なぜ、私は不幸な生物なの?
ただあなたと眠りに落ちたいという願いひとつが、どうしてこんなにも叶わないの?

あなたは仕事をする。
しなくて済むならしないよ、という笑い声が冗談として取れなくても、そればかりは飲み込んだ。飲み込みすぎて息ができないくらいには飲み込んだ。
明日は仕事なんだ。
そういってあなたは私の声を遮断した。

どうして、今日は私の声を聴いてくれなかったの?
私が眠るからいけないの?
私が永遠に眠らない生物だったら、あなたも少しは考えたりしてくれたのかな?

どうして… 訊いてくれなかったの?

どうして君は眠れないのだ、と。



私はすっかり抜栓が上手くなった。
きれいに抜けたコルクには染みのひとつもなかった。

貴腐ワインは決して私を逃がそうとはしなかった。
まだずいぶんと若いくせに、三日月のような色をしたリースリングだった。
リーデルの安っぽいガラスが水滴を纏って、クレーターのようにすら見えた。

キャンドルのライトが黄金のワインを照らす。
細長いボトルはあっという間に空になって、ぽたりと月のしずくを落とした。

少し開いたカーテンから、さっきまで見えていた三日月の姿がなかった。



いいワインでした。よい、夜を。
溶けきらなかった氷がワインクーラーでからからいう。
細長いボトルの、細長いそそぎ口を手にして、私は寝室の扉を開けた。

背中を向けて寝息を立てる彼がいた。



ならば、もう、眠ればいいじゃない…ーーー


憎たらしいほど甘美な香りが部屋にただよって、また静かな夜になった。
ああ、あなた、こういうの好きだったものね。甘いもの。



Fin.

月明かりのない夜に

月明かりのない夜に

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-20

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