白と黒の隙間 【アリスの到着】
『不思議の国のアリス』を土台に、しかし登場人物が好き勝手に世界観を崩していくお話になってしまいました。それでも、オリジナリティをもたせ且つコメディにするべく努めました。
三部作のうちの第一章です。
よろしくお願いします。
白と黒の隙間 【アリスの到着】
プロローグ
「物語を話そう」
陽だまりの中、彼は言いました。緩やかな日差しのもとで、蝶は黒と青の羽根の美しさをみせびらかしながら花々の間を飛び回っています。そんな花々も力いっぱい咲き誇りながら、芳しい香りを風に運ばせます。そんな麗らかな春のひと時でした。
「とある不思議の国で起きた、奇妙で、愉快で、可愛らしいお話だよ。このお話をみんなでお芝居にしよう。薔薇の芳しい日に、皆でお茶会をしながら。そして驚いちゃいけない、主人公なんと君だよ。私の可愛いアリス」
彼は彼の膝の上に乗って、肩から流れ落ちる彼の長い黒髪でじゃれる女の子にいいました。女の子は母親譲りの金の髪を緩やかな陽光に溶かしながら、きょとんとして、つぶらな紅い瞳をより一層丸くして尋ねた。桜色の小さな唇が緩やかに動く。
「アリスが?」
「ああそうだ。勿論私の可愛い息子たちも出る。主人公ではないが、そこはレディファーストだ。わかってくれるね」
「パパ、僕は何の役?」
兄妹でしょうか、少し年上の男の子が嬉しさを抑えきれない様子で尋ねました。
「そうだね、君は《イカレ帽子屋》にしよう。毎日お茶会を開いて楽しく遊ぶんだ」
毎日がお茶会だなんて、なんて素敵なのでしょう。毎日焼きたてのケーキとミルクたっぷりの紅茶が飲めるなんて。男の子は嬉しそうに目を細め、それから慌てて口を一文字に結んで、しゃんと背筋を伸ばしました。一番の上のお兄ちゃんですからね、しっかり者のお兄ちゃんはどんな時でも迂闊に喜びすぎて、ハメをはずしてはいけないものです。
「君はチェシャ猫だよ」
少し離れたところで昼寝をしている男の子に父親はそっと語りかける。男の子は狸眠りで、春の陽気を瞼の上で楽しんでいるだけなのだと彼は知っていましたが、あえて起こそうとはしませんでした。勿論男の子の口の端が微かに緩むのを見逃しませんでしたが。
「パパ、僕も主人公がいい!」
一番年下の男の子が言いました。他の子供たちよりも幾分年の離れた、まだ小さい男の子でした。それはまるで、その気になればきっと父親の眼の中に入ってしまうくらいの小ささです。それくらい彼は男の子を愛していました。他の子供たちと同じように。
「さっき言っただろう、主人公はアリスだ。聞きわけの悪い子はハートの女王に首をはねられてしまうよ」
「やだ、パパ。僕も主人公になりたい!!」
あらあら、とうとう男の子は泣き出してしまいました。最初はしくしくと、次第にわぁわぁと泣き声は徐々に大きくなってきました。一番年上の男の子の横で寝ていた黒猫はびっくりして飛び起き、そのまま庭のどこかに走り去ってしまいます。
男の子の涙はいつまでたっても止まりませんでした。顔は真っ赤に、涙でぐしゃぐしゃにして、みっともないことこの上ありません。それでも男の子はずっと泣き続けました。父親や一番年上の男の子がどれだけ宥めても聞きません。その間ずっとアリスは父親の胸元のシャツを掴み、「アリスがアリスじゃないの?」と小さく繰り返し続けました。
第一章 アリスの到着
高校の頃、空を飛びたいって夢見る男がいた。そのクラスメイトは背中に羽をはやして、鳥のように自由に飛び回りたいと言う。せめてパイロットになりたいとか、世界中を旅したいとかもう少し現実的な夢じゃないのか、ってクラス中で囃し立てたものだ。
でもそいつは頬を膨らませた。これは僕の単なる夢であって、それは現実的であればある程つまらなくなってしまうのだと。パイロットになったところで結局は鉄の塊に腰をおろしているだけで、風をきる心地よさは感じられない、と。
クラス中の誰よりも現実を知っている奴だったのだと、今ならわかる。
卒業して、そいつは国立大の法学部にめでたく合格したらしい。甘い夢をもつ奴だからこそ、現実と戦っていけるのだろう。
それに対して俺は頭が悪いから、甘い夢に縋るよりもっとシンプルに生きたかった。地に足のついた生活というのが俺の理想なわけで、養父もそれをできるだけ応援してくれていた。「ありのままを受け入れ、素直に生きなさい」とまるで家訓のように言われ続けてきた。過去にいつまでも拘っていても仕方がないのだとも。
でもそれもどこまで守れるのやら。
「如何なさいましたかな、アリス様」
一歩前を歩く男が振り返る。入寮先の執事だそうだ。白髪を品よくまとめ、銀ぶち眼鏡に黒のスーツで身を固めるその男性はまるで古き良き英国紳士といったいでたち。しかも先ほどの自己紹介では「ハートの女王に仕える白ウサギの榊と申します」と名乗っていた。どこまでも時代錯誤で、意味不明で、冗談にしか見えない。
「何、その看板」
《小さな嘘が世界を救う》
わけがわからない。でも榊は髭を揺らせて笑うだけ。
「ホテルのスローガンですよ、そう心配せずとも結構です」
これから俺の入寮するこの屋敷をどうやらホテルと呼ぶらしい。
「でも、どういうことなんですか」
「それは女王陛下に聞いてください」
やっぱりからかわれているのだろうか。
でもそれが単なる一時的なものではないと目の前の光景を見て思う。
黒い鉄製の門扉を抜けると、まず左右に鬱蒼とした樹林が迫っている。人が通れるくらいの道はできているけれども、一歩踏み出すごとに草の匂いが濃厚に鼻孔を擽る。更に進むと今度は深紅の薔薇園が広がり、一変して薔薇の香りに包まれた。庭の隅には枯れた噴水や蔦の絡んだベンチが並んでいる。それらはまるで時間だけがその上を過ぎ去ったかのように、人の痕跡もなく風化し始めていた。
因みに、ここは東京都区内。都会のビル群から小道に数百メートル入っただけで、こうも景観が変わるものだろうか。
「ここ、変わっていますね」
住環境を巻き込んでからかわれているとなると、いくらか腰を据えて覚悟を決めなければいけない。
「見事な薔薇でしょう。ちょうど今蕾が開き始めていて、これからが一番良い季節ですよ」
榊はにっこり笑い、それから思い出したかのように懐から金時計を出す。
「ああ、いけません。もうこんな時間ですね。急がなければ陛下に怒られてしまいます」
ちっとも慌てる様子もなく、寧ろ楽しげに言ってのける様に俺は些か呆れる。
「では、参りましょうか、アリス様。ようこそホテル『不思議の国』へ」
「逃げて―」
「無理だな」
新しいルームメイトは俺の至極真っ当な嘆きを一刀両断する。
このホテルには俺を含めて学生が二人、無職が二人、そしてオーナーである女王とそれを世話する榊が住んでいるという。大きな洋館だから部屋は沢山あるだろうに、あてがわれたのは十畳の居室で、無愛想な男とのシェアだ。
「ホテルは女王の決定が絶対だ。逆らったらひどいペナルティがある」
「何その傍若無人さ。だから入居者少ないんだよ」
俺は女王との面会を思い出す。オーナーとの面会というから応接間で挨拶するのかと思っていたのに、ロビーに着いた途端、それは上から降ってきた。まるで一昔前のヒーロー登場みたいに、ワイヤーを使って華麗に着地。眼の前にあらわたのはタキシードを身にまとい白の仮面で目元を隠す男。まるでアニメのヒーローのコスプレだ。どう贔屓目で見ても、そのバリトンの声や長身、何より直線的な体格からは欠片も《女王》の要素は見られない。オーナーが女王を名乗るのもおかしいけど、そもそも女王とはユニセックスな存在だっただろうか。
その段階で俺は回れ右をしたけれど、榊が扉を閉めてしまう。
「どこへ行かれるのですか」
「よく来たね、アリス。歓迎するよ」
榊の穏やかな笑顔と女王の問答無用な抱擁に、俺は地味な学生生活というささやかな夢を見失った。
「いいんだよ、少なくて。騒がしいのは嫌いだ」
ルームメイトは千鶴というらしい。はじめましての挨拶の時も、イカレ帽子屋の千鶴だと言っては帽子を縫っていた。千鶴は細身だが決して頼りないという印象のない、長身の青年だった。長い脚を窮屈そうにデスクの下におさめて一心不乱に針を進めている。一瞬だけ視線を俺に寄越したが、それもすぐに通り過ぎて再び手元の帽子に戻る。すごくそっけない。
部屋に無数に置かれた帽子をいじりながら依然文句を言っていると、千鶴は一枚の紙を取りだした。入寮のしおりだ。
不思議の国のルール
ルール① 小さな嘘をつこう (スローガンは守ろう❤)
ルール② ホテルオーナーの言葉は必ず聞く (ハートの女王だからね❤)
ルール③ 夜間の外出は必ず許可を取る (夜遊びはいけないよ❤)
ルール④ ケンカはオーケー (みんな仲良く❤)
★これを破った人には女王からあらんばかりのペナルティをプレゼントしちゃうよ★
「無駄に殺意を覚えるルールだな」
「まあな」
頭が痛くなる。そう特別おかしなルールではないかもしれないけれども、胡散臭いことこの上ない。というかハートマークは要らない。
「ペナルティって何?トイレ掃除とか食事当番とか?」
「いや、寝所に薔薇を敷き詰めたり、寝間着がネグリジェになったり、三日間三食スイーツのみとか」
単なるいやがらせだ。
俺はしおりを見るが、どうにもよくわからない。
「さっきからさ、ハートの女王、白ウサギ、イカレ帽子屋って皆言っているんだけど、どういうこと?それって不思議の国のアリスのキャラクターだよな?」
「このホテルの名前は《不思議の国》だろ?だから入居者は芝居かぶれに、そこにでてくるキャラクター名をそれぞれに持つんだ。他にウカレウサギとチェシャ猫がいる。特にチェシャ猫は中々のはまり役だぞ」
やっぱりわからない。寧ろそんな理屈わかりたくない。
「じゃあ、俺は?」
「お前はアリスなんだろ?」
そのまんますぎてなんだか肩すかしをくらう。まぁ、それ以外の人格を持つのだなんて絶対にごめんだけど。
「じゃあ、嘘をつきとおすってのは?なんなの、このスローガンって」
「そう気にすることはない。世の中全てを晒して生きてりゃ息詰まるだろ?きっと少しの嘘を隠し持っていたほうが、他のことは滑らかに進むってことだ」
いきなり人生論が出て俺はたじろぐ。
「その方が、皆大事なモノを守れるんだよ」
「そんなもんかな」
「だからといってお人好しに騙され続けろということでもないがな。ホテルの連中をよく見ることだ。連中に悪いやつはいないが、それぞれに嘘をもっている。空っぽの脳みそで相手の事を鵜呑みすんじゃねぇぞ」
そんなこと言われたって、疑うのはあまり得意じゃない。だって目の前の現実を信じる方がずっとシンプルだから。楽だとは言わないけれど、誰かに騙されているんだって思いながら生きるのって好きではない。
それだけ言うと、千鶴はまた手元の帽子に視線を戻す。俺も次の会話の糸口を見失って、ただ沈黙だけが部屋を侵食する。俺はため息をついた。
上京したからには、初めての寮生活にそれなりの期待があった。友達百人とはいかないけれど、新しい友人関係を作れると思っていた。同じ寮に住む奴らと楽しく飯食って、一緒に馬鹿な話とかしてさ。一人暮らしとは違って、家族みたいになれるのではないかと。
なのに、折角のルームメイトがこんななんて。なんだか出鼻をくじかれた気がしてならない。
これでは、結局一人なのと変わらないじゃないか。
さっさと寝ようと思って立ち上がろうとした時、不意に頭の上に重さを感じた。温かい感触がじんわりと伝わってくる。
「歓迎するぜ、アリス」
千鶴はにこりとも笑わずに、それでも温かくて大きな掌で俺の頭をぐしゃぐしゃにかき回した。
なんだこれ、すごくくすぐったい。
ホテルの朝は早い。入寮のしおり――何故か手書きだった、を見れば毎朝七時に朝食が用意され、住人揃ってダイニングで食べるらしい。もっとも、チェシャ猫はいつも逃げるんだ、と千鶴が言っていて大抵一人は姿を晦ましているらしい。その羨ましすぎる自由と勇気を称えて、俺もそれに倣うと千鶴に宣言した。でも千鶴は俺を一瞥しただけで、すぐに寝床に潜ってしまった。因みにベッドは子供用かと思えるくらいファンシーで小さな二段ベッドだ。
「な、いいだろ、俺朝弱いからさ、ゆっくり休ませてもらうよ。朝食は残しといて」
「朝食を残すことは問題ない。だが、諦めた方がいい」
「意味わかんない」
下にクッションを放り投げると、下からドスンと衝撃が伝わる。どうやら蹴りあげられたらしい。その後も色々と声をかけ、物を投げ入れてみるも反応はなく、虚しくなってきたので布団にもぐる。頭から布団をかぶっていれば長く眠られるかもしれない、となけなしの努力をしてみる。
でもそれも無駄な足掻きだって、翌朝思い知らされた。
「アリス、そんなに怒らないでよ」
隣で声をかけてきたのは白髪の女性。白髪と言っても年は俺より少し上くらいの若さで、大学に通っているらしい。大きな紅い瞳が印象的で、日本離れした顔のパーツを持っている。聞けばハーフだという。女性はウカレウサギのリンと名乗った。
リンは悪戯っぽく笑ったかと思えば、頬を膨らませて拗ねた表情を見せる。コロコロと喉を鳴らして笑い、快活に動き回る。多分、世の男性陣から見たらとても魅力的に映るんだろう。俺にしたって、うら若き乙女に懐っこく話しかけられると嬉しくない筈がないんだけど、俺は今、全身でリンを警戒している。
だって出会い方が悪かった。
眠りのさなか猫の鳴き声が聞こえた気がしたんだ。甘えるような可愛らしい声。後で目が覚めたら撫でてみたいなと、夢うつつの中で思っていた。柔らかい毛だろうか、子猫だったらいいなとか。そんな時唐突に頭に衝撃が走った。それもかなり重くて、なぜかハリがある。
勿論俺は夢の中から引きずり出されて、なんとか眼を開けてみた。そこでリンが、悪戯が成功したと言わんばかりの――実際成功したのだろう、満面の笑みで待ち構えていた。
「ようこそ、不思議の国へ」
ほんと、逃げたい。
俺は現実から逃げるべくもう一度布団をかぶり直すが、今度はリンに力任せにはぎとられる。
「もう朝よ、いつまでも惰眠を貪ってないで起きなさい」
「なんなんだよ、寝かせてくれよ」
「諦めろと言っただろう。リンが起きろと言ったらそれが俺たちの目覚ましなんだよ」
千鶴は眠たげに、だけれどもしっかりとした足取りでベッドから出て、足元の猫を抱きあげる。どうやら鳴き声は夢ではなかったらしく、黒猫が千鶴の腕の中で喉を鳴らしている。
「なんでそんな理不尽が当たり前になっているの」
「ぐずぐずしてないでさっさと身支度整えなさい。それとも私が手伝ってあげようか?」
「いいよ。さっさと出てけ」
焦って否定するも、どうやら何か気に障ったらしい。
再び、重い衝撃。
「ダイニングで待っているわね」
リンはまるで天使のように華やかに笑ってから、背中を向けて部屋を出ていく。後ろ手に巨大なハリセンを持っているのが見えた。どこまで冗談をごり押ししてくるつもりだ。
「ほんとありえない」
俺は未だ痛む頭をさすりながら、隣の席に座るリンを睨む。因みに六つの席があるこのテーブルには、リンの更に隣が千鶴、そして上座の席に女王が座っている。俺らの向かい側の席にはナイフやフォークなど食事の用意はされているが、未だ空席だ。どうやらチェシャ猫とやらは本当に遅れてくるようだった。俺達が席に着いている間に、榊がせっせと給仕をしてくれている。
「いつまでも小さい事で悩むなんて、人間出来てないわね」
リンは厚切りベーコンをナイフで切りわけながら言う。今日のメニューはトーストとベーコンエッグ、コールスローだ。初めて食べる味なのに、どこか懐かしさを感じるのはなんでだろう。外食とは違う、手作りの家庭の味だからかな。
「それ、当事者が言うセリフじゃないし」
「アリスはもうリンとも仲良しになったんだね。えらいぞ」
女王は榊が入れた紅茶を飲みながら一人で頷き、笑っている。他人事だと思って。
「やはり人類皆仲良しが一番だよね。喧嘩も結構、殴り合いも結構。最後に笑ってしまえばそれも愛だ。人類皆家族ってやつだね。」
「そうよね、私たちはこうやってきちんと笑っているんだもの。家族のようなものよね」
リンは俺の手を握る。
「な、離せよ」
俺は慌ててそれを振りほどこうとした。ドキドキしたし、ズキズキした。わけのわからない感情が押し寄せて、戸惑ったのだ。女性との接触に焦ったのではない、もっと心の奥底にある何かをかき乱されたような。
俺はこれまでの静けさがよかったのに。
「離さないわ」
先ほどの軽口とは打って変わって意志の強い声で引きとめられる。ふと見ればリンの紅い瞳がまっすぐ俺を見ていた。必死で、緊迫した表情だった。今の会話の何がリンをこうも追い詰めたのかわからない。
「な、なんだよ」
俺が戸惑って聞いても、リンの表情は変わらない。
「嫌なの?」
「何が」
「君は家族みたいに仲良しになりたくないの?」
わけがわからない。さっきのはただの場違いな冗談ではなかったのだろうか。女王もリンも、なんてことない顔して語っていたのではなかったのか。妙な緊張を感が室内を包む。冷や汗が背中を伝う。
家族が何だって?
「リン、そのくらいにしておけ」
どれくらいそうしていただろう。場の沈黙を破ったのはそれまで黙って食事をしていた千鶴だった。
「どうして止めるんだい?何かわだかまりがあるんだったらとことん話せばいいじゃないか」
「アンタは黙っていろ」
女王の言葉も突き放して、千鶴はなおもリンを止める。千鶴の掌がリンの頭にポンと置かれて、リンはゆっくり眼を閉じる。そしてゆっくり息を吐いてから、漸く俺の手を離した。そして俯きながら小さな声で「ごめんなさい」と言う。俺はそれにどう答えればいいのか分からなくて、いや、とか、別に、とか曖昧に濁してしまった。すると膝の上に置かれたリンの掌がきつく握られ、細かく震えている。俺は思わず視線をそらす。
女王はそれに気付いているようだったが何も言わず、また紅茶に口をつけた。千鶴も手を離し、食事に戻った。榊は静かにリンの空いたカップに紅茶のお代わりを注いでいる。誰もが何事もなかったかのように振る舞っている。
リンは暫く眼をつむったまま動かずにいたが、やがて席を立った。
「ごちそうさまでした。榊、今日も美味しかったわ」
リンはさっきまでと寸分変わらぬ笑顔で明るく言った。それが俺を余計に混乱させる。
「アリス、ご飯食べ終わったらお庭を散歩しない?さっきのお詫びに薔薇園を案内するわ」
それは提案と言うよりもっと絶対的な強制力を持っていた。
「ね?」
小首を傾げ、頬を緩ませる仕草はとても可愛い。でもさ、眼はちっとも笑ってない。
このホテルには門をくぐって正面に館を構え、その手前に都心にしては中々の広さの庭を構えている。名前は知らないけれど、幾種もの花が咲き誇っているが、それでも紅い薔薇が多いのは「不思議の国」と言われる所以だからか。本当に女王は物語の世界観に拘っているのだなと感心する。
リンは噴水の縁に座って俺を待っていた。
「行きましょう」
リンは俺の一歩前を歩いて行った。背中にかかる長い白髪が風に揺られる。さっきまでの不安定さは影を潜めているのか、足取りはしっかりしている。だけど俺はなぜだかひどい違和感を覚える。
リンは何も言わないで歩き続ける。薔薇園を案内すると言っていたわりには、何かを紹介するわけでもなく、俺の困惑を気にするわけでもなく、黙々と庭の奥に進み続ける。すると茂みの奥に小さな温室があった。もう温室としては使っていないのだろう、所々ひびが入っているガラスには蔦が伸び、中には小さなガーデン用のテーブルセットが置いてあった。
「お茶にしよう」
そう言ってリンは手提げの中から水筒といくつかのチョコレートをテーブルに並べる。
「アリス、さっきはごめんね」
俺がそれに応える前に、リンは続けた。
「だって、アリスったらとってもおかしいんだもの」
声にはわずかな苦笑が混じっていた。
「君が《アリス》だなんて、あるわけないじゃない」
何と言っていいかわからなくて、俺は変な声を上げるしかできなかった。冗談はよせと笑い飛ばせばいいのか、人格否定だとテーブルをひっくり返せばいいのか。多分そのどちらも俺にする権利はないのだろう。
「今更に登場されちゃ迷惑よ」
ご退場願うわ、とリンは言う。眼を細めて、水筒から継いだホットのローズヒップティーをすすっている様を俺は呆然と見た。またこの感覚だ。隠してきた心の底をかき乱される感じ。必死に作り上げようとしてきた日常を崩される感じ。あれから何年たったと思っているんだ。あまりに多くのものを失いすぎた俺に、たった一つ残されたものが《アリス》だ。それを元に再構築を図った俺には、正直あまり心地よい言葉だとはいえない。
「ここを出ていけ、って言うのか」
「違うわ。私はただ《アリス》が嫌いなだけ。わざわざ《アリス》を名乗る君が理解できないだけ」
君は《アリス》の何を知っているというの。
リンは水筒についたルージュを指先で拭った。鮮やかな紅。ああ、本当にこのホテルは紅が多すぎる。
リンは新しくローズヒップティーを注いで俺に勧めたが、俺はそれを断って席を立つ。どこへ行くの、とリンが声を上げるが無視して温室の外へ向かう。むせかえるような紅から俺は逃げ出したかった。
「生憎、もう俺は《アリス》になるって決めたんだよ」
出口で振り返った時、リンは目に大粒の涙をためて俺を見上げていた。大きく見開かれた紅い瞳。
それでもホテルでの生活は思っていたより悪いものではなかった。大学が始まるまでは当分暇で、ならば東京暮らしを満喫しようとガイドブックを買ってみた。
だけど、すぐにそれは棚にしまう事になる。
「なぁ、千鶴、明日はどこ連れて行ってくれんだ?」
「さてな」
千鶴の返事はそっけないけれど、俺はそれでも満足した。千鶴がこう返したときはちゃんと行くところを考えてくれている。ガイドブックには載っていない、けれども存分に楽しめるところに千鶴は頻繁に連れて行ってくれる。小さな公園だけど、榊の作ってくれたお弁当を広げて野良猫と一緒に食べたり、恐ろしく汚い店構えなのに美味しいラーメンをだす店に連れて行ってくれたり。
千鶴はそう多くを語らないし、滅多に笑わない。だけども一緒にラーメンをすすっていると、なんだかそれでもいいと思ってしまう。別に女とデートしているわけでもないし。
「明日はリンも一緒だ」
「……おう」
時々リンもついてくる事もある。リンはあの温室での一件の後も何食わぬ顔で接してきた。毎朝ハリセンで叩き起し、時には甘えたように抱きついてくる事もある。トランプをしようと皆を呼び集めたり、自作のスイーツを披露したり――見た目を裏切らないまずさだった。
あれからずっとリンは笑っている。
ずっと。
「大丈夫だ」
気がつけば目の前に千鶴の顔があった。二階のベッドを覗くなんて珍しい。
「リンに悪気はないんだ。お前にはどうしようもないことかもしれないが、アイツはアイツで苦しんでいる。その事を汲んでやってほしい」
俺は寝返りを打って、その視線から逃れる。
「アンタ、何を知っているんだよ」
背中を向けたままの問いに千鶴は答えなかった。再度問い直すも返事はない。苛立って千鶴の方を向くと、そこにはもう千鶴の姿はなく、ややあってベッドの下を蹴り上げられた。俺はしぶしぶ部屋の明かりを消す。
「迷子かな?」
唐突にかけられた声に俺は驚く。夜に起きて忍び足で共同トイレに向かっているところだった。それは俺の居室からは離れているものの、断じて迷ってなどいない。
「誰」
見た事のない男だった。月明かりを背に立っているため顔の細かいつくりはわからないが、見覚えのない背格好だし声も聞いた事がない。全身暗い色の服を着ているようで、一歩月明かりから外れればすぐにその形を見失ってしまう。ただ、長い黒髪が風にたなびいているのだけがわかった。月明かりを背にした影はその姿をとても大きなものに見せる。怪しいことこの上ないが、ここの住人だと言うのでもうどうでもよかった。
「はじめまして、アリス。僕はハルちゃんだよ」
「は?」
「あれ、本当に覚えてない?」
「ない」
苛立ちながら答える。消去法で考えて、残る一人の住人のチェシャ猫だろう。
「で、アリスは迷子だね」
「違う」
「じゃあ、僕が道案内してあげるよ」
この男の頭には人の話を聞く、という選択肢がないらしい。ポケットから大きなハンカチを取り出し、慣れた手つきで俺に猿轡と目隠しをすると、問答無用で腕を引っ張っていく。これ犯罪じゃん。抵抗すると、手錠もしてほしい?と平気で聞いてくる。何この危険人物。
俺は抵抗を諦めると、男は――ハルちゃんなどと呼びたくない、俺の手を握って歩きだす。
男はずっと黙って歩いた。俺は視界を奪われているので、音に敏感になる。真っ暗の中一歩ずつ足を踏み出すと廊下が軋む。階段を下りている時、唐突にロビーの大時計が鐘を鳴らす。そういった小さな刺激一つ一つに俺は驚くものの、そのたびに立ち止まって俺が落ち着くのを待ってくれる。
また歩き出す。
次第に馴れてきて、少しずつ余裕ができてくる。玄関を開ければ土の湿った香りがあり、薔薇や草木のむせかえるような香り。そうして俺は気がつく。この庭で俺は遊んだ事がある。妙な懐かしさを感じた。そして同時に滲みよるような混乱も。
この男、何者だ?
街の喧騒が聞こえてくる頃になって、漸く男は眼隠しと猿轡を外した。俺に抵抗の意思がないことを認めたのか、さすがに人ごみの中で目立つ事を危ぶんでか。それでも手は依然と繋いだまま、男は黙々と歩きだす。
街を横切って、男はどんどん人気のない所に俺を連れていく。明かりは心もとなくなるし、通り過ぎる人もまばらだ。数少ない人影だって、淀んだ瞳であらぬ方向を見つめながら徘徊していたり、空のワンカップの山の中で眠りこんでいたりしている。さすが危険人物が連れ出すところは段違いに胡散臭い。
「着いたよ」
そうやって男が立ち止まったのは電気もついていないバーだった。扉には《closed》と掛けられていているのに、男は懐から鍵を取り出すと何の躊躇いもなくそれをあける。
「アンタ無職じゃないの」
「無職というか、ねぇ。まぁ、色々あるんだよ」
訳がわからない。
男は中に入ると明かりをつけ、レコードをセットする。曲名はよくわからないけれどジャズだと思う。甘くとろけるような女性歌手の歌声が静かに店内を満たしていく。勧められるまま俺はカウンターのスツールに腰掛け、男は薄く埃のたまったカウンターを台拭きで拭いていく。手際良く酒が用意されるも、二つのグラスのうち、一つに注がれたのはただのオレンジジュースだ。
「俺の酒は?」
「だって未成年でしょ」
正論だけど、ちょっとすねたくなる。今日くらいは酔っ払いたい気分だったのに。
俺たちは小さく乾杯と言ってグラスを鳴らし、だけどそれからしばらくはお互い何も喋らず杯を重ねた。
白熱灯のもとでみた男の姿にもう怪しさは感じられなかった。勿論こんなところに誘拐する時点で胡散臭いことは間違いないが、飄々としながらジャズを楽しむ姿を俺は不思議と嫌いになれない。長髪の男というとどうしても軟派なイメージだが、黒髪はよく手入れされているし、黒のシャツにはきちんとアイロンがけされていて、清潔感もあった。
それでもどうして俺をこんなところに連れてきたのかとか、何者なのか、とか聞かなければいけない事は沢山あるのかもしれない。だけどそう悪い人間ではないのだろうと少し安心できたし、そうなれば俺の頭の中は別の事で頭が一杯になった。
あの時見た、リンの紅い瞳。
女の子を泣かしてしまったことへの背徳感だけではない。もっと根底のところで何かが気がかりで、何かに後悔している。この捉えようのないもやもやは温室の時にだけ感じたのではない。その後の普段通りの生活の中でも、常に心に引っかかる。
それはホテルを出た今でも感じる。ジャズの音色は穏やかなのに、なぜか心に波風を立てる。ジャズなんて初めて聞くのにある種のノスタルジーを感じている。
「俺は昔ここに来た事があるのか?」
思い切って聞いてみた。ギリギリの心を支えてきてくれた養父の言葉からは、もう卒業しなければいけないのだろう。
「さぁ」
「俺が記憶喪失だってこと、知っていたんだろ」
俺は質問を重ねるも、男は答えない。でも、その沈黙はあまりに雄弁だった。
交通事故だったと聞く。でもそれがどんな事故だったのか、何が原因だったのかなんてもう俺の記憶からなくなっていた。目が覚めたら、見た事のない白い天井があって、見た事のない人たちに囲まれていた。手にはレースの縁取りのついた、白いハンカチ。脳裏にフラッシュバックする一面の紅。それが俺の一番古い、ニュータイプの記憶。もうあの場にいた人たちの顔も忘れてしまったけれど。
俺はよくわからないままに検査と治療を受けて、退院してからは今の養父と暮らした。養父は本当の父親ではないようだったけど、不思議と淋しさはなかった。「ありのままを受け入れ、素直に生きなさい」という養父の魔法の言葉があったからだと思う。その言葉通り俺は不安定で空白の過去から全力で目をそらして、《アリス》という新しい名前にしがみついた。ハンカチに《アリス》という刺繍があったから。それがただ一つの過去からの連続性だったから。
「記憶は取り戻せそうかい?」
「わかんね」
俺は正直に答える。確かにホテルに来てから、今までにないほどに心が揺さぶられる。庭の匂いや建物の感触や音の一つ一つに、唐突に、そして激しいノスタルジーに襲われるのだ。それが何を示すのか、俺は混乱する。
「元々はね、あのホテルはある家族の居宅だったんだよ」
男は語り出した。
「幸せそうな一家でね。実の母親はいないけれども、父親からたっぷりの愛情が注がれて幼い子供たちは育っていった。兄弟のうち一人は腹違いだったし、兄弟の他に全くの他人の子供を居候で一人住まわせていたけれど、それでもすくすくと育っていたよ。薔薇園ではしゃぎまわり、噴水で水遊びのし放題さ。だけど、大きな事故があって、一家は壊れちゃった。それで居宅はホテルに変わったってわけ」
その光景は目に見えるようだった。子供たちの笑い声が耳に聞こえてくる。薔薇園で遊ぶ子供は薔薇の棘でけがをしただろう。でも他の子供がすぐに傷の手当てをしてくれたはずだ。噴水の傍でカエルを見つけては競ってそれを捕まえようとした。そして仲良く噴水の中に落ち、結果として父親に叱られたのだろう。それは厳しいけれども、慈愛に満ちた声だったはずだ。
でもそれらの光景はまだ白く霞んだままだ。俺の本当の名前も、ハンカチをどうして持っていたのかも思い出せない。リンの言葉の意味も、スローガンの意味不明さも。パズルのピースはまだ足りないし、それを繋げる頭もない。あまりに中途半端で、歯がゆい。
「寂しいけれど、君が悩んで、考え続けてくれる限り、僕らは待つから」
男は前を見据えながら言う。
そこで俺は気付いた。俺は逃げ場を失う代わりに、居場所を手に入れる過程に立っているのではないか。それはずっと目を背けてきた俺の夢ではなかったか。空を飛ぶ事なんかよりずっと胸を焦がしてきた、だけれどもその途方もなさに諦めてきた俺の夢。
そう思うと、少しずつ前が明るくなって気がした。まだわからないことだらけだけど、そう悪い気分ではない。
そんな風に微かな期待が頭をもたげた頃、隣で暢気な笑い声。
「あ、もしもし女王様?今からアリスちゃんを返しに行くから。心配させちゃってごめんねー」
目を丸くしてみると、保護者にはちゃんと連絡しなくちゃダメだよ、と男はふざける。誘拐犯が何を言う。
「でもどんな顔して帰ればいいんだよ」
「普通の顔でいいんじゃない?それより君が心配すべきはペナルティだよ」
男は入寮のしおりを暗誦する。
ルール③ 夜間の外出は必ず許可を取る (夜遊びはいけないよ❤)
★これを破った人には女王からあらんばかりのペナルティをプレゼントしちゃうよ★
楽しみだね、とにやにやする男の声などもう聞こえなかった。背筋がぞわりと泡立つ。
ああ、逃げたい。
案の定、ホテルに帰ったらまずリンからのタックル――本人は抱きついただけど言って譲らない、を受けた。だけどまだ感情が整理できていなかったので、少し救われた気がする。ただ、いい加減重いので引き剥がそうとしたら、首に巻き付いた細い腕に力がこめられた。少し震えている。
でも次の瞬間にはリンは力強く笑って、良かったわね、と楽しそうに言った。
「今回のペナルティはこれまでとは比べ物にならないほど軽いわよ。これからお茶会なのに、榊の手作りスイーツの没収。でも榊のスイーツはどれもプロ並みだから、ちょっと残念だったかな」
それくらいならば、と思った。少しくらいは残念だけど、ベッドに薔薇を敷き詰められることに比べたらどれほどマシだろう。
だが俺は油断していた。
「だから代わりに私がスイーツを作ってあげたわ」
俺は声にならない悲鳴を上げそうになったが、リンの視線に気がついて寸でのところでそれを飲みこむ。
「リン様は大変お菓子作りを練習なさいまして、今では比較的きちんと材料を計られるようになりました」
何のフォローにもなっていない榊の言葉を聞きながら、俺は背中を押されて温室に連れてこられる。白いテーブルの上には色々な洋菓子が並んでいて、先に席についていた女王と千鶴は紅茶を飲んで待っていた。
「やあ、お帰り、家出息子」
女王は何の拘りもなく言ってのける。しかしたった一夜――それも時間にしてたったの二時間、の外出を家出ということに反省すればいいのか、それともいきなり息子と呼ばれた事にどう反応すべきかどうか、俺はかなり戸惑う。
「お茶の時間に遅刻するとはな」
千鶴は相変わらずそっけない。だけど、その相変わらずさがやっぱり居心地がいいので、俺は黙って千鶴の隣に座る。かの誘拐犯は何食わぬ顔で榊のスイーツに手を出そうとし、それを女王に窘められている。
「あれ、これ本当にリンが作ってくれたのか?」
リンは得意そうに頷く。以前出されたリンの手作りスイーツは見た目も散々なものだったが、今回のものはまともだ。寧ろ芸術的なまでに可愛らしく作られている。
「私、手先は器用なの」
いけしゃぁしゃぁとリンは言うが、千鶴が小声で教えてくれた。
「お前に食べさせるために相当練習したんだと。ついでに言うならばこの家出騒動で一番動揺して、警察に連絡しようとまで言ったのはリンだ」
大変だったんだ、と千鶴は含み笑いをする。俺はそれを聞いて呆然とした。震えていたリンの感触を思い出す。
家出息子の帰還を祝して、という女王の言葉と共にお茶会は始まった。月も傾きかけている、深夜だというのにまさにどんちゃん騒ぎだった。千鶴は黒猫を膝に乗せて紅茶を飲み、リンは榊のスイーツを次々にたいらげ、誘拐犯は紅茶にこっそりラム酒を混ぜている。誰もが声高に、そして全くどうでもいい事を話していた。女王と誘拐犯はジャズの歌手やその歌声の素晴らしさについて、リンと榊は有塩バターと無塩バターの違いや砂糖と塩の加減について熱く議論を交わしている。
「上達したじゃん」
俺は眼の前のスイーツの感想をリンに伝える。口の中が辛過ぎて、砂糖まみれの紅茶で口に流しこんだのは秘密だ。
でも、俺はまだ何かが引っ掛かる。徐々に思いだす努力をしようと決めた中でも、まだ何かが。
「本当に心配したのよ、千鶴がアリスのいないことに気が付いてからもう大騒ぎ。気が気じゃなかったわ」
「アリスな、家出するなら、ばれねぇようにやるのが一人前ってもんだ」
「まぁ、そうやってアリスも大人になっていくのかなぁ」
リンも、千鶴も、女王も口々に俺に話しかけてくれる。心配したのだと、帰ってきてくれてよかったと。
だけどそれらの言葉を聞いていて、俺はまだ暫く矛盾の中で生きていかなければならないのだと思い知った。家族の中に戻ったというのに、俺は《アリス》でいなければいけないのだと。俺が本当の名前を名乗るには、この家族にはまだ何か足りないものがあるのだと。古い入れ物から新しい入れ物に入っただけなのかもしれないという恐怖がじわりと滲み出る。
「大丈夫かい?」
誘拐犯は俺を見つめる。それは薔薇の棘でのけがを手当てしてくれた時と同じ、優しい眼だった。無茶ばかりしていた俺をからかいながらも、ここ一番という時にいつも助けてくれた男の子を俺は思い出す。
俺は息を吐いて、にやりと笑う。まったく、何がハルちゃんだ。
「ありがとう、春希」
誘拐犯は一瞬驚きに目を見開くが、やがてそれをゆっくり細めて言った。
「ようこそ、不思議の国へ」
いいよ、夢にみた居場所が夢のとおりじゃなくても。新しい入れ物にそれなりの窮屈があったとしても。
それが俺の嘘になるのかな。千鶴の言うとおり、何かを守れるのなら。
もう、逃げない。
白と黒の隙間 【アリスの到着】
原作のもつ奇妙なかわいらしさが、なぜかまちがった方向に自己流で昇華させてしまった気がします。
笑いの要素が吉と出たのか凶と出たのか、考えるだけで恐ろしいです。
お読み頂きありがとうございました。
おそらく後々帽子屋とウカレウサギの章を加える予定です。
お付き合いいただければ幸いです。