宵の影、夜の断片


1) after school

 「大学入ってから、放課後っていう言葉遣わへんわ」
 姉の瑞帆(みずほ)が呟いた。ベッドに寝転がった明梨(あかり)は、
「それがどうした」
 とつまらなさそうに言って、瑞帆の横顔を見る。瑞帆は机に向かってはいるが、勉強などしている様子はない。
「なあ姉ちゃん、頼みがあるんやけど」
「金は貸さんで」
「違う! ……ギター貸して欲しいねん」
「文化祭でも出んの」
「そう」
 瑞帆の次の言葉まで、やや間が開く。
「学校にほったらかして、盗まれたりせえへんか?」
「ちゃんと毎日持って帰るから! 授業中とかは友達が部室に置いといてくれるって」
「ほんまかいな」
 そう言いながらも、瑞帆は机の右側に手を伸ばし、黒いケースに入ったギターを持ち上げる。
「ありがとう」
 明梨はそれを受け取った。

 次の日、明梨はさっそくギターを提げて家を出た。文化祭で演奏することになった曲をウォークマンで繰り返し聴いていると、あっという間に学校に着いた。
 六時間の授業は、あまりにも長過ぎた。退屈でしかたがなかった明梨は、エレキギターの教則本を読んでいた。読みながら、今頃からちょろちょろやってて大丈夫かな、と不安になったりもした。
 授業が終わると、いよいよスタジオ練習だ。明梨は、メンバー達と落ち合うことになっている食堂へと向かう。
「あ、佐久間さん、それ、お姉さんのギター?」
 不意に苗字を呼ばれて、声のした方へ振り返った。同じクラスの住江実早緒(すみえみさお)が居た。住江は苗字だけでなく性格も変わっていて、同じように変わっている瑞帆と親しくしているようだった。
 明梨は「うん、そう」と適当に返事をしておいた。住江はそれ以上話しかけてはこなかったが、明梨は自分から、
「案外すんなり貸して貰えたわ」
 などと言ってしまった。すると住江は
「便利なお姉さんでいいなあ」
 と言い、そこから会話を続けることになるのだった。明梨は住江の独特の口調を時々うっとうしく思いつつも。
(あー、私って人がいいよなあ、こんな奴とにこにこ話したりして)
 放課後の食堂前で、夕日を浴びながら、明梨はそんなことを考えるのだった。


2) secret schedule

 瑞帆は浴衣を着て天神祭に出かけるつもりだった。が、約束していた友人から、風邪で行けないと当日になって連絡があり、しかたなく諦めた。
 夕方、背中が大きく開いた鮮やかな赤のワンピースを着て髪の毛を束ねている明梨を見た瑞帆は、
「あんた何やのよ、受験生のくせに祭なんて」
 そんなことを無意識に口走っていた。
「は? 関係ないやろ、ほっとけ」
 明梨は瑞帆を睨んだ。そして、跳ねるように階段を降りて行く。
(暇でたまらん。本屋でも行くか)
 瑞帆は、通販で買った適当な黒のワンピースに着替えてから、古い自転車にまたがり、本屋へと向かって漕ぎ出した。
 しばらく走ったところで、見覚えのある人影を前方に見付けた。
「お――い、住江! なんでこんなとこに居るんや?」
「あ、こんばんは! 佐久間先輩……パンツ見えそうですよ」
「ははは、甘いな。私はスカートの時いつもブルマを履いているのだ!」
「えっ、高校のブルマですか?」
「そう。手放されへんねん」
 瑞帆は、住江が自宅から何キロも離れたところに居る理由を尋ねようとしていたことを、すっかり忘れてしまった。
「祭キャンセルされて暇でな。どっか行かへん?」
「はあ、いいですよ。私も暇ですから。……で、どこへですか?」
「そうやなあ、船橋川が涸れてないかどうかでも見に行こか」
「……船橋って、一瞬、千葉かと思いましたよ。あーびっくりした」
 住江は瑞帆の自転車の荷台に腰掛けながら言った。瑞帆は漕ぎ出す。
「受験勉強してるか?」
「はあ、一応、先輩の行ってはるとこ目差してるんですけどね」
「来たらええやん」
「いやー、今の状態ではどうも無理っぽいんですよ」
 古い自転車は、瑞帆の最寄り駅・御殿山駅に差しかかる。瑞帆は、ふと前方の改札に目をやった。赤いワンピース姿の明梨が見える。そこへ男が駆け寄る。富岡孝軌(とみおかこうき)だった。
 富岡孝軌と言えば、瑞帆らの通う高校では有名な生徒だ。住江を含む男女七人のグループで淀川河川敷キャンプを敢行し、スケボーに乗って手を縛り、その紐をバイクにつないで引っ張らせ、スケボーが石に引っ掛かって引き摺られ重傷を負った……という話は、住江からだけでなく、いろんな人間から聞いたことがある。
 瑞帆は、わざと自転車を改札の方へ近付け、ベルをリリリリリと連続で鳴らす。
「あっ、孝軌め! 『この夏はみんなで祭に行くのはやめて、受験勉強に専念しよう』とか言ってたくせに!」
 と叫ぶ住江の声は、嬉しそうだった。孝軌が振り向き、はっとした表情を見せる。
「はっはっは、甘いな孝軌!」
 住江は瑞帆の後ろでげらげらと大笑いしていた。瑞帆は、きょとんとしている明梨の顔を見て、同じように笑ってしまった。


3) black cat

 夜、線路沿いの道を歩いていると、電車のヘッドライトが時折眩しく感じられる。
 食堂で、勉強するでもなく、ただがやがや騒いでいるうちに、日は暮れて、学校帰りにはいつもそんな道を通ることになる。
 夏休みには、そこを通る機会が減り、孝軌は少し物足りなく思うのだった。

 ある日の午後、孝軌は猫の声で目覚めた。
 自分の部屋ではなく、縁側で横たわっていた。ガラス戸は開けて網戸だけにして、そこへ参考書類を運び、涼みつつ勉強しようとしたのが、いつの間にやら眠っていたのだ。開いていたはずの公式集は枕になっていた。網戸越しに、猫の姿が見える。家の近辺でよく見る黒猫だった。
「なんやお前。何しに来た?」
 上体を起こしながら声をかけると、黒猫は走り去った。
 家には誰も居なかった。父も母も店へ行っていて、兄は大学のサークルの合宿に出かけている。
(庭で布団でも干したろ)
 孝軌は、自分の部屋から布団を運び出して縁側へ戻った。網戸を開け、下駄を履いて庭へ出ようとしたとたんに、黒猫が家の中へ飛び込んで来た。
「こら! 入んなよ!」
 と言いつつも、孝軌は庭へ降りてゆっくりと物干し竿に布団を干した。それから、布団叩きで十回叩くと、下駄を脱ぎ散らかして家の中に戻った。
 黒猫は、仏壇の前に座っていた。積まれている供え物を齧ったりしないかと孝軌は一瞬ひやりとしたが、果物や饅頭の好きな猫なんて居ないはず、と自分に言い聞かせ、一人で安心した。
 台所へ行って、冷蔵庫からソーセージを一本取り出し、やってみることにした。黒猫は人間に馴れている様子で、ためらうことなく孝軌の手から直接ソーセージを食べた。
 その後、布団を取り込む際に縁側の網戸を開けても、黒猫は外へ出ようとしなかった。

 夕方、畳の上で眠りかけた黒猫をそのままにして、孝軌は散歩に出かけることにした。玄関で靴を履いていると、黒猫がやって来た。
「お、帰るんか」
 と孝軌は言い、遣戸を開けた。黒猫も一緒に家から出た。
 線路沿いの道を、孝軌は少々浮かれ気味で歩いた。翌日、親戚一同が集まることになっている。いとこ達と遊ぶような歳でもないのだが、狭い家に皆が集まって食事をして……と考えるだけで、楽しいような懐かしいような気持ちになるのだ。
 ふと振り返った時、黒猫は五メートルほど後ろを歩いて来ていた。
 少し歩いてから、もう居ないだろうと思い、再び振り返ってみると、まだ居る。
 何度振り返っても、黒猫は居た。
 スーパーの手前で、あと十歩で振り返ってやろう、と孝軌が思った時、背後で鈍い音がした。特に何とも思わず、予定通り十歩行ってから振り返った。すると、道の端で黒猫は血を流して倒れていた。車に轢かれたのだ。
 特急列車が、猫の屍を照らし、孝軌を照らして、通り過ぎて行った。


4) waiting for blue

 明梨は、夏休みの間、たまに文化祭のバンド練習に出かけはしたが、ほとんどバイトも勉強もろくにせずにぶらぶら過ごしていた。家でテレビやビデオを見て一日潰すこともあった。
 ある日、一人で昼食を摂っていると、電話がかかってきた。孝軌からだった。
「むっちゃ暇やねん。今からそっち行ってスーファミしていいか?」
「いいよ。おいで」
「やったー」
「……住江さんらと夏期講習行ってると思ってたわ」
「え? 別にあいつらと全部一緒のん受けてるわけじゃないで」
「ふうん、そうなん」

 孝軌は、明梨をほとんど無視し、客間でゲームをし続けた。
 日は傾き、夕暮れが迫ってくる。明梨は、一人でダイニングの椅子に座り、特に興味があるわけでもない高校野球中継をぼんやりと見ていた。
 孝軌が台所に入って来た時、甲子園はどしゃ振りの雨だった。
「あ、これはひょっとして降雨コールドか?」
 孝軌はテレビを見て言った。そのまま雨が降り続けるとコールドゲームではなくノーゲームになることが明梨には分かっていたが、面倒に思われたので、何も言わなかった。
 明梨の隣の椅子を引いて、孝軌は座る。
「俺らって、こいつらと同い年なんやな」
「二年も居るやん」
「まあそうやけど。三年が多いやん」
「うん」
「なんか嬉しくないか? 応援とかでも堂々と命令口調でできるやん。『打たんか、こら!』とかな」
 明梨は、五秒ほど間を置いてから、言った。
「姉ちゃんと同じこと言わんといて」
 姉の瑞帆は住江と気が合い、住江は孝軌と気が合う。すなわち、瑞帆と孝軌は気が合う、ということに明梨は初めて気が付いた。その瞬間、寒気を覚えた。瑞帆が今にもバイトから帰って来そうな気がして、まだ帰って来るな、と祈るのだった。

 瑞帆はどこかで雨宿りをしているのか、なかなか帰って来ない。
 テレビの方も、雨がやまない。
「今年、ほんまに雨ばっかりやな。こいつら、いらいらしてるやろうな。見てるこっちまでいらいらしてくるわ」
 テレビカメラは、青空を待ち望んでいるであろう球児達を捉えていた。
(もう雨やまんって。勝手に再試合でもしてろって)
 明梨はテレビに向かって、心の中で呟いた。
 その時の明梨には、青空など要らなかった。雨なんか、ずっとずっと降り続いて、誰も外に出られないような洪水になってしまえ、とすら思っていたのだ。


5) distance of two

 バイクの速度は、次第に上がっていった。
 久し振りに晴れた日、孝軌は明梨を後ろに乗せて、バイクで琵琶湖を目指した。
 しかし、京都府に入った頃、明梨が京都の街を歩いてみたいと言い出したので、琵琶湖行きは断念した。
 市内の駐車場にバイクを止めた孝軌は、明梨の少し後を歩き出す。京都に何があるのだろう? 寺でも見て回ろうというのか? と考えながら。
 明梨は、雑貨屋などを見付けては、嬉しそうな表情を見せて、
「ここ見たい」
 と言い、孝軌の手を引いて店に入って行くのだった。
 明梨が小物に目を輝かせている間、孝軌は、つい最近まで仲間と行動を共にしてきたことを思い出す。
 ……一年前の夏、男女七人のグループで河川敷キャンプをした。その日、孝軌は、学校中の笑いものにされてしまうような事故を起こして大怪我を負い、入院した。そのため、一週間後の中学校の同窓会に参加できなかった。同窓会の写真を見たくなった孝軌は、見舞いに来た例のグループの者達にそのことを伝えたところ、住江が次の時に同じクラスの明梨を連れて来たのだった。孝軌は、明梨が同じ中学校出身だということを、その時まで忘れていた。
 それから何がどうなってこうなったのか、孝軌にはよく分からない。入院中、何を考え何をしたのか、混乱してしまっているのだ。 退院後も、事故前と同じように振舞っていたはずが、気付いたらそばに明梨が居た。
 孝軌は、明梨と二人で居る時には、普通の、ごく普通の人間になっていることが、自分でも分かるのだった。周囲の者達もおそらく気付いているだろう、と孝軌は考える。
 果たしてその時の孝軌の姿は偽りなのか、それとも、普段の方が偽りなのか。それは孝軌自身にも分からない。

 帰りの国道一号線で、目の前に怖いタクシーが現れた。居眠り運転をしているような、不安定な走りをする。左右にふらふらと揺れるのだ。
 ふと孝軌は、自分の腰を抱えているのが住江であるような錯覚に陥った。一年前のキャンプの夜に、住江を後ろに乗せた時の感覚が甦る。そして、ふらふらのタクシーを見ていると、まねをして揺れてやろうかという気になってしまった。
 その時、孝軌のシャツを、手が引っ張った。その手は、孝軌が企んだタクシーのまねのことなど何も知らない、普通の手だった。
 孝軌は我に返る。そして、一気にタクシーを追い越し、どんどん離していった。

 孝軌は、佐久間家の前で明梨を降ろした。街灯が二人を照らし、狭い道路に普通の影を二つ作る。
「ありがとう。じゃあ、バイバイ」
 と手を振り、明梨は二階の玄関へと階段を上がって行く。
 少し走ってから孝軌が振り返ると、三階の窓から明梨の姉の瑞帆が顔を出して、階段の途中に居る明梨に向かって鍵を投げようとしているのが見えた。
 明梨なら鍵を落とすだろう、と、孝軌は姉と妹の距離を見て思うのだった。


6) narrow world

 夕暮れ時、瑞帆はバイト先から自転車で家へ向かっていた。
 最後の角を曲がって玄関を見上げると、明梨と富岡孝軌が立ち話をしているのが見えた。瑞帆は、ガレージに自転車を止めると、ゆっくり階段を上って行き、言った。
「富岡君、中入ったら?」
「いえ、いいです。本返しに来ただけやから」
「そうなん」
 瑞帆は、二人の横をすり抜けて家に入った。
 二人の声はすぐに聞こえなくなった。その日母の帰りが遅くなると聞いていた瑞帆は、米を研ぎ始めていたので、静かに入って来た明梨に気付かなかった。
「なあ、姉ちゃん」
「居ったんかいな、びっくりした」
「なあなあ、お願いがあんねん」
「何?」
「ビデオ返して来んの忘れてん。これ……」
 明梨が差し出したレンタルの袋は、高校の最寄りである光善寺駅のそばのものだった。
「アイロンがけ全部しとくから、返しに行って来てくれへん?」
「分かった分かった。じゃあ、ちゃんとかけといてや」
 米を炊飯器にセットしてから、瑞帆は家を出た。

 蒸し暑い夜だった。八月も終わりに近付いているというのに、ようやく夏到来というような気候なので、残暑、とも言い難かった。
 湿った空気の中、ホームで電車を待っていると、誰かが背後を右から左へ通り過ぎて行くのが分かった。五メートルほど離れたと思われる頃に、その人物を見てみた。間違いなく孝軌だった。分かったところでどうするわけでもなく、瑞帆は前に向き直った。
 やがて、電車がやって来た。その時、孝軌が、電車の来る右の方を向いた……ということは、瑞帆が視界に入る。
(見付かったかな)
 と瑞帆は思った。
 電車に乗り込んで間もなく、孝軌が瑞帆のそばへやって来た。
「また会いましたね」
「どこ行くん?」
「住江ん家へ本返しに行くんですよ」
「また? 借り回ってんのかいな」
「ちょっと張り切ってるんです」
「ふうん」
 瑞帆はよく「ふうん」の一言で会話を終わらせる。というより、終わらせる気がなくても、それ以上話す気がないと相手に思わせてしまうのだ。
 光善寺駅まで、沈黙は続いた。降り際に、孝軌に言う。
「カセット三本返せって住江に言うといて」
「奪って来ましょうか?」
「ええよ、返せって言うだけで」
 瑞帆は、笑ってしまった。


?) irrational function...

 「台風13号、近畿縦断か」という記事が新聞に載った日の朝、瑞帆は窓を開けてみた。台風なんて本当に来るのだろうか、と首をひねる。テレビのニュースによると、その台風は既に九州に大きな被害をもたらしているとのことだったが、大阪では一向にそんな気配は感じられなかったのだ。
「中三の時みたいに休校にならんかなー、なったらいいのになー」
 明梨は気象情報を見ながらぶつぶつ呟いていた。

 昼過ぎから風は強くなり始めた。
 バイトが休みでごろごろしていた瑞帆の元に、夕方になって母から電話がかかった。母は、網戸を外しておけとか、植木鉢を全部家の中へ入れろとか、様々な台風対策をまくし立てた。
 瑞帆は言われたとおり作業を始めた。
 網戸を外すのは飛んで落ちないようにするためだが、瑞帆はその段階で落としそうになり、冷や汗をかいた。植木鉢やプランターは思っていたより数が多くて、家の中に入れ終わった頃にはすっかり疲れ果ててしまっていた。部屋に戻ってベッドに横たわると、瑞帆はすぐに眠りに落ちた。

 大粒の雨が窓を打つ音で目を覚まして時計を見ると、五時を回っていた。
 起き上がったところで、ちょうど電話が鳴った。住江からだった。
「先輩! 雨が凄くなってきましたよ。この分やと、船橋川も増水してたっぷたぷになりそうですね!」
 という声は弾んでいる。台風に興奮している……子供だ、と瑞帆は思う。
 住江は、二年前の台風十九号の時に、文化祭の巨大迷路が強風でばらばらになっているのを朝一番に登校して発見したのだ、と自慢げに語った。そこから台風に関する記憶をどんどん記憶をたどり、幼稚園年長の夏の話になった頃には、六時が来ようとしていた。インターホンが鳴った。
「あ、誰か来た。じゃあまた」
 そんな簡単な挨拶で通話を終え、子機を切り替える。
「あ、富岡です。明梨……さん、帰ってます?」
「え? いや、分からん。ちょっと待って」
 寝ている間や電話の間に帰ったかも知れない、と思い、名前を呼びながら階段を下りて行ったが、返事はなかった。
 玄関を開けると、ぼわっと音を立てて風が入って来た。孝軌は傘を持っていなかったが、大して濡れてはいなかった。雨は約一時間前よりかなり弱まっている。
「まだ帰ってないみたいやわ。台風やっちゅうのに、ほんまにもう」
 と瑞帆が言い終わらないうちに、孝軌は声を発した。
「あの、五時頃まで僕の家に居たんですけど……」
 孝軌の家との距離は五百メートルほどしかない。一時間もかかるはずがない。
「何回もベル呼んでみてるんですけど、反応なくて……」
「何? ひょっとして、喧嘩でもして、明梨が家から飛んで出たとか?」
「そう、です……謝りたいんで、家で待たして貰えませんか」
 そう言いながら孝軌は玄関に足を踏み入れてきた。瑞帆は扉を閉め、居間へ通す。タオルを貸し、紅茶を淹れてやった。
「自分は無茶なことするくせに、明梨は心配なんや」
 項垂れる孝軌に、瑞帆は意地悪な言葉を投げかける。
「そりゃそうですよ」
「喧嘩なんかせんかったらええのに」
「しようと思ってするわけじゃないですよ。飛び出したりすると思わないじゃないですか」
「甘いな」
「甘いです。女心は分かりません」
「女心っていうか、明梨心? あの子は私や住江とは違う種類の人間やからな」
 やや間を置いて、孝軌は顔を上げる。
「なんで姉妹でそんな似てないんですか」
「私かて不思議やわ。……大体、なんでよう分からんのに明梨と付き合うてんの。住江じゃあかんの」
 孝軌は少し笑った。
「無理ですね。住江は恋愛対象じゃないです。なんていうか、近過ぎて」
「ふうん。じゃあ、私も無理やな」
「は?」
 ティーカップを持ったまま、ぽかんと口を開けて孝軌は固まった。
「だってほら、私と住江、似てるから」
「でも……見た目は明梨と似てはりますよね。去年とか、学校で間違えて声かけそうになったし」
「私あんな化粧してへんわ」
「まあ、そうですけど」
 孝軌は、まだ湯気の立っている紅茶を、一気に飲み干す。
 暫しの沈黙の後、瑞帆は喧嘩の原因を孝軌に問うてみた。
 ……暴風警報が出たため六時間目が休講になって、孝軌の家へ行った明梨は、庭の物干し竿を家に入れたりするのを手伝っていたらしい。
「『自分とこの植木鉢家ん中入れたりせんでいいんか?』って聞いたら、『うちのは姉ちゃんがやってるからいいねん』って言うんで、『便利なお姉さんでいいな』って言ったら……『住江さんと同じこと言わんといて!』って怒り出して……」
 瑞帆はそれを聞いて噴き出した。
「まさか、それで飛び出したとか言う?」
「それですぐっていうんじゃないんですよ。なんか今までもどうたらこうたらって、いっぱい言い出して」
 住江へのやきもちだな、と瑞帆は一人納得する。
「で、僕が『住江みたいなあんなおもろい顔の奴のこと好きなわけないやろ!』って言ったら……」
「飛び出した、と」
 孝軌は頷く。
「なるほどな」
「何がなるほどですか」
「結局そこか」
「そこってどこですか」
「自分で考え。墓穴掘ってんからな」
 瑞帆は腕組みをして偉そうな口調で続ける。
「もう今日は諦めて帰ったら? 明日学校で謝ればええやん。それか、帰ったら電話さしてもええし。どう?」
 そんなことを言いながら、どうせ電話しろと言ってもしないだろう、と瑞帆は思う。孝軌は返事もせず、空になったティーカップをじっと見ている。
「どうせ街へ出るか友達の家行くかしてるだけやろ。川の増水具合を見に行って流されたりするようなことはないって、私や住江とちゃうんやから」
 そう言うと、漸く孝軌は「ふっ」と笑った。そして、立ち上がり、ソーサーとティーカップを片付けようと手にしたのを、瑞帆が受け取った。
「走ってそこら辺で飛び出して轢かれでもしてたら、救急車とか来て騒ぎになるやろけど、そんなんも今んとこないしな」
「轢かれたりはせんでしょう、猫じゃあるまいし」
「……猫?」
「こないだ線路沿いの道で猫が轢かれたんですよ。見ませんでした? 死体」
「見てへんわ、そんなん」
 玄関へと向かう孝軌の背中に、瑞帆は問う。
「なあ、そういうことを明梨にも言うてんの?」
「そういうことって?」
 孝軌は立ち止まって振り返る。
「そういうことっちゅうたらそういうことや。私や住江なら何とも思わんけど、明梨やったら言われて気分悪なるようなこと」
 首を傾げ、孝軌は再び歩き出した。
 玄関の扉を開けると、孝軌が来た時よりも強い風が吹き込んできた。雨はやんでいた。一歩外へ踏み出した孝軌は、「あっ」と声を上げ、空を指差した。
「電線切れてなびいてますよ。なんか無理関数のグラフみたいになってる」
「だから、そういうことやってば」
「……え?」
「そういう感性は、明梨には、ないんやから」
「ああ、そういうことですか」
 二人は、顔を見合わせて笑う。それは、苦笑の類いだった。
 孝軌が挨拶をして階段を降りかけた時、誰かが曲がり角を曲がって来た――明梨だ。孝軌の姿を目にして、立ち止まる。玄関に居る瑞帆を、じっと見る。瑞帆は何も言わない。
「明梨! どこ行っててん? 俺、帰って来んの待たして貰っててんで」
 大声で早口に言いながら孝軌は階段を駆け降りたが、明梨はその言葉を聞こうともせず踵を返し、曲がり角の向こうに姿を消した。
 嵐はまだまだこれからだ。
 瑞帆は、玄関の扉を閉めた。

宵の影、夜の断片

宵の影、夜の断片

設定:1993年

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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