逆回りの時計

第1章 助走

ユージは、”何か楽しいことはないかな、同級生の豊田理奈に偶然会ったりしないかな,”と考えながら夕暮れの迫る街を歩いていた。ユージはぶつぶつと不満な思いを蒸し返しつつ歩いていた。つい、おとといの晩、ユージは母親のトキコから「ユージさん、いま精一杯勉強してQ大に入っとかんと一生後悔するよ。お母さんのいうことを聞いておけば間違いないとやから。」と一方的に言われて、いっそう不満を溜めただけだった。石でも蹴るか家の壁を蹴るかしないと収まらない不満がまた一つ増えただけだった。
 その付近は、飲み屋街の隣りでありながら、閑静な住宅街とも接しているという中間的な地域だった。道路の脇に、昨晩ごみ収集車が取り残した、家庭用のゴミ箱が4個、5個と連なって置かれていた。ユージは腹立ち紛れに一番近くにあったごみ箱を蹴ってやろうと足を上げて構えた。けど、足を振り下ろす直前に、ゴミ箱を蹴るのをやめて、すぐ脇の500ミリの空のペットボトルを蹴った。気弱ゆえに、ユージはゴミ箱を蹴られなかった。
 そのペットボトルがカランカランと転がった先に、「タロット占い」という看板があった。
 その看板には、タロットカード数枚のロゴが描かれていた。おどけた道化師の姿、長いマントを着た陰鬱な表情をした老人、金色のカップ3個が地面に置かれているのに、さらに雲がもう1個のカップを男性に差し出しているが、その男性はもうらおうかどうしような迷っている絵が描かれていて、心惹かれるものがあった。
 その占い所は、古い民家の一角を増築したもので、外から中を見たら、中は奥行き2メートルほどしかなく、机ひとつで一杯になっていた。机の上には、黒大理石でできた名札に「ルーディス=アルディナ=中山」と彫り込まれていた。
机の向かうに、年齢60歳過ぎの彫りの深い顔の男性が座っていて、新聞を熱心に読んでいたが、すぐにはユージのほうを見なかった。しばらくしてやっとユージのほうを見るや、ユージの目を10秒もじっと食い入るように見た。そして、低音であって潤いのある、どこかの片言が少し混じった言い方で
「悩みがあるような顔をしているなあ。まあ入んなさい。」
と言ってルーディスはまたじっとユージの顔を見た。今度は顔だけでなく、身体全体を見た。
「まあ、そこにかけなさい。」
「君はゆうじというんじゃないかね?そうだろう、きっと。」
と言って、真正面のリラックスできそうな手置きのある椅子を指した。
 ユージは自分の名前を当てられたことに驚いて
「どうして、名前が分かったんですか。こちらからは何も話してないのに。」
とやや大きな声で言った。
「顔つきと体型、いすに座るまで動作とかで分かる。苗字は安部とか安藤とか、とにかくうかんむりの安が付くのではないかね」
「はい、安藤です。どうしてそんなことまで分かるんですか?」
「まあ、きっと親の影響を受けて、家を捨てられないタイプの人だろう。そういう信号というか波動が、君の身体から出ているというわけさ。うかんむりの名前を持っているんだろうと思ってなあ。高校生は1000円だ。3か月後にまた占いをすることも含めても併せて3000円だ、これにはメールでの回答も付いている。」
と年齢の割には、しゃきしゃきした話し方だった。ユージは、その話しの仕方から、もしかしたら、ルーディスというタロット占い師には、30歳前後の彼女がきっといるのではないかと思った。彼女がメールを打つんじゃないかと。
「早速やるか。」
 ユージは、名前を当てられたことに驚いて、言われたことにうなづき、その流れに従った。
「タロットは経験ないんだろう、タロットはその人の心の状態を読み込んで表してしまうものなんだ。」
「タロットカードが、その人をリードすることもある。例えば、戦車という勇ましいカードが出たとする。すると、カードを選んだ本人は、戦車の持つエネルギーの影響を受けて、生活でも勇ましく積極的な行動をするようになったりする。じゃあ、始めよう。シャフルするから、そのあとにカッティングしてくれ。」
 ユージは言われたとおりに、一度だけカッティングして、カードをルーディスに戻した。
 ルーディスは、3枚だけ目の前の黒のシルクのボードの上の置いた。そのカードは
     ハングマン、カップの6、ムーン
だった。
「そうか、高校生というよりも浪人生かな?『ハングマン』という男性が逆さに吊るされたカードが出た。きっと、君は今自由がなくて束縛されている状態だな、息苦しいくらいに感じているかな。」
「このカードを見てみなさい。ハングマンという逆さつりの男が苦しい顔をしているだろう、君自身だ。」
 ユージは黙って聞き続けた。
「ほう君は本当は直感が強いんだ。それを発揮できずにいる。ムーンは直感を表している。最後にカップの6は、人に物を与える喜びと豊かさを表している。だが、これはいまのところ君には足りないのだ。足りないのこのカードが出たのは、潜在的に君はこの能力、つまり他人に喜びと豊かさを与えることができる能力を持っている。その潜在的な君の願望が顔を出したのではないかなあ。もっと自信を持つといい。いつかは、カップの6に込められたエネルギーが出たいとうごめいている、違うかな」
 てきぱきとタロットをリーディングされ、そのうち半分は心当たりがあった。確かに、浪人生活をしていたから、束縛された不自由な状態だった。直感が強いかどうかは自覚がなかった。それに、人に何かを与えたいという性格を持っているなんて、自覚はなかった。でも、ルーディスが言っていることはたぶん本当だろうとユージは思った。ルーディスの言葉は、そのまますーっと心の奥深くに入ってきた。
「分かりました。そうだと思います。ありがとうございました」
「そうか。また、次に来てくれるのを楽しみにしているよ。君のために現れたタロットのエネルギーを信じながら、自分の中に取り込むつもりで、その3枚のカードを触ってみなさい。祈るような気持ちで触ってみなさい」
 ユージは言われたとおり、3枚のカードを優しく触った。特に『カップ6』のカードはありがたいという気持ちで両手の間に挟んで優しく触った。
「じゃあ、ユージ君、3か月後にまた来いよ。」とルーディスは慈悲深そうな笑顔を始めて作りながら、ユージの方を叩きながら言った。自分の孫でも見るような慈悲深い笑顔で。
 *******
 ユージは何か心が少し楽になった。
 ルーディスのタロットの店を出てから、さらにぶらぶらと歩いた。このあたりは、もともと武家屋敷もあった。それだけでなく、こじんまりとした神社があり、その神社の境内には樹齢300年はあろうかというケヤキの木が立っていた。神社の境内に入ると、それまで感じていたいわゆる都会の喧騒が聞こえなくなろ、そこだけは300年前に戻ったような雰囲気が漂っていた。ユージは、この神社で数分休んでから、ルーディスの店とは正反対のほうに歩いた。花屋、手作りケーキの店、同じく手作りシューズの店などというレトロな雰囲気をかもし出していた。ちょうど、シューズ店の隣に入口がやや狭いくせに奥は広そうで、頑丈な梁で店内を守っているような古風な骨董品店があった。
その骨董品店にユージは何か惹かれるものがあった。そのまますーっと店内に入った。店内には、天井にまで届きそうな背の高い、木製の棚が8個も並んでいた。陶芸品が多かったが、一番奥は雑然といろいろなものが乱雑に積まれたていた。
 「こんな奥に追いやられている骨董品だったらどれも安いだろう。どうせお金を出して買うなら、アンティークで、しかも何かの役に立つものがあればいいなあ。」
と思いながら、なにかを感じるものはないだろうかと、さっき言われた直感力を生かせないかとぼんやりと考えながら、どんどん奥へと足を進めていた。
 すると、棚の上段から3段目のところに、かなり古い木製の時計と見つけた。その時計から、「こっちに来い、こっちに来い。」と言われているような気がした。
 ユージは、この古い木製の置き時計を手にとってみた。何百人もの人がこの時計を愛でながら触ったのではないかと思われた。何百人の人が愛したエネルギーがこの時計には込められている気がした。ユージは、この時計を買うことにして、入口のところにしつらえた台に座っている店長のところにこの時計を持って行き、買いたいと言った。
 すると、店主らしき人物から「代金は2万円ですが。」といわれて困った。ユージにとって、かなり高額だた。だが、なにか惹かれるものがあったので、ユージはどうしても買いたいと思った。その思いは、じっと立っている間にもますます強くなり続けた。ユージは、借金払いに当てるための預金が、ユージの通帳に20万円が入っていることを思い出した。予備校の授業料に充てるために母親のトキコから預かってきた金だった。
 20万円の振込みはまだ先立った。だから、そのうちの2万円くらいなら使い込んでもいいだろうと思った。
 即座に、ユージは
 「はい、買います。」
と言いながら、ズボンの後ろポケットから財布を取り出して、さらにその中から2万円を出して、店主に差し出した。
 こうしてユージは何かを感じた古時計を手に入れることができ、急ぎ自宅に帰った。そして、何か新しいことが起きるのではないかとわくわくしながら、その木製の古時計を机の上の置いた。机の上に置いた古時計を見ると、そのなんともいえないアンティークなスタイルに惹かれて、時間が過ぎるのを忘れそうだった。
 「この時計に名前をつけてやろう。何がいいだろうか。」
としばらく考えた。名前を決めるのに、なにか材料はないかと、書棚から外国語の教科書やら小説やらを、書棚から出して手の届くところから順に引っ張り出した。
 結局、何かから取るのではなくて、ユージはライナスという名前をこの古時計に付けた。
 時計に名前を付けると、一仕事終わったような気分になった。ユージは目の前の22インチの小型テレビのスイッチを入れた。すると、午後10時に始まるニュース番組がかかっていた。冒頭のニュースに続いて、10時30分からは今日のスポーツを紹介し始めた。 
 ユージは勉強が気になり始めたので、物理の教科書を読み始めた。しかし「よりによって苦手な物理の教科書を出してしまったんだろう」とぶつぶつつぶやきながら、ユージはたちまち眠くなり、机に頭をうっつぶした。
 ユージはうとうとしたり、ぼんやりしたりを繰り返し、夢から覚めそうになった。はっと目を覚ましたら、ライナスはちょうど午前2時を指していた。「寒いなあ」と思いながら、風邪を引かないようにと、一応、今晩は遅くまで勉強にがんばろうと思っていたので、お気に入りのカーキ色のフリースを着込んだ。ユージは少し温かくなったなあと思いながら、新しいフリースの匂いを楽しんだ。それからまたウトウトしながら、1時間は経っただろかユージは寝ぼけていた。そのとき、ユージの右手が痙攣を起こしたように動いて、時計を左前に押して、さらに時計を床に落とした。ユージは、慌てて急いで時計を拾って机に持ち上げたが、針が回ってしまい、針は午後10時を示していた。
 その瞬間、ユージは地震でもあったのかというような、強い振動を感じた。しかし、その振動は1、2秒しか続かなかった。 
「あれ地震か、それにしては短いなあ。どじだなあ、おれ、大事な時計落としちゃった。大丈夫かな、この時計。」
「ああ今2時なのに10時を指している。」
と声を出しながら、テレビに目をやるとニュース番組がかかっていた。
 あれ、と思いつつ両腕を見たら、カーキ色のフリースを来ておらず、その下のカラーシャツの袖が目に入った。
 ユージはもしかしたら、さっき午前2時だったのに、4時間前に戻ってしまったのか、と一瞬思ったが、違うと打ち消した。
 そして、何か気にかかるところがありながらも、またウトウトし始めて、ユージは寝てしまった。
 その明け方ユージは夢を見た。その夢は、ぼんやりして、何か現れたものがはっきりしなかった。神のイメージだったか、ルーディスのイメージだったか、それとも予備校の教師のイメージだったかさえはっきりしなかった。しかし、言葉だけが心に夢の思い出として残っていた。その言葉は
    もう一度、回せ。
と言っていた。
 はっきりしないものを抱えたまま、ユージは、いつも通り、「くそ、つまんねえ。」と思いながら、参考書をかばんにつめてから、予備校に行った。
 予備校で、つまらない英語の授業を聞きながら、さらに頭は”つまらない病”が激しくなって、ユージはそこにいるのさえ嫌になってきた。
 ついでに、教師は、男の癖に、女が付けるような、しかも豚小屋の匂いに似た香水を付けているから、なおさら、変だった。予備校の女生徒は「気持ち悪いきも先生」とはっきりと呼ぶこともあった。その教師の名前は「絹塚幸男」だったから、予備校の女生徒は
きも先生、きも先生。
と気持ち悪いという意味で呼ぶのだった。
 こんな日が1週間続いた。ユージはまた段々と愚痴と後悔が心の大半を占めていた。家に帰ったら、母親のトキコから
「勉強、ちゃんとできているの?」
「ここが勝負だからね、どこの大学に行くかでその後の出世が決まるのよ」
「あんたはまだ子供だから分からんやろけど、お母さんのいう通りにしておきなさい。」
「いい大学に、Q大に入りさえすればいいのよ。」
と毎日のように言われた。『Q大にはいりさえすればいいんだから』この言葉は、ユージがK高校に入学したときからずっと言われた言葉だった。ユージは、トキコが闇雲に『Q大、Q大』と唱えていると思い、最初は抵抗した。大学を出たからと言ってみんな幸せになるわけじゃあないし、よく周りを見たらどうか、Q大出身の大人でぱっとしない生き方をしている人は結構いるのではないかと言い返すこともあった。
 しかし、そのたびにトキコから逆切れされて
 「親に逆らうとね、あんたは子供やけ、親の言うことを聞いておけばいいと。Q大に行きさえすればいいとやから、あんたはまだ世間を知らんけ、そんなことを言うと、親のいうことを聞きなさい」
と感情的に押さえつけられるのだった。
 ユージは「ああつまんねえ。なんとかなんねえかよ。納得もできないままに、親から高校から言われて、つまり命じられてやる勉強に何の価値がある?むだじゃん。」と発散できない不満だけを溜め続けていた。
 明日は5月15日、ユージの誕生日だ。その前日の5月14日、予備校の授業で、シェークスピアの英訳が課題で出されていた。ユージが指されて「ここを訳して見なさい」と言われた。
To be or not to be that is the question   
 「生きるべきか死すべきかそれが問題だ、でいいでしょ。」
 とユージは答えた。
 答えながら、ユージは「だからどうだっていうんだよ、生きているものは仕方ねえじゃないかよ。今のこの授業からどうやって逃げ出すかそれが問題だ、そして、どうやってあの婆ばががいる家から逃げ出すかが問題だ。つまんねえ授業を逃れ、うっとおしい母ちゃんから逃れ、それで好きだった彼女と一緒に遊ぶにはどうすればいいか、それが問題だ。」とぶつぶつつぶやいた。つぶやいただけなのに、この教師の耳に届いたらしく、「なんか言ったか」とユージに言い返してきた。
 その日の夜10時頃、ユージの部屋の日めくりカレンダーは正確に5月15日を示していた。ユージはまた物理の教科書を読んでいたのだが、眠気でウトウトしていた。「ホルンヘルスの法則とかいうのは訳けが分からない。どうせなら地球の始まりとか宇宙の終わりとかを物理で教えてくれればいいのに。」と考えていた。
 そのうちに、眠気で頭がふらっとして、机の頭をつけて寝入りそうになった。意識が遠ざかりそうになった頃、何かが頭の中で光ったような感覚、線香花火の始まりのばちばちというような音がした。ユージは
==ライナスを買った日に針が4時間回ってしまい、本当に4時間タイムワープしたんじゃあはなかったか。それなら、1日分逆に回したらもっとはっきりするんじゃあないか。日めくりカレンダーが元に戻ったりしてはっきりわかるんじゃあないか。
 
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*****

第2章 不思議な時計 ルーディス

5月15日夜10時。ユージは、ライナスの長針を逆に回し始めた。ゆっくりゆっくりと。
 窓から見えるユージの部屋の外の風景は、真っ暗な夜から赤い夕日がユージの部屋を照らし出す夕方になり、さらにカーテンの向こうは昼の太陽の明るい色で一杯になり、早朝のさわやかで新鮮な空気がやってきていた。窓の外には、これから1日が始まるという活力が漲ってきて、朝を迎えたことがユージにもはっきりと分かった。
==時間が戻った、確かに戻った。ルーディスのおかげで時間を戻した。今、5月14日に違いない。
とユージは前の日に戻れたとはっきりと分かり、早速予備校に向けて出発した。
 1時限目の授業が終わって、いよいよ2時限目の授業が始まった。思ったとおり、きも先生が黒板に問題を書いていた。そして、前と同じように、ユージの目を見てから「ここを訳して見なさい」と言った。黒板にはまさにあの字が書かれていた。
  To be or not to be 、that is question   
と書かれていた。
 ユージは
「うわああーー」と声を出してしまい、きも先生から「変な声を出すなよ」と言われた。
 ユージはタイムワープしたことを確信し、自分の思い通りにことが運んだことが嬉しかった。急にニヤニヤした顔になり
 「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ、でいいでしょ。」
 とユージは答えた。
答えながらユージは
==今生きていることがツマんねえ、と思っている、でもライナスがあれば人生をやり直せるかもしれない、理奈さんを彼女にして、理奈さんから勉強も教えてもらって、ヤマを知っている試験で、ガンガン成績上げて、「Q大、あんたはQ大に行きさえすればそれで幸せになるんやから。進路指導の先生もそういっているやろ。」と口うるさい母ちゃんをぎゃふんと言わせられるかもしれない。やり直し出来たらいいかもしれない、それにもしかしたら、高校の授業料とかをおれが払うようにすれば、母ちゃんか偉そうに『あんたはまだ子供やから、親の言うことを聞いておけばいいと』とそれこそ生活を面倒見てやっていると威張り散らされることもなくなるかもしれない。なんか面白くなってきたなあ。へへへへ
 といつも不満と怒りでぐつぐつしていた心とは違って、なんだかドキドキ、ワクワクしてきた。とっても面白いことをこれから始められるのではないかと、いたずらな心がユージに生まれてきた。
 ユージが席に座ってからも、ニヤニヤしていると、きも先生から
「なに、ニヤニヤしているんだ、ええ。お前たちが笑えるのは、合格してからだろ、今からニヤニヤして笑ってどうするんだ。」
と言われたものの、心の奥からこみ上げてくる、ワクワクした感じを否定するのはできそうもなかった。
 その番、夕飯を食べながら、母ちゃんから
「ユージさん、なにニヤニヤしているのね。彼女でもできたのね。それより勉強、勉強、勉強が大事よ。ちゃんとできているとね。成績は予備校から送ってくれるらしいからねえ、さぼっていると分かるよ。ユージさんにはQ大に入りさえすれば、あとは遊んでいんだから。いい大学に行くかどうか、それが人生の分かれ目なんだからねえ。」
「お母さんは看護師の仕事をしながら、ユージさんの大学の学費を作ってやるからねえ、心配せんでいいよ。」
 繰り返されるトキ子の思想というか想念というかものに、結局ユージは支配されるようになっていた。そして、ユージは自由を失って行った。トキコが、ユージを可愛い一人息子と思って多くを期待しているところが嫌だった。子供はおれだけじゃなくて、妹もいるというのに。何を期待するんだ、期待という名の支配じゃないか。期待という名の母ちゃんの夢、それはおれの夢じゃあない、おれの夢じゃない。
 ユージは、ライナスがあれば、きっとやり直せると思った。こんなことを全部乗り越えるようなワクワクした高校生活を全うできるのではないかと思った。絶対に。母ちゃんからうっとおしく小言を言われ続けることもなくなるのではないかと思った。ユージはライナスがあるだけで心に余裕が生まれた。
 ユージは夕飯も早々に自分の部屋に戻り、机についてライナスに話しかけた。
「ありがとう、1日戻してくれてありがとう。」
「けど、1日分逆回りさせたら1日戻してくれた。ということは、もしかしたら針を回したら戻した分だけ時間を遡れるのか、ライナス。」
「もしかしたら針を回した分だけ戻してくれるのか。教えてくれ。戻るべきかここにとどまるべきか。」
とつぶやいた。
 ユージは考えた、考えた。すでに過ぎてしまった、高校3年間のことを。彼女もできず、成績も上がらず、本当は浪人はもちろんのこと大学とか行かずに、親から早く独立したかった。そして、とにかく自分の稼いだ金で、自分らしく生活したかった。親が子供の学歴のために、それだけのために、余計に働くとかどうかしている。それだと、そのことでいつまでのこどもは親に負い目を感じないといけなくなる。真綿で苦しめるような支配。事実は、ユージは、親の奴隷になったままで過ごしてきて、今も親の奴隷状態だった。それになんと言っても理奈に憧れるばかりで近づくこともできなかった。自分のものでない、『あんたのためだから』という母親の夢を押し付けられた、他人の人生。
 ==つまらない、面白くない、夢も希望もねえ。おれの人生じゃあない。
 ユージにとって、ライナスを使って高校時代に戻り、一からやり直すことは当然のことだった、当然すぎるほど当然のことだった。これ以上当たり前のことはなかった。時間を戻す、いや自分が元の時間に戻っていくのは全く当然のことだった。戻ったあとは、計画を練り、的確に実行していくだけだった。まずは、彼女を作ろう。次に母ちゃんの支配から抜けだそう、ついでに学校の支配からも抜け出そう。
 そう、理奈は12月25日が誕生日なんだ、
 ==いや、待て、ああ、そうだ、理奈に近づけた日があったんだ。
   それは、高校2年生の期末試験のちょうど10日前。11月25日の4時限目の授
   業前だった。そのとき、ぼくが廊下を歩いていたら、理奈が教室から出てきたのが
   見えた。理奈は教科書、参考書それに理科の実験の道具をとか、ペンシルケースと
   かたくさんかかえていた。が、多すぎて理奈は廊下で全部落としてしまったんだ、
   僕の目の前に教科書やらペンシルケースやらが散らばった。僕も拾い集めて理奈に
   渡した。でもちょうどそのとき、あの徳田が理奈に「遅れるぞ、早く行かないと」
   と声をかけて理奈に近づき、理奈の肩を抱くくらいな感じで、連れて行ったんだ。
   そのとき、並んで歩く二人の後姿を僕は目で追って、ひどく惨めな気持ちになった。
   けど、そのとき僕は拾ってあげた理奈の小さな消しゴムを持っていた。そして、こ
   の消しゴムを返すに行くときに、話しかけて近づこうと思っていたけど・・・
 思っていたけど、「どうせだめだ、理奈とはクラスが違うし、なんか徳田というちょっとイケテル顔の奴と付き合っているといううわさがあるくらいだら、迫ってもだめだろ。どうせおれなんか理奈と付き合うほどの者じゃあないしなあ。」と思った。その消しゴムはまだここに持ったままだった。
 ユージは、自分のペンシルケースを机の上に出して、中から縦4センチ。横2センチくらいの小さなプラスティック消しゴムを取り出して、しみじみと眺めた。
 その消しゴムには、RINA TOMITAと買った日付がボールペンで書き込まれていた。
 ==そうだ、これを使える”時”まで戻ろう。この消しゴムを使って理奈に近付こう。
とユージはその記念の消しゴムをしっかりと手に握たまま、今度はワクワクしながら、早速行動を開始した。
 「ライナス、ライナス、2年前の、つまり僕が高校2年生の11月25日の”時”まで戻してください、戻してください。今みたいな人生はもう嫌です。やり直したい。是非、あの”時”に戻してください。」
と口に出して言いながら、ライナスの長針をゆっくりと左に回し始めた。ゆっくりゆっくりと。すると、前に1日だけ戻したのと同じように、周りの風景が変わり始めた。昼と夜が繰り返し現れ、寒さが強くなり、窓の外には雪が見えた。カラスの声が聞こえたり、枯れ葉が舞ったりした。ごうごうという音がして、台風が来たがすぐにいなくなったことが分かった。ユージはひたすら針を左に回した。やがて暑くなり、ユージは手を止めて服を脱いだ。雨が降り始め梅雨が来たことが分かった。桜の花びらが舞ったかと思うと、寒くなりまた雪を見た。そして、再び暖かくなり、その”時”が近づいてきた。
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第3章 時を遡る

 ユージは、針を触っていない左手で携帯電話を開いて、年月日が2年前の11月25日になっていることをしっかりと見て、針を午前7時で止めた。
「今日は2年前の11月25日だ。おれは高校2年生だ。さあ、今から学校に行こう。そして、理奈が廊下に落とした道具を拾うのを手伝い、徳田が来る前に消しゴムを返すときに話しかけるんだ、きっとうまく行く。きっかけを作ろう。」
 ユージは、勇んでK高校へと自転車でかけて行った。そして、問題の4時限目の授業開始前に、廊下に出た。ちょうど今ユージは、廊下を歩いている。思ったとおり、理奈が隣りのクラスから出てきた。両腕に教科書とか参考書とかたくさん抱えている、もちろんペンシルケースも。
 広がっている、広がっている、廊下に落とした、教科書が参考書が。そして、ペンシルケースもその中身のペンシルも、消しゴムも。理奈は慌てている、「あら、どうしよう」と言いながら、慌てて大きな教科書類を理奈が拾っている。僕は理奈から3メートルくらいのところで屈んで、教科書を3冊拾ってあげた。そして、廊下の右端に例の消しゴムが落ちていたから、それを拾って理奈のところに近づき、話しかけようとした。
==そうだちょうどこのときに、徳田が理奈をさらっていったんだ、だから10秒早く理奈に近づかないと。そして話しかけるんだ。
 ユージは、ラグビーでタックルするくらいの気持ちで理奈に近づき、ほぼ里奈の顔まで70センチのところまで近づき
 「あのう、これこれ落ちてました。」
と言いながら、理奈の左手に向けて、消しゴムを握った右手を差し出した。
 理奈は、ユージの右手には何があるんだろうとちょっと不思議に思いながら、握られた右手をじっと見ていた。ユージは
 軽く理奈の肩に手を載せながら
 「ここに大事なものがあるよ。」
と言いながら、理奈の目を覗き込んだ。理奈は目をのぞかれているのを意識して、少し戸惑った様子だった。
 ユージは、ユージの右手に集中していることを意識してから、ゆっくりと右手を開いて、手の中の消しゴムを理奈に見せた。指輪でも入っているかのようにしてゆっくりと開いた。
 「ああ、消しゴム、小さい消しゴム。私のね、ありがとう。」
と言ってユージの手から拾い出そうとした。ユージは一瞬右手を握ってしまおうかと思ったが、止めた。その代わりに
 「隣のクラスの安藤です。音楽部でピアノを弾いているんだよ。」
と言った。理奈がなんと答えるんだろうとユージが思っていると、後ろから
 「富田さん、遅れるよ。次は理科実験室だからね、急がない。」
という徳田の声がして、すぐに理奈と徳田は二人並んで歩いて、理科実験室に向かった。
 二人の背中がユージの目から3、4、5メートルと次第に離れていった。ユージはもう少し印象を残しておきたいと思い、理奈に
 「富田さん、もっと大きな消しゴムを今度あげるね。」
と声をかけた。そのときは、もう5メートルくらい離れていたから、理奈にはっきりと何と言ったかは伝わらなかったかもしれないが、ユージが声をかけたことで、理奈は振り返ってくれた。
 振り返ったり理奈に向けて、ユージは思い切って手を上げた。
 ==次はラブレターを渡そう、きっと感激するようなのを書こう。
 
 *****

第4章 ラブレター

期末試験は、12月10日に終わった。2年前の現実は、ユージの成績はクラス45人中37番だった。しかし、ユージはこのときに出た試験の半分くらいは、どこから出たかを覚えていた。大半は、授業中に配られたプリントから出されていた。特に、物理と英語がそれぞれ10枚のプリントの中の2枚からだけ出題されていたから、その2枚を完璧に覚えておけば、それだけで50点は違っていた。
 プリント2枚だけ完璧に覚えておけばそれだけで50点違うから、かなり楽に上に行ける、とユージは思った。そう思うと俄然やる気が出た。ユージは、試験前の1週間はずっと図書館にこもっていた。
 それには、図書館で理奈に会えるというおまけも付いていた。
 案の定、英語と数学の試験は、配布されていたプリント2枚の中から多くが出題されていた。そんなことがあったので、12月10日試験終了後の総合成績発表は、ユージにとってかなり楽しみだった。
 10日の昼休み、ユージは教室の後ろの席の高木太から
「ユージ、今度の試験手応えはどうなんだよ、なんか調子よさそうじゃん?」
「うーん、結構いいかも。おれだってもう高2だろう、このままじゃ終われねえ、とも思っているし。そっちはどんな感じ?クラブ忙しいけど勉強も結構がんばったんだろう。」
「席がユージの後ろだから、成績もユージの後ろだな。ユージ、今度は調子いいみたいだけど、成績を上げて、おれを置いていくなよ」
と太はユージの腕を押したりしてふざけながら、しゃべった。そして、冷やかすようにユージの目を見ながら
「それよりユージ、前から気にしてた富田理奈ちゃん、どうなんだ、近づけそうか、だめ
そうか。」
「いや、今度はやるよ、今度はうまく行きそうな気がするんだ。」
「ええ、そうか。ばんばれよ」
「ところでおまえ、ちょっと最近変わったんじゃないの?前は、すぐ『どうせだめさ、あんなに美人なんだぜ、ちょっと俺には無理だ。』とかすぐにあきらめムードになってたのにさあ。今度は違うじゃん」
「いや、なんていうか、今度こそ後悔したくないって言うか、どっかで頑張んないと、
腐っていくだけだし、とかいろいろ思ってさあ。でもさあ、おれががんばってさあ、がんばってがんばってさあ。それでも、理奈から振られちゃって、おれが落ち込んだらさあ、おれを見捨てないで拾ってくれよな、でないとちょっと辛すぎるかも。」
「ああ、ユージ、今度は本気なんだなあ、がんばれよ、応援するから。」
 太がそう言ってくれたことは、ユージにはかなり嬉しかった。
 クラスの中で、クラス委員長が期末試験の全校生徒の成績を掲載した「成績表」を配り始めた。ユージはクラス45人中20番、高木は38番だった。
「ユージ、成績上げたなあ、すごいなあ。おれを置いていきやがったなあ。今度勉強教えろよ」
「勉強をおれが教えるなんて無理無理。自分ががんばるしかないから。それよりかちょっと相談があるんだけどなあ、全然違う話。」
「なんだよ、また彼女の話か」
「そなんだけど、女の子ってさあ、どんなふうにラブレターもらったら嬉しいんだろう」
「ユージちょっと待てよう、彼女のいない、おれに聞くなよ。」
「そうだなあ、大学生の姉ちゃんの話だとさあ、女の子はみんなの前でなんか堂々と迫って欲しいらしいぜ、こんなに愛されているのをみんなに見られたいんだとか。だから、みんなの前でラブレターを大胆に渡せばいいんじゃない?」
「みんなの前で堂々とねえ。ちょっと勇気がいるなあ。でもがんばらないとなあ、せっかく戻ってきたんだから。」
「戻って来た?どっかから」
「いやいや、じゃなくてそうか。分かったよ、がんばるよ。おれ、隣のクラスの理奈ちゃんの教室に入っていって、みんなの前でラブレターを渡すよ。やってみるよう。」
 ユージは、こう言いながらも、ライナスにもう一度頼る方法はないかと思った。何かに頼りたくなった。なにかに。だが、ライナスは時間を戻してくれただけで、それ以上のものを与えてくれるはずはなかった。
 ==ライナスから時間を戻してもらってチャンスをもらったけど、それですべてがうまく行くんじゃないんだ。不安だなあ。いやだなあ、この不安定な状態。砂の上を歩いているみたい、やっぱり戻って来ない方がよかったかも。何かを得るには頑張んないといけないんだ。結構大変。何の結果も出ないかもしれないけど、がんばらなくてもいいというような生活のほうがよかったかなあ。・・・
 その週末の夜、ユージは自分の部屋に机に向かった。ライナスに
 「ライナスさん、おかけでここまで来ました。理奈さんにラブレターを渡すかどうかまで来ました。でも、うまく行くかなあ。」
 こう声をかけてから、ゆっくりと手書きで理奈に宛てたラブレターを書き始めた。通学の自転車をこぎながら、あるいはつまらない古文の授業の合間に文章を考え、それがようやく形を持ったなそんなラブレターを書き始めた。

     こんにちわ、富田理奈さん。
     この手紙を受けってくれてありがとう。
     この手紙はもちろんラブレター。
     あなたが好きですと、この後に書いてあります。
     いつから。。。高校2年生の夏からです。校舎や廊下、それにちょっと廊下から 
    教室のあなたを見ていて、長い髪を風になびかせて、集中して本を読んでいる姿
    がすてきです。
     どうして。。。理由は難しいです。でも、好きだという気持ちにほかのものは
    混じっていません。
     どうすれば。。。なにもしなくていいです。ときどき、僕が話しかけるので、
    その話し相手をしてくれれば。もちろん、むりに好きになってくれなくてもいい
    し、ほかに好きな人がいて、僕が邪魔なら僕は消えます。
     ただ、僕の今の気持ち(あなたが好きです)を伝えたいだけ。
     あなたはそのままでいてくれて、僕が勝手にワクワクしているのを少し分かっ
    てもらえばそれで十分です。
     僕は(へへへちょっと照れますが)、あなたに聞いてもらえば嬉しいなと思って、
    ピアノの発表会目指して音楽教室でピアノの練習しています。その音を聞い
    てもらい、その感想でも聞かせてもらえれば、さらに僕は幸せかなあ、
    と思います。
     豊田理奈さん、僕は君が好きです。
              
                     ○年○月○日  
                           隣のクラスの 安藤ユージ
 
と書いた。
 そして、このラブレターは、太が言ってくれたように、理奈の教室に入り込んで、みなが見ている前で渡すことにした。誰が見てもラブレターを渡しているという形で。
 ユージは
 ==作戦は立てたぞ。だけど、そのときになったら、ひるんじゃうかも。せっかく用意  
   しても、その場では何もできないかもしれない。不安不安。しないほうがいいかも。
   どうせふられるなら・・・
   けど、それだと、またあの浪人生活に戻るだけだ、あの何も生み出すこともなく、
   ただただ受けたくない授業を受け、彼女はいないと嘆き、「つまらないつまらない」
   と繰り返すだけの浪人生活、そのくせ母ちゃんから、「国立のQ大に入りさえすれば、
   あんたの人生はうまく行くとやから。」と言われるだけの、自分のものではない時間
   だけが過ぎていく、気が付くと時間をむだに過ごしただけ。奴隷のような時間を過
   ごしただけ。自分の人生ではない、無駄な時間だけが過ぎて行った。生きているの
   か死んでいるのかも分からないと言っていいほどのあの時間。
と頭の中で考えた。布団に入っても考えた。
 その後悔を思うと、力が湧いた、今度は失敗してもいい、何かをしよう、ジッとしていても何に手に入らない。ひるんでも何も手に入らない。自分の気持ちのままに生きたい、今度こそ、受け入れてくれないくてもいい、おれはいま自分がしたいことに従って生きていたい、自分に言い訳をしたくない、自分を誤魔化したくない、ラブレターを渡すくらいは大したことはないかもしれない、でもおれにとっては、それこそQ大に入学するよりも何よりも大事なことだ。おれはおれの人生を思い切り自分らしく生きたい、そのために、このことに勝ちたい。目の前のことことに勝ちたい、成功させたい、最高の場面にしたい、とユージは強く思った。
 上手くいくためにはどうすればいいか考えた結果、ユージは、それこそ練習することにした、ラブレターを渡す場面を、何度も練習することにした。
あのう、すみません、先日消しゴムを拾ってあげた安藤です。 
これ受け取ってください。
という場面を練習した。試験勉強よりずっと一生懸命に練習した。
 いよいよその日、12月25日が来た。理奈の誕生日が12月25日だというのは、別の友達から聞いていた。そして、うまく行けば、誕生日プレゼントという口実でデートに誘えるかもしれないとも思い、少しワクワクした。

*****
 12月25日は授業が早々に終わり、ユージは昼休み、教室の中央にいる理奈に向かってまっすぐに歩いた。理奈は隣の女子と話していた。ユージは、手にはプレゼントとラブレターが入った茶色の紙袋を持って。
「こんにちわ、豊田理奈さん。今日は誕生日だよね。おめでとう。これ、受け取って下さい」
 と言いながら、紙袋を差し出した。理奈はそれほど驚いた顔をしなかった。
二人の周りに、驚いた顔をした生徒と興味津々という顔をした生徒と理奈が断るのではないかと期待している顔の生徒が集まり、その後の展開を見つめた。 
「開けていい?」
「どうぞ。是非、今ここで」
「じゃあ」と言いながら、理奈は中に入っている封筒の手紙、つまりラブレターを読んだ。ゆっくりと読んでくれたが、ユージはかなり恥ずかしかった。
 理奈は、「この手紙はもちろんラブレター、この後に好きですと書いてます」、という辺りを理奈は読んでくれている。
 読み終わると、理奈はまっすぐにユージの顔を見た。「ありがとう」と言うや、こちらに来て、という感じで先を歩き始めた。
 *****
 *****

第5章 図書館の裏

理奈が少し先を歩きながら、二人はそのまま歩いて校舎から出て、それとなく人目のないところへと次第に移動して行った。12月25日ともなると、日が落ちるのは早かった。二人が行き着いたところは、校内の図書館裏の非常階段だった。そこは、意外にも誰もやって来ない場所だった。二人連れ立って並行して歩いているものの、その場所に誘導しているのはたぶん理奈のほうだった。
 ユージは不安だった。誰もいないところに連れて行かれて、こっぴどく「2度と近づくな」と言われるのではないかと不安だった。そんなはずはないと思いつつも不安だった。
 午後6時30分、誰の声もしなかったが下校する生徒のさわめきは聞こえてきたから、こちらの物音も聞こえてしまうのではないかと思った。非常階段の2階部分に二人とも無言のままやって来ていた。コンクリートの階段に二人腰掛けた。目の前には、光沢のない灰色のコンクリートの壁しか見えなかったが、それは誰からも見られることのないプライベート空間だと暗示していて、二人を落ち着かせた。二人は階段に横に座り、手を繋いた。 
 下校する生徒の声が聞こえなくなってから話そうと、二人は無言でそう決めていた。かばんの中の教科書を読んだり、カバンの中に入れていた小説を読んだりして無言のまま時間を待った。二人は生徒が全部下校していなくなる時間を待った。ただ横に座って何も話さずに2時間を過ごし、その無言の2時間をお互い飽きることなく、待った、人気がなくなるのを。そうすることはもっと前から二人とも決めたことのようだった。
 夜8時を過ぎると、さすがになんの物音もしなくなった。
 「やっと話せるね。」
 「やっと話せるよ。でももう話さなくてもいいみたいだね。」
 「そう、でも聞きたいわね。」
 「話すよ、最初に聞きたいのはあのことでしょ。」とユージは理奈の手を握りながら、そして、横顔をこっそりと覗きながら、言った。理奈もうなづいた。ユージはちょっと戸惑ったし、もしかしたら違うかもしれないと思った。理奈の横顔に惹きつけられて仕方がなかった。長いまつげ。自分とは違う、すっと伸びた鼻。それは、K高校の男子生徒ならはだれでも見ることはできるものではあるが、30センチというまじかで見れるのは、ユージだけだった。ユージは、こんなにも近くにいる理奈の横顔を独占していることに、堪らないほどの満足感を感じた。前から、ずっと以前から、この場面を夢に見た、何度も夢に見た。
「最初に聞きたいのは僕の気持ちでしょ、きっと。」
「それを聞かないと安心できない、確かにラブレターを読んだから分かるけど、直接聞いておきたい。どうしても聞いておきたい。お互いが安心するために聞いておきたい、でしょ。」
「そう、聞いておきたい、ユージの口から今聞きたい。」
 ユージはふたたび理奈の横顔を今度は遠慮なく見て、顔を少し近づけてから
「好きです、とっても、理奈のことが好きだよ。」とユージが言い、理奈が
「私も好きよ、とっても。」
とユージの顔を見ずに前を向いたまま言った。
「ユージさあ、私は自分のことを云うときに、おれとかあたしとかいろいろに言っていいかな?、理由はないけど、そんなふうに私は、あたしとかおれとかいろいろに言いたいんだけど。」
「いいよ、好きにしたらいいよ。」
「ありがとう。」
「理奈って、横顔もきれいだな。とっても」
「ところでさあ、理奈。聞くけどさあ。例えば、理奈は、女の子なのに数学と物理が得意だろ、先々はどの大学に行くんだい。」
「私は、地元のQ大の理学部に行きたいのよ。物理科で勉強したいことがあるのよ。」
「へええ、物理科で何を勉強するんだ?」
「宇宙物理学だよ、今はやっているだろ。地球が生まれた理由とか人類が生まれた奇跡だとかロマンティックな話だよ」
「宇宙物理学って、ロマンティックな話なんだ」
「ユージはどうなの?進路はどう思っているの?」
「大学に行くかどうかよりも、早く親元から抜け出したい、逃げ出したい。母ちゃんからの期待がうっとおしいし、母ちゃんは口うるさくて仕方がない。Q大に行きなさいと言ってうるさくて仕方ない。Q大に行くのが、おれにとって最高の幸せだと思い込んでいるだけだ。こんな分からず屋の母ちゃんのいる家を早く出たい。」
「お母さんがうっとおしい訳ねえ、うーん。そういう年のめぐり合わせじゃあないの。17歳の息子は、母親にとってメチャメチャ可愛いんじゃあないの?期待されたくないというんは、分かるけど。うーん、それほど大きな問題ではないみたいだけど。普通の高校生が持つような悩みだと思うけど」
 理奈は、聞かれたままに応えた、思ったままに応えた。理奈は続けて、ユージに話しかけた。
 
「そうでしょうねえ。ところで、ユージさあ、お母さんから支配されているという悩みって大きくて嫌な感じなの、悩みは深いの?
「そう、それは大問題だ。その悩みは、深くて、かつ不快。」
「何それ、ギャグのつもり?」
「そう、ギャグのつもり。」
 理奈とユージは目を合わせて笑った。
「そうだな、分かったよ。ユージの話はなんでも聞いてやるよ、なんでも、それよりか、おれはさあ、結構勘が鋭いって言われるんだけどさあ、ユージちょっと暗くねえか。おれたちは青春しているんだぜ。なんか歩くときは俯いててあんまり笑わなくて、暗い感じだよ。ちょっと格好悪い。」
「ああ、そうか暗いかあ。言ったなあ、まあ面白くねえことが多いし、偏差値ですべてを決めようとする、学校も嫌いだし、早く親から独立したいし、そんなことばかり考えていると、暗くなってるかも。」
「でも、その暗そうな雰囲気は何とか変えた方がいいんじゃあないかな。」
「ああ、それはおれも前から思ってたことだし、理奈が気になるなら変えるよ。ただ。。。」
「ただ、なに?」
「ただ。。。」
「だから、ただなに?」
理奈は、応えに詰まったユージの横顔を見た。ユージの言いたいことは分かっているようでもあり、分かっていないようでもあった。ユージがちょっと困ったような、戸惑っているような顔をしているから、好き嫌いについてのことで言いにくいことかもしれないことだと直感した。だが、頭に浮かんだイメージを言葉にあらわすことはできなかった。
 ユージは、「ただ。。。」に続く言葉が分かっていた。それは
   ただに続く言葉は、「時間の問題だよ、だってこんなに幸せなんだもの、そのうちに
   クラスの友達が気づいて、「ちょっと浮かれすぎ」くらいに言われるようになるよ」と言いたかった。
   暗いって言われた性格も、理奈が変えて欲しいならすぐにでも変えるし、理奈と一 
   緒にいられてこんなにも幸せを感じてデレと笑っているくらいだから、ハッピーで
   明るい奴と思われるのは時間の問題に違いないと思った。
だがいえなかった。戸惑って言えなかった。
 ユージは、最初のデートから理奈にべた惚れだった。
 何もかも理奈に依存したくなっていた。
   明るくなったのは理奈のおかげ。
   成績が上がったのは理奈のおかげ。
   積極的になったのは理奈のおかげ。
   家庭のこともよくなったのは理奈のおかげ。
   ピアノが上手くなったのも理奈のおかげ。
と何もかも依存したくなった。しかも、そのことをいずれは理奈に気付いて欲しかった。いずれはそんなふうに、ユージがなにもかも理奈に依存しそうなくらいに、すでに理奈を好きだということを。

 *****
 *****

第6章 兄弟以上のバディー君

「あたしねえ、家で犬飼っているんだよ、バディーっていうシーズーなんだけど、ちょっと年取っているオスなんだけど、家族の仲で私に一番なついていて可愛いんだ。そのうち会わせてあげるよ。」
と理奈は横からユージの顔を覗いて、口元を緩めながら、飼い犬のことを話した。
「いいなあ、犬かあ。きっと理奈が学校から帰ると、バディー君はデレデレと理奈にくっつくんだろうねえ。」
「ああ、バディーの写真があるよ」と言いながら、理奈はカバンから一枚の写真を出した。その写真にはシーズー犬を抱いて笑っている理奈とその隣で犬の頭をなでている中年女性の姿が写ってた。
「この女性は理奈のお母さん?」
「そう、お母さんだよ。」
「やっぱりきれいじゃん。髪を長くしてさあ、おしゃれだし。てか薄化粧なのは自分に自信があるからじゃないのか。鼻筋が通っているところなんか理奈によく似てるよ。写真には写ってないけど、お父さんは?」
「父ちゃんとかいないよ。父ちゃんの話はいい。あんまりいいことは思い出せないから」と理奈はちょっと顔をそむけながら言った。
 ユージはそれ以上突っ込んで理奈のお父さんの話を聞くと、気まずくなりそうだったので、それ以上は話さなかった。
 すると、話題に困ったユージは、目の前のコンクリートの壁を見つめて黙った。
===こんなときことなんかしゃべろよう、気まずくなるだろう、まったく。
 ユージが黙っていると、理奈が沈黙を嫌がって口を開いた。
「今度バディーに会わせるよ。日曜日私の家の近くの川原で、バディーの散歩をするからユージも来いよ」
「分かった行くよ」
「じゃあ、さっそく次の日曜の1時頃、大橋駅裏の川原に来いよ」
「分かった、いくよ、1時だな」

*******
「理奈、バディー君の散歩は私が行っておいたから、あんたは今度の期末試験の勉強していいよ」
と由紀子がK高校から帰ってきたばかりの理奈に言った。
 その日は寒い冬の一日だった。バディーの夜の散歩は、本当は理奈の役目だった。由紀子が理奈の勉強を気にして、散歩は自分が行くと言った。
「それより、お母さん、お母さんが高校生の頃、好きな人いた?いたらどんな人だった?」「あら、理奈、もしかしたら好きな人が出来たのかい?半年前にもそんなこと言ってたじゃない。今言っている人は、半年前の人と同じ人なの?」
「半年前、あたし、そんなこと言ったかな?で、お母さんはどうだったの?高校生の頃、好きな人いた?」
 理奈が、由紀子の顔色を探るようにして覗き込んだとき、バディーが早く散歩に連れて行け、とせかした。理奈はバディーと目をあわさないようにした。
「私?そう好きな人はいたけどねえ。片思いだったねえ。」
「ええ、お母さんほどきれいだったのに、片思いだったの?で、どんな人だった?カッコよかった。」
「うん、もうすてきだったよ。理奈、もし付き合うようになったら、うちに連れてきてもいいよ」
「やだ、恥ずかしい。そんなにカッコよくないから、お母さんに笑われるかも」
「はははっはあ」
*******

第7章 輝き

理奈と図書館裏でデートしてから後の1週間は、瞬く間に過ぎた。その週ユージには、何もかもが輝いて見えた。朝、自転車でK高校に行くときに見る、道路の街路樹、大きなよう壁で囲まれた池の中の葦が生えた小島、晴れた青空、信号待ちをしている新しい乗用車の青色のボディー、それらがすべて輝いて見えた。自分以外の人たちが、まじめな顔をしてまじめに歩いて、まじめに仕事したり勉強したりしているのを見て、『何が楽しく生きているんだろう。人生にはこんなに楽しいことがあるのに』と思った。
 太から「おまえ、そんなにニヤニヤしていると、彼女ができたってバレバレだぜ」と言われた。ユージは全然気にならなかった。授業中の教師の話も、すーっと頭に入り、中間試験はまた1か月も先なのに、なぜかここが出そうだと閃くものがあった。何もかもが手応えがあった。理奈と約束した日曜日、大橋駅裏の川原に、ユージは、おじからもらった革ジャンを着て行った。あとで理奈と二人で食べようと、クッキーをポケットに忍ばせていた。
 その日は冬の晴れ間のおだやかな晴天だった。寒さが緩んで、駅を歩く人の気持ちも緩んでいた。ユージが大橋駅を抜けて川原にまで行った。ユージが歩いていると、犬のリードを引いて正面から理奈が歩いてきた。顔は笑っている。これまで見たこともないくらいに、無防備な笑顔をしている。ユージに気が付いて手を振ってくれた。ユージは軽く手を上げただけしかしなかった。が、もっとおおげさに反応すればよかったかなと少し後悔した。
「すごく、かわいい。」
と言いながら、ユージは、屈んで、バディーの背中と頭をなでた。バディーは背中を触られて気持ちよさそうに、身体をよじった。バディーはいきなり背中を地面につけて、お腹を上にし、ユージにお腹を触って欲しいとポーズをとった。
「あれ、バディーもユージが好きなんだ。ユージ、早くお腹を触ってやって」
 ユージは「バディーも」と理奈が言ってくれたことに嬉しかった。
 ユージがリードを持ち、バディーを先頭に、その後ろを二人並んで歩いた。緩やかな風が川上から吹いていた。散歩している人が3,4人いた。犬も人も気持ちよさそうに、小春日和の乾いた空気とそよ風を楽しんでいた。
「ユージ、お母さんのことはどうなの?相変わらず、うっとおしいの?」
「うん、うっとおしいね。馬鹿みたいにQ大、Q大って繰り返し言っている。自分が勉強して、自分がQ大に入ればいい。期待されるのって疲れる~~~」
「まあまあ、聞き流しなよ。聞いた振りして」
「聞いた振りして?そんな器用なことできないよ」
「ああ、男の子は要領悪いわねえ、それくらいは普通の女子高生は普通にできると思うけど」
「女って嘘が上手い?、芝居もうまい?かな?」
「男って不器用だね」
 大橋川から緩やかな風が吹いてきて、理奈の長い髪を揺らした。そして、理奈のなんともいえない清潔そうな体臭がさわやかな風とともに、ユージの鼻に入ってきた。理奈は、ジーンズにピンクのジャンバーを着て、茶色のマフラーを首にかけていた。
「ユージ、マフラー交換しようか」
「ああ、いいのか?」
 理奈は、ユージのマフラーを取り上げて自分の首に巻き、自分のマフラーをユージの首に巻いてあげた。マフラーの色は幸いにも同じ紺色だったから、このまま明日から学校で使っても、理奈のマフラーと交換したことはバレずに済みそうだった。
 二人がマフラーを交換してから、理奈は携帯のカメラで、ツーショット写真を撮った。理奈は、ユージの携帯も取り上げて、ユージの携帯のカメラにもツーショット写真を撮った。「はい、これでもう、ユージの手の中の携帯に、いつも私がいて、ユージを見張っているのだ」と理奈は、いたづらっぽい目を光らせながら、ユージに携帯を返した。
===この写真、太に見せたらやくだろうな、「ユージ、やり過ぎ。いい加減にしろよなあ」と言うだろうと想像して、ユージは遠慮なく笑ってしまっていた。
「ユージ、何笑っているの?」
「いや、ちょっとごめん」
「なんかいやらしいこと考えたんでしょ、それともこの写真誰かに見せて自慢したいとか」
「いや、まあそういうことかな」
「じゃあ、もっと笑えるようにしてあげようかあ」
「ええ、なに?」
「ツーショット写真の用意しなさい。ほら、リードをしっかり持って。前から自転車来るから気をつけて」と理奈が言うので、ユージは「ええ」と思って前を見た。自転車など来ていなかったので、「自転車・・・」
といいかけると、左頬を理奈からキスされて、理奈は同時に携帯の写真ボタンを押した。
 ユージがほほにキスしてもらったのは、一瞬のことだった。嬉しいと思う暇もなかった。理奈は
「どんな写真が撮れたか見てみなさい。自慢できる写真かな?」
 ユージは言われたままに携帯の写真を立ち上げてみた。すると、そこには驚いて目を少し見開いているユージと、意外にも遠慮がちにユージの頬にキスしている横顔の理奈が写っていた。ユージの驚いた気持ちと可愛いペットにキスしているような理奈の気持ちが表れていた。それを見てユージは、「これは太に絶対見せられない」と思った。
「人には見せられないけど、笑えるのは間違いない。ありがとう」
「どういたしまして」
「これは芝居じゃないよね」
「芝居じゃないよ」
「けど、きっと高校生くらいだと男の子より女の子の方が、それこそマセているんだからね。あんまり、考えすぎないようにね」
 いつの間にか二人は手を繋いでいた。バディーは、仲の良い二人をリードするかのように、威張って前を歩いていた。
==こんな時間がそのまま続けばいい。この時間さえあれば、ほかには何もいらないかなあ。ライナスで時間を遡って来てよかったなあ。

 散歩を始めて30分が過ぎたので、少し疲れて二人は土手の階段に腰を下ろした。リードを外してやったので、バディーは二人の近くを飛び跳ねて遊んだり、草をかんだりしていた。
「この前は、おれの母ちゃんの悩みを聞いてもらったけど、理奈の悩みはないの?」
「それはあるさあ。けどまあ、あんまり言いたくないんだ」
「無理していわなくていいけど、ところでさあ、お父さんってどんな人?」
 理奈は少し黙ってから、「一番、言いたくないことを聞いてくるなあ、ユージってちょっとKYかも?親父は今は家にいないよ。性格をいうと、まじめ過ぎる奴だよ。異常にまじめ過ぎる。でも、嫌いだよ、今では。」
「言いたくないなら、それ以上は話さなくていいよ、理奈。思い出すと気分が悪くなるんじゃないのか。」
「うん、まあ、少し話しやろうか?お母さんは、父さんと離婚した。お決まりの”男の浮気”ってやつさあ。」
「そうか、浮気が原因で離婚かあ、ありがちな話だけど。きつよねえ、きっと娘にとっては。それにもしかしたら、理奈はパパっ子だったんじゃないのか」
「うんまあなあ、そうだろうな、きっと。でも、まあ、いいからいいから、だいぶ忘れたんだから。」
というや、理奈は立ち上がってバディーのリードを引っ張って、また散歩を始めた。
ユージも遅れて付いて行った。
「ところで、ユージのピアノはどうなんだ、ラフマニロフとか難しいんだろ。」
「ああ。難しいよ、おまけに音楽部の川島先生はメチャメチャ厳しいし。とくに最近厳しいんだ。厳しすぎ。ところでさあ、作曲したラフマニロフも彼女が居たから、この曲を書き上げたらしいんだ。」
「へええ、そうなんだ。まあ、ユージも自分の腕を上げるためだから、厳しい練習にも堪えていかねばだな」
「確かにそうだけど、厳しすぎるんじゃないなと思ってなあ。」
「川島は生徒の生活指導担当だろ、生徒の人間関係とかにも口出すだろう。女子の間では嫌われ者だよ。川島は」
と理奈は、妙に感情を込めてそういった。
「分かったよ。理奈。ところで、音楽室に、ぼくのピアノを聴きに来てくれないのか。」
「だから、いけすかねえ川島がいるから、顔見たくないから」
 ユージは、せっかくいい気分のデートを台無しにしたくなかった。それ以上、同じことを聞くと理奈の機嫌が悪くなりそうだった。
 散歩していると、向こうからいろいろな人が歩いてきた。いや、歩く人ばかりじゃなくて、ジョギングしている若い格好した中年女性もいる。
「ちょっと、おれ、思い出しんだけどさあ、おれ小さい頃、犬を飼っていたんだ。中型犬のスピッツっていう白い犬。可愛かった。バディー君ほどではないけど。」
「へえ、そうなんだ。で、ちゃんと、散歩してあげた」
「したよ、でもとっても可哀相なことをしたんだ」
「ええ、どんなこと」
「一人で死んじゃったってこと」
「それは、とてもとても寒い夜のことだった」
「うんうん」
「その頃、その犬はラッキーって名前を付けていた。外に犬小屋を置いて、夜も外で寝かしてた」
「うんうん」
「でも、その日は雪が深々と降る寒い晩で、夜10時過ぎた頃、犬小屋から、『寒いよう、みなのところに行きたいよう、凍えそうだよう、助けてよう』というような泣き声がずっとしていた。ワンワンワンワン、ワーーンワーーンって」
「じゃ、すぐに家にいれてあげなきゃあ」
「だろう、で僕が泣きながら、『お父さん、お母さん、ラッキーを家にいれてあげてよう、あんなに泣いているよう、ラッキーが死んじゃうよう。』って泣きながら、頼んだ」
「純なこどもだったんだ。で、それなら、普通の親ならすぐにその犬をいれてやるだろう」
「それが違った」
「ええ、まさかそのまま外に出したまま」
「そう」
 ユージは、そのときの場面を思い出して、鼻の奥が湿ってきて、目から涙が出てきたが、涙を止めなかった。ちょっとぐずりながら
「次の朝一番に、外の犬小屋を見に行ったら、ラッキーは眠るように死んでいた。一人で寂しいよ、寒いようっていいながら、死んで逝ったんだと思ったら、僕は悲しくて悲しくて仕方がなかった。だいたい、ラッキーは親父がもらってきた犬だったのに、一番大事なときに、僕が『ラッキーを入れてあげようよ、死んじゃうよ』と言ったときに、親父は、布団に入ったまま寝た振りをしていた。ひどい。母さんも一緒だった。その頃、僕が「ラッキー入れてあげてよ』って頼んだのに、面倒くさいって顔を無視してた。」
「ひどいねえ。ユージはもちろん悲しかった?」
「めちゃめちゃ、悲しかった。それに悔しかった。本当は『親って無責任だ』とか『自分の親も勝手だ』と思えばいいのに思えなかった。悪い親だという感情は湧いてこなかった。」
「そう、ユージって優しいんだ。泣いてあげるほど、優しいんだ。」
「犬には優しくてよかったかもしれない、けど、親に対しては、どうかな?ひどい親だと親にけんかを仕掛ければよかったかな?」
「小学低学年の子供が、親にけんかをしかけるのは無理っしょ」
「うーん、やっぱりそうか」
 理奈は、バディーの背中をなでながら
「バディー君は大丈夫だからね。そんな死にそうなくらいに寒い夜に一人で外に置いたりしないからね」と理奈は言った。
 ユージは、ラッキーのことを思い出しながら、バディーの背中をさすってやった。鼻がぐずしていたのは、どうやらおさまったようだったが、思い出してしまった悲しさと悔しさの気持ちはすぐには収まらなかった。
 理奈とユージの間にバディーがいて、二つの手でバディーを触りあい、バディーも二人の心を感じて、跳ね回るをやめておとなしくしていた。
「理奈、今度ゲーセンにいかないか、てか一緒に行ってくれないか。おれゲーセンで体動かすのが好きなんだ。」「ああ、別にいいけど」
*****
 あまり日が経たないうちにすぐにデートしたくなった。ユージは、いつも会っていないと、手の中から理奈がこぼれ落ちてしまい、それきり戻ってこないような気がした。だから、理奈を大橋川の川原でデートしてから2週間過ぎたばかりだったのに、理奈にちょっと無理な言い方をして、繁華街のゲームセンターに夕方から連れ出した。
「ちょっと俺が先にやってみるから、よかったら理奈も一緒にしよう」
「なに、これダンス踊るやつ?ユージこんなの好きなの?」
「そうそう、大好き。まあ見てなって」
 ユージは、100円玉を入れて、ちょっとスピードの遅い曲で早速踊り始めた。
 実はユージは、中学生の頃から自宅にある同じゲームで、一時期は毎日くらいに踊って遊んでいた。だから、理奈の予想に反して、かなり馴染んだ踊り方で、スムーズに踊っていた。ダンシングしていた。
 理奈は、ユージの3、4メートル後方のいすに座って、興味深そうにユージの踊るのを見ていた。
 最初の方では、ユージも理奈を振り返りながら踊っていたが、難しい曲にチャレンジするので、ユージ自身次第に理奈を振り向く余裕がなくなった。7曲目、8曲目と進むにしたがって、ユージは前方のスクリーンだけを見るようになっていた。しかし、曲はアップテンポののりのいい曲で、ユージは理奈が後ろで自分を見ているという意識があるので、ますます熱中していた。
「ちょっと、止めてください。触らない!!」という理奈のかん高い声がした。
「なんだよう、ヒマそうだから話しかけてやったんじゃあないか。ヒマなんだろ、一緒に遊ぼうぜ」
ユージがダンス台の上から、後ろを見たら、理奈が大学生風の男性グループ4、5人から絡まれていた。3人は缶ビールを手に持っていた。いつの間にか理奈の後方にも、缶ビールを持った連れの男性が回り込んでいた。
 まずいと思ったユージは、台から降りて、理奈のところに急ぎ近づいた。
「ちょっとなんですか、ぼくの彼女ですけど」
「ユージ?」
「へえ、ぼくの彼女だってよ、お前には似合わないよ、お前には美人過ぎるよ、お前には似合いの奴を紹介してやるから、彼女をちょっと貸しな、ちょっとだけだから。」
と足元をふらふらさせた2人がユージを睨みつけながら、近づいてきて、ユージのわき腹をドン、ドンと小突いた。
 ユージは本当は気が弱い。だから、一人なら一言言い返したら、すぐに頭を下げながらその場から逃げて行っただろう。きっと、「あっ、すみません。ちょっとはずみです、気にしないでここで遊んでください」とか言い訳しながら、その場から逃げていったに違いなかった。だが、このときは理奈がいたから、違っていた。
「おれの彼女って言っているだろう、近づくなよ」
と言い返した。ユージが頭を下げたらきっと何事もなく、終わっていただろう。しかし、実際には、言い返したので、かれらにも火がついた。
「へえ、イキガッテやがらあ。面白いじゃねえか、やってやろうぜ」
というやユージを腹をブーツの足で蹴った。 
 ほかの連れも缶ビールを持ったまま、ユージの背中を蹴ったり腕で小突いたりした。
 ユージが腹を押さえていると、そこに店員がカウンターから急ぎ足でユージたちの方に近づいて来た。
「ちょっと何やっているんですか、警察呼びますよ」
と言ってくれた。
 そういうと、大学生風の男たちは
「ちぇ、面白くねえなあ。せっかく蹴りいれたところだったのに」
「あの彼女じゃには勿体ねえよ。おい帰ろうぜ」
「そうさ、勿体ねえ、勿体ねえ」
 大学生たちは、ゲーセンを出て行った。理奈とユージが残った。ユージは腹を押さえたまま、店員が用意した、いすに座った。顔も少しはれていた。
「ユージ、大丈夫?あんなふうに言い返すこともなかったのに」
「痛って、ああ、おれ一人だったら、頭下げてたろうな。でもなんか理奈が軽く見られたようだったんで、黙っていけなかった。」
「まったく、なにかと要領悪い奴だなあ。でも・・・」
「あいつが言っていた、『お前には似合わない美人だからなあ』というのは当たっているよ。理奈にはもっと似合いの彼氏をほかに見つけた方がいいかもしれないぜ。」とユージはわき腹を押さえながら、言った。
「なに、言ってるの? もう、分かってないなあ」
「もうダンスはできないなあ、帰ろう」
「うん、帰ろう。でも嬉しかったよ。ユージ」
 理奈は、ユージの肩をやや下のほうから支えながら、歩いた。
 ユージは理奈の肩を借りていた。それほど痛くもないのに。
 二人は、同じ駅で電車に乗ったものの、2つ目の駅でユージが先に降りた。理奈はその2つ先の駅で降りることになっていた。
 ユージが降りるとき理奈に
「今日はごめん、おれがゲーセンとか誘わなければ、理奈に嫌な思いをさせることもなかったんだ」
「ユージ、気にしないで。今日は楽しかったし、ちょっと嬉しかった、今度はあたしもダンレボやるよ。一緒にやろう」
「ホント、ありがとう、じゃあ」
「ああ、気をつけてなあ」「バイバイ」

*****

逆回りの時計

逆回りの時計

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第1章 助走
  2. 第2章 不思議な時計 ルーディス
  3. 第3章 時を遡る
  4. 第4章 ラブレター
  5. 第5章 図書館の裏
  6. 第6章 兄弟以上のバディー君
  7. 第7章 輝き