無明のささやき
時として、人はその出合によって思いもしない悲惨な事態に遭遇することがあります。心の奥底に残忍さを隠し持つ男が、或いは、ごく普通の人間を装って貴方の周りにいるかもしれません。
第一章
うっすらと朝靄のかかる麦畑に、曲がりくねった細い道が続く。アスファルトのそこここが剥がれ、埋められた礫石が顔を覗かせている。そんな道を一人の男が肩を落とし、足を引きずるように歩いていた。
眉間には深い皺が刻まれ、切れ長の目は何かを睨みつけるように見開かれているが、その視線の先に見えるものといえば靄の棚引く雑木林くらいなもの。朝まだ早く、聞こえてくるのは男の靴音だけだ。
男の風体はビル街を闊歩する洗練されたビジネスマンを思わせ、どう見ても麦畑にはそぐわない。長い脚を持て余し、何度か躓きその都度深いため息をついた。ふと歩を止めると、鞄を左手に持ち替え、ハンカチで額の汗を拭った。
昨夜からの雨は今朝方あがったばかりで、麦畑はひさびさに潤いを取り戻し、生き生きとその穂先を揺らしている。一瞬、雲間から陽光が差し込み、光は、瑞々しい穂波に反射して畑全体を黄金色に輝かせた。
男は、目を見張りその光景を眺めた。子供の頃、何度も見た記憶がある。懐かしさがこみ上げて来たが、ふと、別の思いが流れ込み、その感動は瞬く間に疼きに変わる。男の視線は虚空をさ迷い、その間にも雲は閉ざされ一瞬の煌きは失われていた。
男の名前は飯島仁、42歳。突然の人事異動で、ここ秋津の関東資材物流センターの所長に任ぜられた。資材センターの横には産廃廃棄処理場が併設されており、独特の臭いを漂よわせている。今日は飯島の初出勤である。
重い足を引きずること20分。ふと見上げると、濃い緑の一角に灰色の砂山と赤茶けた鉄骨で組まれた櫓が顔を覗かせ、その先にはコンクリートのブロックや管渠、ブルドーザやクレーンが群れをなしている。その500メートル先に倉庫のような事務所があった。
バスを使わず駅から歩いたのは、誰とも顔を合わせることなく、惨めな思いを一人噛み締めるためである。守衛の最敬礼に軽く応え、重い足取りで通用門を通り過ぎ、飯島は誰もいない事務室に向かって歩いた。始業時間の一時間も前だ。
事務所に入り、椅子にどっかりと腰を落とした。そこは、広さ二十畳ほどで、床には安手の合板が敷き詰められ、配線のケーブルモールを剥した跡が所々黒く変色している。飯島は期せずして深いため息をついた。
ここが最後の職場になるかもしれない。そんな思いが、寂寞とした心をさらに萎えさせる。しかし、次ぎの瞬間、突如として後頭部を突き抜けるような怒りが襲ってきた。飯島は拳を、どんと机に叩き付けた。
飯島の勤めるニシノコーポレーションは、堅実経営の中堅ゼネコンと業界では高く評価されているが、内情を知る飯島は、いつ潰れてもおかしくないと危機感を募らせ、ここへ異動が決まる直前まで、それこそ死に物狂いで受注活動を展開していた。
三年前、会社を牽引してきた創業者社長が会長へ退いたが、業界では院政を敷いた程度にしか認識されていない。しかし実際は銀行の介入によって退任に追い込まれたのである。そして、それを裏で画策したのが会長の娘婿だということは殆ど知られていない。
飯島は、この会長派として出世してきた人間だが、会長派閥の人間が失脚し、或いは辞めていくなか、それなりのポジションを得て順調に出世しており、飯島は内心そのことに矜持を抱くとともに、会社のために身を粉にして働いてきたのである。
突然の人事異動には会社の誰もが首を傾げた。皆の疑問は、何故、飯島が降格の対象になったのかという点にある。これまで飯島は東京支店長として着実にその地歩を固めつつあった。多くの支店が目標未達成のなか、東京支店だけは軽く目標をクリアしていたのだ。
飯島は最年少の支店長という重圧にも負けず、それを跳ね除ける実力も強運も持ち合わせていた。つまり、誰からも後ろ指刺されるはずのない人物なのである。しかし、東京支店長から資材物流センター長への異動は明らかに降格人事である。
社内の驚きとどよめきは、様々な憶測を生んだ。確かに一部に囁かれている通り、飯島がある任務で成功をおさめれば、次に華麗なポストが用意されていることも事実である。その任務とは、リストラ、つまり首切りであった。
しかし、何にでも表と裏があるように、この人事にも余人には計り知れぬ秘め事があった。それは、この異動の目的が飯島を追い落とすことであり、この人事を画策した人々は、飯島が職務を全うすることなど、少しも期待していないということである。
ここ関東資材物流センターに、全国から300人ものリストラ対象者が集められたのは今から3年ほど前である。異動は、本社を含め全国32ヶ所から、物流センター内にオフィスを置く子会社、㈱関東物流への出向という形が取られた。
年代は40代から50代の管理職が中心で、全国の支店長及び営業所長もその対象となった。最初の一年間で、異動と同時に退社した者を含め100名近くが会社を去ったが、それは飯島の前任者である竹内の強引なやり口が効を奏したと言われる。
竹内は、飯島の名古屋支店時代、副支店長で直属の上司だった人物である。飯島は苦労人の支店長には可愛がられたが、竹内とは肌合いの違いを感じて、最後まで親しくなることはなかった。その竹内が飯島の前任者なのである。
竹内が所長当時、特に目の敵にしたのは、㈱関東物流の運送部門に転籍された社員である。彼らに与えられた仕事は運転助手であり、元管理職がその屈辱に耐えるのは難しい。つまり、リストラ第一候補が集められていたのだ。
かといって、内勤の仕事も似たり寄ったりで、全国から集まる注文票をもとに、資材を集め配送に回す。一日が終われば、作業衣は汗と油でどろどろになる。会社の意図がどこにあるのか、分かりやすいといえば分かりやすい。
ある50代の元本社経理課長は、移動中に居眠りしていたことを運転手に密告され、翌日の朝礼で、竹内に胸ぐらを掴まれ面罵された。彼は悔しさに肩をぶるぶる震わせ、竹内を睨みつけていたが、翌日、辞表を提出したと云う。
飯島の運命を変える瞬間が訪れたのは、ほんの一月ほど前のことである。飯島は、憂鬱な全国営業会議を終え、ほっとため息をつき、支店に帰ったら即シュレダーにかけてやれと資料の束をカバンに詰め込み会議室を退出した。
飯島を呼ぶ声に、振り返ると、石倉が余裕の微笑を浮かべて佇んでいる。石倉は、飯島の名古屋支社時代の部下で、当時から飯島に対し批判的な態度を示していた。現在は本社企画部次長で、飯島より5歳年下である。
痩せぎすの石倉は、一見冷徹でクールな印象を与えるが、どちらかと言えば激情家である。その激しさを内に秘めた含み笑いは、以前より凄みを増していた。そして、低い声でつぶやくように言った。
「どうもご無沙汰しております。何かと忙しくて。」
「結構じゃないか。忙しいってことは、余計なことを考えずにすむってことだ。ところでどうなんだ、本社の勤めの方は。」
「そうですねえ、本音を言うと、飯島さんと一緒に現場をあちこち駆け回っていた頃が懐かしいです。今じゃ、机に鎖で繋がれているみたいなもんで、書き物ばかりしていますよ。」
そう言いながらしかめ面を作ろうとするが、飯島に対する優越感の方が勝ったらしく、笑みが滲み出ている。そして続けた。
「実は、今日、話があります。5時に企画部の方に寄って下さい。それじゃあ、後程。」
飯島はその後ろ姿を見送り、吐き捨てるようにつぶやいた。
「何が書き物だ、とんま野郎が。本社の戦略の質が落ちているのは、お前の書き物のせいじゃねえのか。」
飯島の勤めるニシノコーポレーションでは文科系の新卒は誰もが営業マンとしてスタートする。徹底した社員教育によって、軟弱な新卒をプロの営業マンに変身させるのである。客のケツの穴を舐めてでも仕事を取ってこいという根性物語が繰り返され、土下座さえ辞さない営業マンを育てる。
そこで抜きんでること、つまり管理職として出世することが、そんな営業現場から逃れる唯一の道なのだ。現場で人一倍根性を見せていた営業マンほど、この現場から離れることに密かに憧れている。
「書き物」という石倉の言葉は、「現場」と180度対極にある言葉なのである。かつて石倉は、会社が理想とするタイプの営業マンであった。それは、彼が大学の応援団出身であり、会社のスタイルに即適応出来たからだ。管理職になってからも大学の体育会系の乗りで部下を指導した。
これに対し、飯島は会社の理想とするタイプではなかった。大学時代、空手に似た日本拳法をやってはいたが、体育会系ではなく、長髪さえ許される同好会で、上下関係もそれほど厳しくはなかった。
会社に入ってからも、権威主義的な上下関係に反発を感じ逆らい続けた。部下の管理も上から押しつけるのではなく、本人の自覚を促すやり方を好んだ。つまり、飯島は会社で数少ない穏健派ということになる。
かつて飯島の部下であった石倉は、そんな飯島に対し常に批判的であったし、一方、飯島は飯島で、石倉の部下に対する高圧的な態度を何度もたしなめた。それが石倉に言わせると、飯島は部下に甘いということになる。この確執が今日に至るまで尾を引いていたのである。
その日、飯島は石倉に連れられ新宿の会員制クラブへと赴いた。そこは、よく接待に使われる場所で、飯島も何度か訪れている。既に石倉の上司、企画部長兼任の南常務がグラスを傾けていた。
南は石倉を認めると片手を上げて合図を送る。その南に対し、にやりと笑って応える石倉の表情を盗み見て、飯島はひやりとするものを感じた。飯島が頭を下げ、そして視線を合わせようとするが、南はそれを避けた。
南も、かつてはその甘いマスクで女子社員のアイドルだったこともあるが、今では酒と美食で顔に分厚く脂肪を貯め込んで、かつての面影は消えうせている。飯島と南は同期入社で、当初親しく付き合っていたこともある。
しかし、今では南は常務取締役として辣腕を振るっており、その日も、尊大な態度を崩すことなく、かつて友人であったことなどおくびにも出さず、上司に対する接し方を当然のごとく要求していた。
飯島は、にこやかに応対するものの、南に対する敵意は喉の奥に渦巻き、それを隠すために、殊更大きな笑い声を立てる自分自身に辟易していた。お互いの敵意を包み込んでの穏やかな会話も途切れる頃、南が切り出した。
「さて、今日のメインテーマに入ろうか。」
飯島もどうでもいい会話を切り上げたかった。
「ええ、お願いします。」
南は石倉に目配せし顎で話を促した。石倉は思わせぶりな沈黙ののち、おもむろに口を開いた。
「関東資材物流センター長の竹内さんは、良くご存じだと思いますが、あの方が今回社長の逆鱗に触れまして失脚します。」
石倉はここで、一瞬、間を空け、飯島の目を覗き込んだ。飯島の心は瞬時にして凍てついた。その動揺を見透かし、にやりとして、石倉は続けた。
「原因は、例によって女性問題ですが、その後任として私は飯島さんを押しました。」
飯島は、この一言によって打ちのめされた。まさか、ドル箱支店の長を首にするなど、予想だにしなかったからだ。
石倉に対する憎悪が腹の底からわき上がってくる。石倉は、はなから飯島が失敗すると踏んで推薦したのだ。飯島の最も不得意とする仕事と知り抜いている。そんな飯島の思いを弄んでいるのか、石倉は笑みさえ浮かべ、続けた。
「支店長から関東資材物流センター長への転出は一般的に見れば降格ですけが、これは社長の特命です。これをうまく処理出来れば、今は空席の本社営業本部長の席が用意されています。私が飯島さんを押したのも、飯島さんしか出来る人がいないと思ったからです。」
南がぽつりと言った。
「頼むよ飯島君。」
この会社では、年上であっても部下であれば君付けで呼ぶ。これが管理職の部下掌握のバロメーターとなっている。南にとって飯島は同期、いやかつての友であったとしても、部下なのだから、君付けは当たり前のことなのだ。
しかし、会社のそんな風潮に逆らってきた飯島は苦々しい思いを噛みしめていた。二人の目が飯島の次の反応を見つめている。今、営業本部長は南が兼任している。その席に誰が座るか、誰もが注目していのだ。その個室のドアが目に浮かんだ。そして消えた。
飯島は、グラスの琥珀色の液体から視線を放し、ゆっくりと顔を上げると、ふたりを見据えた。石倉が不敵な笑みを浮かべている。南は、視線をそらせそっぽを向いて煙草の煙を吐き出した。
勝負は最初からついていた。飯島の張り詰めた頬が一瞬緩んだ。そして飯島はこう答えるしかなかったのである。
「有無を言わせない南常務の説得は、以前から伺っていましたが、既に辞令は用意されてのことなのでしょう。嫌な役目ですけれど、会社のために全力を尽くします。」
飯島がどれほど抵抗したとしても、二人には通じなかったろう。最初から同意など必要ないのだ。社命は絶対である。問題はその社命が本当に社長の本意なのかということだ。海千山千のこの二人にかかれば、ぼんくらな二代目社長など操り人形にしか過ぎない。そして南は社長の義理の弟、つまり社長の妹の亭主である。
飯島は二人と別れてから、もう一軒立ち寄った。恐らく二人も別の飲み屋にしけこんで、祝杯をあげていることだろう。邪魔者を一人葬り去ったのだから。
飯島は孤独と絶望に打ちのめされた。飲まずにはいられない。全ては終わったのである。リストラ対象者と同様、飯島も会社の首脳陣から不要と判断されたのだ。営業本部長になるという甘言を信じたわけではないが、別の可能性も思い浮かべた。
正直に言えば、営業本部長は無理として、東京支店に返り咲く自分の姿や、竹内のように冷酷に部下を首にするシーンをちらりと思い浮かべた。しかし、部下とはいえみんな苦楽を共にした先輩諸氏なのだ。その首を切ることなど出来るわけがない。
「くそっ」と舌打ちした。その時、ふとある事件を思い出し「まさか、あれが原因か?」と呟いた。しかし、思わず苦笑いして頭を振った。それは一つの契機になったとしても原因ではあり得ない。しかし、それを引き起こしたのは飯島の驕りだったかもしれない。
考えてみれば、南営業本部長の対抗馬であった佐久間総務部長が失脚して3年になる。飯島はこの佐久間の子飼であった。会長が去り、さらに佐久間という派閥の首領を失って、生き延びられただけでも奇跡的なことだ。とはいえ、わざわざ事件を起こすこともなかったかもしれない。飯島は自分の慢心を悔いた。
その事件とは、今年の春、部下の昇格人事で本社人事部と揉めたことである。本社人事部は、実績も人望もない或る男を支店の部長に押してきたのだ。しかし、飯島としては、支店の要のポストであるため、相応の実力者を据えるつもりで支店内部から名前を絞った。引くに引けない攻防戦だった。
飯島は自分の主張を通したが、人事部長が、悔し紛れだったのだろう、最期に「南常務の推薦もあることですし、少しは考えて頂かないと…」という言葉を漏らしたのだ。よくよく考えてみれば、人事部が押した部長候補もそして石倉も、南の後輩だった。
飯島は会社の為という大義名分を振りかざしたが、日本的村社会では理不尽がまかり通るのも事実だ。東京支店の業績を伸ばしたという自負が、社会人としてのバランス感覚を失わせたのかもしれない。
いずれにせよ、飯島の性格からいって、首切りなど不可能だった。その意味から言えば、石倉の飯島に対する評価は正しい。飯島は、石倉の見込んだ通り、いずれ辞めざるを得ない事態が来ることを予感した。飯島はその日酔いつぶれた。
関東資材物流センターでの最初の朝礼は、朝8時半に始まった。司会は竹内の腰巾着であった副所長の斎藤である。新体制を迎えるに当たっての決意表明を長々とまくし立てている。額には玉の汗だ。
斎藤は飯島より8歳ほど年上である。巨漢の割りに気が小さい。時折、眼鏡の奥からこずるそうな視線を向け、飯島の反応を盗み見ている。飯島は斎藤の必死の形相を見て、生き残りに賭ける哀れなサラリーマンを見た。
斎藤とて、会社のさじ加減一つで向こう側に立つことになるのである。飯島は、その最初の挨拶のなか、竹内にふれてこう言ってみた。
「さて、私は、前任者の竹内さんとは名古屋で3年間一緒に働きました。尊敬もしていました。そして竹内さんの後任として、同じ苦悩を共有することになりました。今回の竹内さんの不祥事はその苦悩の結果だったのかもしれません。」
これを聞いていた多くの社員から失笑が漏れた。飯島も思わず笑った。誰でも知っているのだ。竹内の女癖の悪さを。
飯島の建前だけの言葉など聞く耳を持つ者はいない。飯島は話の途中から皆に共感を覚えた。と同時に、飯島のやるべき仕事に思い当った。彼らは、昔、凄腕の営業マンだった。時代は厳しいが、出来る営業マンであれば就職先はある。
まして飯島が懇意にしていた取引先は二百社を下らない。飯島の顔が自然にほころんだ。話しながら、飯島は、二人の男を捜した。300名近い人々の中に、その二人の人間を探す。いるはずである。飯島の視線はあちこちと揺れた。
その男と目が合った。飯島の笑みに応えるように薄笑いを浮かべている。かつて南と常務の席を争い、総務部長として本社に君臨したその男が、汚れた作業衣に身を包んで佇んでいる。もう一人の男はその真後ろに立ち、紺碧の空を見上げていた。
第二章
朝礼が終わり事務所に戻ると電話が鳴っており、急いで受話器を取り上げると箕輪の野太い声が響いた。
「おい、ひさしぶりだな。噂は聞いてはいたが、まさか本当にお前が来るとは思わなかったぜ。なんせ、生き馬の目を抜くやり手ナンバーワンだからな。そいつが何故って、みな驚いている」
飯島の心に懐かしさがこみ上げてきた。微笑みながら答えた。
「ああ、俺にとっても晴天の霹靂だった。まさかこの俺が抽選で当たり籤(くじ)を引くなんて、思ってもいなかったからな。」
「当たり籤なもんか、ハズレもいいとこだぜ。どうせ、因果を含まれてのことだろう。」
相変わらず冗談の分からない奴だが、それさえ今は許せる気分だ。
「ああ、お前を含めて、ここにいる社員全員を早急にリストラしろってことさ。」
「まったく、世間じゃとっくのとうにリストラを終えて、ようやく業績も上向いて利益が出始めているというのに、相変わらずこの会社は一歩も二歩も遅れていやがる。それで、お前はどうする気なんだ。」
「俺もだいぶ悩んだ。ここの席に座る直前まで、お前らを首にするにはどうしたらいいか無い知恵を絞っていた。だけど、朝礼の時に思いついたんだ。考えてみれば、みんな第一線で活躍した営業マンだ。つまり即戦力だ。その気になりさえすれば就職口はある。俺の顧客にあたってみることにした。」
「お前がハローワークの真似事をしようってわけか。」
「しかたがないだろう、それしか思いつかん。そういえば、お前はどうなんだ。お前ほどの談合屋であれば引く手あまただろう。」
「いや、もう談合屋の時代じゃない。とは言え、すでに何社から声はかかっている。だけど、今は行く気はない。俺にはリハビリの時間も必要だ。酒と女で腐りかけた体を鍛えなおしている。ここの仕事はリハビリにはもってこいだ。だいぶ筋肉も戻ってきたしな。それよりどうだ。今晩は無理としても明日、池袋の例の店で。」
飯島が誘いに乗ったのは云うまでもない。
学生時代、飯島は日本拳法をやっていたが、箕輪とは何度となく対戦し、互いにライバルとして意識していた。飯島は学生最後の個人戦で箕輪を破り優勝した。それは勝利の女神がたまたま飯島に微笑えんだにすぎない。
学生時代は互いに意識しすぎていたためか、親しく付き合うことはなかった。そんな二人は思わぬ場所で再開した。それは業界で「勉強会」と呼ばれる談合の席である。二人はたまたまゼネコンに就職し、営業マンとしてそこで再会したのだ。
飯島の顧客は民間が多かったため、めったに談合には参加しなかったが、箕輪の会社は土木工事専門で、どっぷりと談合の世界に浸りきっていた。箕輪が業界で頭角を現すのに時間はかからなかった。
数年後、飯島の会社の官庁営業マンにそれとなく聞くと、箕輪は押しが強く度胸もあり、若い世代のリーダー格だという。飯島は上司と相談し、箕輪をリクルートした。なかなか首を縦に振らなかったが、飯島は上司とともに一年かけて彼を説得したのだった。
飯島の思惑はあたった。箕輪は談合屋として実力を発揮し、官庁からの受注は確実に増えていった。バブルがはじけ、苦しい時代も他の官庁営業マンなど比較にならないほどの受注を獲得した。しかし、箕輪は南常務を軽蔑していた。それがここにいる理由なのだ。
憂鬱な気分を忘れて、しみじみとした思いに浸っていた。そんな時、いきなり耳障りな電話の電子音が響いた。同じ電話の音なのに何故そう感じたのか分からない。だがそれは箕輪の時と異なり確かに耳障りに聞こえたのだ。緩んだ頬を引き締め、受話器をとった。
「飯島さんですか、石倉です。どうです、初日の感想は。」
思わずため息が漏れそうになるのを飲み込み、ありきたりの言葉を選んで応えた。
「ええ、難しい仕事だとは思いますが、鋭意努力してゆきます。大変な使命に緊張しているところです。」
石倉は再度、使命について念を押してから電話を切った。箕輪がくれた清涼感など胡散霧消していた。
飯島の言った「使命」という言葉については、昨日、石倉から本社に呼ばれ改めて念を押されたのだ。使命とは言うまでもなくリストラ、しかも早急にというおまけまでついている。石倉は昨日、最後にこう結んだ。
「とにかく、心して対処して下さい。何度も言いますが、これが出来るのは、飯島さんしかいません。私の判断は間違っていないと思っています。どうか、期待に応えて下さい。」
「ええ、分かっております。」
飯島は、これ以上言うべき言葉を持っていなかった。石倉のこの言葉ほど空々しいものはない。石倉は飯島が失敗することを心から望んでいる。二人の視線は奇妙に絡み合う。沈黙を破ったのは勿論石倉だった。
「それでは、そういうことで。」
箕輪が言った例の店とは、社会人になって二人が再開したその晩、初めて二人が訪れた店である。その時以来何度となく待ち合わせをした店だ。飯島が入ってゆくと、マスターは首を横に振った。まだ来ていないという意味だ。
カウンターだけのこじんまりした店で、マスターは店のオウナーで、たまたま箕輪の大学の先輩でもあった。飯島がカウンターに着くと、マスターは迷うこともなく大ジョッキを棚から取り出している。飯島はこの数日のストレスが氷解してゆくのを感じた。
箕輪が来たのは約束の時間を30分過ぎてからだ。野武士のような風貌に口髭が良く似合う。ジーンズにTシャツということは一度家に寄ったようだ。大きな体をかがめ隣のスツールに腰を落ち着けると、「生ビール大ジョッキ」とマスターに声をかけた。そしてにやりと笑って、口を開いた。
「この間は悪かったな、せっかく誘ってもらったのに。ちょっと用事があってな」
「半年も前のことなんて覚えていないよ、お前と違ってこっちは忙しいんだ」
「それはそうだ。しかし、お前さんも苦労が絶えないな。どうするんだ、これから。」
「電話で言った通り、皆の就職の相談に乗る。それしかできない。」
「でも、200人だぜ。全員就職させようなんて思っているわけじゃないだろうが、はっきり言って、クズもいる。そんなクズは捨てることだ。」
「俺は自分に出来ることをするだけだ。それより、お前の就職先はどうなっているんだ。」
「俺のことは心配するな。三度目の就職だ、じっくり将来を見据えて決めるつもりだ。独禁法が改正されて、談合も以前ほど楽じゃない。その辺も見極めなくちゃならない。」
「そうらしいな。でも馬鹿げている。マスコミは知っていて書かないのか、それとも本当に知らないのか。常に俺たちゼネコンが槍玉にあがるが、談合やってるのはゼネコンだけじゃない。ありとあらゆる官庁発注の入札で談合は行われている。つまりすべての業界においてだ。」
「ああ、はじめに官製談合ありきだ。役人はOBのいる企業に優先的に仕事を回す。俺達は、役人がどの企業に受注させたいのか意向を確認し、それを業界に伝えた。意向がないとわかれば、さてどうするってことになる。それが談合の始まりだ。」
「ああ、今はやりのプロポーザル方式だって、役人が受注させたい企業を好き勝手に選べる仕組みにすぎない。まったく次から次と美味い方法を生み出すもんだ。」
「まったく、官僚っていうのは民間のあがりを掠めとるヤクザみたいなもんだ。中間で国の予算を掠め取るシステムが幾重にも張り巡らされている。」
「ヤクザだってコストは10パーセントを切れないって言うぜ。人件費や事務所経費をいれたら、恐喝だってそのくらいのコストは掛かる。官僚は下手をすればコストゼロで民間の上前を撥ねるんだからヤクザ以上ってことだ。」
「しかし、仕事が欲しければ官庁OBを雇うしかない。日本はやっぱり役人天国ってわけだ。」
「結局、俺達が就職に際し民間を選んだのは間違いってことかもしれない。そう思うことないか?」
「いや、違うと思う。あの当時、俺達は役人になろうなんて、これっぽっちも思わなかった。それだけ、世間を知らなかったってこともあるが、どう考えたって民間の方が刺激に満ちていた。今、こうしてリストラ寸前でいるのだって、考えてみれば刺激的だ。違うか?」
「それで、一年近くもここに居座っているわけか。」
「いや、そういうわけでもないんだ。はじめは長年世話になった先輩諸氏にご挨拶に立ち寄っただけだ。しかし、佐久間さんに会って、興味をそそられた。この会社に就職する前、佐久間さんとは何度も会って話した。その熱意にほだされ俺は転職を決心した経緯がある。佐久間さんを好きになったからだ。」
「ああ、俺も尊敬している。」
ここで、箕輪は苦虫を噛みつぶしたような顔で言った。
「だが、その佐久間さんは死んだ。今の佐久間さんは別人だ。何かに取り憑かれている。」
「復讐か?」
「ああ、そんなことだろう。俺も仲間に誘われた。報酬は金だ。金づるがあるんだそうだ。それを、俺に持ちかけた時の顔は、ちょっとしたホラーだったぜ。」
「まさか、あの人が・・・」
飯島は暗然として押し黙った。箕輪が言った。
「佐久間さんは確実に何かを引き起こす。俺は、何が起こるのか見たい。それに佐久間という人間がどう壊れていくのか見ていたい気もする。」
「それがここにいる理由か?」
「勿論それだけじゃない。しかし、興味があることは確かだ。普段はまったく普通だ。冗談も言うし、笑いもする。だけど、心は壊れかけている。」
「昨日、電話があった。来週の月曜に駅前の飲み屋で待ち合わせている。」
「あの汚ねえ飲み屋か。兎に角、会って確かめろ。恐らく最初から本性は現さない。そのうちだ。」
その晩、二人は酔いつぶれるまで飲んだ。東長崎に住む箕輪はまだ電車があったが、飯島はタクシーで帰る羽目になった。車の冷房が心地よく飯島の頬を撫で、ここ一ヶ月、冷たい視線に晒されて強張っていた頬が一瞬緩んだ。あの時の情景が瞼に浮かんだのだ。
日本拳法は剥き出しの闘志を以って相手と対峙する。防具に身を包んでいるため容赦はいらない。倒れた相手の面を踏みつけても一本だ。飯島はそんな男同士の戦いが好きだった。しかし、実社会の男同士の争いはそれこそ女の世界より陰湿でじめじめしている。
いじめはいじめと認識されず、無能力を憎む感情に置き換えられる。民間では無能力は憎まれて当然の資質なのだ。無能力を放置すれば会社の存続が危ぶまれることになるからだ。飯島もその烙印を押された。しかし、今の飯島はそんなことも忘れて微笑む。
飯島の夢うつつの脳裏に、箕輪と初めて対戦した時の情景が浮かんでた。リングサイドで相手チームのコーチが叫んだ。「おい箕輪、柔道三段だろう。相手を投げ飛ばしてやれ。床に叩きつければ、それでも一本だ」これを聞いて、飯島は闘争本能を剥き出しにしてコーナーを飛び出した。飯島は高校で柔道を少しかじって初段だったからだ。
第三章
武蔵野線秋津駅前は整然と区画整理され、敷き詰められた煉瓦の石畳は駅の南側を流れる小川の縁まで続く。しかし小川の対岸の小道は舗装もされず剥き出しの土と砂利、そして所々に生える雑草が、かつての町の面影を偲ばせている。
飯島は、その駅前の指定された飲み屋の佇まいを一瞥して、暗澹とした気分に見舞われた。その手の飲み屋は、常に金欠病であった独身時代でさえ敬遠した。薄汚れたカウンターと安手のテーブル、ゴキブリと酔いどれ爺が管を巻く場所、そんなイメージしかない。
東京支店長時代は、接待費をふんだんに使える立場にあった。けしてそれを心から楽しんでいた訳ではないが、綺麗な女達にかしずかれるのも悪い気はしなかった。あのふかふかした絨毯と薄汚れた不潔なカウンターとが交互に目の前に浮かんだ。
佐久間は焼酎のロックを喉に流し込み、酒で爛れた食道に一時の安らぎを与えた。酔うことでしか心の空白は埋められない。孤独と絶望が今や心の友になりつつある。全てが終わった時点で全てを捨てた。いや、捨てられた?どっちも同じことだ。
五十代初めに、医者から禁酒を宣告された。それを無視して飲み続けたため、肝臓は既にぼろぼろであろう。そんなことはとうに分かっていた。いずれ訪れるだろう死は、待ち望んだ当然の帰結に過ぎない。
思い出せば、あの時から、転落の道を転げるように落ちていったのだ。
佐久間がまだ本社総務部長であった頃である。300人というリストラが常務会で密かに決定され、その実行者として鬱々とした日々を過ごしていた。そんな折り、大学の後輩である飯島から誘いを受けた。
陰鬱な気分を晴らすには渡りに船と思った矢先、意外な人物が一緒だという。その時、厭な予感に捕らわれた。飯島の言うその意外な人物こそ石倉だった。その時感じた厭な予感が的中したのはずっと後のことである。
佐久間は、石倉とは何度か会議で顔を合わせていた。非常に論理的なスピーチをする男だと記憶していた。飯島が言うには、佐久間に会わせて欲しいという石倉の頼みを断り切れなかったと言う。
その日、石倉と会って話してみると、その強烈な上昇思考に多少辟易したものの、思いのほか率直な性格には好感が持てた。
「何としても、管理本部、中でも総務部で自分の実力を発揮したいのです。大学では応援団の団長をしていました。どんな仕事でも厭いませんし、こんなに役に立つ男は、二度と佐久間部長の前には現れるとは思えません。何とかお願いします。」
土下座せんばかりに頭を下げる姿に思わず笑みを漏らしたものだ。
「飯島君。弱ったよ。こうも率直な男も珍しい。君はどう思う?」
飯島は石倉を佐久間に紹介しておきながら、彼の厚顔無恥を苦々しく思っているらしく、終始、無表情に空ろを見つめ、手酌で酒を飲み続けていた。佐久間に問われ、にこりと微笑み、答えを返した。
「まあ、率直さだけは評価していいんじゃないですか。」
「おいおい、君が会ってやってくれと言って連れてきたんだぞ。そんな無責任な言い方はないだろう。」
「ええ、まあ、そうなんですがね、私もここまでやるとは思いませんでしたから。まして、私としても、自分の部下は手放したくない。」
佐久間は、この時決心した。飯島が手放したくない人材であれば間違い無い。ましてリストラという憂鬱な仕事、汚い役割に石倉はぴったりだと思ったのである。それに、渡りに船という思いが頭を掠めたことも事実だった。
確かに、石倉は期待以上の働きをしてくれた。憎まれ役を買って出て、それをニヒルにあくまでも事務的に処理した。しかし石倉の不信な動きに気付いた時は、全てが後の祭りだったのだ。石倉は佐久間を最初から裏切り続けていたのである。
もし、石倉が南の指示で送り込まれたのであれば、最初から警戒して秘密から遠ざけていたであろう。しかし、埋もれていた石倉を見出したのは自分だという自負もあり、心から信頼していたのだ。それが躓きの元だった。
本社総務部に潜り込んだ石倉は、佐久間の足を引っ張っぱることに何の躊躇もみせなかった。どんな会社にも暗部はある。まして佐久間は、創業者であり今は会長に退いた先代のために汚れた仕事を全て引き受けてきたのだ。
実は、石倉は南常務の密かな子飼いであり、忠実な死刑執行人だったのだ。またその南を動かしていたのは現社長であり、会長と密かに通じている佐久間を追い落とすという目的があったのである。
ある日のこと、佐久間は怒りにまかせ石倉の裏切り行為をなじった。石倉はその佐久間に対しにやりと微笑んでみせた。その不敵な笑いに佐久間はぞっとさせられたものだ。しかし、今の佐久間は、石倉のそんなクールさを越えていた。虚無が心を支配し、狂気が脳を犯していたのだ。
暖簾ごしに、飯島は佐久間の憂鬱そうな横顔を見出した。店が店だけに、見るからに落ちぶれた姿形を想像していたのだが、グリーンの格子縞のジャケットにジーパンといういでたちで、作業衣の時のうらぶれた印象と違い、お洒落な老年という雰囲気である。
ロマンスグレーに上品な顔立ちは往時のままで、飯島の荒さんでいた心に懐かしさが込み上げて来た。佐久間に対する会社の冷酷な仕打ちに憤った三年前を思い出し、今度は自分の番かと、思わず自嘲した。
建てつけの悪いガラス戸をがたがたと開け、飯島は顔を覗かせた。入り口のその雑音に、佐久間は振り向き、軽く手をあげて応えた。飯島は佐久間の横に腰を掛けると、ビールを注文した。そして微笑えみながら口を開いた。
「ご無沙汰しております。しかし相変わらずお洒落ですね、それにお元気そうで。」
佐久間は、ビールを飯島のコップに注ぎながら、答えた。
「まあ、元気と言えば元気だが、いろいろとあって、落ち込んでいるよ。それはともあれ、お疲れさん。」
互いのグラスを合わせると、飯島は乾いた喉に一気にビールを流し込んだ。
飯島は、佐久間の、落ち込んでいるという、いささか当たり前すぎる言葉に、思わず神妙な面持ちになっていた。なんといっても取締役候補だったのだ。はきだめが似合う人ではない。佐久間は、そんな深刻面の飯島に苦笑いして応えた。
「落ち込んでいるのは君も同様だったな、これは失礼。それはそうと箕輪に会ったって?」
「ええ、久々に痛飲しました。彼は数社から誘いがあるみたいですね。」
佐久間は、むっとした顔で吐き捨てるように言った。
「奴はもともと談合屋だ。談合屋なんてヤクザと同じだ。例の産廃プロジェクトで知り合った呉工業の息子とつるんでいる。」
「呉工業というのは会長の戦友が社長をしている、あの会社ですよね。」
「ああ、あの社長も今はそれなりにとり繕ってはいるが元々ヤクザだ。まして、その息子は本物のヤクザ、飯田組の組員だ。あの社長は勘当したなんてほざいていたが、嘘に決まっている。」
「しかし、結局、産廃施設解体現場の労務者手配はそうした人間に頼るしかないってことなんでしょう。箕輪は産廃プロジェクトのリーダーだった。しかたなく付き合っているんじゃないですか。」
「いや、違う。奴は左遷された今でも、そいつと飲んでる。あんなヤクザと付き合うような奴は、ろくなもんじゃない。俺は分かっているんだ。あいつは会社のスパイだ。ここの不穏分子を洗い出すために会社が送り込んだスパイだ、間違いない。」
「佐久間さん、ここでは誰もが不穏分子だけど、会社には手も足もでないですよ。」
「会社側はそうは思っていない。不穏分子をあぶり出し、葬ろうとしている。」
飯島は、ふと、箕輪の言った言葉を思い出していた。佐久間は何かをしようとしている。その何かを会社側が探っていると妄想しているのかもしれない。
飯島の冷めた表情を上目遣いに一瞥し、佐久間は論理の飛躍に自分でも気付いたようで、ふと、ため息を漏らして話題を変えた。
「そういえば、実は離婚した。俺もよくよく女運が悪い。二度も離婚するなんて。」
これを聞いて、飯島は言葉を失った。佐久間の女房と飯島は、かつて営業部の同じ課に属していた。飯島より八歳年下であったが、センスの良いプレゼンテーションが好評で、営業成績でも男たちと肩を並べていた。
当時、人事部次長であった佐久間の英断で女子営業部員を採用したのだが、佐久間の二度目の妻、章子はその第一期生だった。しばらくの沈黙の後、飯島はタバコの煙を吐き出しながら言った。
「営業部の頃から、彼女は自分勝手なところがあった。何もこんな時に・・・離婚だなんて。とはいえ、まあ、夫婦のことを他人がとやかく言うことでもない。」
飯島は佐久間がこんな屈辱に耐えているのは、章子と子供のためだと思っていた。二人のためにじっと耐え忍んでいる。そう思っていたのだ。
その章子が佐久間を捨てた。飯島は機を見るに敏な章子の一面お思い出し、ふと苦い思いが甦った。章子は惨めな佐久間を見限ったのだ。こんな時、一体何と言って慰めたらいいのか、見当もつかない。佐久間が長い沈黙を破った。
「考えても始まらない。前の女房は、当時、別居中とはいえ、あいつは本気で離婚する気などなかった。いつもの夫婦喧嘩だったんだ。その古女房を捨てて、章子を選んだのは僕なんだから、その罰が当たったわけだ。」
飯島は沈黙した。当時の経緯を知るごくごく少数の者にとって、佐久間ほど哀れな存在はない。その少数の者とは、飯島、かつての友、南、そして章子の三人のことである。
佐久間の深酒は有名だったが、今日もその勢いは衰えず、ぐいぐいと焼酎のコップを傾ける。押されぎみではあるが、飯島も心の空白を埋めるべく佐久間に続いた。ボトルは瞬く間に空になった。
「飯島、結局、産廃プロジェクトは失敗だった。あの事業は確かに目の付け所はよかった。自治体の焼却施設は老朽化していたし、ダイオキシンの問題もあった。それを安全に解体するという発想はよかったんだ。だけど技術が伴わなかった。」
「私はそうは思いません。技術水準だって競合とほぼ互角だった。時期が悪すぎたんです。まさに地方の冬の時代に突入した時期にスタートを切ったのですから。」
「だからこそ、慎重にすべきだった。明らかに地方展開が性急すぎた。それより、いいか、競合他社はバブル崩壊の後、リストラで乗り切った。当社ももっと早く少しづつでもリストラに手をつけていれば、こんな残酷なリストラにはならなかった。」
「しかし、当社はリストラ犠牲者を一人も出さないという会長の頑固一徹の姿勢で乗り切ったという面は否定できませんよ。そしてあのプロジェクトはその会長の夢だった事業です。みんな一致団結して頑張った。」
「あのプロジェクトの開発費は巨額だ。背伸びし過ぎたのかもしれない。」
「私はそうは思わない。いま少し、あと一年、銀行が辛抱してくれたら、何とかなったはずなんです。環境問題と焼却施設の老朽化の問題がクローズアップされ始めていた。銀行が、リストラを前提とした経営再建のシナリオを強要したんです。」
「しかし、結局、社長のあの、リストラ犠牲者を一人も出さない、という一言に燃えて、先頭を走ってきた人間がリストラ対象だなんてのは、冗談にもほどがある。」
こう言って佐久間は力なく笑った。
話は次第に佐久間の愚痴に変わっていた。かつての佐久間は一升酒を飲んでも乱れることはなかった。しかし、今日は小さめのボトル二本で、既に呂律が回らない。酔いどれの敗残者が恨み節を唄っている。突然、佐久間の低い唸り声が響いた。
「おい、聞いてんのか、飯島。貴様だって嵌められたんだ。悔しくはないのか。あいつらは、いつだって、人を見下している。自分が常に正しいって顔でふんぞり返っている。」
むっとして飯嶋が答えた。
「勿論、悔しいですよ。でも、まだ終わったわけじゃない。」
この言葉を聞くと、佐久間は飯島の目を凝視し、そして笑い出した。敗者の哀れな強がりを馬鹿にしているのだ。ひとしきり笑うと、酒臭い息を吹きかけながら言った。
「強がりはよせ。もう勝負はついている。それより、飯島、おい、お前も知ってたんじゃないか。えっ、そう、お前も知ってたはずだ。」
飯島は、むっとして聞き返した。
「何がですか、何を知ってたって言うんです?」
飯島は、一瞬酔いも醒め、身構えていた。十数年隠し続けてきた事実を酔いに任せ、さらに自暴自棄を暴走させ、白状するか。飯島の心に嗜虐的な思いが芽生えた。
「とぼけるのもいい加減にしろよ。章子と南が出来ていたってことだ。」
と言って、佐久間は押し黙った。そしてふと微笑むと、飯島の目を覗き込みながら言った。
「もしかしたら、愛子は南の子じゃないかと思ったことがある。でも、あいつは、可愛い。本当に可愛いんだ。たとえ、俺の子供でなくてもな。そんなことは関係ない。いや、どうだろう。もし南の子供だと分かったら、本当に可愛いと思うのだろうか。」
飯島は、佐久間の誘導尋問に動揺しながらも、平静を保っている。しかし、その心の均衡は、いつ崩れてもおかしくなかった。酔いも手伝って思慮を失いかけていたからだ。
飯島の心は暴走し始めている。やけくそで言ってしまうか。言ってしまえば心の負担も軽くなる。いや、そうじゃない。佐久間を不幸のどん底に陥れてやれ。自分よりもっと不幸な男を哀れんで、同情する側に立つのも悪くない。
飯島は、焼酎を一気に飲み干し、荒んだ心をもてあましている自分自身に舌打ちした。この秘密は墓場まで持って行こうと決心したはずなのだ。佐久間はそんな飯島の理不尽な思いに気付いているのか、にやりとして言った。
「もう、いい、そんなこと、どうでもいい。真実は闇のなか。章子は、章子。愛子は愛子だ。それに俺の命もそう長くはない。死神がそこまでお迎えに来ている。」
と言うと佐久間は押し黙った。最後の言葉に多少ひっかったが、飯島もさすがに、どう反応してよいのか分からず、目を閉じると追憶の彼方をさ迷った。
佐久間の想像通り、南と章子はかつて恋人同士だった。第一営業部の誰もが知っていたことだ。飯島も、章子に惹かれてはいたが、既に婚約者がいた。章子とは同僚、というより友人として付き合っていたのだ。
しかし、或る日のこと、思いもかけない事態が起こったのだ。南が、社長の娘と婚約したのである。第一営業部の誰もが驚愕し、口をつぐんだ。南が、その高値の花を、何時、何処で、どう手中に収めたのか、知るものはいなかった。
飯島は章子から悩みを打ち明けられた。南に捨てられ、章子は、藁をもつかむ思いだったのだろう、あっさりと体を許し、飯島に婚約者との別離を迫ったのだ。飯島は、婚約者を取るか、それとも章子を取るか、当時、人知れず悩んでいたのだ。
しかし、煮えきらぬ飯島に見切りをつけ、章子は突然、女房と別居中だった佐久間と婚約を宣言した。飯島は開いた口が塞がらなかった。急激に膨らんだ章子への思いは押さえがたく、その思いが一挙に萎んだ後の空しさは何とも耐えがたいものであった。
章子の電撃的な婚約発表は、飯島にとって相当のショックだったが、それ以上に、飯島を動揺させていたことがある。それは章子が妊娠していたという事実である。飯島は、愛子が自分の子かもしれないという疑念を拭いきれなかったのである。
ふと我に返りると、佐久間が何かぶつぶつと呟いている。
「俺が、リストラされた時、女房が言ったんだ。南さんに俺のことを頼んでみるって。あの人なら私の言うことを聞いてくれるはずだって言いやがった。貸しがあるってことだ。つまり愛子のことに違いないんだ。」
飯島は声を荒げた。
「それが、どうして、愛ちゃんのことなんですか。どうして南の子供だということになるんですか。僕を含めて、三人は同じ課だったし、気の合う友達だった。ただそれだけのことですよ、それ以上でも以下でもない。そのことは僕が一番良く知っている。」
佐久間は愛娘を心から愛していた。かつて彼の机にはいくつもの写真が並べられていたものだ。その娘が自分の子でないと分かったらどれほど辛いだろう。子供のいない飯島にもそれは理解できる。まして、南の子だとしたら・・・。佐久間の恨み節は続く。
「あいつは、ずっと俺を裏切り続けていたんだ。それに、あいつは欲の塊だ。金のためなら何でもする。だから別れた。章子には絶望したよ。ほとほとね。」
飯島は、佐久間の大げさな言葉にうんざりした。何が欲の塊なのか。金のために何でもやるだって。章子はそんな女じゃない。佐久間は、章子を殊更貶(おとし)めようとしている。
「佐久間さん、考えすぎですよ。南に頼んでみると言うのは、かつて友人だったからでしょう。考えすぎもいいところですよ。」
「いや違う。あいつはずっと南の愛人だったんだ。間違いない。今にして思えば全てに合点が行く。月に一二度、どこかに行って行方不明だった。」
「佐久間さん、うちの女房なんて、年がら年中行方不明みたいなもんです。」
佐久間が咳き込んだ。その空気の振動は澱み、濁っていた。苦しむ様子も尋常ではない。飯島は思わずその背に手を当てたが、佐久間はその手を払いのけた。佐久間は尚も咳き込み、もがき苦しんだ。長くはないと言った言葉に嘘はないのだろう。
突然、佐久間が立ち上がると、右足を引きずりながらレジに向かった。飯島はすぐに追いついて、お金をだそうとするが、佐久間の大きな手に遮られた。
「いいんだ、お金は俺が払う。落ちぶれても後輩に金を出させるわけにはいかない。」
飯島は、頷くと、先に店を出た。夜風がほてった頬を優しく撫でる。大きくため息をつき、思いを新たにした。負けてたまるか。奴等に負けてたまるものかと。
佐久間が出てきた。飯島はすかさず声を掛けた。
「どうも、ご馳走さまです。ところで、足を引きずってましたけど、どうかなさったのですか。」
「膝が曲がらない。関節がいかれたらしい。」
「医者には?」
「死ぬ人間がそんなもの直してどうする。放っておくさ。」
飯島はさすがに二の句が継げなかった。
佐久間は道路に出て、手をあげタクシーを止めた。飯島はタクシーの運転手に一万円札を握らせ、「立川まで。」と告げた。すると佐久間が言いなおした。
「いや、草加だ。」
そして、振り返り、笑いながら言った。
「立川のマンションは手放した。今の給料ではローンを払っていけないからな。バブル前に買っていたから、損はしなかったが、手元には一銭も残らなかった。」
そして、にやりとして手を差し出した。飯島は急いで歩みより、その手を握った。佐久間が言った。
「俺はやるよ。」
「えっ?」
「俺はやる。」
「何をやるんです?」
「まあ、見てろ。お前に、後のことは任す。」
「いったい何をやるっていうのです。後のことって愛子ちゃんのことですか?」
「ふっふっふ、それも含めて、とにかく、後のことはお前に任す。いずれ時期がくれば詳しく話すつもりだ。その時は、相談に乗ってくれ。じゃあな。」
と言い、手をぎゅっと握り締めると、タクシーに乗り込んだ。ガラス越しに佐久間の目が怪しく光った。それは通り過ぎた車のライトが、佐久間の瞳を単に照らし出しただけなのだ。しかし、飯島は佐久間の狂気を垣間見た気がして、ぞっとした。
タクシーが走り去ると、飯島は煙草を取り出し、火を点けた。深く吸い込み、息を止め、そして吐き出した。何とも言えない複雑な思いが重くのしかかってくる。
いったい佐久間は何をしようとしているのか。南や石倉に復讐するつもりなのだろうか。時期がくれば話すと言っていたが、復讐に協力しろなどと言うのではないか。飯島は厭な予感に捕らわれた。佐久間とは関わりたくないと言うのが本音だった。
電車の窓から、明かりの点る家々の流れをぼんやりと見ていた。一軒の家の窓が開けられ、そこから若い女性が雨戸を閉めるために上半身をのぞかせた。パジャマが透けてシルエットが浮かぶ。
瞬きをすると、目の前のガラスに自分の顔が写っている。その焦点を再びその女性に合わせようとすると、ふわっと章子の面影が浮かんだ。一瞬だった。会いたいと思った。章子の柔らかな肉体を思い出した。むくむくと下半身が起き上がった。
人は追いつめられて始めてその本性をむき出しにする。救いようの無い絶望的状況に追い込まれ、それでも本性を押さえ切れる人がいるだろうか。飯島は酔いの回った気だるさのなか、章子の面影をまさぐった。
佐久間と会って二日後のことだ。早朝、箕輪がいきなりドアを開けてぬっと顔を覗かせた。興味津々という表情を隠そうともせず聞いた。
「佐久間さんのこと、どう思った。やっぱり変だったろう。」
箕輪は作業衣ではなく背広だ。口髭もきれいさっぱり剃り落としている。飯島は厭な予感に捕らわれた。箕輪は部屋に入ると応接にどっかりと腰掛け脚を組んだ。飯島もソファに腰を落とし、そして質問に答えた。
「いや、おおむね普通だと思ったな。非論理的なことを言っても、すぐにそれに気付いて話題をかえた。狂っていればそうはいかない。それはそうと、佐久間さんはお前が本社のスパイだと言っていた。お前の言い訳が聞きたいね。お前がスパイなら俺もおちおちしていられない。」
箕輪はにやりとした。今回は冗談を理解したようだ。
「面白い妄想だ。前にも話したが俺は佐久間さんの誘いを断った。それで俺が彼の企みを洩らすんじゃないかと不安になった。それがスパイという妄想を生んだのだろう。会社はこの現場にスパイなど必要ない。誰もが、うなだれた敗残者だ。」
「その通り。俺もそう言った。それともう一つ。佐久間さんはこうも言った。ヤクザと付き合う奴は信用できないと。」
箕輪はにやりと笑った。そして言った。
「それを言われると弱い。例の産廃プロジェクトの呉工業、あの社長の息子、向田敦って野郎なんだが、こいつが俺に妙に懐(なつ)いちまった。こいつはほんまもんのヤクザだ。しょっちゅうお誘いがくる。10回に1回は付き合うことにしている。」
「ほんまもんのヤクザに懐(なつ)かれるなんて、お前らしい。呉工業の社長を介してか?」
「まあ、そんなところだ。いろいろあって可哀想な奴なんだ。まあ、プライバシーだから話す訳にはいかないが。」
「俺にも話せないってことか?」
「ああ、この会社に関係している人と関わりがある。だから言えん。」
「分かった、ところで、今日は休みなのか。」
この言葉に、箕輪は苦笑いして、胸のポケットに手を差し入れた。飯島の厭な予感が当たった。箕輪の手にあるのは退職届けだった。この日が来るのを恐れていたのだ。箕輪の唇が動くのを暗然と見ていた。
「何やかやと言い訳めいた言辞を弄したが、結局、俺は納得のゆく就職先を探していただけだ。佐久間さんのことも言い訳に過ぎん。実は、待ち望んだオファーがようやく届いた。飯島、俺はここを去る。仙台に行くことになった。谷田建設だ。」
心の支えとなっていた男が飯島を置き去りにしょうとしている。目の前が真っ暗になる。しかし、そんなことはおくびにも出さない。
「よかったじゃないか、谷田だったら一流だ。さすがに箕輪だ。そんな所からオファーがくるなんて。」
「ああ、そこの仙台支店長が昔いろいろ世話になった人なんだ。その仙台支店の営業部長だ。ここの会社の地位よりワンランク落ちるがしかたがない。女房も喜んでいる。」
「本当におめでとう。お前ならやれる。本当に良かった。」
「有難う、話が急で、今月中に仙台に移らなければならない。落ち着いたら連絡する。それから、お前には本当に感謝している。前の会社はずっと前に潰れて、あそこにいたら大変だった。兎に角、頑張れ、お前ならきっと乗り切れる。」
「ああ、俺は大丈夫だ。俺は俺で何とかする。」
大きな手が差し出され、飯島のその手を力強く握った。
箕輪は飯島が彼の就職を心から喜んでいると思っている。飯島が嫉妬や羨望とは無縁な男だと信じている。飯島は箕輪の信じる飯島を演じきった。
飯島は箕輪が思うほど強い人間ではない。二人は佐久間の派閥で出世した仲だ。その一人が落ちこぼれたとはいえ、それでも心は繋がっていた。同じ会社にいたからだ。しかし、今その一人が会社を去ろうとしている。どう頑張ればいいのだ。飯島の心の叫びは誰にも届かない。飯島は孤独の淵に、ひとりぽつんと立つ尽くすしかなかった。
第四章
柱の鏡に映る自分の顔をじっと見ていた。憂鬱そうな顔は、まるで生まれてこのかた、そこにへばりついたかのようだ。飯島は、目の前で俯いている男に気付かれぬよう、笑みを浮かべようとしたのだが、鏡に映る顔はただ歪んだだけだ。既に笑顔も忘れている。
赴任から三ヶ月、夏もいよいよ本番だというのにクーラーが故障ときている。額の汗を掌で拭い、坂本を呆れ顔で見詰めた。もう言葉もない。飯島が声を荒げた。
「坂本さん、もう、断崖絶壁に立っているんですよ。これ以上、私に言わせないで下さい。年率30%近い金利を払って、どうしてやっていけるんですか。坂本さん、ここで、終止符を打たなければ家族全員野垂れ死にですよ。分かっているんでしょう。」
こう非難されても、坂本はただうな垂れて、溜息をつくばかりである。飯島は思った。こんなふうにして、人間は常軌を逸して行くのだ。坂本の首がゆらゆらと揺れている。かつて坂本は飯島の上司で、有能な管理者であった。
坂本は、どんな場面においても冷徹な営業手法を的確に指示した。そんな時、その目には長年の経験からくる自信に漲っていた。人の心を感じ取る能力が営業には求められる。坂本は学歴こそなかったが、その能力は抜群であった。
人間には二つの能力がある。一つは右脳の感性、今一つは左脳の論理である。学歴は左脳の論理力と記憶力とを示す目安に過ぎない。坂本はどちらかと言えば右脳の直感力、或いは営業的感性を磨き上げ、名古屋支店長まで登り詰めたのだ。
その坂本が、今、自分の置かれている状況を全く理解していない。その原因を正せば、執着である。物に対する執着こそ、人を狂わせる元凶なのだ。その執着の中でも、最も大きな元凶は家、マイホームなのだ。
坂本は名古屋支店長時代、バブルの最盛期に支店から程遠くない町に自宅を購入した。飯島が名古屋支店営業部長になって2年目の夏である。「転勤は営業の宿命。自宅は持たない。」これが坂本の言い草だった。
そんな信条を、坂本は、いつしか捨てていた。単身赴任していた飯島も坂本の家に何度か寄せてもらった。その時の、坂本の満足げな顔が思い出される。飯島は意を決して言った。
「坂本さん、自宅を手放しなさいよ。それしかない。息子さんには奨学金を取らせて、学費はアルバイトさせれば何とかなる。奨学金は月に最高10万円くらい貰えるそうです。その案内資料をとりよせておきました、これです。」
資料をテーブルに置いたが、坂本は手に取ろうともしない。沈黙が互いに噛み合わぬ二人を包んでいる。ぽつりと坂本が言った。
「飯島さんは、自分の元部下ばかり、面倒をみてるって、皆言っている。元上司には、いい就職口を紹介出来ないってわけだ。」
「坂本さん、そうじゃないですよ。56才という歳を考えてください。このあいだ決まった福島や宮木はまだ40代初めですよ。まして今時この月給に、更に20万円上乗せする企業なんて、日本中捜したってありませんって。」
その時、デスクの電話が鳴った。飯島はほっとして立ち上がり受話器を取った。坂本を振り返ると、とぼとぼと部屋を出て行こうとしている。飯島は受話器を押さえ、怒鳴った。
「坂本さん。それじゃ、この就職口、誰かに譲ってもいいんですね?」
坂本は、返事もしないで、ドアを出ていこうとしていた。手には奨学金の案内を握っている。飯島は溜息をついて電話に出た。
「もしもし、飯島です。」
「ああ、飯島君。石倉です。」
石倉も飯島を君付けで呼ぶことに慣れてきて、ぎこちなさが消えた。飯島がセンターに赴任して二ヶ月後、石倉は企画部長に出世した。その日を境に、きっぱりと君付けに変えた。支店長であれば同格だが、資材物流センター長は本社の部長より格は下がるからだ。
「どうも、」
「飯島君、どうも、はないでしょう。一月目は15人、二月目が17人、それなりに努力していると評価していたが、今月は一人も辞めてない。今月はあと一週間だが、いったい何人なんだ。」
最後の言葉がきつく、冷たい。
「そうですね、時代が時代だけに、5人くらいですかね。」
「おい、おい、ふざけんな。それじゃあ、お前は、遊んでいるのと同じじゃないか。いいか。言っておくぞ。今月のノルマも15人だ。なんとかしろ。泣き落としでも、あんたの得意な説得でも、なんでもいい。もし出来なければ、お前の首だってどうなるか分からん。」
飯島は押し黙った。顔が引きつって行くのが分かる。返事をしようとするのだが、口がわなわなと振るえているだけだ。しばらくあって、ようやく口を開いた。
「ええ、努力します。」
ガチャンという音とともに、電話は切れた。
飯島は受話器を握り締め、くそっと呟いた。理不尽に囲まれて、そこから一歩も抜け出せない自分自身のふがいなさが悔しかった。悔しさがバネになるのは、その屈辱から抜け出す算段があってのことだ。この会社にいる限り、そんな可能性はゼロに近い。
実を言えば、飯島は、東京支店長時代に競業他社からヘッドハンティングされており、その答えを保留にしていた。収入はかなりアップするが、当初の役職は支店長ではなく埼玉営業所長で、会社の格も下がる。それが気に入らなかった。
それに、自分と同じように絶望に瀕した仲間を見捨てられないという事情もあった。少しでも、自分に出来ることをやってから、じっくりと再就職のことを考えようと思っていたのだ。第二の人生のスタートは、納得出来るものにしたかったからだ。
坂本同様、年下の飯島でさえ、プライドと収入を同時に満足させてくれる就職先があるわけはない。まして、飯島のプライドは、妻、和子に対するプライドでもあった。これが飯島の転職の問題を更に複雑にしていたのである。
飯島の妻、和子は、弁護士事務所に勤めている。収入もまあまあである。飯島にとって問題なのは、かつて和子がその収入の大半を飯島の父親の借金返済に当てていたことであった。かつて、高校教師だった飯島の父親は、50代半ばに何を思ったのか、家を担保に借金し、教育資材販売の事業を起こした。そしてあっけなく失敗した。飯島が30代始めの頃である。
その借金は80坪ほどの土地を売れば返済でき、しかも、かなりのお金が残る。しかし、父親はそれを手放したくなかった。和子は父親の窮状と落胆を見かねて、同居を申し出るとともに、借金返済のために働きに出たのだ。
そして和子は10年掛けてその借金を返済してしまった。飯島はそのことで女房に頭が上がらなくなったのである。飯島が出世に執着したのは、和子に対するプライドを保つためであった。せめて会社で出世すれば、和子に対して気後れしないですむ。それによってかろうじてプライドを保っていたのである。しかし、今は、ぎりぎりのボーダーラインに立っている。
東京支店長は年齢からいっても出来過ぎであったが、降格されて、しかも資材物流センター長では如何ともし難い。和子には、いずれ本社営業部長に就くことを匂わせているのだが、その可能性は最初からないのだ。
救いようのない孤独と絶望が飯島を襲った。焦燥が脳を駆け巡る。言葉なのか、それとも科学雑誌で読んだことのある神経パルスなのか、電気のような流れが脳の神経回路をずたずたに寸断しながら暴れまくった。誰か助けてくれ、飯島は心の中で叫んだ。
両肘を机に着き、頭を抱え、深く息を吐いた。誰も助けてなどくれない。そんなことは最初から分かっていた。同期入社の仲間達も、飯島と似たり寄ったりか、或いは自分のことで精一杯で、他人のことなどかまってはおれないだろう。飯島を支持してくれる役員もいることはいるが、老人と銀行の出向者ばかりだ。南に対抗するなど無理な話だ。
章子に会いたい、つくづくそう思った。
飯島は、古い手帳の住所録を取り出し、その名前を探した。章子の住所は、この古ぼけた住所録の初めの方に載っているはずだ。そして、とうとう手塚という苗字を探し出した。手塚章子、その文字から懐かしい匂いが漂う。実家に戻っているかもしれない。
携帯の番号を押そうするが、その指先は寸前で止まった。しばらく考えていたが、結局、受話器を元に戻し、深いため息を漏らした。気持ちにやましさがあり、それが飯島を躊躇させていた。妻、和子の顔が眼前でちらついている。
飯島は自問自答した。以前のお前は、据え膳だって食わなかったではないか。出世のためとはいえ、自分を押し殺していた。今、お前は自暴自棄になって、抑圧されていた本当の自分を開放しようというのか。
いや、違う。据え膳を食わなかったのは出世のためではない。女房を傷付けたくなかっただけだ。そして今、救いようのない孤独から逃れたい。誰でもいい。自分を分かってくれる人に会って話したいのだ。章子なら自分を分かってくれる。
そう自分に言い聞かせるしかなかった。深呼吸をし、意を決っしてその番号を押した。呼び出し音が響くたびに、胸が締め付けられた。章子の実家は練馬にあり、昔酔った勢いで何度か泊めてもらったことがある。いつも南と一緒だった。受話器の向こうから声が響いた。
「もしもし、手塚です。どなたさまですか。もしもし、もしもし。」
飯島は懐かしい声を耳にし、思わず心が和んだ。
「もしもし、飯島です。ご無沙汰しております。お元気ですか。」
一瞬の沈黙の後、ため息が漏れた。そして章子の母が答えた。
「懐かしいわね、飯島さん。最後に会ってから何年になるかしら。私ももうおばあちゃんになってしまったわ。月日の経つのは本当にあっと言う間ね。」
「本当です。僕もすっかり老け込んでしまいました。」
「まあ、どうかしら、いつ頃だったかしら、章子に会社のパンフレットを見せてもらったけど、あれ飯島さん載ってたでしょう。昔とちっとも変わらなくっていい男だと思ったわ。」
「よく言いますよ。ところで、」
と言って言葉が詰まった。受話器の向こうで再び深いため息が聞こえたからだ。章子に会わせたくないという雰囲気が感じられた。
「いや、何ていうか、ちょっと声が聞きたいとおもいまして。」
と言うと同時に脇から冷や汗が滲んだ。
「章子はここにはおりませんの。」
「そうなんですか。先日たまたま佐久間さんと会って、離婚のことを聞いたものですから。ちょっと心配で。」
一瞬間をあけて、章子の母が、ぽつりと言った。
「まあ、親なんて、生きている限り、子供の心配から開放されることはないってことね。まったく厭になってしまうわ。」
どうでもよい会話がだらだらと続いたが、どうやら章子の新しい連絡先は教えたくないらしい。途絶えがちな会話は飯島の気持ちを萎えさせた。気まずく長い沈黙の後、飯島は章子に宜しくという伝言を残し電話を切った。
滲み出た額の汗をハンカチで拭い、ふとドアの方に視線を向けると、丸みをおびた顔が覗いている。佐藤電算室長がにやにやしながら入ってきた。佐藤は本社産廃プロジェクトチームのプログラム開発のリーダーだったが、箕輪の異動と同時にここに移ってきた。
佐藤に言わせれば南と箕輪が争った会議で、箕輪を支持する発言をしたことが異動の原因と言うのだが、箕輪は飯島からその話を聞くと鼻先で笑った。その真相を聞きだそうとしたが、箕輪はいろいろあったと言うだけで言葉を濁した。
佐藤は、この資材配送センターに来ても、そのコンピュータの才能を発揮し在庫管理システムや配送管理システムなどを開発し、ここではいなくてはならない存在になっている。佐藤の薄い唇が動いた。
「随分と険しい顔をしてるね。天が落ちてきそうなのか?」
いつもの惚けた言葉に、飯島は思わず相好を崩して答えた。
「天などぶっ壊れてしまえばいい、なんて思うことがあります。本当に自分が情け無いですよ。」
「全くだ。その前に奴等に仕返しする機会さえ頂ければ、どうなっても構わない。たとえ天が落ちて来ようとね。」
その思いは飯島も同感であったが、あえて話題を変えた。
「システムの故障は直ったみたいですね。」
「ああ、在庫管理システムは、自分の子供みたいなものだから、何処が悪いかなんて、すぐに分かる。それより、坂本の就職、何とかならないのか。だいぶ落ち込んでいたよ。」
飯島は押し黙った。佐藤は飯島に一瞥を与え、
「まあ、年も年だし、奴みたいに高望みしていたんじゃ、どうしようもないな。俺の方は、子供も巣立ったし何とかなる。兎に角、佐藤を含め他の奴のことを頼むよ。」
と言うと、頭を下げた。
「ええ、分かりました。でも、中高年にとって状況は厳しくなるばかりです。世の中景気が良いなんていうけど、どこが良いのかって言いたくなります。」
佐藤は大きく頷きながら言った。
「そうだな、再就職したからって、中途採用者には厳しい現実が待ち構えている。世間は冷たいからな。去るも地獄、残るも地獄ってわけだ。」
二人は視線を合わさず互いに頷き合った。
章子から連絡があったのは、実家に電話してから一週間後のことである。しっとりとした声は飯島の心を動揺させた。昔を取り戻せず、飯島の言葉はうわずった。しかし何とか会う約束だけは取り付けた。
受話器を置くと、言い知れぬ不安とともに淡い期待がゆっくりと心の深みから浮き上がってくる。章子の面影が浮かんでは消えた。その薄茶色の瞳で見つめられると、誰もが視線を絡めとられてしまう。抜けるように白い肌を思いだし、ぶるっと体を震わせた。
章子の言葉が、脳裏でこだまする。「三日後の金曜」、「六本木のバー」、「よく三人で行った店」。結局あいつ、南が付きまとう。飯島はため息をついた。
その当日、飯島は早引きした。6時の待ち合わせに間に合わないからだ。飯島はひさびさの活気在る都会の雰囲気に心時めかせた。六本木の街を散策しながら昔通ったバーに近付いて行った。そしてそのバーは昔の名前のまま、そこにあった。
店に通じる螺旋状の階段を降り、重厚なドアを開けると、カウンターに肘を着く章子のけだるそうな姿を認めた。昔と変わっていない、そう思った。
章子は飯島をちらりと一瞥し、グラスを置くと、ぎこちない表情で近着く飯島に妖艶な笑みを浮かべた。すらりと長く伸びた剥き出しの脚が、飯島の目に眩しく映った。章子は少し酔っているらしい。飯島が隣に腰を下すと、章子はすかさず口を開いた。
「しばらく、飯島さん、お元気。私は、今、最高。離婚して正解。」
「ほう、最高か、それはよかった。心配して損したかな。まあ、それはいいけど、僕の方は最悪だ。」
「会社のこと、聞いてるわ。まったく、西野のボンボン社長は人を見る目が無いんだから。飯島さんみたいに優秀な人材をあんな仕事に就けるなんて。」
「まあ、優秀かどうかは別にして、僕には不向きだ。あの連中の中には会社の躍進に貢献した人も、優秀な人材も沢山いる。それの首を切れって言うんだから、まいったよ。」
「で、実績は上がっているの。」
「いや、ぜんぜん。仕事見付けて辞めて行く奴はいるけど、俺は一人も首にするつもりはない。御役御免になるのは覚悟の上さ。後は、お上の御沙汰を待つ。会社がどれほど忍耐強いか眺めている。」
飯島は、今の立場を率直に語った。
「気楽なのね。」
「ああ、気楽なもんさ。借金ゼロ。子供ゼロ。女房働き者。」
くすくすと笑う章子の声に、飯島の心は和み、ようやく昔の人間関係を取り戻せたような気がした。飯島が聞いた。
「ところで、さっき最高って言っていたけど、佐久間さんとはうまくいってなかったの。」
「ええ、最悪だったわ。愛子のこと、自分の子供かどうか怪しいなんて言い出したの。昔、二人目作ろうと思って頑張ったけど駄目だったでしょう、そのことを思い出したみたい。最近になって、あの人、医者に行って調べたらしいの。そしたら種が薄いって言われて・・・。でも、よく聞いてみれば妊娠出来ないほど薄くはないのよ。」
飯島は、章子に会ったら聞いてみようと思っていたことを、あっさりと口にした。
「ところで愛子ちゃんは僕の子供じゃないよね?」
章子は、深刻ぶった顔を急に和らげ、にやりとして答えた。
「もし、そうだったとしたら、飯島さんと結婚しているわ。私は飯島さんが好きだったし。でも、どう考えても佐久間としか思えなかったから、佐久間に責任とってって、言ったの。」
飯島は、ふーっと吐息を漏らした。すると、急に肩の力が抜けた。章子は、
「いやだ、そんなこと心配していたの。馬鹿みたい。だから、一度も家に遊びにこなかったんだ。」
と言うと、お腹を抱えて笑い出した。その時、章子の心に若かりし頃の苦い思いが蘇った。飯島とは、一番危険な日、祈るような気持ちで肉体を重ねたのだ。しかし神様は章子の望みを叶えてくれなかったのだ。
笑い続ける章子をちらりと見て、飯島は困惑気味に言った。
「笑うなよ。なんだか、馬鹿にされてるみたいだ。でも、出産は結婚して8ケ月目だったはずだけど。」
章子はひとしきり笑うと、ハンカチで涙を拭いながら答えた。
「ええ、そう。早産だったの。でも、本当は飯島さんの子供が欲しかったなあ。でもだめだった、頑張ったけど。」
少し間をあけ、
「実を言うと、ずっと営業やっててほとほと疲れちゃったの。男供は私の足を引っ張ることしか考えていなかったし。だから子供生んで、家庭に引きこもりたかったの。三食昼寝付きが夢だったわ。」
と言うと、章子は悪戯っぽい笑みを浮かべた。その横顔をちらりと見て、飯島は少々ふて腐れぎみに言った。
「それに、南には捨てられたしね。」
ちらりと視線を向けると、章子はウイスキーを一気に喉に流し込んだ。飲み終えると、グラスの底をカウンターに叩きつけた。カンという乾いた音が響いた。章子の目が座っている。
「全く、あの野郎、頭にくるわ。二股をかけていたんだから。でも社長の娘じゃあ、かないっこないもの。」
「それを言うなら、君だってそうじゃないか。君も、佐久間さんと僕と二股をかけていた。当時、僕は本気で和子と別れようかと悩んでいたんだ。女房はそのことを未だに根にもっている。」
章子が舌を出し、笑いながら言った。
「ごめん。佐久間は入社以来の相談相手だったの。でも、これだけは信じて。飯島さんが一番好きだった。南よりも。でも、飯島さんには最初から恋人がいたしね。綺麗な人だったな。一緒に飲みにいったことがあったわ。覚えている。」
「いや。」
飯島は、和子の話題に触れたくなかった。会って話をするだけというのは言い訳に過ぎず、何かを期待する自分を意識していたからだ。やましさが心の片隅でじくじくと疼く。
視線を落とし黙っていると、章子の熱い視線を感じた。ゆっくりと顔を向けると、神秘的な薄茶色の瞳が飯島を捉え、そして優しく包んだ。飯島も微笑んだ。章子が口を開いた。
「こんな日が来るなんて思ってもみなかった。こうして二人だけで会えるなんて。嬉しい。本当に嬉しい。」
「ああ、僕もだ。」
と答えてまた押し黙った。妻、和子の顔が浮かんでは消えた。そんな飯島のうしろめたさを感じたのだろうか、章子は明るい調子で言った。
「今日は独身に戻ったつもりで、楽しみましょう。昔みたいに。いい?」
飯島は複雑な思いを吹っ切るように、
「ああ、今日は飲もう。その前に腹がへった。飯でも食いに行こう。寿司なんかどうだ。」
と言うと、立ちあがった。
「いいわよ、でも、それで終わり、ふ、ふ、ふ。」
飯島は章子の含み笑いに動揺した。まるで飯島を誘っているように思えたからだ。
「さあ、どうするか、昔みたいに歌でも歌いに行くか。」
飯島は、全てを成り行きに任せようと腹を括り、伝票を取り上げるとレジに向かった。後から声が響いた。
「まって、まだお化粧も直していないわ。ねえ、ちょっと待って。」
その甘ったるい声で、章子もその気であることを了解するとともに、ざわざわと心が震えているのを意識した。
第五章
雑多な思念が、目まぐるしく耐え難い速度で駆け巡る。それは音と映像を伴い、目の前に展開している。目で見ているのは部屋の現実の光景であり、フラッシュのように浮かび上がるのは心に映し出された光景なのだ。まさに不思議な状況である。
ゆっくりと動くものを視覚が捉えた。液体に満たされたグラスがスローモーションのように目の前に迫ってくる。グラスが歯に当ってカチンと音がして、アルコールの蒸発する感覚が唇に広がった。アルコール度50%のテキーラだ。
佐久間は自分の内にある狂気を眺めていた。その狂気の始まりは4年前である。最初のうちは、焦燥にかられ異常に神経質になっている自分を意識する程度だった。遅々と進まぬリストラに経営陣が苛立ちはじめた頃だ。する事成す事、けちが付きはじめていた。
焦燥は、体中を駆け巡る細かな振動のように感じられ、次第に耐え難いものとなっていった。睾丸の後当りがじくじくと疼き、心の奥深くから不安が舞い上がり胸を締め付けた。そして孤独と絶望が佐久間の許容度を越えた時、意識の流れが一挙に加速したのだ。
そしてそれが普通の状態となった。この状態を分かりやすく表現するなら、一匹の極小のハエが脳の内側に迷い込み、出口を捜して絶えず急激な速度で飛びまわっているような感覚である。しかもそのハエは言葉であり、思考なのだ。
まだ章子と一緒だった頃、思考が急速な勢いで駆け巡る脳をぼんやりと意識しながら、章子に聞いたことがあった。
「今の俺って、見ていて、どっか変か?」
章子は笑いながら首を横に振った。くるくると頭の中を飛びかう意識が、静寂のなかに佇む愛しい章子を捉えていた。今はその章子もいない。寒々しい6畳一間の部屋全体が脳の振動に合わせて震えて見える。
その雑多な思念は脈絡もなく次々と現れては消える。それは時にリアルな映像と音声を伴い、時系列を無視して交錯し、その度に佐久間は胸を締め付けられ、涙を流し、そして絶叫する。そんな、のた打ち回る自分を、ウイスキーを飲みながら、静かに眺めていた。
ふと、この狂気から逃がれたいという思いが沸き起こった。今なら間に合うかもしれない。このままでは身の破滅だ。しかし、そう思ったのは一瞬だった。むしろ待ちうける悲惨な未来こそ自分には似合っている。そう感じたのだ。
現実をまともに受け止めるには重過ぎた。それまで挫折したことなどない。早稲田大学を首席で卒業し、会社では前社長に見出され、エリートとして育てられた。誇りある地位に就き、美人の妻を娶り、そして可愛い子供も授かった。
一瞬にして全てが失われたのだ。仕事も家庭も、そして誇りさえも。女房の顔が浮かんだ。溌剌とした明るい笑顔だ。その顔が一瞬曇って、視線が揺れた。佐久間が5枚の保険証書を突き出し、心なし震える声で言った。
「この保険証書は何だ。しかもこの三つは最近加入している。金額は、全部で3億。俺が死ぬとでも思っているのか。」
章子が俯いて、蚊の泣くような声で答えた。
「だって、あなたが死んだら、食べていけないわ。肝臓ガンかもしれないって言ってたじゃない。不安になって、つい…」
佐久間が怒鳴った。
「肝臓ガンの疑いがあると言っただけだ。その後の検査で白とでた。俺は死なん。すぐに解約しろ。お前は、俺の給料がいくらになったか知っているのか。」
章子は視線を上げ、不服そうに唇を尖らせて答えた。
「今まで一度だって給与明細なんて見せてもらってないわ。」
「いいか、よく聞け、今までの半分以下だ。住宅ローンだって払っていけない。食うのが精一杯なんだ。保険料がいくらか知らんが、金もないのにどうやって払ってゆくつもりなんだ。」
「この間、面接をうけたの。働くことにしたわ。駅前の会計事務所よ。」
佐久間の背筋に冷やりとする感覚が走った。何故素直に解約すると言わないのか。働いてでも保険料を払い続けると言うのか。妻の横顔を見詰めた。妻は視線を落とし、唇を噛んで、今をやり過ごそうとしている。そこには見たこともない他人が潜んでいた。
確かに体の調子は良くない。実を言えば精密検査もまだ受けてはいなかった。しかし、健康診断も受けずに佐久間が保険に加入出来たということは、保険の外交員をしていた章子の母親が一枚噛んでいるに違いなかった。佐久間は、和歌山の保険金殺人を思い出し、ぞっとした。
暗い疑念が佐久間の胸に渦巻いた。資材物流センターへの左遷以来、焦燥が体全体を包んでいる。そこに新たに妻への不信という要素が加わったのだ。佐久間は体を震わせ、思わず叫んだ。
「とにかく、解約するんだ。」
同時に平手が飛んだ。ふくよかな頬の感触が掌に残った。その感覚が佐久間の獣性に火をつけた。
別の場面が浮かんだ。電話口から西野会長の声が響いている。幻影を眺める佐久間は思わず目を細めてその声を聞いた。
「済まん、佐久間。奴等はお前を首にすると言い張ったが、何とか説得した。資材物流センターに行けるようにした。そこで、しばらく辛抱しろ。俺が何とかする。いつか奴等の鼻をあかしてやる。それまで頑張れ。」
佐久間は思わず涙ぐんだ。会長も涙声で続けた
「佐久間よ。俺だってこのまま終わるつもりはない。息子は銀行の言いなりだ。あいつを銀行に就職させたのは失敗だった。他人の飯を食わせて勉強させるつもりだったが、あいつは銀行の論理を学んだだけだ。企業は人なんだ。それが分かっていない。いずれにせよ、俺は必ず返り咲いてみせる。」
「ええ、期待しております。本当に頑張って下さい。今の私には何もお手伝い出来ませんが、心から祈っております。」
その時、佐久間の脳裏に奴等の顔が浮かんだ。会長の息子、西野社長、南常務、石倉だ。会長と自分を奈落の底に追い落とした男達。幻影を払いのけようと拳を振るったが、その憎憎しげな顔は佐久間を嘲笑っているだけだ。
その中の一人の顔が面前に現れた。薄笑いを浮かべながら石倉が言い放った。
「あなたのやったことは、業務上横領ですよ。」
佐久間は居並ぶ役員を見回した。そして石倉を睨みつけると、それまでの主張を繰返した。
「何度も言っているように、それは西野会長の同意を得ている。用地買収でヤクザ絡んできた。その解決に或る議員が動いてくれた。500万円はその謝礼だ。お前にとやかく言われる筋合いではない。」
石倉が答えた。
「佐久間総務部長。使途不明金はこれだけじゃない。あなたが総務部長になってから一億は下らない。どうなっているんです。どう説明するつもりなんです。」
佐久間が叫んだ。
「この会社では会長の許可がなければ何も出来なかったことは誰だって知っているはずだ。私の一存で会社の金を流用するなんて不可能だ。」
「いいや。あなたの立場であれば、金の操作など簡単に出来たはずです。会長に知られずにね。」
突然、ドシンというテーブルを叩く、くぐもった音が会議室に響いた。佐久間が驚いて顔を向けると南常務が睨んでいた。そしてその薄い唇が開かれた。
「いい加減にしろ、佐久間。会長に一億円の使途不明金について聞いたのは私だ。ここにそのリストがある。ここには国会議員への謝礼、300万円と書かれている。差額の200万はどこにいったんだ、えっー。それに会長は全て君に任していたから、詳しくは知らんと言っているんだ。」
「馬鹿な、300万だなんて嘘だ。確かに500万を渡している。」
「何だと、君は会長が嘘をついているとでも言うのか。」
佐久間は唇を噛み、押し黙った。確かに最初の約束は300万だった。しかし、話がまとまると、その政治家秘書は500万に値段を吊り上げた。そのことは社長に伝えたが、もしかしたら失念しているのかもしれない。
しかし、何をどう申し開こうと、全ては茶番なのである。南の嘘を証明することなど不可能だ。役員達を納得させること、そして佐久間を追い落とすこと、この二つのためのストーリ作りなのだから。佐久間は怒りに震え、南、石倉を交互に睨みつけた。
グラスをドアに叩きつけ佐久間が叫んだ。この度は、現実の佐久間が叫んだのだ。
「ふざけるな、この野郎。ぶっ殺してやる。石倉。いずれ、必ずぶっ殺してやるぞ。」
ガラスが砕ける音が響いた。幻影は消えていた。ウイスキーの瓶を手繰り寄せ、口飲みした。佐久間は再び幻影を手繰り寄せた。
受話器の向こうから南の声が途切れ、しばらくして意外な声が響いた。西野会長である。懐かしさと同時に疚しさが心に渦巻いた。その声は佐久間の狂気を一瞬遠ざけ、僅かに残された理性を呼び覚ました。
「おい、佐久間、貴様は何てことをしてくれたんだ。まさかあんなことをするなんて信じられん。何故だ、何故あんなことをした。」
「会長、あんたに恨みはない。あんたの娘にもだ。しかし、南だけは許せん。南に対する恨みを晴らすためだ。」
「馬鹿な、そんな馬鹿な。お前がそんなことをするするなんて。娘には何の罪も無いんだぞ。それなのに、何て酷いことを。」
西野会長の涙声を聞いて佐久間は押し黙った。しかし、次ぎの瞬間、会長の怒声が響いた。
「あんなことをするなんて、お前を見損なったぞ。1億だと。とんでもない。5千万だ。いいか、5千万で十分だ。それ以上一銭たりとも払わんぞ。いいな、佐久間。」
「は、はい。」
思わず返事をしてしまったのは、恐らく長年の習性だろう。西野会長に逆らったことなど一度としてなかったからだ。現実の佐久間から苦笑いが漏れた。
今度は受話器の向こうからがらがら声が響く。元資材物流センター長の竹内である。汗を拭き拭き喋っているのだろう。
「兎に角、佐久間さん。俺も同期の義理もあるし、一度は付き合った。それにお互い2千5百万円もの大金を手に入れた。だから勘弁してくれよ。」
「何が大金だ、馬鹿言うな。本来貰える退職金より少ないんだぞ。それに、あんなインチキ会社を作って上手く行くとでも思っているのか。それより、竹内、手伝えばそれなりの報酬はやる。考え直せ。」
「佐久間さんよ、インチキ会社はないぜ。地場産業として、それなりにやって行く目途がついたんだ。もう危ない橋は渡りたくない。兎に角、俺のことは諦めてくれ。正一を紹介しただろう。あいつだったら、金さえ払えば何でもやる。」
「あいつか・・・正一は、何をしでかすか分からない。口も軽い。信用が出来ない。」
「まあ、そう言うなよ。あいつはそんな口の軽い男じゃないって。そうそう、話は違うが、この間、偶然、章子さんを見かけたよ。渋谷で男と腕を組んで歩いていた。あの様子だと一発やった後ってかんじだったな。尻にまだ何かが挟まってるって感じで歩ってた。」
竹内の下卑た笑いのなかに、何か含むものがあることを咄嗟に感じ取った。息せき切って聞いた。
「最近付き合いだしたあのデパートの禿げ男じゃないのか。」
「いや、違う。あんたの知った顔だ。」
佐久間はごくりと生唾を飲み込んだ。そいつが捜しもとめた男かもしれないと思ったのだ。
狂気は妄想を生む。確たる証拠があるわけではなかった。保険金のことが引きがねとなって、佐久間は章子を裏で操る男を思い描くようになっていた。妄想は狂気を加速させ、狂気は妄想をよりリアルな現実として捉えさせる。
妄想が一人歩きし始めた。章子はその男にそそのかされ、佐久間に保険を掛けた。それだけではない。結婚以前から関係を持っていて、しかも愛子の本当の父親でもある。
妄想は膨らむばかりで、それを打ち消そうとする理性がしだいに薄れてゆく。佐久間は最初、その男を南だと思った。何故なら、佐久間が左遷されると知った時、章子は翻意を促すために南と連絡をとろうとしたからだ。
佐久間は竹内に命じて、章子の周辺を調べさせた。結果は佐久間を驚愕させた。やはり南は章子と関係していたのだ。しかし、二人の関係は佐久間と結婚する前までで、その後はその気配さえないという。では章子を操る男は誰なのだ。
佐久間が叫んだ。
「おい、焦らさずに言え。竹内、誰なんだ。俺の知った顔だと。」
「ひっひっひっ、飯島だよ。あんたが最も信頼していた飯島だ。」
佐久間は目の前が真っ暗になった。決して裏切らない男。それが飯島だった。だからこそ、保険金の受取人にした。愛子が成人するまで金を管理してもらうためだ。何としても章子の自由にはさせたくなかった。
次ぎの瞬間、飯島と章子が絡みあう姿が映し出された。佐久間は叫んだ。
「貴様、許さんぞ。絶対に許さん。章子に手を出すなんて、後輩として許されることではない。」
「おいおい、佐久間さんよ。そう興奮するな。俺に怒鳴ってどうする。そうそう、もし、50万出せば、もっと詳しく調べてやる。どうする。」
「出す。出すからもっと調べてくれ。」
飯島は目の前で頭を垂れる男をぼんやりと見ていた。以前も、こうして家の居間で向かい合った。あの時は、この男に仲人を頼まれた。佐々木は飯島の大学の後輩ということで近付いてきたのだが、いつの頃からか南派の人脈にどっぷりと浸かっていた。
その突然の仲人依頼は、飯島が東京支店長に抜擢された直後だった。機を見るに敏な奴だと厭な気持ちはしたが、後輩であることに違いはなかった。引きうけざるを得なかったのである。飯島は佐々木の連れ合いに視線を移した。
かつての溌剌とした若妻は、ふくよかな一児の母となり、すやすやと眠るわが子をいとおしげに見詰めている。妻の和子は台所でお茶を入れていた。飯島は言葉を捜しながら、何故、妻、和子が最近よそよそしいのか考えていた。ぼんやりと二人を見ていたが、唐突に言葉だけが出た。
「厳しいよ、今の世の中、中高年には厳し過ぎる。この間、紹介した会社は業績もまあまあだったし、期待していたんだが、相性が悪かったんだろう。」
佐々木が答えた。
「いいえ、相性の問題ではなかったんです。ただ、面接で失敗してしまいました。ちょっと上がってしまって。」
「そうか、上がってしまったか。」
またしても沈黙がその場を支配した。
佐々木は、頭は切れるが、プライドが高すぎる。営業に求められるのは自尊心を捨てる潔さと、お客の気持ちを感じ取る感性なのだ。佐々木にはその両方とも欠けていた。上がったから面接に失敗したわけではない。面接官に見抜かれたのだ。
佐々木がトイレにたつと同時に和子がお茶を運んできた。
「来るなら来るで、連絡してくれれば良かったのに。何のおもてなしも出来ないわ。取り合えずお茶を召上がって。」
佐々木の妻が恐縮しながら言った。
「有難うございます。本当に気になさらないで下さい。すぐにお暇しますから。」
「そんなわけにはいかないわ。私達が初めて仲人した記念すべき夫婦なんですもの。」
「その夫婦がお二人におすがりに参りました。頼れるのは飯島さんしかいません。飯島さん、どうか、あの人に仕事を世話して下さい。お願いします。」
「ええ、分かっています。次ぎの会社を探しているところです。」
飯島はそう言いながら、暗澹たる思いに捕らわれた。
飯島のこれまでの営業先は企業の総務関係で、大企業から中小まで二百社は下らない。そのツテを頼りに就職を斡旋しているのである。佐々木の妻はすがるような視線を飯島に向けて、話を切り出した。
「私、可哀想で見ていられないんです。あの人、この間、布団を被って泣いたんです。朝方、悲鳴のような声を聞いて、目覚めてしまって。隣を見たら、布団のなかから泣き声が漏れていたんです。そしてその布団がふるふる震えていました。」
と言うと、ハンカチを目に当てて、涙を拭った。
実を言えば、飯島もつい最近泣いたのだ。そんなことおくびにも出さず、深刻顔で深く頷いた。そして重い口を開いた。
「涙を流したのは彼だけではありません。聞くと、センターの人間は皆同じ経験をしています。でも、悲観的に考えないで下さい。いつか今を笑える時がきます。」
「そうですと良いのですけど。あの人は本当に弱い人なんです。今の状態に耐えられるかどうか。それだけが心配で。」
「兎に角、近いうちにそれなりの企業を紹介しますから、奥さん、私に任せてください。」
佐々木の妻は深深と頭を垂れた。
飯島は自分の就職についても、当然のことながら視野に入れていた。この会社での未来は既に絶望的である。それは分かっていた。だからこそ或る会社に一縷の望みを賭けていた。それがあったからこそ、今の状況にも辛うじて耐えられたのだ。
その会社は中堅だが業界随一の成長株で、飯島が東京支店長として実績を上げ始めた時期、ヘッドハンティング会社を通じて接触してきた。飯島は申し出を無視して来たのだが、再三にわたるアプローチとセンターへの左遷という急変が飯島の心を動かした。
センターへの異動以来、飯島に対するアプローチは激しさを増したが、飯島は部下達の就職斡旋を最優先していたため結論を先延ばしにしてきた。しかし、事態は徐々に変わっていった。
先方からの連絡が途絶え、飯島は焦燥にかられヘッドハンティング会社の担当者に電話を入れた。受話器から漏れる重苦しい空気が、現実の残酷さを予感させた。飯島が静かに聞いた。
「何故なんです。つい一月前まで、貴方は私を必要としていた。なのに、今、貴方は押し黙っている。どういうことなのですか。」
ようやく相手が沈黙を破った。
「実を言いますと、或る噂が業界に流されています。それを信じているわけではありませんが、私共といたしましては、それをクライアントに報告する義務がございまして…」
「その噂っていうのは、何なのです。」
「その、何て言うか、」
「さあ、はっきり言って下さい。何を言われても、今の私は驚かない。さあ、はっきり仰って下さい。」
「はい、分かりました。正直に申します。つまり、飯島さんの左遷の原因が業務上横領の疑いがあったという噂です。私個人としましては信じておりませんが、噂は噂として間違い無く存在しますので。」
飯島は押し黙った。誰なんだ。根も葉もない噂を流したのは誰なんだ。飯島は孤独と絶望に打ちのめされた。心の隅にしまっておいた、一縷の望みが潰えた瞬間である。
その夜、飯島は泣いた。風呂の中で、お湯の中で泣いた。決して見られたくなかった。和子には気付かれたくなかった。センターでの任務が終えれば、本社での営業部長の席が用意されていると匂わせていた。そんな可能性などないのだ、嘘なのだ。
飯島はその嘘に泣いた。嘘をつき続けることなど出来ない。すぐに嘘の上塗りをしなければならないだろう。和子はその嘘にうすうす気付いている。虚勢を張るのも限界であった。泣くしかなかったのである。
二人が帰って、和子は夕食のしたくにかかっていた。飯島は、くるくると体を動かす妻になにげなく視線を向けていた。ふと、あの根も葉も無い噂を思いだし、深い絶望感に打ちのめされた。悔しさで体が震えた。
誰が、何故、身に覚えの無い噂を流しているのか。業務上横領など考えられない。悔しさは体全体を震わせている。和子が料理を運んできた。ビールの缶は既に空になっている。和子は空き缶を摘み上げ、台所に消えた。
飯島は深く溜息をつき、目の前に置かれた煮物に箸を伸ばした。味も何も感じなかった。和子が暖簾から顔を出し聞いた。
「どうします、もっとビール飲みます。それとも、ご飯にします。」
「日本酒を頼む。冷でいい。」
和子は飯島と視線を合わさず、暖簾の向こうに消えた。飯島の視線を避けているようだ。もしかしたら、と飯島は思った。視線を避けているのは自分かもしれない。章子との浮気が飯島の心に後ろめたさを植え付けていた。和子の視線が怖かった。時折見せる何かを訴えているような表情が怖かったのだ。
詰問されるかもしれない。そう考えると、身のすくむ思いであった。それを避けるにも、そして、心の鬱憤を晴らすにも、酔っ払うのが一番だった。飯島は、コップ酒を一気に飲み干した。そして叫んだ。
「和子、面倒だから一升瓶持ってきてくれ。」
和子は台所から顔を出し何か言おうと口を開きかけた。飯島は視線を避け窓の外を眺めた。
第六章
和子は台所を済ませ、一息入れようと濃いお茶を入れた。夫を送り出してから事務所に出かけるまでの、貴重なひとときである。和子は八王子駅前の弁護士事務所に勤めている。時計を見ると、まだ十分に時間はある。
ソファに腰をおろすと、お茶を口に含んだ。熱い液体は食道を通り抜け、精神的に疲弊した胃を優しく温めた。そして閉じていた瞼を開き、目の前に広がる現実を見つめた。庭の立ち木は木枯らしに晒されふるふると震えている。落ち葉が窓を横切って消えた。
夫は自分のことに頭がいっぱいで、和子の心の変化に気付いていない。いずれ話さなければならないと思うと心が痛む。和子は身篭っていた。妊娠3ケ月になる。夫の子供でないことは確かだ。何故なら夫とはこの半年関係していないからだ。
弁護士事務所に勤めて13年になる。最初の雇い主は、今は引退し、息子が事務所を継いでいる。この二代目の弁護士は、二つ年上で、独身だった。名前は石原郁夫。お腹の子供の父親である。夫のように二枚目ではないが、誠実さにおいては石原に軍配があがる。
石原の好意には以前から気付いていた。そして和子も石原に惹かれていたのだが、生来潔癖性であったため、自分を抑制していた。しかし、あの日、別れ際に見せた石原の切ない眼差しに応じる気になったのは、夫の裏切りがその引き金となっていた。
或る日、夫は酒臭い息をしてベッドに潜り込んで来た。一瞬、微かに香水の香りを嗅いだ。めったにしないことだが自ら挑んだ。その時、夫のものは固くなることはなかったのである。酒の飲みすぎという言い訳も、今までどんなに泥酔していても元気だったことを思えば説得力がない。
夫はその香りを定期的に運んできた。夫の浮気はもう否定しようがない。ショックではあったが、しかたがないという思いも心の片隅にあった。何故なら、和子は子供の出来ない原因が自分にあると思っていたからである。
20代の終わり頃、夫には秘密で産婦人科を尋ね、子宮の発育不全と診断された。1年ほど治療に通ったが、少しも効果があがらず、そのうち止めてしまった。夫は、子供なんていない方が気楽だと言ってくれていた。有難いと思っていたのだ。
しかし、石原と関係してすぐに妊娠した。信じられなかった。医者に「おめでとう」と言われ、思わず涙があふれた。子供を授かったのだ。不倫の子であることも忘れ、袖で涙を拭いながら何度も頷いていた。絶対に生むと決めた。だから、夫には本当のことを告白せねばならない。
出かける支度をすませ、玄関のポストから郵便の束をつかむと、車に急いだ。郵便の送り主をチェックしながら、石畳を降りていった。ふと、和子は歩みを止めた。夫宛てに分厚い封書があった。差出人の名前は書かれていない。
和子は、悪いと思ったが、封を切った。中を覗くと、10枚ほどの写真が同封されている。不信に思い、それを指先で探り、1枚の写真を目の前にもってきた。思わず、叫んだ。
「何、これ。いったい何なの、これは。」
そこには、ある男の変わり果てた姿があった。何度か会ったことのある夫の先輩、佐久間が顔を歪ませ和子に笑いかけている。しかもその黒々っとした一物が、上品な人妻風の女の割れ目に食い込んでいるのでる。和子は、車の助手席に写真を放り出し、キーを挿し込むと、一気に加速した。
和子は混乱いていた。佐久間の失脚は夫から聞いていた。佐久間は大学の日本拳法部の先輩で、飯島が大学選手権で優勝した時、応援に来ていて知り合い、入社にも尽力してくれたという。飯島は一浪、一留年で、就職は厳しかったのだ。
夫は佐久間に同情して、会社の汚いやり方を非難していた。その佐久間が何故自らの性交写真を夫に送ってきたのか。この女性は誰なのか。
和子の通う事務所は、八王子駅から歩いて5分、総武線の線路沿いにへばりついた駅前商店街の中ほどにある。古ぼけた五階建ビルの三階だが、和子はエレベーターには乗らず階段を駆け登った。
まだ誰も来ていない。バッグを自分の事務机に放り投げ、応接ソファに座ると、封筒から中身をテーブルにぶちまけた。写真10枚とそのネガらしきもの。メセージがないか封筒を覗いたが、何も見当たらない。
女の顔には見覚えがある。どこかで会っているのかもしれない。悦楽の頂点にいる女の顔をまじまじと見つめた。そして少し上で、何度か会ったことのある佐久間が顔を歪めて笑っている。紳士で知られた佐久間のイメージががらがらと音を立てて崩れてゆく。
翌日のことである。飯島は出社すると、すぐさま内線で佐久間を呼んだ。写真のことを問いただすためだ。しかし、佐久間は就職活動のため今日から1週間休むことになっているという。飯島は空しく受話器を置くしかなかった。
就職活動の場合には自由に休ませているのだが、佐久間は、もう出てこないつもりなのかもしれない。突然、手を置いていた受話器が鳴り出した。嫌な予感がした。
1時間後、飯島は本社ビルの前に立っていた。白い息が立て続けに口から漏れた。殆ど走るようにここまで来たのだ。自動ドアが飯島の動きに合わせて勢い良く開いた。受付を通りすぎ、エレベーターに乗り込むと、企画部のある12階のボタンを押した。
ドアが閉まりかけた時、見慣れぬ女性事務員が入って来た。女は飯嶋を知らないらしい。5階で数人の男達がどやどやと入って来た。よく知った顔ばかりだ。男達は飯嶋を見ると、「あっ、どうも」と言って、一様に目を伏せ押し黙った。
その中にはかつて飯島が可愛がっていた部下もいた。背の高い男の影に隠れ、飯島と顔を合わせようとしない。長く気まずい沈黙は、12階で扉が開かれて漸く終わる。飯嶋は覚悟を決めると、企画部に入っていった。事務所には、50人近い人々が動き回っている。
ここそこで動きが止まり、あちこちでざわめきが起こった。飯嶋はそんなことなど気にも留めず、歩を進めた。企画部長の大きな机の前まで来ると、気付かぬ素振りで事務を執る石倉を見据えた。
呼び出したのは石倉である。飯嶋を怒鳴りつけ、そのうえ、センターの皆を「穀潰し集団」とこき下ろしたのだ。飯嶋は思わず受話器を叩き付けた。首を覚悟していた。場合によっては石倉を殴ってやろうとさえ思っていたのだ。
そんな敵意剥き出しの飯島に対し、石倉は書類から目を上げ、ペンを置くと、にやりとして応えた。飯嶋は、その余裕に接し敗北感に打ちのめされた。その瞬間、ふと肩の力が抜けた。飯島の顔から怒気がぬけてゆく。
飯島に本来備わっている闘争本能が、石倉のそれと共鳴し合い、目覚めた。そして一歩引くことが出来たのだ。心に余裕がなければ、喧嘩には勝てない。若い頃に会得した真理だ。石倉が口を開いた。
「どうですか、飯島君。仕事は順調ですか。」
「ええ、まあ、まあ順調ですよ。」
言い終えてからにやりとした。さすがにわざとらしかったが、まずまずの出だしと胸を撫で下ろした。案の定、石倉は動揺している。そして目の色を変え怒鳴った。
「順調とはどういうことなんだ。えー、順調どころじゃないだろう。一体お前はこの半年、何をやっていたんだ。今年ももうすぐ終わりだというのに目標の30%にも満たない。竹内とは雲泥の差だ。お前を押した俺の立場を少しでも考えたことがあるのか。」
怒鳴り声は延々と続く。事務所の皆が凍り付いている。
飯島はこの数ヶ月、最後の抵抗を試みていた。直属の上司の南ではなく、飯島を引き上げてくれた会長に直接意見書、と言うより嘆願書を提出したのだ。リストラはいた仕方ないとしても、出来る限り再就職先を斡旋すべきという内容で、社長以下重役達の協力を仰いだ。飯島一人の力では既に限界を感じたからだ。
重役達の協力の申し出が相次いだ時には、飯島も期待に胸を膨らませた。しかし、次第にその声は小さくなっていったのである。
高みの見物でその様子を窺っていた石倉が、今日、あそこまで飯島をこき下ろしたということは、飯島の思惑が潰えたのを見届けたのだ。絶望の中に見出した唯一の曙光が消えた。もう絶望という感情さえ起こらない。
石倉の怒鳴り声をやり過ごしながら、飯島は迷っていた。このまま、センターを出た時の興奮に身を任せて良いものか。もう少し時間を稼いだ方が得に決まっている。ふと、和子の顔が浮かんだ。
急激に怒りが醒めてゆくのを感じた。やはり、今日のところは止めにしておくべきだ。失業すれば、また、和子を頼ることになる。それだけは何としても避けたい。まして、石倉は明らかに飯島を挑発しているのだ。首の口実となる暴挙に出ることを。
飯島は、一転して、神妙な顔を作ろうと努力してみたが、なかなかうまくいかない。怒りを静めたとはいえ、激しい血流は体中をまだ駆け巡っていた。いろいろ試しているうちに、石倉の低い声が響いた。
「そうやって、俺を挑発しているつもりか。俺はそんな手には乗らない。いつでも冷静であることが俺の信条だ。順調と言ったお前の真意を聞こう。それによってはお前に最終通告を出さなけりゃならない。」
飯島は、この言葉を聞いてようやく心身とも冷静になれた。石倉の薄い唇が開かれる直前、すかさず飯島が口を開いた。
「私も少し興奮していたようです。行き過ぎな点は、率直に謝ります。それから、この半年の退職者数は石倉部長になじられて当然だと思っております。が、来年早々にはまとまった人数を報告出来ます。鋭意努力しておりますので、もうしばらくのご辛抱をお願い致します。」
90度を超える最敬礼は新入社員の頃、何度も練習させられた。そんなことなど冷静になればいくらでも出来るのだ。床を見つめながら、飯島は吹っ切れたと思った。
一方、石倉も迷っていた。最初の頃、飯島を支持する重役達もいて、石倉も冷やりとしたのだが、現場を離れて久しい役員が、昔のコネクションを復旧させようと努力したところで、結果は見えていた。今は遅々として進まぬリストラに苛立ち始めている。
ここで飯島を逆上させ、首に持ってゆくのはた易い。しかし、飯島の人脈もすでに底をついており、再就職斡旋も限界だろう。もう少し待って、飯島の無能ぶりを触れまわった方が、銀行系役員の飯島に対する根強い人気も色褪せ、事は自然に運ぶ。
石倉は、頭を下げたまま動かぬ飯島に一瞥をあたえ、心の余裕を取り戻そうと深く息を吸い込んだ。そして静かに口を開いた。
「そこまで言うなら、待ってやる。いいか、飯島君。俺は、本気で、君を押したんだ。その点を分かってくれ。怒鳴るのは、本意ではない。君に頑張ってもらいたいだけなんだ。」
飯島は、神妙に「分かっております。」と返事はしたものの、本当は「冗談言うのも、いい加減にしろ。」と怒鳴りつけたかった。もし、飯島が営業本部長に就任したとなれば、石倉の今までの失礼な言葉や態度など、許されるはずがない。本社に返り咲かないと確信しているからこそ、言いたい放題言っているのではないか。石倉が立ちあがって叫んだ。
「おい、久保田、飯島資材物流センター長に例の書類を渡せ。」
石倉は、佇む飯島に向かって言った。
「おい、こんどこそ、本気で取り組んでくれ。全ては君にかかっている。さあ、とっとと帰って、今、俺に言ったことを実行にうつせ。特に今から渡す書類に載っている奴は最重点目標だ。来年3月いっぱいで何とか辞めさせろ。」
「はい。分かりました。」
そう返事をして、飯島はしかたなく踵を返したが、「とっとと帰って」という言葉が背中に突き刺さったままだ。さすがに体が震えた。しかし怒りが諦めに変わるのにそう時間はかからなかった。女房子供には見せられない姿だ。子供がいなくて良かったとつくづく思ったのである。
その頃、和子は、八王子サンプラザホテルの7階のスイートルームにいた。豪華な応接ソファに背中も付けず、背筋を伸ばして座っている。彼女の前には精悍な男が、タバコの煙をくゆらせ、微笑んでいた。
今朝、和子は、石原から、午後一で届く郵便を、お客と打ち合わせをするホテルの部屋まで持って来るよう指示された。事務所に郵便が届いたのは午後1時で、和子はその郵便が届くとすぐ事務所を出た。そしてホテルのロビーで一人の男に呼び止められたのである。
「もしかして、飯島さんですか。」
和子が振り向くと、50がらみの紳士が佇んでいる。
「早坂産業の内海です。今まで、先生とロビーでコーヒーを飲んで待っていたのですが、先ほど、先生は、駅前の銀行へ出かけました。すぐ戻るそうです。それから、先生は部屋番号を間違えて伝えたと言っていました。だから二人で、ロビーで待つことにしたのです。」
「まあ、そうなんですか。802号室って聞いていますけど。」
「やっぱりね。それは、私が手紙で伝えた部屋番号で、後日電話で訂正したんです。先生はそっちの番号が記憶にあったみたいです。」
「ああ、でも、よかった、お会いできて。でも、よく、私のこと分かりましたねえ。」
「実は、先生から、飯島さんのお写真を見せて頂いていたもんですから。」
和子は、石原が自分の写真を持ち歩いていると知って嬉しくなった。
「さあ、先生を待っていてもいいけど、一足先に部屋に行っていましょうか。10分なんて言っていたけど、もう15分も過ぎている。待たされるのも、うんざりですよ。」
こう言って笑うと、男は先に歩き出した。和子もそれに続いた。
それから、もう20分以上経っているが、石原はまだ帰って来ない。雑談も途切れがちで、男は、微笑を作りながら、会話を探している。和子は少し不安になってきた。見ず知らずの男と二人きりで密室にいるのである。
中堅企業の専務ということで、年寄りを想像していたが、50前後で、がっしりとし体躯は運動選手を思わせた。先ほどからの軽妙な話術も、さすがに営業畑を過ごしてきたという経歴通りである。とりとめの無い話に終止符を打って、和子が、
「ちょっと、ロビーを見てきます。」
と言って、ふと、男を見ると、それまでの温厚な顔が豹変している。作り笑いで細められていた目が開かれ、その奥から冷酷そうな瞳が覗いていた。和子は、視線を合わせて身震いした。そして震える声で繰り返した。
「私、下で待ちます。」
凄みをきかした冷たい声が響く。
「奥さん、そうはいかねえんだよ。」
和子は、恐ろしさに震えながら、バックを引き寄せた。いきなり立ちあがり、ドアに向かって走り出した。男の動きは更に敏捷だった。大股でドアに先回りし、立ち止まる和子に背中を向けたまま、鍵とチェーンをかけている。
和子は咄嗟にバックから携帯電話を取り出し、110を押した。周りを見まわし、ソファの下に隠した。そして寝室のドアめがけて駆け出し、ドアのノブを回しながら体当たりしたが、はじき返された。尚もノブを激しく回したが、鍵は締まっている。
ドアを背にして振り返ると、男がゆっくりと迫ってくる。和子は追い詰められ、男を睨み見つけた。しかし、男は冷酷そうな笑みを浮かべるだけで、表情は少しも変わらない。和子は男の正体を悟った。ヤクザだ。仕事で何度か相手にしている。
彼らの共通項は手のひらを反した時の氷のような冷たさだ。その一瞬の変化の落差が大きければ大きいほど、相手に恐怖心を与える。和子は思いきり叫んだ。
「助けて、誰かたすけて。」
男が、にやにやしながら答えた。
「この部屋は完全防音になってる。誰も来やしねえよ。」
「八王子サンプラザ902号室よ、助けて、助けて。」
和子は何度も同じことを叫び続けた。男は和子が何故そんなことを叫んでいるのか分からなかった。怪訝に思い、口を塞ごうと急接近した。
和子は渾身の力を込めて男の股座を蹴り上げた。飯島に護身術を教えられていたのだ。しかし、一瞬遅かった。男の手刀が和子の首筋を捉えたのだ。蹴り上げた足は途中で力なく宙を泳いだ。和子は気を失った。隣室からもう一人の男が出てきた。
「殴ったのか。」
「ああ、どうしようもなかった。気を失っている。今のうちに服を脱がせようぜ。」
「そうするか。おい、ちょっと待て。人の声がする。」
もう一人の男が、ソファの下に投げ出されいる携帯電話を見つけた。声はそこから漏れている。男が、携帯を取り上げて耳にあてると、誰かが必死で叫んでいた。
「奥さん、奥さん。大丈夫ですか。何があったんですか。もうすぐ警官がそちらに駆けつけます。大丈夫ですか。」
男は携帯を切った。そして、言った。
「やばい、この女、110番に電話してやがった。もうすぐ警官がくる。逃げよう。」
二人の男は、和子を残し部屋を出ていった。
飯島は警察からの連絡を受け、血相をかえてタクシーに乗り込んだ。いったい何が起こったのか。警察の係員から電話で説明を受けたのだが、頭に血が上っていて何も覚えていない。和子が誰かに襲われたということだけは分かっていた。
病室に掛けつけると、受付で、見るからに刑事といういでたちの男に呼び止められた。年の頃、40歳前で、よれよれのレインコートの襟を立て、病院だというのに咥えタバコである。勿論火はついていない。
「飯島さですね。」
「ええ。」
「奥さん、大変でしたね。ところで、旦那さん。今回のことでは、そのー、何か心当たりはありませんかね。例えば、誰かに恨まれてるとか、そうそう、今流行りのストーカーとか、奥さん、何か言ってなかったですか?」
飯島は、あまりに直裁な質問にうんざりしながら、きっぱりと言った。
「何も聞いてません。とにかく、妻の様子が知りたい。そこをどいて下さい。」
「奥さんは、心配ありません。今、精神安定剤を打って、眠ってます。ところで、何か気付いたことがありましたら、ここに電話を下さい。」
と言って名刺を差し出した。
飯島はそれを受け取ると病室に向かった。階段を駆け上がり、受付で教えられた部屋番号のドアを開けた。その瞬間、目に飛び込んできた光景に、飯島は思わず驚愕し、バタンとドアを閉め、ドアを背に大きく肩で息をした。
和子が誰かと抱き合っていたのだ。心臓が激しく高鳴って、息が苦しい。それはまさに信じられない光景だった。ふと、立場が逆であることに気付いた。夫である自分が、何故、こんな風に隠れなければならないのか。
そして徐々に怒りがこみ上げてきた。和子に対する憎悪が膨れ上がった。俺はお前のために、必死で働いてきた。それを、裏切るなんて。飯島は、ドアを乱暴に開け放った。和子はベッドに正座していた。男は、直立不動で突っ立ている。怯えているようだ。男は震えながら飯島に話しかけた。
「私は、弁護士の石原です。飯島さんに、お話があります。」
飯島は叫んだ。
「ふざけるなこの野郎、人の女房に手を出しやがって。おい、和子、お前が俺を裏切るなんて思ってもみなかった。」
飯島は、歩みよるといきなり石原を左手の甲で殴り倒し、和子と睨み合った。飯島が右手を上げた。その時、石原が叫んだ。
「止めろ、和子のお腹には、子供がいるんだ。止めろ。」
飯島の動作が止まった。搾り出すような声で言った。
「子供、誰の子供だ?貴様の子供だな。ふざけやがって。」
倒れている石原の胸倉をつかんで持ち上げた。飯島の目に涙が浮かんでいる。和子が叫んだ。
「止めて、あなた、お願い、止めて。」
切り裂くような声が理性を呼び覚ましたが、勢は止められない。和子はベットから飛び降り、飯島の両腕を背中から抱きこんだ。そして言った。
「あなたは、私を責めること出来るの?私は知っているのよ。あなたも同罪っだってことを。私達の関係は、あなたの後だったわ。あなたの方がずっと先に私を裏切っていた。」
飯島の動きが止まった。反論の余地はなかったからだ。和子が言った。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。あなたが、一番大変な時に、助けられなくて。いいえ、足を引っ張ることになるなんて。でも、私は子供を産みたいの。これが最後のチャンスかもしれない。だから、」
一瞬、飯島の心に空洞が生じた。それは心の奥底にしまい込んでいた不安が一挙に弾けて、胸に風穴が開いたような感覚だった。子供を産む最後のチャンスという和子の言葉がその空洞の中でこだましている。
その空洞に、すこしづつ飯島の優しい感情が流入していった。そして激情は徐々に和らいだ。やはり子供が出来ない原因は、飯島にあったことになる。飯島は、涙を手の甲で拭いながら言った。
「もう、いい、いいんだ。許す、全てを許す。」
飯島は、振り向くと和子の肩に両手を置いた。何か言おうと思ったが、言葉が出てこない。うん、うんと頷いて、両手をそっと押した。石原のほうに。
飯島は部屋を出た。体から力という力が抜けてゆく。何もかも失ってしまった。プライドも家庭も。どうやら、飯島には女を孕ませる力もならしい。それは、学生時代からそんな気はしていたのだ。はっきりさせるのが怖かった。飯島は、とぼとぼと歩きだした。
第七章
和子は、あの日以来、石原のマンションに身を寄せている。飯島は、躊躇することなく、離婚届に署名捺印し和子の元に送りつけた。そして、離婚の話し合いも全て電話ですませたのである。和子の衣類から家具に至るまで、その他思いつくもの全て発送した。
和子は慰謝料も財産分与も放棄するという。離婚の条件はいたってシンプルだった。石原が挨拶に伺いたいと言ってきたが断固拒絶した。あまりにも差がありすぎる。一方は弁護士、もう一方は地位も名誉も失ったサラリーマン。かたや、一発で妊娠させた実力派、かたや無精子なのにハッタリかましていた無能力者。
飯島は事件直後、精子を病院に送り検査してもらった。結果は思った通り無精子であった。飯島は最後の電話で和子に言った。
「そう、頑なになるな。せめて、預金通帳ぐらい持っていけよ。お前が稼いだ分も入っているんだから。」
「いいの、あなただって、これからどうなるかわからないでしょう。」
「俺ならどうにでもなる。この家を売っ払ってしまえば、食うには困らない。」
「だめ、それはだめよ。あなたのお父さんが、あんなに大事になさっていた家なんだから。」
「まあな、親父にはこの家が全てだった。家を残すことで、父親の威厳を保てると勘違いしていたんだ。」
しんみりした雰囲気から逃れようと、飯島は話題を変えた。
「そう言えば、奴等は、お前が802号室に来ることを、どうして知っていたんだろう。」
「電話が盗聴されていたの。警察が調べてくれたわ。私が連れ込まれた部屋が702号室。石原は真上の部屋で私を待っていたわけよ。」
「用意周到ってわけだ。佐久間さんらしい。」
「佐久間さんね、うーん、あの写真が送られてきた直後でしょう。やっぱり何か関係がありそうな気がする。」
「ああ、とにかく、会えるかどうか分からないけど、会えれば佐久間に確認するつもりだ。」
そこで話題が途切れた。飯島は、そろそろ終わりにしようと思った。
「お前には本当に感謝しているよ。頑固親父によく尽くしてくれた。この家を手放さずに済んだのだって、お前のおかげだ。あの頃、30代そこそこの俺の経済力では返済なんて無理だった。」
「そうじゃないわ、私達二人の力よ。」
「いや、君のおかげだ。親父も感謝していたと思う。」
「実はね、あの無口なお父さん、今際の際に、私にこうおっしゃったの。この家で死ねるなんて思わなかった。有難うってね。その言葉だけで、私の苦労は報われたわ。」
一瞬、飯島は、涙ぐんだ。意地っ張りで、人一倍プライドの高かった親父の微笑む顔が浮かんだ。名古屋にいたため死に目には会えなかったが、そういえば死に顔がやけに穏やかだったのを思い出した。
親父のそんな一面を引き出した優しさ、そして、そんなエピソードを今まで一言も言わなかった控えめさ、そんな和子の人間性に目を伏せ、プライドだけを必死に守ろうとしていた自分の卑小さが悔しかった。
結局、飯島は軽蔑していた父親と全く同じ資質を持ち合わせていたのだ。だからこそ二人は互いを深く理解することなく13年と言う歳月を無為に過ごしてきてしまったのかもしれない。
今、そのプライドは粉々に粉砕されてしまった。和子に首にされたように、会社からそう言い渡されるのも時間の問題である。搾り出そうにも、飯島にはプライドの残滓さえ残っていない。
せめて、最後の言葉だけは、飯島のプライドに見合う流儀で締め括ろう。そう思った。
「和子、幸せにな。子供が出来たら、知らせくれ。必ずプレゼントを贈る。それから、石原さんとのこと、少しも恨んではいない。そう伝えてくれ。それじゃあ、石原さんに、宜しく。」
きっぱりとここで電話を切った。
飯島は、体から魂が遊離したかのように空しく日々を過ごした。しかたなく、和子が置いていった貯金通帳から30万円下ろし、パチンコに通った。三日間、朝から晩まで座り続け、ようやく無一文になった。
事件から何日かで、会社は正月休みに入ったはずだ。今、街は正月一色に染まって、ただ一人、飯島だけが世間から取残されていた。飯島は会社に残る意味を失った。妻に対するプライドから、すっかり開放されてしまったからだ。外にも出ず、だだっ広い家にぽつんと座って時間を過ごした。正月休も終わり、二日が過ぎている。
思えば、人がいるからこそ、空間に意味がある。和子とこの家に入った時は、親父をふくめ三人の家族が、それぞれの空間を占めていた。それが、一人きりになってみれば、なんと空しく無駄な空間だろう。つくづく孤独が身に沁みた。
その日の夕刻、斎藤副所長から電話が入った。彼は資材物流センターの情報源として石倉から重宝されていることを唯一の心の支にしていた。或いは、石倉から次期所長とおだてられているのか、最近、飯島に限らず、誰にたいしても態度が横柄である。
竹内の腰巾着だっただけに、弱い立場の者に対して更に強気に出る。
「飯島所長、まったく、こんな肝心な時に会社にいないんだから。事件は無事片付いたんでしょう?それに、もう休みは終わってますよ。この二日間どこで何をしていたんです?大変ですよ、本社では大騒ぎです。」
「いったい、何があった。どうしたんだ?」
「どうしたんだなんて、あんた。悠長なこと言っている場合じゃないですよ。」
ここで、飯島が切れた。
「前置きは、いい。何があったか、さっさと話せ。」
飯島の怒鳴り声に、斎藤は息を呑むと、息せき切って話し出した。
「車両部の坂本がじ、じ、自殺したんです。しかも、本社の車庫で。マスコミも嗅ぎ付けて本社の前をうろちょろしてるようです。石倉部長は飯島所長の管理不行き届きだと仰っています。」
「坂本さんが、自殺しただと。それで、いつ?」
「一昨日の朝、本社の裏の車庫で首を吊っているのが発見されました。」
飯島は、言葉を失った。責任の一端は飯島にもある。しかし、坂本に対しては出来るだけのことはやった。坂本の奥さんの丸い顔がぼんやりと浮かんだ。
「もしもし、もしもし。」
飯島には、斎藤の呼ぶ声がしばらく聞こえていなかった。ようやく飯島が答えた。
「何だ。」
「それから、所長が、出社したら知らせろと言っていた佐久間が、今日、出て来ています。さっき電算室で佐藤室長と話していました。」
「えっ、佐久間が来ているって。分かった。いいか、佐久間を足止めしろ。これからすぐ行く。いいな。」
「所長、勘弁してくださいよ。もうすぐ5時だし、まして今日は子供と約束してるんです。」
「ふざけるな、てめえ、今がどんな時なのか分かっているのか。ほのぼの家族をやっている場合かよ。いいか、良く聞け。今月末、お前には辞令が交付されることになっている。その辞令を俺は石倉から預かってきているんだ。」
「えっ、そんな馬鹿な。冗談でしょう。」
飯島は黙っていた。どう反応するか見えすぎていたからだ。斎藤は緊張していることを秘密にしておくことなど出来ない。言葉にすぐ現れる。沈黙に耐えられず、斎藤が再び口を開いた。
「ちょ、ちょ、ちょっと、所長。じょ、じょ、冗談でしょう。そんなこと・・・。だって、石倉さんには、わ、わ、私は、かなり評価されているんですよ。その、じ、じ、辞令って内容はなんですか。ま、まさか、関東物流への転籍じゃないんでしょう?」
「いいか、もし、待っているなら、その辞令を見せてやるよ。」
「えっ、き、き、今日、見せてくれるのですか?あ、あ、後、20日以上もあるのに・・」
斎藤が今度は押し黙った。
「とにかく、すぐ行く。佐久間さんを確保しておくんだ。いいな。」
「はい。」
受話器から小さな沈んだ声が聞こえた。
飯島が、資材物流センターに着いたのは、7時を少し過ぎた頃だ。通用門でコートの襟を立て足早に歩く男と擦れ違った。ふと気になって振り返ると、ずんぐりとしたその後姿は明らかに佐藤室長である。飯島は佐藤の名前を呼んだ。
佐藤は数歩進んで立ち止まった。なかなか振り返らない。飯島が近付いてゆくと、ようやく方向を変え、視線を合わせた。目が座っている。飯島が先に声を掛けた。
「佐久間さんと会っていたそうですね。何を話していたんです。」
「奴は会社を去るそうだ。奴とは同期だから、別れを惜しんでいたのさ。」
「そうですか。」
「そうだよ、今生の別れになるかもしれないからな。それに何を話そうと、お前にとやかく言われる筋合いではない。」
と言うと、踵を返し、すたすたと歩き出した。飯島はただ呆然とその後姿を見送るしかなかった。いったい、佐藤は何を怒っているのか。混乱は増すばかりである。
飯島が所長室に駆けつけると、佐久間の薄くなった後頭部が目に入った。飯島の大きな机の前に椅子を置いて腰掛けている。振り返ろうともしない。斎藤はといえば、うな垂れて、ティッシュを丸めて鼻の穴に押し込んでいる。何があったかすぐに分かった。飯島は自分の席に着くと、口を開いた。
「おいおい、斎藤副所長。言ってなかったか?佐久間さんは、俺の先輩だってことを。」
「ええ、大学の先輩だって、」
「大学だけじゃない。日本拳法部の先輩でもある。俺もそうだが、佐久間さんも大学選手権のチャンピョンだった。」
斎藤は、ティッシュの位置を右手で直しながら、言った。
「チャンピョンだかなんだか知りませんが、片足引きずった老いぼれなんか殴る気にはなりませんよ。我慢してあげたんです。」
野太い声が響いた。かつて、佐久間が総務部長だった頃の自信に満ちた声だ。
「俺を、ここまで、猫の首根っこをつかむように連れてきた。さすがに、俺も切れたよ。」
飯島は、にやりととして言った。
「佐久間さん、ようやく昔の佐久間さんが蘇りましたね。以前のように率直に話しあおうじゃありませんか。」
佐久間は飯島の言葉を無視するように煙草に火を点けた。飯島は抽斗を開け、石倉から預かった書類から、斉藤の辞令を抜き取り、斎藤に手渡した。そして外に出るよう指示した。斎藤は歩きながら辞令に見入っている。そして大きな背中をわなわなと震わせた。
斎藤が振り返り、今にも泣き出しそうな顔で、懇願するような視線を飯島に向けた。飯島は、それには応えず、もう一度人差し指で外を指し示した。斎藤はうな垂れて、外に出ていった。
飯島と佐久間は互いに睨らみ合った。飯島は開口一番聞いた。
「一体、あの写真の女は誰なんです。」
「あれは、南の女房だ。俺の一物にむしゃぶりついてきやがった。」
「どうかな、どの写真を見ても意識なんてないみたいだった。睡眠薬でも飲ましたんでしょう。」
佐久間は、舌なめずりして、腰を前後に動かしながら答えた。
「南の女だと思うと興奮したよ。確かに薬は飲ませたが、女は俺の腰に動きを合わせてひーひー喜んでいた。」
どうやら、佐久間は、精神的にまともではない。飯島は核心に触れた。
「何故、私の女房まで襲ったんです。」
佐久間の顔がしだいに崩れていった。涙顔とも怒り顔ともとれる。立ちあがると、怒鳴り始めた。
「当たり前だろう、自分のやったことを考えてみろ。俺の女房と寝ておきながら、後輩面下げて、俺に擦り寄ってきやがって。先月だって家に来るように誘った。でも、お前はとうとう来なかった。愛子は、本当はお前の子なんだろう。そうじゃ、ないのか。」
佐久間は過去をさ迷っている。飯島は自分自身の怒りを押さえ込んだ。まともに喧嘩する相手ではない。少しだけ嘘を言うことにした。
「いいかい、佐久間さん。俺には種がないんだ。それは、ずっと前からわかっていたことだ。」
佐久間が絶叫した。
「嘘言うんじゃない。」
佐久間の叫び声に驚いて、斎藤が入り口のドアから顔を覗かせた。飯島は手先を前後に振って、出て行くよう指示した。
「佐久間さん、聞いてくれ。襲われた時、和子は妊娠してた。」
「それみたことか、お前は、たった今、自分で言ったことも忘れたのか。お前には種がなかったんじゃないのか。語るに落ちたな、飯島。は、は、は、は、」
満足そうに高笑いだ。いつまでも笑っている。飯島はじっと待った。急に黙った。じろりと飯島を睨みすえ、怒鳴った。
「やっぱり、愛子は貴様の子供なんだろう。えっ、そうじゃないのか?」
「違う。愛子ちゃんは佐久間さん、あんたの子供だ。いいか、和子を妊娠させたのは俺じゃない。和子が勤めていた弁護士事務所の先生だ。あの日、和子が襲われた日に分かったことだ。今では離婚して飯島和子ではなく石原和子になっている。」
佐久間が笑い出した。狂ったように笑い転げた。
「ざまみろ、分かったか、これがお前に対する神様の罰なんだ。そうそう章子とお前の企みも、事前に神様が教えてくれたんだ。あの時、ばれていなければ、二人で俺が死ぬのを楽しみに待っていれば良かった。残念だったな。」
「おい、佐久間さん、何を言っているんだ。俺が何を企んだって言うんだ。」
相手が狂っていることを忘れ、飯島はまともに反応してしまった。佐久間は満足そうに笑みを浮かべ、飯島を睨み付けながら言い放った。
「章子とお前の悪巧みだ。その罰が当たったんだ。俺が死ねば入ってくると思っていた金を、お前は手にすることなど出来ない。そんな汚いことを考える奴だから、女房に裏切られ、捨てられた。和子さんは、お前の本質を見抜いていたんだ。ざま見ろ。」
佐久間の言葉を無視して飯島が叫んだ。
「佐久間さん、何度でも言うが、愛子ちゃんは俺の子供でもないし、あんた等の離婚前に章子さんとは会ったことさえない。いいか、俺はあんたの後輩なんだぜ、裏切るわけがない。」
一瞬、佐久間の動きが止まった。飯島を凝視している。飯島はこの期を逃さなかった。
「佐久間さん、和子は妊娠していた。もし襲われていたら、子供は流産していただろう。その子供は俺の子供じゃない。だけど、和子が生まれて始めて神様から授かった大切な子供なんだ。いいか、和子はもう俺の女房じゃない。二度と手を出すな。今度、何かあったら、本当にあんたを殺すぞ、分かったか。」
佐久間は尚も飯島を凝視している。そして、ふっとため息をつくと、踵を返しドアに向かった。飯島が叫んだ。
「おい、分かったのか。和子はもう俺の女房じゃない。二度と手をだすな。やるなら、俺をやれ。おい、分かったのか。」
佐久間は立ち止まり、振り向こうともせず言葉を発した。
「ああ、そうするよ、我後輩、飯島よ。びくびくしながら生きろ。小包だって何が入っているか分からん。最近はやりの小包爆弾ってこともある。兎に角、用心することだ。」
飯島は、足を引きずる佐久間の後姿を見つめた。そして心の中で罵声を浴びせた。「狂人野郎。貴様などにやられてたまるか。」と。
佐久間が部屋を出ると同時に、斎藤が恐る恐る顔を覗かせた。飯島は、斎藤の相手をするほど心の余裕はなかった。
「斎藤さん、そのことは、いずれ相談にのるよ。でも、今日のところは勘弁してくれ。」
斎藤の情けなそうな顔が、ゆっくりとドアの後ろに隠れた。
飯島は、佐久間が和子襲撃に関わっていたことがショックだった。もしかしたらと思って、かまを掛けたてみたのだが、佐久間はあっさりとそれを認めた。一体何がどうなっているのか。
最初に二人で飲んだ時、佐久間は昔と変わらぬ友誼を示してくれた。最後には手を握らんばかりに、愛子ちゃんのことを「後を頼んだよ。」と言っていたではないか。それが、どう転んであんな態度に変わってしまったのか。
飯島が何かを企んでいたと言っていたが、察するところ、章子が佐久間に高額な保険でも掛けたとか、その類の話であろう。それを飯島の企みと勘違いした可能性はある。女房が旦那の死期を悟れば、保険の掛け金を増やすことぐらい十分考えられるからだ。
いずれにせよ、和子を襲ったと認めたのだから、放置するのは危険すぎる。警察に通報するしかないのかもしれない。飯島は受話器を取り、病院で会った刑事に電話を入れた。
第八章
石倉は、今起こりつつある事態が何を意味するのか、また、それにどう対処したら良いのか分からず、ただ呆然と常務室前で佇んでいた。頭の中は、混乱した思考が目まぐるしく動き回り、まるで冷静になろうとする石倉をからかっているかのようだ。
胸の奥から湧きあがる不安が、細かく振動しながら喉にまでせり上がってくる。唾をごくりと飲み込むと、多少とも落ち着きを取り戻したような気持ちになり、ゆっくりと歩き出したが、胸の震えまだはおさまってはいなかった。
今朝、南常務から飯島に会いたいと内線で連絡があった。すぐさま、飯島を電話口に呼び出し、至急本社に来るように指示した。しかし、飯島の返事は意外だった。坂本の葬式に行くので、無理だと言う。石倉はいつもの調子で飯島を怒鳴りつけた。当然、前言を翻すと思ったからだ。
しかし、その後の反応も予想外だった。飯島は平然と言ってのけたのだ。「首にするなら、早くすればいいだろう」と。そして最後には石倉に対し「いつかぶん殴ってやるよ。首を洗って待っていろよ、このゲス野郎。」と凄んだのだ。
石倉は、すぐさま南に内線を入れた。南が烈火のごとく怒るだろうと踏んで、ごく冷静にありのままを伝えた。石倉は返事を待った。頬が少し緩んだ。いよいよ飯島の最後だと思い、息を飲んだ。しかし南の反応も予想に反した。
「そうか、ふーむ。それじゃ、飯島が、名古屋からもどったら、直接連絡をくれるよう伝えてくれ。」
電話はそれで切れた。石倉は、狐につままれたような気分で受話器を置いた。しばらくして気を取り直し、急いで飯島に連絡を入れた。しかし、既に飯島は名古屋に立った後だったのだ。
石倉は、小一時間ほどしてから、つまらぬ用事にかこつけ南の部屋を訪ねた。どうしても真相を確かめたかったのだ。いつもなら、応接に座るように誘われ、今後の戦略を一緒に練ったりするのだが、南は用件だけを聞いて、何の誘いも掛けない。
石倉は、言葉に詰まり、南をただ見つめていた。南は押し黙り、石倉に話掛ける素振りもみせない。南は深くため息をつき、いつまでも佇む石倉に冷たい視線を浴びせ、出て行くよう顎で示した。石倉は踵を返すしかなかったのである。
その頃、飯島は斎藤と新幹線で名古屋に向かっていた。飯島は一人で行くつもりだったのだが、斎藤は二人分のチケットを用意していた。斎藤にしてみれば、あれこれ飯島から情報を探り出し、今後の対策を練りたいのだろう。
日経新聞を広げ、ちらちらと飯島を盗み見している。しかし、飯島は昨夜の電話のことを考えるためにじっと目を閉じ、話のきっかけを探る斎藤を無視していた。あれでよかったのか、自分が吐いてしまった言葉に、深い悔恨の情を抱いた。
昨夜はいつものように、ウイスキーをがぶ飲みし、ふらふらになりながらベッドに潜り込んだ。吐きそうになるのを、必死で堪えながら、酔いが睡魔に変わるのを待った。少し眠りかけた時、けたたましく電話のベルが鳴り響いた。
和子かもしれないと思った。何故そう思ったのか、自分でも不思議だった。きっぱりと諦めて別れたはずなのだから。飯島は、胸の高鳴りに我ながら舌打ちし、いそいそと起き上がり、受話器をとった。
「もしもし、飯島です。」
「もしもし、私、章子。」
飯島は、落胆とともに押し黙った。かなり動揺している。和子が襲われて以来、章子には連絡していなかったのだ。沈黙に耐えかねたように、章子が重い口を開いた。
「どうしたの、なに黙っているの。」
飯島は章子の声が震えているのに気付いた。
「どうした。声が震えているぞ。」
「だって、携帯に電話しても出ないし。しかたなくあなたの家に電話することにしたの。奥さんが出たらどうしようと思って。今、大丈夫なの?」
声の震えから、章子が飯島の離婚を聞きつけ電話してきたわけではないことは分かった。しかし、そのことはいずれ章子も知ることになるだろう。そう思うと、気持ちが暗くなる。飯島はまた押し黙った。
「ねえ、何故黙っているの。」
「いや、別に、何でもない。」
「ずっと連絡もくれないんだもの。」
飯島は何をどう話したらいいのか分からず言葉を探した。章子がもう一度聞いた。
「ねえ、何か言って、いったい何があったの。」
「いや、本当に何もない。ただ、気が滅入っているだけだ。」
またしても静寂が二人を包んだ。そして唐突に、章子がきっぱりと言った。
「分かったわ。何もなかった。そういうことね、そうなんでしょ?」
飯島は、離婚のことを、今、章子に言う気になれなかった。章子のイメージは佐久間の暗い影と重なる。まして関係を続ければ更に佐久間を刺激することになる。和子のことを思うと、それは避けたかった。
それに章子の影にちらつく佐久間への嫌悪感が、気持ちを萎えさせていた。章子の上ずった声が響いた。その声には、恥じらい、愛執、期待、打算、全てが含まれていた。
「でも、聞いて。私どうしたらいいの。あれが、ないの。ずっとよ。」
「あれって、なんだ。」
「あれはあれよ。女の月のものよ。」
飯島の脳細胞を満たしている血液が一瞬にして沸騰した。離婚の原因は、章子との浮気だった。そして、今、章子は平気で嘘を言っている。飯島が切れた。
「ふざけるな、嘘を言うのもたいがいにしろ。俺には種が無いんだ。病院で検査してもらった。俺には種がない。」
怒鳴り声が尋常ではない。急激な感情の高まりに飯島自身が驚いた。一瞬、逡巡する自分を意識した。頭を冷やそうか、それとも激情に自らを委ねるか?ふと、若かりし頃の苦い思いが脳裏を過った。次ぎの瞬間、怒りは爆発していた。
「お前は、またしても俺を騙そうというのか。あの時だって、お前は、俺と佐久間さんと二股をかけていた。章子、いい加減にしろよ。お前が全部ぶち壊した。お前が俺から全てを奪ったんだ。」
唐突に電話が切れた。ツーツーという音だけが耳に残った。
ウイスキーの瓶を引き寄せ、蓋を開けると、直接口にあてがった。瓶を逆さまにしたが、僅かな滴りが舌先を濡らしただけだ。飯島は、その瓶をテレビに投げつけた。ボンとくぐもった音が耳に残った。何もかも、どうでもよかった。
冷静になるに従い、飯島は章子を傷つけてしまったことを、後悔していた。考えてみれば、章子を誘ったのは飯島なのだから。章子とのセックスを散々堪能しておきながら、それが原因で家庭崩壊を招いたなどという理不尽な感情を爆発させたのだ。酔っていたとはいえ、その理不尽さは常軌を逸していた。
しかし、章子の妊娠したという嘘を考えると、自分の態度は当然だったような気もする。まして、嘘でないとするなら、章子は飯島以外の男とも関係を結んでいることになる。飯島の酔って充血した瞼には、かつて第一営業部の誰もが憧れた章子の面影が浮かんでいた。溌剌として輝いていた。そんな章子のイメージが色褪せて歪んでいった。
酔いが体全体を包んで行く。睡魔が襲ってくる。「寝るほど楽はなかりけり。」死んだお袋の口癖が聞こえてきた。そうだ、夢でも見よう。楽しい夢を。
斎藤に体を揺り起こされた。どうやら、目を閉じて考え事をしているうちに寝入ってしまったらしい。斎藤が飯島の顔を真正面から見つめていた。我慢出来なくなったのだ。斎藤の口がぱくぱくと開閉していた。言葉として耳に届くまで時間がかかった。
「所長、そんなに冷たくしないで下さい。僕は必死なんです。子供もまだ大学生で金はかかるし、今、首になったら、坂本みたいに首を吊るしかありません。それを分かっているくせに、所長はだんまりを決め込んでいる。私に死ねって言うんですか。」
何もかも面倒くさかった。斉藤になどかまってなどいられなかった。
「何も死ねなんて言ってない。そんなこと言うけど、君は竹内元所長と組んで多くの仲間を路頭に迷わせた。皆を精神的に追い込んだ。俺のやってることと同じことじゃないか。」
「でも、私に何が出来たって言うんです。竹内に逆らえばどんな仕打ちを受けるか、飯島さんが一番良く知っているでしょう。私は竹内の言いなりになるしかなかった。」
「ああ、竹内さんの性格はよく知っている。あんな奴をあそこに送り込んだ新経営陣の思惑がどこにあったか誰でもすぐに分かる。」
「そうです、私も竹内さんに言われました。俺の言葉は絶対だ。逆らえばお前もあっち側に立つことになるって。協力するしかなかったんです。私だって相当の覚悟をしなければならなかった。」
「だからって、人を自殺するまで追い込むなんて人のすることではない。坂本さんだけじゃない。俺と同期の青木はセンターを辞めてから自殺した。リストラ犠牲者の葬式に出るのはこれで二度目だ。」
斎藤の顔が歪んだ。
「もう私を責めないで下さい。確かに飯島さんは格好良いし、実力もあるし、誰からも尊敬されている。そんな飯島さんと違って私なんて才能も何も無いただのデブだ。だから人にすがって生きるしかない。それ以外、私に一体どんな生き方があるって言うんです。」
自分より8歳も年上の男が、よいしょしながら、涙顔で訴えている。無理矢理搾り出した涙が頬を伝った。並の根性ではない。飯島は呆れるというより、斎藤の生き様そのものにうろたえた。
「分かった、もう何も言うなよ、斎藤さん、あんたの涙なんて見たくない。もう分かったから泣くなって。頼むよ。」
「飯島さん、何とかなりませんか。今、職を失ったら、私はお終いだ。どうしたらいいか、本当に分からないんです。くっくっくっく。」
「ああ、分かった。何とかする。とにかく泣くなって。」
飯島は斎藤の女々しさ遮るために話題を変えた。
「まったく、社長が会長に退いてから、全ての歯車が狂い出した。遅くれてきたリストラだから、その分過激で性急だった。古参の管理職を地獄に突き落としたんだ。」
涙顔の斎藤を一瞥して続けた。
「もう一年、もう一年、会長にやらせていれば何とかなった。それを肝っ玉の小さな銀行屋が潰した。曙光は見えていた。市場の手応えもあったんだ。」
飯島は唇を噛んだ。そして、もう終わったかと思い、横をちらりと窺うと、斎藤は尚も嘘泣きを続けていた。思わず、ため息が出た。
葬式は自宅で行われていた。人々が門前のテントで記帳していた。「㈱ニシノコーポレーションの方はお断りしています」という立て札が、喪主の強い意思を表していた。喪主である坂本の女房は、葬儀を取りし切ろうとした会社の申し出を断わり、その出席さえ拒否したのだ。
飯島は社名無しの香典を受付に出し、焼香の列に並んだ。少し前に知った男がいた。飯島の後任で名古屋支店の営業部長になった石川である。立て札に逆らって来ているところは、やはり飯島が後任に押しただけの根性を持っている。
「おい、石川。」
石川は振り返ると、ほっとしたように顔をほころばせ、列を離れ飯島の隣に来た。そして脇に佇む斎藤を見て言葉を掛けた。
「おやおや、斎藤さんも一緒ですか、これは、これは。」
斎藤は石川をちらりと見て、そっぽお向いた。飯島が言った。
「やはり、奥さんは怒っているわけだ。」
「当たり前ですって、誰だって頭にきますよ。まして、遺書があったようです。会社のことも書いてあったんでしょう。」
「そうだろうな、坂本さんくらい会社思いの人もいなかった。その坂本さんをあな酷い目に合わせたんだから。全く、うちの新経営陣は、アメリカ直輸入のリストラを会社再建の唯一の手段だと思いこんでいやがる。他のやり方なんて眼中にないんだ。まず、高すぎる役員報酬を減らせって言いたいよ。」
「全くその通りです。それに役員の数も多過ぎる。半分でいいですよ。銀行員がぞろぞろだ。名古屋支店の業績悪化だって、坂本さんの責任じゃありませんよ。」
「そう言えば、今度、南常務の子飼いが名古屋の支店長になっただろう、どうしようも無い。お前も覚悟しておいた方がいい。」
「ええ、分かってます。今回の支店長人事で全て分かりました。南常務の日本産業大の学閥じゃあないですか。もうアホらしくって。それから、もし、今後、私が転職したとしてもご理解下さい。飯島さんのご恩には本当に感謝していますから。」
頭を垂れる石川に飯島は何度も頷いた。会社は、ほんの4~5年前まで、右肩上がりで業績を伸ばしてきた。皆、会社や社長を信じて仕事に邁進してきたのだ。その社長が退いた途端に、全ての歯車が狂い出した。会社を心から信じてきた男が、また一人、会社を見限ろうとしている。
その日の午後、斎藤を一足先に帰し、飯島は名古屋支店で懐かしい時間を過ごした。かつて過ごした4年の月日が目まぐるしく蘇った。本社とは違う文化が育っていた。育てたのは坂本である。自由な雰囲気の中で本音が交錯する。
誰も知らないと思っていたのだが、飯島の失脚の原因を本社人事部との軋轢だと指摘する者までいる。情報は網の目を潜り抜け、何処までも浸透してゆくものなのだ。隠し通せると思っているのは、権力を絶対視する愚か者の勘違いに過ぎない。
その日の夕刻、飯島は、ようやく戻った支店長に形だけの挨拶を済ませ、支店裏の駐車場に向かった。飯島を駅まで送るために、石川の部下が車で待っているはずである。駐車場に入ってゆくと、飯島をブルーのライトバンが追い越していった。
車は、手際よく白枠の内側に止められた。そして、見覚えのある男が車から降りたった。てかてかのポマード頭、顔も油でも塗っているように光っている。小柄なその男は、にやにやしながら、飯島を見ている。竹内である。
飯島は、何故、竹内がここに来たのか不思議に思い、手をあげながら近寄った。先に声を掛けたのは竹内である。
「元気そうじゃないか。今日は坂本の葬式か。」
「ええ、坂本さんにはお世話になりましたから。」
と言った途端、顔が強張ってゆくのが分かった。飯島のその変化に気付いたのか竹内は苦笑い浮かべている。
「おいおい、そんな怖い顔するなよ。なにも、俺があいつを殺したわけじゃない。俺は会社の方針にただ忠実だっただけだ。嫌な役目だったけど、生きて行くために割り切った。会社が存続してゆくためには憎まれ役が必要なこともある。」
「それはそうでしょう。でも、竹内さんにはぴったりの役目だったじゃないですか。」
「そう、嫌味を言うなよ。しかし、あいつも思いきったことをしたもんだ。会社で自殺するとはな。」
「会社への抗議だったのでしょう。それに保険金ですよ。自宅のローンも、死んだ後の家族の生活費も、坂本さんが死ぬことによってすべて解決した。そのために自殺したんです。」
「へー、偉いもんだな。ところで、噂じゃあ、お前も女房に逃げられたって?」
「さすがに地獄耳ですね。ってことは離婚の原因も知っているんでしょう。」
「ああ、女房を寝取られたって聞いたよ。それじゃ、俺の方がましだな。うちの奴は酒乱の俺に愛想をつかして逃げちまった。でも、あんな仕事させられたら、誰だって酒乱になっちゃうよ。そうだろう。」
「ええ、全くそのとおりですよ。」
「それにしても、似たような人生歩んでいるな。」
と言って、からからと笑った。飯島は、お前と一緒にされてたまるかと思ったが、それを否定出来ない自分が悲しかった。竹内はひとしきり笑うと話題を変えた。
「そうそう、俺、こんどこういう会社をやってるんだ。何か縁があったら、宜しくたのむよ。」
竹内は、名刺を差し出し、
「お前も俺の後任で大変らしいけど、まあ、頑張れよ。じゃあ、元気でな。」
と言って、裏口から支店の中に消えて行った。
しばらくして車が飯島の横に止まり、ドアが開けられた。飯島が乗り込むと、支店の主、万年係長の臼井がにやにやしながら声を掛けてきた。
「新旧の資材物流センター長が鉢合わせとは、驚きましたね。」
「ああ、全くだ。だけど、首になった竹内が何しに来たんだ。本来であれば出入り禁止のはずだ。」
「ええ、そうですよ。普通だったら顔なんて出せないし、出来高払いのリベートだって払いはしませんよ。」
「えっ、あいつにリベートを払っているのか。つまり談合に出て仕事を取ってくれば受注高の何パーセントを支払うっていうやつか。」
驚きの声をあげる飯島に、臼井は焦らすような素振りで、タバコに火を付けた。飯島が臼井の脇の下を人差し指で突くと、体を捩じらせ、笑いながら答えた。
「それだけじゃ、ありませんって。うちの親戚の臼井建設を通して竹内に給料を払っているんです。何か変じゃありません。」
臼井の遠い親戚が経営する臼井建設は地場のゼネコンでニシノコーポレーションの下請である。名古屋支店の協力会社の順位でも上位に位置する。臼井がリストラを免れたのはこのコネクションのおかげなのだが、そこを通して給与が竹内に支払われているという。飯島が呟いた。
「そんな重大案件は支店長の権限外だな。ということは、南常務の指示ってことか。そう言えば、さっき誰かが、南常務がしょっちゅう名古屋に来てるって言っていた。」
「ええ、月に3回は来ていますよ。それに、あの今井支店長は南の指示なしには何も出来ない人ですから、臼井建設の件は南常務も知ってるってことですよ。」
「どうも怪しいな。社長は知っているのかね。」
「さあ、どうなんですかね。いずれにせよ、西野ボンボン社長は営業に関して南にお任せですからね。ところで、石川とも言ってたんですけど、どうも陰謀臭くありません。飯島さんが、本社人事部の意向を拒否して、生え抜きの渡辺を支店部長に抜擢した。その直後、飯島さんが左遷された。そして、竹内はセンターを去り、破格の待遇だ。」
「ちょっと待てよ、竹内はただ去った訳じゃなくて、女性問題で失脚したんだ。俺を陥れるための布石っていう訳じゃない。俺の左遷と竹内の優遇とを関連付けるのは考え過ぎじゃないか?」
「まあ、その通りです。それがどうも分からないんですよ。竹内の失脚ではなく、名古屋支店長栄転でもよかったはずですからねえ。」
飯島は考え込んでしまった。人事部に逆らったからといって、わざわざ、そんな面倒な陰謀をめぐらせるだろうか。ややあって、臼井が言った。
「飯島さん。とにかく、今度、南が来たときには、アフターファイブを探ってみますよ。何かあるはずです。南が竹内と何か後暗いことやっているかもしれません。」
飯島は、臼井の秘密めいたウィンクに、思わず失笑してしまったが、
「とにかく、俺はこの会社を辞めるつもりだ。臼井さん、会長に直訴しろと言いたいのだろうけど、そんなこと期待しないでくれよ。」
と言って、サイドブレーキを下げ、車を出すよう促した。臼井はクラッチを入れながら尚も食い下がった。
「そんなこと言わないで下さいよ。社長は、と言うより会長は、今でも飯島さんを信頼していますって。南が飯島さんを陥れたのだって、それが原因ですよ。会長が返り咲いた時、いの一番に頼りにするのは飯島さんしかいませんから。」
飯島は、それには答えず、黙ったまま、所々明かり灯り始めた街並みを見つめた。既に、この会社に対する執着は一切なかったのである。
第九章
朝礼が終わり営業部員達は、お年賀を詰め込んだ紙袋を両手にさげ、足早に部屋を出てゆく。新年の挨拶廻りは毎年の恒例行事だが、考えてみれば二週間前、カレンダーと手帳を配りながら年末の挨拶を終えたばかりなのである。
新人が酒の席で、この無意味な出費と労力を批判していたが、こうして1歩退いて眺めてみると、確かにその通りだと思える。とはいえ、飯島も、一年前までは、先頭を切って新年の得意先廻りをしていた。今は昔としか思えない。
飯島は、ざわめきと共に始まる朝の営業部の様子をぼんやりと眺めていた。その中に章子に良く似た女性を見出し、視線を止めた。同期入社か、或いは後輩なのか、一人の男を君付けにして、小言を言っている。
その男は、にやにやしながら、頭を掻いているだけで、反省の色は見えない。新入社員のようだ。頭の髪の毛がそそり立っている。あれが流行らしい。女性はため息をつくと、いかにも匙を投げるといった調子で、持っていたペンを机に放り投げた。
飯島は昔の章子を見ているような気がして、懐かしさがこみ上げて来た。章子も肩肘張って生きていた。いや、確かに実力もあったのだ。だから能力のない同輩や後輩には容赦しなかったし、それで、何人もの男達を敵に回した。
しかし男に伍して生きてゆくことに疲れ、章子は結婚に逃れた。しかし、その結婚にも破れた。この女性はいったいどうのように生きて行くのだろう。飯島は心の中で彼女にエールを送った。かつての章子にしたように。
飯島の古巣である第一営業部は、すっかり代替わりして、知った顔は課長の淺川くらいである。淺川の後ろに控える奥園部長は、南が大阪から呼んだ人間で、何度か会議で見かけたことはあるが、話したことはない。
目をきょろきょろさせ、飯島の視線を避けているのは見え見えである。落ち着き無く机の抽斗の中を掻き回している。淺川は、飯島が第一営業部の係長時代、新人として配属され、何かと面倒を見てきた部下の一人である。飯島と立ち話するだけでも憚れる雰囲気の中、通路を通りかかった飯島に淺川が声を掛けてきたのである。話があると言う。
以前、エレベーターで鉢合わせした時には、人の後ろに隠れて、飯島の視線を避けていた。その淺川が、今日は別人のように振舞っている。何か事態が変わったのだろうか。淺川は、飯島を接客テーブルに座らせ、自分は給湯室へ消えたのだが、その淺川がコーヒーの入った紙コップを両手に持って、にこにこしながら近付いて来る。
「しばらくご尊顔を拝していませんでしたが、お元気そうじゃないですか。」
「ああ、ヤケ酒を、がぶ飲みしてるけど、今のところ体に異常はない。」
と笑いながら答えた。淺川が急に声をひそめて言った。
「名古屋支店の石川から転職の話、どこまで聞きました?」
「ああ、匂わすような言い方だったが、もう決まっているんだろう。」
「ええ、㈱ヨシダ建設です。土産にごっそり顧客を持って行くみたいですよ。あいつは飯島さんも理解してくれたと言ってました。なんせ、あいつの引き継いだお客は飯島さんの開拓した先ですからね。」
「全部が全部って訳じゃない。でも、力のあるディべロパーや不動産会社が多いのは確かだ。育ててもらった会社に弓引くことにはなるが、しょうがないよ。みんな生活がかかってるんだから。」
「実は、私も転職します。私も飯島さんから引き継いだお客さん、競争相手に持って行くことになると思います。申し訳ありません。」
「なんだ、お前もかよ、全くしょうがねえな。ところで、お前さんは、いったいどに行くんだ。」
「実は、石川と一緒です。あいつは名古屋本社、私は東京支社です。」
「えっ、お前も㈱ヨシダ建設かよ、ひでえ話だな。まあ、俺も辞めるつもりだから、どうでもいいけど。」
「しかし、全く、頭にきますよ。奥園部長も日経産業大ですよ。南常務は完璧に学閥を狙ってますよ。ふざけんじゃねえって言うの。東大、京大の学閥やっている奴等に聞かれたら、笑われちゃうって、日経産業大の学閥なんて。」
飯島は思わず吹き出した。淺川が続けた。
「ところで、石川から聞きましたよ。飯島さんが臼井さんに、南と竹内の周辺を探るように指示したって。ぜひ、私にも協力させて下さい。あいつら、名古屋で絶対に後ろめたいことやってますよ。何かわくわくしますね、こういう話は。」
「おいおい、冗談は止してくれよ。俺は会社を辞めるつもりだ。もうそんな余裕はない。全く、臼井の爺さんは余計なことを言いまわって、俺を担ぎ出そうという魂胆らしいが、俺はその手には乗らないよ。」
「えっ、やる気ないんですか、臼井さんの話、あれって嘘なんですか。そんなこと言わないで、どうせ辞めるなら、やりましょうよ。後に残る皆のためなんですから。ねえ、飯島さん。」
飯島は立ちあがりながら言った。
「おい、淺川。やるなら自分達でやれ。俺はもうごたごたはたくさんだ。静かにこの会社を去りたい。遣り残した仕事を片付けてから、辞表を出す。じゃあな。」
飯島は、歩き出した。淺川が尚も後ろから追い討ちをかけた。
「飯島さん、石倉が資材物流センターに行くって知っています?」
これには飯島も度肝を抜かれ思わず振り返った。
「おいおい、それは初耳だ。いったいどういうことだ。」
「私にも分かりません。とにかく、この会社、このところ変ですよ。あいつは、南の学閥のエリートじゃないですか。それが何でそうなるんです。」
飯島は少し考えてからこう答えた。
「さあ、よく分からんな。ただ、何かが起こりつつあることだけは確かだ。俺もその渦に巻き込まれている。」
「それって、どういう意味ですか。」
「まあ、いずれ機会があれば話すよ。それまで、俺にかまうな。とにかく、慎重にやれよ。転職のことがばれれば、どんな邪魔が入るか分からんからな。それじゃあな。」
こう言って、飯島は営業部を後にした。
常務室は社長室と同じ作りで、隣の専務室よりも豪華である。それは南が会長の娘婿だからこそ許されるのであろうが、親族経営もここまでくると、お笑い種である。その常務室のゆったいりとしたソファに、飯島はふかぶかと腰掛けた。
思えば人の運命ほど面白いものはない。70人近くいた同期も、今では十数名しか残っていない。その同期の中でも、南はどう贔屓目に見ても出世するタイプではなかった。頑張り屋だが、物事をあまり深く考えず、調子が良いだけのどこにでもいる男である。
それが、今、役員室にふんぞり返り、1000名近い社員を思うがままに動かし、意に添わぬ者を冷酷にリストラする立場にある。その結果、二人の男は死に追いやられた。飯島は苦い思いを噛み締めた。
靴音が響いた。ドアが開かれ、ことさら冷徹な印象を与えたいのか、南が眉間に皺を寄せ部屋に入ってきた。ソファに座ったまま立とうとしない飯島に一瞥を与えると、自分の机に向かった。どうやら、飯島と同じ目線で座りたくならしい。
どっかりと皮張りの椅子に座り、重厚な木製の机に両手をつき、幾分高くよく響く声を発した。
「飯島君は、とうとう辞める決心をした。そういうことですか。」、
南が、立ちあがろうとしない飯島に腹をたてているのは見え見えだった。思わず笑みを浮かべて答えた。
「お前に、心を見透かされるくらいならな、やっぱり、立ち上がって挨拶すべきだったか。ご慧眼、恐れいりますってところだ。」
「ああ、以前の飯島君であれば、直立不動で立ち上がり、ぺこぺこしたはずだ。」
「別にぺこぺこしていたわけじゃない。敬意を表して、お前の望む俺を演じていただけに過ぎん。いつだって、後ろを向いて舌を出してたんだが、それに気付かないとは、実にお前らしい。それに、立ち上がろうと思ったけど、ソファが深すぎてね。」
「それにもう一つ。私に対して優位に立てる材料を持っている。強気でいられるわけだ。」
「ああ、これのことだろう。」
そう言うと、飯島は胸のポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に放り投げた。南は封筒に一瞥を与えただけで動こうとしない。そして、深いため息をつくと口を開いた。
「そいつを交渉の材料としないところは、潔さが信条の飯島君らしいな。今日呼んだのは、それを持っているかどうか確認したかったからだ。まさか本当に持っていたとは。」
「佐久間が郵送してきたんだ。」
南は何度も頷きながら、
「佐久間は、お前が自分の仲間だと言い張った。その写真を撮ったのは飯島だから、ネガは飯島から受け取るように指示してきた。5000万円をせしめておいて、ネガを返さないなんて、ふざけた話だ。」
と言って舌打ちした。飯島が話を引き取った。
「ほう、5000万円も強請り取られたわけだ。そいつはお気の毒だったな。ところで、俺の元女房も佐久間に襲われた。と言っても、奴が直接手を下したわけではない。奴の配下の者だ。そのネガと写真はその直前に送られて来た。」
「ああ、その事件のことは聞いている。佐久間の仕業にちがいない。」
「幸い未遂に終わったが、俺は、佐久間にそのことを問い詰めた。そしたら、奴は、あっさり犯行に関与していたことを認めた。襲った奴は女房に言わせれば、ヤクザっぽい奴だ。その写真を撮ったのも、そのヤクザだと思う。」
「そうかもしれん。」
「警察も佐久間を重要参考人として探している。もっとも会社に届けていた住所はもぬけの殻だった。完全に姿を消した。ところで、お前、佐久間の居所を知っているんじゃないのか。すくなくとも、金を渡したってことは接触があったってことだろう。」
「いや、やり取りはすべて電話だった。それに金は振り込んだ。」
「ふーん。そう言えば、確か会長は元ヤクザの、うちの下請け会社の社長と友達だっただろう。その線で探させたんじゃないのか。」
「元ヤクザだが、今はれっきとした実業家だ。」
「分かった、分かった。そんなことより、俺の質問に答えろよ。」
「ああ、その人の手蔓で裏の世界の人間を動かして佐久間を探させた。それはやったよ。だが、見つからなかった。本当だ。見つけていれば、佐久間はどうなっているか分からん。」
この言葉を聞いて、飯島は佐久間の意図にようやく気付いた。
「佐久間は、会長が裏の世界に手蔓があるのを知っていた。つまり、俺が香織さん襲撃に関与していれば、会長が復讐のためにその手蔓を使って俺を襲わせると期待したのかもしれん。だから、俺がネガを持っていると言ったに違いない。」
南はにやりとして答えた。
「何故、佐久間はお前を陥れようとしている?佐久間に狙われる訳でもあるのか?」
飯島はそれには答えず、聞いた。
「会長は俺のことをどう思っている?俺が関与したと思っているのか?」
「お前でもヤクザは怖いのか。安心しろ、会長も、お前が佐久間の仲間だなんて思ってもいない。お前は、どんなに追いこまれてもそんな卑怯な真似はしないってことは、俺が一番良く知っている。会長にもそう言った。」
「別にヤクザが怖いわけじゃない。たとえ一瞬でも会長にそう思われるのが厭なだけだ。とにかく、もし、お前が、会長にそう言ってくれたのなら、感謝しなくてはな。」
「ああ、感謝しろよ。俺も、そこまでお前を追い詰める気はない。」
この言葉を聞いた途端、飯島の顔色が変わった。怒りを顕にして怒鳴った。
「何だと、そこまで追い詰める気はないだと。と言うことは、お前は俺をそれなりに追い詰める気でいたってわけだ。いったい、それは、どうしてなんだ。俺は、東京支店では確実に実績を上げてきた。それが今じゃ赤字転落じゃねえか。」
「自惚れるのもいい加減にしろ。それはお前が抜けたから、そうなった訳じゃない。時代が悪いんだ。だから、今、組織を大改造して対処している。今の時代、組織力学を最大限に発揮することが出来なければ、組織そのものの存続が危ぶまれる。」
これを聞いて、飯島は呆れ果て鼻でせせら笑った。
「面白い冗談だ。組織力学が聞いてあきれるぜ。イエスマンを回りにはべらせていだけなのに、そうな難しい言葉を引用することはないだろう。」
「なにー、貴様、俺を馬鹿にするのか。いつだってお前は俺を馬鹿にしていた。分かっているんだ。」
南が激昂して立ち上がった。飯島も負けてはいない。
「馬鹿にされて当たり前だろう。アメリカかぶれもいい加減にしろよ。日本人は昔から外来文化をうまくアレンジして取り入れた。お前のやったことは、そのまんまじゃねえか。頭が足りないから馬鹿にされる。当たり前のことだ。」
これを聞いて、南はわなわなと震えだした。いきなり拳を机に叩き付けた。そしてどっかりと椅子に腰を落とした。飯島は興奮を押さえながら言った。
「そう、興奮するな。お前も相変わらず短気だな。何のために年を重ねたんだ。少しは大人になれよ。それから、もう一度、確認するが、佐久間は、見つからなかったんだな。」
南は未だ興奮冷めやらず、頬をぴくぴくとさせ苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「ああ、警官が部屋を訪ねるずっと前から、例の奴等が佐久間の草加のアパートを張っていた。しかし、そこには、とうとう戻って来なかった。それは事実だ。」
「分かった。それから、俺は、佐久間が女房を襲撃したと認めたことは警察に通報したが、この写真のことは警察には何も言ってない。奥さんのプライバシーは尊重せんといかんと思ってな。それに会長が手先に使っているヤバイ線の奴らのことも警察には秘密にしておこう。そのほうが、いいだろう。」
「ああ、そうしてくれ。」
互いの落とし所は、若い頃からの経験で分かっていた。これ以上相手を怒らせれば、後は殴り合うしかない。飯島は立ち上がりドアに向かったが、ふと、斎藤のことを思い出し、振り返ると口を開いた。
「そうそう、副所長の斎藤のことなんだが、今月末で辞令交付だったが、俺も3月末で辞める。センターの運営に斎藤は必要だろう。だから斎藤は勘弁してやったらどうだ。」
「ああ、いいだろう。それから、石倉がそっちにゆくことになった。佐久間の指示だ。いずれ戻すつもりだから、しばらくそっちで面倒みてくれ。」
「なるほど、そういう訳だ。佐久間の指示ってことか。成る程ね。石倉もおもわぬ災難を蒙ったわけだ。ざまみろって言いたいよ。まあ、せいぜい苛めてやるよ。」
こう言い残し、飯島は常務室を後にした。
飯島が退出すると、応接の横のドアが開いた。背の高い白髪の老人と、人の良さそうな中年の男が入って来た。老人が口を開いた。
「あの様子だと、やはり飯島は香織襲撃には関わってはいないようだ。」
「ええ、それはないと思っていました。しかし、佐久間を早く見つけ出さないと何をするか分かりません。」
中年の男が口を挟んだ。どうやら、社長のようである。
「しかし、飯島を自分の仲間だと思わせて、佐久間に何の得があるんだろう。」
西野会長は、哀れむような視線を息子に向けて言った。
「飯島も言っていただろう。佐久間は、俺が向田のコネで裏の世界の奴らを使うと思ったんだ。もし、佐久間の言っていることが本当なら、俺は飯島を半殺しの目にあわせていた。しかし、何故、佐久間は飯島を恨んでいるんだろう?」
「さあ、分かりません。」
南がそう答えると、西野会長は深いため息をつき、イスに座り込んだ。そして呟くように言った。
「佐久間は狂っている。電話で話した時、そう感じた。狂人ほど怖いものはない。何としても佐久間を探し出さなければ、枕を高くして眠れない。」
「ええ、おっしゃる通りです。キチガイを野放しにはできません。」
「しかし、まさか香織を狙うとは思いもしなかった。南君、香織を大事にしてやってくれ。香織は傷ついている。今が大事な時だ。」
「ええ、分かっています。」
石倉が、センターに出勤してきたのは、それから一週間後のことである。リストラの影の責任者であることは、誰もが知っており、最初はおどおどとしていたが、次第に取り巻きが出来て、以前のふてぶてしい態度を取り戻していった。
飯島には取り巻き連中の気持ちがよく分かる。南も言っていたが、今回の石倉の処置は佐久間の要求を受け入れたもので、あくまでも一時的なものに過ぎない。南から斎藤副所長に連絡があったのだろう。斎藤が石倉にぺこぺこするのを見て、目端のきく人間は、南の意向を汲み取った。
皆、藁にもすがる思いで石倉に群がった。ここから抜け出せるチャンスをつかむためである。それを責めることなど誰も出来ない。生き残るためにプライドも連帯感も捨てる。そうして男は生きてきたのだ。
その連中の中に、佐々木の姿が見え隠れするようになった。佐々木が飯島家に再就職を懇願しにきたのは昨年の9月頃だった。それ以来優先的に2社ほど会社を紹介している。しかし、飯島にコネクションがあったにもかかわらず、佐々木は採用されなかった。
その佐々木は構内で行き会っても、飯島と視線を合わそうとはしない。考えてみれば、飯島が3月末に辞めることは既に知られており、彼の態度の変化も頷けなくはない。唯一の心の支えを失うことになるのだから、それを他に求めたに過ぎないのだ。
食堂で殊更大きな声で笑い合うグループに対し、憎しみの視線を向ける無言の中高年が取り巻くように座っていた。飯島が、遅く食堂に入って行くとそんな光景が目に飛びこんで来た。異様な雰囲気のなか、妙に興奮した石倉の笑い声が響いた。
飯島は、その注目のグループを避けて隅のテーブルに着いた。その途端、頭にちくりと痛みが走った。振り向くと佐藤室長が満面に笑みを浮かべ、
「白髪を一本抜いてやったよ。」
と言うと、お盆をテーブルに置き、飯島の隣に腰を下ろした。怪訝な表情で見詰める飯島を無視して、佐藤が言った。
「奴等にはプライドってものが無いらしい。自分を陥れた奴におべっかをつかうなんて。」
飯島は不思議な気持ちで佐藤の屈託の無い顔を見つめた。佐藤は、ここ数週間、視線さえ合わそうとしなかった。しかしその態度が急変していた。納得のいかない気持ちを持て余しながら、飯島が答えた。
「まあ、しょうがないでしょう。生きるためには何でもやる。そうやって、我々の祖先も生きてきたから、今我々が存在しているわけでしょう。」
「何を悟りきったような口をきいてるんだ。」
と言って、声を上げて笑った。不思議に思いながらも、飯島もつられて笑った。
その間も、石倉のねちねちとした視線は飯島に向けられている。石倉の唇が「女房」、そして「逃げられた」と動くのが見て取れた。その含み笑いに続いて、取り巻き達のところかまわぬ哄笑が響いた。明らかに女房に逃げられた飯島を嘲笑しているのだ。
飯島は、視線を佐々木に向けた。佐々木はちらりと飯島を見て、笑うのを止めると目を伏せた。佐藤は、飯島に向けられた揶揄の言葉など聞こえない振りをして、何か話し掛けてきた。しかし、飯島の耳にはその言葉は届かなかった。
飯島は、立ち上がると、ゆっくりと石倉のテーブルへと近付いていった。一瞬、皆の笑い声が止んだ。石倉はまだ笑みを浮かべている。数人の男達は緊張の面持ちで身構えた。飯島が石倉の前に立った。そして言葉をかけた。
「何を、にやついているんだ。」
石倉が、幾分緊張ぎみに、やや余裕を残して、
「別に、何でもございません、所長殿。」
と慇懃に答えた。飯島もまだ冷静だった。
「俺に喧嘩を売るつもりなら、相手になってもいいんだぞ。」
石倉は、内容はともかく、飯島の思いのほか物静かな物言いにすっかり緊張が解けたようだ。まだまだ人を見る目がない。
「所長、そんな青臭いことは言わないでくださいよ。喧嘩を売るとか買うとか、いい大人が使う言葉じゃありますまい。」
足が勝手に動いた。石倉の座る椅子を思いきり横に蹴り飛ばした。石倉は不意を突かれ、ドスンという音とともに尻から床に落ちた。顔を引きつらせている。飯島がドスのきいた声を響かせた。
「舐めるなよ、この野郎。手前みたいな屑野郎がこの会社を駄目にしたんだ。ろくに考えもせず、これといった企業努力もせず、闇雲にリストラに飛びつきやがって。欧米ではいざ知らず、この日本じゃリストラは最後の最後の手段なんだよ。えー、分かるか。聞いてるのか、この野郎。」
飯島は両手で倒れた石坂の襟首をつかみ、立ち上がらせた。襟首の拳に力を入れ引き寄せながら叫んだ。
「分かっているのか。そんな情けない経営者のお先棒を担ぎやがって、皆を裏切りやがって、このゲス野郎が。もう少し皆に済まなそうな顔をしてるのなら、まだ許せるが、いつだってにやついていやがった。」
石倉の顔は恐怖に引きつっている。ぶるぶる震えながらその目は赤く染まっていった。涙だ。飯島が怒鳴った。
「何震えていやがる、それでも応援団出身か。」
その時、飯島は肩をぽんと叩かれた。振り向くと、佐藤が顔を紅潮させ頷いている。そして言った。
「もう、そのへんでいいだろう。そいつだって犠牲者だ。」
飯島は急激に興奮が冷めてゆくのを感じた。佐藤の聖人君主然とした顔に違和感をおぼえたのだ。その顔を見つめながら、石倉の襟首から手を離し、犬でも追い払うように手先を振った。石倉は逃げるようにその場から立ち去った。そして、遠巻きに事態を見守っていた負け犬達の嘲笑と罵声がいつまでも続いた。
石倉は、組織という権力機構に守られてその強さを演じていたに過ぎない。飯島はその組織からはじき出され、孤独と絶望に打ちひしがれていた。まして狂気が生んだ事件に巻き込まれ、女房にも逃げられた。
自暴自棄が、剥き出しの粗暴さを露呈させたのだ。石倉は、飯島の心の深淵に潜む獣性を感じて、恐怖に襲われたのだ。石倉の涙を貯めた赤い目がそれを物語っていた。
第十章
石倉の死体が発見されたのは、センターの敷地内にある関東物流の事務所である。この事務所の入口はセンターのそれとは別で、その前は鬱蒼とした雑木林になっており、石倉の死亡推定時刻、午後8~9時は、闇に閉ざされた無人地帯となっていたはずである。
石倉はロープで首を吊って死んでいた。早々と出勤した女性事務員が不幸にも第一発見者となった。石倉は事務所に入るために、石で窓ガラスを割って内側の鍵を開けている。現場に遺書はなく、自ら蹴ったと思われる椅子が転がっていたと言う。
石倉の自宅は朝霞市内で、センターまで自家用車で通勤していた。その日、石倉は自宅に戻って夕食を済ませ、駅前のパチンコ屋に出かけた。それがセンターに異動してからの日課であったという。しかし、その日、石倉をパチンコ屋で目撃した者はいない。
警察は、自殺の原因を端からリストラと見ており、細君はこれに反発しているという。確かに、石倉には南の後ろ盾があり、異動が一時的な処置であることを本人も女房も知っていたはずで、自殺のケースは考えられない。
しかしながら、他殺の証拠があがらない限り、警察としては自殺と判断せざるを得ないようである。事務所には争った痕跡はなく、本人の指紋のついたワンカップが2個テーブルに置いてあった。石倉は、事務所に不法侵入し、寂しく酒を飲み、そして自殺した。そうとしか考えられない状況なのである。
一週間に及ぶ社内での聞き取り捜査でも収穫らしきものは一切なかったらしい。飯島は、前日の喧嘩のことを刑事にしつこく質問されたが、りっぱなアリバイがあった。その日は、駅前の焼き鳥屋で11時過ぎまで飲んだくれていた。証人には事欠かなかったのである。
飯島は、この事件に佐久間が関係していることを確信していた。石倉は自殺するような男ではない。佐久間に殺されたのだ。何故なら、南を脅迫し、石倉をセンターへ異動させたのは佐久間なのである。
しかし、そのことを刑事に話せば、脅迫のネタである写真が表に出てしまい、南との約束、つまり、奥さんのプライバシーを守るという約束を破ることになる。しかたなく、石倉の異動が一時的なものであると主張するに止まった。
さらに、飯島が和子襲撃事件に佐久間が関わっていることを話しても、刑事達は笑うばかりで、それ以上訊ねようともしない。飯島はジレンマに陥っていた。
しかたなく、飯島は、帰宅後、自宅から和子襲撃事件担当の花田刑事に電話することにした。昨年末、飯島は彼に佐久間の件を告げ、佐久間の周辺を調べて欲しいと訴えたのである。その時、花田は、大喜びでその情報に飛びついた。
しかし、何人かの中継を経て、ようやくたどり着いた花田の声は、いかにも迷惑そうな響きを帯びていた。
「もしもし、ああ、飯島さん。どうもしばらく。いったい、今度は何なの。」
そのぞんざいな口のきき方に、飯島はかちんときたが今は下手に出るしかない。
「どうも、その後、佐久間の件はどうなったかと思いまして。」
「飯島さん、佐久間は白だよ。ホテルにチェクインした二人の男は、佐久間とは似ても似つかない男だった。ホテルのフロントがそう証言している。奥さんを襲ったことを佐久間が認めたと言っていたけど、裏が取れない。例えば、売り言葉に買い言葉ってこともあるだろう。」
写真のことが脳裏を駆け巡った。言えば花田も納得するだろうが、南との約束もあり、まして奥さんのことを思うと気の毒な気がする。
「花田さん、今回の石倉の件ですけど、あれは自殺ではありませんよ。あの男が自殺するなんて考えられません。センターの誰もがそう答えたはずです。そうじゃありませんか。」
「ああ、誰もがそう言っていたようだ。でもね、自殺っていうのは心の病だ。前にも自殺した人がいたじゃないですか、確か坂本さんとか言いましたよね。心の病は誰にも分からない。」
「ええ、坂本さんは確かに自殺しました。あれは、間違い無く覚悟の自殺です。でも石倉の場合は自殺する理由なんて全くないですから。」
「それはどうかな。企画部長からセンターのリストラ要員に降格されたんでしょう。相当ショックだったんじゃないですか。」
「でも、石倉の場合、あくまでも一時的な異動で、元に戻る可能性が強かった。いや、間違い無く戻る予定だったんです。」
「ああ、あんたともう一人、石倉の細君もそう言っていたらしいが、いいですか、飯島さん。担当刑事が南常務にそのことを確かめているんです。南常務はそういう風評を一切否定している。つまり、戻すつもりはなかったと、本人がそう言ったそうです。」
「そんな馬鹿な、あいつは、」
と言ってから、言葉を濁した。南は脅迫の事実が表にでることを警戒しているのだ。花田が言った。
「この事件の担当刑事もあんたのことを、ちょっとナーバスだと言っていた。いいですか、殺されると思えば誰でも抵抗する。そして何処かにその痕跡が残るんだ。しかし、奴の体には擦過傷も圧迫痕も爪の間にも何も残されていない。きれいなもんだ。誰かに殺されたなんて可能性は全く無いんだ。」
三日前に飯島を尋問した稲葉刑事のちょび髭面を思い出した。飯島は稲葉に、同じことを主張したのだ。花田はさらに畳み掛けた。
「いいかい、飯島さん。確かに奥さんの襲撃事件と石倉の自殺は、時期的にもまた人的関係が近いってことも確かに言える。あんたは両方とも佐久間がやったと言う。でも、今回の事件でも、佐久間にはアリバイがある。」
これを聞いて、飯島は押し黙った。花田は哀れむような声で言った。
「それに、石原さんは弁護士だ。怪しい会社の顧問弁護士も引き受けていた。だからヤクザと全く関係ないわけじゃない。奥さんの事件は、その線の可能性の方が濃い。」
「だけど、石原さんは良心的な弁護士だと聞いている。」
「ああ、確かに石原さんは堅物だ。でも、親父さんは、そうでもなかった。かなりのやり手で、怪しい会社とトラブルを起こしている。あんたの元奥さんもそれを認めているんだ。」
こう言うと、溜息をついて続けた。
「しかし奥さんが、ショックで犯人の顔を全く思い出せないのは、返す返すも残念だ。ヤクザっぽい顔って言われても、それだけじゃ如何ともしがたい。」
飯島はまたしても押し黙るしかなかった。写真のことが表に出せないのでは、何を言っても説得力に欠ける。ややあって聞いた。
「さっき、佐久間にはアリバイがあるって言っていましたけど、佐久間さんの居所を掴んでるんですか。」
「ああ、ようやく掴めた。佐久間は入院していた。立川市立病院だ。その日、つまり石倉が自殺した日、佐久間は膝の手術を受けている。今、姉さんが面倒を見ているがね。」
飯島は、それでも食い下がった。
「でも、誰かに命令することは出来たはずだ。和子を襲ったヤクザっぽい奴に命令すれば何とでもなる。」
「飯島さんよ。それは考えすぎだって。ヤクザは金が絡まなければ動かない。そう言う連中なんだ。だから無一文の佐久間がそんなこと出来るわけがない。」
飯島は「それは違う」と心の中で叫んだ。佐久間は5000万円という大金を手中に収めた。それだけのお金があれば、ヤクザに殺しを依頼することは可能だ。しかし、それを言えば南との約束を破ることになる。飯島は、花田に対し、とうとう金のことも写真のことも言い出せず、電話を切るしかなかったのである。
飯島は考え込んだ。確かに佐久間は総務部長という仕事柄、裏街道の男達と交渉を持っていた。そんな男達の一人をスカウトし、復讐のために先ず南の女房を、次に和子も襲わせた。これは確かな推理である。
南の女房、飯島の妻、和子、そして石倉、三者とも佐久間の復讐の対象となりうる。佐久間が復讐を遂げようとしているのは確かであり、その最終的な狙いは飯島である。何故なら、飯島は長年章子と関係を持ち続け、佐久間に多額の保険金を掛けて、その死を待っていたのだから。
飯島には身に覚えのないことだが、佐久間がそう信じているのだからどうしようもない。相手は狂人なのだ。
ふと、背筋に冷やりとするものを感じ、ぶるっと震えた。不安が徐々に胸いっぱいに広がっていった。もし、例のヤクザが石倉を殺したとするなら、和子はその唯一の目撃者であり、命を狙われる可能性があるということだ。
飯島は間髪を入れず、石原の事務所に電話を入れた。幸い和子が出た。いつもののんびりとした声で答えた。
「はい、石原弁護士事務所でございます。どちらさまでしょうか。」
「和子か、俺だ、飯島だ。どう説明したらいいか分からないが、どうも変な状況になってきた。あの石倉が自殺したんだ。」
「えっ、あの石倉さん、自殺したの、またどうして?」
石倉は一度、飯島の家に遊びに来たことがあった。和子はそれで覚えていたらしい。
「つい最近、石倉はセンターへ左遷された。警察はそのショックで自殺したと見ている。だけど、俺は、石倉は佐久間に殺されたと思っている。何故なら、石倉をセンターへ送ったのは佐久間なんだ。お前を襲ったのも佐久間だし、みんな佐久間の仕業なんだ。」
飯島は興奮していて、言いたいことが上手く喋れない。
「待って、待ってよ。何を言っているのか分からないわ。だって、佐久間さんは、あの事件、私が襲われた事件とは無関係だったそうよ。刑事さんが言っていたわ。それに、石倉さんをセンターに異動させる力なんて佐久間さんにはないはずよ。」
「いや、それがあるんだ。警察には言ってないが、お前を襲う前、佐久間は南の女房を襲った。実は、あの写真の女は南の細君だ。佐久間はあの写真をネタに南から5000万円脅し取った。そして、その次に石倉をセンターに送るよう指示したんだ。」
「えー、本当なの。あの写真の女性は常務さんの奥さんだったの。」
「ああ、お前もどっかで会ったことがあるような気がするって言っていたが、俺達の結婚披露宴でお前より目立った派手な女がいただろう。あれがそうだ。」
「でも、何故、私が襲われなければならなかったの。」
そう聞かれて飯島は言葉に詰まった。言いたくない事柄が多すぎた。あれこれ考えを巡らせ、ようやく口開いた。
「実は、佐久間は、俺がずっと奥さんと浮気していて、しかも子供も俺の子供ではないかと疑っている。」
「待って、本気で言っているの。奥さんの浮気の相手が、たとえあなただとしても、そんなことで、ヤクザを使って人を襲わせたりするかしら。あなたに対する復讐だと言いたいのだろうけど、それでは動機が曖昧過ぎるわ。」
「ああ、確かにそうだ。でも、奴は狂っている。狂人なんだ。動機なんて必要ないのさ。あいつは、お前を襲ったと、間違い無く俺に言ったんだ。」
和子は押し黙った。飯島は、本題に入ることにした。命を狙われているなどと刺激的な言い方は避けたほうが良さそうだ。とにかく相手は妊婦なのだから。口を開こうとした矢先、和子が言った。
「ちょっと待ってて、誰か来たみたい。ねえ、ちょっとまっててね。」
「ああ。」
と言って待っていたが、しばらくして不安になった。誰かって誰だ?まさか、あのヤクザではないか。言い知れぬ不安が、飯島を襲った。
「おーい、おーい。」
飯島は叫び続けた。もっと早く、ヤクザが狙っていることを忠告すべきだった。はらはらと時間は過ぎてゆく。叫べども返事がない。突然、和子の声が聞こえた。
「ご免、待たせて。小包だったわ。」
飯島の頭は疑惑が渦巻いた。こんな時間に小包なんて届くのか。既に8時を回っている。そして「小包だって何が入っているか分からん。最近はやりの小包爆弾ってこともある。」と言う佐久間の言葉を思い出し、咄嗟に叫んだ。
「おい、その小包は開けるな。差出人は誰だ。」
「えーと、榊原和人。ああ、石原の依頼人よ。でも何で。」
「馬鹿、もし小包爆弾だったらどうする。」
「何言っているの。ねえ、どうかしてるわ。今日のあなた、少し変よ。」
「とにかく、今から、そっちに行く。開けずに待ってろ。」
飯島は自宅から駆け出し、車に飛び乗った。
石原の事務所に着くまで、気が気ではなかった。万が一の可能性であっても、用心にはこしたことはない。とにかく相手は気違いなのだから。エレベータを待つのももどかしく階段を駆け登った。扉のガラスに石原弁護士事務所という文字を認めると、ノブを回し中に入った。
事務所に一歩入り、目の前に広がる光景を見て、飯島は拍子抜けして言葉を失った。石原と和子がテーブルを挟んで座っている。そのテーブルの上には小包が置かれているが、既に開封され、その中に夫婦茶碗が納まっていた。
包装紙はびりびりに破かれ、テーブルの周りに散乱している。石原と和子は、突然飛びこんできた飯島を不安そうに見上げている。飯島は言葉に詰まった。無言で立ちつくすしかなかった。その場を救ったのは和子である。
「とにかく、今、お茶を入れるから。さあ、そんな所につっ立ってないで。さっさとここに座って。」
と言うと立ちあがり、台所に消えた。飯島は言われるがままに石原の前に座ったが、気まずい雰囲気はいかんともしがたく、おもむろに煙草を取り出し、火を点けた。煙草をせわしなく吸い、同時に乱れた息を整えるべく深呼吸までしなければならなかった。
やや、あって和子がお茶を持って二人の前に現れた。お茶を飯島の前に置き、自分は石原の横に腰掛けた。それは和子にとってはごく当たり前のことなのだが、飯島は何故か敗北感に打ちのめされた。和子が口を開いた。
「さあ、詳しく話して、何もかも。夫婦喧嘩までして、私はこの小包が、あなたの言った通り小包爆弾かもしれないって言い張ったわ。でも、この人は、あなたがまだ私に未練を持っていて、私と接触したいがために、訳の分からないことを言い出しているって。」
飯島はぎょっとして石原を見つめた。石原のそんな思いなど想像もしていなかったからだ。石原が慌てて言った。
「おい、待てよ。そんなことは言ってない。ただ、」
「ただ、何なのよ。ヒステリックに包装紙を破って、箱を開けたじゃない。もし、それが爆弾だったら二人とも死んでしまったわ。」
「だけど、爆弾じゃなかった。こうして二人は生きているじゃないか。爆弾なんかじゃなかったんだ。」
と言って、石原は飯島をちらちらと見る。石原の眼鏡のレンズが汗で曇っている。飯島はようやくこの場で起こった事態が理解できた。飯島がぽつりと言った。
「二人には本当に申し訳無かった。いたずらに不安を煽り立てたようだ。確かに僕の考えすぎだった。こうして二人が無事だったのだから。」
こう言って、飯島は二人を交互に見た。ようやく、飯島も平静さを取り戻していた。一呼吸置いて、飯島が話し始めた。この数日に起こったこと、そしてこれまでの経緯の全てを語った。最後にこう結んだ。
「佐久間が石倉をセンターに左遷させた。そして、その石倉が移籍直後、センターで自殺した。どうみても、佐久間が関係しているとしか思えない。」
じっと聞き耳を立てていた石原が口を挟んだ。
「飯島さん、あなたはご存知ないと思いますが、私の親父はヤクザと関わっていました。この一年、私はそのヤクザとのやり取りで、神経が磨り減っています。200万もの金をヤクザに支払った。和子襲撃はそっちの線の可能性もある。」
「でも、石原さん。もしあの時、和子が実際に襲われ、子供が流産でもしていたら、あんたは、そのヤクザの言いなりになって、金を払い続けるか?絶対にそのヤクザと対決しようとするだろう。あんたは、そっちの方のプロなんだから。」
こう言って、飯島は石原の同意を待った。石原が頷くのを見て、話を続けた。
「ヤクザだって、大切な金の成る木を切り倒したりしない。まして警察が動き出したら困るのはヤクザだ。警察は事件となれば間違いなく動く。ヤクザはプロだからそこまで読んで行動する。刑事事件にならない微妙な線で恐喝しているはずだ。」
石原はまたしても黙って頷いた。飯島の言うことも一理あるからだ。飯島が続けた。
「佐久間が後ろで糸を引いているのであれば、石倉に直接手を下したのは間違いなく和子を襲ったそのヤクザだ。」
石原も和子も飯島の言葉に耳を傾けている。
「石原さん、これから言うことが、俺が一番心配していることだ。もし、そのヤクザが石倉を殺したとすれば、和子は、その殺人者の顔を知っている唯一の証人ということになる。和子は顔を覚えていないが、ヤクザはそんなことは知らない。」
石原が冷静に答えた。
「目撃者を消せってわけですね。確かに、飯島さんの言う通りです。でも、反論があります。まず、彼らが和子を襲った動機は何ですか。」
「佐久間が私を恨んでいるからです。」
「何故、飯島さんではなく、妻の和子を襲ったのです。」
「佐久間は、私が彼の妻と出来ていたと勘違いしているからです。恐らく佐久間は、私に同じ苦しみを与えようとした。つまり寝取られた恨みを晴らしたかった。」
「では、そのヤクザが石倉を殺しのなら、それにはそれなりの報酬があったはずです。だからこそ危険を犯すことが出来た。しかし、和子はどうですか。一度失敗しているし、もう飯島さんの妻ではない。従って、佐久間が和子の殺害に金を払うとは思えない。」
一息ついて続けた。
「それでは、そのヤクザの身になって考えてみましょう。そいつは和子と偶然出くわさないように注意すれば良い。つまり出来るだけ八王子を避けるでしょう。それでも不安であれば顔を変えることも出来る。整形手術なんて安いものだ。」
石原の言うことももっともで、飯島も思わず唸った。
「確かに、そのとうりだ。和子を襲った犯人がそんなアウトローであれば、顔を変えることなんて、何とも思わないだろう。」
「そうです、だから和子を殺すような危険をわざわざ冒す必要はない。勿論、殺人が強姦や窃盗くらいの重みしかないアメリカなら話は別ですけどね。」
飯島は、じっと石原を見詰めた。こいつは見た目ほど馬鹿ではない。むしろ頭は良い。そう思った。和子が惹かれたのも分かるような気がする。
「いやー、参った。石原さんの言うことは尤もだ。俺もアメリカ映画の見過ぎで、ちょっと騒ぎ過ぎたようだ。でも、石原さん、もし、そのヤクザがアメリカ映画のファンだったらどうする。」
「飯島さん。私も最悪の事態は避けたいと思っています。だから、和子のためにも、お願いがあります。先程、佐久間が南常務の細君を襲ったことを警察に言ってないと仰った。どうしてです。」
「南と約束した。あの写真を公にしないと。」
「お願いとは、そのことです。南さんとの約束を反故にして、警察に話して下さい。それは和子のためでもあります。その写真については和子も証人になります。」
和子も頷く。石原が真剣な眼差しで飯島を見つめた。懇願する目だ。
「分かりました。一応、南に言ってから警察に話をしましょう。」
「どうも有難うございます。」
石原が頭を下げた。和子も慌てて石原に寄り添い、それに倣った。そんな和子の動作がストップモーションのように瞼に焼きついた。
事務所を出て、飯島は孤独を噛み締めた。和子はすでに石原の女房になりきっていた。石原の慧眼には恐れ入った。確かに、和子に危険を知らせようとしたのは事実だが、飯島は心ときめかせ、和子に電話を入れたのだった。
第十一章
飯島は男泣きに泣いた。この度は、風呂ではなく居間のソファで声をあげて泣いたのだ。
この世に、自分ほど惨めな男はいない。和子を失ったことは、片肺を無理矢理もがれたも同然だったのだ。激痛に胸が締め付けられた。
飯島はこれまで頑なに或る感情を無視し続けて来た。それが可能だったのは異常な出来事が相次いだからだ。女房、坂本、そして石倉、彼らの思いもかけない事件が立て続けに起こった。飯島はただただ驚き、うろたえた。
敢えて心の片隅に追いやったわけではない。自分の内面に向き合う暇がなかったのだ。その現実が今日初めてまともに目に飛び込んで来た。それまで頑なに無視してきたその感情とは、和子への未練に他ならなかったのである。
かつて飯島の妻であった女が、幸せそうに他人の妻に成り切っていた。それを目の当たりにして、失ったものの大きさを実感した。この時、内に秘めた未練とまともに向かい合うはめになってしまった。
じわじわと広がる孤独感は、心にぽっかりと風穴を開けた。をまるで木枯らしが吹きぬけて行くように、もの悲しげな音を響かせている。
「和子、和子。」
飯島は力なく呟いた。
二人にマンションの玄関まで見送られた後、飯島は八王子の街をさ迷った。どこをどう歩いたか覚えていない。自動販売機を見つけては日本酒を買い、その都度一気に飲み干した。どれほど飲んだのだろうか。少なくとも飯島の許容範囲を越えていたのは確かだ。
自宅に戻ったのは、午前2時を過ぎていた。ふと見ると手の甲がべったりと血で濡れている。故障中の自販機に殴りかかったのことを思い出した。馬鹿なことをしたと、へらへらと笑いながら傷口を舐めた。
どれほど泣いていただろう。意識は朦朧とし、絶望が心を覆い尽くした。死のうと思った。死んでしまえば、この苦しみから逃れられる。死ぬ方法は以前から決めていた。実行するための条件は揃っている。その条件とは、泥酔していることである。
飯島は背広を脱ぎ、ネクタイをはずして、よろよろと風呂場に向かった。裸になって湯船に体を沈めた。温度を45度にセットし、目をつぶった。湯はどんどん熱くなり、心臓は激しく高鳴なった。
しばらくして重い疲労感が襲って意識が遠のいた。どのくらい時間がたったのだろう。ふと目覚めると、顔は汗でびっしょり濡れている。しかし、このままでは死ねない。湯船から這い出ると、今度は氷のように冷たいシャワーを浴びた。体ががたがた震えるまで浴びた。そしてまた湯船に。これを何度も繰返した。
これは以前読んだ小説の中に描かれた自殺の方法である。確か主人公は心臓病だったが、これほどの泥酔状態であれば同じように死ねる。何度目か分からなくなっていたが湯船に入った瞬間、後頭部に引きつるような感覚が走った。がくっと意識を失った。
ふと気付くと、飯島は、水の中に漂っていた。広い湯船にあお向けに寝ている格好である。最初、視覚はぼんやりとした青色を捉えていた。何を見ているのかを認識するまで時間がかかった。
飯島は顔を傾け浴槽のブルーのタイルを見ていたのだ。タイルを縁取る白い目地まではっきり見える。夢か?いや違う。意識の明瞭さ、目に映る現実は夢とはまるで違う。ふと、水面を見上げた。タイルの色に照らされ水面が青く輝いて見える。
さらに水面の上に視線を移すと、水道の蛇口があり、そこから水滴が落ちた。水滴は水面を突き抜けたがすぐに押し戻された。と同時に、水面に小さな輪が生じ、それが同心円状に広がって行く。
じっと見ていると、再び水滴が零れ、水面を揺らした。またしても同じ情景が目の前に映し出されてゆく。静寂の世界で繰り広げられる周期的な波動。この世のものとも思えぬ美しさが広がっていた。飯島は飽かず眺めた。
その時、自分が息をしていることに気付いた。水の中で息をしている。何故そんなことが可能なのか、不思議に思った。けれど、そんな現実を自然に受け入れた。恐らく死にかけているのだう。死の淵に一歩足を踏み入れていると直感した。
甘美な感覚が体全体を包んでいる。この感覚をどう表現すれば良いのだろう。肌と、それを包む液体との境がしだいに消えうせて行く。液体に体が溶けてゆくようだ。甘美な感覚はさらに増している。
瞼が重くなり目を閉じた。恍惚が体全体を包んでいる。えもいわれぬ恍惚、今まで味わったことのない悦楽、いったいこれをどう表現すればよいのだろう。肉の悦楽ではない。むしろ肉から開放される悦楽なのだ。
末端が周囲に溶け始めた体は広漠たる宇宙に浮かんでいる。毛細血管があたりに散らばって、心臓の鼓動とともに血の飛沫が空間に吸い取られて行く。なんという悦楽だろう。何と言う開放感だろう。
このまま死ぬのも悪くはない。そう思った時だ。
「駄目よ、仁、起きなさい。自殺は駄目。」
脳内にその声は響き渡った。
飯島は現実に引き戻された。お袋の声が聞こえたのだ。水面から顔を出し、回りを見回した。誰もいない。そこには、いつもの見慣れた風景が広がっているだけだ。湯船に続く青いタイル、目の前にはあの蛇口、洗い場には石鹸が転がっている。
ぼーっとして殆ど朦朧状態だが、あれはお袋の声に違いなかった。幻聴なのだろうか。目の前に蛇口からぽたりと水滴が落ちた。あれは幻視などではない。間違いなく水中からこの蛇口を見上げていた。
その瞬間、尻が滑って、お湯をしこたま飲んだ。気管にお湯が入って咳き込んだ。水飛沫を飛ばして、飯島は立ちあがると、バスタブから這い出た。喉が詰まりゲーゲーという往復の呼吸の音が響くだけで、空気は少しも肺に入ってこない。苦しさが極限に達し、悲鳴とともに苦い液体を吐き出した。
這いつくばり、肩で息をし、尚も吐き続けた。見ると嘔吐物に血が混じっている。まだまともに息が出来ない。ぜーぜーという息を繰返した。死を意識した時は悦楽、生を意識した途端、苦しみ。生きるということは常に苦しみを伴うようだ。
飯島は洗い場で呼吸を整えた。立ちあがってシャワーの蛇口を取り、血の混じった嘔吐物を流した。そして温水を体全体に浴びた。苦しさが去るのをじっと待った。10分もそうしていただろうか。
面白いと思ったのは、鏡に映る自分の顔がまるで他人のように感じられ、しかも、その顔を自分の目で見ていないことだ。頭の10センチほど上からそれを見ている。徐々にそれが降りてゆき目に重なった。くくくと笑った。そうか、魂が体から少し離れかけていたのだ。
飯島は、朦朧とした頭で考えた。死は甘美なのかもしれない。死の予感を感じてから、恍惚が体全体を包んだ。それまで経験したこともない感覚を味わった。お袋の声で湯船から顔を出さなければ、更なる恍惚が待ちうけていたかもしれない。
神は優しい。神は人間の体を優しく包んでいる。死に際しては、苦痛を和らげるように配慮している。飯島はそう直感した。脳内麻薬物質が分泌され、死に伴う苦痛や恐怖を、えも言われぬ恍惚へと変貌させてしまうのだ。
飯島は或るシーンを思い出した。それはテレビで見た野生動物のドキュメンタリー番組だった。インパラの群れに一頭のライオンが近付いてゆく。インパラは一見小鹿のような外見をしているが、抜群の跳躍力と瞬発力を持った小動物である。
とその時、一頭のインパラがライオンに近付き、その目の前で踊るような仕種をみせた。なんとライオンを兆発しているのである。さあ、捕まえられるものなら捕まえてごらん、とばかり二本の前足を前後左右に踊らせているのである。
この無謀な挑戦は、何を意味しているのだろう。このインパラは恐怖以上の感情に突き動かされたのは確かだ。最後は無残な結果に終わったのだが、ライオンの鋭い牙に喉を刺し貫かれた時、彼の脳は恍惚に満たされていたのではなかろうか。
飯島は居間に戻るとウイスキーの瓶を取りだし、グラスに注いだ。それを一気に飲み干し、酔いの冷めかけた脳に再び本物の麻薬を流し込んだ。そして呟いた。
「分かったよ、お袋、死ぬまで生きてやる。」
佐久間の脳の片隅に残された正気が一瞬蘇った。記憶を手繰り寄せれば、飯島の表情は嘘を言っているとは思えない。飯島は種がないと叫んだ。本当なのだろうか。もし本当だとするなら、愛子の父親は誰なのか?
だが、眠っていた狂気が再び目を覚まし、正気は急激に萎む。いいや、飯島は嘘をついてる。愛子の父親は飯島に違いない。もし、そうなら、どんなことがあっても許すわけにはいかない。どこかに、その証拠が、その痕跡があるはずなのだ。
いや、そんな証拠も痕跡も、どうでも良い。殺してしまえ。佐久間の狂気が叫ぶ。佐久間には、その絶望に見合うだけの犠牲、流血が必要ななのだ。事実、佐久間の予定表には飯島殺しが記載されており、その方法も考えていた。その方法とは撲殺である。
昔鍛えた拳で、あの端正な顔が跡形もなくなるほど殴る。気を失えば水をぶっ掛け目覚めさせる。そしてまた…。想像するするだけでエクスタシーを感じてしまう。紫色に腫れ上がる顔、飛び散る血、うめき声。
今日、外から戻ると、留守電に竹内のメッセージが残されていた。結論が出たと言うのである。当初、竹内は飯島殺害には気乗りしないようだった。と言うより、石倉殺害に荷担して以来、佐久間との関わりを避けるようになっていた。
佐久間はその理由に気付いていた。簡単なことだ。佐久間が、もう金を持っていないことを知ったからだ。竹内は石倉殺害を1000万で請け負った。その後、飯島殺害を渋っていた竹内は、その報酬として1200万を要求してきたのだ。
確かに会長から5000万を強請り取り、竹内と山分けにした。だから竹内の要求額は本来払えない額ではなかった。しかし、実を言うと、佐久間は資材物流センターの佐藤電算室長に700万もむしり取られていたのである。
復讐を遂げるための安全装置作ってもらうためだ。最初、佐藤は手間賃程度と言っていたが、中身を知って1000万円まで吊り上げてきた。その妥協点が700万だったのだ。いつもの佐藤の悟りきったような顔が歪んで、卑しさが滲み出ていた。
竹内の要求は佐久間の取り分全てを吐き出させることだった。手元にある500万で交渉したが拒絶された。まさに金の切れ目が縁の切れ目である。この時、竹内は、佐久間に金がないことを察知したのだろう。
そんな膠着状態が一週間続いた。そして、竹内は、つい最近、意外な提案をしてきたのだ。それはDNAによる親子鑑定である。当初、佐久間はそれを拒絶した。それをはっきりさせるのが怖かったのである。
しかし、その提案に徐々に心惹かれていった。復讐にも大義名分が必要なのだ。狂気が勝った。佐久間はそれにゴーサインを出した。そして、竹内のメッセージは、その結論が出たということなのだ。受話器を持つ手が震えていた。
「もしもし、竹内です。」
いよいよ運命の時が訪れようとしていた。佐久間は身構えた。
「佐久間だ。」
「よう、佐久間さん。メッセージを聞いたわけだ。そう緊張するなって。或る程度、覚悟は出来ているんだろう。」
「ああ。」
「ここに診断書がある。その業界では有名な鑑定会社の診断書だ。後でファックスする。いいか、よく聞け、読むぞ。」
「ああ。」
「サンプルA、つまりあんたの毛髪に付着していた毛根だ、と、サンプルC、つまり愛子ちゃんのだ、とのDNA配列は一致せず。これに対し、サンプルBとサンプルCは、その配列の類似から親子と断定。」
佐久間は押し黙った。サンプルBは、佐藤が飯島の頭から引き抜いた毛髪である。憎悪が心の中で増幅されて行く。血圧が上がって、更に憎悪が増す。佐久間が叫んだ。
「みんなして俺をコケにしやがって、みんなぶっ殺してやる。殺す、飯島を殺す。竹内、俺に力を貸してくれ。頼む。」
「ああ、いいよ。だけど500万じゃ、話しにならない。分かるだろう。俺だって、事務所を構えるのにコストがかかっているんだ。そんな金額で危険を犯すわけにはゆかない。さて、どうする。」
佐久間は黙っていた。竹内が何を言わんとしているか分かっていたからだ。沈黙が続いた。
「まあ、ゆっくり考えるんだな。」
竹内の冷たい声が響いた。
飯島は電話のベルで起こされた。目を擦りながら、受話器を取った。懐かしい声が響いた。名古屋支店の石川である。
「ああ、なんだ石川か。どうした。それより、今、何時だ。」
「もう昼過ぎです。会社に電話をしたら出て来ていないって。どうしたんです。」
「もう、会社には行く気がしなくなった。で、どうした。もうヨシダに移ったのか。」
「ええ、1週間前に。本社採用ですからすぐに移りました。淺川は未消化の有給休暇をこなしていますよ。実は、あいつを㈱ヨシダ建設の東京支店に紹介したのは私なんです。」
「ああ、そうだと思ったよ。ところで何か俺に用事か。例の件はお断りだぞ。もう会社とは縁を切ることにした。」
「ええ、それは淺川から聞いています、でも、ちょっと気になることがあって。実は、臼井の爺さんが、この前、南常務と竹内を名古屋市内で見掛けたと言うんです。それも接待用のクラブで一緒に酒を飲んでいたそうです。」
「ほう、それで。」
「それが、変なんです。まあ、臼井の爺さんがそう言っていたんですが、どう変かと言うと、南常務が竹内にお酌していたそうです。しかも、両手で。更に言うなら、ビール瓶の底に左手を添えてですよ。」
これを聞いて、飯島は笑った。声を上げて笑った。石川もつられて笑っている。竹内相手に南がそこまでやるとは想像も出来なかったからだ。
「石川、いったいどうなっているんだ。」
「私にも分かりません。部下を自分の奴隷だとしか思っていない南常務が、竹内にお酌するなんて考えられませんよ。まして、自分が首にした男ですよ。」
ふと、もしやという思いが過った。南に弱みがあるとすれば、例の女房のあられもない写真である。もし竹内が佐久間と組んでいると仮定すれば、竹内の破格の扱いも理解出来る。
南常務が、竹内にそこまでおもねるということは、その可能性も考慮すべきであろう。だとすれば南常務に対する脅迫はまだ続いており、さらに竹内は和子襲撃にも関与している可能性がある。
「それでですねえ、」
押し黙る飯島に対し、石川が待ちかねたように声を掛けた。
「実は、私、先週行ってきたんです、竹内の事務所に。中町の交差点近くの雑居ビルで、まあまあのオフィイスでしたよ。女の子と若い営業マン一人置いていました。」
「へえ、それで。」
「社長のことを聞くと、東京に行っているって言うんです。それで、何時帰るかって聞くと、さあっと言って、分からないと答えたんです。で、詳しく聞くと、しょっちゅう東京に行っているそうです。」
「なるほど、そう言う訳だ。」
「何か心あたりでも、あるんですか。」
「ああ、ある。今は詳しく言えないが、竹内は佐久間と組んでいる可能性があるってことだ。」
「えっ、佐久間とですか。佐久間と組んで何をしようと言うのです?」
「実をいうとな、いいか、石川、石倉が自殺しただろう。あれは自殺じゃあない。殺されたんだ。しかも佐久間に殺された。」
「まさか、そんなこと。」
と言って絶句した。
「まあ、信じられんだろうな。しかし、佐久間はあることで、会長を脅迫していた。そして5000万円を脅し取っている。これは南から聞いた話だから、確かな情報だ。もし竹内が佐久間と組んでいるとすれば、会長を脅迫した材料を竹内も持っているってことだ。南が竹内にぺこぺこしていたのは、脅迫されているのかもしれない。」
「しかし、考えられませんよ。飯島さん、冗談言ってるんでしょう。まさか殺人だなんて、そこまでやりますか。確かに悔しい気持ちはわかります。でもそこまで・・・・。」
「いいや、冗談なんかじゃない。実は佐久間は狂っている。憎しみで頭がいかれちまった。殺人なんて気でも狂わなければ出きっこない。」
石川は押し黙った。飯島が続けた。
「そこで相談だが、お前の助けがいる。実は、佐久間はあることで俺を恨んでいる。奴が何をするか、今のところ分からない。しかし、実行者が竹内ということも考えられる。だから、竹内が名古屋にいれば、俺も少しは安心できるわけだ。」
「つまり、竹内が名古屋を離れたら、飯島さんに電話すればいいんですね。」
「そういうこと。頼むよ。」
「ええ、分かりました。あの女子事務員となんとかコネをつけますよ。兎に角、気をつけて下さい。」
「どうも有難う。」
飯島は電話を切ると、ウイスキーの瓶を引き寄せ口飲みした。アルコールの熱い感覚が体内にじわじわと広がり、荒んだ心に一時の安らぎを与えた。時計を見ると午後1時を回ったところだ。酔いが急激に回り瞼を重くする。飯島は再び深いまどろみに落ちていった。
第十二章
悪い夢をみていたのか、びっしょりと汗をかき、その冷やりとする感覚で目覚めた。額の汗を拭うと同時に頭痛と吐き気が飯島を襲った。胃液が食道をさかのぼる。それを押さえようと必死で唾液を飲み込んだが、間に合わずに苦い液体を一気に吐き出した。
深呼吸して息を整えたが、その息はことのほか酒臭い。時計を見ると、既に午後5時を回っていた。ここ数ヶ月、ヤケ酒と嘔吐が繰り返され、朝の頭痛は年中行事のようになっていた。ゴミタメのような部屋に異臭が漂っている。
そんな部屋から一歩出る時は、糊のきいたワイシャツにカフスを飾る。そもそも和子がいればこそ、飯島の生活のバランスは保たれていた。その要が失われた今、自宅は蛆が湧きそうなほど汚れきっていた。
買い置きの水をガブ飲みし、その口から漏れた水がシャツを濡らした。諦念という言葉を反芻した。和子は既に別の男と暮らしている。この事実を冷静に受け止めるしかない。濡れたシャツもいつしか乾くように、心の空洞も満たされる時もいつか来る。
飯島は、昨日の石原との約束を思いだし、その場で南に電話を入れた。南の女と噂される秘書の戸惑ったような対応に苦笑いしながら、飯島は煙草に火をつけた。ややあって、南の甲高い声が響いた。
「なんだ、誰かと思えばお前か。まだ会社にいたのか、とっくに辞めたのかと思っていたよ。」
「馬鹿言うんじゃない。有給休暇は3ヶ月も残っている。本来なら5月末まで籍を置くことも出来るが、二ヶ月おまけしてやる。有難く思えよ。ところで、石倉のことだが、可哀想なことをしたな。まさかあんなことになるなんて。」
南は押し黙ったままだ。
「あいつは、自殺するような玉じゃない。恐らく、佐久間に殺されたんだ。」
飯島は誘い水をさしたのだが、南の反応は飯島を落胆させた。
「殺しても死にそうもない奴ほど、あっさり自殺してしまう。世の中はそんなものだ。石倉もそうだったんだろう。」
「おい、まじで言っているのか。お前だって、佐久間の仕業と思っているはずだ。あの写真のことを思い出せ。」
少し間を開け、南が答えた。
「写真、何のことだ。俺はそんなものは知らん。」
飯島は努めて冷静に言った。
「おい、おい、南、俺は刑事じゃない。本音を言ったらどうだ。お前が、それを隠したいのは分る。俺も、その気持ちを尊重するつもりだった。しかし、考えが変わった。何故なら、石倉が殺されたからだ。考えてもみろ、石倉をセンターに異動させたのは佐久間だ。お前がそう言ったはずだ。とにかく、俺は警察にあらいざらい話すつもりだ。」
「勝手に話せばいいるだろう。しかし、おれは、何も知らないし、何も見ていない。まして佐久間が石倉をセンターに異動させたなんて馬鹿げている。誰がそれを証明するんだ。お前は、夢でもみたんじゃないか。」
「どうあっても、証言するつもりがないって訳だ。」
「ああ、拷問されても喋らん。」
「いいか、写真は和子も見ているんだ。」
「夫婦の趣味がエロ写真収集ってわけか。キモイ夫婦だぜ。夫婦揃ってエロ写真のモデルを佐久間と勘違いした。夫婦共々ノイローゼってわけか?警察がそんな話を信じると思うのか。俺たちが否定すれば、警察は動きようがない。」
「この野郎、言いたいこと言いやがって。そうか、まだ脅迫が続いているってことか。えっ、そうなんだろう。竹内にも脅されているんじゃないのか?」
「何を言っているのか分からんな。竹内だって、誰だそいつは。」
「とぼけるのもいい加減にしろ、この野郎。名古屋のクラブで竹内にお酌していたじゃないか、左手まで添えてな。どうなんだ、奥さんを襲ったのは佐久間と竹内じゃないのか?」
「知らんな、お酌していたって?誰かと見間違えたんじゃないのか。飯島はノイローゼだって噂だが、どうやら本物のようだ。」
むかっ腹が立った。
「お前がそこまで知らばっくれるなら、写真のネガのコピーを警察に提出するしかないな。お前の言うとおり、俺はあの種の写真の収集家なんだ。どうしても秘蔵して置きたかったんだ。」
「なにー。」
南が初めて気色ばんだ。飯島はほくそえみながら言った。
「そんな目ん玉ひん剥いて驚くんじゃねえよ。俺が用意周到でないことは、お前が一番よく知っているだろう。嘘だよ、嘘。まあ、喋れないのは、義理の親父の厳命なんだろうから、しかたないか。」
「おい、飯島、本当に、コピーを持ってないんだな。もし、持っていれば大変なことになるんだぞ。分かっているのか。」
「分かっているさ、会長の気性は十分にな。それに、どんな娘でも我が子は可愛い。」
南が叫んだ。
「貴様、どんな娘とはどういう意味だ、この野郎、言わせておけば、図に乗りやがって。会長に言ってやる、貴様がそう言ってたってな。」
苦笑いして飯島が言い返した。
「おいおい、子供の喧嘩じゃあるまいし、パパに言いつけてやる、だって。ふざけるな、この野郎。お前は忘れているんじゃないか。俺は既に辞表を出している。お前等一族なんて怖くはない。それにお前の女房の浮気性は会社でも有名だった。だからこそ、あんな目に遭ったんだ。」
こう言うと、飯島は、乱暴に受話器を置いた。
飯島はわくわくするような興奮を覚えていた。悔しがり屋の南のことだ、地団太踏んで悔しがっているに違いない。間違い無く、飯島の言ったことを西野会長に報告するだろう。最悪の場合、南はネガのコピーの存在を匂わせ、会長をたきつける可能性もある。
飯島が興奮しているのは、組織人としてそれまで抑圧していた感情を解き放ったからだ。いや、それだけではない。何もかも失った男の絶望が、全てを敵に回して闘争することを欲していたのだ。何かが飯島の心に芽生え始めていた。
佐久間の次のターゲットは飯島である。どんな手を使ってくるか分からない。その上、ヤクザが加われば、命がいくつあっても足りない。しかし、そんな追い込まれた状況こそ、飯島を興奮させているのだ。飯島の闘争本能が深い眠りから目覚めつつあった。
翌日の朝、斎藤から緊急の呼び出しがあった。支離滅裂でドモリまくる斎藤に苦笑いして電話を切った。飯島は八王子から車を飛ばして、10時過ぎにセンターに到着した。事務所の横の駐車場には黒塗りのベンツが置かれている。
車をゆっくりとベンツの隣に横付けし、所長室を見ると、スキンヘッドの男が窓から飯島を窺っている。どうやら、呉工業の社長の息子、向田敦が動き出したようだ。会長の差し金に違いない。
西野会長は佐久間の居所を探すため、呉工業の向田社長を通じて裏の世界の協力を仰いだ。向田社長の息子、敦が所属するのは八王子を根城とする博徒の飯田組である。斎藤の切羽詰った声がそのことを物語っていた。
飯島は車を下り、事務所に向かって歩きだした。何か良い策はないかと思案したが二日酔いで頭は回らない。このまま倉庫の方に行ってしまえば奴等に会わずに済むが、隠れているのはかったるい。まあ、何とかなると高を括りドアのノブを回した。
事務所には、太っちょのスキンヘッドが窓を背に立っていた。わざとらしく凶悪そうな目つきをして睨んでいる。背はあまり高くない。背広が窮屈そうだ。その背広の下には恐らくバーベルで鍛え上げた肉体が収まっているのだろう。
その窓の右隣に飯島の机がある。その机に脚を投げ出し、両腕を組んで、男が笑みを浮かべながら飯島を見ている。細面の優男でどう見てもヤクザには見えない。高級そうな腕時計が重そうに細い腕から垂れ下がっている。
ふと部屋の隅を見ると、斎藤がうな垂れて椅子に腰掛けていた。鼻にはティッシュが詰めこまれ、その先に血が滲んでいる。にやにやしながら、机に脚を投げ出している男が口を開いた。
「その男が、飯島さん、あんただと思ったよ。こんなふうに机に脚を投げ出してよ、ふんぞり返っていたもんだから。」
飯島も笑いながら答えた。
「ああ、そいつは次期センター長だ。決して行き過ぎた真似をしていたわけではない。一月後には間違い無くそんな風に、そこに腰掛けているだろう。」
男は指先を振って斎藤に出てゆくように指示した。スキンヘッドが動いて、斎藤を追い出しにかかる。「近くにいるんじゃねえ。見つけたらぶっ殺すぞ。」という怒鳴り声とそれに続くドタバタという重そうな靴音が聞こえた。
男は机に投げ出していた脚を下ろし、飯島と真正面に向き直った。そしてドスの効いた声を響かせた。
「飯島さんよ、何しに来たか、分かっているんだろう。俺は、暴力沙汰は好きじゃねえ。だけど、飯島さんよ。後ろに控えたその男は何をするか分からねえ。人を殺すことなど屁とも思もっちゃいねえからな。」
振り向くと例のスキンヘッドが飯島の1メートル真後ろに立っている。取り合えず、動く気配なない。飯島は正面に向きなおり、男に向かって言った。
「ああ、何をしに来たか分かっている。その前に、名前を名乗ってもらおうか。俺は名無しの権兵衛とは話さない。おい、後ろのスキンヘッド。手前も同様だ。」
後ろの男が、一歩前に出て、飯島の肩に手を掛け、力を込めようとした矢先だ。鋭い声が響いた。
「いい度胸だ、飯島さんよ。その度胸に敬意を表して、名乗ってやる。俺は飯田組の向田だ。後ろの男は佐野と言う。これでいいだろう。」
右肩に食いこむスキンヘッドの握り拳を振りほどき、飯島が答えた。
「向田さん。あんたの探している写真のネガはここにはない。」
「では、何処にある。」
「警察に提出している。」
向田は、ため息をつき、下を向いて笑っている。ふと顔を上げると、鋭い眼光で飯島を見据えた。突然、スキンヘッドが飯島を羽交い締めにして、た。ぐいぐいと首を締めつけてゆく。向田の冷たい声が響いた。
「そうかい、もう手遅れだってわけだ。ふざけた真似をしやがって。」
飯島は満身の力を込め男の腕に逆らって首を起こした。そして叫んだ。
「ああ、手遅れだ。警察は動き出した。もう誰にも止められない。いいか、もし、お前等が俺に暴力を振るえば、警察が黙っちゃいない。そんなことぐらいアホでも分かるはずだ。」
向田が答えた。
「どうかな、俺はどっちかと言えばアホだ。それに俺はお前が暴行罪で俺達を警察に訴えるとは思わない。お前はそんなアホじゃない。そうじゃないか。訴えればもっと怖い目に会うことになる。分かるだろう、飯島さんよ。」
「馬鹿言え、訴えるに決まってるだろう。俺はお前以上にアホなんだ。」
「そうかい、それじゃあ、試してみるか。」
と言うと向田が立ちあがり、近付いてきた。飯島が叫んだ。
「この野郎、二人がかりとは、卑怯じゃねえか。てめえ、糞野郎が、めっためたにしてやる。俺は今、ストレスが溜まってるんだ。」
飯島は、スキンヘッドの首筋めがけて右肘を渾身の力で振り下した。ガツンと手応えがあった。一瞬、羽交い締めしている力が抜けた。
飯島は腰を落としながら両腕を抜いて、スキンヘッドのズボンの両裾を握り、今度は立ちあがりながら思いきりすくい上げた。バタンという大きな音が響いた。飯島は、すかさず振り向き股間を蹴った。スキンヘッドがうめき声を上げて転げまわる。
向田が、背中に飛びかかって来た。ふらふらと前によろめいたが、ちょろい相手だとすぐに分かった。とにかく体重が軽い。飯島は背負い投げを浴びせた。思わず感心するほど良く飛んだ。飛んで行く姿が可愛い。極端に長い両足がバタ足をしている。
しかし、向田は思いの外敏捷で、両手を床につきふわりと着地した。そして両腕を顔の前に構えた。どうやらボクシングの心得があるようだ。腕と腕の間から顔を覗かせたが、その身軽さを披露できたことで得意満面である。軽くステップを踏んでいる。
飯島もサウスポーで構えると、大袈裟なモーションで左パンチを繰り出した。思った通り向田はやや遅れぎみに右カウンターで応酬してきた。しかし、飯島の左パンチは見せかけに過ぎない。得意の蹴りのカモフラージュなのだ。
向田は不意を突かれ、体を折り曲げながら後方に飛んだ。腹に受けた衝撃が納得いかないらしく、得意満面だった顔を歪ませている。これは、飯島が学生時代、ボクサータイプの相手によく使った手だった。
向田はごろごろと床に転がり、みぞおちを両手で押さえ、呻き声を上げうずくまった。飯島が余裕で二人を見下ろしていると、スキンヘッドの手が背広の内側にすっと入った。飯島は近付いて、その手を踏みつけた。その手の先に冷たく光る拳銃が見えた。飯島はそれを奪い取った。
ずっしりと重い感覚が、飯島を魅了した。モデルガンでは味わえないリアルな感覚だ。飯島の家には3丁のモデルガンが飾られている。安全装置を外して銃身をスライドさせ、銃弾を装填した。左手で銃身を触れたり摩ったりしていたが、しまいにはそれに頬擦りし、恍惚としている。
向田はぜーぜーと息をしていたが、飯島の尋常ならざる様子をにやにやしながら見上げていた。突然、飯島が銃口を向田に向け、引き金に指を掛けた。向田の顔が横に反れた。ほとんど同時に、バンという音が響き、銃弾は向田の顔を掠め、床を突き抜けた。
向田がひーと悲鳴を上げた。飯島の一瞬の作為である。二人にはこれがお芝居とは思えなかったであろう。横を見ると、スキンヘッドが仰天して目を剥いている。飯島がスキンヘッドに声を掛けた。
「おい、佐野君、これ、俺に売ってくれないか。」
そう言って銃口をスキンヘッドこと佐野に向けた。
「いえ、お金なんてけっこうです。」
佐野が震える声で答えた。よくよく見ると、佐野の顔立ちにはあどけなさが残り、それを隠すために頭を剃っているのだ。飯島が言った。
「佐野君、そういう訳にはいかんだろう。これは、売り物だ。そうだろう。そうそう、これはアメリカ製だ。雑誌でみたことがある。50万円でどうだ。」
佐野は、勇気を振り絞り、ようやく答えた。
「もし、よろしければ、もう50万頂けないでしょうか。そのー、何て言うか、輸入するのにもいろいろコストが掛かってますんで。」
飯島は笑いながら答えた。
「ああ、いいだろう。弾が欲しくなったら、どうすればいいんだ。」
「ここに、僕の携帯の番号を書いておきます。ここに電話下さい。それから振込先は後日ご自宅に連絡をいれます。」
スキンヘッドが震える手でメモ帳に書き込んでいる。飯島はそれを受け取り、振り向くと向田に言った。
「どうする、ことの一部始終を会長に報告しようか。西野会長はさっそくお前等の組長に電話を入れる。貴様等が俺に痛い目にあわされたってな。」
こう言って睨むと、向田は下唇を噛んで、ふいっと横を向いた。その仕種がどこか子供じみていて、飯島は思わず相好を崩した。
「実はな、向田。俺は、警察に写真を提出したと言ったが、あれは嘘だ。もし、俺の言うことを信じるのなら、会長には電話しない。どうだ。」
向田がきょとんとして視線を向けた。飯島が続けた。
「警察に提出したなんて嘘だよ。そう言えば、俺に手を出さないと思ったが、裏目に出た。お前等は何が何でも俺を痛めつけるつもりだった。組長からそう指示があったのだろう?違うか?」
向田は無言のままだ。ということは肯定したということだ。
「どうだ、組長には、俺を散々痛めつけたが、ネガのコピーなど無いと言い張ったと言えばいい。本当にそんな物持っていないんだからな。俺は南にも、そう言ったはずだ。」
向田が答えた。
「ああ、信じることにするよ。親父も、多分、写真は持っていないだろうと言っていたからな。それはそうと、最近の素人は気違いが多いよ。俺が咄嗟に避けなければ頬に穴が開いていた。」
飯島が笑いながら言った。
「しかし、あんたは本当にヤクザさんか。どうもそうは見えない。人品卑しからずって感じだな。箕輪が可愛がっていたってのも分かる気がする。」
この言葉は予想もしない反応をもたらした。向田が顔色を変えてすごんだ。
「テメエはあの糞野郎の知り合いか。どうりで胡散臭いと思ったぜ。いいか、お稚児さんじゃあるまいし、可愛がるなんて気色悪い言葉を二度と使うな。いいか、分かったか。それに二度と野郎の名前をほざきやがったら、ただじゃおかねえぞ。」
「おいおい、ヤクザのお前さんに、胡散臭いなんて言われたかない。まあ、何があったか知らないが、お前さんのご要望には応えよう。」
「テメエも、その名前を出せばこっちが軟化すると思ったらしいが、その逆だ。野郎の友人と分かったからには、遠慮はいらねえ。かえって仕事がやり易くなっただけだ。覚えておけ。」
「お前さんは俺に遠慮していたわけか?」
「当たり前だ。素人にはそれなりに気を使わんと面倒なこともある。もう容赦はしないってことだ。」
「分かった、分かった。そうかりかりするな。とにかく、組長でも会長でも、どっちでもいいけど、とにかく伝えてくれ。ネガのコピーなど撮ってないってな。」
向田が立ちあがった。思いのほか背が高い。飯島も180センチ近いが、目線が5センチほど上回っている。飯島を見下ろしながら、向田が口を開いた。
「おい、飯島さんよ、これだけは覚えておけ。今回はお前にやられたが、次回は分からん。いいか、俺達の仲間は日本中どこにでもいる。皆、人を殺すことなど何とも思わない連中だ。もし、警察に何か言えばお前もあの世行きだ。分かっているだろう。コンクリート詰にされて海の底だ。」
「ああ、分かった。俺もあんた達を敵に回したくない。」
「分かればそれでいい。俺だって殺しは最後の最後だ。そうだろう、殺しは、やった人間でなければ分からないが、ねばねばと心にまとわりつく。いつまでもな。」
「分かったよ、あんたはかつて人を殺したことがあるってことだ。俺も死にたくない。警察には何も言わんよ。言いたくても証人も証拠となる写真もない。」
「分かればいい。」
飯島の素直な返事に、向田はようやくヤクザとしての自尊心を回復したようで、汚れたコートを両手で何度か掃って、ドアに向かった。飯島が、その後を歩いてゆく佐野に向かって、声を掛けた。
「おい、佐野君。君は、いい営業マンになれるぞ。ヤクザなんて辞めて、うちの会社に来ないか。その方が出世するかもしれんぞ。」
佐野は、少しだけ飯島に顔を向け、照れくさそうに微笑んで頭を下げた。向田が、振り向いて、思いきりスキンヘッドの頭を叩いた。パシンという乾いた音がした。
第十三章
5日前、石川から竹内が東京に向かったという連絡を受けた。奴らが動き出したのだ。石倉の次が飯島であることは間違いない。その時、石川はもう一つ、臼井爺さんからの情報を付け加えた。ニシノコーポレーションから臼井建設を通して竹内に大金が流れたというのである。
竹内が南或いは会長を脅迫し、金を引き出したのだ。その金が飯島殺害の軍資金に使われる可能性大である。案の定、二日目と三日目に、階下の居間、次いで日本間の窓ガラスが割られた。調べてみると、鉛のエアガンの玉が6発、床に落ちていた。
襲うとすれば家を放火する可能性が高い。奴らも当然銃器は揃えているはずだが、狭い家のなかでドンパチやるはずはない。裏は山、一方は道路、隣家は300坪の豪邸だが、家は離れており類焼の心配はない。火を避けて、飯島が家を出た時が勝負になる。
しかし、待てど暮らせど、その後、動きがないのである。危険が迫れば何かしら肌で感じるはずだが、それもない。苛苛と彼らの襲撃を待つ。緊張はそう持続出来るものではない。肩の力を抜いて、大きく深呼吸した。
ソファーに腰を落とし、一息入れると、次に睡魔が襲ってきた。しかし、まだ寝るには早い。両手で顔をごしごしこすり、眠気を意識の外に追いやる。飯島は腰に差した拳銃を引き抜き、スライドを引いて銃弾をチャンバーに送り込んだ。
飯島はためつすがめつ拳銃を眺めた。その拳銃は、雑誌で調べてみるとS&W製のM945と言うニュウモデルである。銃身の前後に鱗のような彫りが刻まれ、冷たく黒光る鋼の輝きと洗練されたフォームは飯島を魅了して止まない。
飯島は、鉄の冷たい肌触りを頬で味わい、ほのかに残る硝煙の匂いを鼻で楽しんだ。銃弾は装着されている。飯島は銃をクッションで包むと引き金を引いた。ボンというくぐもった音と共に火薬の煙と臭が部屋中に充満し、皮製のソファに穴が開いた。
飯島はそのままソファに倒れ、天井を見詰めた。誰かが飯島の家に近付いてくる。耳を澄まし、靴音に神経を集中させる。目を開いたままだが、虚空に女性の姿が浮かび上がった。立ち上がり、窓辺に行って覗いて見た。赤いコートは透視した通りだ。
飯島は、自分の感覚が研ぎ澄まされて行くのが分かった。殆ど食事をせず、代わりに度の強いウオッカを飲む。酔いが覚めてくると、再びあおる。そして酔って眠る。そんな生活が何日も続いていた。
しかし、眠っている間に襲われる可能性は、アルコールと自暴自棄が支配する世界に入ると、取るに足りない問題となり、あっさりと無視される。もともと飯島には豪胆なところがあり、開き直った時の強靭さは並ではない。とはいえ、押入れに寝ている。もし、物音に気付かず、殺(や)られたら、その時は諦めるしかない。
ふと、テレビを見ると、新興宗教の教徒が人々を勧誘する様子が放送されている。飯島はテレビに見入った。教徒が言う。
「不思議な世界があるのです。それを否定することなど、誰にも出来ません。超能力を得たいと思いませんか。」
飯島は思わす笑ってしまった。彼らの宗教の本質が終末思想だということを知っていたからだ。滅びを生き延びて永遠の命を得ようとしている。
「お前達には無理だ。死に対峙してこそ超能力が得られるのだから。」
先ほどの女性の透視も、飯島の体が衰弱していること、そして何時襲われるかもしれないという恐怖と戦うことにより感覚が研ぎ澄まされて始めて可能になったのだ。飯島は、何度も不思議な体験をしている。それは常に死に対峙した時に現れる現象なのだ。
その特異な体験をしたのは高校3年の時のことである。当時、山道をバイクで疾走するのが夏休みの日課だった。或る日、急カーブで突然対向車が目に入った。10トントラックが猛スピード突進してきたのである。体中に緊張が走った。
必死で重心を左にかけ、車体を思い切り傾けた。バイクのスピードは70キロを越えていた。揺れるハンドルを握り締め、ぎりぎりのコーナリングを試みた。その瞬間、不思議なことが起こった。時間が冗長に流れ始めたのだ。
そして飯島はトラックの横に書かれた社名、横浜京極運輸株式会社の文字を一字一字ゆっくりと読み終えて走り抜けたのである。時はゆっくりと流れることがある。これは、飯島が体験から得た真理である。それは体験した者にしか分からないし、体験したことのない人間には、単なる法螺としか聞こえないだろう。
以前、ある俳優がテレビで同じような体験を語っていた。その体験とはこうである。台所のプロパンが爆発し、この俳優は吹き飛ばされた。空中で後を振りかえると、棚が倒れ、破損した食器が当り一面に散乱していた。
彼は一ケ所だけ、何もないスペースを見出した。左足は怪我をしており、右足でそのスペースに降りた立つしかない。彼は狙いをすまして右足を伸ばした。幸い時間がゆっくり流れていたため、彼はすとんと右足の着地に成功したと言うのである。
共演者達は彼の話を冗談だと思ったのだろう。皆、腹を抱えて笑っていたが、その俳優は至って真面目で、本当の話であると主張繰り返した。しかし、誰一人として信じようとはしなかったのである。
この俳優も、恐らく死ぬかもしれないと思ったはずである。だからこそ時間が冗長に流れると言う不思議な現象が起こったのだ。不思議な体験は、全て死を意識した時に起こるものなのである。
山伏と呼ばれる山岳宗教の信徒は、間違い無くこの本質を理解していた。死に対峙することによってのみ神秘体験は得られる。だから、山が修行の場に選ばれた。体力の限界に挑み、生死の境をさ迷い、つまり死に近付くことによって何かを得られることを、彼等は知っていたのである。修行とは死と向き合うことなのだ。
飯島は立ち上がると、窓のカーテンを少し開け外を見た。通りは、帰宅を急ぐ勤め人の靴音が時折響くだけで、怪しい人影もない。佐久間達が蠢いているのは肌で感じていた。だから、その襲撃を待っているのだが、迫り来る危機の気配がないのだ。
飯島の体はかなり衰弱している。何も食べていないのだから、当然といえば当然だ。飯島はよたよたと立ちあがり、買い込んであるウオッカの瓶を取りに台所に向かった。そこに、死んだ父親がいた。ウオッカを美味そうに飲んでいる。飯島が言った。
「どうして戻ってきたんだ。あの世でお袋に会えなかったのか。」
「いや、会えた。待っていないかもしれないと、実は心配していたんだが、なんとか会えた。本当に良かったよ。」
飯島は笑って父親の肩に手を置いた。すると父親が、飯島の目を見詰めて言った。
「母さんが、お前のこと心配してるぞ。」
「分かっているって。もう少しで今の状態から抜け出せる。そのウオッカの瓶、頂だい。」
父親は、その瓶を床に落とした。瓶が割れて、ガラスがこなごなに飛び散った。そして父親の姿が消えた。酒はもうよせというわけか。
そうか、母さんは、俺が心配なんだ。分かったよ。心配するな。俺ももう少しで立ち直る。自分でも分かってはいるんだ。和子のことは忘れる。和子の幸せを壊すなんて考えない。分かっているって。何も心配するな。
和子を殺して自分も死のうなんて考えてない。拳銃をヤクザから奪った時、一瞬、飯島の頭をよぎった負のイメージが、自分の意思とは裏腹に大きく膨らんだ。自分を裏切った和子を憎み始めていた。嫉妬が飯島を狂わせたのだ。
飯島は、顔を歪め、声を張り上げて泣いた。そうすることで、邪まな感情を絞り出さねばならない。よろよろと風呂場に行き、水の中に顔を沈めた。水中で何度も叫んだ。水から顔を上げ、大きく深呼吸した。そして一言呟いた。
「これで、お前とはお別れだ、和子。いつまでも俺にまとわり着くな。」
電話のベルが突然鳴り響いた。嫌な予感が脳裏を過った。飯島は受話器を握った。男の声が響いた。
「もしもし、飯島さんですか。石原です。」
飯島は、沈んだ石原の声に、不吉なものを感じ取った。「まさか、そんな馬鹿な」と心の中で叫んだ。しばらくして受話器の向こうから嗚咽が漏れた。石原が泣いている。飯島が叫んだ。
「和子に何かあったのか。石原さん、何があったんだ。」
「飯島さん、和子が死んだ。車に跳ねられて、死んでしまった。」
「何だって。いつだ?」
「3日前だ。頭が混乱していて、飯島さんに知らせするのを忘れていた。」
目の前が一瞬にして真っ暗になった。飯島は受話器を落とした。気を失ったのだ。
飯島は、ぼんやりと窓の外を見ていた。街灯が灯っている。視線を動かすと、点滴の袋が吊るされている。どうやらここは病院のベットのようだ。飯島の倒れる音に驚いて、石原が救急車を呼んだのだろう。
誰かがベッドの横に座っている。焦点を合わせた。そこにいるのは斎藤である。
「気付かれました、所長。」
「ああ、ようやく目覚めた。いつから付き添っているんだ。」
「いや、さっき来たところです。でも良かった、眠ってから今日で3日目だそうです。今時、栄養失調で入院だなんて。それに、あの日以来だから、一週間以上経っていますよ。その間、いったい何をやっていたんです。顔なんて半分くらいに縮まっていますよ。」
「馬鹿野郎、骨は縮まらん。でも、そんなに、一週間以上にもなるか?」
「ええ、間違い無く、1週間以上経っています。正確には、ええと、8日目ですね。」
飯島は和子のことを思い出し、飛び起きた。
「か、和子はどうしたんだ。石原さんは和子が死んだって言っていた。」
「ええ、先日、石原さんから、飯島さんを見舞ってくれって頼まれたんですけど、その時、聞きました。本当にお気の毒です。和子さんは酔っ払い運転の車にひき殺されたんだそうです。」
「げ、下手人は捕まったのか。」
下手人などと言う思いも掛けない言葉が突いて出た。気が動転している。斎藤が怪訝な顔で答えた。
「ええ、犯人は捕まっていますし、罪も認めています。」
「で、石原さんは何と言っているんだ。」
「石原さんですか、彼は特に言ってませんでしたが・・・。」
「葬式はいつだ。」
「確か金曜だと聞いてますが。」
「今日は何曜日だ。」
「土曜ですから、もう終わってます。」
飯島は、点滴の針を抜いて、ベッドから起きあがった。斎藤は止めようとしたが、飯島はそれを振り切った。
「俺は、もう大丈夫だ。とにかく石原さんに会う。着る物はどこだ。」
「そんなこと分かりませんよ。この病院のどっかにあるんでしょうが、僕はさっき来たばかりですから。」
飯島は、斎藤からお金をふんだくると、その場を駆け出していた。スリッパのまま、病院前でタクシーを捕まえて、取り合えず家に急いだ。
家に着くと、部屋は乱雑を極め、拳銃がソファーの下に転がっていた。部屋に行って、箪笥に銃を隠し、急いで喪服に着替えると、飯島は駆け出した。駐車場の車に乗り込み、アクセルをいっぱいに踏み込んで、石原のマンションへと急いだ。
30分後、飯島は石原と向かい合っていた。既に葬儀は済み、白い布に包まれた和子がテーブルに置かれている。その小さな箱の中身が和子の全てだった。それを挟んで二人は無言でうな垂れていた。
少し前、飯島が駆けつけチャイムを鳴らすと、しばらくして石原がドアからのそっと顔を出した。何も言わず、飯島をこのテーブルまで導いた。
飯島の目に涙が滲んだ。石原の目に涙はない。時折、乾いた視線を飯島に向ける。飯島は変わり果てた和子を見詰めた。和子を抱きしめたかった。しかし、石原の手前それが出来ない。ふーとため息をつき、始めて言葉を発した。
「石原さん、何か言って下さい。俺を責めているんですか。」
「ええ、その通りです。貴方は、警察に例の写真のことを言っていなかった。」
「ああ、言ってない。でも、俺がそう証言したとしても、南はそんな事実はないと言い張った。死んでも認めないと言ったんだ。証拠の品がないのだから何を言っても無駄だ。」
「言い訳はよせ。和子が殺されたのはあんたのせいだ。あんたが和子を殺したんだ。」
石原の声が泣き声に変わった。その涙声を聞いて飯島の高ぶった感情が急激に醒めていった。
「ああ、俺は、何を言われても反論出来ない。もしかしたら、俺は本当に疫病神かもしれない。和子には申し訳無く思っている。」
「そうだ、あんたは疫病神だ。佐久間が、あんたに恨みを抱いた。そのために、和子は殺されたんだ。警察は、今度の犯人は前の事件と無関係と言っているが、絶対に関係している。事故じゃない。」
そう言って、目を赤く染め涙を貯めている。飯島が聞いた。
「犯人は捕まったと聞いたが、犯人は何と言っているのですか。」
涙を拭きながら石原が答えた。
「急に飛び出して来たって。マンションから急に飛び出して来たって言っている。だけど和子が跳ねられたのは、マンションの出口から5メートルも歩いた位置だ。マンションから飛び出したなんて嘘だ。」
飯島は石原の涙を見て、かえって冷静になれた。男二人で涙に暮れる姿なんて、飯島のプライドが許さない。飯島は泣きたい気持ちを無理矢理怒りに変えた。
「石原さん、警察はそのことについて何と言っているんです。」
「三枝は、つまり和子を殺した男ですけど、酔ぱらっていたし、暗かったので、そんな風に見違えたんだろうと言ってます。でも、あいつは和子を殺そうと待ち構えていたんだ。だってそうでしょう、飯島さん。あんたが、和子の命が危ないと言った直後に事故は起きたんだ。」
飯島はいよいよ冷静にならざるを得なかった。石原は参っている。あの冷静な判断を下す聡明な石原はそこにはいない。
「石原さん、落ち着いて下さい。よーく、考えて下さい。まず、その三枝はどんな男です。仕事は何です?」
「トラック運転手で、独身、酒と賭け事で家族にも見放された哀れな男です。」
「だとしたら、佐久間に雇われた可能性は大だ。しかし、警察は佐久間には経済的には困窮していると見ている。」
「でも、佐久間は西野家から金を強請ったと言ったじゃないか。その金で三枝を雇うことは出来たはずだ。」
「いや、それが証明出来ない。さっきも言ったが、南は写真など見ていないし、佐久間から脅迫された事実もないと言い張っている。」
石原は、深くため息をつき、頭を抱えてまた泣き出した。飯島が続けた。
「そして、その写真を見た唯一の証人の和子もこの世にいない。」
石原は涙を拭い、飯島を見つめた。そして言った。
「飯島さん、僕は、兎に角、頭が混乱している。どう考えたらいいか分からない。僕の現実はあまりにも酷過ぎる、普通じゃない。飯島さん、和子だけじゃない。僕は子供まで同時に失ったんだ。」
めそめそと泣き崩れる石原に、飯島は慰める言葉さえ失っていた。
翌日、飯島は立川に向かった。背中に拳銃を差している。佐久間が本当のことを喋らなければ、それで脅すつもりだった。
実を言えば、佐久間が狂っているとは言え、和子を殺す動機が思い当たらなかった。石原の言う通り、唯一の証人を消すという目的は、佐久間にとって大きな意味を持たない。佐久間の目的は何なのかそれをはっきりさせたかった。
病院の駐車場は離れた所に位置しており、車を降りて少し街なかを歩かなければならなかった。細い路地を抜け、広い道路に出た。そのはす向いに病院の入り口が見える。ぐっと腹に力を込め、病院に近づいてった。
自動ドアを通りぬけ、受け付けでルームナンバーを確認し、病室へと急いだ。306号室が佐久間の部屋である。ノックをし、反応を待たずにドアを強く押し開けた。そこは個室だった。新聞を広げる男がそこにいた。
佐久間が新聞から顔を出し、にやりとして飯島を見た。そして、野太い声を響かせた。
「良く来た、後輩。愛すべき後輩が見舞いに来てくれたよ、姉さん。」
ドアの陰になっていた白髪の女が飯島を振りかえって見ていた。佐久間に良く似ている。
「飯島、そんな怖い顔するな、それから姉さん、駅前の煙草屋でハイライトマイルド買って来て下さい。」
女は無言のままバッグをテーブルから取り上げ、部屋を出て行った。どこか暗い印象を引きずった女である。
飯島は、ベッドの横の椅子に腰掛けた。佐久間は笑顔を崩さず、無言の飯島に話すよう催促しているようだ。飯島が重い口を開いた。
「章子と関係を持ったのは、佐久間さんと駅前で飲んだ後だ。センターへ異動になって、やけっぱちになっていた。つまり、佐久間さんが離婚した後だということだ。」
佐久間は、飯島と章子が肉体関係を持った事実を掴んだ。そして、飯島が長年にわたり章子と浮気をしていたと勝手に思い込んだ。だからこそ、佐久間は態度を豹変させた。こう考えるのが筋だろう。
飯島は佐久間の顔の変化を窺った。その笑顔から感情が抜けてゆく。佐久間の薄い唇が僅かに開かれた。
「お前は役者だよ、まったく。俺は騙され続けた。結局、愛子はお前の供だった。これは誰も否定出来ない。もう、いかげん惚けるのは止めろ。」
「おい、何を言っているんだ。この前も言っただろう、俺は種無しだ。何で愛子ちゃんの親になれるんだ。」
「愛子ちゃんか、成る程ね。おっと、そうそう、君の元奥さんには気の毒なことをしたねえ。飯島君があくまでも嘘をつき通し、反省しないために、彼女は死ぬはめになったのだから。」
飯島の心の片隅に押さえ込んでいた激情が、いきなり炸裂した。佐久間の胸倉を掴み、背中から拳銃を取り出すと、佐久間の鼻先に付きつけ、怒鳴った。
「この気違い野郎が、やはり、貴様だったんだ。貴様が、和子を殺したんだ。その償いをさせてやる。」
「そうだ、俺が和子を殺した。ふん、気違いだと。俺を気違いにしたのは誰だ。」
「黙れ、殺してやる。いいか、これはモデルガンじゃない。本物のスミス&ウエッソンだ。カートリッジには7発の鉛弾が詰まっている。さあ、お祈りをしろ。」
飯島は本気で殺すつもりだった。和子の復讐を遂げることで、自分の人生を終りにしてもよいと思った。佐久間は狂気に満ちた目で、飯島を見詰め、そして言った。
「そうだ、飯島、俺はお前の元奥さんを殺した。そしていずれお前を殺すつもりだ。そうだ、飯島、今、ここで俺を殺せ。今、俺を殺すんだ。」
佐久間の眼差しには、強固な意志と狂気が入り混じり、その唇はわなわなと震えていた。直前まで、飯島は銃を見て怯える佐久間を想像していた。しかし、佐久間は自分を殺せと叫んでいる。一瞬、飯島は途惑った。
死を熱望する?佐久間の歪んだ唇から笑みが洩れる。ふと、風呂場での体験を思い出した。佐久間はあの時の自分と同じように恍惚の中にいるのではないか。あのライオンを挑発したインパラのように。死を賭す恍惚の中に。飯島の激情は一気に醒めた。
佐久間は死にたがっている。飯島は、思った。ならば殺すわけにはいかない。飯島は狂気から立ち直り、にやりとして言った。
「佐久間さん、何を死に急いでいるんだ。何故、そんなに死にたいんだ。」
佐久間は冷静を装いながらも、その視線は揺れた。
「別に死に急いでなんていない。いいか、俺は和子を殺したんだぞ。子供もろ共、殺した。分かっているのか。敵を討ちたいと思わないのか。何を躊躇している。貴様、それでも金玉をぶる下げているのか?」
「嘘を言うんじゃない。お前は死に急いでいる。つまり、自分が死ぬこと、そして、俺を殺人者に仕立て上げることが目的ならば、その手には乗らない。えっ、佐久間さんよ。」
と言うと、飯島は掴んだパジャマの襟を放した。佐久間が叫んだ。
「飯島、今、俺を殺して全てを終わらせろ。俺は罪もない和子を殺したんだぞ。」
飯島は立ち上がり、佐久間を見下ろした。そして言った。
「あんたは狂っている。俺も狂いかけてはいたが、幸いまだ正気が残っていた。あんたは、俺を狂わせて、自分を撃たせようとした。しかし、何度も言うが、俺はまだ正気だ。」
何と言うことだ。和子殺害の目的が飯島を殺人者に仕立てることだったとは。佐久間の狂気が肌を粟立たせた。佐久間を殺していたら、和子は浮かばれなかっただろう。飯島は、拳銃を背中に戻し、ドアに向かった。佐久間の怒鳴る声をが響いた。
「俺を殺さなかったことを、後悔させてやる。どういう意味か分かるか。恐怖に震えろ。明日か明後日か。いずれにせよ、いつかお前の命を貰いに行くぞ。」
第十四章
遠くで、電話の音が響いている。起きなければと思うのだが、夢うつつをさ迷う心地良さは、何ものにも代え難く、なかなか起き上がる気になれない。現実はあまりに悲惨で残酷だ。夢の中で生き続けられたら良いのに。目覚めつつある意識が、そんなことを呟いた。
電話はベッドの横に置いてある。朦朧としたまま受話器を取ろうとして、それを落とした。灰皿に当たってガチャンという大きな音がして、はたと目覚めた。飯島は受話器を拾い上げた。誰かが叫んでいる。
「飯島さん、聞こえますか。淺川です。飯島さん。淺川です。」
「ああ、聞こえているよ。ご免、ご免。受話器を落としてしまった。ところで、どうだ、うまくいっているか、探偵の方は。」
「ええ、先週土曜から始めてそろそろ一週間ですからプロ並ですよ。ところで、今なら、彼女を捕まえられると思います。六本木のハーベストっていうホストクラブに入っています。ボディガードがいますが、そいつは入り口で見張っています。」
「遊び回っているという噂は本当だったわけだ。しかし、ボディガード付きってことは、相当用心してるってことだ。」
「ええ、全くです。でも、ここでどのくらい居るのか分かりませんよ。早く来ないと。」
「ああ、分かった。そのハーベストの住所と電話番号を頼む。」
鉛筆を取り出し、それを手帳に書いていると淺川が言った。
「いったい、何をしよとしているんです。まさか、奥さんと接触して南に復讐するなんて言うんじゃないでしょうね。そんなことだったら、僕、いやですよ。」
「馬鹿野郎、俺はそんなことする人間じゃない。どうしても聞いておかなければならないことがあるんだ。とにかく、どうも有難う。助かったよ。」
「いえ、いえ、僕も有給休暇に入って暇だったからちょうど良かったですよ。それに実を言うと、以前から探偵やってみたかったんです。」
「そうか、良かった。とにかく有難う。感謝している。すぐに行く。待っててくれ。」
飯島は、今、渋谷のビジネスホテルに投宿している。一週間前、身の回りの物だけを持って家を出た。そして着る物は全て新しく買い揃えた。車も売り飛ばした。車が必要とあらば、借りれば良い。
去年の暮れから、次から次へとショックな事件が続いて、深く考える暇もなかった。しかし、よくよく考えてみれば、石原の事務所に盗聴機が仕掛けられていたということは、飯島の自宅にだってその可能性はある。
自宅で佐久間達の襲撃を待っている間、飯島は酔っ払い、感情が高まって佐久間をぶっ殺してやると、何度も叫んでいた。その声が佐久間に届いていたとしたらどうだろう。佐久間のあの日の態度も納得がゆくのである。
拳銃を入手したのは和子が殺される前だが、もし、和子殺害がそれ以前に計画されていたとすれば、向田とスキンヘッドの目的は、ネガの存在の真偽を確かめることより、飯島に拳銃を渡すことの方が本筋ではなかったか。つまり、向田も佐久間の仲間である可能性が出てきたのである。
あの時、佐久間は、飯島の殺意を喜んで受け入れようとした。殺されることを熱望したのだ。そして、佐久間は飯島がガンマニアであることをしっている唯一の男なのだ。それにもうひとつ、佐久間は飯島のある性格を熟知していた。
もし、あの時、激情に任せ引き金を引いていれば、飯島は、生涯殺人者のレッテルを背負い、悔恨の情に苛まれ、死ぬ以上の苦しみを味わったはずである。佐久間の熟知するある性格とは、激情と悔恨である。これこそ飯島を特徴付ける負の性質なのだ。
その負の性質を抑制する術を教えてくれたのも、また押さえ難い激情を鷹揚に受けとめてくれたのも佐久間だったのだ。もし、すべてが計画されたものだとするなら、正に彼ならでわのシナリオと言わざるを得ない。
恐らく、家は盗聴されている。反撃に出るために家を出た。飯島は一人で、相手は複数、しかもヤクザも絡んでいる。伸び放題の髪と髭が人相を変え、サングラスをかければ飯島と分かる者はいない。ジーンズに濃いグレーの革のハーフコートを買い入れた。
六本木は若い頃、随分と通ったものだが、今はかなり様変わりしている。ふと昔の記憶が蘇り、淺川の言っていた場所を心の中にイメージすることが出来た。考えてみれば、そこは章子と最初に待ち合わせた場所からさほど離れていない。
飯島は六本木の夜の街を散策しながら、徐々に目的の場所に近付いていった。若者が集まる場所から遠ざかり、クラブやバーがひしめくネオン街に、そのビルディングはある。時計をみると既に9時を少し回っている。
行き交う人々は、それぞれの社会に属し、その中で苦悩し足掻いている。そこから逃げ出すわけにもいかず、そこで生じるストレスを、酒、異性、ギャンブルに発散させている。それは今も昔も少しも変わりはしない。
勤め人風の若い男女のグループと擦れ違った。二次会に向かうのだろうか、笑ったり、叫んだり、騒ぎながら飯島を追いぬいていった。ふと、若者達を憮然と眺める自分に気付き苦笑いした。自分にもそんな時代があったことを思い出したのだ。
その時、一人の若い女が笑いながら振り向いた。飯島は女に章子の面影を重ねた。苦い思いが蘇る。南の腕にすがりながら、章子は振り向き、はにかむような笑顔を作る。見詰め合うその一瞬の淡い思いが心を焦がす。盛り上がった後の空しさ、二人がホテルに向かう後姿を見送るやるせなさ。飯島は溜息をついた。
トレンチコートの襟を立て、暗がりで目を光らせる淺川を見つけて、飯島は思わず吹き出した。まさに探偵を絵に描いたようだいでたちだ。でも目立ちすぎる。向かいのビル入り口に立つヤクザを見張っているのだ。まさに探偵になりきっている。
後ろに回ってそっと近づいて、背中を押した。淺川は悲鳴をあげて30センチほど飛び上がった。ヤクザがその声に気付いて、ゆっくりと近づいてくる。淺川はそれを見て、脱兎のごとく駆け出した。背中を押したのが飯島だと気付かずに逃げ出したのだ。
男は近くまで来て飯島に気付いた。
「今、声をあげたのはお前か?」
飯島は後ろを振り向き、指差して言った。
「いや、この道を全速力で走っている男がいるだろう。あいつが悲鳴をあげたんだ。俺じゃない。」
「お前はここで何をしている。」
「南香織さんがハーベストから出てくるのを待っている。」
男の顔に緊張が走った。手がすばやく胸に滑り込む。すかさず、飯島が言った。
「怪しい者ではない。ニシノコーポレーションの飯島と言う。これが名刺。」
名刺を差し出すと、男は左手でむしりとるようにして、目の前にかざした。
「資材物流センター長だって。なんでそのセンター長さんが、常務の奥さんを、こんな所で待ち伏せしている。まして、どうして奥さんがここにいると分かった。」
右手は胸に差し込んだままだ。
「さっき逃げて行った男が奥さんとあんたの後をつけて来た。そしてこの場所を俺に知らせてくれたんだ。奥さんは、俺の名前を言えば必ず会ってくれる。もし、ここで俺を追い返せば、あんたは奥さんにこっぴどく怒られることになると思う。」
「俺が、お前が来たことを黙っていれば分からない。」
「ここで会えなければ、家に電話するまでだ。」
男は、むっとした表情を浮かべたが、しかたなさそうに携帯をとりだし、ボタンを押した。
「奥さん、村尾です。飯島って野郎が、奥さんに会いたいと言って、入り口に来ています。追い返しますか。」
はい、はい、と短く答え、受話器を手で覆い、
「どちらの飯島さんですか?」
と聞いた。丁寧語になっている。
「ニシノコーポレーションの飯島だと言ったはずだ。南常務の元友人だと言えば分かる。」
間もなく香織が出てきた。まさにあの写真の女だ。恍惚とした女の顔が脳裏に浮かんだ。コケティッシュな雰囲気はそのままだが、35歳のわりには化粧が濃い。香織はふてくされたような顔で、飯島を睨み付けいてる。ふっと息を吐いた。
「私に何の用なの。」
「どうしても話がしたかった。」
「飯島さん、例のものをもっているって、嘘を言ったそうね。」
「ああ、売り言葉に買い言葉だ。」
「その嘘で痛い目にあったんでしょう。もし、ここで変なことをすれば、今度は容赦しないわよ。」
男が飯島の斜め前に一歩進み出た。飯島は男を無視して、香織に話しかけた。
「香織さん、実は、女房が殺された。」
これを聞いて、両目を見開き、「嘘」と言って口を大きく開いた。遅れて両手がその口を覆う。飯島が続けた。
「女房は、二ヶ月前、ホテルで二人の男に襲われた。幸いにも未遂に終わったが、まさか今になって殺されるとは思いもしなかった。」
香織の顔は固まったままだ。次の瞬間、はっとして、もじもじとしている。そして消え入るような声で言った。
「何と言って、お悔やみ申し上げればよいのか。何て・・・」
「ですから、どうしても香織さんの話が聞きたいのです。」
「分かりました。静かな所で話しましょう。」
香織は先に立って歩き出した。
5分も歩いただろうか。その間、二人とも無言だった。ボディーガードが二人の後に続く。南の女房は、小料理屋の前で立ち止まり、飯島に一瞥を与え、暖簾をくぐった。ボディーガードは店の入り口で待機した。
店はそれほど広くない。カウンターと四つのテーブル、奥にこじんまりとした座敷が二つあるだけである。香織は迷うことなく、座敷に向かった。店主と思われる老人が、一礼して迎えた。
二人は真正面で向いあうことになった。少し間違えればどんぐり眼になりそうな大きな眼が愛くるしい。西野会長が40歳の時の子ということになる。よほど可愛がられて育ったのだろう、人を疑うことのない育ちの良さが表情に表れている。
飯島は、ふとあの扇情的なシーンが思い出し下半身が疼くのを感じた。しかし、和子のことを思い出し、改めて神妙な顔を作った。香織も神妙な表情を浮かべながら口を開いた。
「結婚式でお二人を拝見しただけなのに、何故か、その時の、飯島さんも、奥さんも、よく覚えています。お幸せそうな、お二人が、未だに心に焼き付いております。」
飯島はあの結婚式のシーンを思いだし涙ぐみそうになった。結婚前、章子との嵐のような恋愛が終焉を迎え、和子しかいないことに気付いた。章子との浮気はばれていた。営業で何度も使った土下座をくり返し、飯島はようやく結婚式に漕ぎ着けたのだ。
その和子が誰かに殺された。和子の無念の思いが飯島の心の中で渦巻いていた。ようやく子供を授かったのだ。その和子の悔しさを思うと胸が張り裂けそうになる。目をしばたかせ、涙を絞った。飯島が静かにこれまでの出来事を話し始めた。
和子の妊娠、離婚、そして、思わぬ悲劇に触れた途端、深い溜息がついて出た。飯島は言葉を飲み込み、押し黙った。脳裏に和子の屈託のない笑顔が浮かび、それが一瞬にして涙顔に変わる。飯島が漸く言葉を発した。
「その子供もろとも命を奪われました。何としても、彼女と子供のために真実が知りたい。さきほども言いましたが、未遂に終わったが、和子もホテルで襲われた。貴方と同じようにね。」
香織は、ぴくりと体を動かしたが、うつむいたまま飯島の話を待った。
「女房をホテルで襲った犯人は二人だが、佐久間は加わっていない。しかし、警察の調べでは、一人は50歳前後、身長175センチ、所謂スポーツマンタイプでがっしりとした体格。もう一人は、年齢は少し上で、身長はそう大きくはない。そう165センチ弱、中肉中背だ。」
飯島は女の反応を待った。女は、何度か口を動かそうとするが、押し黙ったままだ。しかたなく飯島が質問した。
「あなたを襲ったのは、佐久間ともう一人の男だ。そいつはどんな男だったんですか。」
ようやく女が口を開いた。
「その男は、私より少し背が高いくらいで、年の頃は50才くらいだったと思います。とある飲み屋で知り合ったのですが、とっても話がうまくて、笑わされっぱなしでした。でも、お店を出る時から記憶がないのです。何か薬を飲まされたのだと思います。」
「ええ、写真でもそんな様子で映ってました。心ここにあらず、そんな感じでした。そうですか、お気の毒に。」
一呼吸置いて、飯島が聞いた。
「つまり、あなたを襲ったのは二人で、佐久間ともう一人の男。そのもう一人の男の方は和子を襲った男と背格好が似ている。他に何か特徴はありませんか。」
「そうですね、年の割りに黒髪がしっかり生えてた。剛毛って感じ。それにポマード臭かった。」
「なるほど。そして、顔も油を塗ったように光っていて、金縁の眼鏡をかけている。そうじゃないですか。」
「ええ、そうです。でも、な、何で知っているの。その男のことを。」
思った通り竹内である。飯島は女の質問には答えず、深い溜息をついた。ある程度覚悟はしていたが、蛇のように執念深い人間を敵に回したことになる。
飯島は、確信に触れようと口を開きかけたが、途中で止めた。襖が開いて、店主が顔を出したからだ。お盆にお銚子とお通しを載せて、テーブルに置いた。物静かに、
「他に何か、」
と言って返事を待っている。女が答えた。
「お酒、一本じゃあ足りないわ、二合徳利を2本持ってきて。飲まずにはいられないの。」
その瞬間、それまでの神妙な態度をかなぐり捨てるような、そんな雰囲気を感じさせた。 飯島は酒を注ぎながら嫌な予感に捕らわれた。杯を合わせ、乾杯すると女は一気に飲み干し、今度はビールを飲んでいたコップを突き出した。
「飯島さん、私、飲まずにはいられない体になってしまったの。あれ以来、浴びるようにお酒を飲むようになったわ。」
「ええ、分かります。そうとうにショックだった。分かります。」
「ショックなんてもんじゃないわ。プライドをずたずたにされたのよ。女のプライドよ。」
飯島は何と言っていいのか分からなかった。
「お父様に、お願いしたわ。佐久間を殺してって。飯島さん、殺しても許されるんじゃありません?神様は許してくださるんじゃありません?」
香織は日本酒をあおるように飲み続けた。まるで早めに酔って理性を失いたいかのようだ。そして飯島の予感は当たった。香織は飲み続け、酔いにまかせて飯島ににじり寄り、しなだれかかるようになった。女体の芯が疼いている。そんな印象を受けた。
しかし、飯島は香織を受け入れることなど出来ない。南と兄弟になるなどまっぴらだった。飯島には香織が完全に酔っ払う前に、どうしても話さなければならないことがあった。酒を注ぎながら、飯島が聞いた。
「何故、佐久間の脅迫のことを警察に訴えないんです?」
「とんでもございませんわ。だって、その脅迫はまだ続いていますもの。」
「ああ、そうだろうと思った。しかし、いつまでも脅迫に屈しているわけにはいかんでしょう。一生金を払い続ける気かですか。」
「お金の要求は、私の知る限り最初の一回だけだったわ。その後はないって聞いている。」
「しかし、南の旦那は、あんたを襲った男と名古屋で酒を飲んで、お酌までしていた。」
「何ですって、あの佐久間にお酌をしていたですって。」
「いや、もう一人の男だ。竹内という名だ。」
「えっ、まさか私に薬を飲ませた男と?そんな馬鹿な。いったい何故。」
「俺は、竹内が例のネガのコピーを持っていて、南を強請っているんじゃないかと思っているんだが。」
「そうね、その可能性はあるかもしれない。結局、ネガも何枚もコピーしてあったってことよ。」
「ところで、さっき脅迫はまだ続いていると仰ったけど、詳しくお教え願えませんか。」
「飯島さん、撮られたのは写真だけじゃなかったの。DVDにも収録されていて、会社の誰かに渡してあるそうよ。でも、まさか音声入りの動画まで撮っていたなんて。」
飯島が頷く。香織が続けた。
「警察に言ったり、佐久間に危害が加えられれば、全社員のパソコンにそれが流れるんですって。だから、手も足も出ない。でも、あなた、絶えられる。あそこ丸出しの写真、会社のみんなに見られるの。私は自殺するわ。」
飯島は、佐藤電算室長の顔を思い浮かべた。佐久間が佐藤に接触していたことは確かだ。佐藤であればそんなプログラムを作ることなど朝飯前であろう。佐藤も佐久間の仲間になったのだ。考えてみれば、竹内も佐藤も佐久間と同期なのだ。
「もう一つだけ聞きたい。香織さんは向田敦っていう男を知っているんじゃありません。」
この質問に対する香織の反応は意外だった。飯島にしなだれかかっていた体がぴくんと反応したのだ。背中に置いた手でそれを感じた。俯いたまま香織が答えた。
「その方、今回の事件に関係しているの?」
「いや、関係しているのか否か、知りたいから聞いたんだ。」
香織はしばらく黙っていたが、大きく深呼吸した。そしてグラスをつかみ、それを一気に飲んでテーブルに叩き付けた。幸いにもグラスは砕け散ることはなかった。香織が舌を躓かせながら言った。
「そうそう、飯島さん。面白い話、聞かせてあげるわ。南は、あなたに嫉妬していたわ。最初から最後まで。あなたの情報は逐一私に入っていたの。南だけじゃなくて、父も兄もあなたのことを口にした。だから、あなたのことは、他人とは思えない。」
明らかに、話を逸らせたのだ。次の言葉を待ったが、下を向いて何かを考えているようだった。飯島が話を促した。
「南に嫉妬されたなんて初耳だ。俺が本社に居たのは最初の10年だけで、後は名古屋支店と東京支店だ。本社の南とは関わりを持っていなかった。」
「南は、私と結婚以来いつでもトップだった。でもそれは私あってのトップだったのよ。でも飯島さんは、実力でトップを維持していた。南にはそれが許せなかった。あなたが、そう、邪魔だったの。でも、本当に邪魔な理由は会社以外に別にあったのよ。」
そう言うと、香織は煙草に火をつけて、飯島の目を覗き込んだ。そして言った。
「あの人は私と結婚した後も、章子と続いていた。でも章子が本当に好きだったのは飯島さん、あなただった。それこそ、南があなたを嫉妬していた本当の理由なのよ。何故私がこんなこと知っていると思う。」
香織はいたずらっぽく笑って続けた。
「私立探偵を使って南の電話に盗聴機を仕掛けさせたの。私に聞かれているとも知らず痴話喧嘩していた。南が電話で怒鳴った。もう、飯島のことなんて口にするなっ、ですって。笑っちゃうじゃない。」
笑顔を作ろうとするが、目は座ったままだ。
「私は、あの人にとって出世のための単なる道具でしかなかった。本当に愛していたのは、佐久間章子だったのよ。」
「南と章子は、ずっと続いていたわけか?」
「とんでもない。私が許すものですか。飯田組を使ったわ。章子の泥棒猫にも脅しを掛けた。南は私に逆らうことなんて出来ないのよ。絶対に。」
と言って、虚空を睨みつけたかと思うと、次ぎの瞬間、香織は泣き崩れた。この時、南の苦虫を噛み潰したような顔を思い浮かべた。あの顔の原因が目の前にいる。少しだけ南を哀れに思えた。
先程から香織は、飯島の横に席を移していたのだが、泣き崩れた香織は飯島の股座に顔をうずめている。次第に、下半身がむくむくと起き出してくる。膝を動かして、それを隠そうとするのだが、香織がその動きに合わせて顔を移動する。
しまいには、勃起したそのものを頬で愛撫していた。飯島はふーっとため息をつき、香織の肩を抱きながら言った。
「香織さん、俺の下半身は俺の意思を無視している。」
「あなたの意思って。」
「南と兄弟になるつもりはないってことだ。」
「でも、もったいないわ。こんなに硬くなっているのに。」
飯島は香織を抱き起こした。そして言った。
「香織さん、そろそろ終いにしよう。俺は佐久間に命を狙われている。その気にはなれない。息子は不肖の息子だ。俺の意思を無視しやがって。」
香織は、飯島の話を聞いていないのか、ねっとりとした妖艶な視線向けた。誘っているのは明らかだ。飯島はそれを無視して唐突に聞いた。
「最後に、もう一度、聞いておきたい。君と向田敦との関係は?」
「私、向田敦なんて名前、知らない。」
「その名前を言ったとき、君の体がピクンと反応した。」
「向田敦、ふーん、覚えがない。いったい誰なの、それ?」
その顔は本当のことを言っているのか、それとも惚けているのか判然としない。これ以上聞いても無駄だと悟った。香織が急に拳を振り上げ激昂して叫んだ。
「ふざけんじゃない。南の馬鹿野郎が。私を舐めるなよ。ビデオのことで私を責めようと思っていたようだけど、自分だって散々好き勝手やってきたじゃない。ふざけんじゃないよ。あれは所謂事故よ。薬を飲まされたんだから避けようがなかった。それを責めるような目つきしやがって。ホスト遊びでもしなけりゃ納まらない。」
罵詈雑言は延々と続いた。
しばらくして、言葉に詰まった。最後の言葉を何度か繰返した。そして、ふうふうと深呼吸をし始めた。香織は、そのまま、ばたんと畳に倒れ、顎を着けて眠り込んだ。香織が、竹内に垂らし込まれたのが頷ける。香織をホテルに連れ込むのに、睡眠薬など必要なかったのかもしれない。
飯島は弱り果て、襖を開けると、店主を呼んだ。店主は苦笑いしながら、カウンターから出てきた。
「どうも、ご苦労様です。ようやく眠りましたか。」
「いつも、こんなに酔っ払うんですか。」
「さあ、どうですか。」
店主は分けの分からない返事でお茶を濁した。飯島は外に出ると、ボディーガードに声を掛けた。
「奥様は、おねむだ。」
第十五章
夜中に目覚めた。時計を見ると、午前4時をまわっている。ざわざわと胸騒ぎがして、背中にひやりとする感覚が走った。昨夜、石川から連絡が入り、竹内が名古屋を発ったったと言う。しかし、この隠れ家を発見されることはないとたかを括っていた。
ドアの方でカチッという音が聞こえた。飯島はベッドの下から拳銃を取り出し、むっくりと起きあがった。ドアに近付いて耳を済ませた。誰かがドアの鍵を開けようとしている。微かに金属の触れ合う音がする。
飯島は静かに後ずさりして、ベッド脇のフットライトを切り、枕を二つ、毛布の中に入れて膨らみを作った。そして、出窓に上って遮光カーテンの裏に身を隠し、隙間から部屋の様子を窺った。
すると、ドアが僅かに開かれ、男が部屋の中を覗き込んでいる。逆光のため顔は見えない。ドアチェーンにタオルを巻いている。終わると、ボトルクリッパが差し込まれチェーンが切断された。男がゆっくりと部屋に踏み込んだ。手には拳銃が握られている。
ベッドの前まで来ると、黒い影は方向を変えた。廊下の光が微かに男の横顔を浮かび上がらせたが、覆面をしているようで、顔の凹凸ははっきりしない。男は、低い声を発した。
「おい、飯島、起きるんだ。お迎えに来たぞ。先輩が待っている。起きろ。」
男はベッドの方に数歩近付いた。飯島の潜む出窓から見ると背を向けたかっこうである。飯島は息を殺し、出窓から降りた。銃を両手で構え、男に声をかけた。
「お迎え、ご苦労さん。」
男は振り向きざまに銃を向けようとしたが、一瞬はやく飯島が自分の銃でそれを叩き落した。飯島は銃を構え直し叫んだ。
「動くな、動けば撃つ。手を上げろ。」
こんな台詞を現実に吐こうとは想像もしなかった。飯島は、映画の主人公にでもなったような気持だ。
「お前の左の壁に電気のスイッチがある。点けろ。」
男は、観念したように背を向けてスイッチの方に近付いた。ぱっと部屋が明るくなった。飯島が言った。
「さあ、ゆっくりとこっちを見るんだ。そして覆面を取れ。」
男はくるりと振りかえりながら、右手で覆面を取った。その顔を見て、飯島は和子を襲ったヤクザだと確信した。和子の記憶に微かに残った男の特徴、ごつい顔つき、まさにその通りである。男は冷酷そうな目を細め、にやりとして口を開いた。
「あんたに、俺が撃てるか。」
「安心しろ、撃ち殺してやるよ。和子のお腹には子供がいた。それをお前等は容赦なく殺した。死んでその償いをさせてやる。」
と言って、銃口を男の右目に押し当てた。男の左目は恐怖に揺れた。その瞬間、入り口で誰かが叫んだ。
「正一、伏せろ。」
飯島の視線がドアの方に向けられた瞬間、ヤクザが右脇に伏せた。と同時に飯島は左に飛んだ。銃弾が体を掠めた。その瞬間、時間がゆっくりと流れ始めた。浮いた体は壁めがけて飛んでいる。飯島は冗長な時間の流れの中、廊下で銃を構える男を凝視していた。
男はやはり黒覆面で顔を隠しているが、金縁眼鏡と鋭い目つきで竹内だと分かった。飯島は拳銃の照準を竹内の心臓に合わせた。しかし、一瞬の逡巡の後、それを僅かに右上にずらした。竹内は拳銃を飯島にゆっくりと向け始めた。
その引き金が引かれる寸前、飯島の銃が火を吹いた。轟音が響く。銃弾は竹内の左肩を貫いた。その反動で竹内の右手が左にずれ、それでも、ブス、ブス、ブスという発射音とともに銃弾が発射された。
飯島の体は壁に激突した。頭を打って一瞬朦朧としたが、なんとかドアの方向に銃口を向けた。すると、肩から血を流した竹内がドアに姿を現した。飯島が銃を構えているのを見て、すっとドアから消えた。
飯島はようやく立ちあがった。見ると、ヤクザが血だらけで倒れている。竹内の銃弾が3発とも当たっている。首筋に指を当ててみると、鼓動はない。よほど運のない男のようだ。よりによって仲間の流れ弾に当たるとは。
飯島は、拳銃を構えて廊下を窺った。血痕が廊下に残されている。竹内は非常口から逃走したようだ。飯島は迷った。このまま逃げてしまおうか。しかし、銃声に驚いて、回りの部屋の客が起きだしている。もう時間がない。飯島はしかたなく警察を呼ぶことにした。
警察の取調べは、ホテルで1時間、新宿警察署で3時間にも及んでいた。吉益と名乗る初老の刑事は、ねちこく何度でも同じ質問を繰返した。
「でも飯島さん、何故襲われたのか分からないと言うけど、拳銃で撃たれるなんて普通の市民ではあり得ないよ。」
「だから、さっき、説明したでしょう。私は、これまでの一連の事件が、佐久間と竹内の仕業だと言っているのに、それ以外の原因に心当たりはありませんか、なんて聞かれたって、分かりませんて言うしかないじゃないですか。」
「佐久間ねえ、よく分かんないんだけど、その佐久間さんは、元の奥さんを殺したと告白したんだね。それじゃあ、逃げたもう一人の男が佐久間ってことだ。」
「何度も言わせないで下さい。あれは竹内という男で、佐久間は入院してますって。」
「だけど、奥さんをひき殺した男と佐久間の関係も証明出来ないわけでしょう。それに、佐久間が何人もの配下を使って、女を強姦してAV撮ったり、人殺しをしたり、そんな荒唐無稽な話、テレビの刑事物ならいざ知らず、現実にはあり得ないよ。」
「だから、さっきも言いましたが、臼井建設に聞いてみてくれよ。大きな金が竹内に渡っている。その金を使って人を動かしているんです。」
「だけど、その竹内は覆面をかぶっていたんでしょう。どうしてそれが竹内って証明できるの?」
「八王子のホテルの従業員が竹内と殺された男の顔を見ているはずです。竹内を捕まえて肩に銃弾を受けた傷があれば、それで証明される。」
「しかし、お金のためにそんな酷い事件を引き起こす連中って、全部で何人なんだ。その佐久間と竹内と殺された男…それと?」
「そんなこと、僕に分かるわけないでしょう。今言えることは、あの部屋で死んだ男は間違い無く竹内の仲間だってことです。とにかく佐久間の周辺を洗えば、何か出てくるはずです。」
「しかし、まあ、何と言うか、あんたの言うその殺人集団は、佐久間が主犯格で、リストラされたことや自分の元奥さんが寝取られたことの恨みを晴らすために殺人を繰返しているわけね、何か、ちょっと眉唾だね。まあ、そのことは、追々調べてるとして・・・・。」
飯島はため息をついた。吉益刑事が上目使いに飯島の顔色を窺がいながら聞いた。
「その、なんだ、飯島さんがそのヤクザから拳銃を奪った。その直後、外の男が叫んだわけだ。」
「ええ、正一、伏せろってね。」
飯島はひやひやしながら答えた。向田から買った拳銃を、死んだ男から奪ったと嘘をついた。つまり、死んだ男が銃を二丁持っていたことになる。吉益はその嘘も疑っている。
「でも、飯島さん。俺たちだって、半年に一回、拳銃を撃ちに行くけど、あれ殆ど当たらないよ。おたくは、飛びながら、外の男めがけて銃弾を一発お見舞いしたわけだ。だけど初めての人が、何で当たるわけ。ジェームス・ボンドじゃあるまいし。」
「だって、当たったんだからしょうがないでしょう。俺にだって何で当たったかなんて答えようがないでしょう。」
もういい加減、こんなやり取りはご免だった。飯島は、何度も八王子警察署の花田を呼んでほしいと訴えていたのだが、吉益はのらりくらりと惚けて、電話しようとしなかった。
「吉益さん。いい加減、八王子警察の花田さんに電話して下さいよ。その人が、別れた女房の襲撃事件の担当刑事なんです。」
吉益は不機嫌そうな顔をしていたが、しかたなさそうに電話を手に取った。花田まで辿り着くのに多少時間がかかった。吉益が、花田に事情を説明しているあいだ、飯島は吉益の煙草を頂き、火を点けた。
しばらくして、吉益が受話器を飯島に差し出した。受話器の向こうから花田刑事の声が響いた。
「事情は聞いたよ。どうやら、あんたの言っていたことに真実味が出てきた。でも、良かった、あんたが死んでいたら、俺も寝覚めが悪いよ。あんたの元奥さんが事故で死んだと聞いて、厭な予感がしていたんだ。兎に角、今日の所は、帰すように言っておいたから、ゆっくり休んでよ。」
「ああ、兎に角、昨日から殆ど寝ていない。」
「検死解剖で、そのヤクザに撃ち込まれた弾と、あんたの撃った弾、つまり壁から採取された弾とが違うと分かれば、あんたの容疑は晴れる。また呼び出しが掛かると思うけど、協力してやってくれよ。」
「ええ、分かりました。兎に角、俺の言っていたことは全て本当のことで、妄想なんかじゃありませんて。竹内の写真を手に入れて、八王子のホテルの従業員に見せて下さい。」
「分かった、分かった。事件の匂いがしてきた。最初から調べ直してみるよ。」
「そうして下さい。」
飯島は電話を切った。
とはいえ、飯島が開放されたのは12時を過ぎていた。雑踏のなか、飯島は気が気ではなかった。誰かが自分を狙っている。石原が言うには、警察はトラック運転手、三枝の周辺を徹底的に探ったが、佐久間との繋がりは何一つ見出せなかったという。ということは、すれ違う誰でも殺人者でありうるということである。
周りを窺いながら、飯島はようやく新宿駅までたどり着いた。駅の構内で、石原の事務所に電話すると、新入りの事務員が出て、今日は休んでいると言う。飯島は、携帯を切って歩き出した。石原はまだ立ち直っていない。飯島はため息をついた。
行き交う人々が皆怪しく思える。中央線に乗って、席を確保し、目を光らせながら八王子を目指した。行き先は石原の自宅マンションである。緊張しているとはいえ、座席の暖房がぽかぽかと暖かく、飯島は睡魔と戦い、目を無理矢理開いている。
飯島は先程の不思議な体験を思いだしていた。やはり以前から考えていた通りだった。あの時、危険を感じて左に飛んだ。その瞬間、時間がゆっくりと流れ始めたのである。飯島はその瞬間を思い出し、ぞくぞくするような興奮を味わった。
実を言うと、飯島はこの時が訪れるのを長年待ち望んでいた。不思議体験で分かったことは、時間は冗長に流れるが、意識は全く正常に働くということである。従って、もし正常な意識でいつものように体を動かせれば、それは驚異的な速さになるはずである。
そして現実は正にその通りになったのだ。信じられない奇跡が起こった。だが、ふと、疑問が湧いた。本当に時間がゆっくりと流れたのか、それとも意識と体が極端な速さで動いたのか、どちらであろうか。飯島はいつのまにか深い眠りに陥っていた。
石原は眠そうな目を擦りながらドアを開けた。目が合うと、一瞬迷惑そうな顔をしたが、すぐにドアチェーンを外した。飯島は広いリビングに通された。石原は無言のままキッチンへと消えた。
飯島の部屋ほどではないにしろかなり雑然としており、高級そうな輸入物の酒瓶がいくつも転がっていた。石原は、カンビールを二つ持って、リビングルームに戻ってきた。一つをテーブルに置いて、自分は先にキャップを開けて飲み始めた。
暖房は入れたばかりで、部屋はまだ寒い。ビールなど飲む気になれない。石原は恐らく二日酔いの迎え酒なのだろう。それほど飲める口ではなかったはずだ。石原の傷が癒えるのには相当時間がかかりそうである。飯島が口を開いた。
「今日、和子を襲った二人に、俺も襲われた。午前4時、中野のビジネスホテルに押し入ってきた。家は見張られているような気がして、ずっとそのホテルに身を隠していた。二人のうち、一人は死んだ。不運にも、仲間の撃った弾でね。」
石原は、黙って聞いている。
「警察に知らせて、取り調べが終わったのが、11時頃だ。ようやく調書にサインして、帰してもらった。」
石原は目を閉じて、なお沈黙している。石原は、足を組みなおし、ビールを口に運んだ。頭の中を整理しているのか、目はつぶったままだ。飯島が続けた。
「あの日、石原さんと別れてから、立川の病院で佐久間に会った。本当に殺してやりたかった。あいつは、またしても俺に告白したんだ。和子を殺したってね。」
石原はちらりと飯島に視線を走らせた。憎悪を漲らせ口走った。
「殺してやる。絶対に殺してやる。」
「いいや、石原さん。それは止めておいたほうがいい。奴は殺されることを望んだ。奴は心底死にたがっていた。」
石原が頭を抱え込んでため息とも悲鳴ともつかぬ声を発した。飯島が続けた。
「それから、一昨日、南の女房と会った。ちょっと聞きたいことがあったからだ。どうやら、彼女と別れてから、誰かに後を付けられたようだ。その日の深夜に襲われたのだから。」
飯島は、あのボディーガードを思い浮かべていた。あの男は拳銃を胸に吊るしていた。ということは向田の仲間の可能性がある。あの夜、外にいたあの男は向田に連絡できたはずだ。向田敦のことがどうも気になる。
佐久間は死にたがっていた。和子を殺したのは自分だと言い切った。そして飯島の手には拳銃が握られていた。つまり、向田が、飯島に拳銃を渡す役割を担っていた可能性は否定できないのだ。石原が聞いた。
「南の女房に何を聞きたかったのです。」
「敵が、誰なのかを知りたかった。敵が分からなければ戦えない。それに佐久間を警察に訴えるように説得するつもりだった。」
「それで。」
「南の女房を襲ったのは、佐久間と竹内という男、そして和子を襲ったのは竹内と昨日ホテルで死んだヤクザだ。和子襲撃に佐久間が加わらなかったのは、和子が佐久間の顔を知っていたからだと思っていた。」
「違うのですか。」
飯島は、言葉を発しながら考える傾向がある。今、脳裏を掠めた考えは重大な鍵になる。飯島はその直感を信じた。そして考え込んだ。思考を巡らせていると、閃光が脳内にひらめいた。そして、ある結論を導き出した。
「ああ、違う。和子が襲われた時、佐久間は石原さん、あんたと会ってた。そうとしか思えない。」
「そんな馬鹿な。内海さんは立派な方だった。あれが佐久間のはずがない。」
「いや間違いない。石原さんは佐久間と会っていたんだ。ところで、事務所は盗聴されていたんでしょう。」
「ええ、警察が調べて、電話とコンセントから盗聴機を発見しています。だからこそ犯人達は和子がホテルに来ることを知っていた。そうじゃないんですか。」
「ああ、警察はそう判断するだろう。つまり、襲うのはホテルでなくてもよかった。たまたま、自分達が泊まっているホテルに来ることを知って、和子をホテルで襲うことにした。そんな都合の良い話があってたまるか」
「でも、それ以外考えようがない。」
「警察は知らないが、我々は、あの写真のことを知っている。奴等の目的は、和子を辱め、その写真を撮ることだったはずだ。そうじゃないですか。奴等は、カメラやビデオ、そして照明器具を用意してあの部屋で待っていたはずだ。あのホテルで襲うことが前提だった。」
「何が言いたいのですか。」
「つまり、ホテルで襲うことが目的だとしたら、誰かが、そこに来るよう和子に指示を与えなければならない。そして和子が何の疑念も抱かずにホテルの部屋に来るとすれば、指示する人間は限定される。つまり、石原さん、あんたしかいない。」
飯島はここで一息いれた。そして続けた。
「つまり、竹内とヤクザは、和子がホテルに来ることを予め知っていたことになる。石原さん、どうして和子をホテルに呼んだのです?」
「どうしてって、依頼人が仙台の代理人に戸籍謄本を速達で送るよう指示したのですが、代理人は誤って普通郵便で送った。速達であれば朝着きますが、普通郵便だと午後になります。つまり、依頼人と11時に約束していましたが、出かける直前まで届かなかったので、午後一だと判断して和子に持ってくるよう指示したのです」
「どうやら、読めたぞ。それが佐久間の策略だったんだ。最初から約束の時間に間に合わないよう普通郵便で送っておく。当然、午後届く戸籍謄本を和子が届けることになると読んでいた。だから竹内等は前日からチャックインして待機していた。」
「しかし、内海さんは40代初めくらいでしたよ。確か、佐久間は56歳でしょう。私だって、そのくらい区別できます。」
「なにー、40代初めだって。そんな馬鹿な。」
「でも、飯島さん、その仮説は良い線いってますよ。確かに、仰る通りで、私が和子に郵便を届けるよう指示しなければ、佐久間の目的は達成されなかった。佐久間の目的を知っていれば、飯島さんの言うように、内海が佐久間の仲間であるという仮説が成立する。もしかしたら、僕も騙されていたのかもしれない。」
「内海はどんな相談をされたんです。」
「内海は、複雑な家庭環境での遺産相続を相談に来られたんです。内海の義理の親はまだ死んでおらず、相談そのものが秘密でした。内海さんは、都内の方なので、わざわざ遠くの八王子の弁護士を探したと言ってました。」
石原は目をつぶり、記憶を手繰り寄せ、頭を整理してるようだった。目を開けると言った。
「兎に角、今、内海さんに電話を入れてみましょう。」
と言って、名刺ファイルをテーブルの下から取り出した。ほどなく内海の名刺を探しだし、ダイヤルを押した。しばらくして相手が出たようだ。石原が話し始めた。
「あっ、どうも、弁護士の石原です。その節は、お役に立てたかどうか、心配だったものですから。」
その後に、石原の怪訝な反応が続いた。そして最後に言った。
「どうやら、私の勘違いのようです。」
そう言って、石原は電話を切ると、振り向きざまに、言った。
「確かに、内海は偽者です。どうやら私も事件に巻き込まれていたようだ。くそっ。」
石原は悔しそうに顔を歪め、目には涙を浮かべている。飯島は石原の女々しさを遮った。
「石原さん、ちょっと寝させてくれませんか。昨晩はあまり眠れなかった。それにビールじゃなくて温かいお酒があれば、それもちょっと。」
石原は涙を拭いながら立ちあがった。
「分かりました、そのソファで寝て下さい。毛布とお酒を用意しましょう。」
そう言うと、石原は部屋を出ていった。飯島はソファに横になった。昨夜の酒がまだ残っている。温風ヒーターの温かな風が心地良い。瞼が重くのしかかってくる。飯島はそのまま夢の世界へ陥った。
第十六章
飯島はソファに身を横たえ、見なれぬ部屋に戸惑いながら、視線を巡らせていた。窓から月明かりが差しこみ部屋の輪郭を浮かび上がらせている。微かな音が断続的に聞こえる。耳を澄ませ、音の方に首を傾けると、ヒーターの炎がちかちかと揺れていた。
体を起こし窓の外を見ると、闇夜にくっきりとヘッドライトの細い帯が幾筋も伸びている。ここが、石原のマンションであることを漸く思い出した。同時に、自分が置かれている切羽詰った状況や昨夜の血なまぐさい事件が脳裏に蘇った。
部屋の電気を点けると、柱時計の針は6時を少し周っている。ふと、テーブルに手紙が載っているのに気付き、取り上げて目を通した。そこにはこうあった。
「警察に行ってきます。まさか内海が偽者だとは思ってもみませんでした。私も迂闊としか言いようがありません。和子は、ショックでヤクザの顔を記憶から消し去っていましたが、私は内海の顔をはっきり覚えています。警察に行ってモンタージュを作るつもりです。出来あがったら電話を入れます。狙われているのですから、外へ出ないで下さい。食料は棚、酒は冷蔵庫に十分用意してあります。」
食料という文字を見て、急にお腹がすいた。キッチンに行って冷蔵庫を開けるとカンビールで一杯である。上の棚の扉を開けると、夥しい数の即席麺とカップ麺が几帳面に並べて置いてあった。飯島は大きくため息をつき、しかたなくヤカンに水を入れた。
電話があったのは、午後7時半である。飯島が受話器を取ると、石原の弾むような声が聞こえた。
「飯島さん、今終わりましたよ。とにかくよく描けています。この男ですよ、この男。今、コピーをそっちに送ります。警察は情報を漏らすなって言ってますけど、秘密で、これからファックスします。もしかして、知った顔だという可能性もありますからね。受話器を置いてください。」
しばらく待つとファックスが動き出した。ジーという音と共に紙が前に送られて来る。飯島はそれを手にとった。目をまん丸にして見詰めた。息が止まるほどの衝撃が襲う。何故だ?何故、奴が出て来るんだ。間違いなかった。それは、まさに、南である。
飯島はいらいらしながら電話を待った。しばらくして石原から電話が入った。石原の声は聞こえていたが、しばらくショックから立ち直れず言葉に詰まった。そしてようやく口を開いた。
「石原さん。確かに知った顔だった。でも想像もしなかった奴だ。」
「一体誰なんです。」
「南常務だ。間違いない。」
石原も押し黙った。別の男が受話器の向こうで叫んだ。
「おい、おい、誰なんだ、えっ、一体誰なんだ。」
どうやら、花田刑事も一緒だったようだ。石原が花田に似顔絵が南だと告げた。花田が、受話器を奪い取ったのだろう、向こうでがなり立てた。
「何で南が出てくるんだ。石原さんによると佐久間は南の女房を襲ったんだろう。その南が、何で、佐久間に協力しなきゃならないんだ。」
「分からん、俺にもさっぱりだ。しかし、これは間違い無く南の顔だ。あの野郎、すっとぼけやがって。」
花田の声が響いた。
「いいか、良く聞け、石原弁護士が南だと証言しても、南があの事件と関わりがあるとは限らない。南が恐れ入りましたと言って、事件との関わりを認めれば、話しは別だ。いいか、その前に変な動きをするんじゃないぞ。」
「ああ、わかっている。ちょっと先生に代わってくれ。」
しばらくして石原が出た。飯島が聞いた。
「写真を撮るという奴等の目的のことを話したのか。」
石原は声を殺して言った。
「ああ、話した。しょうがないだろう。写真は立証しようがないが、ここまできたらもう隠しているわけにはいかない。南の奥さんが証言してくれることを期待するしかない。」
飯島は頷くと電話を切った。
広いリビングで、頭を抱え、呆然としてソファに座っていた。予想だにしなかったキャスティングは飯島の脳を混乱に陥れた。大きな溜息をついた。すると、何かが神経回路を目まぐるしく飛びまわって、過去の三つの出来事を脳裏に浮かび上がらせた。
飯島は、はっとして手で膝を打った。気違いじみた復讐劇のキーワードが突然脳裏に刻まれたのだ。別々に存在していた事実が、頭の中で関連をもって結びついた。そのキーワードとは、佐久間の愛娘、愛子である。
始めて佐久間と飲んだ時、佐久間は飯島を信頼しきっていた。佐久間の心には狂気が巣食ってはいたが、愛子に対する愛情だけは確かだった。あの時点で、佐久間は、飯島に愛子のことを含め、何かを託そうとした。佐久間は時期が来れば話すと言っていたのだ。
しかし、次ぎに会った時、そのことは話題にも上がらなかった。和子がホテルで襲われた直後のこと、飯島はセンターで佐久間を問い詰めた。その時、佐久間はこう叫んだのだ。「愛子はお前の子供ではないのか?」と
その時、佐久間は愛子が自分の子供であることに疑問を抱いてはいたが、未だ確信にまで至っていない。しかし、最後に会った立川の病院で、佐久間は言った。「愛子は君の子供だった。これは誰も否定出来ない。」と。
キーワードは愛子だ。愛子に対する疑惑が深まるに従い、佐久間の狂気が進行していった。最初は和子を陵辱し、映像に収める程度だったはずだ。しかし、それは一気にエスカレートし和子殺害へと突き進んだ。それは愛子が飯島の子供と確信したからだ。
明らかに、佐久間は愛子が飯島の子だと、誰かに吹き込まれた。それが佐久間の狂気を増幅させたのだ。何故なら、佐久間は自ら動くことは困難だ。だとすれば誰かが動いて佐久間に情報を伝えていた。まったく偽の情報を。
今まで、佐久間が誰かを操って、復讐劇を遂行していると思っていた。しかし、事実は逆で、佐久間は誰かに操つられている。誰かが、狂人の復讐劇を利用して何らかの利益を得ようしているとしか思えない。
飯島は思いを巡らせた。では、佐久間を操る男とは誰なのか。考えられるのは竹内か向田である。南ということも考えられるが、南は竹内に強請られてやむなく協力している可能性の方が高い。
南の弱みになったのは、例の写真だと思っていたが、どうもぴんとこない。それが社内に配信されれば南のプライドは傷付くが、それで脅されたとしても殺人という犯罪に手を染めるなど考えられない。恐らく黒幕は竹内だろう。しかし、向田も気になる。
飯島は箕輪に電話を入れた。あの懐かしい声が響く。
「いったい、何処で何をしていたんだ。家にも、携帯にも電話を入れたが、まったく繋がらなかった。今、どこからかけている?」
「和子の旦那のマンションだ。」
しばらくの沈黙の後、箕輪が言った。
「聞いたよ、何と言っていいのか分からん。兎に角、今の状況を話せ。俺に出来ることは何でもするつもりだ。」
「有難う、実は、お前にどうしても聞きたいことがある。向田敦のことだ。お前が辞表を提出した日、お前は彼のことを気の毒な人間だと言った。そして、うちの会社の人間にかかわることだからこれ以上は言えないとも言った。それはどういう意味なんだ?」
「おいおい、待てよ。その前に全部を話せ。そうでなければ、俺だって話していいかどうかなんて分からない。」
「分かった。うまく喋れるかどうか分からんが、話そう。最初から、そして向田敦に対する疑惑についてもだ。」
飯島は話し始めた。和子の事件から飯島襲撃までの出来事を時系列に沿って話した。何故、向田を疑い始めたのかも話し、向田が箕輪を恨んでいるということも付け足した。話し終えるのに30分近くかかった。箕輪はしばらく沈黙を保った。ため息が聞こえた。
「飯島、大変なことになったな。よし、明日から俺も休暇をとってお前に合流する。いいだろう、な。会ってから話そう。」
箕輪の申し出に、思わず涙が滲む。しかし、明日まで待てない。
「俺は今、話が聞きたい。今話してくれ。」
「分かった。詳しくは会ってから話すが、一つだけ教えておこう。敦は香織と付き合っていた。つまりかつて恋人同士だったんだ。香織は妊娠したが、親が強制的に堕胎させ、別れさせた。お前の推理は、当たっているかも知れん。動機はある。つまり、敦は西野会長を恨んでいた。詳しくは会ってからでいいだろう。どうせ明日には会えるんだ。」
「ああ、分かった。動機があるってことだけで十分だ。」
「それから、敦が俺を怒っている理由も分かっている。俺が、敦に義理を欠いたことは確かなことだ。」
「詳しくは会ってから聞こう。」
「ああ、俺は今夜の最終便で東京に行く。そして、お前の携帯に電話を入れる。」
「分かった。携帯はオンにしておく。」
電話は切れた。箕輪の力を借りることは願ってもないことだ。飯島は思いもかけない展開を神に感謝した。孤独の戦いに友が駆けつけてくれると言う。飯島は涙を拭った。
いずれにせよ、佐久間の狂気を止めるには、飯島の種無しが証明すれば良いのだ。その診断書は飯島の自宅にある。それを取りに行かねばならない。すぐさま、飯島は、石原のマンションを出て自宅に向かった。
翌日、駒込の小さな喫茶店で箕輪と待ち合わせした。箕輪は、いつものように30ほど遅れてやってきた。椅子に座るなり聞いた。
「今度はつけられなかったか。」
「ああ、十分に用心したつもりだ。ところで会社は大丈夫なのか。」
「ああ、大丈夫だ。大きな物件を取ったばかりで、支社長はすこぶる機嫌がいい。それに、民間でも美味しい仕事を見つけた。これは隠し玉でとってある。営業なんて、受注さえ取れれば、何をやっていようと文句をつけられることはない。」
「全くだ。ところで、早速で悪いが、昨日の続きを教えてくれ。」
「分かった。香織さんが南と結婚したのは、堕胎した直後だ。」
「つまり、会長は、急遽、南と結婚させた。向田以外なら誰でもいい、誰かいないのか?って聞いたのかもしない。南は女性社員の憧れの的だった。香織さんは以前から南を知っていたのかもしれん。」
「ああ、そんなところだ。ところが、敦の話から、西野会長が早々に結婚させようとした理由が分かった。敦が言うには、堕胎手術の失敗で香織さんは子供が生めない体になってしまったと思っていたらしい。」
「だけど、二人も子供を生んでいる。」
「ああ、そうだ。しかし、敦に言わせれば、電話で香織さんがそう言って泣いたそうだ。つまり、医者の判断ミスってことだろう。」
「つまり西野会長は、医師の判断ミスを信じて、焦って南でもいいかってことになったわけだ。」
「そういうことだ。俺が話すのを躊躇したわけが分かったろう。」
「いや、分からん。俺は口が軽いから、知っていたら、誰彼なく話していたと思う。全く、お前は硬い。」
「しかし、プライバシーってもんがある。お前だって、人に知られたくない事を、ぺらぺら喋られたら、厭な気がするだろう。その辺は考えてやらないと。」
冗談を解さず、言葉を額面通りにしか受け取らない箕輪に苦笑いで答えた。
「分かった、分かった。ところで、昨日言っていた、敦に義理を欠いたという話、それはどういうことなんだ。」
「敦は、事業を起こそうとしていた。呉工業の下請けだ。向田社長が勧めたらしい。しかし、敦は今のビジネスが面白くてしょうがない。拳銃の輸入販売だ。しかし、親父の話にも食指が動いた。足を洗うチャンスだからな。」
「奴がまともな社会で生きていけるとは思えんが。」
「ああ、俺もそう思った。実は下請けの会社の専務になってくれって言われていたんだ。だいぶ迷ったが、断った。」
「なるほど、それで怒っているわけだ。ところで、これからどうするつもりだ。」
「これから、敦に会いに行く。駒込で待ち合わせたのは、敦のマンションが六義園の近くにあるからだ。敦に、佐久間との関係を問いただす。その前に、俺の流儀で奴に侘びを入れなきゃならない。手紙で断ったんだが、あいつ、その手紙が気に入らないのだろう。」
「つまり、男なら面と向かって断れということか。しかし、問いただすとしても、敦は本当のことを言うとは思えん。奴は、どっぷりとヤクザの世界に足を入れて、十年以上経つわけだろう。ヤクザの世界は、俺たち営業マンの世界より、より営業マン的だ。金になるならとことん食い下がる。」
「俺は、俺と敦の男と男の関係を信じる。誠意を持って話せば真実は浮かんでくる。」
飯島は箕輪の目を覗き込んだ。この男の単純さには驚かされることがしばしばだったが、それは男とはこうあるべきという箕輪の信念がその底流にある。しかし、世の中は、そんな男ばかりではないということを、この男も理解すべきなのだ。
「俺はそうは思わない。あの男のことは信用できん。」
「俺はあの男を信じる。」
結局は信じるか否かの問題なのだ。飯島はしかたなく折れることにした。
「今、3時だ。敦のマンションに、これから行くのか?」
「ああ、奴は昼過ぎまで寝ている。まともな状態になるのは午後3時か4時だ。今、行けばちょうど良い。」
飯島は伝票をとって立ち上がった。
何故、こんなことになったのか、南は頭を抱え込み、深いため息をつく。あの時、何故あんな反応をしてしまったのか、南は今もって分からない。運命を左右した瞬間に思い浮かべた邪念が、全ての始まりであり、終わりでもあった。
南は思う。いや、最初から間違っていたのだ。香織との結婚が、そもそも間違いの始まりだった。夢のような話が舞い込んで、俺自身舞い上がってしまった。だから彰子を捨てた。高嶺の花と思っていた香織が俺を結婚相手に指名したのだ。どうして、あの誘惑に逆らえよう。
香織の浮気性は病的だったが、目をつぶった。自分も好き勝手に遊べばいいと思った。そして彰子とよりを戻した。しかし、すぐにばれた。香織が本性を剥き出しにした。罵詈雑言を浴びせ、物を壊し、家具を倒した。家の中は足の踏み場もなくなった。
仕舞いには、どのこ馬の骨とも分からない男が、ただの小役人の倅が、これほどの生活ができるのは誰のお蔭か分かっているのかと詰られた。この時、俺は初めて香織を殴った。よよと泣き崩れるかと思ったのだ。
しかし、それが惨憺たる結果を招いた。それまで以上に半狂乱になって暴れ周り、そして俺の最も恐れる言葉を吐いたのだ。
「出て行け。この家からも、会社からも出て行け。」
俺は平身低頭し、許しを請うしかなかった。誓約書を書けと言われて、唯々諾々とペンをとった。うな垂れて反省の色を示すしかなかった。俺は今の地位を失うことを恐れたのだ。
俺は慎重に行動するとともに、仲介役を置いた。秘密を守り、俺に代わって彰子にメッセージを届け、逢瀬のセッティングをする男だ。それが竹内だった。竹内の俺に対する忠誠心は本物だと思っていた。
最終的には香織に嗅ぎつかれ、彰子とは分かれるはめになったが、竹内との秘密の関係は続いた。つまり子飼いのスパイのような存在に仕立て上げたのだ。竹内を資材物流センター長に抜擢したのも俺だ。竹内は俺への忠誠心を示すべく全力を尽くした。
そんなある日、竹内がある情報を持ち込んだ。佐久間が現社長に対して復讐しようとしているというのだ。この情報は竹内の情報源から寄せられたもので、未だ噂に過ぎなかった。それでも、竹内はこれで佐久間を辞めさせる口実が出来ました、と笑った。
その時、俺は、一瞬、奇妙な思い、邪念に捕らわれたのだ。俺は竹内に、佐久間に接近し、何をしようとしているのか、もっと深く探るよう指示した。その答えが返ってきたのは一月後のことだ。電話の向こうで、竹内が笑いながら言った。
「奴は、狂っています。私を信用して打ち明けてくれたのですが、常務の奥さんの香織さんをホテルに拉致して陵辱すると言っています。私に、手伝って欲しいと、香織さんを犯している場面をビデオや写真で撮ってくれって言っているんです。」
長い沈黙があった。そして、佐久間の復讐の話を聞いた時に抱いた奇妙な思いが、輪郭を持ち始めた。その思いとは、家庭を顧みず遊びまわり、自由奔放に男を漁る妻、それを放任し、少しも諌めようとしない西野会長に対する復讐の思いだったのだ。
竹内が最初にもたらした情報では、復讐の対象は現社長、つまり西野会長の長男だった。その長男に佐久間が何をしようとしているのか、初めは、それを知りたいと思っただけだ。しかし、対象が香織だという。佐久間の復讐の思いが俺に伝染した。俺は声を押し殺した。
「奴は、女房を強姦するだけなのか?それ以上の、つまり、暴力を振るったり、傷つけたり?・・・しないってことか?」
またしても沈黙だった。竹内の息遣いが聞こえた。竹内も緊張しているのだ。ようやく震える声が俺の耳に届いた。
「はい、それはありません。計画では、私が、香織さんがよく行くバーで話しかけ、飲み物に睡眠薬を入れて飲ませます。そして二人でホテルに連れ込むんです。」
俺は、せせら笑いながら言った。
「おい、竹内、俺の知る限り、お前は、香織がもっとも嫌うタイプだ。」
「いえ、いえ、常務、そっちの方はこれでけっこう自信があるんです。たいていの女は笑わせてくれる男には警戒心を解きますから、その辺は大丈夫です。」
「おい、竹内。お前だって聞いて知っているだろう。女房の浮気のことは?」
「いえ、その、・・・噂は。」
「それが噂じゃない。だが俺は女房を愛している。でもいつか痛い目に会うんじゃないかと心配しているんだ。俺は話を聞いた瞬間、これはいい機会になる、つまり良い薬になるんじゃないかと思った。しかし、少しでも危害が加われば、大変なことになる。」
ここで、間を空けた。竹内の息遣いがさらに荒くなった。
「お前がついていれば、俺も安心できる。そして香織の火遊びも止まる。お前、独立したいと言っていたな。もしここで上手く立ち回れば資金を出してやてもいい。」
長い沈黙だった。ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
「常務、やります。やらせて下さい。奥さんを必ず守ります。」
これが、運命を左右した瞬間だったのだ。
今にして思えば、あれは竹内の芝居だったのかもしれない。何故なら、会話は逐一録音されていたのだから。俺は竹内の脅迫に従わざるを得なかった。そして新たな指令が舞い込んだ。逆らうわけにはいかない。今の地位を守るために。
「ふざけるな。何で俺が佐久間に協力しなければならないんだ。」
敦は、箕輪の誠実な謝罪の言葉に感動さえ覚えているようだったが、話が佐久間のことに及ぶと急に声を荒げた。箕輪はじっと敦を見詰めるだけだ。しかたなく飯島が言葉を挟んだ。
「さっき、君は佐久間と面識があったことを認めた。その佐久間は西野家に復讐しようとしていた。そして君も西野家を憎んでいたはずだ。」
「ああ、佐久間のことは知っていたさ。佐久間から香織との手切れ金を受け取ったんだからな。会ったのは何年も前のその時、一度きりだ。それに、拳銃をお前に世話したが、それはお前が望んだことだ。餓鬼じゃあるまいし、今さら西野家にどうこうするつもりなどない。」
飯島は押し黙った。時間の浪費だった。道で会った他人に、貴方は泥棒ですか、と聞いているようなものだ。たとえそいつが泥棒であっても、はい、と答えるはずがない。箕輪さえいなければ、締め上げて吐かせるのだが、そうもいかない。裁定者を気取った箕輪の落ち着いた声が響いた。
「飯島、信用しようじゃないか。確かに、拳銃はお前が望んで買った。それは確かだ。それに敦が佐久間と繋がっているという証拠はどこにもない。」
飯島はだんだん腹がたってきた。結局、箕輪は自分流の決着をつけるに違いない。そして思った通りの言葉が箕輪の口から発せられた。
「過去はどうでもいい。いいか、俺たちを裏切るな。俺たちはこれから佐久間と対決する。俺とお前は友人だ。お前は友人の俺を裏切らない。俺はそれを信じている。」
こう言うと、ゆっくりとソファーから立ち上がった。敦が答えた。
「俺があんたを裏切るわけがない。」
ふたりは笑みを浮かべ握手した。飯島は舌打ちしながら二人の友情の場面に割って入った。
「拳銃が必要だ。金は払う。」
「今、自分用の一丁しかない。」
「その一丁でいい。そいつが今必要だ。」
敦は部屋を出て行き、しばらくして戻った。その手にはブローニングが握られている。
「佐野が電話で指示した口座に100万振り込んでくれ。いいな。」
マンションを出ると、とっぷりと日は暮れていた。コートの襟を立て歩いた。飯島は怒りに震えていた。結局、箕輪の思慮のなさに呆れるばかりだった。殴りあいだったら仲間として頼りになる男だが、言葉の駆け引きには向いていない。
駅に向かって黙りこくって歩いていた。飯島が怒りを抑え聞いた。
「さっきの様子では、敦はお前と俺が来ることが前もって知っていた。」
「ああ、アポをとったからな。」
「馬鹿か、お前。」
箕輪は飯島の暴言に足を止めたが、飯島はさっさと歩を進めた。後ろから強張った声が聞こえた。
「馬鹿とは何だ。それが友人に対する言葉か。」
飯島が怒鳴り返した。
「馬鹿としか思えん。奴が佐久間と繋がっていたら、前もって佐久間に連絡したはずだ。俺たちは佐久間たちに見張られている。尾行されているんだ。」
「何だって、そんな馬鹿な。」
「いいや、見張られている。ひしひしと視線を感じる。箕輪、仙台に帰れ、奴らはお前が思っているような柔な奴らじゃない。もっと手強くて冷酷なんだ。お前のかなう相手じゃない。」
こう言って、飯島は全速力で駆け出した。小道に入り、できるだけ駅から遠ざかった。何も考えず息の続く限り走った。道から道に折れ走りに走った。徐々にだが視線が遠のいていくのを感じた。
第十七章
三日後、飯島は、昼過ぎ公衆電話で花田に電話を入れた。
「花田さん、南は無罪放免だと聞いたけど、やはり、奴は吐かなかったわけだ。」
「ああ、あいつの言うことは、理にかなっていた。義理の親父は法曹界に顔が利き、まして生きているのに、相続問題を云々するのは憚られる。しかたなく友人に成りすましたんだそうだ。都内を避けて、たまたま八王子の石原弁護士に相談しただけだと言いはった。そう言われてしまえば、ああ、そうですかと言うしかない。」
「南の女房は何と言っていた?」
「頑として口を閉ざしていた。脅迫などされてないそうだ。玄関先で追い返されたよ。」
「そうか、やっぱりな。ところで、花田さん。佐久間が姿を消したぞ。」
「えっ、何だって、奴はまだまともには歩けないはずだ。」
「だが、今朝引き払った。姉の家に行ってみたが、居所は知らぬ存ぜぬだ。何故もっと早く尋問しなかったんだ。」
「まさか、こんなに早く退院するとは思わなかった。まあ、いずれ見つけ出して身柄は確保するよ。それより南夫妻は脅迫の事実を否定しているだけじゃない。飯島さんがノイローゼだと口を揃えて言っているんだ。」
「ああ、そう言うだろうと思っていた。」
「飯島さん、どこにいるのか知らないが、いずれ奴等に見つかる。一度、こっちに来い。警察で保護することも出来る。石原さんもそう言ってなかったか?」
「ああ、電話でそう言っていたよ。でも、俺にはその気はない。俺は奴等と最後まで戦う。佐久間になんて負けてたまるか。」
「待て、待て。おい、飯島さん、携帯だけでも教えろよ。」
花田の耳にツーツーという音だけが残った。
その後、飯島は南に電話を入れた。南の声は苛立っている。
「お前は何を考えているんだ。俺達夫婦をどこまで困らせるつもりなんだ。警察にあることないこと言いやがって。」
「俺は、あることだけを言っている。おい、南。昔に戻って、本音で話そうぜ。」
南は黙ったままだ。
「南、警察が動き出したということは、もう後がないってことだ。分かるか。俺は一週間前、中野のビジネスホテルで竹内に銃撃された。警察だって動かざるを得ない。」
「そんなこと、俺には関係ない。それより俺には妻を守る義務がある。お前だって分かるだろう。大切な家族を守るためなら何でもする。」
「南、もう諦めろ。中野のビジネスホテルで一人の男が死んだ。少なくとも新聞にはそう書かれている。しかし、実は生きている。一命を取りとめた。そいつが事件の真相を話し始めている。」
「俺は、…」
恐らく竹内から中野のホテルでの一件を知らされているのだろう。一命を取りとめたと聞いて、ショックを受けたようだ。息遣いに乱れが生じている。嘘も方便である。もう一息とばかりに畳み込んだ。
「南、観念するんだ。竹内との間に何があったかは知らない。しかし、いつまであいつの脅迫に耐えるつもりなんだ?」
南はいきなり泣き声になった。
「あの時、俺は、ただ魔が差しただけだ。あの一瞬が全てを台無しにした。奴に付け込まれた。」
「佐久間と竹内に付け込まれたんだな。」
南は黙ったままだ。
「佐久間と竹内なんだろう。」
「ああ、そうだ。飯島、助けてくれ。お前はいつだって俺を助けてくれた。そうだろう。頼む、助けてくれ。おれは怖い。奴は人間の皮を被った悪魔だ。あんな人間だったなんて、思っただけでも身震いする。」
「やつが怖いだと?佐久間なんてただのキチガイだ。」
南の感情が爆発した。
「佐久間じゃない。竹内だ。奴は金のためなら殺しなんて何とも思わない。俺は、あいつを侮っていた。奴は人間性の欠片もない、冷酷で残忍なキチガイだ。」
「分かった、南。もう何も言うな。助けてやる。何か良い方法があるはずだ。」
「今日、会えないか、飯島。」
「ああ、会おう。新宿のあそこで待ち合わせよう。東口の改札を出て、左に行った所。何
といったか忘れたが、よく待ち合わせに使ったあの地下街の小さな喫茶店だ。」
「ああ、覚えている。6時には行けると思う。」
「待っているぞ。」
そう言って、電話を切ると、レコーダーを封筒に入れた。どこかで、ポストに放り込むつもりである。明日には花田の手元にとどくだろう。
6時を過ぎても南は現れなかった。1時間ほど待って、喫茶店を出た。ふと、視線を感じて振りかえると、サラリーマンの群れに紛れて怪しげな男が飯島を見詰めている。男はすっと柱の陰に隠れた。
飯島は携帯で南の自宅に電話をいれた。出てきたのは香織である。
「あら、飯島さん、よく電話できたわね。警察に写真のことを密告したでしょう。でも、あれは絶対に喋れないって言ったはずよ。あれが公表されたら、私、自殺するわ。」
「いや、あれは俺が喋ったわけではない。殺された和子の旦那だ。それより、南の旦那と待ち合わせたがまだ来ない。もう、家に帰っているのか。」
「いいえ、会社からまだ帰っていないわ。」
「そうか、分かった。それから、香織さん、あんたに頼みたいことがある。俺が命を狙われていることは言っただろう。助けてほしい。」
「ええ、いいわ。何、私に出来ること。」
「ああ、出来る。実は、向田敦が佐久間と繋がっている。どういう訳か、佐久間に協力しているんだ。会長から向田社長、そして向田社長から飯田組に圧力をかけてくれ。敦の動きを封じたい。今、電話してくれないか。」
「ええ、分かった。父に電話してもらう、今すぐ。もし本当だとしたら許せないわ。向田社長は佐久間が私を襲ったことを知っているはずよ。その息子が、何で佐久間に協力しなければならないの。もし、本当だとしたら、絶対に許せない。」
「ああ、頼む。会長にも、向田社長にすぐに電話するように言ってくれ。それから、向田の携帯の番号を教えてくれないか。」
「ええ、いいわ。ちょっと待ってて。ええと、」
だいぶ手間取るかと思ったが、香織は番号を諳んじた。飯島は電話を切ると、すぐさま向田に電話を入れた。飯島が名乗ると、向田は、さも驚いたような声を発した。
「おやおや、お元気ですか、飯島さん。拳銃の使いごこちはいかかです。アーフターフォローもしませんで申し訳ございません。」
「余計な話しをしている暇はない。おい、今、香織さんにお前のことを密告しておいた。お前が、佐久間に協力しているってな。そして、すぐにお前の親父さんを通じて飯田組の組長にもそのことが伝わる。」
「おい、おい、待てよ、俺は佐久間とは関係ないと言ったはずだ。」
「惚けるな。俺は箕輪ほど甘い人間じゃない。いいか、よく聞け。これ以上余計な真似をするな。これは佐久間と俺の問題だ。」
「馬鹿な、俺は佐久間に協力などしていない。」
「嘘もいい加減にしろ。今、張っている左耳の欠けた奴が新聞を見ているが、俺を意識しているのは見え見えだ。お前の手下だろう。」
向田が息せき切って言った。
「飯島さん、俺を信じろ。片耳の欠けた奴なんて俺は知らない。そいつは佐久間の仲間かもしれないが、俺は本当に知らないんだ。俺は箕輪さんと約束した。友人を裏切らないと。そのことだけは信じてくれ。」
飯島は携帯を切った。そして歩き出す。振り返ると男は新聞を丸めて飯島の後を付いてくる。飯島が立ち止まり振り返る。飯島が見詰めているのに気付き、男も立ち止まった。
飯島は男に向かって歩を進める。男は呆然と立ち尽くす。飯島が駆け出す。すれ違いざま、鳩尾に右拳を叩き込んだ。男はその場にうずくまる。飯島は何事もなかったように、その場を立ち去った。
飯島は山手線で品川に向かった。昨日、用心のため新たなホテルに移ったばかりである。品川駅東口改札を出て周囲を注意深く窺った。人影はまばらで帰宅を急ぐ数人の勤め人が、飯島の前を歩いている。線路沿いの道から直角に曲がり広い通りに出た。
品川駅東口は再開発が進み、駅前は高層ビルが立ち並ぶが、その北側は下水道施設が大きな一画を占めている。高い塀に囲まれ、遠く2百メートル先で国道3号線にぶつかる。飯島は向田の手先を潰してやったことで緊張が解けていた。
しかし、飯島の後方から一定の距離を保ちながら一台の黒い車が後を追いながらやってくる。車は、しばらくすると少しづつだが距離を縮めている。飯島の後方30メートルのところでスピードを上げた。
飯島は、かすかなエンジン音に気付き後を振り返った。無灯火の車が迫っていた。咄嗟に歩道の植え込みの陰に飛んだ。銃声が響いた。二発、三発。どうやら、新しい隠れ家も奴らは知っていたようだ。向田が組員を動かしているのだ。
植え込みの間から車の方を見ると、銃口は飯島に向けられており、次ぎの瞬間、銃声とともに火を吹いた。しかし不思議と当らない。誰かが守ってくれているのか。お袋か?などと悠長な思いが過ったが、今はそんなことを詮索している場合ではない。男が車から降りてきたら最後だ。
飯島は、拳銃をホテルに置いてきたことを後悔していた。銃弾が撃ち尽くされた。カチッ、カチッという金属音が響いた。そして意外にも、いきなりアクセルが踏み込まれ、車は唸りをあげ全速力で疾走した。飯島は、転がって車道に出た。
車はあっというまに小さくなった。ナンバーなど読めるはずもなかった。車は、青から黄色に変わったばかりの交差点に突っ込んで行く。その間に信号は赤に変わった。タイヤの軋む音が響く。
突然、ビルの角からトレーラーの先端が顔を覗かせていた。急ブレーキが踏まれ、車は蛇行しつつ、そのままトラックに突っ込み火花を放った。車はボンという音とともに燃え上がった。飯島は全速力で走り、近づいていった。
トラックの運転手が車から飛び降りた。火の勢いはもはや止めようがないほど激しい。運転手が燃える車からドライバーを引きずり出している。
飯島がようやく辿り着くと、運転手が男にジャンパーを被せている。ジャンパーを取ると黒焦げの男が肩で息をしている。苦しそうに顔を歪め、うーうーと呻き声を上げている。南である。飯島は走り寄り、叫んだ。
「南、南。何故なんだ。何故こんなことをした。」
運転手が言った。
「知っている人か。あんた、見ていただろう。こいつが突っ込んで来たんだ。信号は青だった。証言してくれるだろう。」
飯島は南の背中を抱き上げて、なおも叫んだ。
「南、何故なんだ。何故こんなことをしたんだ。」
南の口が僅かに開かれた。
「飯島?ああ、なんだ、飯島じゃないか。お前、何故こんな所にいる。こんなところで何をしている。」
意識は朦朧としている。飯島が再び叫んだ。
「何故なんだ、何故こんなことをしたんだ。」
南の視線はさ迷い、意識は混濁したままだ。わなわなと震える唇から微かな声が漏れた。
「俺は利用されただけなんだ。俺はやりたくなかった。だけどあいつが、あいつが。」
「あいつとは誰なんだ。」
「か、か、会長だ。俺は会長に操られただけだ。お前の左遷だって会長の指示だ。」
「えっ、会長だ。何で会長が出てくるんだ。」
「会長が、俺を利用したんだ。あいつは、俺を利用し尽くした。」
「おい、何を言っているんだ。お前は正気なのか。」
南の首から力が抜けて、がくっと飯島の腕に落ちた。飯島は、南の頭をコンクリートの上に静かに置いて、合唱した。そして立ちあがると、駅に向かって駆け出した。後ろで運転手の叫けぶ声が聞こえる。
「待ってくれよ。あんたの証言が必要なんだ。頼むよ。逃げないでくれよ。」
飯島は、頭が混乱していた。頭に血が登り、熱病にでも冒されているかのようだ。兎に角、西野会長に会って確かめるしかない。想像を絶するような真実があるのかもしれない。それとも南は朦朧として、うわ言を言っただけなのか。そのどちらとも取れる状況である。
第十八章
代々木に着いたのは午後8時半である。駅前の大通りから細い路地を左に入り、しばらく行くと坂道に出る。これを登りきると突然のように閑静な高級住宅街が出現する。10分ほど歩いて、ようやくレンガ塀に囲まれた西野邸に辿り着いた。
西野会長は息子と娘を同じ敷地内に家を建て住まわせている。門には三枚の表札が掛けられているが、南の表札はみすぼらしく、西野家における南の地位を象徴しているようだ。飯島は、チャイムを押した。しばらくしてインターホンから香織の声が聞こえた。
「どなたですか。」
「飯島です。会長にお会いしたいと思いまして。」
「こんなお時間にですか。あれから何かあったの、飯島さん。」
「南がたった今、事故で亡くなりました。」
香織は無言のままだ。しばらくして、門の扉が自動的に開いた。飯島は家と家を仕切る生垣の間を歩いた。混乱が体中を駆け巡っていて、頭の中は真っ白だった。ようやく玄関に辿り着き、重厚な木製の扉のノブを回した。
そこには和服姿の西野会長が腕を組み、仁王立ちしていた。西野会長の後から香織が涙顔を覗かせている。飯島を見ると西野が叫んだ。
「南が死んだとは、どういうことなんだ。お前は何を企んでいる。」
「何も企んでなどいない。今から30分ほど前のことだ。車の中から、誰かが俺に拳銃を発砲した。幸い弾は当たらなかったが、犯人はそのまま車で逃走した。そして車はトラックに激突して燃え上がった。運転席から俺を銃撃した男を助けだした。すると、その男は南だった。」
香織が泣き崩れた。悲鳴のような泣き声だ。西野は口を真一文字に結び、目を見開いた。その目が徐々に赤く染まって行く。飯島は西野を睨みつけ、叫んだ。
「真っ黒焦げの南は、息を引き取る直前、うわ言のようにこう言った。俺は会長に操られていただけだと。この俺の左遷も会長の指示だと言った。これは、一体どう言う意味だ。えっ、会長さんよ。」
飯島は尚も睨み続けた。かつてこの人のためなら命を賭けてもよいと思っていた。その息子である現社長はともかく、会長だけは最後まで信じていたのだ。その会長が、何故。まったく信じられない事態だった。
西野の目が潤み、瞬く間に溢れた。涙は頬を伝って、ぽとりと床に落ちた。西野は肩を落とし、その真一文字に結んだ唇を震わせた。そして、その口から呻くように声が漏れた。
「南が今際の際にそう言ったのか。そうか、そう言ったのか。」
「そうだ、南はあんたに操られていたと言った。えっ、それはどういう意味なんだ。」
西野会長は、飯島の刺すような鋭い口調に、はっとして我に返った。気を取り直し、殊更張りのある声で答えた。
「何故、南がお前を狙ったのかは分からない。恐らく佐久間に操られたのだろう。警察に呼ばれた後、問い詰めたが要領を得なかった。何かあると思っていた。佐久間が関係していると感じた。一連の事件も奴が仕掛けている。間違いない。」
西野は涙を手で拭い、さらに続けた。
「しかし、南が言いたかったことは全く別のことだ。つまりこうだ。私は、南を香織の婿として迎えた。南にとって夢のような話だったはずだ。三流大学出身の男が一流会社の経営陣に迎えられたのだから。」
大きく息をし、続けた。
「例の産廃プロジェクトの失敗で、会社は潰れそうになった。俺は、その時、南の出番が来た。恩返しをしてもらおうと思ったんだ。」
こう言って、天井を睨み、顔をくちゃくちゃにして涙を堪えている。香織がわーっと大袈裟な泣き声を上げ、会長の袖に顔を埋めた。意外な話の展開に、飯島は呆然と立ち尽くした。
「何が言いたい。俺は南に、銃撃した理由を聞いた。その答えが、会長に操られたという一言だった。」
飲み込みの悪い生徒を諭す先生のように、会長は静かにゆっくりと言葉を発した。
「飯島、落ち着いて、良く聞け。さっきも言ったが、南は全く別のことを言いたかった。死ぬ間際になって、南は、かつて友人だったお前にだけは、本当のことを言い残しておきたかったんだ。」
西野はしゃくりあげ、洟をすすりながら話した。
「私は4年前、南に300人のリストラを命令した。南は相当悩んでいた。かつての先輩、同僚を切り捨てるのだからな。悩むのは当たり前だ。だが、或る時、南は人が変わった。私の期待に応えて、めきめきと実力を発揮し始めた。」
飯島は困惑気味に聞いた。
「それが、南の真意だと言うのか。操られたと言ったのは、そのことだと言うのか。」
会長は目を閉じ、往時を思い出している。
「ああ、そうだ。間違いない、私には分かる。私には荷が重すぎた。たとえ会社を救うという大義名分はあっても、社員の首を切るなど、とても出来ることではない。私は組織から退いた。そして南が私の代わりを務めたんだ。南にしてみれば私に操られたと思っていただろう。憎しみの矢面に立たされたのだから。」
涙ぐむ西野を見詰めながら、飯島は冷静さを取り戻しつつあった。南のうわ言の真意がようやく飲み込めたからだ。そしてこんな場面でも、事態を解説したがる西野という男の軽薄さが疎ましかった。自分の鋭さを披瀝しないではいられない軽薄さだ。
とはいえ、飯島は、想像もしなかった事実と直面することになったのだ。それはリストラの本当の実行者は南ではなく、西野会長だったことである。西野に対する怒りがむらむらと沸き起こった。飯島は唸るように言葉を吐いた。
「みんな、あんたを信じていた。あの大不況のなか何年も歯を食い縛って頑張った。あんたを心から信頼していたからだ。あんたが失脚して、リストラが始まった。頑張った連中が軒並み犠牲になった。みんなあんたを信じて、部下達を引っ張ってきた連中だ。」
西野はぎょっとして、自分の喋り過ぎに思い当たった。南の突然の死を耳にし、頭が混乱していた。感情が昂りすぎて理性を失わせていたのだ。徐々に顔が歪んで、飯島を睨み据えている。飯島が刺すような視線を向けて叫んだ。
「そのあんたが、リストラを影で操っていたとは驚きだ。反吐がでそうだぜ。それに、何故、俺を左遷した。俺は誰よりもあんたを信頼し、誰よりも頑張ったんだ。」
西野は狼狽し、目の玉をぎょろぎょろと動かした。言い訳の出来ぬ状況に追い込まれ、本性を剥き出しにした。狡猾そうな目で飯島を睨んだ。開き直ったのだ。いや、飯島の反吐が出るという言葉に過激に反応した。
「ああ、お前は頑張った。誰もが認める。だからみなの視線がお前に集中していた。俺は、お前を中心にした不穏な動きを事前に察知したんだ。」
「馬鹿な、支社長が会議の後、集まって酒を飲み、おだをあげるのが、不穏な動きだというのか。確かに管理職ユニオン結成を言う奴はいた。俺を担ごうとする動きもあった。だが、俺は断った。群れるのは俺の趣味じゃない。それが不穏な動きとは、ケツの穴の小さい野郎だ。俺達が尊敬してやまなかった西野三郎はどこに行っちまったんだ。それが、こんな卑小な人間だったとは。」
西野は血走った目に憎悪を湛えて言い放った。
「何とでも言え。いいか、あれは俺が作った会社だ。俺は自分で作った会社を守りたかった。あのままいけば潰れるのは目に見えていた。経営者は時に冷酷になる必要があるんだ。そんな思いは、お前らに分からない。」
「自分で言った言葉を思い出せ。我が社ではリストラ犠牲者を一人も出さん。あんたはそう言って俺達を奮い立たせた。」
「みんな頑張ったと言うが、結局、収益は上がらなかった。時間がなかった。」
「時間がないから、給料の高い順に首を切ったってわけか。えっ、そんな馬鹿な話があるか。」
飯島はあきれ果て、卑しく、みすぼらしい老人を睨んだ。そして叫んだ。
「あと一年、あと一年頑張れば、挽回できた。産廃プロジェクトに曙光が見え始めていた。何件もの引き合いがきていた。俺だって3案件抱えて折衝を重ねていた。もし、一年待てば、あんたは一人の犠牲者を出さずに難局を乗り切った経営者として賞賛を浴びただろう。」
「案件数はあった。しかし、実績には繋がらなかった。あのまま行けば倒産だった。」
「違う、俺達は市場の手応えを肌で感じていた。支店長会議でも皆そう発言したはずだ。現場にこそ経営の指針がある。その現場主義はあんたが俺達に教えた。あんたは現場を離れてその感を失っていたんだ。」
「飯島、現実はそう甘くない。リストラのタイムリミットはとうに過ぎていたんだ。」
飯島の怒りが爆発した。
「貴様は恥ずかしくないのか。二人も自殺者を出した。貴様が殺したんだ。佐久間が狂ったのも貴様の責任だ。佐久間はリストラの実行者になって狂ったんだ。」
「そうだ、最初、俺は佐久間に期待した。しかし、奴はまるでカタツムリみたいな動きしかみせなかった。それでは間に合わない。私の苛立ちは頂点に達した。所詮、佐久間には無理だった。だから佐久間を捨てた。犠牲になってもらう他なかったんだ。」
この言葉が終わるか終わらないうちに、外で銃声が響き西野の額に穴が開いた。そこから一筋血が流れ、後の屏風が真っ赤に染まった。西野の見開かれた目は誰かを凝視している。そして、西野の体は後ろに仰け反った。
飯島は、咄嗟に右に飛んだ。銃弾は飯島を追うように何発も発射され、一発が香織の腰に命中した。きゃーという叫び声が響いて、香織も倒れた。パジャマに血が広がってゆく。
飯島は、銃撃が止んだ隙に、香織を玄関横の応接室に引きずり入れた。喉に指を当てると鼓動はある。どうやらショックで気を失っているらしい。奥で人の声がする。警察に連絡しているようだ。
飯島は部屋を出ると、僅かに開かれた扉から外を窺った。男が、門扉を乗り越え道路に飛び降りた。飯島も玄関から飛び出し、植え込みを走り抜けた。大きな庭石に駆け上り、一気に塀を飛び越し、男の行方を窺ったが、影も形もない。
角まで走り、そこから通りを見ると、片足を引きづり、佐久間が歩いている。振り返りつつ車に乗り込んだ。助手席に入ったということは、竹内が車で待機していたのだろう。車はエンジン音を轟かせ走り去った。飯島は立ち尽くすしかなかった。
翌日の夕刻、飯島は章子の携帯に電話をいれた。殆ど衝動的にその番号を押したのだ。どうしても話がしたかった。ぽっかりと開いた心の空洞を理解してくれるのは章子しかいなかった。受話器を握り締め、飯島はその声を心待ちにしていた。
「もしもし、手塚です。どちら様ですか。」
懐かしい章子の声が響いた。飯島が名乗ると、章子は溜息をつき、ことさら冷たい口調で答えた。
「あなた、よく電話できたわね、散々私に恥をかかせておいて。それにまだ勤務中よ。」
「ああ、分かっている。兎に角、ご免、あの時、女房に逃げられて最悪の状況だった。女房は妊娠していた。俺の子供じゃあない。医者に調べてもらったら、俺は種無しだった。そんな時、君から電話があったんだ。」
「なる程ね、漸く謎が解けたわ。貴方が何故あんな怒り方をしたか。」
「ところで、お腹の子供は元気か。」
暫く沈黙が続いた。
「堕胎したの。」
と言って深いため息をついた。そして少し興奮したように言った。
「全く、それまで順調に行っていたのに、突然、愛しの君が現れるんだもの。佐久間と離婚してから、今勤めている会社の人とお付き合いしていた。相手もバツ一だし、結婚を前提に付き合っていたの。貴方が現れてからも、ずるずると関係していた。恐らくその人の子供だったんだわ。でも、その人とも別れるしかなかったの。」
と言って、さめざめと泣いた。その切なそうな泣き声を聞いて、飯島は自分の身勝手な激情を悔やんだ。
「申し訳ない。どうも君と俺はすれ違いばかりだ。本当に申し訳ない。」
飯島は章子の心が落ち着くのを待った。しばらくして、章子の泣き声が止んだ。
「それから、信じられないことだが、昨日、南が死んだ。そして西野会長も。テレビによると南の女房は一ヶ月の重症だそうだ。」
「何を言っているの、あなた。それどういうこと。会長が、南が死んだですって。何故、信じられない。」
章子の所憚らぬ嗚咽に、飯島も思わず涙を誘われた。飯島は西野会長と共に歩んだ日々、懐かしい時代を思い出していた。その一コマ一コマが走馬灯のように目の前に浮かんでは消えた。
飯島だけではない、誰もが、この20年、西野会長と共に歩んだことに誇りと喜びとを感じていた。皆、彼の心意気に燃えたのだ。会長は常に営業の最前線に立ち、社員一人一人に話しかけ、勇気付けた。それが営業マンを奮い立たせたのだ。
その会長が、実は大リストラの実行者だった。息子と南を裏で操り、彼に忠誠を尽くした男達を裏切り続けたのだ。飯島の脳裏に倉庫で黙々と作業する哀れな男達の姿が浮かんだ。そんな苦い思いを押し殺して口を開いた。
「本当に信じられないことばかりだ。西野会長を殺したのは佐久間だ。あいつは狂っている。」
章子が答えた。
「ええ、佐久間が狂っていることは確かよ。あの人は或る時期から本当に狂ってしまったの。あのリストラからよ。最後には暴力をふるうようになったわ。」
「そうか、そこまで行ったのか。ところで、今日、会えないか。どうしても話しがしたい。」
「駄目よ、貴方は自由に時間はとれるでしょうけど、今日は残業になるの。でも明日はお休みよ。朝10時頃電話するわ。この携帯にかけるわ。」
「ああ、わかった。待っている。どうしても聞いてもらいたいことがあるんだ」
飯島は電話を切った。
翌朝、飯島は池袋のビジネスホテルで寝ていたが、携帯電話の呼び出し音で起こされた。章子だと思い、携帯を耳に当てると、意外にも佐久間の声が響いた。
「おい、飯島。もう朝だ、起きろ。」
「おい、おい、佐久間さんか。良かった、あんたと話がしたかった。」
「俺は話などしたくない。何故、お前の携帯の番号が分かったと思う?」
飯島は最初、質問の意味が分からなかった。だが、すぐに思い当たった。新しい携帯の番号を知っているのは箕輪と章子だけだ。
「おい、佐久間、章子さんに手を出したら許さんぞ。愛子ちゃんのことも考えろ。」
佐久間が怒鳴った。
「愛子のことなんてどうでもいい。いいか、章子は、ここにいる。声を聞かせてやる。」
しばらく呻き声が聞こえた。その後、はっきりとした章子の声が響いた。
「飯島さん、この人は本当に狂っている。助けて、お願い」
ここで受話器が章子の口から離されたようだ。章子の「愛子は本当に貴方の子供なのよ。あんた、正気に戻って。私を信じて。」と佐久間に叫ぶ声が洩れ聞こえてくる。その声が突然途切れ、佐久間が出た。
「おい、お前の大事な恋人を俺が預かっている。今夜、会おうか?」
「ああ、会おう。何処に行けばいいんだ。」
「場所と時間は、深夜0時に電話で指定する。携帯の電源を入れておけ。いいか、警察に知らせれば、元夫婦が無理心中するだけのことだ。」
飯島は声を殺して言った。
「佐久間さん、傍に誰かいるか。」
「いや、俺だけだ。」
「いいか、よく聞けよ。佐久間さん。俺が愛子ちゃんの父親でないという証拠を持っている。それを見ればあんたも納得いくだろう。」
佐久間は沈黙した。飯島は反応を待った。佐久間が答えた。
「そいつも持って来い。」
突然電話は切られ、ツーツーという音だけが耳に残った。
第十九章
佐久間は築地に建設中のビルを指定してきた。勝鬨橋の手前からそのビルが見えてきた。車をゆっくりと近づけてゆく。ニシノコーポレーションの看板が鋼鉄の塀に掲げられている。地下2階地上18階、剥き出しのコンクリートの塊が暗い夜空に聳えていた。
工事関係者の入り口のドアを押した。鍵はかかっていない。所々に裸電球が灯され、薄暗闇の中、地下への階段が数メートル先に見える。佐久間の指示はそこから地下二階の駐車場スペースまで下りてこいということだった。
飯島は拳銃の安全装置を外し、ゆっくりと階段に向かった。一階からさらに二階の踊り場まで進むと、鉄扉が開けられているのが見えた。既に佐久間等は準備万端整っているようだ。そこから入って来いということらしい。
半開きのドアに触れずに擦りぬけた。駐車場は真っ暗で、非常口のグリーンの明かりが左前方に見える。しばらく進むと後でドアがバタンと閉められた。じっとして暗闇に目を慣らした。後から足音がして、飯島の5メートル横を足早に歩いてゆく。
果たして向田は、その後も竹内と佐久間に協力しているのだろうか?そこが問題だった。香織をを通じて向田に圧力を掛けておいた。竹内は左肩負傷、佐久間は少なくともまともに歩ける状態ではないのだから付け入るとすればその点だろう。しかし、向田が奴等に加わっているとすれば、飯島に勝機はない。どうあがいたところで、殺されるだろう。その時は、その時と、腹を括るしかないかもしれない。
ぼーっとした暗闇に、濃い影が浮かび上がった。10メートルほど先に高さ3メートルほどの脚立が置かれている。その上に章子らしい人影が見える。ぶるぶると震えているようだ。首にロープが巻かれ、ロープは天上まで伸びている。
突然、飯島はサーチライトの強烈な光に照らし出された。一瞬、暗闇に慣れた目が再び視力を失った。手をかざして光の方をみると、佐久間らしき男がサーチライトの後から姿を現し、脚立に近付いて、その横に立った。佐久間の声が倉庫全体に響いた。
「飯島君、誉めてやるよ。愛する女のために犠牲になる。見上げた根性だ。以前からお前のその根性を評価していた。しかし、それが命取りになったな。」
飯島は、目を瞬かせ目の回復を待った。ちらり章子の様子を窺がった。ガムテープで口を塞がれ、後ろ手に縛られている。逆光でよく見えないが、すがるような視線を飯島に向けているようだ。飯島は心の中で謝った。君を巻き込む気などなかったのだ。
飯島はゆっくりと佐久間に近付いて3メートル前で立ち止まった。佐久間の手には拳銃が握られ、その銃口は飯島の顔に向けられている。
「さあ、手に持っている拳銃を渡すんだ。」
飯島は銃をくるりと回して握りを前に向けた。佐久間はゆっくりと近づきそれをむしりとって、尻のポケットにねじ込んだ。そしてゆっくりと後退してゆく。
「それでいい、飯島君。それでこそ男だ。彰子は既に覚悟を決めている。さあ、ショウの始まりだ。高みの見物としゃれ込んでくれ。」
飯島は、はっとして章子を見上げた。佐久間がしゃがみこみ何かのスイッチを入れた。モーターの音、そして鎖の擦れ合う音。その時、大きな音を立てて脚立が倒れた。飯島の口から悲鳴とも怒声ともとれる声が漏れた。
「佐久間、なんていうことをする。止めろー」
章子の体が左右に揺れている。何度も何度も体を蠢かせ、そして最後には動かなくなった。怒りで飯島の体はぶるぶると震えた。絶望が胸を締め付け、憎悪が体中を駆け巡る。両手を組んで、震える指先を押さえ込んだ。冷ややかな佐久間の声が響いた。
「あの時、言ったはずだぞ。俺を殺さなかったことを後悔させてやるとな。またしてもお前は、判断をミスった。あの時、俺を殺してさえいれば、章子も死なずにすんだのだ。」
飯島は狂った佐久間の言葉など無視し、怒りを押し殺しながら言った。
「何故、和子を殺した?あいつは俺と離婚していた。俺とは何も関係なかった。」
一呼吸して叫んだ。
「何故、章子を殺した?いいか、愛子ちゃんはお前の子供だ。その母親をお前は手にかけた。狂ってる。」
佐久間がせせら笑いながら答えた。
「飯島君、俺は君に地獄を見せたかった。和子さんと別れてからも、君は家で和子、和子と呼び続けた。君の悲しみは、いずれ時間が解決しただろう。だから、時間が経たないうちに、和子をこの世から抹殺してやった。それに愛子がお前の子供だと言う証拠も揃っている。お前の寝言など聞く耳を持たない。」
飯島が怒りに震えながら叫んだ。
「この気違い野郎、てめえなんて地獄に落ちろ。たとえ殺されてもお前を地獄に引きづり込んでやる。」
にやりとして佐久間が怒鳴り返した。
「ふざけるな、この間男が。いいか、よく聞け、飯島。俺は今、地獄の真っ只中で生きている。あの世の地獄も楽しみにしているくらいだ。いいか、お前が俺に地獄を見せたんだ。お前は、俺の愛する者全てを奪った。愛子まで奪ったんだ。だからそれ相応の地獄をお前に見せてやった。」
飯島は言葉を失った。佐久間が悪魔に魂を売り渡していることを悟ったからだ。佐久間が、笑いながら叫んだ。
「さて、飯島君。私の協力者を紹介しよう。今回の章子誘拐の立役者だ。もっとも、西野家で、最初にお前を撃っていれば、こんな面倒なことはしないで済んだ。だが、西野会長の言葉についかっとなってしまった。」
ふと、遠い目をしてため息をついた。そして呟いた。
「まったくあんな奴に身も心も捧げてきたなんてお笑い種だ。しかし、南が俺のことをカタツムリと言って馬鹿にした訳か漸く分かったよ。全く。」
自嘲するように顔を歪めると、叫んだ。
「おい、出て来い。」
サーチライトの光の陰から一人の男がおずおずと顔を出した。強烈な光が竹内の脂ぎった顔を浮かびあがらせた。竹内は拳銃を携えながら、ぼそっと言った。
「悪いな、飯島、こんなことになって。今の俺は金が全てだ。金のためなら何でもやる。」
飯島は憎憎しげに竹内を睨みつけた。そして言った。
「ふん、お前にぴったりの言葉じゃないか。そう、お前には金しかない。金でしか何物も得られない。そんなつまらん男だ。」
「俺を馬鹿にするのもいい加減にしろよ。泣きを見るのはお前なんだよ。それをこれから分からせてやる。」
「ああ、結構。分からせてくれ。もう覚悟は出来ている。」
そう言った直後、飯島の脳裏に、ふとある疑問が浮かんだ。それを聞いた。
「おい、竹内、一体全体、何故、南がお前等の協力者になったんだ?」
佐久間が怒鳴った。
「そんなことお前が知る必要はない。時間稼ぎしようとしても無駄だ。いえることは、こういうことだ。誰にでも魔が差す心の隙があるってことだ。」
どうやら、この疑問はあの世に行って南に聞くしかないようだ。飯島は冷静になるよう努めた。相手のペースに乗っていてはチャンスを作れない。それを崩すことだ。それには、例のものがぴったりだ。飯島は小声で佐久間に語りかけた。
「佐久間さん。電話で言った証拠がこの胸のポケットに入っている。さあ、これを受け取れ。」
佐久間の狂気に満ちた目が、一瞬正気に戻った。拳銃をむけたまま、飯島に近付き、革ジャンの内ポケットを探った。そして封筒を取り出した。
飯島は病院に精子を送って、診断書を郵送してもらった。人前で惨めな思いをしたくなかったからだ。だが、それがかえって良かった。そのぼろぼろの封書の中には八王子の総合病院、徳光病院の診断書が入っている。その信頼性は高い。
佐久間が診断書に見入っている。頬がぴくぴくと小刻みに動きだした。次第に般若のような顔に変わっていった。佐久間は振りかえり、竹内に向かって叫んだ。
「いったい、これはどういうことだ。DNA鑑定では、愛子は飯島の子供だと判定された。しかし、この診断書は飯島を種無しと断定している。おい、竹内、これはどういう訳だ。」
一瞬、竹内の視線が揺れた。そして、さっと銃口を飯島から佐久間に変えた。そして怒鳴った。
「佐久間、動くな。左手の指先で拳銃をつまんで捨てろ。」
佐久間はお構いなしに拳銃を竹内に向けようとする。すかさず、竹内が叫んだ。
「真実が知りたくないのか、佐久間。言う通りにするんだ。そうすれば本当のことを教えてやる。」
佐久間は竹内を睨みつけながら、ゆっくりとした動作で拳銃を闇の中に放り投げた。竹内が笑いながら言った。
「おい、佐久間、ケツのポケットにしまった飯島の拳銃もよこすんだ。」
竹内は佐久間に近づき拳銃を抜き取った。竹内が顔を飯島に向け喋り始めた。
「佐久間は肝臓ガンで後半年も生きられない。佐久間は最初、飯島、お前を信用しきっていた。お前を保険金の受取人にするほどな。お前なら、その保険金を愛子が成人するまで上手く管理してくれると思ったからだ。今、愛子に金を残せば、章子が潤うだけだ。どうしても章子には渡したくなかった。」
その声は何故か弾んでいる。息使いも荒い。漸く主導権を握れた喜びで有頂天になっているようだ。飯島は、センターの食堂で、佐藤に白髪を抜かれたことを思い出した。
「つまり、お前がDNA鑑定でイカサマをやったのは、その保険金を自分のものにするためだった。愛子が俺の子供となれば、保険金は中に浮く。しかし、鑑定書を偽造するなら、何も、本物の俺の毛を使う必要はなかったはずだ。」
「ああ、そうだ。俺のでもよかった。しかし、もしかしたら佐久間の言うとおりかもしれないとも思ったのさ。もし、そうだったら鑑定書を偽造する手間を省ける。」
「なるほど、そして復讐を遂げるために佐久間はお前の助けが必要だった。そしてお前は、保険金の受け取り人になったというわけか。」
「まあ、当たらずとも遠からずってとこだ。佐久間の保険金は3億だ。これを手に入れるのにだいぶ頭を絞ったよ。最初にやったことは、佐久間にお前と章子がホテルに入るとことを見せてやることだった。」
飯島が唸った。
「ふざけやがって…」
「まったく、お前には悪いことしちまった。佐久間の最初の計画は、香織を強姦することと、そして石倉を捕らえて締め上げる程度のことだった。殺す予定はなかったんだ。だけど、お前と章子がホテルに入るのを見た途端、佐久間は、本格的に狂っちまった。」
「なんて奴だ、なんて卑劣な人間なんだ、貴様と言う奴は。」
「はっはっは、許せ、許せ、飯島、全ては金のためだ。お前の奥さんには気の毒したと思っているよ、俺もな、途中から、生贄に選ばれちまったんだから。でも、お前の奥さんを襲うのを手伝ったが、佐久間は、まだ俺を受取人にすることを渋っていた。」
飯島が怒鳴った。
「ふざけやがって、この野郎。許さんぞ、絶対に許さんからな。」
竹内はにやにや笑いながら言った。
「飯島、そう興奮するな。お前の悪い癖だ。話はまだ途中だ。DNA鑑定の結果を見て、佐久間はさらに本格的に狂っちまった。殺してやる、みんなして俺をコケにしやがって。みんな、ぶっ殺してやるって叫んでいたっけ。おかげで、狙った通り、佐久間は自分に掛けていた保険金を俺に差し出す気になった。」
そう言うと、満足げに頷きながら、佐久間を見た。佐久間の目は、屈辱と憎悪で赤く濁っていた。その目で竹内を睨んでいる。竹内はゆとりで応えた。
「そうそう、佐久間さんよ、あの鑑定書は偽物だ。実は、愛子はあんたの本当の子供だったわけ。はっはっはっは」
突然、佐久間が奇声を発して、竹内に飛び掛かった。銃弾は3発発射され、佐久間の胸のあたりを赤く染めた。佐久間の伸ばされたその手はとうとう竹内には届かなかった。ぼろ雑巾のように床に転がった。竹内が飯島に言った。
「そう驚くな。最初から、佐久間は俺が殺すことになっていた。それも佐久間の意思だ。その順番が少し狂っただけのこと。つまりこういうことだ。佐久間がお前を殴り殺す。その後、思いを遂げた佐久間を俺が冥土に送ってやる手筈だった。そして最後に、佐久間を撃った拳銃は、死体となったお前に握らせるという手順だ。」
「そんな子供だましのことで警察を騙せるものか。既に警察はお前が和子襲撃に加わったことも、ホテルで俺を銃撃した事実も掴んでいる。保険金を受け取れると思っているのなら甘い。」
「そんなに俺のこと、心配するなって。保険金の受取人は俺の妹だ。妹と俺は一心同体だ。とりあえず、妹は佐久間の内妻ということにしてある。それに、この胸には偽のパスポートも用意されている。大仕事の後だ。しばらく海外で休暇ってこと。向田がすべて用意してくれている。」
「やはり向田敦は仲間だったわけだ。」
「ふっふっふっふ、いいか、飯島。向田はなあ、腹違いの弟の兄貴分だ。腹違いの弟とは、ホテルで死んだ男のことだ。つまり向田も俺の協力者だ。奴は金さえ出せば、殺し屋の手配でも何でもやってくれる。」
一瞬、殺された和子を思い出し、かっとなったが、そんな感情を押し殺して、飯島は呆れ顔で言った。
「まいった、まいった。竹内さんよ、あんたがそんな悪党だなんて想像もしなかったよ。」
竹内は満足そうに微笑みを浮かべながら答えた。
「ああ、俺もびっくりしているくらいだ。もっとも、石倉をやる時は、膝ががくがく震えた。正一がいてくれて助かったよ。奴がいなければ、ああは上手くいかなかった。しかし、一度、壁を越えると後は楽なもんだ。そうそう、もう一人、あの殺しには協力者がいたんだ。誰だと思う。」
「ふん、そんなこと誰だって分かる。南だ。」
「そう南だ。南が石倉を殺しの現場まで来るよう、携帯に電話した。奴はタクシーを使って駆けつけた。俺がいるので不安そうにしていたが、南は後から来ると言うと奴も納得した。石倉は何の疑問も抱かず、西野社長を陥れ、南を社長に担ぎ出す嘘八百の俺の話にほくそえんでいたっけ。椅子に座って俺とカップ酒を飲んで話していたんだ。」
「その後から正一が縄を首に掛け、一気に吊り上げたってわけだ。」
「ぴんぽん。正解。最初、吊り上げられて、奴は何が起こったか分からなかった。目だけひん剥いていた。だが、佐久間が車椅子に乗って笑いながら姿を現すとすぐに了解した。その時の、奴の哀れな顔が忘れられない。本当に気の毒だったよ。」
と言って、声をあげて笑った。勝ち誇ったようなその顔は、竹内にとって一世一代の晴れ舞台のそれである。だらしなく口が開いた。
「そうそう、南の銃はちっとも当らなかっただろう。あれは空砲だ。あれで嚇しておいて、その後、安心しきったお前をホテルで襲う手はずだった。まさか南が事故を起こし、お前が代々木にぶっ飛んで行くとは思いもしなかった。しかし、何しに行ったんだ。」
「別に。ひさびさに会長のご尊顔を拝みたくなっただけだ。」
これを聞いて、またしても笑い転げた。そうしている間も竹内は相変わらず銃口を飯島の胸に向けている。何か良い方策はないものかと辺りを窺がった。
眩しいライトの光を遮るように手をかざして視線を落とすと、暗闇の中に、濃い黒い線が見えた。サーチライトの電源コードが、飯島の足元を這っているのだ。幸いサーチライトの光は飯島の上半身に向けられていて足元まで届いていない。左足でコードを押さえ、右足のつま先で持ち上げ、それを踝に巻きつけた。
飯島はいちかばちか、賭けに出ることにした。飯島はぎょっとして竹内の右後方に視線を向けて叫んだ。
「箕輪、やめろ、奴は銃を持っている。」
竹内は一瞬驚いて後を振り向いた。飯島はコードを右の踝に巻き付けたまま、佐久間が銃を放り投げたあたりに向かって飛んだ。
竹内は振り返り、すぐさま引きがねを引いたが、銃弾は飯島の腰のあたりをかすめ床に当って弾けた。竹内が、ごろごろと転がる飯島を視線で追いながら、銃を構え直した時である。突然、サーチライトが竹内に向かって倒れてきた。
咄嗟に体を引いてそれを避けた。ガチャンとガラスが弾ける音がして、サーチライトの光は消えた。暗闇が倉庫全体を覆った。竹内は銃を撃とうと身構えたが、強烈な光で目をやられ、しばらく動けなかった。
飯島は体を回転させ壁際に逃れた。幸い、佐久間の拳銃は体を回転させている途中で背中に当った。運が良かったのだ。沈黙が暗闇を支配した。
飯島は息を殺し、暗闇に目を慣らそうとするが、サーチライトの光りが瞼の裏にまだ残っている。瞼を閉じて残像が消えるのを待った。
最初に行動を起こしたのは竹内である。拳銃を闇雲に撃ちまくり、そのうちの一発がコンクリートの壁に弾けて飯島の耳を掠めた。しかし、カチッカチッという金属音が響き、銃弾は五発目で途絶えた。竹内の声が響く。
「ふ、ふ、ふ、銃火がちらりとお前の影を映し出した。」
竹内は撃ち尽くした空のカートリッジを床に落とし、予備を装着した。銃を構えて最初に発砲した時だ。飯島はこの瞬間を待っていた。飯島は竹内の銃火の残像に向かって佐久間の銃を撃ち尽くした。カチ、カチという撃鉄の音が響く。
竹内が倒れる音がした。飯島はゆっくりと近づいていった。暗闇に慣れた目に竹内の死体がぼんやりと浮かんだ。飯島は竹内の体を足で蹴った。ぴくりともしない。飯島は溜息をつき、へたり込んだ。ようやく全てが終わった。そう感じた。
飯島はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。深呼吸して煙を肺に送り込んだ。全てが終わったのだ。急に拳銃が重く感じられ、指の力を抜くとそれはぽとりと落ちた。みんな死んでしまった。和子も南も、そして佐久間も。飯島は深いため息をついた。
突然、竹内の骸がむっくりと上体を起こした。飯島は目を見開き凝視した。咥えた煙草がぽとりと落ちた。竹内は両手で顔をごしごしと摩った。ポケットをまさぐり、ライトを取り出すと、自分の顔を照らした。そして飯島に向かってにやっと笑った。
背筋に悪寒が走った。鳥肌が立った。どうなっているんだ。これは現実だろうか。あれだけ銃弾を浴びて生きているなんて信じられない。背後で音がした。ごそごそという音だ。恐怖で引き攣った顔をおずおずと後方に回した。
竹内が飯島の背後にライトを向けた。その瞬間、飯島は悲鳴をあげそうになった。章子が飯島の後ろに立っていたのだ。飯島は、目を剥いて体を硬直させた。その瞬間、後頭部に鈍い痛みを感じた。
第二十章
顔に冷水を浴びせられ、飯島は意識を回復した。目に水が入って、ちくちくと沁みる。瞼を強く絞り、ようやく目を見開くと、灯された照明がもう一つ現実を照らし出していた。無残な現実である。
竹内が飯島の目の前に突っ立っていた。手には空き缶が握られ、そこから水が滴り落ちている。その横に、章子が顔を伏せ、膝を抱えて座っていた。見上げると、竹内が声を張り上げた。
「残念だったな、飯島。その銃では人を殺せん。銃弾は鉛じゃなくて、軍が演習用に使うプラスチック弾だ。おー痛て、それでも相当の衝撃だったぜ。」
と言って、いきなり顎を蹴った。飯島は仰向けに倒れたが、すぐに腹ばいになり体を丸めた。ぜいぜいと息をして、横目で次ぎの攻撃を待った。竹内は飯島の腹を蹴りにきた。竹内の足先が腹に食い込む寸前、飯島は体を回して、仰向けになりながら右腕を伸ばした。
竹内の右足は空を切った。飯島は床に残された左足首を掴むと、思いきり引っ張った。竹内はばたんと勢い良く床に転げた。飯島は起きあがると、仰向けになった竹内に飛びかかり馬乗りになった。そしてその脂ぎった顔を思いきり殴りつけた。
左肩を守るようにして、ひーひーと悲鳴を上げる竹内に、尚も殴り続けた。その時、章子が叫んだ。
「もう、止めて。もう十分でしょう。」
飯島が尚も殴りながら、叫んだ。
「十分だって。冗談じゃない。殺すまで殴る。」
章子が立ち上がり、拳銃を構えながら、近づいてくる。
「それは困るの。殺されたら、お金が入ってこなくなってしまう。あの業突く張りの女が独り占めしてしまうわ。もし、止めないのなら、私があなたを殺すことになるわ。」
飯島は手を止めて、章子を見た。その手には拳銃が握られている。悲しげな章子の目は、飯島を直視できずゆらゆらと揺れている。飯島が言った。
「章子、これ以上罪を犯すのは止めろ。愛子ちゃんのことを考えろ。」
突然ヒステリックな声が響いた。
「愛子のためにやっているのよ。」
竹内がゆっくりと起きあがりながら、唸った。
「散々、俺を馬鹿にしやがって。俺がつまらん男だと、金でしか何ものも得られんだと。ふざけるな。」
「そうだ、その通りの男じゃないか。」
「そう言うお前はどうなんだ。えーっ、女房を死に追いやった厄病神だ。そうじゃないのか。」
飯島が動揺して言い返した。
「疫病神はどっちだ。お前まえにそんなこと言われたくない。」
「ふん、女房だけならいざ知らず、章子にも裏切られた。惨めな野郎だ。反吐が出るぜ。貴様が気を失っている時、章子は今のうちにお前を殺してくれって頼んだ。彼を苦しませたくないって言ってな。しかし、俺は拒んだ。幸せそうな馬鹿面に水をぶっかけて目覚めさせた。」
こう言うと、竹内はぶるぶる震える手で煙草を取り出し火を点けた。深く吸い込み、そして煙を吐き出しながら続けた。
「いいか、お前の呑気な寝顔を見ていて胸糞が悪くなった。現実を見せたかった。お前がどんなに惨めな男なのか、思い知らせてやりたかったんだ。」
竹内が章子に近付き、拳銃をもぎ取った。飯島は章子を見詰めた。章子は視線を合わそうとしない。ゆっくりと歩いて、飯島に背中を向けて佇んだ。竹内は、咥え煙草で拳銃を飯島の米神に押し当てた。そして言った。
「章子は結婚後も南と続いていた。俺は、二人を結ぶ惨めなメッセンジャーだった。しかし、今、章子は俺の女になった。」
そして竹内はここぞとばかり声を張り上げた。
「飯島、俺と章子が出来ていたとは思いもしなかっただろう。名古屋支社の駐車場で会った時、章子は既に俺の女だったんだ。俺を馬鹿にしたような顔をしていたが、俺はお前が哀れでしょうがなかったんだよ。分かったか、この頓馬野郎が。」
飯島は章子を見た。いつ引き金が引かれてもおかしくない状況だが、佐久間を撃った銃で飯島を撃つはずもない。その銃を死体になった飯島に握らせなければならないはずなのだ。飯島が章子に話しかけた。
「いつから竹内と出来ていたんだ。最初からか?」
僅かに肩が揺れた。章子は後を向いたまま答えた。
「貴方は何も分かっていない。人の気持ちもなんて、ちっとも分かろうとしない。貴方を本当に憎んだわ。死んでしまえばいいと思った。今思い出してもくやしい。」
章子は涙を拭うと叫んだ。
「やって、もういいの。飯島を殺して。」
飯島は覚悟を決めた。既に章子は腹を括っている。まして、竹内は興奮気味で、さっき自分で言った手順など忘れているよだ。どの拳銃で撃っても関係ないという雰囲気である。 飯島の神経は米神に集中していた。衝撃を待った。しかしなかなかそれは訪れない。その代わりに竹内の声が響いた。
「飯島、良い質問だ。章子と俺がいつから出来ていたかって?俺がお前を疫病神と罵った意味を教えてやろう。いいか、よく聞け、章子はつい最近まで、俺達の犯罪とは縁もゆかりもなかったんだ。」
竹内を遮るように、章子が振り返りながら言った。
「竹内とは友達だった。いつでも相談に乗ってくれた。そして、あの日もたまたま電話してきたわ。」
飯島の心に不安が広がった。
「あの日、あの日ってどの日だ?」
章子は押し黙り、唇を噛んだ。代わりに竹内が答えた。
「お前が、章子を怒鳴りつけた日に決まってるだろう。章子を嘘つき呼ばわりして、しかも和子と別れることになったのが、章子の責任だと怒鳴ったそうじゃないか。まったく勝手な野郎だぜ。最初に章子を誘ったのはお前だろう。」
飯島は愕然として章子を見た。そしてあの時の激情を思い出した。竹内の言葉が続く。
「あれが運命を変えた。あのことがなければ、和子は死なずに済んだんだ。俺がお前を疫病神って言ったのはそのことだ。お前の激情が章子を俺達の犯罪に荷担させ、和子の運命を狂わせることになったんだ。」
こう言うと笑い転げた。その笑い声を聞いて、飯島が顔を強張らせた。竹内はひとしきり笑うと、飯島に向き直り叫んだ。
「いいか、飯島、DNA鑑定の偽造のアイディアは章子が思いついたんだ。それで佐久間は本格的に狂っちまった。和子を殺すと言い出したんだ。俺だって、まさか和子さんを殺すなんて思ってもみなかったよ。だが賽は投げられたんだ。」
飯島は、打ちのめされた。章子を憎んだ。章子が和子を殺した。一瞬、そう思ったのだ。飯島が章子に向って怒鳴った。
「なんてことをしたんだ、貴様。貴様が和子を殺したんだ。」
章子がくるりと後を向いてしゃがみ込んだ。章子の肩がぶるぶると震えている。泣いているのだ。
「・・・・・」
章子がしゃくりあげた。竹内が怒鳴った。
「おい、章子、こっちを見ろ。章子、こっちを見るんだ。お前の元恋人を、今から殺す。それをその目に焼き付けろ。お前が俺を愛しているなら、いや、もし、俺と一緒に生きて行くというなら、俺の命令に従え。」
泣きながら章子が叫んだ。
「出来ない、出来ないわ。お願い、許して、許して。」
「おい、こっちを向け、向けって言っているのが分からんのか。」
竹内が興奮して叫んだ。飯島は竹内の異常な表情に危惧を覚えた。今までの勝ち誇った表情は消えうせ狂気が漲っている。
銃声が1発轟いた。章子が前につんのめった。飯島はがっくっと膝を折り、床に手をついた。そして頭を床に叩きつけた。何度も何度も。そんな飯島の様子に、竹内は虚ろな視線を向けたまま言った。
「結局、章子は俺の伴侶にはなれなかった。もっとも、金持ちになれば、女なんてどうにでもなる。」
虚脱したように飯島を見詰めている。ふと我に返ると、右手の銃に視線を落とした。そして、再び飯島を見た。その右手がぴくりと動いた時、飯島が言った。
「その拳銃で、俺が佐久間と章子を殺したというわけだ。」
竹内は、飯島の言葉でようやく手順を思い出したようだ。すかさず飯島が叫んだ。
「もうたくさんだ。早く、俺を殺せ。俺も和子や章子の世界に送ってくれ。もうこんな現実はたくさんだ。さあ、殺せ。」
竹内は頷きながら、銃を左手に持ち替え、飯島から奪った拳銃を尻のポケットから取り出した。
「飯島、言われるまでもない。殺してやるよ。この銃を佐久間に握らせておけばすべてシナリオ通りになる。向田からこの銃のことは聞いていた。さあ、目をつぶれ。お前に見詰められては、俺も撃ちずらい。」
飯島は目を閉じた。
銃声が響いた。飯島はゆっくりと目を開けた。竹内はあんぐりと口を開けて信じ難い光景を見詰めていた。右手の指が3本飛び、残った薬指と小指の骨が剥き出しになっている。心臓の鼓動に合わせて、ぴゅーぴゅーと血が吹き上げていた。
竹内は、これが突発的な事故なのか、それとも仕組まれたのか確かめようと飯島に視線を向けた。飯島がぼそっと言った。
「ざま見ろ。」
竹内は手首を握り締め、跪くと「うぎゃー、うぎゃー」と悲鳴とも怒声ともとれる声を張り上げた。飯島は竹内の顔を思いきり殴った。竹内は仰向けに倒れた。飯島は床に落ちたもう一丁の拳銃を拾い上げ、起き上がろうともがく竹内に話しかけた。
「俺は向田がお前の仲間だと確信していた。だから銃身の真中に鉛を詰めておいたんだ。ざまあ見ろ、この野郎。」
そう言うと、竹内の腹部を思いきり殴った。竹内はうーんとうめいて転げたが、血だらけの顔に憎悪を漲らせ、唸った。
「この疫病神が。」
飯島はが突然狂ったように叫んだ。
「ふざけるな、貴様こそ厄病神じゃあねえか。この蛆虫野郎が。」
そしてもう一度腹を蹴った。竹内はどさっと大の字に倒れた。
後で章子の声がした。飯島は駆け寄ると跪いて上半身を抱き上げた。右胸が真っ赤に染まっている。章子が口を開いた。
「やっぱり天罰が下ったわ。そんな気もしないではなかったの。ずっと迷いっぱなし。悪魔になったり普通の人間に戻ったり。結局悪人になりきれなかった・・・あの日、貴方に恥をかかされて、私、正気を失ったの。それがこんな結果を生むなんて。」
「ごめんよ、あの時、何故あんな風に怒鳴ってしまったのか。嘘つき呼ばわりまでしてしまった。」
章子は泣きそうな声で言った。
「嘘をつく気など無かったわ。時期的にみてぴったりだったから、あなたの子供だと信じた。神様が今頃になって、昔の願いを叶えてくれた。そう思ったの。」
「本当にご免。あの時、俺はどうかしていたんだ。本当にご免。」
「謝らないで。かえって辛いわ、私のしたことを思うと。まさかあんなことになるなんて信じられなかった。和子さんが殺された時、本当に恐ろしかった。その原因を作ったのは私だもの。自殺しようかとさえ思った。佐久間の狂気の炎に油を注いだのは私だったの。」
飯島は涙声で叫んだ。
「そんなことはない、決して君のせいじゃない。」
「いいえ、私のせいよ。うまくやれば、佐久間の3億の保険金が手に入るかも知れないって、何かいい知恵はないかって竹内が言ったの。それを聞いた時、私も狂ってしまった。本当にお金が欲しかったから。」
こう言って、ごほっと咳き込み、血を吐いた。飯島は章子の唇についた血を指先で拭った。
「もう、喋るな、今、救急車を呼ぶ。」
章子が続けた。
「いいえ、もうすぐ死ぬわ。だから最後まで話をさせて。竹内が言った通り、DNA鑑定のアイディアを出したのは私だった。あの時、一瞬、魔が差したのね。そのアイディアに竹内は飛びついた。もう後には引けなかった。あんなことさえ言わなければ・・・すべて後の祭り。」
最後の言葉を遮るように、叫んだ。
「違う、それは違うんだ。俺は奴の遣り口をよく知っている。DNA鑑定の偽造なんて、奴はとっくに考えていた。それを君の口から言わせただけだ。俺は奴のそんな遣り口を何度となく見てきた。君は、奴に乗せられただけなんだ。だから自分を責めるな。」
「ふふ、そういうことにしておくわ。少し、気持ちが楽になった。どうも有難う。でも、嬉しい、こうして貴方に抱かれて死ねるなんて、本望だわ。それから、愛子のこと・・・お願い。」
章子の目から涙が溢れた。同時に、飯島の胸に顔を埋めた。微かな息が飯島の胸に小さな温もりを作った。しかし、その温もりも次第に小さくなっていった。最後にはその唇の感覚だけが胸に残った。章子は眠るように息を引き取った。
涙を堪え、章子を抱きしめた。すると、「おい、疫病神」と竹内の弱弱しい声がする。振りかえると、大の字に倒れた竹内が顔だけ上げて飯島を凝視していた。瞼は赤黒く腫れ上がり、鼻孔から血が吹き出している。しかし、裂けた唇はまだ薄笑いの形を保っていた。
「おい、疫病神。疫病神が、何を泣いているんだ。」
飯島はぶるっと体を震わせた。手から、だらだらと血をたれ流し、死に体となった竹内がまだ憎悪を剥き出しにしている。体中の血液が沸騰した。殺すしかないと思った。和子を、そして章子を殺した張本人がまだ息をしている。許せなかった。
章子の上半身を静かに床に降ろすと、すっくと立ちあがった。その時、一瞬、肘を引っ張られるような感覚があった。見ると、章子の腕がぱらりと床に落ちた。章子は死の間際まで飯島のジャンパーの袖を握っていたのだ。
飯島は殺意を顕わにして竹内を見下ろした。竹内は薄笑いを浮かべ、腫上がった瞼を必死で持ち上げた。白目ばかりで瞳は見えない。それでも必死で笑みを浮かべているのだ。飯島は竹内の傍らに立った。竹内がうわ言のように言葉を発した。
「そうだ、飯島、ここで一気にけりをつけろ。」
飯島が右手に持った拳銃を竹内の顔に向けようとした瞬間、さっきと同じように右肘を引っ張られるような感覚を覚えた。革ジャンの袖が脇に擦れたに過ぎない。しかし、章子がジャンパーの袖を握っている感覚が残っていた。飯島が呟いた。
「馬鹿な、偶然だ。ただの偶然に過ぎない。」
章子が飯島の激情を諌めようとしているように感じたのだ。心の中は葛藤が渦巻いていた。ただの偶然だ。思い込みに過ぎない、と。しかし、そんな理性を排除しようとする何かが心の奥底から湧きあがってくる。
確かに、飯島の激情が章子をどれほど傷つけたか、計り知れない。その章子が最後に言った。貴方に抱かれて死ねるなんて、本望だと。最後に、章子は飯島を許したではないか。許せと言うのか、章子?いや、激情を抑えろと言うことか?飯島の拳銃を握る拳がぶるぶると震えている。竹内が肩で息をしながら、
「どうした、飯島、早くしろ、この疫病神。」
と声を振り絞った。この声を聞いて、肩の力がすっと消え、少しだけ竹内が哀れに思えた。飯島は腰を屈め、竹内の襟首を左手で掴んで語りかけた。
「そんなに怖いか。絶望の淵で生き続けるのがそんなに怖いか。お前は、今、大量に血を失って、恍惚として、死を受け入れようとしている。死など怖くはないって、そう思っているんだろう。」
竹内は目を閉じ、薄笑いを浮かべていた唇を大きく開け、吐息を漏らした。血の滲んだ目から一筋の涙が流れた。飯島が続けた。
「だけど、お前は生きるんだ。生きるしかないと悟れば、今度は苦痛が襲う。その苦痛を味わうしかない。自分のやったことの罪を償うんだ。」
言い終わると、飯島はベルトをはずし、竹内の上腕部を締め付け、止血した。そして、立ちあがり、章子の傍らに行くと、その場にへたり込んだ。携帯で救急車を呼んだ。呆然と二人の死体を見つめていた。そして呟くように言った。
「章子、章子、許してくれ。俺は君を深く傷つけてしまった。こんな犯罪に追い込んでしまった。俺はやはり疫病神だった。」
それは章子だけではなかった。同時に和子をも、死の淵に追いやったのだ。あの時、もし、じっと孤独と絶望に耐え、章子と関係を結ぼうなどと思わなければ、佐久間を狂気に走らせることも、そして佐久間が和子を殺そうと思うこともなかったのだ。
突然、飯島の口から嗚咽が漏れた。張り詰めていた心に小さな穴が開いて、ひゅーと何かが漏れ出したように。咽び泣く声が広い空間に吸い込まれてゆく。
「和子、和子。済まない。君は俺に会わなければ良かったんだ。俺と知り合いさいしなければ、・・・・」
飯島が自分のプライドを捨て、和子に本当のことを打ち明けていれば、状況は変わっていただろう。それが出来ず、章子に救いを求めた。それが負の状況を作り出し、さらに負の連鎖を呼んだ。そして最も残酷な今という未来を用意していたのである。
遠くでサイレンの音が聞こえる。飯島はおもむろに銃口を米神に当てた。しかし、手がぶるぶると震えて、とうとう引き金を引くことは出来なかった。銃を床に放り投げた。そして呟いた。
「忘れいていた、章子の最後の頼みを。死ぬわけにはいかない。でも、俺に何が出来るというのだ・・・せいぜい保険金が愛子ちゃんに渡るよう、ストーリーを創作するくらいだろう。」
サイレンの音が次第に近付いてくる。飯島はゆっくりと立ち上がった。
翌日の事情聴取は10時に始まり、昼を挟んで終わったのは夕刻近くだ。花田刑事も呼ばれ、飯島の証言の信憑性は裏づけされ、今後も呼び出しに応じることを約束し、開放された。警察を出ると携帯が震えた。何度も無視し続けてきたが、そろそろ、許そうと思った。携帯の受信ボタンを押した。相手はすぐに出た。
「飯島か、今、どこにいる。」
「お前こそ、どこにいるんだ。」
「今、駒込の奴のマンションを見張っている。俺もお前に言われるまで気付かなかった。お前に悪いことしちまったと思って、奴の動きを監視しているんだ。もし、奴が佐久間の仲間なら何らかの動きをすると思ってさ。」
力なく微笑んで、飯島は言った。
「すべて片付いた。南、西野会長、佐久間、そして彰子も死んだ。みんな死んでしまった。竹内と俺だけが生き残った。」
箕輪は絶句している様子だ。しばらくして漸く言葉を発した。
「どういうことなんだ。いったい何が起こったというんだ。」
「すべて、ここ数日のうちに起こったことだ。電話で話せる内容じゃない。」
「つまり、俺は無駄骨を折ったってことか。」
「いや、やはり、向田敦は奴らの仲間だった。お前が、見張っていたから、奴は佐久間達に合流できなかった。本当に助かった。」
最後に飯島を救ったのは箕輪だ。向田が佐久間等に合流していたら、飯島は今頃こうして息をしているはずもない。箕輪の満足そうに頷く顔を想像し、思わす微笑んだ。そして続けた。
「捕まった竹内が喋れば奴も芋づるで逮捕されるだろう。」
「そうか、やっぱり仲間だったか。俺も、人を見る目がないってことだ。」
「それより、別れてから何日になる。」
「一週間だ。けっこう大変だった。張り込みなんて初めてだし、夜は結構寒いし。」
「会社の方は大丈夫なのか。」
「しょうがないから、例の民間受注の話を出して、休暇の延長をたのんだ。」
飯島はまた力なく笑った。友のいかつい顔を思い出した。たった一週間しかたっていないのに、懐かしく、心が和んだ。その顔が見たいと思った。
「もう、そっちの方は放っておいても大丈夫だ。警察にまかせればいい。どうだ、これからどこかで合流しよう。お前にだけは全てを話しておきたい。佐久間さん、祥子、南、会長、それぞれがどう生きて死んでいったか、正直に話したい」
「ああ、いいだろう。俺だって最初から関わってきたんだ。聞く権利があるはずだ」
「ああ、それにお前は俺の命の恩人だからな」
「そんな大袈裟な。ところで、お前、これからどうするつもりだ。就職のことだ。」
「さあ、考えていない。」
「お前、心機一転して、仙台に来ないか。仙台は本当にいい所だぞ。人情が細やかで、物価は安い。冬はスキーそれ以外の季節はゴルフ。自然はたっぷりある。お前の就職は俺が何とかする。」
箕輪は精一杯の心遣いをしてくれている。就職は、箕輪の世話にならなくても、贅沢さえ言わなければどうにでもなる。かつて、和子と歩いた仙台の街を思い浮かべた。仙台か。それも悪くない。死ねないのなら、どこかで生きていかなければならないのだから。
無明のささやき