色彩の少年

色彩の魔術師は、僕にみえない魔法をあの時確かにかけたんだ。

 
 色には温度がある。赤はあつくて、オレンジは温かい。白は大理石のようにつるつるしてひんやりしていて、青はみずうみのようにつめたく穏やかだ。
 僕は色が見えない。昔は見えていたのだけれど、中学生になる前交通事故にあって、まるで壊れたテレビのようにすこしずつ、すこしずつ色を失っていった。主治医は原因がわからないから治せない、そう言った。僕はそれに対して特になにも思わず「そうですか」としずかに言った。主治医はすこしかなしそうな顔をした。
 毎日通る通学路の、真夏の街路樹の緑が濃くなっているのだって僕にはわかるのだ。火がゆらめくたびに艶めかしく赤いことだって、青空がこころ洗われるように青いのだって、僕は知っている。だからなにも困ることなんてなかった。色を失くすまでに僕はたくさんの色を見てきたのだから、その経験から色を照らし合わせればなにも困ることなんてなかった。ただし、黒板の赤字はちょっと見にくかったので、あれはやめていただきたかった。
 他に困るのが、自分の身に着ける物の色だった。僕は色がわからないから、気に入った服をみつけたら必ず「今着ている服に合わせるならどっちがいいですか」と店員に聞いていた。そうすれば「そちらのベージュに合わせるならこのカーキのほうがよろしいかと思います」店員は自分の持っている服の色をごく自然に教えてくれる。もっと便利なのは通販だ。これは色がカタログにきちんと書いてあるので、わざわざ店員を捕まえて聞く手間がはぶけた。
 一回、失敗したことがある。ある日大学に行った時のことだ。その日は四講まで講義が入っていて帰るのは夕方だった。
「あれ、果穂くん、なんだかおもしろい服きているね」
同じゼミの女の子にそう話しかけられた。その日僕は特別目立ったデザインの服を着ていたわけではなかったので不思議に思った。
「なにか変かな」
「ううん。そのシャツ、昼間の室内で見た時は枯草色っていうか、緑っぽい色だったのに、おひさまの下でみるとうすい茶色にみえる」
そう彼女は言った。僕はしまった、と思った。しまった、失敗だ。
 僕は、僕の目が色を認識しないことを誰にも言わないでいた。主治医と、遠くで暮らす僕の祖父母以外には。いろいろと面倒なのだ。そういった特徴が特徴で終わればいいのだけれど、特徴が区別になり、区別が差別になることだってたくさんある。それに僕は今の自分に何も不自由していない。だからなんとなく誰にも話していなかった。面倒なことはだいきらいだったから。
「なにか気に障った?ごめんね」
そういって彼女はごく自然に僕に謝罪をした。なにも悪くないのだ。彼女は何も。
 そのままなんとなく話は終わり、僕と彼女は講義を受け終わった。後で彼女がすごい人だとわかるのはその後だった。
 同じゼミの彼女は、「天才」と呼ばれていた。
僕の通っている大学は偏差値もそこそこで、地方の進学校レベルがきちんと勉強したら入れる程度の大学だったから、決して天才と呼ばれるような人がごろごろいる訳ではなかったのだけれど、それでも彼女は天才と呼ばれていた。僕も彼女の名前を調べてそれに納得がいった。
 『眠り』
 そう題名がつけられた彼女の絵は、抽象的で、それでいてたまらなく美しく、まさに眠りそのものだった。「色彩の魔術師」そういった見出しと一緒に乗っている彼女の横の絵。とけそうに歪んだ線、散らばった星のような点、その中で静かに横たわる羊とふたりの少年は、しあわせそうに、無垢な顔ですやすやと眠っていた。ただの一枚の絵にこれほど思いを込められる人がいるのだと、僕は驚いてしまった。そのまま調べていくと彼女が芸術方面に特化した天才であり、数々の受賞歴や高校生のときに開いた個展の記録なんかがでてきた。本当にすごい人だ。すごい絵をかく人だ。彼女は毎日どんな世界を見ているのだろう。どんな考えをしていればこんな絵が描けるのだろう。僕はちょっとだけ羨ましくなった。彼女自身ではなく、彼女の絵を見たであろう他の人たちに。色が見えるのなら、彼女の絵はもっと綺麗にみえるのだろうな、と。
 一週間後、彼女とまた会った。この講義を取っているのは僕のゼミでは僕と彼女しか居なかった。当たり前といえば当たり前なのだけれど、顔見知りの僕と彼女は一個椅子を空けた隣に座った。
「あのさ、蓮沼さんって、すごい人だったんだね」
講義が始まる前に少し抑えた声でそう話しかけると、彼女は目をまるくさせてこちらをみた。
「そんなことないよ、ぜんぜんすごくないよ」
そういってため息をつく。蓮沼さんはどこからどう見てもふつうの大学生にしか見えなかった。普通の、等身大の女子大生。
「なんでこの大学なの?」
この大学は確かに芸術系の大学ではあるけど、とりたてその方面に詳しいというわけでもなく、学芸員や美術講師の資格が取れるというだけだ。彼女の実力ならもっと都会の芸術系の大学でもやっていけるだろうに。
「地元がこっちだから、家庭の事情と金銭面でこの大学にしたの。それにさ、ここは就職率が他の芸術系の大学にくらべて高いでしょう。私、なんかあやふやなものが嫌いで。絵を描いていて今はそれで発表する場があるけど、将来絵を描けなくなったらそこで終わってしまうでしょう。絵を描くのを仕事にしてしまったら。だからきちんと学べるうちに資格とか取っておこうと思って」
「意外と現実的なんだね。もっとこう、私には絵しかいらない、っていうタイプだと思ってた」
「はは、それは違うよ。『絵しかいらない』じゃなくて、『絵しか描けない』んだよ」
そうぽつりと零した彼女はほんのりと暗い雰囲気を漂わせていた。天才はただの天才じゃなかった。絵が描けるだけの普通の女の子だった。そして、至極彼女の意見はまっとうだった。
「でも、僕すきだなあ、蓮沼さんの絵」
そういうと彼女は暗い表情をほころばせて、ふわっと軽く笑う。
「うれしい、ありがとう」
授業はじまっちゃう、蓮沼さんのその言葉で二人ともまたどちらともなく会話をやめた。

「果穂くん」
 帰り際に蓮沼さんに声をかけられた。夏が近くなって日落ちるのが遅くなっていた。夕日のせいで二人分の影が濃く伸びる。
「果穂くんも家こっちなの?」
「ああ、うん」
「よかった、もし嫌じゃなければ一緒にかえろう?」
「いいよ、一緒に帰ろう」
「やった!」
蓮見さんはその日すごいふわりとした綺麗な形のチュニックを着ていた。彼女が歩くたびそれが風をふくんではたはたと揺れる。綺麗な形ではあったけど、それが桜色なのか、水色なのかは僕にはわからなかった。
「私、果穂くんとお話ししてみたかったんだよね」
「僕と?」
なぜ彼女がこんな僕に興味を持ったのか謎だった。僕は蓮沼さんほどとりたて絵が上手いわけでもないし、賞だってそんなに取った事はなかった。
「この大学に入って最初に、みんな絵を自由に描いて出したことがあったじゃない。自由になんでも描いていいって言われて、みんな最初すごく戸惑ってた。題材がまるきり決まっていなかったから。だけど果穂くんは黙々と書いていたでしょう。びっくりしちゃった」
ああ、確かにそんなことがあったかもしれない。ゼミに入って最初の課題だったような気がする。題材は自由。画材も自由だった。
「んで、出来た絵をみてさらにびっくりしちゃった。風景画なんだろうけど、よく見るとどこにもない風景なんだよね。そして色使いがすごいの。ゴッホみたい」
「ゴッホみたい、っていうのは言われたことがある。蓮沼さん以外だと、うちの教授に」
「やっぱり?あの人大酒飲みだしふらふらしているけど、根がちゃんとしているよね」
「教授が聞いていたら泣くよそれ、あの人泣き上戸だから」
 うちの教授はとりたて変人なことで有名だ。自身も画家で今は何を思ったかとりたて都会でもないこの場所で教授をやっている。たまに新作を描くたび新作の受賞式、といってゼミを休みにするのだが二週間くらい丸々休みにするので教務課に怒られている。そしてたまに二日酔いのままゼミを開いたりする。ちゃらんぽらんな人だが作品と生徒の指導には真面目で、そこに憧れてこの大学に進学する生徒も居るくらいだ。
「なんか本当に不思議な色使いなの。私はああいう描き方ができないからすごくうらやましい」
「僕は、きみが羨ましいよ」
きみと、きみの描いている色が。僕には見えないものだから。
 言ってしまってからは、と我に返った。何を言っているんだ僕は。
「私と、私の色が見えない…?」
ほら、蓮沼さんは不思議そうな顔をしているじゃないか。なんとかごまかさなきゃ。
「ほら、感受性とか。そういう意味で色って言葉を使ったんだけどやっぱりわかりにくかったよね、ごめん」
「そうだね、色の感じ方って人によって全然ちがうよね。物の見え方も考えかたも」
蓮沼さんは手をふらふら大きく振って歩く。
「私さ、まだ賞とかもらう前、絵を描いて初めて出したときにね、評論家の人に意見をもらったんだけどさ、なんか私の意図したことと全くちがう意見言っててさ、私、全然ダメだなって思った。もっと精進しなきゃ、って」
「果穂くんは絵の良い所ってなんだと思う?」
「絵のいいところ?見てぱっとわかるところかな」
「そう、それなんだよ。絵のいいところは言葉も人種も関係なくぱっとみて、好きか嫌いかっていう好みが出てくるところだと思うの。だから、一つの作品にいろんな気持ちが込められる。だけどさ、私はおなじ国のその評論家にさえ自分の思っていることをうまく伝えられなかった」
「…まあ、でも人によって物の受け取りかたは違うしね…むずかしいよ、すごく、そういうのは」
「わたしね、どんな人がみても思うものがある程度同じな絵をかいてみたい。まだまだそんな力はないけど」
夕暮れのバス停の近くに、二人分の薄くなった影がかろうじて見える。もう夜が近いのだろう。薄暗くてよく見えない。
「あのね、今描いている絵があるんだけど、それを一番先に果穂くんにみてほしい」
お願い、そういって彼女は茶化すようにこちらに手を合わせ向かい合う。薄暗くて表情まではよく見えないけど、きっと声から察するに笑っているんだろうな。
「わかった、じゃあ僕も蓮沼さんに絵を描くよ。そうしてそれを、できあがったら一番先に見せる」
「約束ね」
「約束だ」
 そういってその日は別れた。なんだか僕はとんでもない人ととんでもない約束をしてしまった。それに気付いたのは家について我に返ってからだった。
 僕は蓮沼さんほど絵が上手くなかったから、どういう絵を描くか悩んだ。色彩の魔術師、万人が見ても同じように見える、それだけ強い印象を他人に与えたいと願う彼女。色。世界。見ているもの。
僕は悩んだ挙句、ある一色のチューブを手に取った。
 
絵が出来たのは、それから二か月程度経ってからだった。僕にしては随分と時間がかかってしまった。その間、蓮沼さんと会ったのは最初に話しかけたあの四講の講義と、週末のゼミの週二回ずつだけだった。そのゼミも班が違うので、話すのはほとんど四講の講義が始まる前のちょっとした時間だけだった。内容は決まってお互いの絵の進行具合で、今何割ぐらい?とどちらともなく聞いて、それに答えるだけだった。蓮沼さんが速筆なのは有名だったので二週間程度でできると思っていたのだが今回は特別力を入れているらしく、全然進まない、そう言って笑っていた。僕も同じだった。描きながらこれでいいのか、そう思って筆を進めるのは初めてだった。いつも半ば義務のように、自分自身と向かい合って描くのが普通だったから、他人の為に筆を進めるのがこんなに難しいことだとは思わなかった。それに、僕は蓮沼さんを深くは知らない。同じ大学に行く、同じゼミの、天才の、けど普通の女の子。どんな絵を描いて見せればいいのかわからなかったから、悩んだ。けど、きっとこれでいいはず。そう何度も言い聞かせて描きつづけた。
「できたよ」
四講が終わるとそういって蓮沼さんが声をかけてきた。僕は今週やっと絵ができたところだったから、ちょうどよかった。
「僕もできたよ」
「今すぐにでも果穂くんに見せたいんだけどさ、持ってくるのがちょっとね」
そういって蓮沼さんは笑った。
「大丈夫、僕もちょっと直したいところがあるから、お互いに見せ合うのは来週にしないか?」
「いいね。あのさ、私美術部だから、美術準備室に置いて見せ合うっていうのはどうだろう。そこならあんまり人が入らないし、運搬してもふしぎじゃないと思うんだ」
「いいけど、そんなところに置いていいの?」
「大丈夫、顧問はうちのゼミの先生だから」
「ああ…なるほど」
そういって二人で顔を見合わせてどちらともなく笑ってしまった。そうしてくすくす笑っていると教授が思い切りこちらを向いてきて目が合ってしまったので二人ともあわてて姿勢を正してルーズリーフをまとめたりした。
 蓮沼さんと話合った結果、来週のゼミまでに美術準備室に絵を運んでおいて、見せ合うのはゼミが終わってからにしよう、ということになった。僕は美術準備室の鍵を蓮沼さんから借りて、表面に新聞を被せてセロテープで止めた絵をこっそり運んできた。美術準備室は美術部が休みの水曜日と金曜日はほとんど人が居ないので、運ぶなら水曜日か金曜日がいい、という話を聞いて僕は水曜日を選んだ。借りた鍵は美術部の部長である蓮沼さんに後日返しておけばいい、とのことだった。管理はそれで大丈夫なのかと聞いたら、蓮沼さんは笑って、美術部で使う鍵は美術室と美術準備室の兼用だから、ほとんど皆美術準備室専用の鍵があることは知らないのだと言っていた。
「水曜日に置いておくけど、見ちゃだめだからね」
「見ないよ!約束だもん、約束」
そう言って彼女は笑っていた。
 週末のゼミが近くなるにつれてだんだんと僕は緊張してしまった。本当にあの絵でよかったのか、とか、蓮沼さんの絵はきっとすごいに違いない、とかそんなことをぐるぐる考えてしまって冷や汗すら出てきた。けど、そのたびに自分は間違っていない、大丈夫。そう言い聞かせてひたすらその時を待った。ちなみに肝心のゼミは全く話の内容が頭にはいってこなかったので、友人に「恋煩いか」とからかわれたりした。
 ゼミが終わって、僕はその後もちょっかいをかけながら一緒に帰ろうという友人をいなし、美術準備室に向かった。結構急いだつもりなのに蓮沼さんは先に来ていて、既に美術準備室に入っていた。
「果穂くん、おつかれさま」
「蓮沼さんもゼミおつかれさま」
「なんか、こう、恥ずかしいねなんだか」
「ね」
そう苦笑しつつ、お互いの絵を引きずってきて並べる。そうして、蓮沼さんがこちらに顔を向ける。
「いっせーので、で開けよう」
「うん」
「『いっせーのー、で!』」
 出てきた絵をみて僕らはびっくりしてしまった。
それは、あまりにも対照的な絵だった。僕の絵はほぼ黒一色で、そのほかに少しの青系の色と白や黄色のハイライトを使った夜の絵で、彼女の絵はほぼ白一色で、そのほかに少しの淡い色を使った、早朝の絵だった。
「ここまで対照的だとは…」
「僕たち打ち合わせとかしたっけ」
「してない」
 僕は、色彩や僕のこの目を生かした絵を描こうと思った。考えに考えたあげく、黒を使った。僕が滅多に使うことはない色だ。下地に黒を一面に塗ってしまって、乾いたその上に青や水色を重ねたり、ハイライトで白を使ったりした。普通、下地に黒を使う人はあまり居ない。黒の色が強すぎて他の色が潰れやすいからだ。僕はあえてそれを狙った。夜を表すのにあまり明るい色を基調にしたくなかったのだ。夜なんて、月や街灯や星がなければ基本的に黒一色だと思っているから。それを踏まえて木と茂みの区別や立体感を暗い色だけでやるのに手こずって時間がかかったのだ。
 彼女は、僕と全く逆の事をしていた。遠くから見れば、強い日の光の部分だけが見えて、本当に早朝の朝焼けをみているような感じがするが、いざ近くに寄ってみると、日の光に遮られながらも周りの情景がこと細かに描かれているのがわかる。そりゃ速筆の彼女が毎回早く帰って絵に打ち込むだけある。素晴らしい作品だった。
「…すごいね」
「いや、蓮沼さんのも、すごい」
「夜をこんなに見たままかける人、初めてみた」
「僕は朝焼けをこんなに素直にかける人を初めてみたよ」
お互いにすごい、としかいえなくてしばらく食い入るように互いの作品を見つめていた。それはまるで照らし合わせたように、最初から対の作品であるような感じすらした。
「あ、そういえばこれ、ちょっとした仕掛けがあって、これかけてみて」
そういって僕は蓮沼さんにサングラスを渡し、かけるように促す。蓮沼さんはどこかわくわくした顔でサングラスをかけ、僕の絵をみた。
「うわあ…!」
サングラスをかけると、視界は黒と白の二色になる。普段の僕の視界と近い。そうして黒と白のフィルターをかけると、月光が輝くように絵を描いた。月光のまわりに、色の薄い水色や灰色を置いたり、月光が当たる部分の木にそれと同じような薄さの色をちりばめておいたのだ。これにも苦労した。なんせ僕が見えるのは黒と白の二色だけなので、いつも使う色を覚えて、同じ色の所を塗ってしまう、という方式をとっているのだが、今回はなかなかそういった風には描けなかったので、段階ごとに使う色を決めて塗った。大変だった。僕の視界では上手く描けたと思っていても、他のひとの視界ではそうではないのだ。だから使う色を少なくして、覚えておいて、必死に頭の中で色がついている自分の絵を想像しながら描いた。そうして視界を黒と白の二色にしたときとのギャップを作る。そういった小細工を仕掛けておいた。
「すごい、すごいよこれ、果穂くん」
「ありがとう、うれしいよ。頑張ったかいがあった」
そのままきゃいきゃいと嬉しそうに喜ぶ彼女がふいにぎょっとする一言をいった。
「あれ、私の絵もなんかサングラスかけてみた時のほうがいい気がする」
「…ちょっと聞きたいんだけど蓮沼さん今回絵具何色ぐらい使った?」
「うちにある絵具の全部。朝日の光線の端のプリズムがどうもうまくいかなくて結局原色全部とそれを白で薄めたのを濃さで5パターンくらい出して全部使った」
 彼女が色彩の魔術師と呼ばれる訳がはっきりとわかった。僕の目に彼女の絵はすごく暖かな朝焼けに見えるがきっとそうじゃない。いろんな色を重ねているのだろう。そうしてそれが組み合わさって、美しい色彩の絵になっているはずだ。それはきっとすごく綺麗で、鮮やかなんだろう。なんだかくやしくて、かなしくてやるせなくなってしまう。
「いいなあ…僕も見たかったなあ」
「え、なんで、今見てるじゃない」
「あのね、蓮沼さん、僕は色が見えないんだ。君がそのサングラスをかけて見る視界が、僕の普通なんだ」
そう言うと、蓮沼さんはびっくりした顔をしていた。びっくりした顔のまま、サングラスを外して、こっちを見る。
「うすうす、気が付いていたよ。でも、色が全部見えないとは思わなかった」
蓮沼さんは静かに僕にサングラスを返す。
「普段から、果穂くんの絵って黒を絶対使わなかったでしょう。最初はなにかこだわりでもあるのかと思ってた。作品によって、黒に近い色、代替に赤とか茶とか紺とかしか使ってなかったから、そういう作風なのかな、って思ってた。黒を使わない代わりに色をたくさん使ってたから、すごい色に敏感な人なんだと思ってたの。でも、ある日気づいたの。前、わたしと果穂くんが一回だけ一緒の展覧会に出展したことがあって、あの時のパンフレットに果穂くんの絵が載っていてね、果穂くんの絵ってどんな感じだったか確かめたくてプリントしたの。そしたらうちのプリンタ、インクが切れ気味で青一色でプリントされて、びっくりした」
「全然カラーでみる印象と違ったの。むしろ一色で出てきた方の絵が好みだった。それでゴッホ、って例えたの。果穂くんの事。ゴッホも、先天的色盲だったっていう説があるから」
「うんうん、そうだな」
知らぬ間に後ろに僕たちの教授が立っていた。気づいた僕と蓮沼さんはひっ、と短い声を揃って出す。
「いつのまに居たんです教授、どこから聞いていたんですか」
「いつのまにもなにも本来美術準備室は美術部顧問の俺の部屋のひとつだよお前ら、知らなかったか。そして俺は自分の部屋にコーヒーを淹れにきた。そしたらゼミの生徒が二人して絵の見せっこしてた」
そういって気だるそうに煙草に火を付けると僕らの教授はすたすたと歩いてコーヒーメーカーのほこりを軽く払い、どこからかもってきたミネラルウォーターのペットボトルと粉末のコーヒーをセットし、あっというまに美術準備室はコーヒーのいい匂いが立ち込めた。
「あ、君たちコーヒー飲める?砂糖しかないけど」
僕たち二人はなんとなくあっけにとられて、思わずこくりと首を縦に振った。
 教授はソファーのほこりを軽く払い、僕たち二人の前に温かなコーヒーを差し出した。淹れたてのそれは香ばしく、缶コーヒーなんかよりずっとおいしかった。教授が煙草を吸い終わり、コーヒーと夕暮れの匂いが開けた窓から漂っていた。心地の良い風が頬をなでる最中、教授が口を開いた。
「ちょっと二人に提案があるんだが、その絵、二つとも俺の個展で出す気ないか?」
「あの、個展って、次やる奴ですよね?うちのゼミの生徒からも何点か出すっていう」
「そうだそうだ、それ。お前たちのものは二つ並べて展示する。あと、入口のところで黒い薄い紙製のグラスでも渡しておく」
 静かに教授が二本目の煙草に火を点けて言う。
「うちのゼミの中で、本気で真摯に絵を描くことに貪欲なのは蓮沼と果穂くらいだ。こんな大学だから、中には芸術は好きだけど彫刻や現代アート向きのやつもいるし、そもそも芸術は好きだけど絵にさほど自信がないやつだっている。だから俺は生徒になるべく発表の場を持ってもらいたい。その為にもあの作品はいい広告塔になるだろう」
「でも、蓮沼さんはいいとして僕はそんな…」
「果穂、お前は自分の力を見誤っている。お前の目は色が見えない。だがそれが強みでもあるんだ。普通の感覚ならあんな色使いの絵、そうそう描けやしないんだよ。それに、お前の絵はサングラスをかけることで一般の人にもお前の見ている視界で認識することができる。これがどういうことかわかるか果穂。一枚の絵で違う見方がどんな人にもできるんだ。それは個性であり、強みだ」
 生まれてそんなことを言われたのは初めてだった。ずっと自分の視界が色を映さないのを、必死で悟られないように生きてきた。そんな風な生き方が、僕の視界を更に奪っていた。僕はその一言で、自分の知らない自分に気付けたのだ。
「そうだよ、出そうよ、私と。果穂君の色使いすごく綺麗だもん。ばらばらに見えるんだけどすごく綺麗なの。それでサングラスかけると急にリアリティ増すんだもん、すごいよ」
「花沼はなんていうかもう好きにやればいいと先生は思う」
「教授、わたしの時だけ適当すぎやしませんか」
 思わず噴き出した僕をみて、失礼なやつだ、と教授が笑う。それにつられて蓮沼さんも笑う。心地よかった。こんなにすがすがしい気分は初めてだった。絵をかく上で僕はずっと色彩に縛られて生きていた。その縛りが完全に解けたような、まっさらな気分だった。

 四年後、僕は蓮沼と出した教授の個展会場にまた来ていた。今回は教授の個展ではなく、僕と花沼の合同展覧会だった。会場の真ん中にはあの時二人が描いた絵が二つ並べて展示されており、大体のテーマごとに二人の絵がごちゃまぜで展示してある。
「やあ」
「やあ、ひさしぶり。卒展以来じゃない?」
「そのあと一回焼肉たべに行ったでしょう、ゼミのOBと教授で」
「ああ、教授が飲みすぎてタクシーに担ぎこんだときか」
「そうそう。ああ、それと果穂くん目、治ったんだって?」
「出会った当初みたいに君付けで呼ぶのやめてくれよ…治ったよ。長年通い続けていた主治医が藪医者で、脳にある傷に気付かなかったんだよ。普通に治った」
「でもそんなに作風かわんないね、なんで?」
「なんでも何も、昔出しちゃったあの絵の作風が根付いちゃったし、僕もなんだかんだいってあの感じが気に入っているから、サングラスかけたり外したりしながら描いてるんだよ」
「そりゃご苦労さま」
「でも、本当に治ってよかったよ。蓮沼の作品をちゃんとした色で見れるようになったから」
「あら言うようになったね、果穂。ところで最近彼女とはどうなの」
「別れた」
「まじで」
「蓮沼は」
「別れた」
「…まあ、お互いに忙しいしね」
「恋愛する暇もないし、そんな暇あったら絵を描きつづけてたい、私は」
「相変わらずだね」
「相変わらずだよ」
「…何も、変わりやしないよ。何も」
そういって蓮沼は中央に飾られた二枚の絵を見やる。僕の夜の絵と、蓮沼の朝焼けの絵は、昔と変わらずそこにある。そこに新たにぼくが最近描いた夕暮れの絵と、蓮沼の描いた真昼の絵を並べて四部作にしてある。確かに、ちっとも変わらなかった。お互いの作風も関係も。変わった事と言えば僕の目が色彩を取り戻し、互いに呼び方が苗字の呼び捨てになったくらいだった。
僕はあのとき教授の個展で出した絵が評判になり、一風変わった作風として有名になった。今は美術教室での講師をしながらこうやって作品を出している。蓮沼といえば相変わらず独特の色彩感覚で絵を描きつづけ、著名な画家になったが、本人はやっぱり現実思考で、大学在学時にきちんと高校の美術教師の資格と学芸員の資格を取っていたので、落ち着いたら教える側にまわりたいらしい。
 ふと、あの時、教授があの言葉を言ってくれなかったら、蓮沼が僕に絵を描くよう言ってくれなかったら、僕の人生はとてつもなく平坦なもので終わったかもしれない。手術をして目が色彩を取り戻したのはつい最近だけど、僕の人生自体に鮮やかな色彩が広がったのは、まぎれもないあの時だったのだと今では思う。
 モノクロの視界で平坦な人生を送るはずだった少年は、日差しがこぼれ落ちる鮮やかな視界の中ではもう、どこにも確認できなかった。

色彩の少年

色彩の少年

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-17

Copyrighted
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