公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(14)
十四 事業仕訳後 その二
若い女が、今日も、白いYシャツに、黒いスラックスを履き、手にはビジネスバッグを持って、すごい勢いで、トイレの中に入った。
「ダダダダダダダ」
同じくらいの勢いで、トイレットペーパーの紙を引っ張る。
「ガタガタガタガタ」
トイレのフォルダーが回る。
一連の動作が、前回と同じように終わり、女は立ち上がって、水洗のレバーを回した。女は落ち着いたのか、思い出したように、ふと、口にした。このトイレ、取り壊されるんだ。もう、飛び込みで、このトイレは使用できない。まあ、近くの駅やデパートにもトイレがあるからいいか。でも、こんなに、激しくトイレットペーパーは巻き取れない。
女は自分の癖は知っていた。知っていたけど、直せなかった。ある意味、トイレットペーパーを思い切り、引っ張ることに喜びを感じていたのかも知れない。もう、変な癖は止めよう。女は心に誓うけれど、たぶん、同じことを繰り返すような気もした。
それよりも、お世話になったこのトイレに何か恩返しをしたかった。トイレに中は、お掃除のおばさんのおかげできれいだ。外には、風船がデコレーションされ、ドアのノブにも造花が飾られて、トイレの周りには、空き缶も新聞紙もタバコの吸い殻も落ちていない。なんだか、自分のすることが全て他人になされていた。でも、何か、できるだろう。
あった。これだ。女は、トイレットペーパーの先を、ホテルのトイレで見かけるように、三角形に折った。ささやかな恩返しだった。でも、ささやかだけど、自分にできることはこれだと思った。そして、外に出ると、トイレに向かって一礼した。何事にも、感謝の気持ちが必要だ。 若い女は、次の営業先へと向かった。
「いち、にい、いち、にい」
トイレの中で、男がアキレス腱を伸ばしたり、肩を回したり、手首を振ったりしている。言わずと知れた、マラソンランナーのAである。先日、急に腹痛が生じ、このトイレに飛び込んで以来、中央公園での練習が終わり、自宅へ帰るまでの間に、必ず、立寄るようにしている。ひよっと、再び、あの悪夢が甦られないように、腹痛がなくても立寄るようにしている。
だけど残念だな。このトイレは三月末に撤去されちゃうのかよ。まあ、仕方がないな。もし、急に腹痛が起きたら、駅の構内のトイレでも飛び込むか。ここは、ランニング姿でも、誰にも見られず、気兼ねなく入れるからよかったんだけど。
Aは、お腹を撫でながら、今日は大丈夫だなと安心すると、トイレから出ようとした。「ちょっと待てよ」
Aは、このトイレの中が、今まで以上に清潔で、トイレットペーパーの先が三角形に折られていること、外は、風船や花で飾られ、周囲には、空き缶どころか、落ち葉さえないことに気付いた。
自分以外にも、このトイレを愛用している人がいたんだ。Aは、ふと、嬉しくなった。と、同時に、自分もこのトイレのために何かできないかと考えた。考える時は、やはり。うーん、だ。
「うーん、うーん、うーん」
頭をひねるが、あまりいい考えは浮かばない。それなら、自分の身近にあるのもではどうか。Aはバッグを降ろし、中を物色する。
「あった」
まだ使用していないタオルだ。それもブランド物だ。いつも、万が一のため、一枚予備として持っているのだ。
Aは、タオルを掴むと外の手洗い所のタオル掛けに吊った。タオル掛けがあるなんて、思ってもいなかった。そりゃそうだ。今まで、タオルが掛けられているのを見たことはなかったからだ。小人の鉄棒か何かと思っていた。それは、冗談だ。人間って、見ているようで、見ていないものだと改めて納得する。このトイレも、あるんだけどないように思われて取り壊しされるんだろう。ひょっとしたら、自分だって、トイレと同じ存在かもしれない。
だが、俺は大丈夫。この二本の足がある。この足があれば前に進んで行ける。誰かのエッセーの一説の改良版だ。
Aは、タオル掛けにタオルを吊るすと、よし、と誰に聞かせる訳でなく、家に向かって走り出した。
「シュー。シュー。シュー」
スプレー缶から酸素が放出され、Bの体全身隅々までいきわたる。目を瞑ったまま、Bは実感する。温泉に入って体が温まるように、体の中が殺菌され、清潔になっていくような気がした。
ようやく落ち着いたBは、目を開いた。その先には、この公衆トイレが三月末をもって、取り壊されるという張り紙が貼っている。
「三月末か。今は、二月末。もう一か月しかないんだ」
Bにとっては、このトイレは赤の他人だ。トイレを赤の他人と譬えるのは少し変だけど、事実は事実だ。だが、こうして、このトイレが取り壊される運命にあると思うと、赤の他人が実は、青の親戚で、いや、黒のおじいちゃんやおばあちゃん、黄色のお父さんやお母さん、緑色の弟や妹など家族同様に思えてくる。
別れは定めなのか。定めならば受け入れなければならないけれど、それならば、少しでも受け入れ方を変えようと思った。多分、自分以外の人もそう感じているだろう。
前よりも一層磨かれたトイレ。眼の前には、造花が飾っているし、トイレットペーパーの先はホテルのように、三角形に折られている。外側は、風船でデコレーションされ、トイレに対する感謝の言葉が綴られている。タオルも備え付けられ、周辺にはゴミひとつ落ちていない。
じゃあ、あたしにできること。あたしが今、持っているのは酸素スプレー缶。こんなものは必要だろうか。スプレー缶が必要なのはあたしだけ。でも、ひょっとしたら、あたしのように、この世界に落ちつぶされ、息ができない人もいるかもしれない。あたしが、あたしを特別だと思うのは勝手だけど、あたしが必要としているこのトイレは、あたし以外の誰かも必要としているのだ。
Bは決めた。ハンドバッグに中の、一番底にしまっている、予備の缶を取り出した。まだ、封は切られていない。缶に直接、マジックで記載する。
「どうぞ、御自由にお使いください」
缶をトイレの中の棚に置いた。少し丸みを帯びた字だ。達筆でない方が親近感を感じるだろう。
Bは、もう一度、スプレー缶から酸素を吸収すると、トイレから出ていった。酸素が満ち足りた真っ赤な顔をして。過剰酸素で、火を近づければ爆発しそうな顔だった。
最終電車が出発した。Cはそれを見送った。Cは、酔っているものの、醒めつつ酔い、酔いつつ醒めている状態で、意識はしっかりしている。今日はわざと最終電車を遅れたのだ。
いつものように、コンビニでスポーツ新聞と三百五十ccの缶ビールを一本、五百ccのペットボトルのお茶を一本買い、外に置かれた段ボール箱を一つ掴むと、公衆トイレに向かった。
電車の最終便が出発したにも関わらず、駅の周辺には、まだ人がいた。タクシーに乗り込む者、ベンチに座って朝が来るのを待つ者、もう一度、飲み直そうと繁華街に向かう者、様々だ。今までは、酒に酔って最終電車に乗り遅れたため、トイレに泊まっていたが、今日は違う。これまで、無料宿泊所として使用してきた公衆トイレにお別れを告げるためだ。
トイレは閉まっていた。扉に赤いマークが出ている。誰かが使っている。まさか、俺と同じように、このトイレで一晩過ごすつもりなのか。
「おえー。おえー」ゲロを吐く声がする。酔っ払いか。まあ、俺も同じようなものだ。
しばらくすると、若い男がトイレから出てきた。眼がうつろで、鼻汁をだし、口からは涎を出し、顔色はそう白だ。足はふらつきながら、ベンチの方へ向かって、そのまま座り込むと、首がガクンと右に折れた。
「おい、大丈夫か」仲間らしき若い男が何人か寄って来て、つぶれた若者の腕を肩に掛けて、どこかに消えていっていった。
トイレの中を見る。ゲロだらけである。もう少し、発射の確立を定めて欲しい。これじゃあ、機関銃じゃないか。あたり一面のゲロだらけだが、不思議と、男は嫌な気にはならなかった。備え付けのトイレットペーパーで、ゲロを拭きとると、便器の中に入れた。手が汚れたので、手を洗おうとトイレの外に出た、手洗い場には、タオルが備え付けられてある。まだ、新品だ。ブランドのマークが赤い。誰が架けたのだろう。役所じゃない。このトイレの愛好家か。気持ちだけいただいて、男はポケットから自分のハンカチを取り出し、手を拭った。
きれいに掃除されたトイレだが、まだ、消化された食べ物、これは焼き鳥か、いやラーメン、そうビールが胃の中で、ミキサーされ、胃液とミックスされた臭いが漂っている。
「おっ、いいものがある」
Cは、棚の上の缶を取った。芳香剤か。サービスがいい。これも新品だ。封が切られていない。包装しているビニール袋を破り、缶のボタンを押した、シュー。シュー。ハエやカを撃退するのではない。敵は臭いだ。だが、いつまでたっても、臭いは別の臭いに変わらない。だけど、頭がすっきりはしてくる。男は缶を見た。薄暗いトイレの中なので、良く見えなかったが、目を凝らして見ると、芳香剤じゃなくて、酸素缶だった。
「へえ、こんな缶を使っている奴が、この街にいるんだ」
新春の駅伝大会等で、倒れこんでいる選手の口元に、スプレー缶を咥えさせているのをテレビで見たことがあるけれど、自分が使うとは思ってもみなかった。このトイレ、ランナーが使用しているのかな。でも、わざわざ、トイレの中で、酸素スプレーを使うのかな。まさか、公衆トイレから公衆トイレまで、駅伝しているんじゃないだろうな、それは面白いけれど、一体、どんな奴だろう。
Cは、酸素スプレーのおかげで、酔いが冷めつつも、醒めたぶんだけ、妄想が強くなった。そのおかげで、少々の胃液と食べ物の混合気体の臭いについても、気にならなくなった。
Cは、いつものように、段ボール紙を便器の上に置くと、体育座りをして、体の上に新聞紙布団をはおった。誰に言うこともなく、いや、トイレに向かって、乾杯と叫んだ。
朝が来た。いつものようにトイレの掃除にやってきた松川。
「あと、一か月か」
信号が変わった。横断歩道を渡る。顔を見上げる。風船が見える。赤い風船。黄色の風船。青色の風船。緑色の風船。パントマイムでもいるのかな。いや、今日は平日だ。大道芸人はいないはずだ。いても、こんな早い時間帯では、観客は誰もおらず、おひねりもないため、商売にならないはずだ。それに、あの風船が上がっているのは、公衆トイレの辺りだ。
松川は歩みを進める。目の前のバスが発車した。隠れていたトイレが見えた。トイレの周りに風船が吊られている。トイレが風船で飾られている。それもひとつふたつじゃない。数十個の風船だ。
先週の金曜日に掃除をした後、土・日曜日は休みだった。まさかこんなに変わるとは。しかも、風船には、「これまで、ありがとう」や「トイレさん、なくならないで」など、様々なメッセージが、大人だけでなく、子どもの字でも書かれている。中には、「トイレ掃除、いつも御苦労さん」と書かれている。自分のことだ。風船だけでない。トイレのドアを始め、外壁は、様々な花で飾られている。トイレの周囲は、いつも空き缶などが落ちているのに、今日はきれいだ。じゃあ、中は?
ゆっくりとドアを開ける。ピカピカに磨かれた便器。これは私がしたんじゃない。二日立てば汚れているはずだ。誰かがしたんだ。芳香剤が置かれている。いや、よく見ると酸素缶だ。壁の一面にも造花が飾られている。もう、何もすることはない。でも、これがあたしの仕事だ。
松川は、倉庫からバケツやぞうきんを取り出すと、これまで以上に、丁寧に掃除を始めた。
公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(14)