シャンプーと煙草
彼は女という存在を心底から信じていなかった。出会う女とは誰彼構わず、ひっきりなしに関係を結んでいたが、それも彼の言によると、そもそも期待するものが何もないのだから、拒絶されたり失望されたところで何の痛みも感じない、うまくいけば御の字だ、ということだった。
僕は彼のスタンスには賛同できなかったが、彼とは頻繁に会って話を聞いていた。当然女の話ばかりだ。気になっている女、関係のある女、捨てた女、一度かぎりの女。彼はどこまでも女に執着していた。決して一人の女に入れあげることはなく、いわば女という概念そのものにとらわれていた。概念にとらわれながら肉体を求めるとはおかしな話だ。しかしそうとしか言いようがない。彼は病的なほどに女を求めていたのである。
彼のことは嫌いではない。人間味があって好きだ。ただ誤解されやすい人間だと思う。人は通常、他人の目立った特徴に対して敵愾心を抱くもので、それを人間味があるという言葉などで簡単に片付けてはくれないのだ。実際彼に人間味があると言うのは僕くらいのもので、他の誰しも、彼のことを無感情な人間と言うらしい。
彼の話を聞いたり、彼の日常の態度を見るに、彼は決して女を見下しているわけではない。彼は自分自身という存在を含め、あらゆる人間を下に見ている。その意味では、女を信じていないというより、人間を信じていないと言った方が正しいのかもしれない。根底にある人間への不信。彼の思考と行動はすべて、そのどん底の発想から始まっていて、それがプラスになることはまずない。
ある時、二人で飲んでいると、彼がカラオケに行こうと言い出した。彼とカラオケに行くのは初めてだ。別段断る理由もないので肯くと、彼は携帯電話を取りだしてアドレス帳の片っ端からかけ始めた。そろそろ日も変わろうという時刻にである。案の定なかなか捕まらないようで彼は苛々し始めた。二人で行こうと声を掛けても、女がいないと退屈だという。
ようやく捕まった女の子は彼のゼミの後輩だった。目黒にいて用事を終えたところで、すぐこちらに向かうとのことだった。新宿駅の東口を出た広場で、僕と彼は女の子を待った。
現れた女の子は思わぬ清潔感のある子だった。聞けばまだようやく二十歳になったばかりである。彼女はわずかにブラウンに染められた髪を綺麗にまとめていた。顔と服装はどんなだったか。思い出せない。髪のことをよく覚えているのは、夜中だというのにシャンプーのやわらかな匂いが放たれていたからだった。
彼は彼女が現れてからというもの、堰を切ったように喋り続けていた。一応互いの紹介はしてくれたものの、僕たちを知り合わせることに興味はないらしく、女の子は女の子で彼の話に熱心に耳を傾けていた。
それで僕たちは挨拶もそこそこにカラオケ店に向かい、薄暗い照明の下で安っぽいソファーに腰掛けた。彼と彼女はビール、僕はホットコーヒー。一曲目は彼が歌ったが、驚くほど上手かった。低く通る歌声が魅力的だった。女の子はどこか憧れの眼差しで彼のことを見つめていた。
彼が洗面所に席を立ったとき、僕は聞いてみた。
「彼は君にとってどんな先輩?」
彼女は答える。「えー、頼りがいのある先輩ですよ。頭も切れるし、リードしてくれる感じかなあ。歌も上手いし」
「それだけ?」
「うーん、ぶっちゃけ好き、ですよ。じゃなきゃほら、こんな時間にはね」
彼女の歌う曲が流れはじめ、会話はそこで終わった。
彼は戻って来て煙草に火を付けた。身体をぐったりとソファーに投げ出し、彼女の歌う歌をつまらなさそうに聞いていた。頼りがいのある先輩、という言葉が僕の頭の中で空回りしていた。彼女は無機質に光るテレビ画面を眺めて歌いながら、時折彼の方を向いては優しげな目をしていた。
僕は冷めたコーヒーを飲み終え、失敬することにした。
「もう終電ないだろ」
と彼が言う。僕は近くに友達が住んでるからと嘘をつき、千円札を残して部屋を出た。彼は僕がいようがいまいがどっちでもよさそうだった。
人間の見え方は視点によって変わるらしい。一方通行に思えた二人の関係は、しかしどこかで繋がっているのかもしれない。僕の記憶に残るのは、彼女の髪の毛の甘い匂い、おだやかに漂いやがて空間を満たしていく、彼の吐く紫煙。
シャンプーと煙草
1737文字。7月14日筆。