曇天滲んで

美しいということは、いつかは美しくなくなるということ


 昼過ぎに起きるとつまらないことばかり考えてしまう。酔っ払って帰ってきた翌日の昼、無駄に時間ばかり食いつぶしている気がする。マニキュアがはげて落ちかかっている。落そうと思っていても除光液がどこにあるのかうまく思い出せない。それにしても妙に部屋が暗い。結局コットンと除光液をどうにか見つけてマニキュアを落としにかかる。真っ赤な爪の色がするりと落ちて除光液のせいで指が冷える。手元が暗くなったのでふと、窓を覗くと曇天どころか夜のように外は暗かった。時計は2時を指してはいるけどそれはもしかしたら夜中の2時なのかもしれない。だめだ、低気圧のせいか頭痛とめまいがする。それにうまく考えがまとまらない。くらくらとした視界の中で手元を見やると落ちたはずの真っ赤なマニキュアがぜんぜん落ちていない。それどころか指先からまるで詰まってしまった排水溝のようにどんどん赤が溢れだしていた。その赤はしだいに、ゆっくりと灰色のシーツまで染み出していって、ああ、真っ赤だ、真っ赤。赤、紅。血の色。
 きっと私はマニキュアと一緒に爪まで落としてしまったのだ。だってコットンを見ると真っ赤なマニキュアにまぎれて、妙に白い爪がべっとり付いている。指先が冷えたのだって、きっとそれは除光液のせいなんかじゃなくって血液が指先からどんどん流れ出していくせいだ。くらくらする頭はよく考えがまとまらずに、ただただ螺旋階段を覗いたようにグルグルまわる視界でベッドにひろがる赤い渦をぼうっと眺めていた。
 
「あ、」
 寝苦しくて目を覚ました。蒸し暑くてしかたがない。着の身着のままでベッドに化粧も落とさず眠り込んでいた。よほど暑かったのか、掛布団は床に落ちてしまっている。時刻は13:45。いくら休みでも寝すぎだ。せっかくの休日なのに半日以上寝てすごしてしまい、残念な気持ちになる。
 それにしても、外が暗い。
 随分と分厚い雲だ。今にも雨がふりだしそうなほど濃いねずみ色の雲が空一面を覆っている。とりあえず寝汗でべとべとになっている化粧をどうにかしたい。サイドテーブルの上にあるメイク落しシートを何枚かとって、寝そべったまま顔を拭っていく。あんなに気合をいれたマスカラも、綺麗に弧を描いたアイラインも、きらきら輝くアイシャドウのゴールドも、新色の口紅も、ピーチオレンジのチークもぜんぶぜんぶ、落として混ざってしまえばただの汚い土色だ。綺麗に彩られた化粧をどんどん落としていくと、ただの土色の汚いメイク落としシートが3枚できあがった。
 化粧をしたまま寝てしまったから肌が荒れているかもしれない。そう思って洗面所まで洗顔とパックをしに行く。洗面所の電気をつけると、妙に青白い顔がそこにあった。
「あ」
 そばかすが増えている気がする。それにクマもひどい。顎と頬のあたりに小さい吹き出物が出来ていて、顔も若干やつれている気がする。そのまま鏡をみていると、頬のあたりが赤くなってきた。きっと肌の弱い私のことだ。疲れで蕁麻疹が出たんだろう。そういえば最近めっきり自炊をしなくなった。
「え?」
 さっきまで頬にできていた蕁麻疹が、広がっている。鼻の頭や目の上まで、カサカサとしていて何だか痒い。首や鎖骨も汗がたまっていたのか、赤くなっている。痒い。掻けば掻くほど赤みはひろがって全体的にぶよりと腫れていく。何か悪いものでも食べてしまったのだろうか。昨日の晩御飯を思い出してもこれといってこころ当たりはない。
「ああ!」
 かゆくてたまらない。掻きむしりたくてたまらないのにそれより痒いところが圧倒的に多すぎてどうにもならない。しだいに苛立ちにも似た感情に支配される。かゆいかゆいかゆい!!!
「あ、」
ふと、手を見ると私の爪は真っ赤に染まっていた。爪のあいだに皮膚と血が詰まっている。茫然としながら鏡をみると、血だらけの私が幽霊みたいな表情で立っていた。
 …この人は誰なんだろう。
 そうっと鏡に手を近づける。鏡の中の私もまた、同じように手を近づける。けど手と手が触れ合うことはなく、しっかりとした、つめたい鏡の感触がそこにあるだけだった。手も肌も表情もぼろぼろだ。本当に、誰なんだろう。髪はぼさぼさで、寝汗と揚げ物とたばこの混じったひどい匂いがする。顔はどうみても不細工で、その上白くむくんでところどころ蕁麻疹で赤く腫れてまるでピエロみたいだ。自慢だったデコルテも、白く細かったはずの首も、全部ぜんぶ赤く腫れてところどころ血が出ている。曇天のせいで薄暗い部屋と蛍光灯もあいまって、今の私は、まるで幽霊みたいだった。
 茫然としたままシャワーを浴びる。体を念入りに二度洗って、髪も二度洗いする。水気を切った髪にコンディショナーを付けて洗い流したあと、ヘアパックをしながら体と顔にスクラブでマッサージをする。肌も髪も必死に綺麗に、うつくしくしようとする。そういえば最近太ったかもしれない。あばらの肉と二の腕、腹の肉がちょっとだけ増えた気がする。スクラブをこすりつけて必死にマッサージする。
 シャワーを浴びて体重計に乗ろうとしてやめた。そういえばこの間から壊れているんだった。何を乗せても表示が8888しか出ないはず。いっそのこと今日あたらしいのを買いに行きたかったのだけれどこの曇天だ。外に出るのは憚れる。
 ヘアオイルをつけて髪をブローして、乾かしてしまう。そのまま顔に化粧水をつけて美容液をつけて、高いクリームで蓋をする。外行きの服に着替えて、化粧を終えてしまうと、鏡のなかにはいつもの私がいた。いつものわたし。綺麗な外行きの、わたし。にっこり微笑むと鏡のなかの美女もにっこり完璧な微笑みを返してくれる。
 ああ、それなのに今日は曇天だ。
 どこにもいけやしない。せっかく私はこんなに綺麗なのに、いい匂いがしているのに、休日なのに、どこにも、どこにもいけやしない。
 メイクのときに置きっぱなしにしていた三面鏡に、ふと、知らない女が映った気がした。こわくなってよくよく三面鏡を覗いてみると、顎に肉がついていることに気が付いた。正面からみたときは気が付かなかったが、ななめからみるとひどい有様だ。いつから?いつからだろう。昨日飲みにいったときも、私は私が思っている美人の完璧な私の顔ではなく、こんな顎に肉のついたおばさんのような顔でいたのだろうか。いつから?最初のカクテルを頼んだときから?それとも酔っ払ったフリをして好みの男性にもたれ掛ったときから?彼が私の手をはらったときから?ねえ、いつから?
 三面鏡を床に叩きつける。思ったより大きい音は出ずに鏡は粉々に割れる。そのままメイク落しシートで顔も体もめちゃくちゃに拭きまくる。あんなに綺麗にほどこしたメイクなのに、やっぱり落としてできるのは汚い土色のメイクシートのゴミだけだった。なんだか私自体が土色に汚れている気がして、何枚も、何枚も使って化粧を落とす。化粧を落としているうちに、爪だけ綺麗な赤がちっとも剥がれていないのに気づいて、除光液を直接指にかけて、必死にこする。いらだつ。化粧も、セットした髪も、時間が経ったらただの汚いよごれになるのに、なぜ、爪だけこんなにも綺麗で、美しくこびりつくんだろう。ちっとも落ちやしない。まるで昨日一緒に飲んでいた若い女のようだ。ちっとも変りやしない。美しく、そうして落としても土色に汚れたりなんかしない。若さがすべてを許している。あの子はきっと化粧を落としても美しい顔のままなんだろう。そうして男に甘えたりするのだろう、ああ、憎い、憎い、若さが、憎い。

 そうして爪がぼろぼろになって指先が血まみれになっていく私を、洗面所の鏡から幽霊のような醜い女が覗いていたが、それはやはり、私以外他ならないのであった。

曇天滲んで

曇天滲んで

  • 小説
  • 掌編
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-12

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