公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(13)

十三 事業仕訳後 その一

 久しぶりの登場のトイレ。登場するや否や、愚痴をこぼし、文句をタラタラの発言。わずかな登場時間を楽しむ余裕はない。
「おい。誰だ。俺のドアに張り紙をしやがった奴は。外側に張っているから、中身が見えないじゃないか。サロンパスか?俺のドアは、筋肉痛じゃないぞ。それとも、ドアが壊れているのか。それなら、さっさと直してくれ。変な張り紙をされちゃあ、かゆくて仕方がない。誰か、早く、取ってくれ。それと、その張り紙に何が書いているのか、誰か教えてくれ」
 トイレは、張り紙が貼られて以来、悶々とした日々を過ごすのであった。

「あーあ。あたしの仕事も三月までか」
 松川は、ため息をつく。
「この仕事、気にいっていたんだけどな。ビルの掃除の仕事はしていたけれど、ビルの階ごとで、掃除の担当を決められていたので、何だか比較されそうだし、責任者から監視されているようで、気が休まらなかったのにねえ。その点、この公衆トイレは、人通りの多いターミナルだけど、意外に空いていて、他の場所からも離れていたので、せかされることなく、十分に掃除ができた。
 もちろん、あたしは手抜きなんかしないよ。便器に汚れがついていたら、自分の顔が映るぐらいに、ピカピカに磨いたよ。便器の周りだって、女のあたしにはわからないけれど、男の人は長いのか短いのか、それとも、放水の勢いありすぎるのか、勢いがないのか、便器の周囲に黄色い液体が垂れていることがよくあった。床の上に、新しい川や池が生まれていた。天地創造って、このことかな。知らないお客さん(そう、あたしにとって、このトイレを使用してくれる人はお客さんだ)は、皮靴やランニングュ―ズにつけたまま、外の世界に踏み出してしまう。みんな用を足したいとあせっているのか、意外にも、足元のおしっこに気がつかないんだよね。
 運よく気付いた人は、便器をまたぐようにしておしっこをしたり、便器から離れておしっこをするので、結局便器の中に命中せずに、川が大河となり、池が湖になってしまう。床面が海になると、お客さんは、ひと目見ただけで、このトイレには入らずに、近くの駅の中のトイレやデパートの中のトイレに駆け込み込むことになる。
 誰かに使用され、誰も使用しないトイレをきれいにするのが松川の仕事だ。プーンと鼻をつくアンモニアの臭い。口にしているマスクの上を少し上に引っ張り上げ、少しでも直接的に臭いを吸収しないように防ぎ、絹ではなく、木綿のぞうきんで汚れをとる。
 あまりにも汚れがひどい時は、ホースで水を撒き、床を全面清掃することもあった。様々な思い出が頭によぎる。松川は、柄のついたモップの柄の先に、両手を置き、あごを乗せ、思いにふける。
「あたしはどこの掃除の場所に移されるのかな。近くの駅のデパートにも仲間がいる。そこでもいいな。それとも、このトイレと同じように、あたしも処分されるのかな。とにかく、三月一杯までは、一生懸命、自分に与えられた仕事をこなすそう。そして、自分に仕事を与えてくれたトイレに恩返しをしよう。壊されることがわかっていても、いや、壊されるからこそ、反対に、ぴかぴかに磨いてあげるんだ。光輝くトイレを見たら、壊す方も壊しづらいだろう。さあ、思い立ったら、行動だ」
 松川は、再び、絹じゃなく、木綿のぞうきんで床を、これまで以上にきれいに磨き始めた。

 トイレは聞いた。真実を。
「何だって。トイレを壊すんだって。これは聞き捨てならんぞ。これまで、多くの人に、赤っ恥をかかないよう、排出の場所として提供しただけでなく、時には、無料で宿泊させてやったり、時には、相槌は打たないけれど、黙って愚痴を聞いてあげたり、時には、伴奏もなく、アカペラだけど、エコーの効く閉所で、カラオケボックスの代わりになってやったり、時には、ダンスの練習会場になってやったりなど、全市民の憩いの場所として、君臨してきた、この俺様を処分するだって。一体、行政は、世間は、社会は、国は何を考えているんだ」

 トイレの怒りはもっともである。ト書きの私も、もし、自分がトイレならば、怒らざるを得ない。これまでの物語を読めば、いかに、この公衆トイレが、人々の役に立っていたかがわかる。この公衆トイレの廃止論者は、この地の市民ではないではないか。
 全国を放浪して、好き勝手に自分の意見を垂れ流しているだけであって、このトイレが廃棄処分された後の責任はとれないし、取ろうという意思もないだろう。おっと、思わず、客観的でなければいけないト書きが、自分の感情的な意見を披露してしまった。申し訳ない。さあ、話を元に戻そう。

「ええ。このトイレ、三月末でなくなるの」
 悲痛な声を上げたのは、風船使いの女、町川であった。
「これまで、この公衆トイレで、満たされない旅への思いを、風船を小道具にして、夢の中でかなえてきたのに・・・。それができなくなるなんて・・・。それが叶わないのは仕方がないとしても、この公衆トイレが壊されるのは忍びないなあ。今まで、使わせてくれたお礼に、せめて、このトイレを逃がしてやりたい。でも、あたしに何ができるの?」
 三好は考えた。
「そうだ。あたしにできるのはこれぐらいだ」
 三好は、ハンドバッグから黄色い風船を取り出すと、膨らまし始めた。その数、一個、二個、三個、エトセトラ、ケセラセラで、立て続けに二十個ができた。
「それにしても、このトイレ、三月で取り壊されるにしては、前にも増して、きれいに磨かれているなあ。きっと、あたしと同じように、このトイレにお世話になった人がたくさんいて、恩返しをしているんだ。あたしも、負けずにやるぞ」
 三好は、できたてのほやほやで、まだ、息のあたたかさが残っている風船を持つと、公衆トイレのあちこちに結えた。ひょっとしたら、風の力で風船が空に浮き、取り壊されないように願いを込めて。

「なんだ。このトイレなくなるのか」
 順之助は今日も座薬を入れながら、呟く。
「何か、あった時に、このトイレ便利だったんだけどな。でも、使用頻度から言えば、無駄なのかもしれんな。でも、やっぱり、何かのために、公衆トイレはあるんだろう。きっと、何かのために。多分、廃止しようとする奴は、このトイレが役だっていることを知らないんだ。このトイレの有効性、有用性をもっとPRすればいいんだ」
 順之助は、座薬を入れると、外に出た。顎の手のひらを乗せ、自分にできることはないかと立ったまま考える人になる。ぴっかぴかのトイレ。それに、黄色や赤色、青色など多彩な色の風船で飾られたトイレ。
「この他に、俺がトイレに出来ることは何なんだ。あっ、そうだ」
 順之助は、ポケットから、たまたま持っていた油性マジック(作者の御都主義と避難して欲しい。作者としても、読者に違和感なく物語が続けられるよう、あの手この手、そのボールペン、どのマジックと一晩、二番と、ゆっくりと睡眠をとって考えているのだ)を取り出すと、警察や消防署、病院、市役所、老人ホームばど公共施設などの連絡先を、風船の表面に書いた。
「よし、これで、このトイレの有用性がお役所にもわかるだろう」
 順之助は、また、先の方が出かかった座薬をズボンの上からお尻の穴に押し戻すと、その場から去った。

「何か。何か、恩返しをしなくっちゃ」
 あかりは思った。でも、何をしたらいいのか、思い付かなかった。自分が悲しい時、この場所は、彼女にとっては、天使の場所だった。確かに、ダンスの練習場所として最適だった。だけど、それは、ひとつの方便だった事に気が付いた。他人から干渉されない、自分自身と向きあえる場所が欲しかったのだ。仕事の事、離婚の事、これからの将来の事、年老いて行く両親の事、そして、好きなダンスの事、など、エトセトラであり、どうにかなるさ、ケセラ、セラ である。
 でも、まさか、この公衆トイレが取り壊されるとは思わなかった。だが、全て、生まれた以上は、消えていくものである。このあたしだって、まだ元気な両親だって、あたしが住んでいる地球だって、照りつける太陽だって、無限に広がる宇宙だって、終わりはあるのだ。それが、長いか、短いかの違いである。終われば終われで、そこから、また、始まればいいのだ。
「それじゃあ、あたしにできることは、何?」
 周囲を見回す。便器から、水のタンク、床のコンクリート、天井、ガラスまで、ぴかぴかに磨かれたトイレ。そして、そのトイレを包む、赤い風船。風船には、公共機関の連絡場所が書かれている。
「そうだ。いいものがあった」
 あかりは、バッグから花を取り出した。造花だ。ダンスの際、頭に付ける飾りの赤い花だ。ささやかだけど、ほんのささやかだけど、飾ってあげよう。
 あかりは、ドアのノブには花飾りをつけた。三歩後ろに下がる。うん、これはいい。十歩後ろに下がる。やっぱりいい。風船の派手さには負けるけれど、さりげなさが、あたしには似会っている。
 あかりは、そう納得すると、トイレに背を向け、仕事場に戻って行った。足取りは軽く、どういうわけか、スキップを踏んでいた。スキップなんて、久しぶりだ。頭は忘れていても、足は覚えていたのだ。お陰で、あかりの心までスキップした。

「ブウ」
 煙が鼻から出た。フウじゃない。ブウだ。だけど、そんなタバコを吸う楽しみももうすぐ終わりだ。何しろ、このトイレももうすぐ取り壊しの運命にある。今まで、禁煙場所にも関わらず、タバコを吸ってきた。それを誰かに見られて、役所に通報されたのかもしれない。タバコの吸い殻は決して、床には捨てずに、携帯タイプの吸いがら入れに片付けてきたはずだ。
 だけど、今さら、何を言っても仕方がない。このトイレは取り壊されるのだ。もう、街中で、タバコを吸うことはほとんどできなくなる。
 男はタバコを吸いたくて吸っていたわけじゃない。気持ちを落ちつかせるために、吸ってきたのだ。もうやめどきか。このトイレと同じように、タバコを吸うのもやめどきなんだ。何か、外圧がないと、今までの習慣や行動を変えられないのは、日本人の性格なんだ。ぺルーの来航で、鎖国が解き離たれた。それと同じだ。
 男は笑った。なんで、トイレが壊されて、タバコをやめるのと、ペルーの蒸気船の来航で日本が開国したことが結び着くんだ。それに、ペルーなんて人名を口にするのは、中学校以来、何十年ぶりだ。ホント、朝、何を食ったのか忘れているのに、今さら、ペルーのことを思い出すなんて。
 それはいいとして、男はこのトイレのために何かしたかった。以前と比べて、見違えるようにきれいになったトイレ。外には、風船が飾ってあり、風船には、これまでお世話になりました、これからも頑張ってください、なんて、色紙に書くような文面が記載されている。また、ドアのノブには赤い花が飾っている。このトイレが、取り壊されるなんて、信じられない。
 男は用を足すと、トイレの回りを一周した。俺にできることはこれくらいか。男の手には、空き缶と新聞紙とタバコの吸い殻があった。男は、空き缶は近くの自動販売機のゴミ箱に、新聞紙とタバコの吸い殻は、駅の構内のゴミ箱に捨てた。少しは恩返しできたかな。どうせ、また、汚れるだろうけどな。
 男は、トイレを遠くから一瞥すると、仕事場に戻って行った。

公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(13)

公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(13)

十三 事業仕訳後 その一

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-11

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