スコルピオーネ
正体不明の人物が彼の傍に存在していた。目を凝らしてその人影を観察しようとしたが、気付いた時には既にその影は人のそれではなかった。亡霊と化したそれを追って、彼は暗黒の闇の中を駆け巡る。影は黒ではなく白い幻影であった。追えども追えども追いつくことが出来ない。待て、と言おうとしても、喉が凍りついたように痛んで、全く声を発することが出来ないのだ。それでも彼は諦めず、いつかはきっと捕まえられると信じて駆け続けていた。
彼は何かに足を取られて転倒してしまった。そしてその時、足元に光る石が点在しているのに気付いた。光る石の先端は鋭利で、膝がそれによって切られていたが、そんなことには構わず、光る石を眺めた。手に取ってみたいという衝動に駆られたが、膝の痛みが彼を抑制し、拾わせまいとする。よく見ると、それらは蠍座の形に並んでいるのであった。赤く不気味に光る石は一際大きい。ああ、これはアンタレスなのだな、と彼は納得した。
眺めているうちに、影を見失ってしまった。しかし、美しい石達の御蔭で彼の心はすっかり満たされたので、影などを追い掛ける気もなくなってくるのであった。彼はその場から去ろうとした。だが、真っ暗闇ではどちらへ向かえば良いのやらさっぱり見当がつかない。それでも歩きださないよりはましだろう、と足を踏み出す。
暫く歩いていると、遠くに一つの光の塊が見えてきた。今度こそは転ばぬようにしよう、と慎重に足を運ぶ。次第に大きく眩しく成長していく光。それは、外の世界への出口であると彼に確信させる輝きを持っていた。これで元へ戻れるのだ、そう信じて彼は手を伸ばした。が、光の漏れる穴にはガラスが嵌め込まれていた。しかもまたもや先の鋭く尖ったものであった。掌を深く傷付け、虚脱感を覚えた彼は、直ぐに外に出られると信じて疑わなかったことを心の底から後悔した。
こうなったら何としてでも外へ出てやる、この裏切り者の窓をぶち壊してしまえ! 彼は狂ったように窓とその周辺を殴り続けた。外で誰かが呼んでいる、きっと俺を呼んでいる、俺のことを待っているのだ、そう自分に言い聞かせながら。
すると奇跡は起こった。強固なガラスがある瞬間に粉々になったのだ。それとともに、窓を取り囲んでいた黒い岩盤までもが音を立てて崩れ去った。彼の目の前に広がったのは、灰白色の曇天と、深緑の森であった。小川のせせらぎが耳に届いた時、彼は初めて自分の姿の惨めさを知った。血塗れのシャツは風に吹かれてごわごわと音を立てていた。両方の手から滴り落ちる赤い液体は地面の上に水溜りを形成しつつあった。それを目にして、彼は唇を噛み締める。誰も俺を待ってはいなかった、と。
彼は、音を頼りに渓流に辿り着いた。魚の群れを見付けて、足音を忍ばせ近寄った。しかし、魚は直ぐにばらばらに散り、隠れてしまった。魚にも見放され、すっかり気力を失った彼は、川の畔に腰を下ろした。何かが風に戦ぐ音がして振り向くと、斜面にイタドリが群生していた。震える手でそのうちの一本を引き抜いた。適当なところで折り、口へ運ぶ。強烈な酸味を予想していたが、意外にもその味は円やかであったので、心が少しばかり穏やかになった。
が、それも束の間、急に咽が火照り出したかと思うと、熱いものが突き上げてきて、川に向かって咳込みながらそれを吐き出した。目の前を見てみると、赤く染まった川面に、死んだ魚が何十匹と浮かび上がっているではないか。彼は驚愕して飛び退いた。先刻のイタドリは一体何だったのだ、と恐る恐る見ると、長閑に揺れていたはずのイタドリは、錆びた鉄の棒に姿を変えていた。そして、そのうちの一本が倒れてきた。彼は猛烈な勢いでそこから逃げた。
濃霧に包まれて身動きが取れなくなった。近くに濁流があるらしく、ごうごうと音が響いている。耳を澄ますと、誰かの呼ぶ声がその音に混ざっているのが分かった。聞き覚えのある声だ。しかし、それは彼の胸に疼痛をもたらす。
――こっちへ来てみろよ……早く……
声のする方へ誘われるように歩いて行った。ある時彼は、声の主は死んだはずのSであると確信した。九年前のあれはやはり悪夢だったのだ、Sは生きていた! 彼はひたすら岩場を進んで行った。
突如霧が晴れ、目の前には菜の花畑が広がった。見渡す限り黄色い花で埋め尽くされている。Sの声は聞こえない。だが、背後から足音が近付いて来た。振り返ると、Sはそこに立っていた。九年前の幼いSではなく、彼と同じくらいの背丈の少年である。彼は声を掛けようとした。なのにSは彼から顔を逸らし、逃げるように走り去る。
「おい、待てよ、せっかく会えたのに!」
彼は懸命に追い掛けた。Sは時折彼を見はしても、足を止めようとはしない。そうこうしているうちに、あの暗闇への入口に戻って来た。Sは独りで入って行ってしまった。後に続こうとしたが、足が動かなくなった。もう体力の限界なのか……と、その場に跪いた。地面に手をつき、降り出した雨に打たれていた。雨水の流れの中に、やがて赤い液が混ざり始める。顔を上げた彼は、あっと声を上げた。九年前のあの日に彼とSと一緒に居たMが、彼の目の前で倒れていたのだ。Mを揺り起そうとすると、Sは大声で笑った。
「何がおかしい? ……まさか、お前がこいつを」
「そう。お前は、謝ってくれたよな、『僕がもっと気を付けてれば良かった、ごめん』って。俺ははっきり覚えてる。でも、こいつが、Mが謝ってるのは、今の今まで聞いたことがない。そんな奴はこうなる運命にある。俺はこいつを殺す」
彼は何度も首を横に振った。これは何かの間違いだ、目の前に居るのはSなんかではない、そう信じたかった。
Sは右手に先の尖った鉄の棒を握っていた。先刻のイタドリだ。SはそれをMの腹に突き立てた。彼はMの腹から棒を抜こうとしたが、Sの力は強く、棒は全く動かない。Sは悪戦苦闘している彼を冷やかな目で見、Mの胸に片足を乗せて体重を掛けた。そして、鉄の棒を横に動かし始めるのだ。Mの腹の裂け目から鮮やかな赤い血が噴出した。もうMは絶命したのだろうか、と思いながらも、彼は力を振り絞る。
「お前がSを殺したのか! Sを返せ! 死ね! 消え失せろ!」
そう叫んだ彼は、奪い取った鉄の棒で、そいつの心臓を一息に突いた。
スコルピオーネ