四月三十日
天皇誕生日は昼まで寝てしまい、一日が非常に短かった。そして、寝過ぎたせいか、次の日は久々に早起きをした。
いつもなら、顔を洗って台所へ行くと、朝食の準備をしている母の背後でテレビが幼児番組を映し出しているのだが、その日はまだ始まっていなかった。
「あれ? 『ピンポンパン』は?」
「まだ始まってへんわ。今日はあんたえらい早いやんか」
「えー、まだなん?」
「なあ和輝、そろそろ『ピンポンパン』なんて見んのやめたら? あれ、幼稚園の子が見るもんと違う?」
母はご飯をよそいながら和輝に問うた。和輝は、首を傾げる。小学校に通い始めてまだ一か月の和輝に、幼稚園児ではなく小学生であるという自覚はなかった。
母は、和輝の答えを待たずに、姉と父を起こしに行くように行った。和輝は快く返事をして、階段を駆け上がって行った。
姉の律子は簡単に起きるが、父はそういうわけにはいかない。和輝は、律子を起こした後で、父の寝室へ行き、父の胸部に腰を下ろした。そして、一度止められた目覚まし時計の針を動かして再び鳴らして、父の額にそれを乗せた。父は頭を振って時計を横へ落とす。
「分かった分かった……起きるから、のいてくれ」
和輝は立ち上がった。が、父は寝返りを打つだけで、再び寝てしまうのだった。和輝は、枕を引っこ抜いて、それで父の頭をはたき始めた。
「こらこら! やめろやめろ! 起きるから!」
父は案外簡単に起きてしまった。和輝は部屋から飛んで出て、階段を駆け下りた。
「もう、そんな走ったら落ちるで! お父さん起きたん?」
「起きた!」
律子は、母を手伝って味噌汁をよそっていた。
父は、台所に入ってきて和輝の顔を見るなりにやにやと笑った。
「さっきはよくも無茶苦茶してくれやがったな!」
和輝は、腕白坊主として扱われることが好きだった。父の顔を見上げ、真似をしてにやにやと笑った。
「何したんな、和輝」
母は、和輝の顔を覗き込んだ。父が、和輝の頭をつかんで揺する。
「こいつは悪やぞ。さすがお父さんの子供や」
「そんな、悪いことを褒めたりせんといてよ」
父は母の言葉を無視し、和輝に言う。
「ええか和輝、悪いことを適当にしてもええけど、勉強もちゃんとせなあかんぞ」
「あかんあかん、悪いことせんと、勉強ちゃんとせなあかんねんで」
和輝は適当に頷きながら、自分ばかり話しかけられていては、律子が拗ねてしまうのではないか、とひやひやした。姉思いであるというわけではない。律子は、機嫌が悪くなるとすぐに弟に八つ当たりをするので、和輝はそれを避けたいだけなのだ。
「律子、あんた、木曜日の時間割した?」
「……あ!」
律子は、お椀と玉杓子を置いて走り去った。祭日の翌日は、つい月曜日の時間割をしてしまうのだ。
「和輝は?」
「……ちゃんとしたよ」
律子の機嫌が悪くなる、と和輝は確信した。
「和輝、お姉ちゃん放っといて先食べなさい」
「いい。待っとく」
「あら、優しい子」
母のその言葉を聞くと、居心地が悪くなる。
*
律子と和輝は、揃って家を出た。律子は、無言だった。
学校の手前の駄菓子屋の前まで来た時に、和輝は何とはなしに律子の胸元を見た。名札が付いていない。言うべきか言うべきでないか、と和輝は迷った。
迷っているうちに、学校菜園の前まで来てしまった。
「お姉ちゃん、名札忘れてる」
律子は立ち止まり、自分の胸元を見た。勢い良く頭を下げ過ぎたので、帽子が地面に落ちた。律子は素早くそれを拾うと、半分に折り曲げて和輝の頬を思い切りはたいた。
「なんでもっと早く言ってくれへんのよ!」
律子は叫び、走り去った。
尻餅をついたまま、遠ざかる律子を見送りながら、これから律子と過ごす日々の長さを思った。
と、そこへ平川進吾がやって来た。和輝は、慌てて立ち上がった。
「なんでこんなとこで座ってたん?」
「お姉ちゃんに叩かれてこけてん」
「へえー、お姉ちゃんって怖いんやな。宮っちんとこもかず君とこも、お姉ちゃんいっつも怒ってるやん」
進吾は、一人っ子である。
「僕なんかお姉ちゃん居れへんから、叩かれたり怒られたりすることもないもんねー」
頬が痛み始めたところへ進吾のその言葉。和輝は、涙を零しそうになった。
(お姉ちゃんだって、いっつもいっつも怒ってるわけじゃないもん……)
正門をくぐったところで、宮谷直幸と稲木貢介に会った。
「竹馬しよう、二つ取っといたるから」
貢介に言われ、和輝は頷いた。進吾は、
「緑の奴取っといて!」
と言って廊下を駆け出した。
「平川君! 廊下走ったら駄目です!」
担任に叱られ、進吾は立ち止まって頭を掻く。
「今日はついてないわ」
進吾は、給食着の袋を膝でぽんぽんと蹴りながら歩き出した。ついていないのはこっちだ、と和輝は言いたかった。
ランドセルを教室に置いて外に出ると、校庭の隅の方で貢介と直幸が竹馬でうろうろと歩き回っていた。同じところばかりぐるぐると回っている。地面ばかり見ている。その姿が滑稽で、和輝は思わず笑った。
「進ちゃんとかず君の分、そこに置いてるから」
貢介がそう言うと、進吾は真っ先に緑の柄の方を取った。
(そんなに慌てんでも取らへんのに)
和輝は呆れながら青い柄の方を取った。進吾は、他人との競争に勝つことによって一人っ子特有の鈍さを他人に見出させないようにしているらしかったが、どうも勝手に競争を作り出し過ぎていた。和輝は、そんな進吾を見ていると疲れた。だからと言って、進吾がおっとりすれば良いとは思わなかった。それは直幸だけで十分だった。
和輝が竹馬で動き回っているところへ、どこからかドッジボールが飛んで来て、竹馬に当たった。和輝は、素早く飛び降りて、ボールを追いかけてやって来る人物を見た。直幸の姉・綾子であった。
「取ってー」
綾子に言われ、和輝は竹馬を倒してボールを投げてやった。綾子は礼も言わずにそれを受け取り、走り去った。取りに来たのが自分の姉でなくて良かった、と和輝は思いながら、再び竹馬を起こそうとしたが、その時、朝礼開始のチャイムが鳴った。全員、気をつけの姿勢を取らねばならない。進吾が竹馬から手を離して飛び降りると、で――んという音が間抜けに響き、周辺の上級生の女子の間に笑いが起こった。進吾は、笑いを取る方法を心得ている。
「何を笑ってる、そこ!」
朝礼台の上から、教師がマイクを通して叱った。つまらない朝礼の始まりだ。行進曲が鳴り始める。
*
一時間目は理科だった。教科書を使わずに、校庭の端に植えられている植物を見て回る、という授業内容だった。
担任に連れられて、一年二組の児童達は運動場に出た。運動場の中央では、四年生のクラスが体育の授業を行っていた。長縄跳びをしている。何気なくその回し手を見てみると、姉の律子であった。和輝は、目を逸らす。
「あ、かず君のお姉ちゃんや。ほら」
進吾が大きな声でそう言って指差したので、その辺の児童達が一斉に見た。が、四年生は四年生の方でそれなりに騒いでいて、進吾の声は律子の耳には届いていない様子だった。担任は、向きを変えてしまっている児童達の名前を呼んでから、言った。
「神山君のお姉ちゃんと宮谷君のお姉ちゃん、一年生の時、先生のクラスやってんよ」
児童達はそれを聞いて騒然とした。和輝は、直幸を見た。直幸は、ぼんやりと四年生の長縄跳びを眺めている。
「宮っち、なあ。宮っちは、お姉ちゃん怖い?」
「全然」
直幸は顔の向きを変えずにそう答えた。全然。和輝は頭の中でその言葉を繰り返した。全然。全然。全然。……
他人の目にはどう映っているのだろうか、と和輝は考える。律子は、自分の弟以外の年少者には非常に優しい態度で接する。綾子は、自分の弟もその友達も同じように扱う。どちらが「優しい姉」と思われるのだろうか。
和輝は、直幸の腕を引っ張った。直幸はようやく我に返り、木の説明をしている担任の方へ向き直る。
「これはネズミモチっていう木やねんよ。面白いでしょう」
和輝は、ねずみが体を餅の中に埋めて顔と尻尾だけ出している様子を想像して少し笑ったが、直幸は全く表情を変えなかった。
「なんで笑ってるん?」
と直幸に尋ねられ、和輝は想像したものについて述べた。すると直幸は、
「そんなん気持ち悪い。焼いて食べんの?」
と言った。
「こっちはサルスベリっていう木です」
和輝はその木を見たが、袖を引っ張られて振り返った。直幸は、足元を指差す。花壇の端に、土がこんもりと盛られていて、その裾野の辺りから鯉の死体の顔が覗いていたのだった。その鯉と目を合わせてしまった、という気になり、和輝は寒気を覚えた。
「ここ蹴ってたら出て来てんで。一緒に掘ってみいへん?」
珍しく直幸が遊びに誘ってきたのだ。しかし、和輝は少しも乗り気にはなれなかった。絶句している和輝を、直幸は不思議そうに見る。
「さあみんな、教室戻るよー」
担任の声がした。和輝は、すぐに担任の方へ目をやった。
*
二時間目は算数だった。散々遊び回った後で和輝らが教室に入ると、教卓の横には「さんすうセット」の箱が積み上げられていた。丁寧に、箱に氏名まで書いてある。担任は、皆を座らせてからそれを一人一人に配り始めた。
和輝は、それを受け取ると、早速開けようとした。
「まだ中身出さへんよ」
担任の声がして、和輝は手を膝の上に置き、全員が受け取るのを待った。
「じゃあ、先生が言ったのを出していって下さい。まず、これ」
担任は、鉄板を高々と掲げて見せた。何に使うのだろうかとぼんやり考えているうちに、周囲の者達は、梅の花の形をした「おはじき」を取り出し、鉄板にくっ付けて騒ぎ始めていた。赤と黄の梅の花の中央が、磁石になっている。緑の「おはじき」は、形は同じでも磁石ははめ込まれていない。それらを和輝はじゃらじゃらと出してみた。緑が一番多かった。誤魔化されたような気がした。
次に、透明な入れ物に入っている「お金」を取り出そうとした。蓋がなかなか開かず、思い切り引っ張ってみた。
「あ!」
突然開いて、「お金」が飛び出した。
「神山君! まだそんなん出していいって言ってないで!」
担任が言い終えないうちに、プラスチック製の茶色い「十円玉」が、ころころと右の方へ転がって行って、直幸の足元で止まった。和輝は、慌てて取りに行く。が、直幸は和輝を見もしない。
「何してるん、宮っち」
直幸は、「さんすうセット」も放り出して、机の右端に貼ってある名前の紙を必死で剥がしているのだった。
(宮っちの方が関係ないことしてんのに、なんで先生怒らへんのやろ)
拾った「十円玉」を握って席に戻りながら考えた。
「そしたら次は、この緑の箱を出してみて下さいねー」
それは、「かずのブロック」であった。和輝は、箱を開けて中の入れ物を二つ取り出してみた。各十個ずつ入っており、片方には1、2、3、4、……と数字が刻まれているのに、片方にはなかった。また、誤魔化された気がするのだった。
直幸は、紙剥がしを放棄して、「かずのブロック」で三段のピラミッドを完成させ、満足そうに眺めていた。かと思うと、突然それを破壊し、新たに一つブロックを加えて、また何か作り始めた。何が出来るのだろう、と和輝は見ていた。
出来上がったのは、四段のピラミッドだった。形も完璧に見える。満足そうに眺める直幸。
(……? どうなってんねん? あれ……)
和輝は、首を傾げた。
*
三時間目は図書だった。クラス全員で図書室へと移動した。
靴箱のどこへ靴を入れるかについて大きな声で話す児童達を、担任は小声で叱った。そして、靴を入れ終えてから室内へ駆け込む児童達を叱った。直幸は、落ち着き払って最後に入る。
和輝は、すぐに図鑑の棚の方へ行った。そして、『昆虫』を選んで席へ向かった。
のんびりと眺め、ページをめくっていた和輝は、ある時びくりとした。見開き一面、蜂の大群なのだ。鼓動が早くなった。
(あーびっくりした……次からこのページのこと覚えといてびっくりせえへんようにしよ)
なんとなくもうその図鑑の続きを見たい気がしなくなり、和輝はそれを閉じて返しに行くことにした。直幸の傍を通って。
「何読んでるん?」
和輝は、直幸が真剣に見ている本を覗き込んだ。
「……? 何やこれ」
胎児が成長していく過程が図で表されているのであった。和輝は、勝手にそれを立てて表紙を見た。
「『赤ちゃん』? 何なんこれ。気持ち悪う」
和輝が次に選んだのは、『大むかしの動物』であった。肉食恐竜が草食恐竜にかぶり付いている表紙に、戦慄を覚えたのだ。
席に着いてそれを開くと、どこからか進吾がやって来た。
「宮っちの読んでる本見た? めっちゃやらしいねんで」
「そうやったっけ?」
「そうや。宮っち、真剣に読んでんねん。わははは」
「平川君。静かにしなさい。自分の席に戻りなさい」
担任に叱られ、進吾は渋々帰って行った。と同時に、立ち歩いている者達は皆慌てて自分の席へと戻って行くのであった。担任は、
「本返しに行く人は歩いていいの!」
と笑いながら言った。
『大むかしの動物』は『昆虫』より字が多かったので、和輝は少々退屈していた。
(絵ばっかりの奴ないんかなあ)
別の本にしようと思い、和輝はまた図鑑を持って棚の方へと向かった。
直幸は、まだ同じページを見ていた。
「寝てんのか? 宮っち」
「寝てない」
直幸は即答した。
*
四時間目は社会だった。学校内を見学して回ることになっていた。
和輝は、未知の領域である旧館へ行くのを楽しみにしていた。
新刊を回り終えてから、旧館へ。一階には給食室があり、そこを見ていると和輝は給食の時間が待ち遠しくなった。「きょうのこんだて」のコーナー(ガラスの陳列ケースに、その日の給食がそのまま入っている)をこっそり見に行くと、「イタリアンマカロニ、ミニフィッシュ、ぶどうパン、ぎゅうにゅう」となっていた。イタリアンマカロニとは何ぞや、とアルミの器に入ったそれをよくよく見てみたが、ぐちゃぐちゃとしていて少し赤みがかっている、ということしか分からなかった。
一行は二階へと向かう。職員室、校長室、理科準備室、理科室。そこまでなら和輝も前を通ったことがあった。が、一番奥に何があるのかは知らなかった。そこに辿り着いてすぐ、
「ここは四年二組です」
と担任が言うと、そのクラスの担任が飛び出して来た。
「こんにちはー、三木先生でーす。塚原先生は優しいと思う人!」
「シ――ン!」
進吾が叫ぶ。教室内の四年生までもが笑った。
「じゃあ、怖いと思う人!」
「は――い!」
男子の何人かが手を挙げる。担任は苦笑する。
「もう、三木先生!」
「はっはっは。あ、そうそう、先生のクラスには、神山君のお姉さんと、田村君のお兄さんと、宮谷君のお姉さんと、斉藤さんのお兄さんが居ます」
児童達の群れは、騒がしくなった。
「三木先生って、面白そうでいいやんなあ」
と和輝は貢介と直幸に向かって言ってみた。貢介は、
「そうやな。来年は三木先生になったらいいのにな」
と言ったが、直幸は、
「そんなん嫌や。お姉ちゃんと比べられるもん」
と言った。和輝は、その意味が理解出来なかった。
「何を比べるん? 勉強?」
和輝が聞きたいと思ったことを、貢介が聞いた。すると、直幸は首を静に横に振るのだった。
「じゃあ、何を比べるん?」
今度は和輝が尋ねた。暫し沈黙の後、直幸は答えた。
「……性格」
「……セイカク?」
「さあみんな行きますよー!」
担任は、階段を上り始めていた。
*
待ちに待った給食の時間がやってきた。その日は、四年生が一年生の代わりに配膳をする最終日であった。
四年生の当番は教室の後ろの入口から入って来た。パン当番の二人が自分の姉と直幸の姉であることに気付いた和輝は、直幸を見てみようと体の向きを変えると、直幸は、牛乳を各班に配って歩いている当番を目で追っている様子であった。
「はい、一班の人、並んで下さい」
担任が言うと、一班の四人が動き出した。和輝は四班である。まだまだだ。スピーカーからはクラシック音楽が流れ始める。そして、それが不意に途切れ、放送委員によるアナウンスが入る。
――給食の配膳は終わりましたか。よく噛んでいただきましょう。
ようやく和輝らの四班に順番が回ってきた。配膳台の方へと向かいながら、姉に変なパンを入れられるのではないか、と恐れた。例えば、ぶどうの少ないパン。ぶどうパンの時はマーガリンが付いてこないので、ぶどうが命なのである。
そして、ついにその時はやってきた。
和輝の皿にパンを入れたのは、直幸の姉・綾子だった。律子は、和輝の方を見向きもしない。それで、良かった。
十二時四十五分になって、やっと準備は完了した。和輝は、「いただきます」の後、牛乳キャップを開けながら、この調子だと直幸は、掃除の時間も、五時間目に入っても、食べ続けることになるだろう、と思った。
しかし和輝は、初めて食べるイタリアンマカロニがあまりにも美味しかったために、考えごとをいつの間にかやめてしまった。牛乳・パン・おかずを上手く三角食べして、少し残ったミニフィッシュをぼりぼり食べていると、進吾の声がした。
「あれ? 宮っちが、もう食べ終わってる!」
和輝は、ミニフィッシュを口へ運ぶ手を止めて、振り返った。直幸は、平然としていた。
和輝の頭の中から、優越感というものが消えていく。
四月三十日