来迎前夜
切ない叱責、緩やかな哀矜、迸る思考、漲る夢。
分かってくれとは、言いません。
広がってゆく、切りのない空想。
純真無垢、それは嘘。
あの時、あの夏、――ああ、たった1年前の事か――僕は級友に助けられた。人通りの殆どない駅の裏手で、僕は一人、死ぬ筈だったのに。
本当か? 助けに来てくれるのを期待していたのではないのか? と、自分を疑う。
予備校の授業が終わってから、辻田の家に行ってみた。辻田の兄と妹が居た。両親は旅行に出掛けて留守とのこと。
辻田と兄は双子であるが、明らかに違う顔をしている。兄の方が平凡な人であるような。
いや、人間なんて永遠に自分しか知ることが出来ないに決まっているのだ。探りを入れるのは自由だが、それによって他人の内面が全て目の前に顕になると思ったら大間違いである。
最近、人を観察しては、一々そんな風に考えてしまう。
「この人が今考えていることは、僕には知る術もない。唯、自分なりに勝手な解釈をするしかないのだ。それが当たっているかいないかは、この人に問うても分かり得ない。『当たっている』というその言葉自体、偽りであるかも知れぬのだから」
などと考えながら、生きている。
テレビの横の棚に、小学校の卒業アルバムがあった。そこに写っている辻田兄弟は非常によく似ていて見分けがつかない。
辻田(兄)が、アルバムを眺める僕に言った。
「そっくりの頃もあってんで。信じられへんやろ」
自分のではなく、他人の過去を、僕は見た。
誰にでも過去があり、それは捨てることも出来ない代わりに手に取ることも出来ない、影のようなものである。時間は今の自分の為だけにあるのではなく……今を生きる全ての生物の為にある。
過去がなければ現在もない。そして、未来も訪れないのだ。
辻田(兄)は、夕食の準備に取り掛かった。手伝おうとしたが何もさせて貰えず、暇になってしまった。
ぼんやりと座っていると、ひと暴れしたくなった。夜の河川敷を自転車でどこまでも走ってみたいものだ。
そうして、走って走って、僕なんて、行き倒れになってしまえば良いのに。それで終われるのなら。誰も困らなくて済むのに。
母が先日、「今年で終わりやねんで」と言っていた。分かっています、そんなこと。とうに分かっていますとも。その日その日が僕にとって終わりであるに違いない。それ故、朝が有難い。夕には、満ち足りた思いを胸に忍ばせ、床に就く度、「さようなら」。
そう、今日で終わり。何もかも終わり。今日の終わりを心して迎えよ。明日があると思うな。もしも朝が来たら喜び勇め。奇跡である。夕が来ても悲しむな。
そんなこと、改めて言い聞かせずとも大丈夫。夜が来れば身の回りを片付けて、回想というもののこの上なき喜びを噛み締める。
夢は夢。夢に向かって走りはしない。思い出の為に、回想の為に生きようぞ。終わるその時、僕は、悲しくない。
(まず、勉強。回想の為に!)
世の中の善き人よ、死に給うな。貴方より僕こそが死すべき人間です。でも、死なずに居る。最近、生きていて楽しい。だから、死に給うな。僕の居場所をなくさないで下さい。生きて下さい。僕が生きている限り。否、僕が死すとも、尊い貴方よ、死に給うな。僕しか見えていない僕からの我ままな願いを、どうか聞いて下さい。
テレビのニュースで交通事故による人の死が伝えられている時、思った。
そして、辻田(兄)を見た。
家に電話をかけた。辻田の家に泊まる、と母に告げた。
母よ。もしもその時僕の命あらば、大学に合格します。唯、今は、この夏適当に過ごしてしまったこと、慙愧にたえない思いであります。数々の聊爾、お許し下さい。否、どんどん責めて下さい。呪殺して下さい。この僕を。
……とは、言っていない。
部屋の中は、扇風機を回してもいないのに涼しかった。
秋の故郷に帰ってみたくなる。曇天の下、山への道をてくてく歩いて行きたい。カワムツやアブラハヤを清流に探すくらいしかすることはなく、退屈ではあるが、時間の許す限りそれを続けられるなら、これ以上の楽しみはないと言えよう。
枳殻の隙間からかつての畑家を垣間見れば、哀れにもそこはありとあらゆる雑草が伸び放題となっている……しかし、土地は死んではいない。その草達には生命が漲っているのだ。
使いものにならなくなった時には、やがて生まれる新しい命の素どもに身を委ねるしかないのか、とつくづく思う。
今、僕は勉強をしなければならない。死ぬ程。しなければならないことが多過ぎて、僕の頭の中で物事が渦巻き、濁流のように押し寄せて、不安定な僕を揺さぶる。止めてくれ!
時々、台所から辻田(兄)の鼻歌が聞こえてきた。のんびり料理しているのかと思い、ちらと覗くと、胡瓜を輪切りにする素早い動きが見えた。
辻田(兄)はいつも夢を見ているかのように、僕には見える。「見える」だけなので、実際どうなのか全く分かりはしないが。
夢の大地を駆け巡り、辿り着いたは崖っ縁、眼下には波の逆巻く現実の荒海、「泳いでみたいな」、一人の若者は身を投じた。彼は波の恐るべき力を知らなかった! 可愛い魚達が僕を待っている、と信じていたのだ。
そんな考えごとをしている間に、夕食は出来上がった。辻田は、起きて妹を呼んだ。
食事は直ぐに終わり、辻田の妹は自分の部屋へ帰って行った。
辻田(兄)は、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、僕に尋ねる。
「飲む?」
少しだけ貰った。辻田は僕より多く飲んだ。
辻田(兄)は飲み終えると風呂に湯を張りに行った。
「俺夕方シャワーしたから風呂もうええわ。入るんやったら入ってな」
辻田(兄)は、居間の畳の上に寝転がった。そのまま居眠りでもするのかと思いきや、時計を見て湯を止めに行き、戻って来た。
入浴後、いつの間にやら眠り……
予想最高気温二十六度。旦夕非常に爽快となり、半袖では肌寒い。この、身の引き締まる様な心地が良いのだ。張り詰める緊張感、湧き起こる戦慄。空は一面薄い灰色の雲に覆われていたが、東の空の一部だけは雲の色が明るくなっていた。それを見ながら、つまり、上向き加減で、足早に歩いてみた。朝の公園に向かって。
今日は何が起こるのだろう。
冷たい風が吹き抜ける歩道を急いだ。日曜の朝の始まりに。
こんな時に限って、僕は早く目覚める。普段は幾ら起こされても起きられないというのに。そんな時、母は言う。意志が弱い、と。
何としても起きなければならぬのだから、何とでもしなければ。夜はきっちり布団にも入らず、うたた寝ばかりしているし。馬鹿か。
公園を歩いていると、辻田が歩み寄って来た。そして、前にも聞いた話をする。辻田(兄)が、生きていることに疑問を持ち始めた様子なのだ、と。
辻田は、僕が去年自殺を図ったことを知らない。
人は何の為に生きているのか? ……思い出の為に。それは僕だけか。そうでなくてもそうであっても、いずれにせよ、自分で生きる理由を考えなければならぬ。思いつかない、死にたい、と言うのなら、どうぞご自由に死んで下さい。止めは致しませぬ。
友が自殺を考えた時、僕は忠告するかも知れない。しかしそれは自己満足の為か、あるいは自分が後日「何故止めなかったのだ、薄情者!」と責められて不利な状況に陥るのを避ける為であり、その友を心の底から救ってやりたいと思って、では決してないであろう。死にたい人は死ねば良い。その分、地球の資源の消費量が減る。……何の話だ?
よく考えると、昨日は「善き人々よ、死に給うな」などと考えた筈だ。それなのに、今日の僕は「どうぞ御自由に死んで下さい」と考えた。一日でこの考えの変わりよう。酷い。
死すべき人間である僕が今生きているから、善き人も死んではならぬと、何故そんな風に考えたのであろうか。良心があったのだな。それが現在、消滅し掛かってきたのか?
そうではない。運命はその人自身が決めれば良い。今、命を絶つことも出来るのだ。簡単なものである。死にたい人は、死んでくれ。死にたくない人は、共に生きよう。共に滅亡への道を走ろうぞ。
……この考え方も、長く続くかどうか。気紛れ人間め。
死んでくれ、というのは極論かも知れぬが……死のうと思っている人を止めることは僕には出来ない。僕のような人間が人に説教するなんて、生意気な。決めてしまったものはどうしようもない。ああそうだ、「死に給うな」と思っていたのではないか。説教出来ずとも、頼めば良いのだった。
しかし、残念ながら今の僕にはそれすらする気がない。自信がない。説得力がないから、そればかりでもない。
見殺しにしてしまいそうだ。非情。
家に戻ると、台所で、辻田(兄)が、包丁を洗っていた。なんとなく横に立って見ていると、いきなりそれを突き付けられた。
「びびった?」
辻田(兄)は、爽やかな笑顔でそんなことを言うのだった。
人間は常に身構えていなければならぬ。たとえ一緒に居るのが先生であろうと親であろうと無二の親友であろうと、決して油断はならぬ。というのが本心ではあるが、果たして僕は実際そうしているであろうか? というとそうでもない。だから、死は避けられない身近なものとして、覚悟しておかねばならぬのだ。出来るだけ避ける努力はしよう。しかし、死ぬ時には死ぬものだ。
ところで、何故、辻田(兄)は包丁を僕に突き付けて来たりしたのだろう? と考え掛けた。理屈を幾ら捏ね回したところで正当な理由にはならない。
何故僕は友人と話をするのだ? 何故僕は散歩するのだ? 何故……何故、僕は生きているのだ? 説明など出来ない。理屈を捨て去れ! 捨ててしまえば楽になれる。唯、思い出の為だけに生きよ、と。
実際、楽になった。
しかし! 現実はそれ程甘くないのではないか? 理由なし、根拠なし、では通用し得ないだろう、何事も。毎日予備校に通っているのは何故?
説明不可能、僕は馬鹿だ。
――宇宙は何の為に生まれたのだろう?
勿論これに就いても僕は説明出来ぬ。皆はひょっとしたらこの答えを知っているのかも知れぬ。尋ねられて答えなくとも、心の中ではきちんと唱えられるのかも知れないではないか。僕だけが知らないのかも知れぬ。誰かにその事を訴えても、その誰かは「私も知らない」と言うのではないか。そうに決まっている。しかしそんな言葉が信じられるものか。信じてはいけない!
馬鹿な僕は、今、一人、他愛のないことを考えている。笑ってくれ。この僕を。思い出作りの為にしか生きられない愚か過ぎるこの僕を、どうか笑い給え!
辻田(兄)は、食器を洗い終わると、洗濯に取り掛かった。僕にも出来るのだろうか、と考えていると、先日母に投げ掛けられた言葉が甦ってきた。
「今『一人暮らししてみい』言われて出来るか?」
それは反語であった。出来る筈がない、という意味を込めて母は言ったのだ。「出来る」と答えたら、母はきっと大笑いしたであろう。「一人暮らし」とは、「一人立ち」ではないのだろう? しからば、一人で暮らすくらい何でもない。唯、経済力が全くないだけだ。親に金を貰ってならば、生きて行ける。即ち、親に頼らねばどうにもならぬ、ということか。
……もっと生きる力を! どうすればそれは手に入るのであろうか。
アルバイト。それしかない。が、今そんなことをすると言っても、両親に「それより先に勉強して大学に合格しろ」と言われるだけだろう。
従って僕はこれからも両親に子供扱いされ、笑われて、過ごすしかないのだ。
辻田(兄)が家事をしている間、辻田と僕は暗記の点検をし合った。一人が問題を出して、もう一人が答えるのだ。こんなに楽しく勉強が出来るとは、と改めて思った。嫌な勉強はしてはいけない。勉強したくないのなら、予備校を辞めるべきである。辞めたくないのなら勉強をせねばならぬ。
予備校側の設定したカリキュラムに、文句を言ってはいけない。責めるなら、よく調べもせずその予備校に入学した自分を責めるべきなのだ。嫌になったら、予備校を辞めれば良い。自由は我々に与えられているのだ、幾らでも。誰も強制などしない。
何を言う、親に強制されているではないか、と言われるかも知れぬが、親など、いざとなれば簡単に論破出来る筈ではないか。
机に向かうことだけが勉強か? まあ、気を引き締めて机に向かい、いざ解かん、とするならともかく、無理矢理自分を机に縛り付けるのはどうも良くない。疲れるだけである。菓子を食べながらでも良いではないか。我々は楽しく生きねば。自分の思うことをやろうではないか。
こんなことを言っていると、自分に甘くしようと考えている様に思われそうだが、決してそうではない。抑制は常に心掛けておかねばならぬ。自分の幸福追及に支障を来すと思われることはしてはいけない。
あくまでも我々は自分なりの理想の幸福追求というものを念頭に置いた上で生きてゆく動物なのだから。忘れてはいけない。
何はともあれ、我々は自由であることを活かして勉強すべきなのである。
さあ、やろうではないか。
――全て、自分に言い聞かせたのであります。馬鹿過ぎる僕の為に。
僕はもう、自ら命を絶とうと思わずに居たい。罪多き人間でありながら、生きている。生きさせて戴きます。せめて、大学に合格したい。両親への償いになるかどうか分からないけれども。死んだとて罪を償えるとは思えないから。僕にどうか、償いをさせて下さい。父よ、母よ。
昼食は、カップラーメンで済ませた。辻田の妹は、食べ終わるとまた直ぐに部屋に引っ込んでしまった。
「お前の妹、勉強ばっかりしてるんか」
「そんな訳ないやろ。あいつ、友達に手紙ばっかり書いてんねん」
果たして辻田のその言葉の真意は? 真実言ったのか、謙遜して言ってみたのか、それとも、机に向かっても居眠りばかりしている僕を暗に攻撃しているのか。
僕は素直な解釈が出来ない。誰かと話していると、相手の言葉には必ず幾つもの意味があるように思えてくる。素直に人と話が出来ないのだ。
嗚呼、純真な子供の世界に帰りたい。死について未だ何も考えずに居た幼き日の、純真な……純真な僕など、居なかった。昔からこんな風だった! これからもきっとこのままだろう。
……“これから”? これから僕はいつまで生きられるだろう? こんなにも人を疑って疑い続けてきた僕などがのうのうと生きて居られるとは思い難い。これは宗教でも何でもなく、科学も何もかも全ての理論を超越した、自然の法によって裁かれることに他ならない。
少なくとも、今現在僕が誰も信じていないのは事実だ。
昼過ぎ、また外へ出てみた。橋を渡りに行った。
やはり、橋の上は眺めが良かった。空は朝と違って、晴れていた。
しかし、対岸に渡り終えた途端に空は曇り始めた。
山は見えなくなろうとも、あの空の下にあるに決まっている。
空は白い雲に覆われていようとも、僕の頭の上にあるに決まっている。
あの人の姿は見えずとも、何処かに居るに決まっている。
――それが、信じられぬ。
再び辻田の家へ向かった。
灯りが見える。家の中が見える。台所と、その奥の居間が見える。辻田と、辻田(兄)が居る。僕はドアノブに手を掛けて、開けた、するとそこにはちょうど辻田の妹が居て、危うくぶつかるところ……と思ったら辻田の妹は慌てて躓いて、手に持っていたファイルを落っことした。コピーでもしに行くところだったのか。僕は、散らばった紙を集め、手渡した。
が、辻田の妹は礼を言うどころか、くるりと僕に背を向け、プリントを全部玄関先に並べ始めた。順番があるのに僕は知らずに適当に集めてしまったので、怒っているのか……僕としては珍しく親切なことをしたというのに、それが徒になってしまったらしい。
――何も考えずに生きられたら良いのに。
別に、自分を哀れだとか思った訳ではない。唯、僕の努力が却って人を不快にさせてしまう、その空しさが、僕を益々無力にしてしまうのである。……時々そう感じることがある。僕は何と頓珍漢な人間なのだろう。きっと、他の人はこんなではない筈だ。余分なことを考えずに、何でもやってのける。
僕は悩んでいる訳でもない。自己嫌悪に陥っている訳でもない。
悲しいのではなく、空しいのである。普段自分の事しか考えていないくせに、偶に気が向いたからといって人の事を考えたりするから、こうなるのだ。自分の事だけ考えて居れば良いのだ……脇目もふらずに。
夕方が近くなって来て、僕は勉強する気を失ってしまっていた。
ぼんやりと居間でテレビを見ていると、辻田(兄)はある時突然立ち上がった。
「そうそう、ハワイ土産のチョコレートあんねん」
と言って冷蔵庫から箱を取り出し、持って来た。
「隣の家の人な、チョコレート買いまくって来てそこら中配り回っててん」
旅行の記念に土産を買うのか、土産を買う為に旅行するのか。
あらゆる目的というものについて考察せねばならぬ。我々が生活していく上では、全ての事象が問題となるのだ。何もかもが問題だ。理由と目的、そして、そして……。
理屈を捨てればそれまでだ。だが、捨てられるのか? 理屈を捨てることは即ち何も考えないで生きるということである。それでは人間としての価値がない。
――果たして人間としての価値とは?
……そんなものが分かってたまるか! それが分かったら人間どころか世界は終わりだ。
“理屈を捨て去れ”
この言葉は投遣りだ。無謀だ。が、確かに考えを廻らし過ぎるのも良くないことなのだ。だからと言って何も考えないのも困りものである。
徹底した人間は負ける。仕事に徹底するとかいう意味ではない。全ての面において、精密な方針を定める人間――そんなもの、やってられるか、一日で死んでしまいそうだ。
どの程度方針を定めるべきなのか。それについて僕は考えてみたい。しかし、課題ではない。ずっと考えていたら負けるから。世の中の総てに負けるから。
何でも良いのだ。その瞬間に頭に閃くことが全てなのであって、今自分の道を決めてしまうことは後になって自分を拘束することにも繋がり兼ねないのである。いい加減な奴と言われようが何と言われようが、知るものか。僕は自由に生きるのだ。
と、僕は結論を出してしまった。しかし、これも一時的な結論でしかないのであろう……。
箱の中には、チョコレートが残り二つとなった。辻田の妹に置いておかねばならない。辻田の妹は、出掛けてからなかなか帰って来なかった。僕が帰ったかどうか外から覗き、僕の姿を見てへ再び何処かへ出掛けてしまったのかも知れない。僕がそんなことを考えているとはつゆ知らず、辻田(兄)と辻田はテレビをぼんやりと眺めている。テレビでは知らない芸人が面白くもないギャグを言っていた。僕はテレビから目を逸らしてチョコレートを見た。特に意味はない。
……すると、辻田(兄)は言った。
「食いたかったら、食えば?」
そして、その後に「ははは」とも「へへへ」とも言えない曖昧な笑いを付け加えた。
僕は絶句した。辻田がそう言ったのなら、僕は「食わんわ!」と言えたであろうが……そう、言いたかった。しかし、言えなかった。
僕は育ち方を誤った、と思う。言いたいことも言わず、そこら中で芝居をせねばならぬ程自分を偽って生きている。反抗期でさえ自分を抑制し、家族の前では可愛い子供を演じていた。反抗期のなかった奴は偽りの塊だ!
人を欺くことは罪なのです! たとえそれが人の為であると思っていても。
事実を知らされると人は憤る。自ら事実を知ってしまうと尚のこと。人を憤らせるということは罪なのです! 良かれと思ってつく嘘だって!
僕は、一体何なんだ。この罪の深さは。僕はよく父母の言動の矛盾を友人に訴える。それは全部自分の所為だ。自分が育ち方を誤った癖に!
しかし、僕はもう今更素直にはなれぬ。後へは引けぬ!
「ごめんなさい」、そう心の中で呟くことしか出来ない。素直になるにはもう遅い!
暫くすると、辻田の妹が帰って来た。大きい紙袋を提げて。
「また服買うて来たんか? 金遣い荒いのう」
辻田は寝転がったままでそう言った。辻田の妹は、返事もしない。
僕は、時計を見てみた。六時になっていた。
明日から再び予備校へ行かねばならないのだし、いい加減帰ったらどうか。僕は自分に言い聞かせた。なかなか立ち上がる気になれないのだ。居心地が余りにも良過ぎて。それは何故だ? 辻田が信じられるから? 信じる? そんな言葉は僕と無縁ではないのか?
次第に自分の信念なるものの確かな姿が見えなくなってきた。これではいけない。そう分かっていても、僕の頭の中は混乱するばかりなのである。
もう出ようと思った。
「そろそろ帰るわ」
「なんや、お前の分の晩飯あんのに」
「えっ……食べた方がいいんかな」
「別に無理に食う必要はないけどやな」
「じゃあ帰るわ」
「うん」
辻田はそう言っただけで、玄関先まで見送りに来ようともしなかった。僕は拍子抜けしてしまい、少しの間立ち尽くした。
辻田(兄)にも一言声を掛けようと思って、台所の方を覗いたが、忙しそうに何か炒めていたので、何も言う気がしなくなった。
玄関で靴を履いていると、足音が聞こえて来た。辻田のものでも辻田(兄)のものでもない、小さな、しかし確かな足音が。僕は、振り返る必要もないのに振り返った。辻田の妹が居るに決まっているというのに。
振り返ると、そこには辻田の妹が真っ直ぐ立っていた。その顔は、僕には関係がなさそうに見えたので、僕は慣れぬ会釈などして、外へ出ようとした。
が、立ち上がって右足を踏み出そうとして、躓いた。左足で右足の靴の紐を踏んでいたのである。……完全にすっ転んでしまったのだ。僕は反射的に振り返った。そこには相変わらず辻田の妹の姿があった。転倒した僕の顔を真面に見ても、笑い出しもしない。一瞬目を疑った。
何故笑ってくれないのか。その目は僕を軽蔑しているのか? それとも……
それとも、何なのだ。
と考えた後、僕は慌てて立ち上がり、荒々しく戸を開けた。そして、閉めようとした瞬間に、辻田の妹は言葉を発した。僕に向かって。
「さっきは、すいませんでした」
「た」とほぼ同時に、戸は閉まっていた。
もう一度開けるべきだったのだろう。それなのに僕は、唯、立っているだけだった。
辻田の妹がどれ程屈辱を味わったかということを想像し始め、寒気を覚えた。何か一言、言えば良かったのに!
何が勉強だ、何が受験だ、人間らしい行いすら出来ていないではないか。幼稚園から行き直せ! 大学なんて受ける資格はない!
やはり、僕は死すべき人間だ。
心の中で謝って何になる? 通じる筈がないであろう。心が満たされるだけだ。満たされればそれで良いのか。
僕達は余りにも無力過ぎる。もっと行動すべきだ、……行動して、ああ良いことをした、と満足する為に?
僕には出来ない。そこまで徹底して人を欺くことは。と言って、善人ぶってもいけない。そういう訳ではなくて……唯、弱いだけ。
鉄橋の方へ向かって自転車を漕いだ。
堤防への急な坂道に差し掛かると、押して登った。
灰色の鉄橋は、静かだった。気が遠くなる程に延々と続くあの貨物列車も、走っていない。
風が吹いた。僕の目の前に続く仮橋の板、板、板……が、吹き飛んでしまうような気すらした。飛ぶなら飛べ。川に落ちるなら落ちろ、僕なんて。
自転車に跨り、漕ぎ出す。板は大きな音を立てる。重みで抜けてしまいそうだった。抜けるなら抜けろ。僕なんかこの汚い川に落っこちたとて、構わぬのだから。
速度を上げる。がたがたという音のテンポは速くなっていく。
速度を上げ、もっと上げて、……幾ら速く走っても、板は抜けたりしなかった。
僕こそ死すべき人間だが、僕は生きる、生きねばならぬ。たとえそれが悪足掻きだと思われようと、何としても今までの償いをせねば。出来なくても、能う限りの事はしなければ。
何の為に生きるのだ?
――謝罪の為に。
今の僕に、思い出の為に生きる権利はないのである。権利復活の為にも、今一度やり直すのだ。死ぬ程勉強しろ。
今日の午前中には「嫌な勉強はしてはいけない」などと考えていたが、それは権利復活後の話であって、今の僕には当て嵌まらないのである。
死ぬ程勉強しろ。それで不健康になって死ぬなら死ね。謝罪は果たせずとも、少なくとも迷惑を掛けることはなくなるのだから、それはそれで潔くて良い。死刑だと思えば何の事はない。それではつまり「敗北者」ということになるだけだ。
死ぬ程勉強しながらも平気で居ろ。くたばっては負けというものだ。負けたくないならば生きることだ。強固な意志は生命維持に繋がる筈。精神力で生きろ。何が有ろうと弱音を吐くまい。
“僕に明日はない”と思って生きよ。それが総て。
嗚呼、このまま死ぬまで走りたい。
誰か、僕の思いを笑わずに聞いて欲しい。そして、この理屈にもならない戯言ばかり言っている僕が完全に死んでしまう程、攻撃して欲しい。
どうか、聞いて下さい……
来迎前夜