ウロコ人間
悪夢
朝、いつものように目覚め、何気なく自分の腕を見て、総毛だった。表面が鱗(ウロコ)に覆われているのだ。ウロコでは総毛立つわけもなかったが、ぞっとして心が凍るような感覚に襲われたのは確かだ。恐る恐る体のあちこちをまさぐってみると、何処もここも鱗のざらざらとした手触りが伝わってくる。僕はそのおぞましさに打ちのめされそうになった。ふと、自分の顔がどうなっているのか気になった。立ち上がって、膝をがくがくさせながら洗面所に向かった。
覗き込んだ洗面台の鏡に映るその顔を見て鳥肌が立った。いや、顔だけではない、恐れていたとおり全身がびっしりと鱗(ウロコ)に覆われていた。顔も両腕も白いティーシャツからのぞく首筋も…。手を広げると、指と指の間は薄い膜で繋がれ、まるで水かきのようだ。それに黒々とした頭髪がすべて抜け落ち、鶏の鶏冠(トサカ)に似ているが、もっと固いしっかりとした骨格を持った背びれみたいなものが背中まで伸びている。
心を落ち着かせようと、深呼吸を何度も繰り返した。目をぎゅっと閉じ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と50回も唱えた。そして意を決してゆっくりと目を開けてみた。思わず悲鳴を上げそうになった。どういうことなのだ。何度も何度も水で顔を洗った。頭にも水をかぶった。夢を見ているに違いないと思ったからだ。しかし、最後にはこれが現実なのだと認めざるを得なかった。何度見ても鏡の中の自分は、人間とはほど遠いウロコ人間に変身していたのだった。
しかし、自分がウロコ人間に変身したのだと認めてしまうと、少し心が落ち着いてきた。鱗上にぶつぶつと浮き出ていた鳥肌も少しづつ消えてゆく。それでも体は震え続けている。この理不尽な現実を受けいれることなど出来そうもなかった。僕は人間だと叫びたかった。こんなウロコだらけの姿になってしまったが、人間には変わりないのだ。思わず涙がほとばしる。夢なら覚めてくれ、と何度も祈った。
ふと、カフカの「変身」という小説を思い出した。その小説の主人公は虫に変身したことに驚愕し、部屋に閉じこもった。妻が騒いで上司を呼んだため、会社にも行けなくなる。 彼は職を失い、家族からも見放され、結局、食を断って自殺する。
僕は彼と同じ轍は踏むまいと決意した。高校と大学の二人の子供の学費を稼がねばならないのだから…。「変身」の主人公の過ちは、部屋に閉じこもってしまったことだ。人間は社会的動物であるからには、社会との接触を断っては生きていけない。仕事をしているからこそ、誇りという人間として最低の気概が生じ、それがあって初めて生き甲斐も見いだせるものなのだ。
さて、どうする。ゴムの仮面を被ることや包帯でぐるぐる巻きにして顔を隠すことなど色々考えた。しかし、どんなアイディアも不自然極まりなく、普通に社会生活を送るにはおぞまし過ぎる。そして最後にはこう結論するしかなかった。どうせおぞましいのなら、いっそのことこのままで通すしかないと。
鱗で覆われていても自分は自分なのだ。問題は、こんなウロコ人間になった自分を家族が、そして社会が認めてくれるか否かだ。ふと、出世競争で激しく競り合っている小泉茂の顔を思い浮かべて血の気が引いた。
小泉はゲシュタポ小泉と陰口を叩かれるほど陰険でしかも陰湿な男だ。役員に豪華なお中元お歳暮を贈っていることでも知られている。この点でも遅れを取っているというのに、奴はウロコ人間になってしまった僕を、陰で笑い者にし、取引先に対しても印象がよくありませんよ、などと役員に吹き込むに決まっている。怒りと屈辱で緑色の鱗が赤黒く染まる。醜い顔がさらに醜悪な色を帯びている。
僕は、声を殺して泣いた。絶望の淵にうずくまり泣き続けた。これまで築き上げてきた平和な家庭も社会的な地位も全て失うかもしれないのだ。その恐怖に恐れおののき、体をうち振るわせて泣いた。そしてどれほどの時間が経過しただろう。泣き疲れて涙も枯れたと。ふと、諦念が僕の心にじわじわと広がってゆく。そして子供の顔を思い浮かべた。長男は大学、長女は高校生だ。二人とも私立だから学費もかかる。子供達のために気力を振り絞った。
出世は諦めるしかない。よくよく考えてみれば、小泉と競っていたのは営業部長の席だ。営業部長がウロコ人間だったら、取引先も二の足を踏むに違いない。いや、課長職だって諦めざるを得ないのかもしれない。いっそのこと第一線の職種はすべて諦めて、裏方に徹すれば会社に留まれるかもしれない。二人の子供達の学費を工面するには、惨めな思いを堪え忍ぶしかないと、思い定めた。僕は大きく息を吐いて覚悟を決めたのだ。
しかし、問題は家族だ。妻も子供達も、果たしてこんな姿になった自分を夫として、そして父親として認めてくれるだろうかか? 妻に対しては自信があった。これまでの二十数年という長い年月の積み重ねがある。喜びも悲しみも二人でわかち合い、互いに支え合って生きてきた。まして僕の性格の全てを認めてくれている。顔の美醜など問題にするはずがない。問題は娘だ。
つい先だっても娘の部屋にノックもせずに入って行った。昔からそうしてきたからだ。娘は絨毯の上にあぐらをかいて、スマホを指でスライドさせながら言った。
「パパ、いい加減にしてよ。子供にだってプライバシーってもんが、あんのよ。ノックぐらいしてよ」
「すまん、すまん。つい昔からの癖でね」
「でー…?」
「でーって、何?」
「それで、何しに来たっていうわけ?」
「ちょっとお前の顔が見たくなっただけだよ」
「キモイー、その一言、鳥肌が立つ。いい加減止めてよ、ウザッタいんだから。もう見たんでしょう、早く出ていってよ」
何となく娘は自分を避けているような気がしていたが、現実はそれ以上に深刻なようだった。娘の表情には嫌悪感が張り付いていたのだ。パパのお嫁さんになる、と言ったあの一場面は遠い昔に見た夢だったのだろうか。暗澹とした思いが胸を塞ぎ、娘の心に何が起こったのか想像も付かないもどかしさに苛立っていると、寝室の隣にある台所でドアの軋(きし)む音がした。
妻が朝食の支度をしに台所に立ったのだ。もう30分もすればダイニングに料理が並べられ、妻は僕を起こしに来るだろう。娘との絶望的な関係を数日前に思い知ったばかりだが、さらに、妻の僕に対する反応に絶望するかもしれないのだ。二人で培ったと思っている愛情を、僕のこのおぞましい姿がこなごなにうち砕いてしまうかもしれないのだ。
何度も何度も、深呼吸を繰り返した。妻の反応がどうあれ、それはそれで許してあげるしかない。僕自身、自らのおぞましい姿に絶望しているのだから。いずれにせよ、覚悟を決めるしかない。妻が迎えに来るのを待ち、妻の反応冷静に見極める。どんな現実が待ちかまえていようと、それに耐えるしかないのだから。
僕は瞑想してじっと待った。そして足音が響く。胸の動悸が高鳴る。ドアが開いた。どんな顔をしたものか迷ったが、毅然として、幾分笑みを浮かべてみるが、果たし微笑んでいるように見えるか否か自信はなかった。頬が強ばっているからだ。そしてドアを見詰めた。妻がドアの陰から顔をだした。僕は愕然として妻の顔をまじまじと見詰めた。妻が鱗顔で微笑んでいたのだ。
「あなた、ごはんよ。起きて。どうしたのハトが豆鉄砲でもくらったみたいな顔をして。私の顔、ヘン?」
僕はごくりと唾を飲み込むと、慌てて答えた。
「い、い、いや、いつもの通り、綺麗だよ」
とは言ったものの、自分の顔を見ていたから幾分慣れていたとはいえ、その顔は醜悪そのものだった。ブスとかシコメといった部類ではない。人類とはとても思えなかったのだ。
しかし、不思議なものである。ダイニングで食事を取りながら、テレビを見ていたのだが、その出演者が皆ウロコ人間なのだし、ゲストとして招待されている有名女優も鱗顔に笑みを浮かべて司会者の問いに答えているのを見ているうちに、妻の顔が次第に愛らしく感じ始めた。この女優には及ばないものの、少なくともテレビに映る女子アナよりはましだと感じていたのだ。
妻が、新聞を手渡して、目の前に座った。テレビを見ながら食事を始めたのだ。そして新聞に視線を落とした瞬間だった。その時、全てを思い出したのだ。つるっとした肌の人間は太古の昔に滅びたということを。僕らの祖先はDNAを操作して海に逃れたのだ。いや、最初は肺を備えた両生類として水辺に暮らし、その後、エラを備えた魚類へと姿を変えて海に暮らすようになった。
地上が地殻の変動期に入り、全ても原発が壊滅的打撃をうけ、放射能が地球に蔓延した1.5億年前の出来事である。
そして最近読んだ新聞の片隅に掲載されていた記事のことを思い出した。そこには「先祖帰り症候群」という精神病について書かれていた。多くはストレスが原因らしいのだが、自分が人類とは異なる容姿をしていると思いこんでしまい、極度の人間恐怖症に陥ってしまうという。もしかしたら、自分も出世競争のストレスからその精神病になりかけていたのかもしれない。
そう思った途端、妻の顔が、人間そのものだということに気付いた。綺麗な鱗はまるで真珠のような輝き、その一枚一枚の重なり具合は、持って生まれた血筋の良さを物語っている。背びれは優美な流線型を描き、尻の上でピンと跳ね上がっていて、僕の欲情を誘う。
僕は漸く気持ちも落ち着き、今朝の狂乱を苦笑いしながら思い出していた。すべては、論理的に思考を積み重ねてゆけば、何のことはない。一時、悪夢を見ていたに過ぎなかったのだ。
ウオコン(注1)が心地よい水流を頬に送っている。この装置の普及が海水温の上昇を招き、環境を破壊すると評論家は言う。彼らは常に大袈裟だ。僕は心地よい流水を受け頬を緩めた。そしてあらためて妻の美しいウロコに見惚れていた。
(注1)ウオコンはウオータコンディショナーの略
ウロコ人間