Double Sky Memories

ある時、主人公――金城友哉は気付くと自分が生きていた世界と異なる世界にいた。自分の身に一体何が起こっているのか、この世界はなんなのか。そして、その中で彼が見つけた答えとは? skyシリーズの一作目です。

プロローグ

「ありがとうございました」

 俺――金城 友哉(きんじょう ゆうや)はナースステーションに向かって一礼すると、エレベータのボタンを押した。三十秒ほどすると、電子音と共に扉が開いた。中には松葉杖を付いた老人と、その妻と思われる女性がいた。軽くおじぎをしてエレベータに乗り込むと、俺は開閉のスイッチを押す。がたりと揺れて、エレベータが動き出した。

「お兄さんはお見舞いですか?」松葉杖を付いた老人が言う。
「ええ、そうです」俺は愛想笑いを浮かべる。
「身内の方ですか?」
「いいえ、友人です。このあいだ交通事故に遭ってしまって」
「それは残念なことで。あなたの友人ということは、まだずいぶんと若いのでしょう?」
「はい。自分と同じ17です」
「そうですか、そうですか。早くよくなるといいですね」
「はい、それはもう……」

 そこでエレベータの揺れは収まった。表示ランプに目をやる。どうやら一階に着いたようだ。俺は「開」のボタンを押すと、先に出るように、と手で老人たちを促した。

「ありがとうございます。では失礼します」

 妻に支えられ、老人たちはエレベータから出ていった。彼らが完全に外に出るのを見計らって外に出る。何人かの男女が、俺と入れ替わるようにしてエレベータに乗っていった。

 一階に着くなり、俺は右へ曲がった。特に意識はしていない。体が覚えているのだ。たとえ、目隠しをしていてでも出口に、そして彼女の部屋にたどり着けるだろう。その先にある自動ドアを抜け、外へ出る。むわりとする水蒸気を多く含んだ空気が全身を包んだ。まるでしつこいセールスマンに捕まった気分だ。俺の不快指数は飽和ギリギリまで達している。
 現在は暦は七月。季節は初夏を終え、本格的な夏へ変わろうとしていた。空を見上げると、清々しいほどの大空が目に映った。怪物のような入道雲がこちらを向き、今にも襲ってきそうだ。

「……ふぅ」

 だが、そんな心踊る季節を目の前にして、俺の気分は沈没船よりも深く沈んでいた。十分に一回はため息が出る。ため息をすると幸せが逃げると言うが、もしそうなら、俺には一生、幸せは訪れないかもしれない。
 病院内のターミナルを抜け、路地に出る。俺はそこで足を止め、振り返った。病院の姿が目に入る。意外にも不健康の象徴とも言える白く、大きな建物は、青空によく似合っていた。
 しばらくそんな景色を眺めていると、急に視界がぼやけていった。解像度が落ち、画質が悪くなる。世界はカラーを失い、モノクロへと姿を変える。はじめはこの状況に驚愕した。しかし、慣れとは恐ろしいもので、今ではあいつにお見舞いに行くのと同じぐらい日常的、習慣的なものと捉えられるようになっていた。
 やがて世界は二百五十六階調から、白と黒まで二値化される。世界は漠然としているというが、ここに曖昧なものなど存在しない。イチかゼロしかないのだ。世界が割れる。二つに割れる。俺の意識もまた、ここではないどこかへ割れていった。

起の空

「今日はどこに行こうか?」彼女は相変わらず魅力的な笑顔で言った。
「夏用の洋服が欲しい」それとは対照的な無愛想な顔で俺は言った。
「よし、じゃあお洋服屋さんへ行きましょう」
 初夏の日差しに照らされる彼女は、この世のあらゆるものよりも魅力的に見えた。


?起の空?


「…………」

 気づくと俺はベッドに横たわっていた。大の字になって寝ている。天井と電灯が目に入った。
 おそるおそる右手に力を入れる。すると、思った通りに指が動いた。同じように左手、右足、左足と全身の動きを確かめる。どうやら体に問題はないようだ。俺は上半身だけを起こす。

「こっちは夕方か」

 外に目をやるとすでに日が沈みかけていた。空は見事な茜色に染め上がっている。青と赤と黒のコントラストがきれいだと思った。時計に目をやる。時刻は午後六時を回ったところ。何をするにしても中途半端な時間だ。仕方なく俺は必要な情報を手に入れることにした。今回の転移がどの程度のものなのかは分らない。分かるのは日に日にこちらにいる時間が長くなっていることだけだ。ホント、面倒なものだ。
 俺は机の上にこれ見よがしに置いてあるノートに手を伸ばす。普通の大学ノートだ。表紙には英語と書かれており、中には普通の英文とその和訳などが書かれている。しかし、俺にとってこのノートは黒板に書かれた英単語や文法よりも大切なことが書かれていた。記憶。これ以上に大切なものはそう多くはないだろう。ノートを開く。そこには見慣れた文字が並んでいた。相変わらず汚い字だ、と思った。

「今回も返事はなしか」

 ノートの最後のページには英語とはまったく関係のないことが書かれている。しほとんどが疑問形で書かれた意味不明の文字列。なんとなく日記と取れなくもない。だが、これこそが今の俺の状況を打開できる唯一の手掛かりだった。しかし、未だその手がかりに何の進展も見いだせないのが現状である。

「いい加減気づけよ。ったく」

 乱暴にノートを頬り投げる。ノートは俺の思ったとおりの軌道を描き、机の上に見事不時着した。再び、ベッドに横になる。一体なぜこのようなことになってしまったのだろうか。考えれば事の発端はあの時からだった。突然遭遇した交通事故。あの時から俺の人生は狂いだした。もしかしたら、全人類がグルになって俺のことをからかっているのかもしれない。そんな日本の税金が正しく使われるようになる以上に可能性の低いことまで真剣に考えた。もしそうならどれほど楽か。ドッキリと書かれた看板を持ったテレビリポーターたちが出てきてくれないか。それほどまでに俺を取り巻く現状は深刻だった。
 その時、携帯電話の音が鳴り響いた。一体誰だと思いつつも、発信者を脳内に浮かび上がる。そして、それは携帯の画面を見るなり現実となった。画面には樟木 佳枝(くすき かえ)と表示されていた。俺は通話ボタンを押す。

「もしもし?」
「はーい。佳枝ちゃんです。友哉、今まで寝てたでしょ? 声が枯れてるよ」
「んなこといちいち推理しなくていいよ」

 声の主――樟木 佳枝は俺の幼馴染というやつらしく、こうやってたまに電話をかけてくる。

「んで、何の用あ?」
「あ、噛んだ。噛んだー!」

 俺は通話の終了ボタンを押した。そして約二秒後、予想通り再び電話が鳴った。

「うわーん。ごめんー。つい、うっかり……」
「次やったら着信拒否してやる」
「うぅ、気をつけます」

 若干涙声で佳枝が謝る。喜怒哀楽の激しいヤツだ。

「で、もう一度言うが何の用だ?」一応意識してはっきりとした口調で言う。
「うん、実はちょっと手伝ってほしいことがあってさ」
「手伝ってほしいこと?」
「そう」
「なんだよ?」
「えーと、今から家に来てくれない?
「今から?」
「そう。だめ?」

 甘えた声で佳枝が言う。この家から佳枝の家まではおよそ二十秒。何をやるのか次第であるが、まあ夕飯までには戻ってこられるだろう。何より彼女から聞いておきたことがある。俺はすぐさま答えを出した。

「ああ、いいよ」
「やた、さすが友哉。じゃあ待ってるよ。すぐ来てね?」
「わかった。すぐ行く」

 そう言って俺は電話を切った。

「さて……」

 すぐ行くと言ってしまった以上、こうしてはいられない。俺は遅刻が嫌いなんだ。寝間着用のズボンを脱ぎ、ジーンズをはく。汗で濡れたシャツを脱ぎ棄て、タンスから新しいのを取り出した。用意が整ったところで部屋を後にする。

「ちょっとでかけてくる」

 台所で夕飯の用意をしている母親に向かってそう言うと、俺は靴を履き、玄関を出た。
 佳枝の家は非常に近い。まずは右に九十度回転。そして十歩ほど前に進む。そしたらさらに九十度右回転。そこが佳枝の家だ。いわゆるお隣さんというやつだ。俺はインターホンのボタンを押す。

「友哉?」
「来たぞ」
「鍵空いてるから、そのまま入ってー」

 ドアを引くと、ガチャリという金属音とともに扉が開いた。五メートルほどの廊下が伸びており、その側面にいくつかの扉がある。たしか一番奥の扉がリビングに繋がっているはずだ。右側には二階に向かって階段が伸びており、その先に佳枝の部屋がある。
「こっち、こっちー」

 声は二階から聞こえてきた。俺は階段を上る。相変わらず傾斜のきつい階段だ。二階に上がると、いくつかある扉の内、一つだけ開いているものがあった。俺はそこへ進む。

「どうした?」俺は部屋の中へ入った。
「おお、おお、よくお出でなさった。ささ、こちらへ」机に向かって座っている佳枝は、自分の横を示す。
「課題が終わないのです」
「自分で解け」
「ひどいよー」

 佳枝は英語の課題を解いていた。A4サイズのプリントにずらっと英文が並んでいる。見ているだけで吐き気がしてきそうだった。

「俺は英語が苦手なんだ」そう言って、はっとする。しくじった。
「嘘ばっか。この間のテストで百点取ったじゃない」
「あれは……まぐれだ」
「はいはい、じゃあ同じようにまぐれで課題を解いてみせてよ」佳枝は口を尖らせて言う。

 忘れていた。こっちの俺は英語が得意だったのだ。

「今日の英語は売り切れだ。数学ならまだ残ってるんだけどな」
「おお、数学もあるヨ!」佳枝は数式の書かれているプリントを掲げる。「けど、友哉、数学得意だったっけ?」
「今日は解けそうな気がするんだよ」佳枝からプリントを奪う。簡単な微分積分の問題だった。
「さすが天才君ですね。ずいぶんときまぐれだこと」
「そんなんじゃないさ。ほら、さっさと解け」
「はーい」

 佳枝はペンを走らす。時たま、いや、結構な頻度で頭を抱えて悩んでいたので、ヒントを与えてやった。すると、佳枝は高度な手品を見たかのように驚いた。ただ、公式に当てはめてるだけなのにだ。それを言ってもこいつらは信じない。盲目的に俺を天才と呼ぶ、信じる。参ってしまう。だが、そんな無条件で信じることができるやつらでも、さすがにこのことは信じられないだろう。俺が別の世界、並行世界からやってきた人物だということは。

承の空

「これなんかいいんじゃない?」彼女は店先に並んでいるシャツを広げながら言う。
「色が派手すぎないか?」
「いいのいいの。キミはこれぐらい派手な方が似合うよ」
「地味なのが好きなんだよ」
「損な性格してるね」


?承の空?


「始まったか」

 夕飯を食べ終え、部屋でボーっとしている時にそれは始まった。世界がぼやける。すべてが色を、次元を失う。そして気づくと元の世界に戻っている。それが不規則なサイクルで起きる。わかっているのはこっちの世界での滞在時間が徐々に増えていること。前回は二時間ほどだったが、今回は五時間を超えた。俺はこれを転移と呼んでいる。どんな原理で、どんな理由なのかはわからないが、俺はこの転移によって異なった世界を行き来している。並行世界というやつだろう。本当にそうなのかはわからないが、少なくともこの世界は俺が知っている世界とはかなりの違いを含んでいる。
 まず、俺の身の回りの環境。本当の世界、つまりここではない世界の俺の家と、ここでの俺の家はまったくの別物だ。住所すら違う。さらに、友人・知人・身内関係。さすがに親は同一人物であったが、それでも彼らの性格は俺が知っているのとは若干違っていた。環境が違えば性格も変わるのだろう。これらはまだ許容範囲だが、耐えがたいのは友人関係だ。この世界に本当の意味で俺を知っている者はいないし、そもそも樟木 佳枝という人物を俺は知らない。少なくとも、向うの世界で彼女と会ったことはなかった。
 この世界の人は皆、俺のことをこの世界の金城 友哉だと思っている。そのため、彼と俺の相違点に気をつかう。俺は数学が得意で英語が苦手、この世界の俺は逆に英語が得意で数学が苦手なようだ。なにより、こちらの世界の俺はかなり几帳面な性格のようで、机は整理整頓されているし、ノートには落書き一つない。まるで別人のようだ。なので、今日の佳枝の家の時のように、時たまボロがでるが、皆いい方向で勘違いをしてくれている。誰も俺が偽物だということには気づかない。俺だけが異変に気づいているのだ。
 やがて世界から色が消えた。今回の転移は普段と比べて非常に長い気がする。何か不都合でも起きているのだろうか。いくら慣れてきているとはいえ、あまりいい気分はしない。一分一秒でも早く終わってほしかった。
 ノートがあったと思われる場所に目を向ける。なんとなく、それっぽいものがそこにあった。この世界の俺との唯一の交信手段。ノートには俺が違う世界の住人だとか、俺がどんな性格をしているのかなどの情報が書かれている。しかし、一度たりともそれに返事が来たことはない。向こうの俺は一体何をしているのだろうか。次に返事がなかったら、カラスプレーで壁に特大の文字を書いてやろうと思った。
 やがて世界は終わりを告げた。すべてが黒に染まる。つまり世界の極限は黒一色。無というわけだ。そして俺の意識もまた闇に飲み込まれていった。まるで眠るかのように甘い、甘美な世界に引き込まれる。死がこんなにも安らかなんて、思ってもいなかった。

「帰ってきたか」

 きづくとそこは病院のターミナルだった。空は明るい。向こうへの転移が始まった時と同じ状況だ。転移にはもう一つ特徴があり、向うへ行っている間はこちらの時間は進んでいない、もしくは非常にゆっくりと流れているようだ。主体がこちらなのか、あるいは向こうとは理が違うのか。
 ともかく、俺は再びこちらへ戻ってきた。俺が属すべき世界。それはたしかにここにある。いや、本当に俺のいるべき世界はここなのだろうか。別の世界。それこそが俺の本当の世界では? 転移を繰り返すと、そんな自分の居場所が揺らぐような感覚を覚える。果たして、自分はどこから来たのだろうか。と。
 脳裏にあの時の光景が蘇える。交差点、信号、青、猛スピードで走る車、動かない彼女、そして飛び出す俺。鮮血が宙を舞う。生暖かい感触。彼女は泣いて、そして笑っていた。一瞬違和感を感じる。フラッシュバックした光景の中に記憶にないものがあったような気がした。
「気のせいだろ」
 おそらくは自分自身でもまだ記憶の整理がついていないのだろう。思えばこの一ヶ月は一瞬のように感じられた。あらゆることが加速的に過ぎてゆく。まるで高性能のジェットエンジンを積んだかのような早さだった。このままいけば、一生なんてあっという間な気がした。その後、俺は家へ帰り、すぐにベッドに入った。意識を失う瞬間の感覚、それは世界を移動する時と似ている。

「ん……っ……」

 機械的なアラーム音が耳に届く。泥水のようなまどろみを感じる中、俺は音源に向かって手を伸ばす。幾度か手が空をつかむんだところでようやく、目的のものを探し当てた。
 不快音を発していたのは携帯だった。アラームが指定時刻になったことを告げている。現在時刻は一九時を過ぎたところ。覚醒しつつある意識を外へ向ける。すでに日が落ちているが、相変わらず空は明るく、気温も高い。シャツはぐっしょりと濡れていた。
 病院から帰った後、俺はベッドに横になった。肉体的には問題ないのだが、精神的にはすでに向うの世界で五時間を過ごしているため少し疲れていた。

「友哉ー、ご飯よ!」

 一階から母親の声が聞こえた。その声をトリガーに意識が覚醒する。俺は立ち上がり、ズボンをはくと、一階に向かった。

「あ、おかえり」

 リビングに入るなり、俺はすでに帰宅し、テーブルでビールを飲んでいる父親に言った。

「ただいま。楓ちゃん、どうだった?」
「相変わらず」俺は席に着く。
「もう一ヶ月になるか」
「そうだね」

 脳内にあの時の状況がフラッシュバックされる。忘れもしないあの事故。駅前の交差点。そこで彼女は……。

「実はね、父さんと母さんも明日お見舞いに行こうと思ってるの」母親が料理を運んできた。
「いいんじゃない。明日は土曜日だから楓のお父さんもくるよ。きっと喜ぶと思う」俺は小声でいただきますと言ってから料理に手を伸ばす。

 その時、背後から電話の鳴る音が聞こえた。

「はいはい、今出ます」母さんは席を立ち、受話器を取る。「はい、金城です」

「友哉、最近どうだ?」

 父がビールを飲みながら言う。最近どうだというのは、それがなければ会話が切り出せないと思うほど、高確率で父親の第一声として使われる。それに対し俺も、高確率で決まった言葉を返す。

「別にどうもないよ」俺はそっけなく答える。
「そうか」

 短い返事が返ってくる。それは仮に俺が「最近学校でこんなことがあった」、と気の利いたセリフを言ったとしても変わることはない。それゆえ俺の返事は決まってそっけない。形式化された一連の流れ。それだけが俺たちを家族として結び付けているといっても過言ではないかもしれない。それほどまで俺と家族との結びつきは弱い。もしかしたら世界との結びつきも弱いから、あんなことが起きるのかもしれない。

「え?」母さんは裏返った声を上げる。「はい、はい。え……はい、わかりました」
「どうした?」父さんは母さんの方を向く。

 どうせ、会社で失敗でもあったのだろう。特に気にすることもなく、俺は料理を食べ続ける。

「楓ちゃんが……楓ちゃんの容態が急に悪化したって」

 その言葉を聞いた瞬間、俺は箸でつまんでいた料理を落とした。

「楓が、楓の容態が、悪化?」
「ええ、山は越えたはずなのに急に苦しみだしたって……」
「そんな……」

 頭の中で病院の様子がイメージされる。昼間まではあんなに落ち着いていた彼女。それが急に変わるなんて……。

「母さん、友哉すぐに行くぞ」父さんは立ち上がる。
「はい。ほら、友哉も用意して」

転の空

「うーん、いっぱい買っちゃった」
 欲しいものを買い、すっかり満足した彼女は蔓延の笑みを浮かべながら言う。
「か、買うのもいいが少しは持つ方の気も考えろよ」
 俺の両手には溢れんばかりの買い物袋が下げられている。この中に俺が買ったものはほとんどない。九割以上が彼女の買ったものだ。
「男の子でしょ。それぐらい余裕って顔をしなさい」
「うるせえ……だったらお前は女らしく少しはおしとやかになりやがれ」
「あ、何それ!? まるでわたしがガサツみたいじゃない」
 少し先を歩いていた彼女は、くるりと反転しこちらを向く。後向きのまま進み続ける彼女。そのまま交差点まで突き進む。信号は青。ほかに歩行者はいない。右の方から音がした。そちらに目をやるが、荷物が邪魔で見えない。次第に音は大きくなってくる。ようやくそれが車の走る音だと気づいた。持っている荷物をすべて投げ出し、とっさに足を動かす。
「楓ぇー!」
 

?転の章?


 病院に到着すると、俺はすぐに楓の部屋に向かった。すでにエレベータは止まっていたので、階段を駆けあがる。父さんと母さんの姿は見えない。おそらくは受付をしているのだろう。一割ほど二人に感謝しながら、五階を目指す。
 時刻はすでに九時を越えている。そのためフロアの電灯は消えていた。個々の部屋の隙間から光が漏れている光を頼りに楓の部屋を目指す。

「楓!」

 勢いよくドアを開ける。しかし、そこに彼女の姿はない。

「すいません」後から声がする。「時間も時間ですし、病院内ではお静かにお願いします」

 背後には書類を抱えた看護婦が立っていた。とっさに俺は彼女の肩を掴む。

「すいません。楓は……乃々原 楓は今どこに?」
「きゃっ!」

 あまりに気が動転していたのか、思いのほか看護婦の肩を掴む手に力が入ってしまった。彼女は苦痛の声を漏らす。

「あ、ごめんなさい」咄嗟に俺は手を放す。
「いえ、大丈夫です」看護婦は笑顔を浮かべる。「乃々原さんは今手術室にいます。案内します」
「お願いします」

 彼女は部屋を出てフロアの中央に向かっていった。彼女の後ろをついていく。どうやら手術室はこの階ではないようで、彼女は階段に出る。そこでちょうど父親と母親の姿が現れた。

「友哉、楓ちゃんは……」父さんが言う。
「上、手術室。今、この人が案内してくれるって」俺は看護婦の方を見る。二人の視線もそっちに移った。
「乃々原さんはこちらです。どうぞ」
「は、はい。お願いします」

 看護婦は再び足を動かす。俺と父親、母親もそれに続く。二階分階段を上がると、彼女はフロア側に出た。この階にナースステーションはない。諸毒液の香りが一層強い気がした。彼女は右手に折れた。すぐにT字路にさしかかる。彼女は左を向き、長く続いている道を進む。すると、先の方にベンチがあり、そこに二人の人物が頭を抱えて座っていた。おそらく楓の両親だろう。さらにそっちに近づくと、俺らに気づいた二人は顔を上げ、こちらを見る。

「ああ、友哉君。よく来てくれた」楓の父親が言う。
「楓は、今……」

 楓の父親は目の前の扉を見る。扉の上には手術中という文字が赤く光っていた。

「乃々原さん」父さんが声をかける。
「これは、金城さん。お久しぶりです。こんな時間にわざわざ申し訳ない」楓の父親は立ち上がると頭を下げる。
「いえいえ、お宅とは友哉が生まれたときからの付き合いですからね。楓ちゃんは娘のようなものですよ」父さんは視線を少し奥へ向ける。「奥さんも、さぞ辛いことでしょう」
「ええ、さっきからずっとふさぎ込んでしまって。こんなみっともない姿を見せてしまって申し訳ない」
「いえ、同じ母親として気持ちはわかります。私ももし、友哉が同じことになったら……」

 同じことになったら。その続きが頭の中で補完される。すると、得体のしれない重圧が胸を襲った。慌てて思考を中断し、意識を手術室の中へ向ける。今、あの中で楓が苦しんでいる。もしかしたら、もう二度と……。その時、赤く光っていたランプが色を失った。まかさと思い視線を扉に向けると、それは静かに開き、中なら主治医と思われる人物が出てきた。

「先生! 楓は……楓は……」

 すぐさま楓の両親は主治医へと近寄る。彼は青色のマスクを外すと、深刻な表情をして口を開いた。

「なんとか最悪だけは食いとめました。しかし、安心とは言い切れません」彼は二人を顔を交互に見る。「今夜が峠です。朝まで持ちこたえてくれればなんとか……」

「そんな……」楓の母親はその場に崩れ落ちる。楓の父親は彼女の背中に手をまわし、そっと抱き込む。俺の父親と母親もそんな二人を見ていられないのか、そっと視線をそらした。
「先生」俺は主治医に言う。「確率はどれぐらいですか」
「……希望的に見て五割」
「そうですか……」

 それ以上のことは聞けなかった。楓の両親にも悪いことだし、第一俺がそれに耐えきれそうになかった。しかし、すでに俺は俺なりの答えを出していた。おそらく五割という数字は親族等を安心させるために相当多く見積もった数字なのだろう。実際はその半分、いや、もしかしたらあの人は確信しているのかもしれない。楓は助からない、と。

「楓……」

 いつからこうなってしまったのだろうか。いや、それは自明。間違いなくあの交通事故から俺らの運命は狂いだした。毎日のように顔を合わせていた存在。隣で笑顔を見せてくれた人。俺は彼女が好きだった。自意識過剰かもしれないが、おそらくは彼女も俺が好きだったと思う。想いを伝えられないまま過ぎていく日々。そして迎えたエックスデー。しかも、このままもう二度と会えなくなるかもしれない。

「俺は……俺は……。俺は楓のいない世界なんか……」

 その言葉とともに世界が色失う。転移が始まったのだ。そして俺は確信する。この転移は偶然に起きたものではない。俺がこの世界を否定することで起きる。思えば最初の転移の時も楓が交通事故に遭ってから起こった。そしてこの世界を否定して辿り着いた世界。それがあの世界なのだ。
 回を重ねるごとに長くなっていく転移時間は俺の心に比例していたのだろう。そしておそらく、もう二度とこちらには戻ってこれない、いや、戻ってこない。楓のいない世界に用はないのだから。
 俺は再び世界を飛んだ。


 意識が戻ると、外はすっかり明るかった。俺がこっちの世界を出たのは二十二時頃。向こうの世界では七、八時間ほど過ごしていたわけだから、もうそろそろ夜が開ける時間だ。
 ベッドから立ち上がり、窓際に立つ。空はすでに明るい。時計に目をやる。時刻は間もなく七時になろうとしていた。清々しいほどの青い空。俺の今の気分とはまさに真逆の状態だ。

「いや、こっちこそが本当の世界なんだ」

 自分の心にそう言い聞かせる。向こうからこっちへ転移していたのではない。こっちから向こうに転移していたのだ。それはおそらくアダムとイヴが知恵の木の実を食べてしまった時のような小さな好奇心。一瞬の心の乱れが俺を向うの世界へ導いたのだ。こっちこそが俺が従属すべき本当の世界。俺の居場所なのだ。
 そうとなれば迷っていられない。俺はこの世界の住人なのだ。ここでの俺の立ち位置は数回の転移の中でだいたい把握している。あとはその通りに生活すればよい。いや、今後もここで暮らすのだからそれに縛られる必要はない。俺は俺の生きたいようにこの世界で生きていけばいいのだ。
 階段を下り、リビングに出る。予想通り母さんが朝食を作ってくれていた。

「おはよう」
「おはよう、友哉」

 やはり母さんは俺をこの世界の俺と認識している。俺が別の世界の人間だと誰がわかるのだろうか。俺はここにいていいのだ。その後朝食をとり、学校への支度を整えた。学校の制服はだいぶ前から着続けているような気がした。朝食を取り、家を出る。すると、そこにタイミングよく彼女が現れた。
「おはよう」
「あぁ、おはよう」
 
 楓……俺の大切な存在。彼女が自分の目の前で生きている。それがたまらなく嬉しかった。

「機嫌いいね」佳枝は俺の顔を覗き込むようにして言う。
「そうか」俺は前を向いたまま答える。
「うん、いつもよりずっとそう見えるよ」
「お前が言うんだからそうなんだろうな」
「えへへ、でしょ? でしょ?」

 嬉しさ余ってか、佳枝は俺の前でて反転し、こちらを向く。その瞬間、あの時の光景が頭に浮かぶ。俺は咄嗟に彼女の腕を掴み、こちらへ引き寄せた。

「え? え?」佳枝は困惑したような声を上げる。
「危ないぞ」
「う、うん。ありがとう……」

 佳枝は目を丸くし、戸惑いの表情を見せる。今思えば、転移はこの時のために起きたのではないだろうか。ここで佳枝が事故に遭わないためのシミュレート。それこそが転移の真意ではないのだろうか。もしそうなら結果は万々歳だ。前の交差点では信号は赤く光っている。あのまま進めば同じように車にはねられていたかもしれない。

「なんか、いつものキミと違うね」
「機嫌がいいからじゃないか?」
「ううん、そんなんじゃない。なんというか……」彼女は頬を赤らめる。「なんか、いつもよりかっこいい」
「え?」
「ううん、なんでもない」

 彼女が何かを言った途端、信号が青になった。それと同時にものすごい勢いで駆けだす。

「おい、待てよ!」
「早くしないとおいていっちゃうよー」
「ったく、元気なやつだ」

 苦笑を浮かべながらも俺は走りだし、佳枝の後を追った。最後に走ったのはいつだっただろうか。いつになく清々しい風を感じた。
 その後、俺はまるで転移など初めからなかったかのように何の問題もなく学校生活を送った。友人、教師、そして佳枝、だれも俺が違う世界の住人だとは気付かない。次の日、そのまた次の日も同じ。普通に目覚め、普通に飯を食い、普通に学校に行き、普通に友人と遊び、普通に寝る。俺は完全にこの世界と同化していた。

結の空

「明日からテストが始まるんだ。国語と社会はまあ大丈夫だ。けど英語がまずい。文法とか全然わからねえ」俺は目の間のベッドで横になっている彼女に語りかける。

 白い部屋に白いベッド。これでもかというぐらいに清潔感に満ちた部屋だ。大きな窓からは街の景色が一望でき、見る者に開放的な気分を与える。まさに、病室と呼ぶにふさわしい部屋だ。

「英語、また教えてくれよ。代わりに数学教えるからさ。ホント、そろそろ起きろよ。間に合わなくなっちまうだろ……」

 俺は彼女の手を握る。白く、そして冷たい手。生きているのかすら疑いたくなる。彼女の口元に耳を当てる。かすかに風を感じた。よかった。彼女はまだ生きてはいるようだ。
 なんで、なんでこいつがこんな目に合わなくちゃ……。そう思った時だった。

「なんだ……これ……」

 彼女の姿がだんだんとぼやけていく。まるで蒸発するかのように姿がゆがむ。否、彼女だけではない。ベッド、床、天井、ドア、部屋全体がゆがんでいった。慌てて外を見る。驚愕した。本来青いはずの空は、さっきまで雲ひとつない快晴だった空は……まるで川底のように色あせていた。


?結の空?


「楽しかったね」
「ああ、テレビとかの評価なんてあてにしてなかったけど、あれはよかった」

 駅前にある複合アミューズメントパークの映画館で映画を見た帰り道、俺らは近場のファミレスで食事を取ったのちようやく帰路についた。思いのほか、映画のことで話し込んでしまったためすでにあたりは暗く、時計を見ると時刻はそろそろ十時にさしかかろうとしていた。

「次はあれを見に行こう。ほら、今CMでやってるやつ」嬉々とした声で俺は言う。
「うん。次……か」佳枝は濁った返事を返す。
「どうした、なんかあるのか? もしかして金がないとか? いいよ、だったら俺が」
「ううん、違うの」佳枝は下を向く。
「そうか、違うのか」俺は上を向く。「なあ、何かあったのか?」
「…………」

 佳枝は無言のまま押し黙る。それは俺の質問を肯定しているようにもとれる。

「なあ佳枝、実は俺、お前のこと……」
「待って!」

 佳枝は高く大きな声で叫び、俺の言葉を遮った。まるで、俺の言葉を聞きたくないかのように。

「どうした?」俺はできるかぎり平常心を保って問いかける。
「…………」

 佳枝は答えない。視線を俺からずらし、思いつめた表情を続けるだけだ。

「どうしたんだよ、お前らしくない」
「…………」
「答えろよ!」

 つい、言葉に力がこもる。佳枝はびくっと体を震わせ、こちらを向いた。

「……ごめん」俺は頭をかきながら謝る。
「ううん。わたしもごめん。そうだよね。いつまでも黙ってちゃだめだよね」佳枝は決心したかのような目をする。「うん。友哉、いいよ。言って。わたしの準備はできた。もう迷わない」

 佳枝はまっすぐ俺を見つめる。揺らぎはない視線。そのためか、自然と体強張った。

「佳枝……」

 背筋に寒いような、痛いような感覚が走る。緊張しているのだろう。学校の発表会とは比べ物にならない。今まで生きてきた中で最も精神が張り詰めている。気づかれないように深く息を吸う。すぐには吐かず、一瞬肺に留める。そして彼女の呼吸に合わせてそれを吐き出した。

「佳枝、俺はお前が好きだ」
「…………」

 わずかに沈黙が生まれる。それは永遠のように長く感じた。まるで時が止まってしまったかのよう。あたりは凍ってしまったかのように動かない。

「……ごめん」
「え……」

 ついその言葉が漏れてしまった。彼女の言葉に耳を傾ける。

「ごめん。友哉の気持ちにはこたえられない」
「な、なんで……」

 俺は疑問の声を投げかける。すると、佳枝は表情を一変させ、凄みの入った顔でこちらをにらんだ。その眼にはほのかに水滴が浮かんでいた。

「だって、だって……だってあなたは……」佳枝は目を閉じる。「あなたは本当の金城 友哉じゃない!」
「え……」
「最初は信じてなかった。そんなことが起きるなんて。けど、いろいろ考えてみた結果わかった。あなたは本物の友哉じゃない!」
「な、何言ってんだよ、佳枝。本当の友哉じゃない? そんなSFみたいな話があるわけ……」
「じゃああのノートはなに!?」

 思わず言葉に詰まる。佳枝はあのノートの存在に気づいていたのか。そう言えばあのノートには英語と書かれていた。つまり、こっちの世界の俺が佳枝にノートを貸した可能性は十分にある。迂闊だった。

「あれはその……」俺は咄嗟に言い訳を考える。「あれはただの遊び。冗談だって。佳枝があれを見てどう反応するかなって」
「わたしの知ってる友哉はそんなことはしない。だって、友哉はノートに必要以外のことなんて絶対に書かない」

 その瞬間、こっちの俺がひどく几帳面だったことを思い出す。

「たぶんあなたと本物の友哉は交互に入れ替わってた。本当の友哉は言ってた。見たことのないような世界を見たって」
「…………」
「わたしは友哉が好きだった。昔から。大好きだった。けど、それはあなたじゃない!」佳枝は俺の服をつかむ。「ねぇ、返して! 友哉を、本当の友哉を返して!」

 佳枝は俺の体を揺する。俺は彼女の腕をつかみ、それを振り払った。

「うるさい!」
「きゃっ!」佳枝は後ろに倒れる。
「俺は、俺はもう向うは嫌なんだ。あいつが、あいつが死んだ世界に興味なんてない。俺はこっちに住むって決めたんだ!」

 そう、楓を殺すような世界に用なんて……。

「じゃあ、そうやって逃げてきたんだ。こっちの友哉を犠牲にして」佳枝は立ち上がる。
「ああ、そうだ。どうせこっちの俺も俺だ。俺が俺をどうしようと関係ない」
「違う!」佳枝は叫ぶ。「違う。それは違う。人の命はその人だけのものじゃない。周りの人みんなのものなの。みんながみんなを支えあって生きる。それが人ってものでしょ。あなただってそう。あなたは向うの世界でとても苦しいことがあった。それが一体どんなことか、どれぐらい苦しいのかはわからない。苦しみが大きければ大きいほど逃げたくなる時もある。けど、そこで逃げちゃだめでしょ! あなたが逃げたら、その他の人はどうすればいいの? 両親は? 友達は? あなたがわたしを好きになったように、あなたのことが好きな人もいるかもしれない。そんな人たちをおいて、あなたは一人で逃げてきたのよ!?」
「佳枝……」

 いつしか佳枝から怒りの表情は消えていた。その代わりに彼女の目からは溢れるように涙が流れていた。しかし、彼女は目元をぬぐわない。足を地に張り付け、背筋を伸ばし、腕に力を込め、こちらを見つめている。

「逃げちゃ何もつかめない。何が欲しいならどんなにあがいてもそれから目をそらしちゃいけない」佳枝は言う。「昔、友哉が言ってくれた言葉。わたしはいまでもそれを信じてる。欲しいもの、やりたいこと、決めたこと。それから絶対に逃げない。最後まで戦う。だから、だから……」佳枝はゆっくりと俺に近づく。そして肩に手をかけると、俺の頬にそっと口付けをした。
「だから、あなたも逃げないで。最後まで戦って。きっとできる。だから、あなたを必要としている人を、あなたが本当にやりたいことを、あなたが本当にいるべき世界を想って……」
「……俺の……いるべき世界……」

 脳裏に俺の記憶がよみがえる。
 幼いころ、家族と行った海で溺れかけたこと。あの時から両親はいつでも俺の心配してくれていた。
 小学校に入って友人と喧嘩したこと。あいつとは未だに親交がある。
 中学校の部活で、後輩とペアを組んだこと。あいつは今どうしてるのだろうか。
 高校の二者面談の時、先生に進路を聞かれた。そういえば、まだ答えを出していなかった。
 そして楓。いつでも隣で笑顔をくれた彼女。今あいつは……。

「あれ……おかしいな。なんで、なんで……」

 手を広げると、ぽたぽたと雫のようなものを感じた。水滴は集まり次第に大きな湖を作る。手に入りきらなくなった雫は、零れ、地面を濡らす。

「なんで俺、泣いてるんだろ」
「思い出したんだね、あなたの世界のことを」

 佳枝は俺からそっと離れる。

「なら、もう大丈夫。きっとあなたは上手くやれる。誰かを想って涙を流せるんだから」
「俺は……俺は……俺は戻らなきゃ、あっちに、帰るべき場所に」
「うん。よく言った」

 佳枝の姿ぼやけてくる。始まったのだ、転移が。

「佳枝、その……ごめん。俺のせいで君に、そしてこっちの俺にも色々迷惑をかけた」俺は頭を下げる。
「ううん、いいの。それだけの価値があったと思う」佳枝は手を振る。「さようなら、もう一人の友哉。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけあなたのこと好きだったよ」
「え……」

 俺は顔を上げる。その時にはもう佳枝の姿は判別できなかった。ぼんやりと人のような形が浮かんでいるだけ。背景と溶け合ってしまっている。だが、俺には分かる。きっと彼女はそこにいる。きっと、手を振って、背筋を伸ばし、涙を流しながら、笑顔で、きっと……。
 俺のこっちでの物語は終わりを告げた。

「…………」

 かき混ぜられた卵のようにぐちゃぐちゃとした意識の中、俺は目を開けた。焦点が合っていないのか、視界はぼやけている。。目をこすろうと思い、腕に力を入れる。しかし、思うように腕は動かなかった。もう一度腕に力を入れる。すると、少しだけ腕が動いた。重い。こんなに自分の腕は重かっただろうか? 疑問に思いながらも顔まで腕を動かそうとする。その時、手に柔らかく、暖かい感触を感じた。なんだろうか。腕同様に重い首を回し、そちらを向く。

「友……哉」
「かえ……で……?」
「うん、そうだよ。わたしだよ」

 俺の手により一層強い力がこもる。

「よかった……よかった……」

 楓はしきりにそう呟いた。とたん、意識が急速に覚醒する。そうだ、俺はあの時交通事故に遭って、それから……。

「楓……俺……」
「うん。一ヶ月も起きなかったんだよ。このまま起きないのかもって思ったらわたし……わたし……」
「ごめん」
「ううん。友哉が悪いんじゃない。あの時、前を見て歩かなかったわたしがいけないの。それでわたしをかばって友哉が車に……」

 最後の方はかすれてしまって、あるいは言っていないのか、どちらにせよ俺の耳に届くことはなかった。その代わり、嗚咽のような声が聞こえてくる。

「そうか。怪我、なかったか?」
「ううん。友哉が守ってくれたから」
「そうか」
「うん」

 それ以上俺も、そして楓も何も言わなかった。ただ互いが確かにここにいることを感じている。それだけで十分だった。ふと、楓の方から物音を感じた。

「先生、呼んでくるね」楓は立ち上がると、部屋から出ていこうとする。
「待て」俺は言う。
「ん? 何?」楓は後ろ向きのまま言う。
「え、いや……なんでもない」
「ふふ、変なの」

 そう言うと楓は部屋から出ていった。おそらく、泣き顔を見せたくなかったのだろう。

「逃げてた、か」

 俺は外に目をやる。青い、どこまでも青い空だ。それも今までで一番きれいな、俺のいるべき世界の……空だ。

エピローグ

「金城さん、検温でーす」
「あ、はい。どうぞ」

 時刻は昼を過ぎ、一四時。検温の時間だった。ドアがノックされたので、俺はどうぞ、と形式的な入室許可を出す。

「はじめまして、樟木です。今日は三島さん、いつも検温に来る人です。あの人がいないので、代わりにわたしが来ました。以後よろしくおねがいします」
「はい、こちらこ……そ」

 彼女の顔を見た瞬間、俺はまさか、と思った。

「どうしました?」彼女は戸惑った顔をする。
「い、いえ。なんでもありません。初めて見る方でしたので、つい……」
「いつもはナースステーションでお留守番ですからね。まだ、歩けない金城さんでは知らないのも無理もないですよ。はい、じゃー、体温を測ります」

 そう言うと彼女は俺の脇に検温計を差しこんだ。

「じっとしててくださいよ。その間、お話し相手になってあげますから」
「じゃあ樟木さん。下のお名前は?」
「え?」樟木さんは目を丸くする。
「いや、その深い意味はなくてですね。なんというか、昔あなたによく似た人にお世話になったので、その……」

 俺は必死で取り繕う。

「ああ、そう言うことですか。いいですよ。教えてあげます。特別ですよ? わたしの名前は樟木 佳……」
「友哉ー! えへへ、来ちゃったー! 今日は授業が午前中で終わってね。あ……」

 楓が勢いよく扉を開けて入ってきた。しかし、中を見たとたん、彼女は体を硬直させる。

「こほん。病院内ではお静かにお願いします」樟木さんは楓の方を向いて言う。
「はい……ごめんなさい」
「はい、金城さん。今日も平熱。健康に問題ありません。ですが、彼女とイチャイチャするのもほどほどにしてくださいよ」
「え、楓は別に俺の彼女じゃ……」
「じー」
「うっ……」

 刺さるような刺々しい視線が楓から注がれる。なんてタイミングが悪いんだろうか。

「ふふふ、ではお大事に」
「あ……ありがとうございました」

 樟木さんはくすり、と軽く笑うと楓の横を通り、部屋から出ていった。ドアが閉まると、代わりに楓がこちらに近づいてくる。

「今の人だれ?」
「看護婦さん」
「それは見ればわかるわよ」楓は頬を膨らます。
「怒るなって。別に変な関係じゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「……昔、ずっと遠いところでお世話になったんだ。大事な、とても大事なことを教わった」俺は外を見る。
「ふーん。ずいぶんと大切な人のようで」楓の顔がさらに不機嫌になる。
「そうだな、大切な人だ。けど、それ以上に」俺は楓を見る。「お前の方が大切だ」
「え……」
「好きだよ、楓」
「え、え、え……えぇぇぇぇえー」

 甲高い楓の声。とっさに耳をふさごうとするが、腕が動かない。

「うるさいぞ」
「だって、だって、友哉が、あの友哉が好きだって……ええええええ!?」楓は手を頭に当て、パニック状態に陥る。目がぐるぐると回り、今にもパンクしそうだ。
「なんだよ、俺が告白しちゃいけないのか?」
「だって、友哉っぽくないし」
「人は変わるもんだ。立ち上がれば、立ち上がっただけ」
「……そうだね、友哉は変わった気がする」楓はそっと笑う。
「どんな風に?」
「うーん、具体的にはわからないけど……」
「けど?」
「なんというか、カッコよくなった」
「そうか」
「うん」

 ついさっきまであたふたしていた楓は、いつの間にか大人しくなっており、手を後ろに回し、ほのかに顔を赤らめていた。その姿がとても愛らしかった。

「で、返事は?」俺は問いかける。
「えーと、うん。わたしも好き、だよ?」
「なんで疑問形なんだよ」
「う、うるさーい。恥ずかしいんだから、それぐらいさっと流してよ」
「だめだ。せっかく仕返しできるチャンスなんだ。これを逃す手はない」
「うぅー、友哉がいじめる……」
「ははは。ま、ともかくこれからよろしく。恋人さん」俺は自分の持てる最大限の笑みを浮かべる。
「は、はい! こちらこそ、ふつつか者ですがよろしくお願いしまあ」
「あ、噛んだ」
「むきー!」

 楓は眉を吊り上げ、殴りかかってきた。体動かせないため防ぐことはできなかったが、途中で看護婦さんがうるさいと怒鳴ってくれたので、事なきを得た。今、俺は胸は喜びで満ちている。これもすべてあいつが、あの人が教えてくれたから。逃げてはいけない。立ち向かわなきゃ何も手に入らない。樟木 佳枝、その名一生忘れない。
 空を見る。今も彼女は向こうで空を眺めているだろうか。

Double Sky Memories

 ここまで読んでいただいた方に心からお礼申しあげます。ありがとうございました!
 この作品は、私が初めて書いた短編作品です。とはいっても、シリーズの内の一つであり、今後、この続編を書いていく予定です。
 なぜ主人公は世界を移動したのか。なぜ三つの世界を移動したのか。他の金城友哉は何をしているのか。
 その辺りの謎を空と絡めながら書いていこうと思います。
 最後にもう一度、最後まで読んでいただきありがとうございました!

Double Sky Memories

ある時、主人公――金城友哉は気付くと自分が生きていた世界と異なる世界にいた。自分の身に一体何が起こっているのか、この世界はなんなのか。そして、その中で彼が見つけた答えとは? skyシリーズの一作目です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 起の空
  3. 承の空
  4. 転の空
  5. 結の空
  6. エピローグ