トランス・ザ・ブラッド

プロローグ

かつて北部の都と歌われた童野(どの)府は、空爆と砲火により瓦礫と砂埃と骸だけが散らばる世界に堕ちた。

その地のとある一角で対峙する少女たち。
遠くから撤退を知らせるサイレンと、輸送艇のローター音が轟く。
しかし、少女たちは微動だにしない。お互いの隙を伺うように構えあったままだ。
一人は刀を正眼に構えた少女。セーラー服風の野戦服に略式のマントが凛々しい。
切れながの瞳が特徴的な、見目麗しいといった容姿。
マントには銀刺繍で施された踊る人形の紋章が描かれている。
長い黒髪をポニーテールに結い上げ、髪留め代わりに繊細な銀の鎖で止めてあった。
髪は戦火のせいか焼けちぢれ痛み、右の脇腹が大きくえぐり取られたかのように欠けていた。
それでもこの少女の瞳には決意の光は消えていない。
もう一人は褐色の肌に碧眼、アンティークドールのような眩い金髪。
男物らしいブレザー風の野戦服に見を包んでいるが、サイズが大きいようで丈があまっている。
そのかわり胸のところだけは、今にもボタンが千切れそうなほどふくらんでいた。
結い上げも束ねることもしていないその髪は、膝までもある長さ。
中性的な容姿で男装させれば少年で通ってしまいそうな容貌。
青い瞳は狂気と殺意で血走り、少し前かがみになって獣のように喘いでいた。
ふいに右手に掴んでいたモノをいらないおもちゃのように投げ捨てる。
ごとん。ころ、ころ、ころ。と三回転して空を見上げるように止まったのは人の首。
ポニーテールの少女は、それが同じチームのメノウの首だとわかった。
「リクぅ、あんた本当に私たちの事、わかんなくなっちゃったんだ」
寂しそうに微笑み、傷の痛みですぐに顔をしかめた。
リクと呼ばれた褐色の少女は応える代わりに喘ぐ口の端から、黄色く濁った涎を垂らした。
獣のように身を低くかまえ走る。その両手は血で赤黒く濡れていた。
右フックの鉤爪がポニーテールの少女の喉を狙う。
袈裟懸けに振り下ろした刀が、リクの右腕を切り落とす。
勢いを止めることもなく、そのままリクは懐に入り込む。とても深く。
十分に引いた左腕を、差しこむようにポニーテールの少女の右胸に突き刺した。
筋肉が裂ける音、肋骨が割れる音、肺が潰れる音。
勢い余った左腕は、命の断末を奏でながら華奢な少女の体を貫通した。
ポニーテールの少女の瞳から決意の光が消えかかる。
だが、ぎりぎりと音が鳴るくらい歯を食いしばり、かろうじて踏みとどまる。
刀を手放すと、ありったけの力を込めてリクを掻き抱いた。
ぎゅっと。
ぎゅっと。
ぎゅうううっと。
リクが左腕を引き抜こうともがく。
「大丈夫だから、帰ろ」
掻き抱いた腕の力が抜けて、ちょうどきゅっと抱きしめた位に落ち着いた。
リクの瞳から狂気の色が抜けていく。
「ゼェ、ゼェ、ゼェ、ハヅキ!なんで、俺、どうして!?」
正気に戻ったらしいリクは、状況が飲み込めず狼狽した。
ハヅキを貫いた左腕が温かい。命がこぼれ出てリクとハヅキを同じ色に染めている。
「ん。へいき…だから、かえったら、なおし、てもら、うから」
「何いってんだよ。俺、やっちゃったのか」
ハヅキの体ががくんと崩れる。
支えようとしたリクは、無理な姿勢だったこともあり、そのまま二人で地面に倒れた。
ハヅキをかばって下に倒れこむが、はずみで左腕がさらに深く刺さる。
水っぽい咳をしたハヅキがこらえきれず、リクの胸の上に血を吐いた。
「あーあ、これくらい私もあったらなあ」
羨ましいといった感じで、リクの豊かな胸をつつく。そっと頬を乗せる。ふんわりと包まれるような感覚にため息がでた。
「バカッ、つまんねえ事こんな時に言うなよ。ほんとハヅキってバカだな」
嗚咽をこらえた掠れ声で、リクは悪態をついた。
(じかんがもうないみたい…)
きっと「気にしないで」とかいったら、こいつの心に大穴あけて一生もののトラウマ作っちゃうだろうから、ハヅキは一言つげるだけにしておいた。
唇がかすかにうごく。その声はか細く聞き取ることが難しい。
「………バカっていうな」
満足そうなため息をもうひとつつくと、ハヅキの瞳から光が消えた。
輸送艇のローター音が近づいてきて哀悼の鐘のように空気を震わせる。

リクの慟哭があたりに響く。

ここは戦場。骸だらけの絶対境界圏。
童野府防疫戦は善戦むなしく、第一級侵食まで街は汚染しつくされ人類は敗走した。
それは苦い歴史であり、リクにとっても取り返しの付かない悔恨。

ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
ローターの音が鳴り止まない。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
誰か、俺を。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
助けて。

1章 防疫の学府

カーテンの隙間から入り込んだ陽の光が、少年の顔に差し込んだ。
筆ですっと引いたような眉を照らし、次いでまぶた、鼻、とうとう顔全体を朝の爽やかな光で彩った。
一瞬、少年は眩しそうに顔をしかめると、毛布を頭から被りこみ再びまどろんだ。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
さっきから金属を激しく打ち付ける音が、部屋中に響き渡っていた。
それでも少年は眠り続けている。安らかとは言い難い苦悶の表情を浮かべながら。
見れば台座に固定されたフライパンを、一心不乱に金槌で殴り続けるカラクリが動いていた。
時計が組み込まれているところから、目覚まし時計であるらしい。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
ひたすら連打されるフライパンは、もはや調理に使えそうもないくらいベコベコにへこみ変形している。
こんなに五月蠅くては、隣の部屋の住人からも文句がでてきそうな程だ。
とんとんとん。
ドアをひかえめにノックする音。今朝のBGMはフライパン連打。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
とんとんとん。
辛抱強くノックが繰り返された。
「リクく〜ん。管理人の栗原ですよ〜。みなさんがうるさいって、あれ?ねえ、起きてますか〜」
澄んだ声音。まのびした喋り方は、聞くものを包み込むような包容力があった。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
「むにゃ、あと、30分。すーーすーー」
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
とととん。
ノックが私ちょっとイラついてます。といった感じに変わった。
「リクく〜ん。あの、私も忙しい身ですので、起きてもらいますよ〜」
ガシャッ
重い撃鉄を上げる音は、騒音に満たされた部屋の中でも聞こえた。
とたんに絶賛爆睡中だったリクの寝顔に緊張が走る。
「んなーーーーーっ!」
寝ぼけ声とも中途半端な気合とも聞こえるような奇声を上げて、リクは目覚ましを思いっきり蹴っ飛ばした。
台座に固定しておいたフライパンが外れ、蹴り飛ばされたしかえしとばかりにハンマーがリクの小指を打つ。ぐわしっ。
「ぬぅおーーーーーーーーーーーーーーーっ」
苦痛に体をくねらせ必死の思いで玄関のドアに飛びつくと、鍵をあけるのももどかしく乱暴にドアを開け放った。
目の前に天使が微笑んでいた。学校の制服らしい軍服風のブレザーを皺ひとつなく着こなし、本場の天使もとろけるよな笑顔を浮かべていた。笑うと糸のように細くなる目はいかにも自愛に満ちた雰囲気。腰まである漆黒のロングは、ほつれもない完璧なストレート。アクセントとして左側だけ髪を桜色のリボンと一緒に編みこんであった。
成績優秀、容姿端麗。学園を統治する十騎士生徒会〈テンペリオン〉のひとりにして、リクが住まう梁山荘の管理人。
栗原ヨナその人が、たおやかな笑顔のまま無骨に光る二六式支援機関銃を構え今にも引き金をひかんとしていた。
傍らには戦場従者〈メイド〉の岩田マモリが、リロード用のドラムマガジンを恭しく捧げ持っている。
この二六式支援機関銃は、銃座に組み込むか二脚をつけて伏射するのが正式な運用方法である。マガジンにしたって、男子生徒でも一抱えする重量だ。
それをやすやすと構え、あるいは主に出すお茶のように捧げ持っている目の前の少女たちは、一般生徒とはるかにスペックが違うとリクは思った。
「お、おはようございますっヨナ先輩」
つい反射的に両手を上げてしまうリクに、マモリが軽蔑の視線を容赦なく浴びせた。
なんとでも蔑むがいい。十騎士相手に互角にやれる生徒なんてまずいないのだ。
と、リクは心の中で言い訳をした。
「ごきげんようですよ〜。リクくん、もうちょっと寝起きがいいと、私も助かりますよ〜」
ふわりと笑う。凶悪な機関銃をつきつけたまま。
そのギャップがたまらんハァハァという男子生徒もいるにはいるが、君子危うきに近づかずを人生の教訓にしているリクには理解できそうもない。そして理解する気も絶対にない。美人だけど怖い人というのが管理人兼先輩に対するリクの正直な感想だ。
いつもならニコニコと微笑み退散してくれる重火器なでしこが、不思議そうにリクを見つめている。正確には右腕があった部分をじいっと見つめている。しまったとリクは思う。あわてて飛び起きたから、いつもつけている義手をはめる余裕がなかったのだ。リクが右腕を失っているのは、あまり知られていない。支給された義手の出来がいいということもあるが、細心の注意を払って己の傷を隠し続けてきた。
「あ、これ戦地で負傷しちゃったんですよ。あまり、人に話すことじゃありませんし」
愛想笑いでごまかし、右腕を背中に回して隠した。
「確か二年生だから、遠征任務はまだのはずですよね〜?戦地というからには、城壁の外に出るってことですし〜はて?」
手慣れた手つきで機関銃を肩に担いだヨナが、唇に人差し指を当てて問いかけた。
二、三、下手な言い訳を思い浮かべたものの、のほほんとしてる割に鋭い先輩をいいくるめられる自信もなく、観念して正直に話すことにした。ただし情報の一部分だけ。
「あの、〇一試験部隊っていうのは、ごぞんじですか先輩」
マモリが感心したように、わずかに眉をうごかす。
これにはヨナも興味をもったらしい。前線指揮官をも務める十騎士生徒会のメンバーは、そろいもそろって戦バカだという噂があるが、どうやら本当のようだ。しゃべりすぎないように気をつけようと、リクは気を引き締めた。
「リクくんが!すごいです〜。ぜひ今度手合わせなんか…」
「俺、おめおめ生き残っちゃって、相棒も死なせちゃって、だから、だからっ」
遮るようなリクの言葉に、ヨナがはっと思い出したような表情を浮かべた。
「いいんですよ〜。十騎士って本当に戦バカで困っちゃいますよね〜」
「すんません先輩。本当に、そういうのだけは勘弁してください♡」
情けない気持ちを隠すように、リクは愛想笑いを浮かべた。
ドアを閉めようとした矢先、何かが挟み込まれたような抵抗を受けた。見ればマモリが無表情のままドアに足をはさみ止めていた。
「ちょ、なんか用があんのか・・・あるんですか」
マモリは上級生の戦場従者を務めているが、リクと同じ2年生である。それでついタメ口を使いそうになったが、マスターであるヨナの手前もあり丁寧な言葉づかいに改めた。
「待て、ヨナ様がお前に言いたいことがあるらしい」
「リクくん、ひとついいですか?」
「はい?」
「私は〇一試験部隊を尊敬しています」
「!」
『尊敬しています』そう言われたとき、リクの息が詰まり胸が熱くなった。
「どっ、どど、どうして…」
どうして先輩はそんなことが言えるんですか?なんで先輩みたいな人が俺なんかに尊敬なんて軽々しく言えるんですか?だいたい俺のこと知ってて言ってるんですか?
伝えたい言葉が多すぎてリクはパニクった。
「リクくんたちが投入されて、時間稼ぎができたから〜。助かった命も大勢あるんですよ〜」
「俺が生きてていいのか、わかんなくて、だから、えっと」
「それでもいいんです。そんなに自分を卑下しちゃだめです。本当にいらない命だったら、危険を犯して回収隊を出したりしません」
いつもの間延びした喋り方ではない先輩の声。リクより遥かに大人っぽく、そして優しかった。
ドアを抑えていたマモリの足がはずれた。言いたいことというのはこの事らしい。
「それじゃあリクくん。遅刻しちゃダメですよ〜」
少女たちの足音が遠のいていく。リクは閉じたドアにもたれるようにして、パジャマの袖で涙を拭うのに忙しかった。

リクこと沖野リクが住む街は強固な城壁に囲まれた要塞都市だ。もっと正確に言えば要塞学園都市である。ここは特定の基準を満たした十代から二十代前半の若者だけが集められ暮らす街。北部は穀倉地帯だった仁室〈にむろ〉平野が広がり、晴れた日は廃墟と化した童野市まで見晴らすことができる。東部は仁室湾まで城壁が伸び、かつてはここから収穫された作物を各地へ送り出していた港があった。西部は切り立つ赤城山脈が天然の城壁を連ね、首都へと通じる南方は深い渓谷がある。この学園はその渓谷を背後にするように立てられた難攻不落の要塞だ。週に一度、首都側から橋が伸びてきて補給部隊が物資を降ろしていく以外は、完全に外界と隔離されている。
街の北方、一番強固な城壁のすぐ側に物見の塔を四方に築いた城がある。そこがリクたちが学ぶ学舎だ。周囲は演習に使われている広大なグラウンド。その間にクラブハウスや特殊教科棟などが点在している。
城壁が破られた非常時には、城に生徒が立てこもり籠城できるように作られている。遮蔽物が殆ど無いグラウンドは、おびき寄せた敵を城から狙い撃ちにできるようになっていた。
要塞都市内の移動は徒歩かモノレールを使うのが一般的で、通学ラッシュ時間にもなれば各駅に学生が溢れかえる。
商店街を通り抜ければ、購買部に所属する生徒が開店前の準備に追われていた。普賢鎮台〈ふげんちんだい〉と呼ばれるこの要塞学園都市に成人はほとんどいない。全国から集められた少年少女たちが教師役の生徒から学び、明日を生きるためにみんなで働いている。まるでひとつの巨大な鳥籠。中に閉じ込められた雛たちは、戦の時だけ取り出され羽ばたくのを許される。

いつもはギリギリまで寝ているリクは珍しくゆっくりと駅までの道を歩いて行った。途中のオープンカフェで朝食を食べていくという余裕ぶりである。
街で働く生徒たちは予備兵扱いであり、学業と街の商業活動を主に担っていた。
一方のリクは負傷兵であるが除隊せずに尖兵科予科生に所属している。毎月、給金が出るし非番の時はぼーっとできるというのが、除隊届けを出さなかった理由だ。もっとも戦となれば前線に派兵されるし命も落とす可能性がある。平時の訓練も死ぬほどしんどいのだが。
ぶらりぶらりと歩いて、いつも使っている13番駅についた。すでに通学の生徒で混雑しており、カフェなんかで朝食を食べなければよかったと後悔した。なるべく混雑が少ない最後尾の車両の列に並ぶ。「早起きっていいもんだな。明日から心を入れ替えて早く起きよう」とぼんやり立ち並んでいると、後ろから何者かに抱きつかれた。
「だ~れだっ。あ、後ろ見たらダメだかんね」
何者かは、幼児じゃなかろうかというくらいちびっこい体をコアラのようにぴとっとくっ付けてきた。
リクは体を捻って器用に何者の首根っこを捕まえると、猫のように持ち上げ目の前に吊るした。
「うにゅ〜。見ちゃダメだって言ったのに」
「俺は後ろを見ていない。すなわち約束は破ってない」
「うううっ、ホタルぅ。リクが意地悪するよう」
「それくらいにしてやれ。リクが好きだから戯れてるんだ」
「ふん」
リクが首根っこを掴んだ手を離すと、ルミはくるんと宙返りして着地した。
「ホぉータぁールぅー」
涙目で長身の男子生徒にとててと寄ると抱っこをせがむ。求められるがままホタルは持ち上げ肩車をした。
「おほーっ。高くていいなあ。ホタルやリクはこんな風に世界が見えるんだ」
「世界って、おおげさだなおまえ」
肩車をしてもらってニコニコ笑っている少女は、リクと同じ高校2年の蛇塚ルミ。巷の愛好家からツインテールなる名称で親しまれている灼熱色のおさげ髪がハマりすぎる程似合っている幼女高校生。とある事情でルミの外見成長は10歳前後で止まっている事をリクはホタルから教えてもらった。
ルミを肩車している長身のイケメンが夢想ホタル。癖のないサラサラヘアに優しげな眉、すっとした鼻立ち。憎たらしい程癒し系イケメンなのに自分の容姿を自慢する事がない。無論もてる。しかしリクが知っている限り、告った女子をことごとく断ってきた。
こいつホモなんじゃなかろうかとリクさえ疑った事がある。
同じく癒し系美少女の栗原ヨナと組ませれば普賢鎮台No1のカップルになるかもしれない。と妄想するリクだったが、それを認めるのが悔しくて、ホタルに話した事はなかった。
(へへーん。俺なんかヨナ先輩に起こしてもらったんだぜ!)
ほんわりと今朝のヨナ先輩とのふれあいを思い出す。優しくどころか、一歩間違えれば撃ち殺されていたかもしれない事実も思い出しリクは今更ながらヘコんだ。
「リクが早起きって珍しいね。僕さまのプレゼントが役に立ったみたいじゃん」
「あの万国びっくりカラクリマシーンは、どっから持ってきやがったんですか」
昨夜、いつも遅刻が多いからとルミに押し付けられたのが、あの目覚まし時計。ホタルと一緒にリクの部屋に押しかけて、あの珍妙なカラクリを仕掛けていったのだ。
「んふふふ〜。内緒」
「どうせ装備研のヘンテコ試作品を面白そうだからって貰ってきたんだろ」
ベコベコにへこんだフライパンと、小指を打ち付けたときの痛みを思い出す。本来の用途は絶対に目覚ましなんかじゃなかったはずだ。
「なんのことかなぁ〜。ルミちっちゃいからわかぁんなぁーい」
「都合のいいときだけ幼児してんじゃねえ。あれか、お前は高校生料金のところを、子供料金で映画見に行くような奴だろ」
「あれ、それっていうのは、ボケはじめの証拠らしいよ。プププッ」
「いちいち人の言葉の揚げ足とるな。お前みたいなチビジャリはこうだ!」
両手を広げ、指をワキワキしてみせる。素早く腕を伸ばして、肉付きの薄い幼児体型の体をくすぐりはじめた。
「ひゃー。リクがキレた。ホタル逃げろ」
騎手が馬に拍車をかけるように、ホタルの肩をぺちりと叩く。リクと目を合わせたホタルがにやりと笑った。
「悪いな。姫の命令だ」
ホタルはルミの事を姫と呼ぶ、なんでもルミはさる高貴な血筋だそうで、ホタルはその一族に使える家臣の一人だという。そのわりにはルミに対する口調がぞんざいだ。リクやルミは入学基準を満たして普賢鎮台に招集された身だが、ホタルは基準を満たさないまま入学できた唯一の人物だ。ルミの一族が裏で手を回したのかもしれない。しかし、尖兵予科2年の成績最優秀者はこのホタルだ。
「天は二物を与えずというがこの仕打はなんだ。マジでホタルてめぇえだけはゆるせねぇ。容姿と成績、腕っ節、あと家柄と土地と財産があるやつなんて、わりと人生無敵じゃねぇか。朝っぱらからびっくりマシーンで悶絶した庶民の恨みを思い知れ」
「あん?そりゃお前がアホだから小指をハンマーで痛打したんだろ。蹴っ飛ばして止めようとするからだ。バカが」
「言ってねえのになぜわかる!てめぇ、やっぱ何かのスキル持ちだったのか」
「ほほー。ホタルそうなのか?僕様もお前の能力見てみたいぞ。見せろー」
「姫、それは違う。きのう部屋でアレを仕掛けた時、こいつの事だからハンマーで足の指でもぶつけるだろうと予想したまでだ。アホの行動パターンなんてたかが知れている」
「ういうい、ホタルお前は賢い家臣じゃのう」
まるで犬の頭でも撫でるように、ホタルの頭をぐりぐりと撫でた。
「それに比べリクの頭ときたら…ハァ」
「姫、友だちは信じなきゃだめだ…ハァ」
「うわ、何その痛い人を見るような生暖かい目線は。しかもそのため息、いやな方のハァじゃねえか。友達信じろ言うなら態度で示せ」
「だってさぁ…ハァ」
「しょうがねえよ…ハァ」
「絶対わざとだろ、お前ら」
などとじゃれ合っているうちに、モノレールがホームに入ってきた。

生徒たちがゆっくりと列車の中に飲み込まれていく。リクが入学したばかりの頃は、こんなに駅が混んでいなかった気がした。予科生が増えたのは去年の防疫戦争敗走の時からだろうか。何らかの基準を満たしていたばかりに、半ば強制的にこの鳥籠に詰め込まれた少年少女たち。
ふと視線を感じると、一輛向こうの列でこちらを見ている少女がいた。制服のデザインが他の生徒と違うので、すぐにこの子だとわかった。一般兵科の予科生はブレザータイプの制服。この子は特殊兵科を示すセーラー服に略式のマントを羽織っている。マントに刺繍された紋章は剣を持った踊る人形の舞姫。剣帯に刀を挿しており、なかなかその姿は様になっていた。
長めの髪を頭頂部でまとめ、後ろに垂らしたポニーテール。髪に差し入れた銀色のかんざしが朝日を浴びてキラキラと光っている。面立ちはリクのよく知っていた人物に瓜二つだった。生徒たちが我先にとモノレールに乗り込んでいく中、リクとその少女は数年ぶりに偶然であった知己のように見つめ合った。
先に視線を外したのは少女の方だった。何でもなかったように車両の中に消えていった。
少女をじっと見つめていたことが恥ずかしくて、リクはそそくさと車輛に乗り込む。中央の横座りの席に、手招きをするルミの姿があった。
「あの人、リクの知ってる人?」
ぴょんと席を立ちリクに席を譲ったルミは、隣のホタルの膝の上に座った。事情を知らない者が見れば、ルミとホタルは仲の良い兄弟のようだ。
「ちげーよ。知らない人」
「ふうん。じゃリクは、知らない子をじっと目で犯す危ない人だったんだ」
「どこでどうなったら、そんな結論になる」
「だって、じぃぃぃっと目で犯してたじゃん」
「目線が合うのと、目で犯すのはまったく違うっ。向こうと視線が合って、たまたまだ。誰か見てきてんなって思ったら、たまたま目が合って、たまたまコイツ誰だって思ってただけだし。俺は危ないやつなんかじゃないぞ。うん」
〇一試験部隊に選抜後の話は、一番のダチであるホタルとルミにも話していない。
だからリクがあの少女を見つめていた理由は誰にも知られていない。
失った右腕の古傷がちりちりする。
ハヅキと会った時も、こんな風にモノレールに乗っていた。
そう、あの時も、ちょうど隣に座っていたんだ。
           
まだ入学したばかりの頃、新設部隊の招集命令を受領したリクは緊張しまくっていた。
ろくに訓練も済ませていない予科1年生が招集を受けたのだ。
『部外者への口外を禁ず。極秘に行動されたし』そう書かれていた文面は、いかにも重要任務という気がしないでもないし、入学早々、頭角を現した優等生連中を追い抜くチャンスでもある。城行きのモノレールの中、リクは派兵先で手柄を立てて、十人騎士会〈テンペリオン〉の一員になった将来の自分を厨二妄想していた。そうなるとカッコいい通り名を今から考えておいたほうがいいかもしれない。
予科生初のテンペリオン「沖野リク」 うーん、いまいち。
考える事しばし、あんまり奇抜なものは実用的ではない。さまざまな案が浮かんでは消え、また浮かび上がる。そして…。
(よしライトニング・ジェネラルでいこう)
我ながら、無難なようで結構いい線いってね?とリクは思った。
まあ、細かい設定は後で詰めるとして、なぜライトニングと呼ばれるのか考えないとな、うん。
「あんたなんて電光石火の逃げ足だからライトニングでしょ」
隣に座っていた女子が、うんざりした口調で話しかけてきた。否、喧嘩腰でツッコミを入れてきた。
なにか失礼なことをやっちゃって怒らしたのだろうか。いやいや、いきなり文句言ってくる位だからビッチ系女子か?無視しようか?「うっせーブス」位は言っといた方がいいのか?
「うっさいのはそっち。いいから静かにしてくんない!」
うるさいだって?そっちの声の方がよっぽどでかいじゃねえか。こいつヤベー。まじでビッチだ。
「私がいってるのは、思考の量の事。そのイタい厨二設定、ぜーんぶ声に出してあげてもいいんだけど?」
「は?お前なに厨二とかいってんの、ハズカシー」
「あっそう。予科生初のテンペリオンさんは、厨二妄想なんてイタいことしないよね。でもジェネラルはやめといた方がいいよ。基本、本科終了しないと階級貰うことなんて出来ないんだから。つまり、あんたみたいな学徒の階級は二等兵以下ってこと」
こいつ生意気だ。見慣れない制服だけど、お前だって俺と同じ学徒じゃん。
「それは残念。特殊兵科は入学と同時に士官待遇なの。一応これでも准尉」
うそだろ。こんな女が士官様なんてありえねぇ。
「私の方こそ、こんなバカが隣なんてありえないって言いたい。イタい厨二設定を強制的に頭に流し込まれる身になってよね」
「感応能力あるなら、そっちでなんとかしてくれ」
「私は後天的にしかたなく身に付いたの。っかしいなあ、本当は動物限定らしいのに。なんでこんな厨二ちゃんの思考が聞こえてくるんだろ。あんたもしかして頭がサル並み?」
キーキーと子供がやるようなサルの物まねをしてみせた。可愛い顔でやられるぶん、悪意倍増でよけいムカつく。
ありえねぇ、こんな女。もう相手するだけ無駄だ。
リクは無視することにした。目を閉じて深呼吸をする。どんな場所でもたちまち寝る事ができるのは、リクの数少ない特技の一つだ。どうせ城は終点だし、寝過ごす事なんてないのだ。
「そうそう、寝てくれた方が私も静かで落ち着く」
…うるせぇ、余計なお世話だ。
そう思ったリクは、城に着くまでふて寝していた。

城に着いたリクは入城の際に班分けの札を受け取り、普段は講義に使われている大会議場に入る。
班ごとに椅子が固められ、天井から釣下った垂れ幕に番号がふってあった。
並んだ椅子は4つ。つまりフォーマンセルがこの部隊の最小編成数だった。
見知った顔が先に椅子に座っていた。
「ありえねぇーーーーー!」
「それはこっちの台詞、なんであんたみたいな厨二と組まなきゃいけないわけ?」
ムカつくあの女が同じチームだった。
座席に集まったチームメンバーのうち、一人はさっきの嫌み女、要守ハヅキ。(特殊兵科/マリオネット1年・准尉)
メガネくんの定義を根本から覆す巨漢メガネゴリラ、岩瀬ウグイ。(一般兵科/導兵科4年・本科生)
両腕に抱えた炸薬式ランスがコワカワイイ小動物系、池野メノウ。(一般兵科/尖兵科4年・本科生)
卒業を控えた上級生が二人もいるのが心強いとリクは思った。
「そしてそして、我がチームのマスコット。おバカザルの沖野リク。えーっと一般兵科の尖兵科1年、予科生ちゃんだそうですよー。私たちの足を引っ張らないでね」
ハヅキは、リクの椅子に貼付けてある登録カードを勝手に剥がし読み上げた。
「お前だって1年生じゃん。この生意気女」
「あんたと私じゃ出来がち・が・う・の」
「まあまあ、君たち1年生で選抜されるというのは、相当すごい事だと思うよ。まわりの班を見てみな、本科生や正規兵ばかりだ」
いかつい図体に似合わず、気さくな雰囲気でウグイが仲裁に入った。
「他の隊は隊長に正規兵、隊員は本科生ってとこかな。うちらはどう決める?」
立てかけるスペースがないため、ランスを抱えたままのメノウが上級生らしく仕切る。ウグイの巨躯ほどもあるランスを持ち続けても、疲れた様子をいっさい見せていなかった。
「階級で決めるなら准尉のハヅキくん。経験なら僕かメノウさんでしょう。ただ僕は優柔不断なところがあるから、隊長はメノウさんかハヅキくんにやってもらいたい。もちろん僕もチームのフォローを惜しまない」
「んー?あたしも面倒いのやだなあ。ハヅキあんた練習だと思ってやりなよ。士官なんだし」
「えっと、俺が立候補するってのはありですか?」
「不可」「それはちょっと」「バカ、立場を考えなさい」
三人一度に否定されたリクは涙目。
ばしっ。
背中にビンタを喰らったリクは思いっきり顔をしかめた。にやにやとメノウがリクの顔を覗き込んでる。身長差があるから覗き込んでいるように見えるだけなのだが。
「痛てぇ〜。何っすかいきなり」
「ニシシシ。1年生で選抜っていうから、どんないい子ちゃんか心配してたけど、あんた面白くていいよ。鍛えてやっからあんたら1年は何があっても生き残れ。ニシシシシ」
「ちぇっ、もう足手まとい扱いですか、俺だってやれますよ」

当時は、メノウのおせっかいにもいちいち反発していたのが懐かしい。
温厚なウグイ、豪放磊落のメノウ、あの時は喧嘩ばかりしていたハヅキ。リクを入れたその4人が、〇一試験部隊における仲間であり家族だった。
だけど、みんなはもういない。
一人ぼっちじゃない。今は、ホタルがいる。ルミがいる。同期の仲間がいる。
それでも、
それでも、もう一度会ってみたい。
「ハヅキ」
リクの呟いた言葉は、モノレールの走行音に紛れて消えた。

そろそろ城の敷地に入るかという頃、緊急を知らせるサイレンが要塞学園都市「普賢鎮台」の各所でうなりを上げた。
「敵襲かぁ?めんどくせ」
「かんべんしろよ。徹夜ゲー明けだっつの」
「ちょっとまじでぇ、きのう髪キレイにしてもらったばっかりなのに」
甲高いサイレンの音とうらはらに、車内はのんびりとしていた。
「どうせ10分もやりあえば逃げてく襲撃厨だろ」
誰かの文句に、同意を示す笑い声が生徒の間に広がった。
学園都市頭上に張り巡らされたレールが切り替わり、リクを乗せたモノレールは最寄りの防衛拠点に向かった。
「まじか、東8番防壁かよ」
進む先を車窓から見たホタルが、端正な顔をさも嫌そうにしかめた。
「行ったこと、あるのか」
「あの辺の防壁は、ここがまだ中世の城だった頃の壁のままで無茶苦茶ボロい。それよりもこのやりあう前からの楽勝ムードがやばい」
緊迫感のない車内を、冷ややかな目でホタルは見回した。
「敵主力が、別の壁にはりついてくれる、ことを…願っとこう」
「ねぇリクぅ、顔色悪いよぉ?」
「お前、調子悪いのか」
「こっ、これ位なんでもな、いさ」
(くそっ、気合入れろよ俺。もう1年も昔のこと気にしたってどうにもならないじゃないかっ)
リクは膝が震えないように、腿に力を込めた。
(あの日以来、土壇場になって戦うのが怖くなる。まったくもって自分の臆病さに呆れ返るッッ)
ちょうどリクの正面に立っている女子は、戦闘後の髪の手入れについて話し合っていた。
終わったら授業フケて、どこそこの店で打ち上げでもやろうと笑いあっていた。
(死ぬかもしれなくて内心震え上がる俺と、すでに戦闘後の事を考えてるこいつら、どっちがまともなんだろな)
その答えは人それぞれで、結局のところ正解なんてないのだとリクは思った。
東8番防壁のプラットホームは、鉄骨がむき出しの粗末なつくりだった。あちこちにシートを被せられた資材が山積みになっており、いかにも修復工事中といった雰囲気。補給部隊らしき学徒が、台車に満載した武器を配っていた。
リクは標準的な7.56mm弾を発射する三五式歩兵ライフルと予備のマガジンを受け取り、制服のマガジンポケットに詰め込んだ。ホタルといえば拳銃と数個のマガジンだけ台車から取った。
「姫、銃はおもちゃじゃない」
「ぶー。僕様だって銃を撃ってみたいのにぃ」
「姫は体が小さすぎるんだ。腕が千切れるぞ」
「う〜っ、いいもんっ、ホタルのいぢわる。危なくなっても助けてあげない」
「それは残念」
ちっとも残念そうでない口調で、ホルスターを腰に巻く。そして懐の隠しから愛用の匕首を抜き出すと鞘を抜いた。
刀剣に詳しい者が見れば、我が目を疑うほどのかなりの業物だった。
「相変わらず、なんつーか、凄みの、あるドスだ、よな」
膝が笑うのを一生懸命こらえているリクが、ホタルのエモノを見て言った。
「わかるか?元はおふくろがさる人物から賜った守り刀だったんだ」
「そんな高級な武器をこんなとこで、使うの、は…、もったいなくないか」
「もったいないもなにも、生き延びるために質のいい武器を使うまでだ。それに、ここを突破されたら首都まですぐだしな」
「だな、家族は大切だ」
「友人も大切だ。リク、お前は補給部隊の詰所まで下がってろ」
「なんでだっ。お、おれなら、へいき、ぜんぜんへいき、だから」
「これでもか?」
人差し指と中指でリクの胸を軽くついた。
小学生だってよろめかない、ささやかな突き。しかし、たったそれだけでリクはヘナヘナとよろめき尻餅をついた。
「くっ」
「お前あの部隊に入ってから、変わったぞ」
「うるさい、俺は、まだやれるッ」
ライフルを杖にしてリクは立ち上がろうとした。気持ちとは裏腹に膝はガクガクと震え立ち上がることができなかった。
「何があった?以前のお前は元気が空回りするくらい調子のいいやつだった。何がお前をそんなにした。リク、俺はお前が…」
甲高いサイレンが短く2回鳴った。交戦に入った合図だ。
ホタルは壁に掛けられた巨大な表示板を見る。
各防壁の戦況がリアルタイムでわかるようになっていた。
学徒たちはこの表示板を見て、戦況を己たちで判断していた。
巨大な鳥籠であるこの学園都市は、攻めこまれ侵入を許したら退路がない。
だからそれぞれが、生存をテーマに自立した行動を取る。各所の防壁に表示された数字は壁の強度や兵数などを客観的に評価した数字だ。数字が大きければ大きいほど鉄壁の守りということになる。
「防備率42か、せめて60あれば、持ちこたえそうなんだが」
リクやホタル、ルミのいるこの防壁は、その中でも最低の数値だった。
表示板に映しだされた防壁の外側に敵群を示す大小の赤い円が迫ってきている。
「脆い所をつく、敵さんもわかってんな」
もっとも赤く巨大な円が、この場所に近づきつつあった。
「くそっ、くそっ、なんで俺ふるえてんだよ。だっせぇ。くそっ」
リクが立ち上がろうとする。それでも、やはり立つことはできなかった。
右腕を失ったあの日以来、実はリクは戦線に立っていない。なんだかんだと理屈をつけて避けてきた。
今日は親友も一緒だから、まだ自分だってやれるかもしれない。
そう一縷の望みを願ってここまで来た。
それなのに、怖かった、泣きたかった、逃げ出したかった。
相棒の死から逃げて、戦地から逃げたその罰が今にして当たったのだと、そうリクは思った。
タン、タタタンターン。タン、タタタンターン。タン、タタタンターーン。タン、タタタンターーーン。
防衛位置に着いた学徒たちが一斉に銃声の戦場コンサートを開いた。
盛大に、恐怖を振り払うかのように。
防壁に張り付いた敵を真上から撃つ。
ぽろぽろと防壁から剥がれるように落ちていくソレ。だが、その数倍もの勢いでワラワラとソレは登ってくる。
無言で、いかなる悲鳴もあげず。威嚇の声すらあげず。しずしずと防壁を這い登る。
「ちょっと、あんたたち逃げなさいよ。こんなに撃ってんのに、なんで登ってくんのっ、くそっ、死ね、死んじまえッッ」
列車内で髪をキレイにしたばかりだと言っていた女子、山井アヤメが撃っていた。
汗と硝煙と激しく動きまわったせいで、結い上げた髪も乱れきっていた。
「あっ」
ヘアピンが外れて、しゅるしゅるとほどけた髪の毛が視界を覆った。
「むかつくッッ」
髪を掻き上げたその矢先、今度は城壁から伸びてきた手がアヤメの視界を奪った。
ぶちん、とか、ごきん、とか、そんな音と一緒にアヤメの視界は空高く舞い上がった。
はるか下には自分の体。伸ばした髪がしゅるしゅると顔にかかって鬱陶しい。
やっぱり伸ばさずに切っておけば良かったなとアヤメは後悔した。
防壁のてっぺんで、長い髪をうねうねくねらせながら誰かの首が空高く上がったのを、冷めた視線でホタルが見ていた。
その場所から、ワラワラとソレが這い上がってくる。
褐色の肌、まばゆく輝く金髪に碧眼。どこかの病的な人形作家が作り上げたニンフェット。
人類が腐雌と呼ぶ何か。
かつては人間だった頃に着ていたのか、あるいは犠牲者から剥ぎ取ったのか、申し訳程度のボロ布で病的な魅力を放つ肢体を隠している。
よくあるサバイバル・ホラーみたく、もっと酷い外見だったらいいのにとホタルはいつも願う。
自分は可憐な(外見だけだが)少女を切り刻んで喜ぶような倒錯者ではない。
「総崩れだな、リクを連れて何とか引きたいところだが」
すでに足の早いチキンたちが、武器を投げ捨てて全速力でモノレールに乗り込んでいた。
まだ乗り込む者がいるのにモノレールは発車した。ぽろぽろと人が落ちていく。
守りきっても、ここは明日も戦場だとホタルは思った。高いところから落ちた人間を掃除するのは楽じゃない。
特にそれが大勢の場合はなおさらだ。
「やれやれ、おかげで退路なしっと、さてどうしたもんかな姫?」
「ホタルが餌になってぇ、僕さまはリクとラブラブ逃避行ってのはだめぇ?」
「かんべんしてくれ、俺がお屋形様に殺される。絶対離れるなと命を承けている」
二人はまったく危機感に陥った雰囲気をみじんも出していない。
ホタルは断固として死を受け入れない瞳。
ルミは生きているのが楽しくて仕方がないというように輝く瞳。
そして、リクはいまだ震えていた。

敵の侵入を許してしまった東8番防壁は、総当りの防衛戦から孤立した小規模グループが籠城して抵抗する膠着状態に陥った。
散発的な銃声があちこちで聞こえる中、ルミが腐雌の間を縫うように舞い踊る。
ひらりと体をかわしては、扇子で腐雌を撫でるように扇ぐ。
ひらり、そより。ひらり、そより。ひらり、そより。また、ひらり、そより。
赤髪のツインテールが、扇と調子を合わせているかのように、ひらひらと空を舞った。
遊んでいるのではない、ルミの目は真剣だ。
と、扇子のそよ風を受けた腐雌が激しく燃え上がった。ルミが持つ舞扇こそ灼溶扇〈しゃくようせん〉という。このそよ風に撫でられた物体は分子摩擦を起こし発熱する。物質の発火点まで温度が上昇すれば火がなくとも燃え上がる。灼溶扇は至宝の工芸品〈アーティファクト〉と呼ばれる品の一つで、ルミをはじめ導兵はみな己の特性にあった品を所有し、戦の道具として使っていた。
銃を持った学徒の何倍ものスピードで確実に仕留めていく。
幼い外見とはうらはらにルミは強い。しかし、敵の数は圧倒的に多い。
あと3人、いや2人でいいから導兵がいたらいいのにとルミは思う。しかしそれは望みが薄いことも承知していた。
普賢鎮台に押し込められた数千の学徒のうち、導兵は100人も満たない貴重な戦力だ。おそらく本陣である城にて待機を命じられているはず。
「はにゃっ」
ルミが足をもつらせて転んだ。
体全体が熱を帯びたように赤く火照っていた。
「ありゃ、こまっちったなぁ」
アーティファクトを使うには、生きる活力である生気を消耗する。高位のアーティファクトである灼溶扇は、並の導兵では触れることもかなわない位、燃費が悪い。
腐雌の群れがルミを遠巻きに取り囲む。すぐに襲ってこないのは警戒しているからだろうとルミは考えた。
褐色の肌をした美しいニンフィット・ドール。虚ろに開く碧眼は何を見て、何を思うのだろう。
彼女たちは人を喰わない、血も吸わない、それなのに殺す。不条理だとルミは思う。こっちは死にたくないから戦い、結果として殺す。仕掛けてこなければ、こっちだって殺さなくて済むのに、なんかズルい。納得いかない。
灼溶扇がとても重い。手放したい位だが、そんなことすればたちまち襲われる。
「…だから銃が欲しかったのになぁ、ホタルのケチンボ」
ふいに取り囲む腐雌の輪郭線がずれた。
散歩でもしているような歩調でホタルが輪の中に分け入った。腐雌はホタルに対して何も仕掛けようとしなかった。
抜き身の匕首をポケットティッシュで丁寧に拭い鞘に収める。
「一人で先に行くからだ」
「ぶぅー。いっつもホタルは文句ばっかりぃ。僕さまだってリクのために頑張れるもん」
「俺のためには頑張ってくれないのか?」
「ホタルは僕さまのために頑張ってぇ♡」両手を上げて抱っこをせがんだ。
いつも妹に振り回される兄のようにホタルは抱き上げた。
「終わったの?」
「こいつらはもう終わってる」
ぼとり、ぼとりと、腐雌の体のパーツが床に落ちていく。後には肉の塊だけが残った。
「さて、打ち合わせ通りにこっちも動くぞ」
「おー!」
工事資材を積み上げた即席バリケードの影から驚愕と賛美と感嘆の視線がホタルとルミに注いだ。
しばしの沈黙のあと歓声とともに立て籠っていた学徒たちが二人を出迎えた。終わりの見えない籠城戦でみな憔悴しきっている。
ホタルはルミを任せても大丈夫そうな女子に声をかけた。
「衰弱が激しい、この子を少し休ませてやってくれ。あと、ここを仕切っている奴と話をしたい」
「アオバ先輩だったら、見張りに立ってると思うよ」
女子学徒はそっとルミを抱き取った。
「その人って見ればわかる?」
「ん、尖兵科の人で大きな戦鎚をかついでるからスグわかるんじゃないかな」
「姫、この人に面倒みてもらえ、俺は話し合ってくる」
「うみゅ〜」
仕切っているアオバはすぐにわかった。
わりと長身のホタルより、さらにひとまわり大きい体。戦鎚を片手でも振り回せそうな肩と腕。典型的なパワーファイターがアオバだった。脳みそまで筋肉だったら、説得がめんどくせえなと思った。
「よぉ、さっきはサンキュな。お前らも増援が来るまで、ここで休んでるといい」
「あんたがアオバか?俺はホタルってもんだ、あんたらは俺と一緒に残存兵を拾って撤退する」
「はあ?撤退だ?てめぇ何考えてる。敵が侵入しちまうだろうが」
「撤退って言葉が気に入らないなら転進とでも言えばいいか?こんなボロ壁守って死ぬくらいなら、壁ごと腐雌の墓標にしちまった方が全滅のリスクが減る」
「墓標って、ぶっ壊すのか」
「工兵経験がある奴をつかって発破をかける。ここらは古い壁だから容易に崩れるだろ」
「俺達が助かっても、その後はどうなる?防壁にデカ穴開けるんだぞ!」
「発破でぶっ壊したって瓦礫は残る。当分はそれでバリケードでも築けばいい。そろそろ首都でのほほんと暮らしている大人たちに仕事を与えてもいい時期だと思わないか?」
アオバは短く唸ると黙り込んだ。
「手はずはどうする?」
「すでに俺のツレが補給部隊の詰所に行ってナシをつけてるはずだ。あそこなら工兵経験者も多そうだしな。発破に使う爆薬もあるだろ」
「まったく、バカバカしい戦術だな」
「もし俺が十騎士生徒会〈テンペリオン〉だったらこんなことせずに、残存兵ごと砲撃でここを潰してる。見ろよ」
表示板の防備率は14まで下がっていた。
「ひでえ数字だ寒気がする」
「わずかな兵の見殺しで、集まった腐雌をとりあえず一掃できるんだ。どのみちここは長く持ちそうもないしな」
「くそっ、しゃーねー。わかった、他の籠城部隊にも無線で連絡を取りつつ合流を図ろう」
「面倒かもしれんが頼む」
「なあ、これを思いついたのはお前か?」
「いや、ツレの方だ」
「防衛戦術のテストでこんな答案だしたら、即効で居残り決定だ。どんなステキな馬鹿野郎だそいつは?」
「沖野リクってバカだが、本気を出したあいつは俺と同じくらい強い」
「信じていいのか?」
「信じる信じないはそっちの勝手だな、だが俺は犬死はゴメンだね」
「お前は嫌味なやつだ、ダチが少ないだろ」
「わかってる。だからダチの期待には応えてやりたいんだ」

東8番防壁は、地上から十階層の構造をもつ石積みの巨大な防壁である。現在のコンクリート製防壁との最も大きな違いは、壁の内部に居住スペースがあることだ。中世の頃、天狼大陸西方の騎馬民族を迎え撃つため、兵士の詰所になっていたという。弓矢と槍が主流だった当時では最高の防御を誇る建造物も、大砲や爆薬を用いる現代においてはいささか心もとない。外側の防壁が柱の代わりに内部の構造を支えているため、砲火で穴でも開けばたちまちにして全体が崩れてしまう欠点があった。古い調度品や埃をかぶった武具がいまだ残されている内部を、リクはただひたすらに地上目指して降りていた。
「くっそ〜。エレベーターのパスワードさえ知ってれば、こんなとこチンタラ降りずに済むのにっ」
ひんやりとしたカビ臭い内部の空気は、長く吸っていると病気になってしまいそうだった。
「ゲームだとこういう場所に強い武器が置いてあったりするんだけどなあ。伝説のアーティファクトとかあったらスゲー。ああ、でも俺は導兵の才能ないんだっけかぁ…」
リクのような尖兵科の学徒は身体能力の増強に秀でている。超人的な反射神経や頑強さを活かした武器での戦闘を得意とする兵科だ。
反対にルミのような導兵科の学徒は身体能力こそ平凡だが、至宝の工芸品〈アーティファクト〉の力を引き出すことができる。
どちらも一長一短の特性があるのだが、まれに両方の特性を持つ者のための兵科がある。
猟兵科と呼ばれる特殊兵科で、学年によっては一人も在籍していない貴重な戦力。それゆえに入学時から士官待遇を約束されていた。踊り子の人形をあしらった紋章付きマントを羽織っていることから、普賢鎮台〈ふげんちんだい〉の学徒たちは猟兵ではなくマリオネットと呼んでいた。
「おっ、これなんかソレっぽいな」
長い年月で黒ずんでしまっているものの、見事な銀細工をあしらった豪奢な長剣が壁に掛けられていた。銘と由来を記したらしき錆びきったプレートも壁にはめ込んである。
ライフルを壁に立てかけ、剣を手に取り柄を握る。柄糸が腐っていて握るとボロボロと崩れ落ちた。柄は刃と一体になった鋳造のようで、いまだしっかりとしていた。
「おおっ、案外とっ、ぬっ、きっ、きっつう。抜けねえ」
鞘を股にはさんで、力いっぱい引っ張った。
「ぬほっ」
前かがみの内股で力んだ結果、姿勢を崩して転びそうになった。
「なんとぉっ」
クルリと体を捻ってたたらを踏む。踏み込んだ床板がギシリと音を立てて沈み込んだ。
床の一部が一瞬で開き、リクの体が突如出来た穴の中に吸い込まれていった。
「みっぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
穴は幸い垂直ではなく、キツイが傾斜になっていた。とにかく止まろうと、握っていた剣も放り捨て手足をつっぱらせた。
「アチィ」
既に勢いがついていて、とても素手では止められそうもない。闇の中をジェットコースター×5の体感スピードで滑り落ちていった。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
前方に光が見える。地上だ。やった!助かった!とリクはそもそもの目的も一時忘れて喜んだ。
「!!!!」
勢い良く飛び出た場所は天井の高いホールのような大部屋。視界の下には補給部隊の腕章をつけた学徒たちがあちこちで輪を作ってトランプに興じていた。
リクはせまりくる床に対して体を丸め、受け身の体勢を取る。
「ほげぇぇぇぇぇっ」
「ぐはっっっっっ」
「あびべぇぇぇぇぇっ」
「ぐにゅぅぅぅぅぅっ」
「ぬがぁぁぁぁぁぁぁっ」
まったく可愛くないむさ苦しいだけの悲鳴がホールを埋め尽くす。
加速がついたリクの体は、ボーリングの玉のようにゴロゴロと転がり続けた。
「ほげらっぱっ」
ほどよい硬さの緩衝材のようなものがリクの体を受け止めた。衝突の衝撃で体中の骨がミシリと軋んだ。普通の人間だったら良くて全身複雑骨折の重症。悪ければ頚椎損傷かなにかであの世行きだ。
「くはー。いってぇ」
いまだ視界がぐるぐると回る。立ち上がることもできず、柔らかなクッションの上に座り込んだままだ。
しばらくするとだいぶ落ち着いてきて、自分がどんな状況なのか把握できるようになった。ヤンキー座りをした学徒が何重にもかさなってリクを取り囲んでいた。
「ワシが上がりじゃってときに、ナニ晒すんじゃボケェ!」
紫色のツンツン頭が、凄みをつけて怒鳴った。
「うひっ!ご…ごめんちゃい」
なんか怖い。補給部隊ってこんなに怖い奴らだっけ?とリクは思った。
支援要員は学徒の中でも尖兵や導兵の選考に漏れた学徒で構成される。担当分野は戦闘支援のほか多岐にわたり、修繕や整備、建築から道路工事にいたるまで大人の手を借りることなく自活できるようになっていた。
とはいえ、こいつらの気迫はあきらかに違う。まるで尖兵科の強襲部隊にいる怖い先輩みたいだとリクは思った。

リクを囲むガラの悪そうな連中との間に沈黙が続いた。威嚇するようであり値踏みするようでもある視線が、降り注ぐ矢のようにリクを射抜く。
怖い。しかし、戦場で命を散らすかもしれない事にくらべたら、それほど怖いことでもない。
自分を落ち着かせるために唾を飲み込んだ後、大きく深呼吸をした。ゆっくりと息を吐くと、気休め程度には落ち着くことができた。
「あ、あのさっ…」
「うっせ、だぁってろ」「動くな糞ガキ」「いま、いいとこなんじゃ」「息すんな、もっぺん死んでろ」
押し殺した声の輪がリクを威嚇する。
(迷惑かけたの俺だけど事故だっつの!ていうか戦闘中に花札やってんじゃねーよ!ああ、もう時間がねえ)
殺意すら感じるような視線で、煮えくり返るような心のなかの苛立ちを表に出せない。
いつまで続くのかわからない沈黙が流れた。
(うう、路地裏でカツアゲされてる俺って感じ?)
ブゥッ、ブゥ、ブブーーーーッ。突然、茶化すように下品な音が鳴り響いた。
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
リクを囲む怖い目に閃光がほど走った。
「お、俺じゃナイデスヨ」
中腰になっている者もいて、今にも襲ってきそうでコワイ。
「くっそー。2分いかなかったっ」
「げへへへへ勝っちまった」
「終わった…全財産が…アハ、アハハハハハ」
さっきの沈黙が嘘のように賑やかになる。浮かれている者、ヘコむ者、現実逃避をする者までいた。
置いてきぼりを食らったリクはぽかんと眺めることしかできなかった。
ぼんやりしていると背中に硬いブーツの踵が肉に食い込んできた。
「いって!なにしやがるっ…んですかっ」
振り向くと、さっきの紫ツンツン頭が見下ろしていた。
「…ッ!いつのまに」
「だせぇ、尖兵様が補給隊に後ろ取られてんじゃねーよ。ほら、いいからここをどけ」
ダルそうにクッションを踏みしめる。ボヨンボヨンと振動でかすかに波打つ。
「へ?」
「だぁかぁらぁ、お前が乗っかったままだと後がめんどくせんだよ。早く降りろカスがぁ」
ドン!苛立ちを表すように、乱暴に踏みしめた。
「なら、おめーもどけ、ダァーーホ」
横殴りの突風がリクの目の前を突き抜けた。ツンツン頭が視界から一瞬で消える。
べちゃ。
ツンツン頭が壁に叩きつけられたかのように張り付いた。
浮かれていたヤンキー学徒どもがピタリと静かになった。
「あれくらいでウチのはやられねぇえよ。いつまでてめーは人様ん上に乗ってんだ?ああん?」
クッションの山が動いた。飛び込んだ時にまき散らした毛布やら外套が、リクと一緒に床へ落ちた。
「てめえ、オレのことデブって思っただろ?」
なに食ったらこんなにデカくなるんですか?という男がリクの頭上からドスを利かせた。身の丈は3メートルとはいかなくても、2メートル半はありそうだった。さらに横幅もデカかった。肩幅などはリクの4人分以上、腰回りにいたっては計測不可能。つまりは超デブの超大男だった。
「いや…めちゃ大きいなぁって思っただけで…」
言葉を濁す。うっかりヅの次とビの次つまりはDEBUと発音すれば、あの丸太のような腕で壁に叩きつけられるのかもしれない。逆らったらまずいかもしんないと、リクの生存本能が全身全霊で警報を発令した。
「めちゃ大っきいだと!」
「ひっ」
(ごめんホタル!俺の人生ここで終わったわ)
「だろ、そう思うよなっ!俺はめちゃ大っきい人なんだよ。おめー頭わるそうな割には人を見る目があるのな」
「たはははは…」
「おいヤスミネ!伸びてねえで、客人に椅子持って来いや」
「…ヘイ」
壁に叩きつけられた紫ツンツン頭が起き上がった。多少のスリ傷はあるものの目立った外傷は見当たらない。
先ほどの連中の迫力といい、デブの腕力、そしてヤスミネのタフさはどう見ても補給隊員というより尖兵の特性そのものだった。様子からしてこのデブが隊長格なのだろう。
早くしなければ。リクは本題に入ろうと静かに深呼吸をした。

用意された椅子は、背もたれのない質素な木製の丸椅子だった。
頭上から見下ろすような視線を感じる中、ゆっくりと腰を下ろした。もてなされて椅子に腰掛けるというよりも、まるで尋問か拷問のために無理やり座らされるようだとリクは思った。
「実は俺が降りてきたのは理由があって」
「だははは、みなまで言うな。あれだろ、戦場がいやになって逃げてきたか。大方、大昔の罠にでも引っかかって転がり落ちてきたんだろうが…」
思わせぶりにヤスミネと呼んだツンツン頭を睨んだ。
「いくら儲けた?」
「は?」
「俺が目を回していたのに助けもせずになにしてやがったと聞いてるんだ」
「す、すいやせん兄貴、みんなで何分で息を吹き返すか掛けねえかって話が自然にまとまりやして」
「ったくしょうがねえ連中だな、てめえらは」
ぷくぷくに肉がつき脂ぎった左手をヤスミネに突き出した。
「俺も体張ったんだから分前よこせ。それで上官への不敬罪は見逃してやる」
「分前といわれやしても」
「こういう時は、お前が率先して胴元やってんのはお見通しなんだよ」
急かすように、くいっくいっと左手の指が動いた。
「まだ分けてもねえ状態なんで、もうちょっと待ってもらえやせんか」
「全部だせや。フルチンで腐雌の真ん前に放り投げるぞコラ」
リクは自分の切り出す要件も忘れ、脂ぎった手のひらにしぶしぶと積み上げられる紙幣の山を見た。
ほくほく顔で札を数える様は、規律正しい学徒というよりマフィアの親分みたいだった。
「うちもよ、ガラは悪いかもしんねえがよ。怪我はあっても戦死はあんまねえからよ、尖兵がしんどいならここでやってみっか?」
「いや、まってよ。俺は脱走したわけじゃなくて、頼みたいことがあってきたんだ」
「頼みだと?うちはランチの出前はやってねぇぞ」
どうやらそれは補給部隊内のジョークらしく、下品な含み笑いがあちこちの隊員からもれた。
「だからそんなんじゃなくて、上が撤退すると同時に防壁を爆破して欲しいんだってば」
くすくす笑いがホール全体に響く大爆笑に変わった。
「だははははははっ、守備任務の尖兵が、てめえの持ち場、ぶはははは、ぶっ壊したら世話ねえ。だはははは」
「笑うなっ、俺は本気だ。こんなボロ壁守るために命をかける必要なんてないんだっ。生きてれば、明日になれば、何かなしとげられたかもしれないのにっ。こんな階下で花札やってるあんたらに、命張ってる俺達の気持ちがわかってたまるかよ!」
「言うじゃねえか、このガキはよ!だはははははっ」
ノーモーションで繰り出されたジャブがリクの鼻下にヒットした。たまらず丸椅子から転がり、背中から石畳の床に落ちた。
「ばびずんだよっ」
だらだらと流れ出てきた鼻血のせいで、鼻が詰まった時のような声になった。
「乱戦の最中でも弾切れ起こさないですむのは、だれのおかげだと思ってやがる。今だって、こうして弾届けに上がってんだ。みろっ」
飛び込んだときには死角で見えなかった台車の影に、応急処置を受けて横たわっている隊員が何人もいた。
「この東8番島田倉庫はなあ、俺達はんぱもんの家みたいなもんだ。てめぇがボロだっていうこの壁はなぁ、俺達の居場所なんだよ。居場所を守るのに命かけてナニが悪い、ああん?」
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ…。俺が悪かったよ。すいません…」
身を投げ出すような勢いでリクは土下座をした。
「でもっ!俺はまだ死にたくないですっ!何度だって繰り返すけどっ、上にいるやつらだって今日生き延びれば、明日いいことあるかもしれないし、何かやり遂げられるかもしれないんだっ。だから…だから俺と一緒にここを爆破してくださいっ!」
「バカかてめえはっ!自分の居場所をはいそうですかと壊す間抜けがどこにいるっ。今度は本気で殴るぞてめぇ」
「いいよ、好きなだけ殴ってよ。もういいから。もうあんたらの力は借りない。そのかわり爆薬は貰っていくからね」
「けっ、ド素人が扱えるもんじゃねぇえぞ。やれるもんなら、せいぜいテメェをふっとばさないようにやってみな」
超デブの男はドスンと仰向けに寝転がった。寝息とともに重量級の肉の山がわずかに上下している。
「寝るのはえっ!」
(こんな奴らを頼ろうとした俺がバカだった。バカバカよく言われるけれど本当に俺って大バカだ)
立ち上がり膝についた埃を払った。あれほど出ていた鼻血は尖兵の高い回復力でもう止まっていた。
「ねえ、爆薬の保管場所ってどこ?」
紫のツンツン頭。たしかヤスミネだったか?と名前を思い出しながら尋ねた。
「ヤスキの兄貴は黙認はしたが、手伝うとまでは言ってねえ。だから俺たちも手は貸さね。てめえで探せ」
「んだよ。もういい!勝手にやらして貰うからな」
床の隅に、上層階で手にとった古ぼけた剣が落ちているのを見つけた。
リクのライフルは上層階の壁に立てかけたままだ。新しいライフルを支給してもらおうかと思ったが、こんな事のあとでは具合が悪かった。仕方なく丸腰よりはましだろうと鞘の抜けない古ぼけた剣を拾った。

「くそぅ、無駄に広い倉庫だな。どこだよ爆薬ってのはよぅ」
搬入、搬出が容易な防壁1階出入り口のそばが、備蓄物の倉庫になっていた。
場所はすぐにわかった。ホールから備蓄倉庫まで台車の往復でできた跡がくっきりと道案内の線をきざんでいたからだ。
「んー。ここさっきも通った気がする」
さまざまな武器、弾薬、軍隊糧食が詰められた木箱が整頓され、整然と棚に並んでいた。
どの列も同じ様な作りで、どこまで探したのか把握することすらむずかしい。
棚の一角には真新しい銃器が詰まった木箱もある。愛用する三五式歩兵ライフルの箱もあった。
さりげなく通路の前後をうかがう。人影ひとつ、物音ひとつなかった。
「…ライフル、貰ってっても怒られたりしないよな?非常時だししょうがねぇ、臨機応変、現場の判断ってことで」
錆止めの油紙にくるまれた真新しいライフルを木箱から抜きとった。
抜き取る時にクッションがわりに詰められていたおが屑を払い落とすと、杉の木のいい匂いが漂った。はやくも油紙の隙間からは切削油の臭いもする。
「くはー、これこれ、これだよ新品の銃の香り。支給ライフルなんかじゃ誰かの手垢の臭いばっかりで、めったにありつけないもんなあ」
思わず頬がゆるんだ。
「あのぅ、先ほどの尖兵科の人ですよね?」
突然背後からかけられた誰何の声。リクはせっかくの新品のライフルを石畳に落とした。
「どしぇーっ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。俺ライフル置いてきちゃって、ぶぶぶぶ武器ってもこのボロ剣だけだし、だから一丁くらい貰っても別にいんじゃねって思ったりして、だからえっとそのぉ、ごめんなさい!もうしませんからライフルくださいっ!」
腰をきっちり90度に曲げ、このとうりと言わんばかりに両手を合わせたお願いポーズをとった。
「えっ?えっ?えっ?あの、ちょっと僕ではわかりかねます。正規登録の予科生ではまだないので」
「正規登録じゃない?」
顔をあげると多少あどけない感じの少年がどぎまぎと立っていた。白シャツに濃緑色のベスト。黒いズボンと戦闘向きでないローファーの革靴。胸には中等部の生徒を示すワッペンが縫い付けてあった。
「なんだ、おどろかせんなよ。中等部ってことは実習生か?なつかしいなあ。進学先は支援要員か?
「あっ、ごめんなさい。僕いてもいなくてもわからないくらい影の薄いやつってよく言われてるんです。本当は尖兵科希望だったんですけど、教導生の人がお前はびびりだから向いてないって、それでも希望だしたのに勝手にここの配属になっちゃったんですよ。ひどいですよね」
「たははは、実習で怪我なんかさせらんねえからさ、ナニ書いても無難なとこにしかいけねえって。おれなんか清掃隊配属で1ヶ月便所掃除ばっかだったんだぜ」
「でも、でも、いやなんですっ。この隊の人はみんな不真面目で、なにかと賭け事ばっかりで。僕だってみんなのために戦いたいんです。おねがいしますっ、さっきの話を聞いていたんです。僕も連れてってください」
「そりゃ無理だ。お前の面倒はあのデブがみてる。勝手に連れ出せねえよ」
「僕だったら爆発物の保管場所わかりますよ?たぶん先輩じゃあ、見つけられないんじゃないかなあ」
「ううっ、ソコはここから遠いのか?」
「それほど離れてるわけではありません。誘爆や延焼を防ぐために小分けして管理してるんですよ。あ、棚にわかりやすく並べてるわけじゃないからそのつもりで」
「お前、上級生相手に取引すんのかよ?」
「僕はここの人達と違うって事を証明したいだけなんです」
「ちぇっ、わーったよ手伝ってくれ。そんかわり危ない真似はさせねえから、武器も持たせねえ。それでいいか?」
「ありがとうございますっ」
「俺は高等部尖兵科2年沖野リク。お前は?」
「中等部3年金白チヒロです。尖兵科を志望しています。案内します。こっちにありますから」
「おう!しかし中3年ってことは年末に振り分けか、大変だな」
「あの、クラスの人から聞いたのですが、振り分けで死人がでるって本当ですか?」
「あぁ、俺も3年の時に噂聞いてびびってたんだけどさあ、振り分けじゃあ死人はでねぇよ」
「よかったあ」
「でも出るかもな、その後に」
「え?」
「年末に振り分け検査あるじゃん。その結果で尖兵か導兵か、あるいはどっちも向いてないかがわかるんだけどさ。落ちれば支援要員として春の進学までのほほんとしてればいい。だけど受かっちまったら薬物投与だ。特性を伸ばし強化するために、体を作り変えるんだ。すっげえ副作用で俺も病院で寝たきりだったな。春休みどころじゃなくってさ。そんとき、たまに死人も出るって話だ」
「ええっ?」
「なあ、それでも前線に立ちたいか?死ぬ思いで薬物に耐え、進学後はしんどい訓練が毎日あるんだぜ?しかも実戦になれば真っ先におっ死ぬかもしれない。それでも尖兵になりたいのか」
「なりたいですよ!なってみせますよ!僕の両親はあいつらに殺されたんだ!僕の住んでた町はもう…」
「そっか、チヒロも戦災孤児か」
「沖野先輩もですか?」
「リクでいいよ。俺の場合まだ赤ん坊だったんだ。壊滅した沖野町の捜索で発見されたらしくてさあ、孤児院がわりにそのまま普賢鎮台〈ふげんちんだい〉に押し込められた。リクって名前は後で自分で考えて登録したんだ。へへへ、だってよぉ役人が付けたのは沖野タロウだぜ?犬じゃねぇんだ。タロウはないよな?」
「いきなり会話のハードル上がったんで、どうリアクションすればいいか困っちゃいます」
「笑ってくれればいいんだ、ひでぇなって。こんな話なんか今時どこにでも転がってる。よくある話さ」
「あ、リク先輩ここです。床に黄色いテープ貼ってますよね」
「おおっ、最初に通ったとこだ」
「ここを引っ張るとっ、収納が出てくるんです」
床下から黒く塗装された鋼鉄製のラックがせり出した。観音びらきの扉を開けると、C4のほのかな甘いアーモンド臭が漂った。
「起爆用信管はあっちにありますから取ってきますね。あそこの台車使っちゃっていいですから。あと発破作業用にドリルもいりますね。石壁に穴を開けてC4をつめ込まないと。あれ、リク先輩どうしたんですか」
「いや、俺よりすげえ専門家ぽくてさあ、話の半分も理解できなかった。穴掘りがどうするってよ?」
「尖兵科の支給教科書に書いてある内容だったはずなんですけど?」
「たははは。いや、俺は理論より実戦に強いタイプなんだ。でもすげえな、中3でもう高等部の教科書読んでるのかよ」
「図書館に行けば上級生用の教科書も閲覧できるんです」
「お、おう。そういえばそうだな、うん」
(そうだったのか、あんなところ行こうと思ったこともなかったしなあ)

「これが信管とケーブル。起爆装置は無線式ですけど万が一の時には有線でもできるようになってます」
チヒロが防水加工を施した黒いバッグを開いて中身を見せた。
「すげえ助かったぜ、誰も俺を相手にしてくれなかった中、ここまで協力してくれてありがとな」
「と、当然じゃないですか。僕だって普賢鎮台〈ふげんちんだい〉の一員ですよ」
チヒロが照れながら起爆用ケーブルを台車に載せた。少しの間リクは何かを考え込んでいるようだった。
「あのさ、感謝してる。だけどさ、やっぱお前はここに残れ」
「なんで、リク先輩は連れてってくれるって言ったじゃないですか。あれって嘘だったんですか!」
「ああ俺は嘘ついた。エレベーターのパスワードも教えてもらったし、爆薬も手に入れた。お前にもう用はねえ。逃げろ、すぐに!」
「なんで?リク先輩もそうやって僕を役立たずって決めつけるんですかっ?」
「お前みたいなひょろっちぃのを本当に連れてくと思ったか。めでたいやつ」
「騙したんですか!先輩、あんただけはあいつらと違う立派な人だと思ってた!」
チヒロは大きく腕を振り上げて、積み込むはずだった最後のケーブルの束を叩きつけるようにリクに投げつけた。非力な少年が投げたそれは緩やかな弧を描きリクに迫った。
「へぶしっ」
重いケーブルの束を顔面に受け、リクは仰向けに倒れた。
「もういいです!さよならっ」
チヒロのローファーが石畳を蹴る音が遠のいていく。音が微かに聞こえるか聞こえないかになったころ、リクはようやく身を起こした。
「いちち、本日2度めの鼻血かよ」
乱暴に制服の袖で血を拭う。今朝、袖を通した時はそれなりに綺麗だった制服も、転げ落ちたり、埃にまみれたりでよれよれにくたびれていた。
ケーブルを抱え上げて台車に積む。
(これでいい。あとは素知らぬ顔でエレベーターに乗り込めば、チヒロとの関わりも一切なくなる。これでいいんだ、俺は正しいことをしたんだ)
リクの足元にポタリと雫が落ちた。一粒落ちると歯止めが効かなくなって、ボタボタとこぼれていく。しばらくリクは声を押し殺して泣くのを自分に許した。台車の握りに額を押し当てて、涙腺から絞り出すように涙をしぼり出した。

リクがエレベーターホールに入った時、東8番島田倉庫の補給隊の面々は、何事もなかったかのように博打を再開していた。一方でエレベーター前に並んだ台車の列が上層階に吸い上げられていく。入れ違いに降りてきた隊員たちは疲労困憊か、負傷しているかのどちらかだった。ある者は崩れるように隅で横たわり、またある者はふらつく体で博打の輪の中に混じっていく。それは奇妙な光景だとリクは思った。
(敗色濃厚なのに、なんで運び続けられるんだ)
あちこちで花札に興じる隊員の中から、刺すような視線があった。どこの輪とも交じろうとしないチヒロが、リクを睨んでいた。その目がたったひとりの理解者を失ったことを思い知らせていた。
(行くも地獄、引くも地獄か…上等じゃん)
むしろ今の状況のほうが、誰も巻き込まないですむからいいとリクは考えた。守るべきものを壊す。それは、たぶん重罪だ。それでも犬死にを増やし続ける今よりもましだろう。どうせ罪に問われるなら、今から嫌われたってかまわない。
「はいはい、どうもお邪魔さまでしたよっと!」
リクの憎まれ口に何人かが反応して顔を上げた。アイツまだいたのか、目がそう言っているように感じた。たちまち周囲からの感心を失ったリクは空気同然の存在になった。
上層階に昇っていったエレベーターが降りてきた。
金属が軋む音を立てて扉が開く。先頭の台車が動くよりも早く、リクは台車を割りこませた。
「悪いんだけどさあ、俺もこれに乗せてってもらっていい?真ん中くらいの階で下りたいんだけど」
しかし、リクはエレベーターの中に入ることが出来なかった。
ほっそりとした手がリクの腕を握った。小さな、そして冷たい手。この感触には覚えがあった、嫌になるくらいに。
反応する前に、腕を力任せに取られたリクは宙を舞っていた。力任せに投げられたんだと気づいたのは、部屋の石壁に背中を打ち付けた後だった。
「ヤベェ!」
誰かが叫んでいた。ヒタヒタぷらぷらと散歩するような足取りで、ボロを纏った少女の一群がエレベーターから吐き出されるように湧いて出た。滑らかな褐色の肌に、いくつもの黒々とした銃痕が開いていた。血は流れでていない。金髪、碧眼のニンフィット。まぎれもなく腐雌だった。
「くそっ、入り込まれていやがった」
エレベーターの内側に、赤黒いものがぶち撒けられているのをリクは見た。おそらく中にいた隊員は…。
途端に膝が笑い出した。
「こいつらを出すなっ。奥のデカイの〈支援機関銃〉もってこい!ぐはっ!」
無邪気に振り回した小さな拳によって、誰かの頭がへこんだヤカンのようになっていた。
リクは動かない。動きたいのに、前線で体を張らなきゃいけないのに体が気持ちをまた裏切った。
動かせないのは本当だろうか?
心の奥では、自分だけ助かりたいと思っているのではないだろうか?
だから体が動かない。
怖いことはもう十分だ。
(ちがう、それはちがう。だって俺、尖兵科辞めたくないっ!)
リクは湧き上がった疑問を全身全霊で否定した。
「ちっくしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
しかたがないと諦め、言い訳を続けてきた自分に活を入れるように、思い描く自分に近づけない苛立ちを吐き出すように腹の底から振り絞るようにして叫んだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
そこにもうひとつの叫びが重なった。
デッキブラシを振り上げたチヒロが腐雌目指して突進していった。
素人にありがちな腕の力だけで叩きつけた一撃はひるませることすらできなかった。
ぼんやりとした表情のまま、花をむしり取るような無邪気さでチヒロに手を伸ばした。
「あああああああああっ!」
チヒロの雄叫びが悲鳴に変わった。
身を守るために突き出したデッキブラシを、腐雌は幼児のように握る。飴細工が壊れるような音を立てて、デッキブラシは握り壊された。
「だっ、誰か!あいつを助けてやってくれ!」
リクは助けを求めて声をはりあげた。乱戦で混乱したホールでは、誰もが自分のことで手一杯だった。
「リ、リクさん!ぼくは、ぼくっ、うわ、うわあああっ」
腰を抜かしたチヒロに、ボロ布を纏った少女が覆いかぶさった。
ふいにあの時の記憶が呼び起こされた。
筋肉が裂ける音、肋骨が割れる音、肺が潰れる音。勢い余った腕が、命の断末を奏でながら華奢な体を貫通した。
『………バカっていうな』
そう言った後、満足そうなため息をついて大切なあの人が死んでいった。いや自分が殺したのだ。
リク自身の過ちの記憶。過去の罪、この先も許されない罪。
(見殺しにするのは、自らの手で殺めるのと同じじゃないか。自己憐憫かもしれないけれどっ、もう俺は後悔なんてしたくない!)
「おまえら人の家に押し入って好き勝手やってんじゃねえよ!」
ズボンのベルトに挿し入れていたボロ剣を構え身を起こした。予備動作もなしで飛斬〈ひざん〉を放つ。1年近く使っていない剣技のため、ぶっつけ本番で上手く出せる自信はなかった。それでも剣風が乱戦で巻き上がった埃を一直線に切り裂いた。
たったひとなでの風が、射線上にいた腐雌の肩や腕、頭部、胴体、腰にいたるまでキレイに切り落としていく。さらに味方を巻き込むことなく腐雌だけを肉塊に変えていった。
「ありゃあ、全盛期の兄貴よりキレイにぶった斬りやすねぇ」
両腕を失った紫色のツンツン頭がひょうひょうとした口調で言った。ヤスミネだ。色とりどりのコードがちぎれた袖口からぶら下がっていた。
大切な義手は乱戦の最中に壊れてしまった。まあ、ガキんちょ一人の代価だと思えば安いもんだ。そうヤスミネは思い直した。
足元には腰の抜けたチヒロが座り込んでいる。
「あ、あれ?ぼく、今さっき腐雌に襲われたのに?あれれっ?」
「礼ならあのリクって奴にいいな」
マジ助かったわと、ヤスミネは胸の中で付け足した。リクの叫びを聞いてチヒロを助けようと縮地〈しゅくち〉で割って入ったまではよかった。あの腐雌と格闘した際にヤスミネの両腕は壊されたのだった。
やばいと覚悟したときにリクの飛斬である。
そのスキにヤスキ隊長が超絶的な肥満体ににあわない縮地〈しゅくち〉でチヒロをつまんで、混乱が及んでいないホールの隅まで連れて行ったのだ。
「兄貴ぃ、また無理して知らねえっすよ」
「ばか言え、ダイエットすりゃあ今だって20匹くらいまとめて切ってやるよ」
「そりゃあ無理っしょ。だって兄貴は引退してからぶくぶく肥えっぱなしで、今や立派なデ…」
最後まで言い切ることなくヤスミネはヤスキの脳天チョップをくらい白目をむいて悶絶した。
「おっきい人だ!アレなんかじゃ絶対ねぇ。なっ!」
迫力に満ちたウインクに、ただチヒロは無言で何度も精一杯頷いた。
「俺を含めてこの隊の半分近くはよう、あのリクと同じ尖兵出身よ。それもとびっきり腕の立つな。戦場を縮地〈しゅくち〉で駆け、さっきの飛斬のような達人技で戦局を変えていったのよ。誰よりも強ぇって自他共に認める分、難しい任務がまわってくる。そのせいで時には再起不能なくらい重い傷を負っちまう。諦めきれずに俺はまだできるんっだって復帰してもよ、体が不自由になっちまった尖兵には引退するしか道はねえのよ。ここはよ、そんな負傷兵が最後にたどり着くとこよォ」
「隊長が尖兵?」
チヒロが信じられないと、まじまじとヤスキ隊長を見た。
「おうよ、これでも現役の頃はすらっとして、結構な肩書も持ってたんだぜぇ。ガハハハハハ」
「隊長、僕もリクさんのように慣れるんでしょうか。さっき酷いこと言っちゃいました」
黙々と剣を振るうリクを、少年特有の純粋な憧れの目で恥ずかしがることもなく見ていた。
「そりゃあまず振り分け検査次第だろよォ。まあ実際の尖兵のほとんどは、己の身体強化に無意識で使っている生気をコントロールできず銃器に頼りっぱなしでよォ。おかげで補給部隊は飯の食いっぱぐれがねえ」
リクが最後の群れ目掛けて剣を振る。やはり誰も傷つけることなく腐雌だけが肉塊に解体された。
「飛斬〈ひざん〉はな、生気の一部を剣に乗せて飛ばすのよォ。破壊できるのは生身だけだが、相手の波長に合わせることで目標を選択できる利点があんのよ。しっかし、複数をやすやすと同時切りか!」

手際のいい屠殺師が解体したような肉塊がホールの石畳いっぱいに散らばった。リクひとりだけが喘ぐような息をしていた。
補給隊全員が信じられないものを見るようにリクを見た。そして交互に周りのヒクヒクと動く肉塊を見る。信じていいのかためらうような沈黙の後、さっきまで殺気立っていたホールに歓声が上がった。
「ゼェ、ゼェ、ゼェ、ん?な、なに?なんか起きた!?」
剣を振るうことに夢中だったリクは、急に沸き起こった歓声に戸惑った。
「おめぇーが起こしたんだろ、たわけぇ!」
親しみを込めてヤスキがリクの背中を平手で叩いた。
「いってぇぇぇぇぇぇぇっ。なにバカ力で人の背中叩いてんだよ!んなことしなくたって出て行くよっ!」
リクは長剣をベルトに挿すと騒ぎでひっくり返った台車を起こし、散らばったC4の包みを拾いだした。
チヒロが散らばったコードを拾い上げる。それが合図だったかのように補給隊の面々も自分たちの片付けをそっちのけで手伝い始めた。
「ったく黙って行かせりゃせいせいすんのによォ」
ヤスキはまだ伸びているヤスミネに活を入れた。
「ばあちゃんそれ堪忍じゃあ!あ、あれ?兄貴?おはやうございやす…じゃねぇ、ひでぇっすよ。俺、死んだばあちゃんと、すげぇ久しぶりに話してたんすよ?」
「ふん、孝行ができてなによりだ。ところでよぉお前は撤収を仕切れ」
「…やんねえと思ってたんやすけどね。そりゃどういう風の吹き回しで?」
「エレベーターまで侵入を許したってことは、いよいよここもダメってこった。それによあんなの見せつけられて、知らぬ存ぜぬ決め込むんじゃあ寝覚めが悪い」
「俺たちゃ元尖兵、今はしがない補給隊でやすよ?」
「お前もアレ見て胸にくるもんあっただろうが」
「まあ、銃ばっかに頼ってる最近の尖兵にしちゃあ、気合いが入ってやすね」
「あそこまでの使い手はなかなか育たねえもんだ。いい戦力になる。じゃあな」
ヤスキ隊長は工兵経験のある隊員をかたっぱしから集めだした。
「あいつは死なせたくねぇって言えばいいのに。素直じゃないね、うちの隊長も」
鼻の頭をかこうとして、両腕とも逝ってしまった事に苦笑する。
「どうも不自由でいけねぇな。おいシゲ、班長集めて俺んとこ集合させろ!」
撤収は負け戦である。はなから籠城戦に特化した普賢鎮台〈ふげんちんだい〉では、壁の防衛失敗は非戦闘区域の侵入を許し壊滅されるかもしれない。それは学園都市全滅につながる恐れすらあった。
だというのにヤスミネは負ける気がしなかった。それどころかこの先の展開が楽しみですらあった。
(死ぬんじゃねぇぞ2年坊主)
ヤスミネは集まった班長を前に撤収の指示をくだした。

「あの、リクさん、これ」
おずおずとチヒロが差し出したコードの束を、リクはニカッと笑って受け取った。
「おっサンキュな!お前どっか怪我ないか?まだ無理すんなよな」
「僕、リク先輩に謝らなきゃいけないと思って。僕みたいなのが行ったら危ないから付いてくるなって言ったんですね」
「いんだよ、そんなことはもう。俺もきちんと伝えればよかったって反省してるしさ」
「もう連れてってほしいなんて思いません!」
「そっか」
「そのかわり僕が尖兵科に入ったら稽古をつけてください!さっきのリク先輩むちゃくちゃカッコよかったです」
「ああ、待ってる」
上級生らしき隊員がリクの手からコードを取り上げた。他にも何人もの隊員がリクの台車から別の台車へ爆薬を小分けしていた。
「2年坊主、上にいってお前を必要としてる連中を助けにいけ」
ヤスキ隊長が巨体を揺らして台車を引いていた。なんだか台車が幼児のおもちゃのように見えた。
「えっ、手伝ってくれんの?」
「発破なんて緻密な仕事は俺たちにまかせとけ、ていうかお前、上がってどこに仕掛けるつもりだった?」
「なんとなく真ん中で爆発させればいいかなって。てへっ」
「はぁ、お前にやらせなくてよかったわ。エレベーター使わせてやるから上いってこい。今から30分後には爆破するようにしとく」
「まじで!よっしゃー。みんなの援護に行ってくるよっ」
根が単純なリクはそれだけで喜び勇んだ。さっきまで息が上がっていたのに、準備運動すらはじめている。
「まてまてまて、お前さ名前なに?」
ヤスキ隊長がリクを呼び止めた。
「あ、オレ尖兵科2年の沖野リクっていうんだ」
「尖兵科4年獅子堂ヤスキっちゅーもんだ」
「尖兵科4年!?、補給隊って後方支援だから普通学科じゃなかったの?」
「ここは負傷して前線に出られなくなった落ちこぼれの吹き溜まりよぉ。ちょっとでも戦場の近くにいたい奴らが女々しくしがみついてんのさ」
そう言ったヤスキ隊長は自嘲して笑った。
「それさ、たぶん違うと俺は思う」
「ああん?」
「いっつも危ない中を走り抜けて物資を届けてくれたじゃん。あんなにボロボロになって、それでも駆けずり回って。俺、ここに来るまで補給隊のこと知ろうとも思わなかった。だからみんなの分も礼を言うよ。ありがとう、俺たち、あんたらのおかげで頑張れてたんだ」
「ふん、そう言って前線でバタバタくたばってるんじゃあ世話ねえな」
「それでもやっぱり、ありがとうって言わせてよ。んじゃあ俺、行ってくる」
気を利かせた隊員がエレベーターを開けておいてくれていた。中に入ったリクは、飛び散った惨殺の痕跡を極力意識しないようにした。今、膝が崩れる訳にはいかない。
「行ってきまっす!」
リクは見送る補給隊の面々に仁王立ちしてピースサインを決めた。
エレベーターの扉が閉まる。
いざ、ホタルとルミが待つ戦場へ。
「ごめんハヅキ、俺はまだそっちに行けないわ」
リクはぎゅっと、鞘が抜けない長剣の柄を握りしめた。


柔らかな午前の光が防壁頂上部を包む。平時であればさぼりの生徒が溜まっている東8番防壁も、ところどころ骸が転がる無残な場所に成り果てていた。リクが補給隊の支援をなんとか取り付けた頃、ホタルとルミが潜り込んだ部隊は、大方の部隊と合流を果たすことができていた。残るは防壁中央部で孤立した部隊の救出だけだった。
なりゆきで撤収部隊の隊長をやっている尖兵科3年栗原アオバは、自分の強さを信じている人間だった。厳しい鍛錬を積み、激しい戦で何度も死線をくぐりぬけてきた。姉ほどではないにしろ、自分に勝てる学徒はそうはいないだろうと思っていた。
その自信が少し崩れかけている。
2年生の夢想ホタルに蛇塚ルミ、そこへもう一人の登場である。下級生にこんなにも手練がいたとは思いもよらなかった。
ついさっき合流したばかりであるこの少女は人を探していると言っていた。
特殊兵科を示すセーラー服に人形の踊り子を刺繍した略式マントの出で立ち。戦場をかければ頭頂部でまとめ垂らしたポニーテールが生き物のように走って見えた。ターンに合わせて黒地のプリーツスカートが花のようにふわりと咲いた。
可憐な手が握る得物は普賢鎮台〈ふげんちんだい〉の学徒が好む直剣ではなく反りのある刀である。
なでるように振るう剣筋はとても柔らかい。一体づつ確実に首と胴を切り離していく。
「閃架樹〈せんかじゅ〉に命ず、穿て」
少女が髪に挿した銀のかんざしを抜き宙に投げると、小剣ほどの大きさになり三つに分身した。かんざしの時はかざりの部分だった枝状の羽が開き赤く熱を帯びた。先端から閃光が走り、光に撃たれた腐雌がたちまち燃え上がった。
尖兵能力による白兵戦の剣技と、導兵能力によるアーティファクトのレーザー。
マントの紋章から通称マリオネットと呼ばれる猟兵科の学徒は、二つの能力を駆使して戦う。
この少女は遠近共に対応できるオールレンジの戦闘能力が売りなのだろう。
「姉貴に追いつく前に、オレが抜かれてんじゃん。ったく最近の下級生は化物じみてんな」
《※2013.8.30※》
少女の眼前に4体の小さな腐雌が群れていた。このグループを殲滅できれば、中央に取り残された部隊の退路が開ける。
「あなた達がどこから現れ、何を目指しここを突破しようとするのかわかりません。けれど、私にも守らなくてはいけない人がいるんですっ!」
少女が刀を振りかざす。
4体の腐雌は、もともと焦点が合っていないような虚ろな瞳でぼうっと虚空を見つめ続けていた。
【カエリタイ…】
「え?」
声が聞こえた。目の前から。
「まさか腐雌がしゃべった?」
動揺した少女の心とは別に、よく訓練された体はしなやかなネコ科の動物のように躍動し刀を振りぬいた。コトンと小気味よい音をたてて、小さな頭が切り落ちた。
【カエリタカッタダケナノニ】
【パパ…ママ…】
【モドリタイ、アソコ二モドリタイ】
目の前の残る3体から一斉に声が聞こえた。哀れみを感じ次手につなげようと構えた刀を降ろした。
「もどるって…何なんですかあなたたちは?私たち、あなたたちが首都に向かってくるから、しかたなく迎え撃っているんですっ。あなたたちが通り抜けた先の多くの街が、人が滅んでいくからっ!いったいなにがしたいんですか?戻るって、どこへ!?」
【カエリタイ】
少女の問には答えず3体の声が重なった。
熟れた柘榴のように腐雌の頭部が膨れ上がり破裂した。
血を吸い上げた百合のような紅い花弁が開く。花弁にはユリ科の植物のように暗い紫色の斑点が散りばめられていた。雌しべに相当する部分がほの青く輝いた。
そして滅亡の光を放つ。
至近距離にいた少女はその毒の光を全身に浴びた。悔恨、懺悔、後悔、悔悟、無念…どす黒い苦痛が少女の体を突き抜けていく。
「ああああああっ」
体中の血管が沸騰するような苦しさと、全身を焼けた針で貫くような痛みに耐えかねて、刀も手放し胸をかきむしる。
「くあああっ、ま、まだ、こんなとこで、だめなのにっ」
立ち上がろうと少女が手を付き体を起こそうとする。膨れ上がった腕の血管が破れ制服を濡らした。
「うああああああっ」
腕の自由を失った少女は無様に再び倒れた。
(まだひと目見ただけなのに、言葉も交わしていないのにっ)
今朝のモノレールに乗るとき、あの人が声を掛ければ届く距離にいた。いざ本人を目の前にするとドキドキして挨拶すらできなかった。
(あれが最後なんて絶対に、絶対に、絶対いやだ!!)
心のなかで少女は荒ぶる嵐のように叫んだ。激しく、そして狂おしく。
滅亡の光はなおも少女を青白い死の色で照らし続けていた。
《※2013.8.31※》
そより。
倒れ伏した少女を一陣の風がなでた。結い上げたポニーテールやセーラー服のリボンがあおられゆらぐ。
花開いた腐雌の花弁がぱっと千切に散り舞い上がる。ひらひらと舞い落ちる様子は真っ赤な桜吹雪のようにも見えた。次いで青白く滅亡の光で輝いていた雌しべが音もなく切れ落ちる。
少女の血濡れた体の上に、悲顔花と化した腐雌の破片がやさしく積もった。
さくり。
さくり。さくり。
さくり。さくり。さくり。
破片を踏みしめる音が近づいてくる。
(だ…れ?あのアオバって…ひとか、な)
顔をあげようとしたが、毒の光にやられた体は出血がひどい上に麻痺が進行して思うように動かない。
足音がすぐ近くで止まる。武器を置く音や衣擦れの音で身を屈めたのがわかった。
謎の足音さんはややぶきっちょに顔の上に降り積もった花の破片を振り払ってくれた。頬に手のひらが触れた。
(あったかい…)
つっと涙が頬を伝う。助かったと実感したら不覚にも安堵でちょっぴり泣いてしまった。
その涙を足音さんがそっと拭ってくれた。
(そんなことされちゃったらっ、もう)
ホロリ、ホロリ、ポロポロ、ポロポロポロ。
見知らぬ誰かに泣いている所を見られていると思うと、恥ずかしくて恥ずかしくて耳まで一気にかぁっと熱くなった。
ゆでたタコののように少女の色白の肌が朱に染まる。
「大丈夫?どっか痛いとこあんのかよ!?」
少女の様子が急変して慌てたのか乱暴に抱き起こされた。すぐ目の前に謎の足音さんの顔があった。
(!!ちょ、顔ちかいっ)
その顔を見て心臓が爆発する勢いで高なった。
「ふぃうあぁ、あ。あぅあぁあぁたぁ」
(リクさん、会いたかった!)
「ほぅ、ひぃて、うぅたったっ」
(ご無事でよかった)
毒の光の影響でろれつがまわらない。中枢神経系までやられてしまったんだろうか。やっとこの人にあえた!少女の胸は喜びで高鳴っていた。
《※2013.9.1※》
早鐘のように弱った少女の体の中を血が駆け巡る。首筋に手を当て脈をとっていたリクが慌てた。
「ままま、まさかっ、毒がまわって!抗体打つからっキミのアンプルはどこっ、どこにあるのっ?」
すべての学徒は悲顔花と化した腐雌の毒に対して血清を携帯している。自分の血で作った血清でないと効果がないのが多々ある欠点のひとつだった。学徒により携帯する場所はまちまちで、リクだったらベルトにつけた小さなポーチ。ルミは首に下げたお守りの中。ホタルにいたってはやられたら腹を切ると言い通し携帯すらしていない。
「ぴううぅっ」
少女は言葉に詰まった。
まさか、スカートの裾をめくって左足ももに付けたレッグポーチです♥なんて伝えられない。しかもよりによって今日のショーツは吸汗性バツグンを誇るベージュ色の綿パンだった。いわゆるババパンである。
(ななな、なんでぇ。そんなのいやっ。恥ずかしい、恥ずかしすぎるっ。もっと可愛いのもってるのにぃ。せめてスパッツかショーパンはいてくればよかったぁ)
羞恥心と己の迂闊さに対する怒りで、華奢な肩がぷるぷる小刻みに震えた。
「どぅわーっ、痙攣がおきたっ!お、おちつけ俺。ごめんね、急いでるからっ、エロいことぜんせん考えてないからっ」
「ひゃふっ!」
リクがボディチェックをするように肩や脇の下、臀部をなぞっていく。さすがに胸をまさぐる度胸まではなくて、手早くセーラー福の胸ポケットを上から触って確認した。
「ない、ない、ない、ここにもない。あとは…あとは…ええっと、あと調べてない所といえばっ…ゴクリ」
少女のスラリとした足をつま先から腰にかけて見ていく。黒いプリーツスカートの中は調べていない。
(男にとって最大級のブラックボックス。そして花園!)
リクの頭のなかにしょーもないキャッチフレーズが思い浮かんだ。ああ男の子って。
「ごめんね、本当にエロいこと考えてないからっ、緊急事態だからっ…しかたないからっ…えへ」
緊張でこわばった指が少女の足を不器用になぞる。怖くなった少女は目をぎゅっと閉じた。探っていたリクの手が止まる。たぶん左もものポーチに気づいたのだ。はらりとプリーツスカートをめくり上げる感触。股下がスースーして少女は気が落ち着かなかった。
《※2013.9.2※》
(は、早く!早くしてっ)
少女の願いを他所よそにもたもた手間取っているようだった。恐る恐るといった様子でレッグポーチのファスナーを開けていた。
ぐいぐい。
ぐいぐい。
ファスナーの噛み合わせが悪いらしく、なんども引っ張っていた。
ぐいぐい。
ぐいぐい。
「だめだ、上手くできねっ。こうなったらもうしょうがないよねっ!しょうがないよねっ!しょうがないよねっ!うぇへへへへっ」
リクは申し訳程度にめくっていたプリーツスカートの裾を思い切りめくり上げた。
「こ、これが花園というものかっ!」
眼前に秘密の花園が、もといベージュのババパンが飛び込んだ。
「ぴーーーーーーーーーーーーーーーーっ」
少女は恥ずかしくて衰弱死寸前のひな鳥のような悲鳴を上げた。
(見られた!不覚!ああ死にたい。マジで死んじゃいたいっ。いっそのこと毒がまわったら楽になれるのにっ!)
ぐわしっと、ももとポーチを押さえつけられる感触。そして乱暴にポーチの中をひっかきまわす音が少女にも聞こえた。
(もう穴があったら入りたい!ううん、今ここで穴ほって100年くらい引きこもりたいよぅ)
少女が羞恥心で悶えている間もリクは恥部の探索…じゃなかったポーチの中を必死にひっかきだしていた。
リップに絆創膏、ソーイングセット、ナプキン、予備のハンカチ、キーホルダー、小型の油性ペン(ラメインク入り)、乾くと透明になるスティックのり、こすると香水の香りが漂う消しゴム、プチ手帳っぽい外見の付箋…。
「どうやりゃこんなに詰めれるんだよ。アンプルどこだ!アンプル!ぬおあっ」
リクの指先に冷たい強化ガラスが当たった。
「あった!アンプルあった!」
アンプルをセットする小さな金属質の音が響いた。少女の腕にリクは注入器を押し当てる。少女は来るべき激痛に耐えようと歯を食いしばった。
「いくよ、いち、にの、さんっ!」
カシュッ
血清を打ち込む乾いた音。
麻痺により全身が弛緩しはじめているとは思えない勢いで、少女の肢体が引きつりエビぞりになった。間髪入れず今度は激しく跳ね上がった。
「ああっ!あぐううううううううううううううううううううううううっ」
滅亡の光で改組してしまった体組織を、血清によって猛烈なスピードで書き換える激痛が少女を苦しめていた。この血清は対腐雌用途としては未完成で、素質のない一般人に投与した場合、苦痛どころか廃人にまで貶めてしまう副作用があった。
《※2013.9.3※》
少女がまるですがるようにリクの腕に指を絡めてきた。ぎりりとしなやかな指先の爪が皮膚に食い込み血が滲んだ。
(不条理だ)
苦痛に激しくのたうつ少女が自分を掻きむしり怪我をしないように抱きとめながらリクは思う。
自分たちのような子供が家族や故郷から引き裂かれ、首都に住む何十万人かの人口のために、苦しいこと、悲しいこと、怖いこと、痛いこと全てを受け止め戦わなければならないことを。
国土の北半分は、どこからともなく発生した腐雌によって人の住める土地でなくなった。難民となった北部の人口を首都と南部は差別なく受け入れ、肩を寄せ合うように食料や土地を分けあって生きている。そしてこの国は普賢鎮台〈ふげんちんだい〉に特殊な素質を持つ子どもたちを集め、大人たちの代わりに腐雌の殲滅という罪過を背負わせている。
(なんで腐雌は人間の女の子の格好してんだ?切っても血は出ねえし、中身は粘菌みたいなブヨブヨが詰まっているだけだ。俺達は使い捨ての乾電池みたいにここを守るために死んでいく。生贄はまだ続くのか?どれだけの学徒が苦しみ恐怖に震え死ねば終わるんだ?)
少女の痙攣が収まり、呼吸がゆるやかになっていた。
「頑張って、もうちょっとだからねっ」
リク自信も悲顔花の光に何度かやられた経験があった。だから回復の進行具合もなんとなくわかる。
血清の用意さえあればまず死ぬことはないが、何度打ってもこの激痛に慣れることはたぶん一生ありえない。
落ち着いてきた少女の脈を取る。かぼそいながらも規則正しいリズムを刻む命の音が感じられた。
「よかった。間に合った」
リクはそっと少女を床に横たわらせ、古ぼけた長剣を拾い上げ立ち上がった。周囲の腐雌はこの子を助けるついでに飛斬で切り払っていたが、念には念を入れて周囲を警戒しておいたほうがいいに決まっている。
「やっぱりっていうか、一体が悲顔花〈ひがんばな〉になっちまうと連鎖反応でみんな咲いちまうのな」
リクの周りには午前の日差しの中にあってなお青白く眩い光を放つ悲顔花〈ひがんばな〉の群生が咲き誇っていた。幸いにして光の毒は遠くまで及ぼすことはない。花から数十歩も離れれば命を失う影響は受けなくなる。それでもいつまでもギリギリの距離に居ていいというものではないのだが。
《※2013.9.5※》
生徒手帳が落ちていた。最近支給されたばかりのようで、革の表紙はくたびれた様子もなく目新しい。汗や雨になんども湿ったリクの手帳と大違いだった。
「この子の手帳だ。新しいってことは入学したばかりなのか?」
特に思うところもなく拾い上げ手帳をめくる。最初のページには本籍や学籍番号、所属兵科、氏名といったものが書き込まれているはずだ。
「!」
胃の腑が腐雌の冷たく小さな手で握りつぶされたかのようにすぼまった。
「要守…ユヅキ…ハハ、偶然、だよな…ハハハ」
それは。
心の影を払ってくれた恩人で。
信頼する相棒で。
とっても大好きな人で。
そして。
そして。
「ハヅキ、キミとおなじ苗字の子だよ…」
左手に罪の感触が蘇り、失った右手がちりちりと疼く。
筋肉を裂く感触、肋骨を割る感触、肺を潰す感触。
我を失い暴走状態にあったリクの左腕が、ずぶりと華奢なハヅキの体を貫いた。
それなのにあの子は。
ハヅキは。
愛用の刀を手放すと最後の命を振り絞り、ありったけの力を込めてリクを掻き抱いたのだった。
(うう…俺は、俺は、俺は、俺は、俺はっ!!)
胃の腑の締めつけに耐えられなくなったリクは、拾い集めた小物が足元に再び散らばってしまうのもかまわず口元を抑えた。
「うぼっ」
よろりよろりと数歩ふらつき、辛抱できなくなって胃の中身を全部ぶちまけた。ビチャビチャと嫌な水音をたてながら、なおも自分のなかの後悔を吐き出した。喉と口が胃液でヒリヒリするまで吐くとようやく気も落ち着いた。
その頃になって、なにかのセレモニーのようにあちこちの悲顔花〈ひがんばな〉が一斉に燃え上がった。
向こうの炎の花畑の中で扇を仰いでいる小さな女の子はきっとルミだ。灼溶扇で悲顔花に火をはなったのだろうとリクは思った。

トランス・ザ・ブラッド

トランス・ザ・ブラッド

天狼大陸北部で発生した疫病は、瞬く間に北半球の人類を滅亡の淵に追いやった。その悲劇から200年後、天狼大陸東部の倭の国で奇病が発生する。感染経路不明。感染者はヒトから美しい異形の存在『腐雌〈フシ〉』へと変貌する。 奇病に対向するため、防疫要塞学園都市『普賢鎮台〈フゲンチンダイ〉』に選ばれた少年少女が集まった!!

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-07

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  1. プロローグ
  2. 1章 防疫の学府