こころの翼(完全版)
最終版です。おそらく・・・(笑)。一部文字化け直りません。あとがきもぜひご覧ください。
1
「オハヨウ」
葵(あおい)まだベットの中にいた。
さっきからキートンが、ペロペロと私の口をなめて起こしにかかっているのが、夢うつつの甘いまどろみの中わかっているのだけれど、なかなか起きられない。
それは、葵の、ふたりの、いつものことだった。
「うーん・・・ 。おはよう・・・ 。キー」
ピンクに白のトリミングが付いた、お気に入りのふわもこパジャマを着た葵が、上半身を起こして「うーん」と伸びをしながらようやくそう答えると、キートンは少し残念そうな声でこう言った。
「ヤットオキタ。オハヨウ。オソトハ アメコンダカラ オサンポニハ イケナイネ」
ほんとだ。雨の音がする。
水が大の苦手なキートンは、お風呂も大嫌いだし、顔と体が容赦なく濡れてしまう雨 はもっと嫌いだった。
キートンは私の家の愛犬。
バセット・ハウンドという種類で、♂ 5歳。
日本ではあまり見かけない犬種だ。
見た目は・・・胴長短足の、おじいちゃん・・・みたいに、顔と全身の皮がだるんだるんに垂れている。ひらひらと大きくて垂れ下がった耳のおかげで少しのかわいさは残してはいるものの、常にあっかんべーをしているような、赤い眼をしている。しかも、その赤い目が、遠くから見ると、まるでこちらをにらんでいるかのように、見えるのだ。
そのせいで、お散歩をしていると、私の友達を含め近所の子供たちには、
「こわーい」
と、悲鳴混じりの声を上げられ、逃げられてしまう。
キートンにはみんなを怖がらせようなんていう、そんな気はまったくないのに。
でも、私は、他にはあまりいないキートンの個性的なところ、つまり“レア”な感じが好きだ。
まあ、?ハッシュパピー?という、有名な靴メーカのイメージキャラクターの、?くた
っと、とろんとしたあの犬? といえば分かってもらえるかな。
キートンは、由緒正しい、かは不明だけど、(一応血統書は付いている。本名はなんと言ったっけ。確か・・・)猟犬だ。
キートンを飼い始めたときに読んだ「世界の犬図鑑」には、こう書いてあった。
?バセット・ハウンド ¨ 猟犬。ウサギや、アナグマなどを追いかけて捕まえる。全身の皮が垂れているのは、猟の際、万が一、植物のとげなどが身体に刺さっても、肉まで食い込まずに、けがをするのが皮膚(皮)だけで済むようにとの理由からだ。?そうだ。
だるんだるんには、ちゃぁんと理由があるんだね。
?また、鼻がよく利き、匂いから獲物の居所を見つけ出す。?
耳だって、ただ、かわいさのためにひらひらと長いわけではなく、やっぱり、
?地面についた獲物の匂いを嗅ぐときに、下を向くと長い耳が引きずられて、ちょうど囲いのような役目を果たし、匂いを逃がさないため?なのだ。
胴長短足で太い足も、すべては、
?ウサギ、アナグマの巣を掘り起こすため。?
とことん、どこまでも、歴(れっき)とした猟犬なのだ。
昔の職人さんみたい。
と私は思う。だって職人さんは、仕事を何十年も続けているうちに、その仕事仕様の体つきや、顔になっていくから。
かっこいい!
キートンは、家のペットだから、お仕事はしてないけれど、家中のフローリングやじゅうたんを堀まくっていて、家の中は見るも無残な光景になっている。
「キー。いいかげんにやめなさい」
と、いつもお母さんに怒られるのだけれど、一向にやめる気配はない。
キートンは?猟犬魂?みたいなものを持っている。
それは、ちょっとだけだけれど、私の誇りだ。まだ誰にも言ってないけれど。
だから、お散歩と言っても遠くまで歩く訳ではなくて、家の近所の地面を時間をかけて嗅ぎ廻るのだ。でも、獲物がいないからか、地面を掘ったりはしない。
?匂いを嗅ぎまわることがキートンの趣味?
って私は言ってる。まあ、あきらめてる、ってとこかな。
でも、やっぱり、そんなお散歩に付き合う飼い主には相当な根気がいる。
「残念だね」
そう言いながらも、こころのなかでは、
「はぁ。助かった」
と思ってしまったのが最後、
「イマ、ハァ。タスカッタ。ッテオモッタデショ?」
と、キートンに言い当てられ、私は、物も自由に考えられないのか。とためいきをついた。
そう。私とキートンは、飼い主と愛犬という間柄だが、お互いに話ができるのだ。しかも、口に出さずとも、お互いの気持ちがわかってしまう。
?種を超えたテレパシー?ってやつだ。
いくら、空想好きで、動物が大好きで、夢見がちな私でも、最初は少し戸惑った。
自分の頭が、いよいよおかしくなったんじゃないかと。
でも、その疑念はすぐに晴れた。
これは真実だった。私が考えたお話なんかじゃない!
本当に、本当に、聞こえるのだ。通じるのだ。
それは、単純に・・・うれしかった。
でも、この事は、私とキートンのふたりだけのひみつ。
もちろん、親には言えない。言えるわけがない。
お母さんは、ひとりっこの私を、とても愛情深く育ててくれている。それが重荷になる時ももちろんあるけれど、でも、その期待に答えることが、私にできることなのではないかと思い、日々、精進している。あっ。言い過ぎか。というか、頑張っている。私なりに。
やっぱり、親の想いを裏切りたくはない。
友達には・・・やっぱり言えない。
幼馴染みで、大親友のえりにも。やさしくて、頼りがいがあるけど、現実主義者で・・・はたして信じてくれるだろうか。こんなこと。正直自信がない。
私は、一応勉強は出来るほうだ。クラスメイトからも、
「葵ちゃんは、頭がよくて、運動神経もいいし、なんでも出来ていいよね」
と、言われている。
それに・・・一応・・・モテる、らしい。
そんな私が、犬としゃべれるなんてことが知れたら・・・
あー、考えただけでゾッとする。
私は、この小学校生活を普通に過ごしたい。
クラスで目立ちたくもなければ、男子に追いかけられたくもない。
冷めているのではなくて、こういう性格なのだ。ただただ、普通の小学6年生の女の子
でいたいだけなのだ。
えりに、この事を話すと、いつも決まって、
「何、贅沢なこと言ってるの」
と、怒られる。
理想と現実の間(はざま)には、まだまだ遠い隔たりがあるのだった。
・・・こころの翼は誰にでもある。ただ気づいていないだけ・・・
*
私が、キートンと話せるようになったのは、11才のお誕生日のその日、突然だった。
しかも、同時に、もう一人とも話せるようになった。
ひとりで、お昼ごはんのミートソースパスタと、レタスときゅうりのサラダを食べ終わって、ダイニングテーブルから立ち上がろうとした、その時、キッチンに点いている蛍光灯の光があるはずの所に、なぜか、黒いもやがかかり、突然、胸の中で、声がした。
それは、2年前、車の運転中に突然事故に巻き込まれ、天国に逝ってしまったお父さんだった。姿は見えないのだけれど、雰囲気から、それは紛れもなく、お父さんの虚影、お父さんの声だとわかった。
お父さんは、低音の私の大好きな、いい声を響かせてこう言った。
「葵の期は熟した」
「はぁ?・・・期って何?」
「時ってことだよ。葵の夢を叶えたよ。じゃあお母さんのこと頼んだぞ。」
ただそれだけを言って、お父さんは消えてしまった。
え?あれって、ひょっとしておばけ?おばけってもっと怖いものだと思ってたのに。なぁんだ。全然怖くないじゃん。
それに、いつもお母さんが言ってたとおり、お父さんは天国から、私とお母さんのことをずっと見守ってくれてたんだ。
うれしくなった。胸のあたりがぽぉっとあたたかくなって、ひとりでほほえんだ。
「お父さん・・・」
と、なつかしい響きを口に出して言ってみたら、今度は涙がにじんだ。
「なんで死んじゃったの・・・」
すると、突然、また胸の中で声がした。
今度は、もっとかわいらしい、高い声だった。
「ネエ、マンマ マダ?」
「あーごめんごめん」
私は涙を拭きながら答えた。
「オカアサン ドウダッタ?」
「お母さん、元気だったよ。・・・えっ?」
葵はびっくりした。だって、お母さんは今、入院中で、この家には私しかいないはず。
心配して、毎日ごはんを作りに来てくれる、川田さんのおばちゃんは(私が、赤ちゃんの頃から、おしめを換えてもらったり、お風呂に入れてもらったり、面倒をみてもらっているらしい、近所のおばちゃん。私は当然覚えてないけれど。)は、さっき帰ったばっかりだし、ということは・・・
「ネーエー マーダー?」
も、もしかして、えっ?
「ソウダヨ。キー ダヨ。ズット オネエチャンノ コトバニ ヘンジヲ シタカッタンダケド、ツウジナイ ンダモン。ヤット ツウジタヨ!」
なんと、キートンが私に話しかけてきたのだ。
私は少し戸惑ったが、すぐに信じることができた。
だってこれが私の夢だったのだから。
・・・こころの翼はふだんは閉じている。広げるには勇気がいるんだ・・・
2
「おばあちゃん、この?かめ?はここでいいの?」
「ああ。そこに置いて。そっとやるんだよ」
「ふぁー重っ。ねぇ、これってさ、何が入ってるの?」
「うーん。ひ・み・つ」
と、おばあちゃんはかわいらしくいった。
まるで自分の宝物をそれはそれは大切そうに両腕で抱えている少女のように。
「えー。教えてよぅ」
「だーめ。そのうちわかるわよ」
と、顔にははにかんだような笑みが浮かんでいる。
おばあちゃんってほんっとにかわいい。
私が、広いお庭にセミの大合唱が一日中鳴り響くこのおばあちゃんの家に来たのは、おとといのこと。木造平屋建ての建物はもう築50年も経っているけれど、お掃除好きのおばあちゃんの手によってピカピカの飴色に磨き上げられている。私は、この雰囲気が好き。なぜか懐かしい感じがする。お母さんがこの家で育ったと思ったら、なおさらだった。
「ねえ、おばあちゃん、これって、柱の傷ってやつ?」
「ああ、葵ちゃんのお母さんが毎年お誕生日に、その柱で去年の自分とせいくらべをしてたんだよ」
「へえ。そうなんだ。えーと、あった、あった、12才」
葵がせいくらべの柱にぴっと伸ばした背筋をぴったりとくっつけて、台所にいるおばあちゃんと大声で話していたその声を、よりいっそう大きくして叫んだ。
「ねーえー、おばあちゃん見てよー」
すると、腰を曲げたおばあちゃんが、よっこらしょとやってきた。
「はい、はい。どうだろうねえ」
おばあちゃんは老眼鏡をかけて、12才と書かれた柱の傷と葵の頭の先をじーっと見比べた。
「・・・えーっと・・・動かないで。あー、葵ちゃんの勝ちー」
「やったあ」
その時、?チリリリリン?と何か、ベルのようなものが鳴る音がした。
「おばあちゃん、何か鳴ってるよ」
「はいはい。今、出ますからね」
と、おばあちゃんは腰を曲げたまま廊下に出ると、チンッと音を立てて、「もしもし」と電話に出た。
えっ?あれって電話のベルの音?電子音じゃないのもあるんだ。へーん。と、葵が思いながら、なんとなくおばあちゃんの電話の相手との会話を聞いていると、
「葵ちゃーん、お母さんから電話だよー。」
と、葵を呼ぶおばあちゃんの大きな声がした。
えっ?お母さん?葵は、
「はーい。今行くー」
と、答えると、走って電話に向かいおばあちゃんから受話器を受け取った。何?この受話器?重っ。筋トレ?ダンベルっぽい形してるし・・・受話器を耳に当てる。
「もしもし、あーちゃん?お母さん。無事に着いたのね。今日からおばあちゃんのお家にお世話になるんだから、いい子にしてなきゃだめよ」
「うん。わかってるよ」
「それならいいけど・・・、キーにも大人しくするように言っておいてね」
お母さんは、犬とはしゃべれないけど、普段からよくこういう言い方をする。
「うん。言っておく」
「それから、困ったことがあったら、すぐおばあちゃんに言うんだよ」
「はい。わかった」
「じゃあ、おばあちゃんに代わって」
「っていうか、お母さん、体の調子はどうなの?」
「あー、今日は調子がいいのよ。お母さんは大丈夫。なるべく早く退院できるようにがんばるからね」
「うん。おばあちゃんに代わるね」
お母さん、今日は元気そうでよかった。
お母さんの入院はもう少しかかりそうだし、夏休みの間じゅうここでお世話になることになった。もちろん、キートンも一緒。
だって、どう考えてみても、私とキートンが離れ離れになれるわけがないでしょ?
というわけで、おばあちゃんにお願いをし、晴れてキートンも、お家の中で過ごせることとなった。キートンは結構大きくて、中型?大型犬に属するのだけれど、本によってまちまちだ。原産国もフランスだったり、イギリスだったり。なにか中途半端な感じもするけれど、キートンには合っている気がする。性格も私にそっくりで、おっとりしているけれど、短気。人(犬)見知りで内弁慶。よく、?ペットは飼い主に似る?、っていうけれど、それって本当だと思う。あ、それは顔のことだっけ?でも小さいときからずっと一緒にいて育てているんだから、やっぱり性格も多少なりとも似るものだと、私は思う。
「?なつく?ということは、?きずな?で結ばれるってことさ」
何かの本で読んだことば。
私にとってキートンは、弟であり、何でも話せる大切な友達。
この広い家には、おじいちゃんとおばあちゃん、そして三毛猫のみーちゃんが住んでいる。私が小さい頃には、よくお父さんとお母さんに連れられて遊びに来ていたのだけれど、お母さんとふたりになってからは、家から遠いということもあって足が遠のいてしまっていた。だから、おじいちゃん、おばあちゃんに会うのは2年ぶりだった。
「はー。葵ちゃん、よく来たねー。ゆっくりしておいで」
とニコニコおじいちゃん。
「葵ちゃん、おおきくなったねぇ。もうすっかりお姉さんになっちゃって。キートンちゃんもいらっしゃい。まぁ。愛嬌のあるワンちゃんだねぇ」
と、おばあちゃんが、くしゃっと顔中をいっぱいの笑顔にして大歓迎してくれた。
「はいっ。お世話になります」
と頭を下げた私を見て、しっぽをおもいっきり振っていたキートンが慌ててまねをした。
「オ、オセワ二 ナリマスル」
「なりまする?ははははは!」
私はひとりで、大爆笑してしまった。
「オネエチャン・・・ワラウコト ナイデショ」
「あ!」
「どうしたの?葵ちゃん?突然ひとりで笑い出したりして」
「あ、お、おばあちゃんとおじいちゃんに会えたのがうれしすぎて。つい。ははは・・・」
「まあ。おもしろい子だねぇ」
はぁ。危ない危ない。今回はどうにかごまかせたけど、気をつけなくちゃ。とほっとしたとき、誰かにじっと見られているような視線を感じてふっとそちらを振り向くと、そこには、きっ、と鋭い目つきでこちらを睨んでいる猫のみーちゃんがいた。
みーちゃんは、三毛猫。今年で15歳になるおばあちゃん猫だ。名前は、おばあちゃんが命名した。でも、そんなかわいい名前に似つかわしくない風貌と、性格の持ち主だった。
「ヨロシクネ」
「・・・・・・」
「ネエ ヨロシクネ」
「・・・・・・」
「ヨロ・・・」
「シャー」
「ゴ、ゴメンナサイ。ソンナニ オコラナクテモ・・・」
と、勇気を振り絞ったキートンも、見事に初対面でフラれてしまった。
動物が大好きで、扱いにも慣れている私にも、なかなかこころを開いてくれない。
しかし、そんなみーちゃんにも「にゃあ」と甘えた声を出して巨体をスリスリする人が一人だけいた。それは、そう、もちろんおばあちゃんだった。その様子を見ていると、ふたりはまるで、本物の親子のようだった。もしかして、おばあちゃんもみーちゃんとおしゃべりできる?そう思えるほど、ふたりはなかよしだった。
でも、もちろんそんなことは聞けない。おばあちゃんにだけはこのひみつを知られたくなかった。だって、私はおばあちゃんっ子で、おばあちゃんにだけは?頭がおかしくなった?なんて思われたくなかったから。
だから、夕飯のとき、それとなく聞いてみた。
「ねぇ。おばあちゃん」
「なぁに?」
「このおつけものおいしいね」
「そう。よかった。それが私の宝物だよ」
「えっ?これがおばあちゃんの宝物?」
「そう。これはね、おばあちゃんのお母さんから受け継いだ、かめとぬか床でこしらえたおつけものなんだよ。葵ちゃんのところにもぬか床が行ってるはずだよ」
「そういえば家にもあった気がする。でも私は、おつけものがキライで普段は食べないから。でもおばあちゃんのはおいしいね」
「そう。ありがとね。ぬか漬けは素手でかきまぜるから、同じぬか床でも家によって味が違うんだよ。その人の味になる」
「そうだよ。葵ちゃん、いっぱい食べなさい」
と、やさしい声が聞こえてきた。
今日もこれが、おじいちゃんとのあいさつ以外の初めての会話。よっぽどおばあちゃんのぬか漬けが自慢なのだろう。おじいちゃんは口下手で、話しかけても「うん」とか「そうだな」とかそんなことしか言ってくれない。でもやっぱり大好き。おじいちゃんの優しい笑顔。
「私、ここの家の子になっちゃおうかな」
「そうだよ。なりなさい。おかあさんと一緒に」
ははははは。食卓に笑いがあふれた。よぉし。今だっ!
「ねえ。おばあちゃん」
「なに?」
「おばあちゃんにとってみーちゃんってどんな存在?」
「うーん。茶飲み友達ってとこかな」
「茶飲み友達ってなに?」
「お茶でも飲みながら、なんでも遠慮なく、気軽に話せる友達のことだよ」
私はびっくりした。なんでも話せる?・・・やっぱり!おばあちゃんもみーちゃんとしゃべれるんだ!
でも、動物好きの人は、普通に動物に話しかける。私もそうだし、おかあさんも。それからえりだって。そういう意味かな。
・・・こころの翼は消えたりしない。いつでも君が飛べる準備をしている・・・
3
私は、毎朝、起きたら何をするよりもまず、神棚にお水をお供えをした。おばあちゃんの家にお世話になる訳だし、「何かひとつお手伝いをしたい」と言ったら、私の仕事にしてくれた。うちの家には神棚がないからすごく新鮮だった。神様に手を合わせてお祈りをしていると、なぜか、こう、いい気分になってくる。?私、いいことしてるぞ。私ってえらい?っていうかんじがそんな気分にさせるのかな。不思議。
?おかあさんの病気が早くよくなりますように?
それからおばあちゃんの作ってくれた朝食を食べ、午前中のうちに、学校と塾の夏休みの宿題をすませ、おばあちゃんの昼食をとった後、午後はキートンと、近くの川に泳ぎに行ったり(水嫌いのキーはもちろん見てるだけ)、山の中をお散歩して、お母さんが好きで何度もDVDを観せられていた、?「アルプスの少女ハイジ」気分?で野いちごや、お花を摘んだりして過ごした。キートンをヨーゼフ(ハイジのおじいちゃんの飼い犬でセントバーナードという種類の大型犬)の代わりにして。
「ヨーゼフ!」
「バフバフ!」
もちろんあんなハイジみたいなアルプスっぽい格好はしていない。あんなお洋服も持ってないし。だから、あくまでも?気分?で。でも逆に、森の中では、かわいい格好をするよ
りも、動きやすくて、身体に馴染んだシンプルな格好のほうが、マッチしている気がする。
森の木々と接していると、飾り立てた自分が、なんだか恥ずかしくなってくる。
摘んできたお花たちは、私の手によって家中に生けられ、家中にお花の香しい香りが充満した。おばあちゃんは「まあ。こりゃお花畑にいるみたいだねぇ」と、言って喜んでくれた。野いちごは、おじいちゃん、おばあちゃんと3人で食べた。スーパーで買ったいつものいちごとは違って、甘酸っぱさが口の中に広がって、さらにお花畑のハイジ気分を高めた。
「さあ。ヨーゼフお上がんなさい。おいしいわよ」
「バフバフ!」
今日も、昼食を済ませて、毎日のお散歩で真っ黒になったスニーカーを玄関の土間で履いていると、おばあちゃんが心配そうに声をかけてきた。
「まあ、そんなによく飽きもしないで毎日でかけるねぇ。こんな田舎じゃ何もないし、つまらないでしょ?」
「ううん。ちっとも飽きないよ。山に入るとね、昨日にはなかった新しい芽が出てたり、逆に、昨日咲いてたお花が枯れちゃってたり、毎日何かしらの発見があるの」
「そうかい」
山は生きている
東京郊外の新興住宅地で育った私は、学校の山登り遠足くらいでしか、自然の中に入ったことがなかったから、飽きるどころか、毎日が新しい発見ばかりで楽しくてしかたがなかった。
それに、森の中にいると、ふっと力が抜けてなんだか落ち着いた。
森に守られている
でも、とふと考えた。私が大人になったとき、おばあちゃん位の歳になったとき、
この森は果たしてこのままで残っているのかと。
私が大好きな
木
土のにおい
鳥たちのおしゃべり
小さくてもけなげに生きている昆虫たち
どれも私の大切な宝物
なくしたくない!
なくなってしまったらどうしよう。
そう思ったら、なんだか寂しくなって、この日はいつもより早く山を降りた。
キートンとあぜ道を抜け、おばあちゃんの家の玄関に入ろうとした、そのとき、どこからか、声がした。
「おい。お前」
私は、自分じゃない、と思って黙っていた。誰か呼んでますよー。
「おい。無視するな。お前だよ。お前」
「はい?私?」
私は、声のした方に振り返った。
そこには、いがぐり頭で、上は白いランニング、下は着古したジャージをひざまでくるくるっと巻き上げ、やはり、薄汚れたビーチサンダルを履いた、小学3年生くらいの男の子が立っていた。
「そう。お前。お前さ、そんなに毎日毎日山なんかに行って何が楽しいんだ?」
「はい?っていうか、あなた誰?なんでそんなこと知ってるの?」
「誰だっていいだろ。それより何でだ」
「普通は、人に何かを聞くときは、自分から名乗るものでしょ」
「なんだよ。うるせえな。ブス」
そう吐き捨てるように言ったかと思うと、その男の子はとっとと行ってしまった。
なにあの子、あんたなんかにそんなこと言われる筋合いはない。そんな失礼なこと、誰にも言われたことないのに!あー腹が立つ。
あいつ、どこいった! と息巻いていると、
あれ?あの子お隣の木村さんの家に入っていく。お隣の子かぁ。と、何気なく見ているうちに、私はなんとなくあの子の後を追っていて、気づいたらお隣の広いお庭に入ってしまっていた。
私は、とっさに身をかがめて歩きながらそーっとつぶやいた。「おじゃましまーす」
すると、きゃあー!かわいい!
お庭の奥の方に小屋があって、牛がいる。私、本物の生きてる牛、初めて見た!
触りたい。何が何でも触りたい。
「ネエ オネエチャン カッテニ ハイッテ イイノ? アレ ナニ?」
と、声がして、足元を見るとキートンもついてきてしまっていた。キートンはいつでも私と一緒だ。
「しっー。」
私は、唇に人差し指をあてて、?静かに?のジェスチャーをした。
「そっか。キーは牛さん初めてなんだね」
「ウシサン?」
「そう。あれは牛」
「オッキクテ コワイヨウ」
と耳を下げ、しっぽを丸めて怯えた眼で私を見上げている。
「なぁに。だいじょぶだよ。何もしないよ」
と、キートンを落ち着かせようと頭を撫でていた。
すると、あっ、さっきの男の子だ。牛になにやら話しかけている。
「モー次郎、たくさん食べろよ」
モー次郎?あの子モー次郎っていうんだ。かわいい。
男の子がいなくなるのを、キートンとふたりで植木のかげに隠れて待った。やがて男の子が行ってしまうと、怖がっているキートンをそこに待たせて、私はそーっと牛小屋に近寄った。
「モー次郎」
やさしい気持ちでモー次郎と目を合わせて、名前を呼びながらそっと手を出すと、モー次郎が私の手をなめた。生暖かい。私の手はよだれでべちゃべちゃになった。でも私は気にならない。動物だもん。当たり前じゃん。どうしてみんながきたながるのか?それがわからない。人間だって、犬だって、牛だって、みんな同じ動物じゃない!
♪みんなみんな生きているんだ友達なんだー♪
ってみんなだって歌ってるじゃん。
それよりなにより、私は、初めて牛に触れられたことがうれしくてうれしくてしかたがなかった。私の手をなめてくれた!
モー次郎は本当にやさしい眼をしている。
きっとこのお家の人たちに大事にされているんだろう。でなきゃ、こんなにやさしい子でいるはずがない。
本当はもう少しモー次郎と遊びたかったけれど、あの子に見つかるのはいやだったから、「ありがとう」とモー次郎の頭を撫でて、私は植木の陰に隠れているキートンの元へと走って帰った。
「おまたせ」
すると、突然キートンが頭を下げて私の足に身体をすりすりしてきた。私は、反射的にキートンの体を撫でる。
「あ、やきもち焼いたんでしょ」
「ソンナコト ナイヨ」
そう言いながら、キートンは私の手をそっとなめた。
ふたりで木村さんの広いお庭をそーっと抜け(このときのキートンの前進の上手いこと。さすが獲物を狙うハンター!)、ダッシュでおばあちゃんの家に帰った。
「ねーえー、おばあちゃーん」
と、玄関先から呼ぶと、
「なーにー?」
と、おばあちゃんが障子を開けて、玄関から続く廊下に顔だけ出した。
「お隣の木村さん家のモー次郎かわいいね」
「ああ、あの子は、お隣が近くの牧場からもらってきた子なんだよ。人懐っこいでしょう」
「うん。牛乳は出るの?」
「いや、もう出ないね」
「ふうん。え?よく考えたら、女の子なのにモー次郎?ヘンなの。あ、きっとあの子が付けたんだね。だってあの子が付けそうな名前だもん。変わり者がしそうな名づけ方。ねえ、それにしてもあのお隣の子、失礼な子だね。ほんと頭にきちゃう」
「ああ。蒼空(そら)くんね。あの子は、わんぱくだからね。ああ見えて根はいい子なんだよ。仲良くしてあげて」
「やだ。顔も見たくない」
「あら。やさしい葵ちゃんが珍しいねぇ」
「イヤなものはイヤ!」
「まあ。まあ。お父さんに似て頑固だねぇ」
と、おばあちゃんは笑った。
・・・こころの翼を広げてごらん。世界が君に微笑みかける・・・
4
おばあちゃんの家の夏休みも半分ほどすぎたある日の午後、いつものお散歩の森の中で何の前触れもなく、突然、キートンがものすごい勢いで走り出した。
「ねえ、キーどうしたの?待ってよー」
「・・・」
リードは着けていない。
「ねえ、待って」
「・・・」
私はダッシュをしたがついていけない。
焦った。
いつもなら返事をして待っていてくれるのに。どうしたんだろう。
森の中の曲がりくねった木の根道を必死でキートンを追いかけた。2?3分くらい走っただろうか。
と、そのとき、草の茂みの間から「ガサッ」と音がした。
短い脚で懸命に走っているキートンのその先の茂みに、白いふたつの耳がみえた。
「あっ!ウサギ!」
白ウサギは立ち上がって、一瞬、その深くすきとおったざくろの果肉のような赤い眼でこちらを見たかと思うと、また猛スピードでどこかへ走り去ってしまった。
キートンはその後も必死に追いかけたのだが、とうとうウサギに追いつけず、匂いも見失ったのか、私の元へ小走りに帰ってきた。大きな耳をひらひらさせている。
「ハアハアハアハア」
「キー残念だったね」
「・・・」
下を向いたままキートンはこちらを見てくれない。
「初めての狩りだったのにね」
「ウン・・・」
大きな耳を下げてしょんぼりしている。
「しょうがないよ。誰だって初めから上手くいく訳ないんだからさ」
「ウン」
しっぽも丸めている。
「それに、初めから上手くいったってつまらないじゃん。ね?」
葵はしゃがんで、下をむいたままのキートンの顔をのぞき込み、ニカッと笑った。
すると、キートンが顔を上げた。
「ウン。デモ・・・ タノシカッタ」
少し耳をあげて。
「ほんと?じゃあよかったじゃん。またのチャンスを狙おうよ。ねっ」
「ウン!ガンバル!」
ついには瞳を輝かせてそう言ったキートンのおでこに、葵はキスをした。
その夜、夕食時。
「おじいちゃん、おばあちゃん、今日ね、キーがウサギをみつけてカッコよかったんだよ」
「そう。すごいじゃない。キートンちゃんは賢いんだねえ」
と、おばあちゃんがキートンの頭を撫でながら言った。
すると、キートンは照れてこう言った。
「ソンナコトナイヨ ツカマエラレナカッタシ」
この声は、当然ふたりには聞こえていない。でも照れた雰囲気は伝わったのか、おばあちゃんは、
「キートンちゃんは照れ屋さんだねぇ」
と、言って、今度はおしりを撫でた。キートンは、おしりを撫でられるのが一番好きなのだ。おばあちゃんに体をすりつけて、しっぽを思いっきりぐるんぐるん回して甘え出した。普段から垂れている眼が、さらにとろーんと下がっている。
私は、キートンが褒められたのが自分の事のようにうれしくて、
「おばあちゃん、ありがとう」
と、素直に伝えた。
もちろん、お母さんにも毎日の電話で報告した。
私は、あの白ウサギの宝石のような眼が忘れられなかった。
力強く、それでいて儚い。
でも、その後、一度も山でウサギを見ることはなかった。
・・・こころの翼はその時を待っている・・・
5
モー次郎を見つけたあの日以来、毎日私はキートンとふたりでモー次郎の小屋に寄って、少し遊んでから山に入るようになった。
遊ぶ、といってもモー次郎を小屋の柵越しに撫でるだけなのだけれど。
キートンは、最初こそ怖がっていたものの、やさしいモー次郎に慣れて、お互いに柵越しに匂いを嗅ぎあうまでに仲良くなった。
私は、モー次郎の優しい眼が好きだ。
のんびりとしていて、一緒にいると、おおらかなでゆったりとした気持ちになった。
ある日、いつものようにモー次郎の小屋に来てみると、何人かの大人が、小屋の前に立って、神妙な面持ちで話し合っていた。
キートンは、人見知りをして、植木の陰に隠れてしまった。
「先生。どうにかならんのかね」
あれは、蒼空くんのお父さん?がっちりして頼もしい感じ。
「かわいそうで見てられないんです」
と、きっと、お母さん。やさしそう。
「どうしたんですか?」
その会話を後ろから聞いていて心配になった葵は、蒼空くんのお母さんに思わず声をかけてしまった。
「あなたは?ああ、お隣のおばあちゃんのお孫さんね?おばあちゃん、葵ちゃんが来るのを楽しみにしてらしたのよ」
「そうなんですか。ありがとうございます。あの、モー次郎どうかしたんですか?」
「ああ。実は、昨日の夜から急に落ち着かなくなって、ごはんも食べないし、どこか辛そうにしてて。心配だから獣医さんに診ていただいたんだけど、原因がわからないのよ」
「そうなんですか。心配ですね」
「でも、葵ちゃん、どうしてモー次郎のこと知ってるの?」
「えっと・・・蒼空くんに教えてもらったんです」
「ああそうなの。でもあの子、葵ちゃんのことひとことも言ってなかったわ。あの子ったら。あの子、迷惑かけてない?」
「えっ?あ、だ、大丈夫です。でも・・・ちょっと変わってますね。あ、ごめんなさい」
「ううん。いいのよ。本当のことだから。ちょっと乱暴なところがあるのよね。本人は仲良くしたいのに、どうしたらいいのかわからないみたいなのよ。葵ちゃん、夏休みいっぱいこっちにいるんでしょ?仲良くしてあげてね」
「は、はい」
にこっ。笑顔で答えてしまった。
あーどうしよう。本当は顔も見たくないのに。
私は、自分のこういう所がキライだ。
思っていることを、人にハッキリ言えない所。
頼まれると、キッパリ断れない所。
でも、どうしてあんなにやさしい親からあんな子が生まれるんだろう。不思議。
いつもの朝
AM6:00
朝日がまぶしい。
朝もやがかかって神秘的な雰囲気。
木々が生き生きしてうれしそう。
私は思いっきり伸びをしてみる。
空気がおいしい。
気持ちいい。
こっちに来てからは、テレビもパソコンも見ないし(だってそんなものがなくてもいくらでも楽しいことがいっぱいある!)、夜は疲れて早く寝ちゃう、特に規則正しい生活をしているからか、いつもみたいにキートンに起こされなくても自然に起きてしまう。
“早起きは三文の得”
は本当だった!
この日はモー次郎のことが心配で、キートンと朝いちで牛小屋に行った。
「モー次郎。どう?具合は」
モー次郎は柵の中を行ったり来たりして、本当に苦しそうにしている。
「本当にどうしたんだろうね」
「オネエチャン、ナンカネ モージロー オクチノナカガ イタイミタイ」
「えっ?痛いって?モー次郎がそう言ってるの?」
「ウン。ボク モージロートハ オハナシデキル」
「えー!すごいね!キー!早くお家の人に伝えなきゃ」
私は牛小屋から、木村さんの家の玄関へと走りながらとっさに考えた。
?でも、どうやって伝えよう??
まさか、犬が牛から、?歯が痛い?と聞いて、犬がそれを私に伝えた、なんて言える訳がないし、
大体、そんなこと信じてなんかもらえないだろう。
私が逆の立場だったらやっぱりそんなこと、信じられないだろう。
ピンポーン
「はい。どちら様?」
「葵です。朝早くからすみません」
玄関の引き戸がガラガラと開いて蒼空くんのお母さんが出てきた。
「おはようございます。あの、今、モー次郎の様子を見てたんですけど、なんか、口の中が痛そうに見えるんです。もう一度、獣医さんに診てもらえないですか?」
「まあ。葵ちゃん、こんな朝早くからモー次郎のこと心配してついててくれたのね。ありがとう。今日、午前中に診ていただこうと思ってたのよ。でもどうしてわかったの?」
「いや、あのう、えーっと・・・、モー次郎のことをよく観察していたら、どうも口を気にしているように見えたんです」
「ほんとに?」
「はい」
そうして獣医さんが、あぜ道をスクーターに乗ってやってきた。
ピンクのスクーターにピンクのヘルメット。ヘルメットの下からは、ひとつに束ねられた黒くて長い髪が風になびいている。女の獣医さん?わぁ、モデルさんみたい。
先生は颯爽とスクーターから降りて、ヘルメットを外すやいなや、
「おはようございます。モー次郎の様子はいかがですか?」
と、蒼空くんのお母さんにあいさつをした。
「はい。ずっと変わりありません。相変わらず辛そうにしています」
「そうですか」
「あ、あのう・・・」
一緒にいた葵は、思い切って先生にこう言った。
「モー次郎、口をしきりに気にしてて・・・たぶん、痛いんだと思うんです。あのう・・・、口の中も診てあげてくれませんか?」
「口の中?」
「はい。口の中」
「そういえば、口の中、良くは診てなかったわね。こうなったら、あらゆる可能性を考えてみないとね」
?やったあ。モー次郎よかったね。?葵はこころの中で、モー次郎にガッツポーズをした。
「モー次郎、さあ、いい子だからお口の中を先生に見せてね」
先生が、白衣の袖をまくってモー次郎の口をこじ開け、診察をしている間、痛みで暴れるモー次郎の体を、葵は蒼空くんのお母さんとふたり、全身で必死におさえた。
?お願い。いい子にして。先生がきっと治してくれるよ。?そうこころの中で念じながら。
すると、葵の気持ちが通じたのか、モー次郎はやがて、大人しくなった。
「そうそう、いい子ねー。もうちょっとだから頑張って。・・・えっ?・・・」
と、口の中を診察していた先生が不思議そうな声をあげた。
「どうしたんですか。先生」
「あのう、奥様、大変不思議なことがモー次郎の口の中で起こっていまして・・・」
「不思議なことって?」
「えーっと、大変信じがたいのですが、モー次郎の一番奥の歯が虫歯になっています」
「えっ?虫歯?」
「はい。通常ですと、牛が虫歯になるというのはありえないんです。牛というのは基本的には草を食べます。草だけを食べているのであれば虫歯にはなりません。でも、モー次郎は実際に虫歯になった。ということは、草以外のものも食べていたということになります。しかも、1回、2回という程度では虫歯にはなりませんから、継続的に。なにか心当たりはありませんか?」
「いいえ。うちは干し草以外、あげていませんが・・・変ねぇ」
と、蒼空くんのお母さんが首をひねった。
「あ、あのう・・・」
葵がモー次郎から手を離し、下を向いたまま申し訳なさそうに言った。
「葵ちゃん、どうしたの?なにか知ってるの?」
「はい。あのう・・・私・・・モー次郎ともっと仲良くなりたくて・・・毎日、私の持っている、あめをあげてました。本当にごめんなさい」
葵がそう言い切って、思いっきり頭を下げると、両の眼に涙がいっぱい浮かんできて、その大きなが地面にぽたぽた落ちた。
「こんな、大変なことになるなんて、思ってなかったんです。」
葵は、しゃくりあげながら言った。
「そうね、モー次郎ともっと仲良くなりたいっていう、あなたの気持ちはすごくよくわかるわ。先生もあなたに負けないくらい動物が大好きだからね。でも、飼い主に無断で、動物にものをあげたのはいけなかったわね」
「はい」
葵の声が震えている。
「ほぉら。もう泣かないの。かわいいお顔が台無しよ。わかればよし!」
と、先生はにこっと笑って、葵のほおをつたっている涙をハンカチでやさしく拭った。
「さぁて。これは大仕事になるわよ。あなたも手伝って。さぁ!」
先生が葵の両肩を持って明るい声で言った。
葵は涙を腕で拭きながら意を決したように顔を上げると、もう、すぐに笑顔になって「はい」とはっきり答えた。
これでもう、モー次郎が苦しまなくて済む。
モー次郎ほんとにごめんね。
先生は、大きな診療用のバックから、麻酔とペンチとその他の器具を取り出すと、麻酔薬が入った注射器の針のキャップを口で開けて、ペッ、と地面に吐き捨てた。そして、葵が押さえているモー次郎に麻酔を注射した。注射をされるときも、モー次郎は大人しくしていた。
すると、やがてモー次郎は大きな体を横たえて静かに眠ってしまった。
先生は、モー次郎の口を大きく開け、器具を入れたかと思うと、手品のようにいとも簡単にモー次郎の歯を抜いてしまった。
葵はあっけにとられてだまってしまった。こんな細い体でどこからそんな力が出てくるんだろう。と考えていると、先生が、
「あなた、抜いた歯見る?」
と、聞いてきた。
「えっ?あ、いいです」
と、葵が答えると、
「そうよね。ちょっと気持ち悪いかもね。私、記念に取っとこ」
先生はそう言って、紙に包んだモー次郎の奥歯を、大事そうに白衣のポケットに入れて、ポンポンっと軽くポケットの上からたたいた。
「先生、本当にありがとうございました」
蒼空くんのお母さんが頭を下げた。
「いいえ。あと30分くらいで目が覚めると思います。私は、これからまだ往診がありますのでこれで失礼します。なにかありましたら、またご連絡ください」
と、先生は蒼空くんのお母さんに頭を下げると、葵の側にやってきて、耳元でこうささやいた。
「あなた、葵ちゃんって言ったっけ。葵ちゃん、先生のお手伝いよくがんばったわね。助かったわ。ありがとう。葵ちゃんは、動物の気持ちがよくわかるみたいだから、将来、もし獣医さんになったら、いい先生になれそうね」
「えっ?は、はい。あのう・・・実は・・・私・・・獣医さんを目指してみようかなって思ってるんです。私でも先生みたいになれますか?」
「ほんとに?うん。もちろん。ただし、それにはこころを強く持って、絶対にあきらめないこと。そして、自分を信じて、決して努力を怠らないこと」
「はいっ。がんばります」
「でも、私のようになれるかは・・・あなた次第ね」
と、先生は葵に向かってウインクをした。
先生はもう一度、蒼空くんのお母さんに深々とお辞儀をすると、ピンクのスクーターに乗って風のように颯爽と帰って行った。
かっこいい・・・
私、絶対にあの先生みたいな獣医さんになる!
葵は、そう、固くこころに誓った。
葵がふと気付くと、キートンが隣にいた。
「キー、どこに行ってたの?途中からいなくなちゃって」
「ボク、モージロウガ アバレルカラ コワクナッテ、オバアチャンノ オウチニ カエッテタ」
「そっかぁ。キーにも怖い思いをさせちゃたね。ごめんね」
葵はそう言って、キートンを抱きしめた。
こうして30分後、モー次郎は無事に目を覚まし、元通り元気になった。
・・・君は変わった。今の君ならできるはずだ・・・
6
そして、夏休みもそろそろ終わりに近付き、東京の家に帰る日が、明日に迫った昼下がり。
縁側に掛かっている風鈴の下で、相変わらず続いている蝉の大合唱をBGMにして、キートンとふたりお庭を眺めていた。この家には、エアコンがないからこうやって涼をとる。ちょっと山奥だから、窓という窓をぜーんぶ開けるだけで結構涼しい。
スイカを食べたりしながら。
「オネエチャン ボクニモ スイカ チョウダイヨウ」
と、キートンが、葵のひざに右前脚を軽く乗せながら、よだれを垂らしている。
「もー。やめてよ。よだれこっちに垂らさないで。ほーら。キーは、いつも人が食べてるものを欲しがるんだから。モー次郎みたいに虫歯になっちゃうよ!」
「スイカジャ ムシバニ ナラナイモン。 ネーェ イイデショ」
「やーだ」
同じく縁側の端っこにいたみーちゃんが、あくびをしながら迷惑そうな顔でこちらを見ている。
「ナンダヨ オネエチャンノ ケチ」
「そんな言い方」
と、葵はなんだか人の気配がして後ろを振り向いた瞬間、
「あっ」
そこには、おばあちゃんが立っていた。
やばい。聞かれたかも。どうしよう。なんて言おう。
と、とっさに考えていると、
おばあちゃんは、ニコニコしながら、葵にこう言った。
「そんな顔をしなくていいんだよ」
「えっ?」
「ふたりは仲がいいねぇ。まるでお母さんが葵ちゃん位の頃とそっくりだ。お母さんもあの頃、そうやってよくコロと話してたもんだよ」
コロは、お母さんが子供の頃に飼っていた雑種犬だ。お母さんから、コロのことはよく聞いて知っていた。
・・・お母さんも?・・・
「葵ちゃん、こっちで過ごす夏休みはどうだった?」
「す、すごく、楽しかったよ!」
・・・話せる?・・・
「そう。それはよかった。何もない所だけど、またいつでも遊びにおいで」
「う、うん。絶対来るね。その時は、またキーも一緒でもいい?」
私はかろうじてそう答えた。
「もちろん。だって、キートンちゃんは、何でも話せる、葵ちゃんの大切な弟でしょ?」
「うん。・・・ねえ、・・・あのね・・・実は・・・私、おばあちゃんに言わなくちゃいけないことがあるの・・・えっと・・・」
「ああ。葵ちゃん、何も言わなくていいよ。ねえ、葵ちゃん。いつでも自分のこころに正直にね。」
おばあちゃん、優しい声。
「自分が人と違う、なんて恥ずかしがったり、隠したり、そんなことはしなくていいんだよ。?違う?っていうのは、それこそが?個性?であり立派な?才能?なんだから。実際、葵ちゃんは、その才能を使って、モー次郎を助けてあげられたじゃない。だから、自分を否定したり、蔑んだり、そんなことはする必要なし!自分を大切にね。もっと自分を愛おしんであげなさい。安心してこころの翼を広げてごらん。おばあちゃんがいつでもついてるから。こんなにがんばってて、思いやりのこころがあるいい子の葵ちゃんのことを、悪く言う奴がいたら、いつでも飛んでって、このおばあちゃんがやっつけてやる!」
と、おばあちゃんは、両手をグーにしたファイティングポーズをとって、葵ににっこりと笑いかけた。
「おばあちゃん・・・」
葵は、関を切ったように泣き出した。
それは、私の中に嵐が来て、こころの中にあるダムの放流が起こったみたいだった。
私は、おばあちゃんにしがみついてわんわん泣いた。ずっと泣いた。
ダムの水がなくなるまで。
おばあちゃんはあったかかった。
うんうん。と言いながらずっと背中をトントンしてくれた。
どのくらい時間が経ったのだろう。やがてダムの水が枯れてしまうと、
私は、もう、笑っていた。
「おばあちゃんありがとう」
*
一夜明け、いよいよ東京に帰る日。
川田さんのおじちゃんが車で迎えに来てくれた。
「葵ちゃん、もう忘れ物は?ない?」
「はい。大丈夫です。おじちゃん、東京までよろしくお願いします」
「あいよ。乗ってきな」
と、川田さんのおじちゃんは、切符がよくやさしい人だ。まあるくて、つるつるの頭が、夏の終わりの強い太陽の光に反射して、ピカっと光っている。
「じゃあ、おばあちゃん、おじいちゃん、本当にお世話になりました。ありがとございました」
と、葵が頭を下げると、来たときと同じように、キートンも、
「アリガトウゴザイマシタ」
と言いながら、頭をちょこんと下げた。長い耳が地面に着いた。
それを見たおばあちゃんは、クスっと笑った。
きっと、おばあちゃんにも、キートンの声が聞こえたのかもしれない。
でも、私はもう、ドギマギしたりしない。
私は、私だ。これが、今の私が、本当の私。
すると、遠くから、男の子の声がして、?タッタッタッタッタッ?と、こちらに走ってくる足音がする。
蒼空くん?
「おーい。あー、間に合った。おまえ、東京に帰るんだってな」
「うん・・・」
「・・・」
「・・・」
「あ、あのさ、お前、モー次郎のこと助けてくれたんだってな。ありがとな」
「えっ?あ、いや、こちらこそ・・・」
あー、私、何言ってるんだろ。
私は、蒼空くんの口から、意外な言葉が出たことにびっくりして、こんなことを口走ってしまった。
「また来いよな。また、モー次郎と遊んでやってくれ」
そう言うと、蒼空くんは、私の返事も聞かずに走って行ってしまった。
私が、あっけにとられていると、
おじいちゃんが、
「蒼空くんも照れ屋さんだねぇ。わしと一緒じゃ」
と、葵の肩にそっと手を置いた。
「そうだね。おじいちゃん。私、ちょっとだけ蒼空くんのこと見直しちゃった」
きっと蒼空くんも、私と同じくらい動物が大好きで、大切で、愛おしいんだ。
蒼空くんも私と一緒。
すると、足元にすりすりしてくる感触がある。
「なあに、キー、またやきもち?」
と、下を見ると、そこにはキートンではなく、のどを鳴らしている猫のみーちゃんがいた。
「えっ?みーちゃん?」
「マタキテネ。グルルル」
「えっ?みーちゃんがしゃべった!」
「グルルルルル」
「うん。また来るよ」
葵がそういうと、みーちゃんはおばあちゃんの足元にすり寄った。
「みんな、葵ちゃんのことが大好きね」
そう、おばあちゃんが言った。
私は、車に乗り込み、窓から出した手をおばあちゃんの手とつないだ。
おばあちゃんのしわしわのあったかい手
一生忘れない
そして車は動き出した。
おばあちゃん、おじいちゃん、みーちゃんの姿がどんどん小さくなっていく。
私は、涙を拭きながら、いつまでも、いつまでも、おばあちゃんの姿が見えなくなっても、ずっと手を振り続けた。
*
「お母さん、お帰りなさい!退院おめでとう!」
・・・さあ!今こそ、こころの翼を広げてはばたくんだ!・・・
と、葵のこころの中でお父さんが言った
こころの翼(完全版)
いつか生まれてくる自分の子供に私の伝えたいことをお話にして読ませたい。
高校生のころからの私の夢でした。
そんな私の夢の背中を押してくれた友人たちに感謝します。
ぜひ、ご感想をお聞かせください。
アメブロ「ららぁいのおはなし」のコメント欄に書き込んでいただければ幸いです。 http://ameblo.jp/lalaai-lalaai/
ただいま次回作を執筆中です。
童話や俳句などまた更新していきますのでどうぞご愛読ください。
つくもけい