夜の住人

2004.05.02著

翼をください ~ヒナギク~

 ベランダから見える景色はいつもと変わらずあわただしく、息苦しく、湯気で覆われているようにまぶしい。自然と目を細めてしまう。いっそ目を閉じて深呼吸したら、その幸せな白い湯気が体内を巡って羽を生えさせてくれそうな気さえする。わたしはこの時間が好きだ。
手すりにあごをのせてだらだらしていたら、電話が鳴った。充電中の携帯電話を手に取ってみると、着信は高科からだった。わたしは携帯電話をベッドに放り、またベランダに出た。わたしの幸福な時間を邪魔していいのは、ノリオからの着信だけ。
 ベランダから見える景色は、さっきと変わらずあわただしく、うるさく、幸福そうで、人間が柑橘の実のつぶつぶのように見えた。午後四時二十八分。
 また携帯電話が鳴った。高科だろう。SEXのためにああもしつこくなれることについて感心はするが、誉められることではないね、間違いなく。アホなんだ、あいつは。でも、それを言うならわたしもアホだ。知っていて寝てるし。発端はなんだったっけ。ああ、ノリオだ。ノリオが連れてきたんだ。で、頭にきたんだ。単純明快。
 わたしはまたベランダの下の景色に視線を移した。
 少し離れたところにある小さな横断歩道を、親子らしい三人が渡っていた。青信号は点滅していたが、赤に変わった。母親らしい人は小さな子供を抱え、もう一人の子供の背中を押し、小走りに横断歩道を渡りきった。
 わたしはそれを見ていて、身体が縮まってしまうような気がした。なんだか無性にアルコールが飲みたくなった。
 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一息に半分ほどまで飲んだ。大きなげっぷが出て、ようやくわたしの身体は萎縮から解放された。午後四時五十三分。手が震えるほど胸騒ぎがした。飲みかけのビールをあわてて冷蔵庫に入れて、なんだかわからないままにもう一度出して、飲んで、飲んでいる最中に全部飲み干してしまおうと思ってのけぞったらむせて、ビールを噴出したところにシオリちゃんが帰ってきた。
 わたしの胸騒ぎはよく当たる。シオリちゃんは普段この時間には帰ってこない。そしてこんな時間に帰ってくるシオリちゃんの機嫌がいいわけがない。
 シオリちゃんはビールを噴出したわたしを横目でにらみながらぶつぶつとなにか言い、わたしはそれを聞き取ろうとしたのだけどぜんぜん聞き取れなくて、そうしているうちにシオリちゃんが安いチンピラみたいな口調でわあわあ言ってきたので、わたしはあわてて逃げようとしたのだけど、シオリちゃんに腕をつかまれて、そのまま床に転がされてしまった。ちょうどこぼれたビールの上で、トレーナーは悲惨なことになってしまった。最悪だ。
 こういう最悪のループは逃れられないものなんだろうか。わたしはいつも考える。例えばわたしがビールを飲んでいなかったら、避けられたことなんだろうか。ビールを飲んでいてもむせなかったら避けられたことなんだろうか。わたしはどこかでボタンを掛け違えてしまったんだろうか。それとも、最初からこのシナリオは決まっていて、わたしは今日、この時間にシオリちゃんの自由の犠牲になる存在なんだろうか。
 シオリちゃんはパンプスをはいたままわたしにまたがって手とかカバンとかビールの空き缶なんかでわたしをぶった。隙を見て這い出そうとしたけれど、すぐに髪の毛を捕まれてまたぶたれる。いままで何度も繰り返したことで、そうなるたびに逃げてはいけないと思うんだけど、いざその瞬間になると、身体がどうしても逃げてしまう。いくら頭で考えて納得したって、やっぱり身体は逃げてしまう。痛いのが嫌いなんだ、といまさらになって気づく。でも、どうしようもない。わたしが殴られ疲れるまで、わたしの身体はシオリちゃんから逃げようとしてしまう。どうしようもない。
シオリちゃんはわたしを殴り、髪の毛をつかんで頭を床に打ちつけ、頬を打った。わたしがシオリちゃんの手を心配するくらい、打ち続けた。わたしは、何度か逃れようとし、そのうちそれもしなくなって、捨てられたぬいぐるみが車にひかれるように、されるがままに転がっていた。
わたしはノリオのことを考えた。ノリオに最近会ってないなとか、まだなんとかっていう資格試験の勉強してるのかなとか、他愛もないことを。痩せたあごの下の無精ひげ。口の左下のほくろ。シオリちゃんを嫌う目。
会いたいと思った。シオリちゃんを蹴飛ばしてでも、今すぐ会いたいと思った。でもわたしはしない。シオリちゃんを蹴飛ばすことは簡単にできるけれど、それはシオリちゃんをわたしから断ち切ることになってしまう。
シオリちゃんは目を開いてわたしを殴る。でもわたしを見ていない。苦しそうに、手探りで現実の尻尾をつかもうとしているんだろうか、と思う。本当のところはわからない。でも、多分間違っていない。わたしとシオリちゃんはつながっていて、わたしとノリオもつながっていて、高科もあの自転車に乗ったおばさんもつながっていて。シオリちゃんは両手で誰かとつながりたいのに、手で手をつなぐことを知らないから、誰ともつながれないのだ。こんなにも近くにいるのに。宙ぶらりんなのだ。かわいそうなシオリちゃんをわたしは蹴飛ばせない。
シオリちゃんはわたしから離れて、今度はあらゆるものをわたしめがけて投げてきた。ビールの缶、テーブルの上の雑誌、スリッパ、履いてたパンプス。わたしはずるずると起き上がり、飛んでくるものを体で受け止める。痛い。けれど、大丈夫。肉の痛みは越えられる。
光とともに舞い降りてくるマリアのようにシオリちゃんに歩み寄り、頬をなでてやればいいんだろうか、と考える。わたしはシオリちゃんを救いたいと思っている。でも、わたしにはわかる。血のつながりは時として夜空よりも濃いけれど、月の大気よりも薄いことを。シオリちゃんの破ろうとしている殻は、わたしやノリオでは破ることができない。手助けもできない。これ以上は近づけない。
あらゆるものが散乱する中でそんなことを考えているうちに、シオリちゃんはいなくなっていた。部屋にこもっているのだろう。いつものことだ。シオリちゃんに決定的に足りないものは、想像力なのだ。握りこぶしほどの想像力ではなにも壊せない。
わたしは立ち上がった。木屑のような気分だった。しょうがないんだ。どんなふうにがんばっても、これは避けて通れない道なんだ。と自分に言い聞かせた。
流しで手と顔を洗おうかと思ったけれど、シオリちゃんが出てくるかもしれないと思うと、水を出せなかった。だからそのままの格好で外に出た。
外はもう薄暗くなっていた。明かりがつき始める時間だった。外階段を降りて道に出て、街の流れに乗って歩いた。みんな家に向かって歩いている。もしかしたら愛人の家に行ってるおじさんがいるかもしれないし、塾に向かう子供もいるかもしれない。でも、みんな目的を持って歩いている。
わたしはどんどん歩調を速めた。そのまま走り出したいくらいだった。駆け出したら背中に羽が生えて、あの地面に近い月までならば飛んでいけそうな気がした。でも、わたしは走らない。
わたしの足はノリオの家に向かっていた。ノリオはきっとわたしをみて、またシオリちゃんを嫌うだろう。でも、じゃあどうしたらいいんだろう? わたしはやっぱり飛べないのだ。時には暴力的に翼が生えて、わたしを空へ放り出してくれたらいいと思う。けれど、わたしはそれをちぎってでも、逆らうんだと思う。
そういうことが、シオリちゃん、わかる?

仮面ライダー ~ノリオの月~

 家に帰ると、ヒナギクが部屋の前で眠っていた。今日の殴られ具合はなかなかのもので、ため息をつくしかなかった。ヒナギクを揺すり起こして部屋の中に入れた。
 シオリはなんだってヒナギクをこんなにしてしまうんだろうか。何度か話しはしてみたものの、シオリの言っていることは俺には理解できず、ヒナギクはさんざん殴られているのにも関わらず「いいから」の一点張りで埒があかない。ヒナギクはどうしてシオリにやられっぱなしなんだろうか。この二人はどうしてわざわざ一緒に住んでいるんだろうか。
 何度も何度も通ってきた道を、今日もまたヒナギクの手当てをしながらたどる。手当てを終えるころにはいつもの言葉にたどりつく。しょうがないんだな、と。この二人は俺よりも濃い血でつながっているのかもしれない。
「今日お風呂入ったりしたら、痛むかな?」
 ヒナギクが俺のベッドで転がりながら言った。痛むよ。だから風呂なんて入らないで寝ろ。と、俺は言った。
「おにいちゃんっぽい」
 とヒナギク笑ったが、お兄ちゃんなんだからしょうがない。
 服を着替えてベッドのそばで本を読んだ。ヒナギクは眠るとき俺がいないといけないらしい。指切りしてと言い出す幼稚さに負けて、俺はヒナギクが眠るまでそばにいることにしている。実際めんどうなことだが、負わなくてもいい傷を負っているヒナギクを少しでもいたわってやりたいと思っているからだ。
 眠りそうなヒナギクの顔を見ていた。口の端が腫れている。額にこぶができている。手の甲に引っかき傷がある。耳の後ろにあざがある。数えだすときりがないほどヒナギクはあざだらけだった。
 ヒナギクの手を握ってみた。熱くて湿っていて、大人になりきれない手をしているように思えた。事実、ヒナギクはいつだって大人になりきれていないように見える。でもそれは、家族だからかもしれない。末っ子のヒナギクは、俺にとってはいつまでも末っ子だ。
 俺とヒナギクは一回り歳が離れている。だから当然赤ん坊のころから知っている。幼いころのヒナギクは、一人の世界で遊ぶことをを好んでいた。絵本やぬいぐるみがヒナギクの遊び相手で、でもそういえば少しくらい遊んでやったかもしれない。小さいくせに指なんてちゃんと五本ついてるよ、くらいは思ったかもしれない。
 俺が二十歳、シオリが十八歳、ヒナギクが八歳のときに親父が癌で死んだ。多額の保険金が入ってきたので経済的に苦しいということはなかったせいか、父親の不在というものに危機感を感じることはなかった。
 二年後、新しい親父になる人が来た。金本さんというやさしげな人だった。けれどそのころの俺にとっての新しい親父という存在はさして興味深いものではなく、そのせいか少し俺は居心地が悪くて家を出た。それは当然の違和感だった。死んだ親父の跡形に、新しい親父がすっぽりはいるわけじゃない。
 ただ、金本さんの隣にいる母さんは幸せそうで、彼は父親として申し分のない人柄で、幼いヒナギクにとっての彼のような父親の存在は輝かしい未来への切符のように思えた。だからいざ再婚すると聞いたとき、反対するわけなどなかったし、二人のために安定した場所を早く作ってやりたくて少し一生懸命になってみたりした。俺に応えるようにか、金本さんもすぐになじんでくれて、ヒナギクのことは三人の子供の中で一番かわいがってくれた。
 ヒナギクが家を出ると言い出したのは、高校入学の時期だった。家から通えない範囲でもないのにと俺は思ったし、母さんも疑問を感じていたようだが、結局ヒナギクは家を出た。シオリがヒナギクと一緒に住むと言い出したのだ。シオリはヒナギクのことが好きではなかったようだし、ヒナギクも本能的にそれがわかるのかシオリにはあまり近づかなかった。しかし二人は一緒に住むことになった。一人暮らしをさせるくらいなら姉と住まわせるほうが安心だと母さんは思ったのだろう。ヒナギクはいま、殴られるごとに俺の住んでいるアパートに来るけれど、基本的にはシオリと住んでいる。あざだらけのヒナギクは、しばらく母さんに会っていない。
 俺は家を出ると言い出したころのヒナギクを思い起こした。十五歳のヒナギクは、思春期独特のむせるような匂いを放っていた。世界が狭いからこそできる、強い視線で前を向いていた。そして、思い直させようとすることができないほどの強い意志で、家を出ると言った。
そのころ俺はヒナギクとはあまり顔をあわせることがなくなっていた。ときどきその話を母さんから聞くために家に帰るたび、ヒナギクの強い匂いや急激に成熟しつつある胸や、そしてまるで一皮一皮剥けていっているような腕の付け根に、見知らぬ女の人に会っているような錯覚を起こした。
 父親としての存在感が板についていた金本さんは、ヒナギクがシオリと一緒に住むことに強く反対した。俺ははじめて金本さんをうっとうしいと思ったように覚えている。それくらい猛烈な反対だった。けれどヒナギクは金本さんの反対をものともせず、家を出ると言い出した年の夏の終わりにはシオリと一緒に住むようになった。
 俺は今でも金本さんがあんなに反対した理由がわからない。そしてヒナギクを動かした強固な意志もわからない。知るわけがない。
 俺はすぐそばで寝息をたてているヒナギクの寝顔を見た。熱っぽい、見慣れたころの幼いヒナギクの寝顔があった。俺の知っているヒナギクの歴史は、ある部分で大きく欠如している。それはそのまま俺とヒナギクとを隔てる大きな亀裂となっているのだろう。俺は今はじめてその亀裂を前にしていた。覗き込むと握りつぶされてしまいそうなほどの濃い闇から、あの夏のむせ返るような匂いを含んだ風が吹き上げてきそうだった。
 軽いめまいがした。カタツムリが葉を食うようなスピードで、確実に俺は混乱してきている気がした。俺は動かなければいけない。このままじっとしていると、俺自体が蝕まれてしまう。
 ため息をついて本を閉じ、そっとベッドを離れた。小さなキッチンで熱いコーヒーを入れている最中、情けないことに足元や腕や首元に気持ちの悪い足跡がついている気がしてしょうがなかった。のどを熱い液体が通り過ぎたとき、ようやく俺はひとまずカタツムリから逃れられた気がした。ようやく肩の力が抜けた。
踏み込みすぎてはいけない。一度にすべてを救えるほど、俺の両手は広くない。
 俺は改めて振り出しに戻った。シオリはどうしてヒナギクをこんなにも殴ることができるんだろうか。
シオリの考えていることなんて糸ほどもわからない。けれど、ひとつだけ心当たりがある。ヒイラギだ。
 俺はコーヒーを飲み干し、ヒナギクのそばに戻った。そしてしばらく目を閉じ、時計の針の音とヒナギクの寝息だけを聞いていた。そうしていたら、ようやくいつもの自分が戻ってきた。冷静になったところで、俺はヒイラギのことをひとつずつ丁寧に思い出した。
 ヒイラギは俺の友達だ。昔からひとり地に足がついていないようなやつだった。発言や行動はいつだって浮いていたし、もともと色素が薄いやつだから容姿も目立っていたし、ヒイラギのことを苦手だというやつも多かった。けれど俺はヒイラギのことが嫌いではなかった。やつと一緒にいると引き立て役になっているような面白くないところはあったけれど、それを差し引いてもヒイラギといるのは楽しかった。こ
 ヒイラギが転校する少し前に、近道として通っていた空き地で血まみれになって死んでいるネコを見つけたことがあった。俺はむごさに目をそむけたが、ヒイラギはそのネコを持っていた体操服にくるみ、空き地の隅に埋めた。土は固く、掘り起こす道具のない俺たちは素手で穴を掘った。埋め終わって手を合わせているヒイラギの指先からは血がにじんでいた。
 しばらくしてヒイラギが校内で傷害事件を起こした。ひとつ上の学年のまったく面識のない生徒を、突然カッターで切りつけたのだ。わざわざそいつの教室まで行き、大勢の生徒のいる前で腕や足や顔を切りつけ、言ったそうだ。
「あのネコはもっと痛かったろうにね」
 冷たい印象だったヒイラギの熱せられている姿は、黒々とした炎を思わせた。
 それからすぐにヒイラギは転校し、俺たちは疎遠になった。しかし俺たちは十年後に偶然再会し、今に至っている。
 シオリとヒイラギが出会ったきっかけは誰でもない俺だ。そして俺の記憶では、透けそうな存在感だったシオリが突然豹変したのもヒイラギと出会った直後のことだ。凍った爆弾のようなシオリは、ヒイラギに出会うべきではなかった。そしてもう二度と会うべきではないのだ。シオリは終わりのない螺旋階段を、ヒナギクを巻き込んだまま狂ったように駆け下りている。シオリを止めなければ、ヒナギクのあざが治ることはないだろう。
 シオリとヒイラギを結び付けた俺には、この終わりのない螺旋を止める責任がある。
ヒナギクはぐっすりと眠っている。朝まで目を覚ましそうにない。俺は決着をつけるべく、ヒイラギのアルバイト先へと行く決心をした。
 そのままのかっこうにコートだけを引っ掛けて外に出た。夜とは思えないほどの明るい月が道を照らしていた。月の光があまりにくっきりと景色を映し出すものだから、俺はやや不安になった。でも、月の光くらいで怖気づくのは情けなさ過ぎる。
 俺は歩いた。何度も何度も月を見上げながら、ヒイラギに向かって歩いた。

狼狽 ~ヒイラギの月~

 空にぽっかりと月だけが浮かんでいる夜は、電話が鳴らない。ボクは知っている。
 月の光はヒトの寂しい部分を絶妙に刺激して、ハーゲンダッツのキャラメルクリームくらい甘くさせるのだ。そんな夜は歩いたほうがいい。いいことも悪いこともマーブル状に交じり合って、月に溶けていく。月は何もかも知っている。人も知っている。だから誰もタクシーなんかに乗りたいと思わないのだ。
 なんてことを、本当に鳴らない電話を前に考えていた。ボクがバイトしているタクシーの詰め所は、連日開店休業状態なのだ。ひまが怖くないボクにとってはありがたいことだけど。
 ぺらんぺらんとライター雑誌をめくっていると、いつの間にか窓の向こうにノリオがいた。ノリオは口パクで「ひま?」と聞いた。俺は声に出して
「当然」
 と言った。入ってきたノリオは無精ひげがはえていて全体的にもっさりとした感じだったが、そもそものインテリ顔がデカダン調ともいえなくない感じで、モッズコートがよく似合っていた。
「珍しい。無精ひげなんて」
 缶コーヒーを片手に立っているノリオに言うと、
「最近泊り込んでたから。家帰ったらヒナギクが来てて、めんどくなったからそのまま来た」
 と、なにやら焦っているように言った。
ノリオはストーブをはさんだ向かい側のソファにどっかり座り、二、三回気ぜわしく煙草を吸って缶の中に吸殻を捨てた。ボクはぽわんと白くてマシュマロのようなヒナちゃんを思い浮かべていた。ヒナちゃんを食べたら、しゅわしゅわと口の中で溶けて、ほんのり甘くて、跡形もなくなるんだろうな。その味は淡すぎて、食べちゃったことを忘れてしまって、そのうちヒナちゃんがいたことも忘れてしまって、最初からなかったものになってしまうんだろうな。ヒナちゃん。ボクがぼうっとヒナちゃんについて考えていると、ノリオがちょっと上ずった声で言った。
「お前、シオリに会ったろ?」
 ノリオはいつの間にかコートを脱いで、ソファに横になっていた。ボクはノリオが強引に自分のペースに持っていこうとしていることに軽い苛立ちを感じながら、シオリのことを思い浮かべた。硬くて冷たくて匂いのない、ろうそくのようなシオリ。
「会わないでくれって、俺頼んだのにな」
 ノリオは寝返りをうちながら、どうでもいいような感じで、でも本当は全然どうでもよくなんかないって感じで言った。悪意ある小回りの回りくどさ。そういうのはとてものどが渇く。
「お茶いれるけど、ノリオもいる?」
 ボクがよっこらしょと席を立つと、ノリオは変身しそうなくらいの勢いで起き上がって言った。
「返事しろよ」
 ボクはポットの前で出がらしの入った急須にお湯を入れ、薄いお茶をれ、そして言った。
「シオリは来たよ。でも今日じゃない。二週間くらい前の話だ」
 ボクがしゃべっている間も、しゃべった後も、ノリオの目や眉間の辺りはとてもイライラしていて、ボクはお茶を飲んでいるというのにカラカラに干からびそうになった。
「もう何度も言ってるでしょ。ボクからはシオリに会いに行ってないし、連絡もとってない。ただね、シオリが来るのは拒めない。拒む気もない。シオリの自由だからだ。
 ボクはね、シオリのことが好きでも嫌いでもなければ必要でも不必要でもないんだよ。シオリはボクにとって空気のような存在なんだ。ボクからシオリを消し去ることはできない。血のつながりがない双子みたいなもんだよ。ボクは間違いなくノリオよりもシオリのことがわかるし、シオリもそうだ。だからってね、ボクはシオリをどうすることもできない。ノリオがどうすることもできないようにね。
 それにね、ボクは思うんだけどさ、シオリはボクと会っていようとなかろうと、すでにああいうヒトだったんじゃないかな」
 ボクはイライラしていた。何度も口にした台詞をまた口にしなければならないことと、飲んでも飲んでも潤されない渇きとが、最高にボクを不愉快にさせていた。
 だいたいノリオは大きく勘違いしている。ボクとシオリのあいだに肉体関係以外のものはない。しかもそれはたいした問題じゃない。ボクは思うんだけど、ふたりきりの逃げ場のない場所で、こうやって塗り固めるように話をしているほうがいくらも濃厚で不埒でトチ狂いそうな気がするんだけどね。
 ボクはお茶を飲み干し、空になった湯飲みにまたお茶を入れた。ノリオは頭を抱え込んで、両膝を小刻みに揺らしていた。ああ、のどが渇く。
「違う。お前とシオリは出会うべきじゃなかったんだ。俺はそう思う。だからもうシオリとは会わないでくれ。お願いだ」
 なんだかもうこれ以上はないくらいに情けない声でノリオは言った。懇願するノリオは哀れで哀れで救いがなかった。きっとノリオの目には苦しんでいるシオリしか映らないんだろう。じゃなきゃこんなことわざわざ言うわけがない。ノリオは特撮ヒーローみたいなやつなんだ。かわいそうに。
 でもね、だからといってボクはやっぱりノリオの言ってることが全部正しいとは思えないし、好き勝手やってるシオリをとめる気もないし、かわいそうなノリオに同情して言いなりになるつもりもないし、ぼこぼこにされているヒナちゃんなんて特にどうでもいいんだ。そもそもボクはヒナちゃんなんて嫌いだしね。それはノリオも知っているだろ?
 ボクはね、むちゃくちゃ腹が立ってるんだよ。傷を負ったものをいたわってやることは、お前が傷を負うこととは全然違うんだよ。適当に目をそむけて、腐った正義を振りかざして、善悪がフラグ化してるお前は、弱者じゃなくて負け犬なんだ。目に見えるものだけしか信じようとしないお前に、ボクは同情するね。耳元でアホで愚かだと言ってやれるね。
 でもね、ボクはノリオが好きだよ。ノリオと、シオリと、ヒナギクとの、胃袋のものを吐き戻したくなるような気持ちの悪いもどかしさも好きだよ。わかるかな。これはノリオ的にはフラグが立っている状態なのかな。どっちだっていいんだけど、そういうのもあるってことだよ。まあ、ボクはちょっとあいまいすぎるかもしれないけどね。でもスタンスとしては間違ってないと思うよ。だからボクはノリオのいうとおりにはしてやらない。そういうこと。
 ボクはノリオの顔を見ながらお茶を飲み飲み、そういうことを考えていたつもりだったんだけど、気づいたら口がぺらぺら動いていた。ノリオは怪訝なような、怒っているような、不思議な顔をしてボクを見ていた。多分ボクも同じような顔をしていたと思う。だってボクも自分で自分がさっぱりわからなくなっていたから。
 でもボクはしごく冷静だった。長年心もとなかった足元が、ようやくかたまったような安定した気持ちでいた。
 あともう少しでボクのゆがんだ部分の輪郭が音を立てて割れそうだった。ここでノリオがキレてボクを殴ってくれたらな、とボクは思った。そうしたらボクはようやくひとつになれて、ノリオやヒナちゃんのことを簡単に好きだといえるようになるんじゃないかな、なんて自分勝手にも思った。
 ボクが半分祈るような気持ちでいるとき、ノリオは顔をふせて「はは」と、笑った。そして黙々とコートを着て
「とにかく、シオリには会わないでくれ」 
と言ってさっさと出て行った。
 ボクは湯飲みを持ったまま、安物のサッシに縁取られた暗闇をしばらく見ていた。口の中がカラカラだった。サッシの向こうはのどの渇きとは程遠い、冷えびえとした暗闇だと言うのに、ボクには蒸し暑い夏の墓地のように思えた。
 ノリオのせいだよ、多分。と、ボクはつぶやいた。そして持っていた湯飲みにインスタントコーヒーを時間をかけていれた。ノリオが戻ってくるような気してたから。でも、ノリオは戻ってこなかった。
 熱くて持つところがなくなった湯飲みをつまむように持って、外に出た。月は変わらず煌々と出ていた。
 ボクには、シオリはどこか別の場所にいるように思える。それは置き去りにされたとも、流されたとも言い換えることができるんだろう。突き詰めればシオリ自身がそこへ行ったことになるんだろうけど、ボクにはシオリは望みもしないのにそこに連れて行かれたように見えるんだ。そこでシオリはひとりきりで抗っている。壊して、作って、また壊して。ボクはそこからの脱出の踏み台に過ぎなくて、踏んでいけばいいと思う。シオリは、シオリの行きたいところへ行けばいい。ボクは一緒には行かないけれど。
 惜しげもなく光を降り注いでいる月を見ていたら、遠吠えする狼の気持ちがわかるような気がした。

一匙のハチミツ ~シオリの月~

 月明かりのしたで金魚を眺めていたら、時計の針はとっくに十二時を回っていた。
 わたしは金魚を起こさないようにそろそろとベッドから抜け出し、投げ散らかしたものをゆっくりと片付けた。ヒナギクの部屋も、もとよりもきれいに片付けた。わたしはヒナギクの毛抜きの場所だって知っている。
 一時間ほどで部屋は片付いた。なにも転がっていない、すこしほこりっぽいキッチンの床に座って、冷蔵庫から水を取り出した。
 黄色い光の筋を作る冷蔵庫と、照るように光っている丸い月と、水をこぼしながら飲むわたし。月が光を放つ音しか聞こえてこない。完璧な夜だ。風が吹いたら、星が流れてしまいそうな、完璧な夜だ。
 いい気分になろうとした。わたしのために傷ついてきたものたちを足場に、いろんなものを踏みつけて、わたしはいい気分になるべきだった。でも、それができない。よく見ると、月はまん丸ではなかった。でももっとよく見るとまん丸に見えた。わたしは月の片割れを探して目を凝らした。でも、凝らせば凝らすほど月は形を変えていった。
 びたびたにぬらした床を拭いていると、海に行きたくなった。月光の音は波の音とよく似ているように思えてきたから、確かめたくなったのだ。わたしは丸い金魚鉢にラップをかけて金魚を助手席に乗せ、車に乗った。冷えているからかエンジンがかかりにくかったけれど、ローンの終わっていない愛車を何度か蹴っとばしたら、気持ちよくエンジンがかかった。鈍いやつ。さっさと動いていれば蹴られることもないのに、と思ったけれど、ものも持ち主に似てくるのかもしれないと思い直した。
 夜中のドライブは気持ちがいい。道はどこもかしこもがらがらに空いているけれど、わたしはあえて有料の橋に向かう。お金を払うことで、堂々と見えるものを独占できる気がするからだ。気がするだけで、実際やっぱりこの時点で遠慮がちじゃないかと、みみっちぃ小市民な自分が一瞬いやになるけれど、そんなのは海からの風に吹き飛ばしてもらう。橋の通行料金は二百円。夜中の橋の真ん中には二百円以上の価値がある。
 わたしはもうすぐで到着する橋の真ん中を思いながら、金魚に話しかける。ねえ、金魚。今日は風は強いかな。寒いかな。波の音は月の光の音と似てるかな。
 でもこの日、わたしは夜を満喫できずにドライブを終える。運の悪いことに、着いて早々に手を滑らせ、落としかけた金魚鉢を追いかけて橋から落ちてしまうのだ。ご丁寧に橋のどこかに頭をぶつけて海の中へ。ガツン、ドボンの短い時間の間で覚えているのは、手をすべらせた瞬間に背筋をはしった電流と、頭の骨がどうにかなった音と、月の光を反射した滑らかに黒い海だけだった。
 目が覚めたときノリオがすぐそばにいた。ノリオはしばらく驚いた顔のままわたしを見つめていたが、ばたばたと病室から出て行き、看護婦さんとお医者さんを呼んで病室に戻ってきた。なんだかわけのわからないままにべたべたと触られて、わたしはまたすぐにノリオと二人きりになった。そこでここまでのいきさつをご丁寧にノリオが説明してくれたのだった。
「今回は奇跡的に助かったものの、死んでたらどうするつもりだったんだ」
とノリオは真剣に言った。わたしは死んでたらどうもこうもないよ、と笑った。ノリオはしばらく頭をつぶしそうなほど抱え込んで、コーヒー買ってくると言って病室から出て行った。
 また怒らせてしまった。わたしはいつもノリオを怒らせてしまう。自分でもわざとそうしているのがわかる。でも理由はわからない。わたしの中にはそういうものが多すぎる。
ノリオはもう二度と現れないような予感がした。けれど、ノリオと別れるときというのは、いつもだいたいこんな感じなのだ。
 わたしは反省した。ノリオの前では、思いついたことを思いついたときに口にしてはいけないのだ。いったん飲み込んで考えてでないと、わたしはノリオを傷つけてしまうし、わたしも傷ついてしまう。頭ではわかっているけれど、すぐに忘れてしまう。わたしはどこかが壊れているんだろうか。やっぱりなにかが足りないんだろうか。
 目の奥が鈍く痛んできたので、わたしは眠ることにした。眠る前にあの日のことを思い出そうとしたが、浮かんでくるのはやはり落ちる直前のさっき思い出したのと同じ場面ばかりで、しばらくするとまぶたの裏にぬらぬらとした黒い海が焼きついてしまって、まるで悪夢のようにわたしにまとわりついた。
 目が痛む。目を両手で覆うと壊れたフィルムのように何度も何度も焼きついた場面が繰り返される。逃げられないと思う。気力だか体力だか、そういうものが吸い取られているような気がする。けれどそれは苦痛を伴うだけではなかった。するすると壁を伝う水のように、痛みの隙間からほの温かい海水が染み入ってきているような、気持ち悪さと気持ちよさの中間点があった。わたしは追わずにはいられなかった。そして考えずにはいられなかった。
 あの瞬間、あの人生でもう二度と味わえないであろう瞬間に、本当はなにを見ていたんだろうか。
 目が覚めると枕元にヒイラギがいた。
「定番の桃缶」
 とヒイラギは言って、背の高い桃の缶詰を三つ目の前に置いた。缶のひとつが倒れて転がって、わたしの頬に当たった。
 桃缶は風邪の時の定番でしょ、とわたしが言うと、
「ボクにとっては病人もけが人もいっしょなの」
 とヒイラギは言った。そして
「じゃ、帰るね。ノリオに見つかったら殺されかねないから」
 と、立ち上がった。わたしはあわててて
「き、金魚が」
 とヒイラギにぶつけた。ヒイラギは無表情に振り返った。
「金魚といっしょに海に行ったの。金魚鉢に入ってたの。金魚寝てたんだけど、ラップしてたから平気だと思うんだけど、金魚、落ちちゃって、わたしは追いかけて落ちちゃったの。金魚、大丈夫だと思うよね。海の中でも」
 支離滅裂なのは言葉が口からこぼれる瞬間にわかった。けれど止められなかった。いまここでヒイラギを引き止めなければいけないと、それだけ思っていた。
 ヒイラギは息も絶え絶えな老犬を見るように、わたしを見ていた。そんな顔させるつもりはないのに、そんな顔されたくもないのに。
「まん丸に見えるまん丸じゃない月が出ててね、波の音みたいな音が聞こえてきてね、それで海に行ったの。金魚はいつもいっしょなの。昼間いっしょにいられないから夜はいっしょにいるこことにしててね。
 月がね、まん丸なのかどうなのかわかんなくてね、広いところで見たらわかるかもって、橋に行ったの。ノリオが大げさに言ってるかもしれないけど、本当にそれだけ。でも月なんて見てないんだけどね。あんまり」
 しゃべればしゃべるほど惨めになっていった。気づかないうちに一生懸命になっていたようで、呼吸が上がっていた。こんなに言葉を並べても、ひとかけらも伝わっていないのだということが、口の中に砂を詰め込むよりもつらかった。
 ごめんね、もう寝るから。ごめんね。引き止めてごめんね。と、わたしはヒイラギの視線を感じながら布団をかぶった。しばらくして、ヒイラギの声がした。
「満月っていうのはね、まん丸じゃないんだよ。実のところ。一匙のハチミツが垂れるくらい、足りないんだよ。本当はね」
 やさしく諭すようなヒイラギの声は、実際の距離よりもずっと近くで聞こえた。長い指で布団越しに肩をやさしくかかえてくれた。ヒイラギのちょっとかすれた声は、こんなときのためにあると思わせるほど、ささくれ立った神経を優しくなでてくれた。
 わたしはあらゆるたがが力を緩め、骨の髄から安心できるような気持ちになった。このまま目を閉じれば、絶対に悪い夢なんて見るわけがないと断言できるような安らかな気持ちだった。
 けれど、わたしの中のどこかが、またその心地よい手をはねのけようとしている。ヒナギクを殴っているときのような。なでられた後から、まったく新しいささくれがざわっと立ち上がってきている。頭をかきむしりたくなるような苛立ち。
 これはヒイラギにぶつけてはいけないと、体が知っている。だからわたしは耐えた。
「帰って」
 食いしばった歯の奥から、かろうじて押し出した声は全部を台無しにしてしまうような細い悲鳴だった。ヒイラギは、風が去るようためらいもなくに部屋から出て行った。
 わたしはわたしをかかえたヒイラギ手の余韻が完全に消えたころ、じっとしていられなくなって起き上がった。そして枕元に転がる桃缶を三つともドアに向かって投げつけた。力いっぱい投げたつもりだったのに、ひとつはベッドのふちに当たって落ち、ひとつはベッドのふちにかろうじてぶつからないくらいの場所に落ち、最後のひとつはベッドのふちに当たってベッドの上に転がった。桃缶のやる気のなさは、わたしの動きを止めた。
 わたしの中になにかがいる。動こうとしている。わたしを、乗っ取ろうとしている。それはずいぶん前からわかっていたことだった。あらゆる場面にそれはいる。でもそれは、わたしの中にいるものだからわたしのかけらかもしれない。いや、かけらはわたしでもあって、乗っ取ろうとしているそれもわたしであって、わたしの知らないわたしのかけらも実際たくさんあって、全部が合わさってわたしになっているのかもしれない。
 頭が混乱してゆくのが手に取るようにわかった。だって目が回ってる。ベッドにぱたりと横になった。気分も悪いし、瞬きすることさえ苦しい。頭も痛い。桃缶なんていらなかった。やさしくしてほしかった。非の打ち所がないほどにやさしくされたかった。そしてわたしもやさしくしたかったのだ、わたしは。ここにいるわたしは。
 気づくとわたしは眠っていたようで、目を開けると部屋は真っ暗だった。なんの音もなく、空気の揺れさえない。でも、なにかしらの生き物のたくさんの視線を感じた。巨大な冷凍庫の中のようだと思った。
 目を慣らそうと闇に目を這わせ起き上がると、足元にヒナギクがいた。
「シオリちゃん、あたしはシオリちゃんなんてやっぱり大嫌いだよ」
 もともと色白な子だったけれど、足元にいるヒナギクは死人のように青白く、別人のようだった。
「でもね、生きててよかった。そんなに簡単に死んじゃうなんて、ずるすぎると思ってたもん」
 別人のようなヒナギクは淡々と言った。目を閉じているのか、開いているのかわからないくらいの真っ暗な空間なのに、ヒナギクはくっきりと見えた。わたしは自分がどこにいるのかわからなくなっていた。
「シオリちゃんなんて大嫌い。どす黒い血の色でそう思ってるの。だけどね、全然違うところで死ななくてよかったって、確かに思ってる。悔しくもなければうれしくもないところでね。シオリちゃんにはどうせわからないだろうけど、それだけ言いに来たの。ざまみろ」
 気づくとヒナギクはいなかった。真っ暗だった部屋は、窓からの薄明かりであいまいな輪郭を浮き上がらせていた。わたしは眠っていたのかもしれなかった。けれど、ヒナギクの立っていた場所には、まるで人形のようだったけれど生々しくむき出しにされたヒナギクの存在感が、暗闇に消されることなく漂っているように思えた。
 わたしはベッドから抜け出し、ヒナギクの名前を呼びながら歩いた。廊下を、階段を、外へ続く扉を。空にはたくさんの星が出ていた。緩やかなぬるい風が吹いた。目に見えない小さな命を持つものたちが固りとなって、わたしにぶつかってきているような濃密な風だった。
 ヒナギク、と呼んでぐるりと空を見上げた。月のない夜空だった。真上をぐるぐると見渡していて、わたしは自分の髪の毛が伸びていることに気づいた。髪の毛をつかんだ。怪我をしているはずなのに、包帯はされていなかった。よくよく見渡すと、そこはまったく見覚えのない場所で、着ている緑の寝巻きさえ心当たりのないものだった。
 ひどいめまいがした。うまく呼吸ができなかった。ヒナギク、ヒナギク、と何度も呼びかけ、満天の星空に月を探した。月が出ていれば、月さえ見つかれば、わたしはわたしを取り戻せると信じて。
 わたしはその場に座り込み、空を見上げておいおいと泣いていた。月は見つからず、ヒナギクは現れず、わたしはわたしかどうかもわからないままに絶望して。やがて黒い制服を着た男の人と、白衣を着た女の人がやってきて、わたしをかかえるようにして立たせて歩かせた。わたしはその間もずっとおいおいと泣き、ヒナギクの名を呼び、月を探した。でもヒナギクも月も一匙のハチミツのような細い光さえも、刺すような光を放っている星々の中には見つけられなかった。
 わたしは屋内へ連れて行かれた。そして目の前でドアが閉じられた。瞬きの間に、あの夜のすべらかな黒い海が見えた。
 金魚は、海の中の金魚鉢のなかで、浮き沈みしながらも月を見ることができているんだろうか。
 遠くに女の人の声を聞きながら、わたしはそんなことを考えていた。

夜の住人

夜の住人

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-06

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  1. 翼をください ~ヒナギク~
  2. 仮面ライダー ~ノリオの月~
  3. 狼狽 ~ヒイラギの月~
  4. 一匙のハチミツ ~シオリの月~