保健の先生

2001/11/01著

 とにかくもう会社を辞めるしかないと思って辞表を書いた。疲れた、行きたくない、朝が来なければいいのに。そう思い始めてちょうど1ヵ月後のことだった。
 会社を辞めて何もない日がしばらく続いた。自分では危機感など感じなかった。一人暮らしだがそれなりに貯蓄もある。半年ぐらいなら働かずに過ごせる。半年後、バイトでも正社員でも、とにかく働いていればいい。とりあえずそれを目標にした。
 朝起きて、夜眠る。生活は規則正しくなった。時間がたくさんあるから自炊もしはじめた。包丁を持ったとき、本当にひさしぶりに料理をするなと思った。そんなに重くはないけれど、しばらく包丁の重さを楽しんだ。
 手作りの野菜炒めと炊きたてのご飯を食べていると、会社に行くだけだった日々より絶対に健康的だと思えた。
 私は部屋から出なくなった。昼間のスーパーでのんびり買い物をするときぐらいしか玄関のドアを開けることがない。窓は開けるのに空気が滞っている。密閉容器に閉じ込められているような気がした。3週間もそういう生活をしていると、玄関のドアをあけるたびに密閉容器を蓋を開けているような抵抗を感じるようになった。

 ある日突然電話が鳴った。平日の昼間かかってくる電話といえば化粧品の押し売りぐらいのものだ。迷惑そうに受話器を上げると、母だった。
「近々美香が行くからよろしくね」
 と言った後、間髪いれずに「いつもなにしてるの?」「もう働かないの?」「うちに帰ってこないの?」と質問攻めにあった。マシンガンのように責めたてる口調は非があろうとなかろうととりあえず謝っておくかという気分になる。無意識のうちに口が動いた。
「はい、ごめんなさい。そのうち働くから心配しないで」
 ああ、うんざりだ。もう私も25になったというのに。
 妹は翌日現れた。なんだか不機嫌そうな顔だ。私と美香はむっつりしているときほど顔が似ている。久しぶりによく似た顔を見ながらお茶を入れた。
「暇なんだったら私のバイト先でバイトしない?」
 お茶を出すや否や、予想通りのことを話し始めた。
「インディーズってお店。知ってるでしょ。1階はカフェでね、地下がレストランになってるところ。私はレストランの方でバイトしてるんだけど、人が足りないのはカフェなんだって。平日の昼間だけ8時間ぐらい。丁度いいんじゃない?」
 抑揚のない棒読みでそう言った。相当機嫌が悪いらしい。美香は落ち着いたタイプではないが、今日ぐらいイライラしている日は少ない。不機嫌な理由は知らないが、断って怒りを倍増させる必要もないので、とりあえず快く引き受けた。妹はさして嬉しそうでもなく、事務的に面接の日付を告げてそそくさと玄関へ向かった。そしてドアの鍵を外してから
「ここ、タバコ臭い」
 一言残して密閉容器の蓋を閉めた。
 私は大きくため息をついた。

 面接も難なく終わり、3日後から働くことになった。美香の言っていたとおり平日の昼間のみ、カフェのホールスタッフとしてということだ。
 仕事は簡単なものだった。レジを任されるわけでもないしケーキを焼けと言われるわけでもない。お客がきたら注文をとり、それをキッチンに通して、持っていく。当然分からないことの方が多いわけだが、それはその時々で聞いていけばいい。こういう仕事は慣れれば楽だろう。
 平日昼間の客は少ない。当然だ。ここは飲み屋街のど真ん中で、夜中になるほど賑わうようなところだ。スナックやクラブのお姉ちゃんにケーキを買いにくるオジサマや、仕事帰りのホステスのための店なんだろう。夜になったらどのくらい忙しくなるのかは知らないが、昼はかなり楽だ。運が良かった。
 だいたいシフトは決まっている。特に平日の昼のホールスタッフは全く変わらない。亮という18歳の定時制高校生と、智美という19歳のフリーターと私だ。初日から亮は馴れ馴れしかった。隙があれば下品な冗談を言ってみたり、つまらないちょっかいを出した。そのおかげで変に孤立することはなかったのだが、正直鬱陶しい。
 食事はきっちり決まっていないのだが、一応6時間以上働く人には1回、12時間以上働く人には2回ある。仕事の前か後を決めておいて作ってもらうのだ。ドリンク込みで300円。きっちり給料から天引きされる。いちいち説明してもらいながら、せこいなとも思った。商売なんだから当然か。
 ほとんど説明ばかりで初日は終わった。部屋に帰り横になった瞬間どっと疲れが溢れ出した。当たり前だ。学生以来立ち仕事なんてしたことはないし、仕事をやめてからはもっと動かなくなったのだから。下半身の疲労が重さに変わりずっしりと私にのしかかる。苦しいような、心地いいような感覚の中で眠りに引きずられていった。こうして初日は終わった。

「美紀ちゃんさぁ、そろそろ仕事慣れた?」
 バイトを始めて2週間ほどたった日、亮がいつものように絡んできた。いつ飽きるんだろうと待っているのだが、全然飽きないようだ。
「うん、それなりに」
 私は手を休め亮を見下ろした。カウンターの裏側で座り込んでいる亮はへらへら笑って私を見上げている。
「客には笑うのに俺には笑ってくれないんだ。なんで?」
「……仕事だから」
 視線を戻し再びグラスを磨く。これが日常になっていた。毎日毎日、変わり映えのしない会話をして、お客がくれば接客して、時間になればベーグルを食べて、家に帰る。帰ってからもほとんど変わらない毎日。これがきっと、日常。
「亮、手伝ってよ。砂糖めちゃめちゃ重いんだから」
 裏で作業をしていたはずの智美が、いつのまにかエプロンのポケットに両手を突っ込んで立っていた。
「えーまた俺かよ。智美の方が力あるじゃん」
 面倒くさそうに立ち上がりぼろぼろのコンバースを引きずるようにキッチンへ歩き出す。智美は私をちらりと見て、亮と奥へ消えていった。智美は亮が好きなんだろうな。なんとなく分かっていた。智美と仕事以外のことを話したことはない。話すことも、ない。変な誤解なんてされてなければいいけど。小さくため息をついてグラスを置いた。
 今日もいつもとかわらず客も少なく、問題もなく、仕事が終わった。
 キッチンに頼んでおいたベーグルとアイスティーを狭い狭い更衣室で食べていると、亮が入ってきた。
「お疲れ」
「お疲れさま」
 エプロンを外し、自分のロッカーに乱暴に投げ込んだ。亮は結構もてるのかもしれない。細長い腕がしなるようにTシャツを弄んでいるのを見ながらそう思った。ちょっと顔立ちが整っていて、ちょっと面白く話せて、ちょっとスタイルがよければ、女の子の恋愛の対象内に入るんだろう。いろんな子と付き合って、別れて。それが3日でも3週間でも3ヶ月でも、何回も繰り返していくんだろう。同じような恋愛も、全く違う恋愛も。
 そんなことを考えながら見ていた。見惚れていたのかもしれない。贅肉のついていない筋張った腕は、綺麗だ。
「なに、えっちぃ」
 そう言われ心臓が鳴った。ぼうっと見惚れていて着替えが終わったのに気づかなかった。亮はカウンターで声をかけてきたときのようなへらへらした笑みを浮かべ、買ってきたサンドイッチとアイスコーヒーを持って私の向かいに座った。向かいといっても狭いので足が当たる。私はずりずりと正面を向かなければならなかった。
「仕事、なにしてたんだっけ?」
「事務」
「楽しかった?」
「別に」
「不倫とかした?」
「全然」
 お互いもごもごと食べながら話した。ベーグルの乾いた触感と同じぐらい私の返事も乾いていた。
「好きな人いる?」
 サンドイッチを食べ終わった亮が手をはらいながら言った。
「いないよ」
 アイスティーのストローを噛みながら私は答えた。答えながら、そういえば最近恋したいとか出会いがないとか言わなくなったなと思った。友達と会ってないからかもしれない。こういう話しは友達との挨拶代わりだった。「最近出会いないねー」とか「いい人いないのー?」とか、顔を見るたびに言っていたような気がする。実際積極的に出会いを誰かを求めたことは指一本で足りる。結局、私自身が切望していたわけではないことなんだ。そう思うと、どうりで最近の歌はおもしろくないと思うわけだ。
「俺さ、好きな人いるんだよね」
「……ふぅん」
 気のない返事を返した。自分が恋愛を求めていないことに気づいて、少しだけ傷ついたのだ。まだまだナイーブな年頃なんだなと自分で思って少し笑えた。
「片思いっぽいんだよね」
 さっきの亮の腕がちらりと頭をかすめた。うずくまるように座っている亮の腕を見た。線の細い綺麗な腕。
「……ふぅん、もてそうなのにね」
「うん、もてるよ」
 こともなげにさらりと言った。あんまりあっさり言われたので「もてそう」発言をなんとなく後悔した。
「じゃぁ告白しちゃえばいいじゃない」
 立ち上がりロッカーからバッグを取り出した。亮は全く動く様子がない。
「できないんだよね、なんか恥ずかしくって」
「どうして?」
 その発言に少し驚いてとっさに振り返ると、両膝に顔をうずめ恥ずかしがっていた。恥ずかしがる年頃でもあるまいし、と笑ってやった。
「自分で『もてる』って言うぐらいなんだから言ってみなよ。じゃぁね」
 後ろからは声は聞こえてこず、はぁーという長いため息が聞こえた。

 何もない日が続いた。というのは嘘で、本当は毎日いろんなことがあって、毎日いろんなことを考えた。だけどそれは、別にたいしたことじゃなくて、いつも繰り返していることで、特別ではないことだった。日常生活を送るということは、何もない日が続くということだ。そう思っている。
 可もなく不可もない毎日に感謝することもなく悲観することもない。
 こう思える私は、結構幸せなのかもしれない。

 週末の風呂上り、コーラのプルタブを開けた瞬間だった。玄関のチャイムが鳴った。
 コーラを飲みながらドアを開けると亮が立っていた。
「はーあ、来ちゃった」
 酒臭い息を吐きながら笑った。
「呼んでないわよ」
 言い終わる前に亮はあがりこんで寝そべっていた。不細工な赤い顔で私を見て笑っている。
「俺ねぇ好きな人がいるっていってたじゃん。ちょっとねー難しい。うーん、難問だね。中退した奴には難しいね。高校行っときゃよかったのかなぁ。でも先生むかついちゃってさ、だるいしさぁ……ははは……」
 だらしなく開いた口から言葉がだらしなく溢れ出る。酔っ払いは嫌いだ。
 あきれて顔で見下ろしていると、亮は黙り込んでしまった。嫌な予感がした。
「……っぷ……吐きそう……」
 冗談じゃない。こんなところで吐かれてはたまらない。急いでトイレのドアを開け肩を揺すった。
「ちょっと、トイレ行ってよ。ここではやめてよ」
「うそでーす……はぁ」
 顔も上げずにたどたどしい返事を返す。なんなんだろう。安心より先に怒りが込み上げてきた。本当に、なんなんだろう。
 少しでも頭を冷やそうと窓を開け、タバコと灰皿を持ってきた。一応そばについておいたほうがいいかもしれない。部屋を汚されるのだけは勘弁して欲しい。
 火をつけて煙を吐いたとき、亮の手が伸びてきた。
「俺もー」
 ぐてぐての赤い顔がこちらを見ている。 
「未成年」
「俺のさぁ」
 言葉がかぶった。亮が勢いよく起き上がり、タバコとって火をつける。
「俺のさぁ、好きな人。美紀ちゃんに似てる。特にその顔」
 さっきのだらけた口調が嘘のようにはっきりと喋った。
「姉妹なんでしょ。すげぇ似てる。でも全然似てねぇ」
 最初言っていること自体の意味がわからなかった。亮は黙々とタバコを吸っていた。
 そうか、美香のことか。
 黙って灰皿にタバコを擦り付けた。亮はため息をついて立ち上がった。そして「ドウモゴメイワクヲオカケシマシタ」と丁寧にお辞儀をして出て行った。私は座り込んだまま呆然と見ているだけだった。一体何をしに来たのか全然見当がつかない。さっぱり理解できない。
 考えながらタバコに火をつけた。玄関で、そのままで。
 明日がバイトがない日で良かった。

 日曜日、美香から電話があった。
「買い物行こうよ。そっち行くから、1時ぐらいに。じゃぁね」
 一方的にものを言うところは変わってないが、前よりは愛想がある。少しほっとした。やっぱり私が原因ではなかったんだ。
 約束通りの時間に美香は来て、二人で出かけて、美香は目的のブーツが見つからないとふてて、機嫌をとるためにインディーズでお茶をおごることにした。人のいない店内で、あまり顔なじみではないけれどバイトしていることは知っているらしいスタッフに「よく見ると似てますね」なんて言われながらケーキセットを頼んだ。
「美香、少し痩せたんじゃない?」
 抹茶シフォンをつつきながら、美香の鎖骨を見ていた。
「またまた、太らそうったってそうはいかないよ」
 レアチーズケーキをほおばりながら美香が答えた。でも私には少し痩せたように見えた。
 鎖骨、首筋、顎。視線を上げていくと美香と目が合った。
「なんか痩せた気がしただけ。気のせいかもね」
 笑った。美香も笑った。
「この間はごめんね。なんか八つ当たりみたいになって。今の彼氏ね、本当に子供で面倒くさくって。男ってみんなそんなもんなのかなぁ?」
 笑った目のままそう言った。亮が思い浮かんだ。だけど、多分亮は美香の彼氏じゃない。
 美香は少し照れた口調で彼氏の愚痴を言い始めた。それを聞いていた私は、決して不愉快にはなっていない。心地よく話を聞いていた。相槌を打ちながら、時折、笑いながら。
 優しい気持ちになった。こうやって想いがすれ違うのを目の前で見ていることが私をそうさせた。美香も亮も、それが通り過ぎるだけの恋愛であっても、最後の恋愛であっても、恥ずかしがったり、照れたり、そういう気持ちを持ちつづけていられることが羨ましかった。妬むのではなく、優しい気持ちでそれを見ていられる自分も含めて、幸せのかけらというのはこういう時間を言うのかもしれないと思った。
 その日、結局美香のお目当てのブーツは見つからなかった。
「またこようね」
「そうね、きっと見つかるわ」
 そう言いあって美香と別れた。部屋のドアはやっぱり少し抵抗があるようだった。だけど後ろ手で閉めたドアは、昨日よりは軽い音をたてて閉まった。こういうものは気の持ちようかもしれない。
 コンポの電源を入れるとTime After Timeがかかっていた。今日はいつもの日常だったのだろうか。考えてみようと思ったけれど、音楽に支配されてしまった。それはそれで、逆らうことができないほど心地いい。そのまま眠りについた。

 バイトを始めて一ヶ月ほどたった。仕事にはずいぶん慣れた。亮は相変わらずだし、智美も相変わらずだ。あまり起伏のない毎日に満足していた。時間の流れる速さは変わらないはずなのに、ゆったりと時間が流れているように見える。自分に余裕があるということかもしれない。
 バイトの帰り、肌寒さを感じながら足早に歩いて駅に向かっているところで前の会社の同僚に会った。よく考えれば今まで出会うことがなかったのが不思議だ。私も仕事をしていた頃はたまにこの辺に飲みに来ていた。
「あっ、岩村じゃないか。久しぶりだな」
 インディーズで働き始めたとき、名前で呼ばれるのが気恥ずかしかったが、今度は苗字で呼ばれるのが気恥ずかしい。
 気恥ずかしさと後ろめたさの中で、軽い挨拶を交わした。なんとなく今の生活を知られたくなかった。
「みんな心配してたぞ。突然辞表なんて出すし、理由を聞いてもまともに答えてくれないし。俺もさ、同期だし気になってたんだ」
 以前と変わらない、妙に落ち着いた口調。そこには本当に『心配』とか『気になる』とかあるのだろうか。
「なんだよ、『なにいってんのかわかんない』って言う女子高生みたいな顔して」
 そう笑われて私も一応笑った。彼の例えの仕方があんまり分かりづらくて、余計にどういう顔をしていいのか分からなかった。
 それから少しだけ立ち話をした。彼は辞めた理由を聞きたそうだった。でも、はっきりした理由はいえない。私だって分からないのだから。
 別れてから駅に向かう途中、ずっと理由を探した。海の浅瀬で探し物をしているようだった。もう少し深いところに行けばみつかるかもしれない。だけど怖い。柔らかな水の抵抗を感じた。かすかに、深みに引きずり込まれるかもしれない不安も感じていた。心地よさと少しの闇がとが交じり合って、残ったのは不安だけだった。
 私は、本当はその場所を覚えているのに、見たくないだけかもしれない。
 一人の部屋に帰りたくなくて美香に電話をかけた。

 バイト先は一緒でもいちいち美香のシフトまでチェックはしていない。偶然美香も休みだったことに感謝した。亮がくるかもしれないと思ったが、約束しているわけじゃないのだから一日ぐらい家を空けたっていいだろう。
 美香の部屋に入るのは2度目だ。1度目は引越しのとき。それ以来この部屋には来ていない。引っ越したときより少し小物が増えていた。ピンクだらけの女の子チックな部屋でオレンジジュースを飲んだ。
「どうしたの、珍しい。なんかあった?」
 心配そうに尋ねてくるその顔は眉が半分なくておかしかった。笑っているとさっきの不安は薄らいできて、少し安心することができた。人間は、やっぱり基本的に単純な生き物なんだと思う。
「ねえ美香。私、なんで仕事辞めたんだろう」
 言葉にすると漠然としていたものが形になってゆく。
「さぁ……なんでって聞かれても」
 美香は困ったように笑った。
「……いいんじゃないの? 辞められたんだし。理由がないから辞められないっていうわけじゃないんだし」
 美香の答えはピンクの部屋の空気になった。私の中で激しい自問自答が始まっていた。一人でいると考えることすら避けていたはずなのに、側に美香がいると考えられる。
 そう、もう過ぎたことだし、いまさら理由を考える必要もないだろう。そんな風に投げやりに思えば思うほど、大切なことのような気もする。どちらが大切なのか、どちらなんてありはしないのだから、どちらでもいいんだ。きっと。
 何気なく美香を見ると、ひどく心配そうな目をして私を見ていた。
「大丈夫よ」
 力なく笑ってそう言うと
「無理……しないでいいと思うよ」
 と辛そうに言った。美香が辛そうにすることもないのに。この子がいてくれて良かったなと思った。
 理由を避けるように走る思考回路を否定するのは止めよう。もう、どちらでもいいのだ。考えようと考えまいと、それはどちらも悪いことじゃないはずだ。その理由を私は知っている。認めたくないだけで、言葉にしたくないだけで、確かに身体は答えを知っている。だからこそ、頑なにその理由のある場所へ近づこうとしないだけなんだ。
 黙りこんでしまった私を気遣ってか、美香はいつもよりよく喋った。探していたブーツが見つかったこと、相変わらずな彼氏のこと、最近タバコを止めたらしい父のこと。少し気持ちが軽くなった気がした。この子の言った「いいんじゃないの」という言葉は意外なほど心に効く言葉だったようだ。
 泊まっていこうかと思ったけれど、明日はバイトだし、やはり亮のことも少し気になって帰ることにした。美香は帰り際にも「泊まりにきたんだと思ってたのに。つまんないの」と言った。嬉しくて「じゃぁどっちもが休みの日にね」と笑った。
 ドアのノブを掴んだとき、覗き穴がガムテープで塞がれていることに気づいた。入ってくるときは全然気がつかなかった。
「ねぇ、なんでここ塞いでるの? 不便じゃない?」
 ノブを握ったまま振り返って聞いてみると、美香はとても嫌そうな顔をして
「誰かにね、覗かれてる気がするの。気味が悪いでしょう? だから塞いじゃった」
 と言った。確かにそれは気味が悪い。そういえば部屋のカーテンもぴったり閉じられていた。
「本当に気味が悪いわね。気をつけなさいよ」
 そういってドアを開けた。
「お姉ちゃんも遅いから気をつけてね」
 その言葉に手を振って家に帰った。その日、亮は来なかった。

 それから何日か平坦な日が続いた。失敗して笑われたり、逆に失敗を笑ったりしながら過ぎていった。その人のその笑顔は永遠じゃない。同じことで同じように笑うことがあっても、それは全く同じではない。今日は私の失敗で笑って、明日は別の人の失敗で笑うかもしれない。
 毎日が唯一無二だということはいつ忘れるのだろう。いや、いつ気づくのだろう。気づいたときには忘れていたと思うけれど、本当は気づいてもいないのかもしれない。ほんの少しだけ見渡せば気づくことなのに、あまりにも近すぎて見失っている。こういうことは日常生活の中にたくさん落ちている。言葉では何度も聞いていたことで、頭では分かっていることなのに、初めてそれに触れた感触は、全く初めてのものだ。
 日常に満足していると感じるのはいい気分だ。満ち足りているとはっきりは言えないが、このくらいでちょうどいいと思える。波乱万丈で息つく暇もないぐらいの日常は、私には忙しすぎる。
 会社を辞めた理由には辿りついた。今なら冗談みたいにいうことができる。こういう状態を待っていたというのは虫が良すぎるかもしれないが、私はこういう状態になるのを待っていたのだと思いたい。
 あのときの私は、変わり映えのしない毎日に嫌気が差しただけだったのだ。その変わり映えのしない毎日も自分が作り上げたものだったのだろう。もっと気を抜いても良かったのかもしれない。辞表に書いた「一身上の都合」があまりにも当てはまりすぎて、この言葉を考えた人に拍手を贈りたい。一身上の都合か。ホントにぴったりだ。
 今、こうやって笑える自分は、嫌いじゃない。

 あれから亮は2回うちに来た。何の前触れもなく現われて、少しだけ話して帰っていった。くだらない話しや昔の話しや未来の話しを少しずつ。何をしに来ているのかはやっぱり分からないままだ。でも、あの夜のように酔っ払ってくることはもうなかった。
 今日も唐突に現われた。
「腹減った」
 ドアを開けるなりぶっきらぼうにそう言った。今までもトイレ貸せだの携帯の充電させろだの妙な理由はつけていたが、腹減ったはどうしようもない。一人暮らしの女の部屋にそんなに食べ物があるわけがないのだ。
「食べるものなんてないよ」
 私は冷たくあしらった。亮の目は、何をお願いしても大丈夫という確信を持っている。そういう期待のに安々と答えるような態度はとりたくないのだ。
 私はほんのりと亮に好意を持っている。恋人にしたいと図々しく思っているわけじゃないけれど、傍にいてくれたらいいかなと思う程度の薄い甘さ。だから特別媚びる必要もない。歳も7つも離れている。そして亮が想っているのは美香。選ばれるはずがない。亮を相手に無謀なことをするのは危険すぎる。
「晩飯は?」
「仕事終わってから食べたじゃない」
「えー! あれだけで足りるの? そりゃ貧相なわけだ」
 大きくうなずく。
「早く彼氏つくって大きくしてもらわなくちゃね」
 語尾にハートマークでもつきそうだ。いつものくだらない冗談。私は何も言わずドアのノブに手をかけた。
「帰ってもらおうか」
「あ、怒った? ごめんごめん。今の嘘。冗談。マジ大嘘」
 いつもそう笑う。気持ちがこもってるんだかこもってないんだか。それでも私はつられて少し笑ってしまう。完全に亮のペースに飲み込まれている。
 前々から聞いてみたかったけれど、どうせ茶化されるだろうと思っていたこと。茶化されてもいい。この際聞いてみよう。悪びれずに笑っている横顔を見ていたらそういう気分になった。
「ねえ、私のことなんだと思ってるの? くだらないことばっかりわざわざ言いに来てくれて。ねえ、なんで?」
 しばらく沈黙……だと思っていたが、答えは意外に早く出てきた。
「んーとね、保健の先生」
 私の中で保健の先生と言うのはちょっと乱暴で明るくて、いつでも異様なぐらい笑っていて、いざとなったらとても頼りになる優しいお姉さん……とはちょっと呼びがたいあまり美人ともいえない、地味な人……という感じだ。私はそんな感じなのか? あ、容貌は当たっているかもしれない。
「あのね、なんでも話し聞いてくれるじゃん。くっだらないことでもさ、返事してくれるじゃん。この間も片思いの話したら『頑張って』って言ってくれるし。それにお姉さんって感じするしさ。同い年の女とじゃそういう風に話せないし。分かった? 俺の中でそういう感じ」
 照れているのか私の方を見ずに一息でそう言った。せかせかとジッポを取り出している姿を見ていると、悪くないなと思えた。あのときの、あまりなにも考えずに言った言葉を覚えてくれているのが嬉しくもあり、その言葉を忘れていた自分には失望を感じた。でもそんなもんかもしれない。何気ない一言というのは、発した本人はあまり気にしていないものだろう。きっと、美香の「いいんじゃない」も、美香自身は覚えてもいない言葉かもしれない。
「それって誉め言葉?」
 タバコの煙を掻き分けて顔を覗き込むと
「……かもな。保健のババァじゃないと思うしな」
 と真剣な顔で答えた。おかしかった。亮のそんな真剣な顔は初めて見た。
 その日も亮は大人しく帰っていった。
 明日は冷凍食品でも買っておこうか。
 閉じられた蓋を見ながら思った。

 次の日、亮はバイトにこなかった。初めての無断欠勤らしい。キッチンの人も、遅れてきた店長も心配して電話したが、一度も繋がらなかった。
 亮が休みでも仕事に大きな支障は出なかった。相変わらず暇だった。
 仕事が終わり、一人更衣室でベーグルを食べていると智美が入ってきた。智美とこの場所で一緒になるのは初めてのことだ。彼女とは終わる時間が違うので一緒になる方がおかしい。
「お疲れさま」
 躊躇しながら一応挨拶した。きらっているわけではないけれど、やっぱり人よりも遠いところで一線を引いてしまった以上、うかつに近づけない。
「あの、1ついいですか?」
 智美のよくとおる声が私にぶつかった。
「全部知ってるんですよね。私が亮のこと好きなこととか、亮の好きな人とか。どう思ってるんですか? どういうつもりなんですか?」
 鋭い目つきに少しすくんでしまった。こんな鋭い視線を向けられるのは初めてかもしれない。
「知ってますか。亮は夜この店に客として来たりするんです。あの人に会いたいためにですよ。それぐらいあの人のこと好きなんです。どう思ってるんですか?」
 どうと聞かれても私も困る。結局のところ姉妹なのは認めるけど、私は私で、美香は美香で、亮は亮だと思ってる。姉妹だからどうこうというのは考えたことがない。
 ベーグルを片手に黙っていると、智美はため息をついてその場に座り込んだ。
「ずるいですよ。そういう立場なのを利用して亮に近づいて」
 ぽつりと呟いたその姿は、いじらしいほど可愛かった。あんまり可愛くて、気が抜けてしまった。
 私は持っていたベーグルをしまい、荷物をまとめた。
「私は……私は立場を利用したつもりもないし、亮のことは亮のことだと思ってる。全部まとめて考えることができるほど頭も良くないから、私は私のことしか考えてないの。だけど、誰かの邪魔をしようとは思ってなし、してるつもりもない。今の状況をどうにかできるほど、自分が力を持ってるとも、思ってないの」
 座り込んだままの智美にそれだけ言って更衣室を出た。
 外はすっかり夜が降りてきていて肌寒い。人肌が恋し過ぎる季節と呼んでいいぐらいだ。

 家に帰りドアを閉めると、また蓋をされたような感覚に襲われた。とても疲れている。智美の怒りに触れて動揺したからだろうか。原因はどうであれ、疲れていると自分で思うのだから疲れているんだろう。
 今日はゆっくりお風呂に入ろう。牛乳たっぷり入れたミルク風呂に。これぐらいの贅沢は許されるだろう。白い湯気の立っている浴槽に、真っ白の牛乳を景気よく注ぎ込んだ。透明のお湯の中に真っ白な牛乳が広がっていくのは、何度見ていても飽きない。まるで生き物のようにお湯の中を泳ぐ牛乳の塊を眺めていた。
 のんびりとお風呂に入ってしばらく智美のことを思い出して、そうしているうちにどんどん眠くなってきた。私の体力と気力は湯船に溶け出してしまったようで、髪も乾いていないのにベッドに入った。頭が沈んでいくような感覚は心地よかった。
 どのくらい眠っただろう。ひどい地鳴りのような音で目が覚めた。ドアを蹴っている音のようだ。首筋が緊張する。時計を見ると2時だった。
 恐る恐るドアに近づき外を覗いてみると、亮のぼさぼさ頭のシルエットがあった。ドアを蹴るなんて初めてのことだ。急いでチェーンを外しドアを開けた。
「何、どうしたの?」
 私がドアを開けきる前に亮は身体をねじ込んできた。玄関のオレンジ色の明かりの下で亮の顔は全く見えない。少し、震えているようにも見える。
「ね、何かあったの?」
 触れてはいけない気がするけど、触れなければどうしようもない。そんな気持ちで恐る恐る聞いた。
「……で、……たんだ」
 小さな悲鳴のような声がほんの少し耳を掠めて消えた。その瞬間、亮はその場に崩れ頭を抱えてうめいた。私はどうしようもなくて、ただただ心配で一緒に座り込んだ。
 しばらくすると、亮のすすり泣きが聞こえてきた。堪えているようで苦しそうだ。聞いているとこっちも泣けてきそうだったから、亮の頭を撫でた。ごわごわの髪の毛に指を入れ頭に触れていると、亮が一人の男の子なんだと感じた。
「俺……振られた……」
 うつむいたまま、鼻声のまま、小さな声で言った。
「うん」
「すげぇ好きだったんだ」
「うん」
「ホント初めてこんなに好きになったと思ったんだ」
「……うん」
「わけ分かんないんだ。なんかもう、全然分かんないんだ。なんで俺……」
 げほげほっと咳き込み、顔を上げた。真っ赤な目をしていた。熱いため息をつき、ポケットからタバコを取り出した。私は灰皿と自分のタバコをとりに行った。
「俺、押しかけた。それで押し倒した。キスした。そしたら……殴られた」
 灰皿を二人の間に置くと、定まらない視点のまま亮が話し始めた。
「彼氏がいるの知ってたしさ、振られるのも分かってたんだけど、言いたくて。それだけ。ホントそれだけだったんだ。別に……そんな……。
 ああ、もう、全然分かんねぇよ。もう……全然……」
 タバコを持ったまま、また頭を抱え込んだ。亮の指からタバコを抜き取り灰皿に押し付けた。亮は頭を抱え込んだまま、また泣いているようだ。私は火のついていないタバコを持ったまま傍に座り込んでいるだけで、かける言葉も思いつかず、せり上がってくるものを堪えるのに必死だった。それが悲しみなのか悔しさなのかも考えられなかった。

ゴン……ゴン……ゴン……

 亮の拳が床を殴る。その音は私を追い立てるように聞こえた。とても聞いていられなくて、思わず拳を両手で包んだ。

ゴン……

 亮の拳が私の手と床を殴った。ううっ、痛い。涙が出てきた。嗚咽までもこぼれてしまった。でも、両手は離さなかった。私のできることはこれぐらいしかない。
「ごめん」
 そう言って拳を崩しこっちを見た亮に、私は首を横に振りながら泣くことしかできなかった。「なにもできなくてごめん」さえも言えない。そう思うと必死に耐えていた壁が壊れてしまったように、悲鳴を止めることができなくなった。
「俺より……泣いてんじゃん」
 そう言って今度は私の頭を撫でた。掴まれているようだった。乱暴なのに安心した。
「思ってたよりちっちゃいね」
 亮は全然平気そうな口調に戻ってるのに、私はしゃくりあげながらずっとうつむいて泣いていた。
 私の頭の中では、あの広がっていく牛乳が見えていた。いろんな感情がたくさん交じり合って、真っ白になればいいのに。きっとその白さはなにもない白より白いだろう。このまま、密閉されたまま、純粋培養してしまいたい。とても綺麗なものができるに違いない。見たこともないような、綺麗な結晶。
 酸欠になりそうな脳みそで、亮の手を握ったまま、そんなことを考えた。
「先生が、泣いてちゃだめじゃん」
 私は当分泣き止めそうにない。
「……まだまだだよ。全然……子供だよ」
 そう言うのが精一杯だった。

保健の先生

保健の先生

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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