タンポポの道

2003.12.22著

 朝目覚めると、彼はいつものようにコーヒーをいれていた。
「おはよう。今日はずいぶんまぶしい朝だよ。雪でも降ったのかな。」
 まだ十一月の半ばで、雪が降るには早すぎるだろうと思いながら外を見ると、やはり雪など降っていなかった。寝ぼけているなと小さく笑ってやりながら振り返ると、彼の目は青かった。
 青い目の彼は鏡を見てしばらく黙っていたが、
「前髪をおろせばわかんないでしょ。」
 と、髪形を変えていつもどおり身支度をした。そして二人で家を出て、いつもの場所で左右に分かれた。
 わたしは小さな行政書士事務所の事務をしている。彼は塾の講師をしている。空気が冷えて、目に映る景色の輪郭がはっきりと見えてき始めるこの季節のすべてが、わたしは一番好きだ。身の引き締まる温度もちょうどいい。毎年ここで季節がとまってしまえばいいのにと思う。けれど、季節は巡る。
 夕食を食べながら今日一日の出来事を話しているとき、彼はおもむろに話し始めた。
「胡散臭いとは思うんだけど、僕さ、霊って言うの? そういう感じのものが見えるようになったみたいなんだよね。いや、多分そうじゃないかなっていうことなんだけど。これはやはり、目の色が変わったせいなのかな?」
 正直、心底胡散臭い話だと思った。けれど、わたしには目の色が変わったという経験がないので、しばらく考えた。
「一応、病院とか行ってみたらいいかも。角の中原医院とか。」
 考えたわりに答えになっていないなあと思いながら、目の色なんだからやはり眼科だろうか、でも内側のことだから内科だろうか、と再び考えた。
 中原医院は通勤途中にある小さな個人病院で、わたしは夏くらいまで通っていた。中原先生は医者らしいやわらかい顔をしていて、溶けそうな話し方をする人で、通い始めたころのわたしは、多少不安を感じたような記憶がある。結局悩まされていた症状は治まって、ちょっと傲慢にもたいしたもんだと思ったものだ。
「しばらく様子を見るよ。別に痛くも痒くもないわけだし。」
 彼はそう言ってコロッケを箸で二つに切り分けた。やはり経験のないものの言葉はアドバイスにもならないのか、と少々落ち込んでいると、コロッケもいいんだけど僕はポテトサラダのほうが好きだなと、彼は言った。

 朝の空気はどんどん冴え渡っていった。紅葉はこの町にも下りてきた。落葉樹は駆け足で冬支度をはじめ、彼のあらゆる色は秋が去る速さに合わせて褪せていった。

 日曜日。わたしは彼と近くの川原まで散歩に出かけた。
家の中で見る分には慣れたと思っていた目の青さは、昼の太陽にさらされると打ち消しようがないほどに青かった。髪の毛の色は、イメージチェンジといえるくらいの茶色なのだが、生まれてこのかた髪の毛の色を変えたことのない彼が、目の色に合わせて髪の毛の色を変えたわけではなく、気づくとこの色になっていたのだった。よくよく見ていると、肌の色も少し透明感が出てきたような。考え始めると怖くなってきたので、わたしは手をつないだまま半歩前を歩いた。
川原には何人か人がいて、それぞれがそれぞれに楽しそうだった。風が吹くとやっぱり冷たいねとか、あそこの親子は父親のほうが下手くそからキャッチボールが成り立ってないんだねとか、どうでもいいことを話した。
途中、近くの蕎麦屋によって昼食をとった。昼前だからか客はわたしたちだけで、湿った暖かい空気が漂っていた。わたしはきつねそばを、彼はかけそば定食を頼んで、店の人がきびきびと動いているさまを見ながら蕎麦茶を飲んだ。
薄暗い店の中では、彼の色のことなどまったく気にならなくて、少し迷ったけどそのとおり彼に言ってみると、彼も同じように言っていた。ふたりとも、薄暗い場所が好みというわけではないのだけど。
 熱い蕎麦はとてもおいしかった。
 蕎麦屋を出て、やはりわたしが半歩前を歩いて川原に戻った。彼は適当な場所に寝転んで昼寝を始めた。わたしはあまり眠る気になれなかったので、彼の隣に座っていた。
「ねえ、霊ってどんなの?」
「いろいろ。でも、霊かどうかわかんないよ。見えたり見えなかったりだし。話とかできないし。」
「どこにいるの?」
「だからいろいろだって。でさ、僕、眠いんだけど。」
「わたしのそばにもいるの?」
「見えないよ。でもわかんないよ、霊かどうかなんてさ。違うものかもしれないし、もしかしたら幻覚かも。」
「じゃあどうして最初、霊みたいなものが見えるなんて言ったの?」
「わかりやすく例えたつもり。そんでさ、僕眠いんだけど。」
 彼が私とは反対方向に寝返りをうったので、わたしはしょうがなく空を見上げていた。太陽はずいぶん高いところにあった。
 空を見上げてぼうっとしているうちに、彼は完全に眠ってしまった。遠くの太陽を見ているうちに肌寒くなってきたので、マフラーを彼の顔にのせてコーヒーを買いに近くの自動販売機まで歩いた。そこで、自転車に乗った中原先生に会った。
「あらーお久しぶりねー。その後はどうかしら?」
 先生は自転車を止めた。相変わらず溶けそうな口調だった。
「お久しぶりです。おかげさまで順調で、病院に通わなくってすんでます。」
 私は自動販売機の取り出し口から缶コーヒーを取り出した。持っていられないくらい熱かったので、コートのポケットに放り込んだ。
「それはいいことね。これから寒くなるから、風邪、ひかないようにねえー。」
 先生はそう言って、自転車に乗って去っていった。わたしは先生の後姿を見送りながら、先生に彼のことを相談したらどんな反応を見せるだろうかと想像した。まあ、まず驚くだろう。それから? コートのポケットの中でコーヒーをもてあそびながらあれこれと考えたが、結局、自分がした反応しか想像できなかった。それもそのはず。わたしが想像しているのだから。
 川原に戻ると彼はまだ眠っていた。寒かったのか眩しかったのか、マフラーを顔にかけていた。明るい茶色の髪の毛が、風に吹かれて揺れた。

 十二月の朝。彼はコーヒーをいれていて、わたしはベッドの中から彼を見ている。
 わたしたちは、時々遊びに来る友人に言わせれば、部屋の使い方を間違えているらしい。一番日当たりの悪い洋室がリビング(というより今ではもう物置)。逆に一番大きな窓のある、日当たりのいい和室が寝室(しかもベッドをむりやりおいている)。キッチンは寝室のすぐとなり。
 寝室が生活の中心になっちゃうじゃない、と友人たちは口をそろえて言うけれど、わたしは朝、たくさん光が入るほうがいいし、雨の日ならば雨の音が聞きたいと思う。目覚めたときに外の様子が全然わからないなんていやだ。
 でも最近はほんの少しだけ後悔している。朝日の中でコーヒーをいれる彼は、別人のように褪せて、消えてしまいそうに見えるのだ。わたしは晴れた朝が来るたびに、目を開きたくなくなる。

 ある日の夕食。
「頭の中で声がするんだ。今までもそういうことはなくはなかったんだ。なんていうかな、僕がブリッジの役目をするって感じで。でもね、この声は僕に話しかけてるみたいなんだ。僕にね、人を探してほしいみたいなことを言ってる気がする。」
 彼はまた、途方にくれるような問いかけをしてきた。別にわたしに期待しているわけではないのは百も承知だが、それにしても途方にくれる相談だ。
「気がするって、どういうこと?」
「あんまりはっきりとは聞き取れなくて。会話もできそうにないし。言いたいこと言って聞こえなくなるんだ。」
 彼の、こう言う話を聞くとき、わたしはものすごく足元が不安定な場所に立っている気持ちになる。違う次元で起こっていることのように思えて、なまじ間違いではないのだけど、だとしたら、多分わたしにできることなんて、なにひとつないのではないかと思い当たってしまうからだ。それは見捨てることととても似ている。人によっては見捨てるという行為かもしれない。自分自身にぽっかり穴が開いて、そこには宇宙が広がっているような心細い気持ちになる。
「ま、しばらく様子を見るよ。ごめん。」
 碗を持ったまま静止してしまっていたわたしに、彼は言った。申し訳なさそうな顔をしていた。それを見てわたしも申し訳ない気持ちになった。なんてまずい夕食なんだ。
 それからしばらくして、彼は休暇届を出した。いつの間にか、イメージチェンジというには、あまりにも行き過ぎている風貌になってしまっていた。

 世の中には、病気でもないのに死んでしまう人がいるらしい。
 ある少女の話。目の前で妹が交通事故に遭い死んでしまった。彼女はショック状態に陥ったが、身体的には問題なく、安静にしているうちに妹の葬儀は終わった。数日後、彼女は寝室で静かに死んでいたそうだ。医学的には原因不明の突然死。
 この出来事を知ったとき、人間はそんなこともできるのか、と心臓がずきんと痛んだ。同時に、なんだってできる気がする、とも思えた。そして、それを前にしたらなにもできないんじゃないか、とも思えた。
 自分の中で、あの小さな闇が、ぞっとする速さで膨れ上がっているような気がした。すぐそこに迫っている、すぐにでも飲まれてしまう。とも。

 例えば。
 マヨネーズ好きの彼が、冷奴にまでマヨネーズをかける彼が、なにもかけずに千切りキャベツを食べていることとか。

 わたしは仕事が忙しくなればいいのにと、眠る前に祈った。われながら短絡的で、ずるくて、今までの人生を総括して表しているといわれても否定できないけれど、それを打ち破るべく今ここで暴れたとしても、きっとそれは打ち破るということとは違うことだ。
 彼は少しずつ口数が減っているものの、多分それは一番よくないことなのだけど、外見はちょっとやりすぎの日本人くらいのものでとどまっているようだった。
 縮まって眠っている彼を見ていると、この広いとは言いがたい2LDKの一室が永遠のように広く思えて、ベランダに出た。外の空気はキンと冷えていて、夜空はため息が出るほど広くて暗かった。空の端に、切られたつめのような薄い月が出ていた。物音ひとつしない夜だった。ひとりきりだった。部屋の中にいるよりも寂しくないような気がした。。頭が、変になっている証拠なのかもしれない。
 腹の底からため息をついたとき、わたしがこんなに不安になっていてはいけない、という思いがわきあがった。同時に、ものすごい嫌悪感にも襲われた。人が人として、なんてくそくらえだとも思った。今すぐに彼を揺り起こして問い詰めたっていいのだ。でも、わたしにはできない。人としてではなく、わたしとして。
「苦いなあ」
 とつぶやいて白い息の行き先を見届けた。
 そして、縮こまった彼のいる部屋に戻った。彼はさなぎのように固くうずくまっていた。少しずつ死んでゆく植物のように、今、ここにあるものが死んでいっている。もしくは、生まれようとしている。苦いわたしには、どちらにしても素直に喜べそうにない。

 彼が家で待っていることになれてきたころの、雪の降りそうな温度の日。
「もしも僕が死んだらどうする?」
 夕食後にどうしても食べたくなったアイスクリームを買いに、コンビニまで歩いている最中だった。
 久しぶりに彼の言葉を聞いた気がする、と思いながらも、どうしてそんな付き合い始めた中学生みたいな質問を、とちょっと面倒くさくもあった。あの夜から、わたしは毎日が岐路のように思えて仕方がなかったのだ。だからことあるごとに、例えそれが彼とまったく関係がないことでも、今が岐路ではありませんようにと祈るようになっていた。そして今も、例外なく祈っている。
ぽこぽことあぶくのように湧き出てくるそんな思いをなんとかどかし、一生懸命想像しようとしてみたが、そもそもわたしは想像力というものが欠如しているといってもいいくらい、乏しいのだ。隣で似合わないニットの帽子を深々とかぶって、ちらちらとわたしを見ながら歩いている彼を隣に想像ができるわけがない。
「ひとまず、泣くと思う。」
 考えあげた末にそう言うと、彼はちょっと怒った顔をした。
「それだけ?」
 彼の言葉に、正直ぐったりきた。だいたい、時期が悪い。しゃれになってない。でも、こんなときだからこそ? などといろいろ思案しているとき、彼は言った。
「探すって約束してよ。」
 わたしは多分「へ?」という顔をしただろう。しかもとても変な顔。彼はわたしを見てぷぷぷと笑った。なんともいえない気持ちになった。
 わたしたちの周りは取り残されたように真っ暗で、百メートルほど先に見える大通りは、歩けど歩けど一向に近づけない場所にように思えた。アイスクリームが食べたいなんて、言わなければよかった、と一瞬だけ後悔した。
「見つける自信ないから、約束しない。だからあなたが探しにきてよ。」
 空を向いて街灯に息を吹きかけると、光がぼやぼやとにじんで、すぐにそれは暗闇に消えて、街灯の後ろに消えそうな星が見えた。北斗七星のかけら。
「目印もなしに探すのか。」
「じゃあ、目印にポテトサラダを作るとするわ。毎晩。」
「世界で、君のポテトサラダしかない日なんてあるんだろうか。」
「あるかも。毎晩だから。」
 カシオペア。
 いくら今が真っ暗闇でも、いっそ光の存在しない闇などない。
 もし彼が、泣いたり暴れたりしたら、わたしも一緒になって泣いたり暴れたりしたかもしれない。しなかったかもしれない。『もし』なんて、いつでも消えてしまいそうなくらい遠くにある、北極星よりももっと遠くの、誰も知らない場所にあるものだ。
「ねえ、北極星。」
 わたしは空を見上げたまま言った。
「うん。あんな小さいのに、地球にとっては目印の。」
 彼は立ち止まって言った。

 ホワイトクリスマスかもしれないと思っていたのだけど、クリスマスは曇ったまま過ぎていった。わたしとしてはどうでもいいことだった。雪が降ったとしても、とても祝うムードではなかったからだ。
 彼はもう金髪になっていて、日本人とは思えない肌色をしていて、口数が減って、ほとんど一日中眠っているようだった。わたしは殺人的に忙しく、尋常ではない時間に帰宅してばかりだった。
 ようやく休暇に入った日、わたしは気が抜けたのか熱を出して寝込んでしまった。熱を出さなくても、どうせベッドでごろごろしてすごしていたのだろうけど。
 風の強い日だった。空には、その風でさえも吹き飛ばせないほどの厚い雲が覆っていた。彼は突然、出かけるといった。
「探しに行くんでしょう?」
 わたしがベッドの中から問いかけると、彼は黙ってしまった。
 世の中は、当事者にしか物事がわからないようになっている。憎たらしいほどに。迷路に入っている人のことは、迷路に入らないとわからない。アドバイスするということは、上から見て道筋をつかむことは、まったく違うことなのだ。わたしは中途半端にかかわってしまって、すでにそれができないところにやってきてしまっているのだ。
 もう何も言うまいと決めた。決めたら心細くなった。生き別れ、という言葉が浮かんだが、だとしたら十一月のあの日から、ゆっくりと生き別れていっているのだ。
「雪が降りそう。気をつけてね。」
 わたしはベッドにもぐりこんだ。ドアの閉まる音がした。
 早く眠れますように。すぐに眠れますように。雪が、降りませんように。

 目が覚めると、汗だくになっていた。熱は上がっているようだった。いやな寒気がして、だるくて、節々が痛くて、まいったなーとしか言いようがないほどだるかった。迷った末、寝巻きを着替えて、ついでに熱いお茶を飲んだ。飲むことさえもつらかった。
 外は眠る前よりも断然暗くなっていて、時計を見るともう夜の七時だった。風も強くなっているようだった。
 彼はまだ帰っていないようだった。わたしは彼のことを思った。けれどそれは、少なくとも今までのわたしがしたことのある「思う」とは違うものだった。彼はまるで夢か幻の人のようで、輪郭をつかもうとすればするほど、わたしは磨り減っていった。
 風邪をひいたとき、いつもものすごく弱気になる。身体が健康なときには絶対に捕まらないような弱い細い蔓のようなものに足をとられ、一度捕まると、似たような蔓がどこからか出てきて、それがじわじわとがんじがらめにするようなペースで、どんどん「死ぬんじゃないだろうか」と思えてくるのだ。でもそれは多分、到底死にそうにないとき。多分。
 わたしはそこから目を離せないまま、なんとかしてピントを外そうとしている。見なかったことにしようとしている。辛いことやいやなことから、目をそらさずに一番ずるいやり方で逃げようとしている。このままじゃあ、きっと一ミクロンも成長しない。
 気づくと、わたしはいすに腰掛けたまま眠っていた。身体の節々が、洒落にならないほど大きな音を立てて鳴った。夜明けだろうか。窓の外はほんのり明るかった。
 いすから立ち上がると、信じられないことに転んでしまった。また、まいったなーと思いながら起き上がろうとしたのだが、手首をひねったのか力が入らない。世界は半回転回って、戻る。回って、戻る。
 そのとき、わたしは無様にも台所でごろんと横になっているまさにそのとき、すべてに腹が立った。熱で動かないこの身体も、ふわふわと安定しない日々も、縛られているわたしも。
 怒りのパワーはすごい。わたしは朦朧としながらもなんとかして立ち上がり、脱ぎ捨ててあったコートを引っ掛け、玄関のドアを開けた。外は雪がうっすらと積もっていて一瞬ひるんだが、雪くらいではわたしの怒りは萎えない。階段をほとんど転がるように降り、壁という壁にすがりながら歩いた。手ぶれのひどいビデオを見ているようで、何度も気分が悪くなった。そのたびに立ち止まっては冷たい空気を深く吸った。目に涙が滲んだ。そのときになって、ようやく涙が出そうな感情がどばっと押し寄せてきた。わたしはどうしてここにいるんだろう。視界が滲まなければ、そんな気持ちにならなかったかもしれない。
 でもとにかく歩いた。せめてあの角までは。分かれ道の、あの場所までは。
 どれくらい時間をかけたかわからないが、ようやくその場所にたどり着いたとき、彼はそこでごみに埋もれて眠っていた。

 目が覚めると、わたしは見覚えのないピンクのシーツの中にいた。シーツはさらりとして気持ちよかったが、少し暑かった。やさしいクリーム色の殺風景な部屋は、どうやら病室のようだった。
 しばらくして黒髪の彼と中原先生が入ってきた。
「あらーお目覚めねえ。風邪、少しこじらせちゃったみたいね。熱は下がったようだからいつでも帰っていいわよ。」
 額に当たった中原先生の手は、ひんやりとしているのに暖かかった。もう少し横になっていていいかと尋ねると、先生は暇だからいくらでもどうぞと笑って出て行った。
 彼はスポーツドリンクを手渡しながら
「ま、何事もなくてよかったよ」
 と言った。わたしは黙って半分くらいまでごくごく飲んだ。彼はベッドのそばのいすに腰掛けて、じっとしていた。
「金髪は?」
「目が覚めたら戻ってた。」
「雪は?」
「君が寝てる間に溶けたよ。すぐ、溶けたよ。」
 彼は微笑むでもなく答えた。うつむいた彼を改めて見ると、ひげが伸びて、影が濃くなっていて、まるで一度死んで生まれ変わった人のようだった。唐突に彼は言った。
「僕はさ、きっと壊すことと作ることしかできないんだと思う。作り直すってことは、多分できないんだと思う。」
 彼は握り合わせた手を、眉間に当てた。祈っているようだった。
 わたしは、何度か彼の言葉を反芻した。けれど、彼の言う「作る」や「作り直す」の意味は正しく思い描けたか自信がなかった。けれど不安ではなかった。言葉を正しく思い描くことは、いまのわたしにとってさほど重要なことではない。
 彼は続けた。
「結局見つからなかったよ。で、あいつは多分出て行ったよ。髪も目も、元通りの色に戻ったし。ほら、ぴんぴん。」
 彼は髪の毛をくしゃっとつかんだ。そして小さな声で
「どこ行ったんだろうな。」
 とつぶやいて、声を殺して泣いた。
 わたしはゆっくり彼の頭をなでた。ひとかけらの痛みさえ分かつことができないわたしの、唯一してやれることといったらこれだけだ。わたしは、少し前の自分の無邪気さが世界一残酷だったことを知り、めまいを感じながら、ただ漠然と神に感謝した。感謝しながら、頭をなで続けた。
 いくらかして、彼は顔を上げた。そして、少し笑いながら
「ありがとう。足りた。足りすぎた。」
 と言った。今度はわたしがうつむいて
「大丈夫だよ。」
 と言った。
 彼はいすから立ち上がって窓辺へ歩いた。窓の外はいつもわたしたちが歩く通勤路で、今は昼間の少々野暮ったいオレンジの光に照らされていて、たいそう幸せな風景に見えた。
「君が寝てる間にね、年が明けたよ。」
 彼が窓の外を向いたまま言った。
「行く年来る年、見逃したね。」
 振り向いた彼は笑っていた。
「いいよ。今年だって明けるもの。」
 わたしはそう言いながら、自然と頬が緩んだ。根拠なんてからっきしないけれど、未来に自信がもてる。そう思った。
 仕事が始まれば朝は彼がコーヒーをいれて、夕食はわたしが作る。ポテトサラダは嫌がるまで毎食作ろう。日曜になれば川原まで散歩して、彼は底で昼寝をする。わたしはコーヒーを買いに行く。蕎麦も食べる。時々、夜のコンビニにアイスクリームや肉まんを買いに行ったりする。そうしているうちに、すぐに春がやってくる。たんぽぽが咲き始めたら海に行こう。理由や目的はそのときに決めればいい。決められなければ決めなくたっていい。ただ、願わくばその日の空はいやになるほど青く、タンポポは小さな太陽のように空を照らしていればいい。

タンポポの道

タンポポの道

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-06

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