トマトサラダに塩コショウ

2001/08/04著

トマトサラダに塩コショウ

「杏露酒って美味しいんだね」
 ツバキはそう呟いてミネラルウォーターと杏露酒をグラスに注ぎ足した。氷が透明な音をたてた。
「甘いお酒しか飲めないの?」
 テーブルにもたれかかるように座り、ちょっと熱っぽい目をして私に問う。
「うん、杏露酒だけまともに飲める。ビールとかジーマとかあんまり好きじゃない」
「くくくっ、子供だね」
 ツバキは心底楽しそうに肩を震わせて笑った。「そうかもしれないね」と私は浅く笑う。
 お酒はあまり好きではない。程よく酔うことができないからだ。ほんの少しの加減で戻れないところにいってしまいそうな気がする。戻れないところというのがどこなのか、それは分からないのだが、わからないからこそ恐怖なのだと思う。自信なさげにそう言うと
「それはサクラがびびってるからよ。行き着くところまで行ってみればいいじゃない」  とグラスの氷を指先でもてあそびながら事も無げにツバキ言った。そして「いや、サクラは単純に弱すぎるってだけかもね」と呟き、私を見て軽く笑った。
 結局彼女は、杏露酒のボトルを半分あけた。私はジンジャエールで割ってもグラス2杯しか飲めなかった。
 そして、私たちは同じベッドで寝た。クーラーの効いた冷たい暗闇の中で、熱く重い睡魔が忍び寄ってくるのが分かった。アルコールのせいで体は火照っていた。なのにツバキは私の手を離さなかった。ツバキの熱い湿った手が、私の暑い湿った手を、腕を、何度も撫でた。
「サクラ、綺麗な腕だよね」
 突然手首を親指で強く押さえつけ
「切ってもいいかな?」
 と、さっきのほろ酔いの口調のままツバキは言った。私は思わず手を振りほどいた。本当に彼女は私を切ることができる。ツバキはやる。ツバキならやれる。根拠のない、だけど恐ろしく確信に満ちた思いが、この冷えた部屋の闇を恐怖に変えた。
「くくくっ、嘘よ。冗談よ。ねぇ、そんなに怖がらないでよ」
 ツバキは、私を子供だねと笑ったときのように、心底楽しそうに笑った。そして自分のバッグからカッターナイフを取り出した。
「私ね、リストカットのクセがあるの。知ってるでしょう?この腕見たら分かるよね。
 ねぇ、今切っていいかな?凄く気持ちがいいの。こういうときは切りたくなっちゃうの」
 ツバキの左腕の無数の傷跡を見るたびに、痛々しく感じていた私は、当然の如くそれを止めた。
「全然痛くないのよ。快感なぐらい。ほら、ね、血って綺麗な色をしているでしょう?」
 ベッドサイドの電気をつけると、ツバキの白い腕には、既に真っ赤な十字が刻まれていた。血は玉のように膨れ上がり、つーっと腕から滴り落ちた。
「大変! シーツについちゃった。ごめんね、ごめんね、ティッシュどこ?ごめんね、ホントごめんね、しみになったらどうしよう、ごめんね、ホントごめんね」
 自分の腕から流れている血のことよりも、シーツに血をつけてしまったことの方が、彼女にとっては重大な過ちを犯したことのようだった。うろたえて、目には涙さえ浮かべていた。私はベッドからすべり降り、ティッシュを数枚渡した。
 1枚は傷口に貼り付け、もう2,3枚で丁寧にシーツの血をふき取った。しかし、しみは残った。私は「気にしないで」といった。シーツのしみを見るたびに今の瞬間を思い出すだろう。綺麗に元通りになってしまうより、そのままの方がいい。
 傷口を押さえながらツバキは満足そうだった。
「サクラに見てもらいたかったの。一回でいいから見てもらいたかった。もうしないなんて約束は絶対にしないけど、この血が綺麗だっていうのを見せたかったの」
 今までに見たことがないほどの満面の笑みを浮かべている彼女を見て、言葉につまった。私はその血を見て、綺麗だと思った。
「ねぇ、死ぬほど切ったりしないんだよね」
 ベッドの上で切り傷を眺めたり舐めたりしているツバキを見上げ聞いた私の声は、意外にも震えていた。きっと私は捨て猫のような目をしているのだろう。ツバキは目尻を下げて優しく微笑んだ。両手で私の頭を胸に抱えて静かに言った。
「大丈夫。そんなことしないよ」
 その言葉に嘘はないと分かっていた。だけどやっぱり、泣けてしまった。
 翌朝、ワッフルとスクランブルエッグとトマトサラダと野菜ジュースの朝食を作った。ツバキは
「サクラの作る朝食は『カフェのあさめし!』って感じで好き」
 と嬉しそうにもくもく食べた。彼女の左腕の傷はミミズ腫れのようになっていて、やっぱり痛々しいと思った。でもそんな左腕が朝日に照らされ、傷は弱々しく白んで見えた。美味しそうにワッフルをほおばり、今日の買い物の予定を一生懸命に話すツバキ。トマトをほおばり、眉間にしわを寄せ
「トマトには塩だけでしょう。コショウは普通かけないよ」
 と真剣にいうツバキ。口にワッフルを詰め込みすぎて笑い出すツバキ。
 ツバキは、わたしの目に映るツバキよりも、ずっと健全なのだ。

 いや、二人とも、誰よりも健全なのかもしれない。
 柔らかい朝日に照らされた部屋は白く埃っぽく、私たちは幸せそうに見えるだろう。そうあって欲しいと思った。そして、もう二度と、彼女のリストカットの邪魔はしないことを誓った。

トマトサラダに塩コショウ

トマトサラダに塩コショウ

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted