『猿の手』

かなり以前に書いたものですが愛着があるのでこちらへ移しました。

「ねえ、アイコ。『猿の手』って 知ってる?」
昼時はとうに過ぎていたが、私達はまだその店にいた。
「何ザルの手?ニホンザル?」
「そうじゃないって。小説だよ、本に載ってる話」

少し前にアイコは彼女の職場に連絡を入れた。
何を話していたのかは 私には判らなかったけれど、携帯を切った彼女は
「あと1時間は余裕で大丈夫だから デザートでも食べる?」と言った。

「レイちゃん 今日は、時間あるんだよね?買い物でも行くの?付き合うよ」
「いいよ、せっかくだからデザート食べて行こう」

テーブルの上のアイコの携帯は、さっきから ひっきりなしに鳴っている。
その度 彼女はそれを取り上げ、手短に用件のやり取りを済ませ、切る。
時には意味ありげな視線を私の方へと向けて、全く滲んでも 落ちてもいない
口紅を塗った、形の良い唇の端を持ち上げて 笑う。

「メールはほっといていいの」そう言いながらも、誰からの着信からか
細かく目線を走らせていてる。 見えない『宴会場』にでも居るような錯覚を
私は覚えた。 アイコと沢山の誰か。

私に見えるのはアイコの姿だけだが、 アイコは多くの人と声を交わしている。
その声の中に、私の見知った物が あるのではないかと思うと、私は怖い。


「本?何の本?今、ベストセラーになってるの?」
「違う。ずっと昔の人が書いた話だよ。怖い話なんだけど」

アイコは本を読まない。音楽にもほとんど興味が無い。
映画も異性に誘われた時しか観ない。
そうやって観た映画にも 感想と言う物は無い。
学生時代からずっとそうである事を 私は知っている。

だけど不思議な事に、 誰もそれに気を払わない。
アイコは そんなことなどどうでも良いのだ、全く構わないのだと言う気持ちに
人をさせるのが上手い。

音楽や映画や、絵を観る事などよりも、彼女とただ一緒にいる事の方が
遥かに意味のある事なのだと。
アイコは大きな遊園地でアイスを食べたり、山の展望台へ寄ったあと、
洒落たレストランに案内された話を良くしていた。
その相手と、レストランで、一体どんな話をしているのだろうか。

「怖い話?新耳袋みたいなやつ?世にも奇妙なとか、あんな感じの?」

『猿の手』はジェイコブズと言う人が書いた古典的な恐怖小説だと
私は説明する。 珍しく、アイコは興味を持った様子だった。

「何かさあ、『猿』って言うのが可っ笑しいよね」 彼女は言って笑う。
「どんな話か、簡単に でいいから話してみて。そんなに怖い話なの?」
私が話を始めようと 口を開きかけた途端、アイコの携帯がまた鳴った。
私は口を閉じた。「ご免、昼過ぎても まだ外出てるから 電話出ないのは
さすがにまずい」 言いながらアイコは うすべったい携帯に手を伸ばす。
伸ばしながら 綺麗な口元が僅かに、上向きに反って笑顔を作る。

「おじいさんとおばあさんが、ひからびた猿の手のミイラを手に入れて」
合間をみて、私は掻い摘んで物語をアイコに話して聞かせた。

「さっすが!グロい」 
とは言え、私の語り聞かせが上手くないのか、
アイコは最後まで 笑顔を崩さなかった。
「で、その『猿の手』の話がなんなの?本当にあるとか?その『手』が」

ある。と私は思う。干からびたミイラなどではない、血が通った『猿の手』が。
3つの願いなどとは言わず、見詰める度に願い放題の、限の無い美しい『手』が。

「あったらいやじゃん」
私は、大分無くなりかけているチョコレートのムースを突いて 笑って見せた。


「あ、旦那さんと こないだ、Bビルで会ったよ」
話題が途切れたと感じたのか、本当に持ち出したかった話をアイコが口にした。
その時、また携帯が鳴った。  「鳴ってるよ」

「いいの」
そう言うと、アイコは携帯の電源を いきなり切ってしまった。

「もう、すっごい酔っててさあ。 あれ、ちゃんと帰り着いた? 私に会ったって
言ってなかった?」 「聞いてなかった」 私は答えた。

「うん、まあ、言えないか。何だかねえ、初めは同じお店入ったんだけど
私がトイレに立つのを待ってたんだよね。追い掛けて来て 2人になったら
キスしてくんの。嫌だよねえ、酔っ払いってさあ。アイコ~、アイコ~ってさあ。
あれじゃ確かに奥さんには言えないわ」
アイコは楽しそうに目尻を下げて、 綺麗な爪をした指で、パーマで無理に
真っ直ぐにした 長い髪を掻きあげた。
「でも酔ってるからなのよ。本当はレイちゃんが居ないとあの人困るんだから。
私はキスだけ。会うとキスなんだもん。勿論酔っ払ってる時だけだよ、本当に」


アイコがこうした話をする事はこれが初めてではない。
私がコウジとの家庭に入ってから、会う度ずっと、こんな話をされる。
コウジとは私の職場で出会った。アイコに彼を紹介したのは、私達がほとんど
結婚を決めてからの事である。
初めは私もコウジに泣いて正した。コウジは言った。
「あの女は嘘吐きだよ、あれは少しどこかおかしいんだ。お前も、もう会うな」

確かにアイコは学生時代から、物事を大げさに言う癖があったし、
人の彼氏を盗った盗らないで 何度もトラブルを起こしていた。
晩生の私は、アイコの周囲に起きる事を いつも驚きの目でみていた。
「レイちゃんにはまだ早い事だから、も少し大人になったらね」
アイコは言って、良く笑っていた物だった。
夫の言う事が正しいのだろうと 私は思っていた。


だが、最近私は気が付いたのだ。 嘘は 2人ともが吐いている。
アイコの言う、『キスだけ』は嘘だ。夫の言う『あの女は嘘吐き』も嘘だ。
そしてさっきのアイコの『レイちゃんがいないとあの人は困る』と言うのも
今ではきっと、嘘なのだろう。
私自身は携帯電話を持たない。どんなに変わり者と言われても。
私が幾ら それに向かって話し掛けても、アイコの話し掛けている相手が
見えるわけでも 話に入れるわけでもない。
何にもならないだろうからだ。

話し終えたアイコはコーヒーを飲み終えて、人差し指のマニュキアを
チェックし始めた。「こないだ、爪折れかけてさ」
熱心なその目が、呪術のような色を帯びている。


チョコムースも無くなって、私達は店を出、別れた。
私は丸く短く切り揃え、マニュキアも付けていない爪を見詰めた。
痩せた貧相な手は、女としての魅力にも欠けている。それは解っている。

「もう、一生アイコに会いたくありません」

私は無意識に『猿の手』に語り掛ける。
自分の意思では どうしてもそれが出来ない。だから『猿の手』の力を借りる。
老夫婦は金が欲しいと願い、見返りに息子を喪った。
私も何かを喪うのだろうか?

今ならそれも、構わない。


≪ 了 ≫

『猿の手』

『猿の手』

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted