香る恋よ、もう一歩

 霞たなびく夜明け前。のこんの月も、じき沈む。
 安い陶器のぶつかり合う音が小さく鼓膜を打つ。いまだ明かりの灯らない店内にて、ため息がひとつ。
 鬱屈した表情を浮かべる男へ、彼女はねぎらいの言葉とともにアールグレイを差しだした。テーブルの上にベルガモットのさわやかな香りが舞い広がる。万年筆のインキのにおいは、それと手を取り合うように混ざりあった。
「行き詰まっていらっしゃるのね、先生」
 軽やかな笑い声は、星が頭の中を駆けまわるように、彼の脳を揺らした。目が回るような心地がしたのは徹夜のせいだろう。くらりと歪む視界に気がつかないふりをして、カップを手に取る。半分ほどの軽さに変えて、またソーサーに戻した。
 取っ手がすっかり黒ずんだカップを一瞥し、彼女はまた笑みを浮かべる。
「私に話してみませんか。なにかすてきなアイデアが浮かぶやも。難しい推理ものは、ご遠慮しますけれど」
 彼の向かいの席に腰を下ろし、さあさあ、と男の開口を待つ。
 男は、手元の原稿用紙と微笑む彼女とを交互に見やった。あちこちに踊る訂正線は、男にとって、見ていて気分の良いものではなかったが。
「お嬢さん、学校の支度はなさらないのですか」
「こんな時間からなにをおっしゃるの」
 さも可笑しそうに笑う彼女に、それもそうだと男はばつが悪そうにうつむいた。まだ鳥も鳴かぬ、日も顔を出さぬ夜だと言うのに。
 そうは言っても、すでに彼女は髪を整え、身なりも寝間着などではなかった。
「父には次のお話のご相談をなさっているじゃない。私たち、あなたの活動を支援してるもの好き親娘なのよ。私にだって、聞く権利はあると思いますの」
 しかし渋い顔をして無精髭をさする男に、とうとう彼女はむくれる。男のひとっていつでも女をのけ者にしようとするものね、と唇を尖らせて。
 そうなると、男は弱かった。とたんに慌てだす彼はとうとう白旗をあげた。
「いや、なんの変哲もない恋愛ものなんですよ」
「ははあ、恋愛ものですか」
 三十路も迫ろうかという男が書く恋物語に、いささか興味を覚えたのだろう。年頃の娘は、先ほどまでの膨れっ面なぞどこへやら、身を乗り出して頷いた。
「喫茶店が舞台でして」
「ははあ、喫茶店ですか」
 男はそこで、紙でも咀嚼しているかのように唇を震わせた。瞳にためらいの色が深まる。
 そんな彼には構うことなく、それでそれで、と待ちきれないようすで続きを促す彼女。男は、息を深く吸い込んでから、意を決して口を開く。
「そこの喫茶店の看板娘と、さえない小説家のお話で。小説家の方は女を想ってその喫茶店に足しげく通うんですが、どうもその女は、男が使うインキ独特のにおいがお嫌いらしく、なかなか振り向いちゃあくれない。そりゃそうだ、女が嫌うにおいの染み付いた身体だもの。けれどもペンを置きでもしない限り、そいつは取れない。それで男は悩む。仕事を取るか、恋を取るか。その続きと結末に、詰まっているんです」
 一息に話し終えた男は、とうに冷めたアールグレイを呷った。ほおを紅潮させる彼を、彼女はまじまじと見つめる。
「そこは一番大切なところじゃありませんか」
「だからこそ悩んでいるんですよ」
 そうねえ、と白磁のような手をほおにあて首を傾けた。細い指の隙間から覗くほおは、手とは少し色が違っていた。
「ね、その看板娘は、本当にインキのにおいがお嫌いなの?」
 彼女は問うた。
「さあ。でも本人がそう言うんですから、そうなんでしょう」
 そうすると、ははあ、と得心したように笑みを浮かべた。
「男のひとって、分かってらっしゃらない。そんなの、照れ隠しに決まってるわ」
 自信に満ち満ちた表情に対し、本当に、とまだ納得しないふうの男。彼女は肩をすくめて、それにね、と声を潜める。ちらりと住居スペースである階段の方を窺って。
「彼女、実はインキのにおい、結構お好きですよ。一生かいでいたいって、ときどき思いますもの」
 きれいなきれいな笑顔は、月よりも朝日にふさわしい。
「両方選んでやるって言ってみせなさいな、意気地なしさん。うん、こんなのはどうかしら」

香る恋よ、もう一歩

香る恋よ、もう一歩

喫茶店の娘と小説家の恋情。あともう一歩が踏み出せないふたり。 ほんのりレトロに、紅茶とインキの匂いを息づかせて。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-04

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