傾国の天秤
砂上の老客
かつて、その大陸は暗黒大陸と呼ばれた。凡そ人々が行う処のあらゆる悪行が日に百回為され、民衆による天への祈りは日に十回と満たぬ!そして、正しき者が報われる事は一度として無かった。
陸は三つに別たれ、法に背く者達が王を騙った。王を騙る背信者達は、私欲のままに権威を振るい、戦争の為に国を荒れさせた。民は混乱したが、一方で民達ですら、互いに戦場で相争い、市中で騙し合い、偽りの法を信仰した。
ヘイルメニアス暦54年10月5日。神はこの大陸を粛清される事に決められた。神は鋼鉄で出来た天使達を遣わした。天使達は、7日間で全ての国を滅ぼした。国境は無くなったが、民は全て心を失った。
いまや、民は恐怖故に神を信仰する事となった。あらゆる善行が日に千回為され、民衆の祈りは一度として絶える事なく、だが、正しき者はどこにもいなかった。
ダークファンタジー実録
傾国の天秤
第一話 砂上の老客
見渡せば、まるで果てなど存在しない砂漠のようである。だが、ここは砂漠ではない。それどころか、一時間程歩けば海岸が見えてくると言う。この欺瞞に満ちた場所の名はタナトリア砂丘。旧ケイルカレドア王国の支配地"だった"、不毛の地である。
まるで生命など存在しないかのような光景である。だが、このタナトリア砂丘では数多くの人間達の姿が確認出来た。地中にである。
彼らはこの荒野に、地中に隠れ住んでいた。
地の中は意外にも広い。岩盤を掘り進めて造られた広大な空間は、内部でさらに枝分かれして、砂上に盛られた岩岩はまるで蟻塚のような様相を呈している。蟻塚は砂に隠されつつも、生き物のようにうねりながら、海岸近くまで到達していた。この蟻塚に暮らす人々の多さが想像出来ようものである。
そして、人が暮らす以上当然の事ながら、蟻塚にはそれぞれの区域で名前がつけられていた。
東の海岸近くの蟻塚、ここ一帯は"さざなみ"と呼ばれていた。さざなみの音が、時折聞こえるのである。
"さざなみ"の大通り(地下でありながら、その広さは地上のそれと変わらない。高い技術力の為せる技である事は自明である。)では、三人の男達が練り歩いていた。
「山岡の兄貴!おはようございます。」
派手な紫色のスーツを着た、リーゼントヘアの男が、三人の内、赤いスーツを着た中年の壮健な男に近づき、挨拶した。
「おう。」
山岡と呼ばれた男はそれだけ返事をした。
「いきなり誰じゃこんなは。」
紫スーツの輩に、山岡の右隣にいた黒タイツの男が脅すように言った。
「はい、ウチは漁船組合シメとるの真菅言うもんです。」
真菅の名に、山岡は覚えがあった様子だ。そのおにぎりのような顔面を真菅の痩せた顔に向けた。
「おお、おどれが蝶龍会の若頭かえ。あん時はよお世話になったのう。」
「いえ、滅相もありません。今後とも宜しゅうお願いしますさかい。」
真菅は頭を下げる。この男、常にこのようなヘコヘコとした態度をとるわけでは無い。むしろ、討ち入りの際は実際とても怖い。
山岡は、山岡組の会長である山岡宗介は真菅の討ち入りの際の勇姿を耳にした事があった。そして、目の前で見てみると成る程。一見頼りなさそうな見た目に反して、野獣のように研ぎ澄まされた鋭い眼光である。きっといつか自分の事も踏み台にしてしまおうと思ってるに違いない。そんな目だ。間違いない。山岡はこういうリスク管理をどこかへ捨て去ったタイプの男のみを漢と呼ぶと決めていた。つまり、山岡は真菅を一目見て気に入った。
「おお、ほだらまた何か入り用の時は宜しゅう頼むのう。こんなを頼りにしとるきい。」
山岡が笑顔でそう言った時、広場で鐘が鳴り響いた。地中故に鐘の音はよく響く。時報である。
「ああ、お祈りの時間じゃあ!!」
言うが早いか、真菅は懐から正典を取り出し、熱心に読み始めた。そして、体を大の字にして地に伏した。神へのお祈りである。
「こんなは何をしとるんじゃ。」
山岡は尋ねた。一心不乱に正典を読みふける真菅にかわり、山岡の子分である三木原が答える。
「こいつお祈りしとるんですわ兄貴。」
山岡はその答えを聞いてムッとした。
「そんなぁ解っとるわ!何の所以でこんなは神なんぞに祈っとる言うとるんじゃ!」
「今時は多いんすわ。神が怖くてしゃあないさかい、こんな地の果てでも定時にお祈りする奴が。」
山岡は真菅の頭を蹴り飛ばした。
「ぐあああああっ」
「こんなぁ馬鹿たれがっ‼神なんぞに媚びへつらいよって!!この世に神なんぞおらんのじゃ!!おるのはとんでも無い化け物どもだけじゃ!」
「山岡はん、やめたってくれさかい。日々の苦しい生活の(シノギ)中でこの世ならざる力に目覚めた者達(自分達のこと)と言えども、怖いもんは怖いんですわ。その気持ちわしらもようわかります。一年前の七日粛清の事、忘れたわけじゃありまへんやろ。」
山岡も決して忘れたわけでは無い。一年前、ケイルカレドア王国の首都、キングオブケイルカレドアタウンの郊外に事務所を構えていた自分自身が、あの悪夢の出来事を一番覚えている。山岡は思った。燃える書類、転がる部下達。夥しい数の死屍累々は全て、目の前の"天使"が一人で為したものである。あの日以来、山岡は祈る事をやめた。
にも関わらず、この薄暗い地下ですら、神の畏怖は留まる事を知らないのだ。山岡はそれが気に入らなかった。神が実在し、あまつさえこの世を粛清した事よりも。
そんな事を考えていると、小柄の男がこちらに近づいて来た。部下の小林である。
「山岡の兄貴〜!!大変や〜!!余所者が、余所者がこっち来よるわ〜!!」
「何やと!!」
この報せは緊急事態である。もし、その余所者が"天使"の息のかかった者ならば、それは即ちこの蟻塚の終焉を意味する。
「すぐそいつん処に案内せい!」
こうして、山岡とその部下達は10日ぶりに地上に出ることになった。
余所者は案外早く見つかった。ボロ布を纏った老人である。黙々と砂丘の上を歩く姿はまるで修行僧のようだ。山岡は老人を数メートル離れた起伏部から見ていた。
「なんやぁ、害はなさそうじゃけんのう。ちょっと脅して帰ってもらおうかい。」
そう言うと、山岡達は老人に接近した。
「おいそこのジーサン!!ちょっと止まれやい。」
「おおこれは、おはようございます。」
そう言うと、老人は山岡にぶつかってきた。刹那、鮮血が迸る。
「ぐあああああっ!」
「こいつ他の組の鉄砲玉かい!」
山岡は老人にナイフで刺されたのだ。
「あああああ…こんなぁ……なにさらすんじゃ。」
「おどれから姿だすとはのう!イカレよったか、こん木偶の坊が。」
罵りながらも、老人は山岡を滅多刺しにしていた。山岡に抵抗する術は?無い!部下達はやっと動き始めたばかりだ。
「てめーなにしよるんやぁ!」
「撃ち殺したれこんクソジジイー!!」
飛び交う銃弾。それら全ては一人の老人に向けられた物だった。
しかし、奇妙な事が起こった!老人に向かった弾丸達が、老人の目の前で停止したのである!まるで時間が止まったかのように。
いや、「止まったかのよう」なのではない!本当に時間が止まったのだ!これがこの老人の能力だった。
この奇怪極まる現象をただ一人知覚していたのは小林だ。小林の能力は脳機能の加速だった。超常の思考速度で全てを知覚するのだ。それは停止した時間でも思考出来るほど速かった。つまり光よりも速いのだ。しかし、脳の処理が早いばかりで、体は追いつかない。しかも能力故か、精神的負担も凄い。あまり役に立たない。
「こいつ能力者や。」
そう思うのがやっとだった。
そして、そう思った時は既に老人は弾丸の包囲網を突破していた。ところで老人はどれだけの間時間を止められるのか?答えはいくらでもだ!ただし、停止した時間の中で老人が死ぬと、この世の時間は停止したままになる。実際、この老人は時間を停止しすぎて七歳程歳をとってしまっている。老い先短いので使いどころが難しい。それ故、老人は急ぎつつ山岡を滅多刺しにする。これでもかと言うほどに。そして、時間が動き出す!
山岡は地に伏した!死亡!
その瞬間、老人も地に伏した!共に死亡している!何故!?
それは、山岡の能力"鏡面(リフレクション)"に由来していた!山岡は自らに向けられたダメージを全て敵にも与える能力者だったのだ!最初に刺された時、これは助からないと自覚した瞬間から、じわじわと苦しんで死ぬより、致命的なダメージを最期の瞬間にまるごと老人に返す事を選んだのだ。ヒットマンに時間停止能力を与えるべきではない!
「兄貴ー!!」
「兄貴ー!!」
"さざなみ"の入り江洞窟、ここに男が一人佇んでいた。
「ここにおったか、柾井。」
柾井と呼ばれた男は振り返った。目の前には太った男がいた。
「おやっさん。どないしたんですか。」
「山岡が死んだ。ヒットマンに殺られてしもうた。」
「なんやて!?山岡はんが!?」
これが蟻塚内の一大抗争の引き金になる事は、この時誰も予想し得なかった。
傾国の天秤